地図礼賛 江戸切絵



 東京を大きな縮尺で描いた区分図に江戸切り絵がある.いろいろな版元から出されたが,中でも評判は金鱗堂 尾張屋清七板で,浮世絵と同じ手法で描いた多色摺りの美しい区分図である.これは何度も改版され,最後の明治には31枚組セットとなった.各切り絵の方角もまちまちで,縮尺もまちまち,おまけに大胆にデフォルメされているので,現在の地図に対応させようとすると,チョット使いにくい.地図と言うより絵図の範疇に入る. 復刻図は人文社からバラで出されている.セットをまとめた豪華本もあるが,手軽なのは単行本の『嘉永・慶応 江戸切絵図』(人文社,2003年3月)である.



江戸切り絵.本郷絵図 (1861(万延2)年)


対応する現代図.


 上の左端の水戸殿とあるのは水戸徳川家の上屋敷,現在の東京ドームや後楽園庭園,その右手は伝通院,左端は白山神社・東洋大,下の左に湯島の聖堂や神田明神,下の右端は谷中天王寺の範囲である.右斜め上が北の方位になっている事に注意.
 中央の加賀中納言殿とあるのは加賀百万石前田家の上屋敷,現在は東大本郷キャンパスである.加賀屋敷の西側を南北に通る道は御成(おなり)街道(現本郷通り)で将軍が日光東照宮へ参拝するときに使った.加賀屋敷の西南角のあたりに本々3丁目(本江=ほんごうか?現在の本郷3丁目)とある所までが「本ごうもかねやす(小間物屋の商号)までは江戸のうち」と言われ,昔の江戸だった.前田家十三代の斉泰(なりやす)が十一代将軍家斉の娘 溶(やす)姫を貰う時の入り口として,1827(文政10)年に通称赤門(あかもん 重要文化財)を同六丁目とあるあたりに建てた.これは東大の別称にもなっている.さらに北上して加賀屋敷の西北端の追分元丁の所で道は二手に分かれるが西側は中山道となる.追分とは街道の分岐点のことを指した.追分の所にある酒屋「高崎屋」(地図には見えない)は宝暦年間(1751〜64年)の創業という.明治維新のときは彰義隊の隊士が逃げ込んだりしたらしい.加賀屋敷の南を見てみよう.南側に接するようにある麒祥院は徳川3代将軍家光の乳母 春日の局が隠棲した庵である.
 加賀屋敷の東側は不忍池で,池の中央に弁才天のお堂があり,蓄財と音楽の守り神として庶民の信仰を集めた.その北側は上野の山へと続く.上野の山は徳川将軍家の宗廟のあった所で,彰義隊が立て篭ったため,すっかり焼き払われてしまった.現在は公園になって動物園や博物館などがある.
 加賀屋敷の北隣の水戸殿の北側に接したところには元々,6代将軍家宣の生まれた屋敷があったが,家宣が将軍になったお祝いにこの地に根津権現を造営した.
 地図の南に目を転じると,神田川沿いの湯島の聖堂は,5代将軍綱吉の時の1690(元禄3)年に幕府公認の学問所「昌平坂学問所」として開設された.御茶ノ水橋はまだ無い.神田明神は江戸の守護神として元々大国主命と平将門をまつっていたが,明治時代に将門は朝廷への反逆者であるとして祭神からはずされた.湯島天神は室町期に江戸開府の大田道潅によって建立されたと言われており,梅で有名な所だったが,泉鏡花の『婦(おんな)系図』の湯島の白梅で有名になった.

 余禄: 筆者の住居は北区であったが,中学・高校・大学は全て文京区に通ったので,結構この地図の範囲は良く遊んだので,かなり知っている積りだった.実際,根津権現の宮司や高崎屋の次男坊は筆者の中学同級生であるし,上野公園や不忍池は通学路になったこともある.しかし,湯島の聖堂は筆者の高校と縁があるにもかかわらず,まだ中に入ったことはないし,神田明神も訪れたことが無い.歴史を何も知らずに遊んでいただけで,案外知らない所が多い.昨年,幕末の風雲児清河八郎の墓が伝通院にあると知り,見にいったが,無縁墓だったのか整理されて無くなっていた.もっとも,家康の生母於大の方の墓とか徳川家ゆかりの人の墓は沢山あった.この寺の名は於大の方の院号「伝通院殿」にちなむという.

(2008年7月)


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