シェーンバーグ博士と杉原千畝



先日の10月11日に読売テレビ・日本テレビ系のテレビで終戦60年ドラマスペシャルと称して「日本のシンドラー 杉原千畝物語 六千人の命のビザ」という番組が放送された.第二次世界大戦中にリトアニアの領事代理をやった人の話だ.

私が杉原の名前を初めて聞いたのは,1973年イギリス・ケンブリッジのキャヴェンディッシュ (物理学) 研究所で研究している時期だった.同行の家内が,紹介されてシェーンバーグ博士 (David Shoenberg 1911-2004) の奥様を訪問した.奥様は背骨の具合が悪くて横になっている方が多く,日本人の話相手を探しておられたのだ.これがきっかけとなり,家内は奥様と仲良くなり,しばしばお宅にお邪魔するようになった.

シェーンバーグ博士といえば,我々駆け出しの研究者にとっては,教科書で学ぶ神様みたいに偉い学者だ.当時王立モンド研究所の所長をされ,ド・ハース=ファン・アルフェン効果の研究で世界のリーダーとして活躍されていた.

王立モンド研究所と筆者.
壁にワニの彫刻がされている.
先代の所長カピッツァ博士が
キャヴェンディッシュ研究所長
のラザフォード教授のあだ名に
ちなんで,彫らせた.
(1972年7月撮影)

博士は大変気さくな方で,ある日私にいい物をを見せてあげると研究室に招かれた.そしてうれしそうに,こんな便利なコンピューターを手に入れたとおっしゃる.それは当時出たばっかりのヒューレッット=パッカードのポケコンだった.私がまだ竹製の計算尺を愛用していた時代だ.この他折に触れ,王立モンド研究所の壁に彫刻されたワニにまつわるロシア(当時はソ連といっていた) の大立者カピッツァの逸話とか,親友の物理学者ランダウの逸話を話してくださった.これらの人々はいずれも私にとっては神代の人々だ.

その奥様が家内に親しみを感じてくださる理由が初め分からなかった.当時はまだ反日的な,戦争の生き残りも居たのだから.実際(昭和)天皇が戦後初めてヨーロッパを訪ねられたときはかなりの反日的な運動があった.

左からお嬢様 Jane,上村洸東大
助教授 (当時),博士,筆者.
(1973年7月撮影)

ある日奥様が何故見ず知らずの日本人をお宅に呼んでくださるかを話された. 奥様曰く.その昔世界大戦のとき杉原という外交官が居て,リトアニアでユダヤ人に日本の通過ヴィザを出し数千人の命を救ってくれたので,特に日本人に親しみを感じているのだと.不覚にして我々は杉原の名前を知らなかったが,その恩恵を蒙ったわけだ.

 実は奥様はベルギーで生まれたユダヤ系の方だという.そういえば博士もその昔カピツァ博士についてイギリスに留学され,イギリスに住み着かれた方で,名前からも分かるようにユダヤ系の方だ.

日本に戻って大分たった2000年になって,杉原の名誉が回復されたというニュースが報道された.杉原を主人公にしたその直後のテレビ(2001年2月NHK総合放送)によると,彼のヴィザ発行が外務省の訓令に違反をしており,終戦後外務省をやめさせられたそうだ.しかしイスラエル政府は感謝の気持ちを忘れずに彼を顕彰したそうだ.

どこかへ出かけて行って残虐行為をしてくる人がいる傍ら,こういう真に勇気ある日本人が居た事は救われる思いだ.官によっては十分報われなかった人の恩恵を現在の我々は受けているのだ.今では出身地,岐阜の八百津町に杉原千畝記念館が出来ているそうだ.

1995年に会議の帰り久しぶりにケンブリッジに戻り,教授(このときは教授になられていた)に電話をした.早速お茶のお誘いがあり,お宅に伺って再会を祝した.心配だった奥様の腰の様子もひどく悪くはなっていないようだった.

左から Kate 夫人,家内,博士.
(1995年8月撮影)

その後博士ご夫妻からクリスマス・カードが来なくなり,どうされたのかと思っていたら,今年になってお嬢様からご両親とも亡くなられたとの連絡があった.博士のいたずらっ子みたいな笑顔が忘れられない.謹んでご冥福を祈る.

(2005年11月11日記)




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