世界最小の顕微鏡
マッカーサー博士(John McArthur)の作った携帯顕微鏡は1974年のギネスブックで世界最小と認定された.博士はこの発明によって数々の賞を貰っている.
マッカーサー式携帯顕微鏡.
ここで,数奇な運命をたどったマッカーサー博士(1901年11月〜1996年4月)についての想い出を述べよう.私共が初めてマッカーサーさんに会ったのは,1972年我々家族がケンブリッジに滞在していたときだった.マッカーサーさんに招待されて,ケンブリッジ郊外のランドビーチのお宅に伺った.お宅は田舎風の茅葺だった.マッカーサーさんはかなりの高齢で,奥様とお子さん二人で悠々の田舎暮らしていた. 私の専門が物理だと知って,彼は昔熱帯病の研究をし,現在は携帯用の顕微鏡を開発していると話してくれた.以下は彼の話である.
マッカーサー一家.
左から2人目Ruth夫人,家内,
Anna,潤,John博士,Ian.
(1973年8月撮影)
自分は第二次世界大戦のとき,ボルネオでマラリアの研究をしていたが,日本軍の捕虜になってしまった.しかし幸いなことに,軍の軍政部長が熱帯病の研究の必要性を理解してくれて,食料事情が悪かったにもかかわらず,特別に自分の赤ん坊にミルクをくれたり,研究費を支給したりするなど援助してくれたので,研究を続けることができた.研究をしている内に野外で使える顕微鏡の必要性を感じ,以来携帯型の顕微鏡の開発をしているという.
早速実物を見せてもらうと,金属製で10 cm x 6.8(ランプ・ハウスをつけると8.3)cm x 5 cm と非常にコンパクトなものだ.それにもかかわらず,性能は本格的で 100倍,400倍,(油浸で)1000倍が可能なものだ.照射光源にはコンデンサー・レンズや絞りもあり,ステージの微動もできる.研究用顕微鏡が備えていなければならない機能は全て備えている.最大の特徴は光路を2度折り曲げてコンパクトにしたところだ.この顕微鏡のレンズも含め,全てを独力で開発し,村の工場で作っているという.
自分の開発した顕微鏡で特許をとる積もりは無い.ただ研究の役に立てば良い.それで昔ある日本の光学メーカーと製造販売の交渉したが,契約を断られたので,自分で作っている.しかしその後,驚いたことに自分のモデルのコピーがそのメーカーから売り出されたという.聞いていて,びっくりするし恥ずかしい話だった.現在はアフリカで使うため,プラスチックの簡易型を開発していて,もうすぐ使えるようになるという.
先頃日本の天皇がイギリスに見えたとき,王立協会で自分の顕微鏡を天皇に説明し,後にアレクサンドラ王女が来日のとき,差し上げたという.実際,昭和天皇に説明している写真を見せてくれた.
王立協会で昭和天皇に自分の顕微鏡を
説明するマッカーサー博士.
(1971年撮影10月撮影)
更に,戦時中お世話になった軍政部長にもう一度会って礼を言いたいので,探してくれないかと依頼された.もし自分が日本に行ったら天皇に会えるだろうかと言うので,冗談じゃない,可能性は非常に小さいだろうと答えておいた.しかし軍政部長は探してみようと約束した.
1973年我々は日本に戻った.幸い依頼された人物は日本に帰ると,すぐに見つかった.戦後検事をされ,仙台高検の検事長を最後に退官され,当時は早稲田の客員教授と会社の顧問弁護士をされている稲川龍雄氏(1905〜?)だった.すぐにマッカーサーさんに住所を連絡した.
ところがしばらくたってマッカーサーさんから,手紙を書いたがどうも届いていないらしいので,もう一度調べてくれと言って来た.私は稲川氏に会って直接マッカーサーさんの気持ちを伝えることにした.幸い1975年になって稲川氏に面会することができ,マッカーサーさんの近況と会ってお礼が言いたいという希望を伝えることができた.手紙は稲川氏には届いておらず,行方不明になっていたようだ.
稲川氏は大変感慨深い思いでマッカーサーさんを懐かしがられた.ただ残念なことに両氏ともかなりの高齢で実際に会うことはもう難しい年齢になられていた.稲川氏は手紙で消息を伝えると約束された.この時を隔てた友情の話は「夕刊フジ」の記事(1975年6月13日)となった.
彼の顕微鏡は非常に珍しいし,また友情の記念として,どうしても欲しくなり,かなりの高額(私のイギリスの給料の一月半分ほどの値段だったと思う)だったが,思い切って1977年に買った.また献上された顕微鏡について宮内庁に確認したところ,確かに受け取って保管しているという返事があった.したがってマッカーサー式携帯顕微鏡は,筆者が所有している物と合わせて,恐らく日本には2台しかないのではなかろうか.
(2005年11月10日記)
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