植村泰忠先生の想い出



恩師植村先生(1921年4月〜2004年11月)について思い出すことは沢山あり過ぎる.取りとめも無く二三記すことをお許し願いたい.

大学院入試(1964年)
   私の筆記試験の出来は悪く,恐らくビリに近かったと思う.面接の質問で先生が私に聞かれたことは,物理のことではなかった.「あなたは身体は丈夫ですか」の一言.私は同級生の中では体育会系だったので,「はい,山登りをしており,いたって丈夫です.持久力もあります」とお答えした.質問はそれだけ.隣の小柴先生がニヤニヤされていらっしゃった.植村先生は私に下手なことを聞いたらボロを出すだろうと考えれたのだと思う.苦心の親心で,無事合格させていただいた.もしここで合格していなければ,全く違う人生を歩むことになっていただろう.今もってありがたく思っている.

博士取得のパーティー(1969年3月)
 博士課程を無事終えて,先生方がお祝いのパーティーを開いてくださった.「ああ,これでわが人生,全ての試験が終わったのだ」とホットしたことを覚えている.その席で,私は先生に「これから教育の仕事につきますが,教師の心得をお教えください」と伺った.先生は真面目な顔をして,「私の専門は半導体である.だから半分うまく行けば良いと思っている.もし教え子が良い仕事をしたら,それは教え方が良かったのだと思え.もし教え子が良い仕事をしなかったら,それは本人が悪いのだと思え」とお答えになった.私はこれをモットーとして大学教師の仕事を続けた.

博士取得のお祝いパーティー.
左から小柴,上村,西島,(後方に)後藤,
二宮,植村,一人おいて佐々木の諸先生.
(1969年3月撮影)

植村研卒業にあたって歓送の食事会をしていただいた.先生は「斎藤君も山に行くのはもうお終いだね」とおっしゃった.学生・院生時代を通して山歩きばかりしていたことに対する,やんわりとした訓戒だったに違いない.ただしこれだけは守れなかった.

北京半導体国際会議(1992年8月)
 先生は組織委員会の招待で奥様とお出かけになった.奥様は若い頃北京で過ごされたそうで,大変懐かしがっていらっしゃった.この会議に上村,安藤など植村研ゆかりの人が参加していたので,誰言うとも無く植村先生を囲む会をしようということになった.話がまとまり,奥様の選ばれた北京一の鴨を出すというお店に出かけた.見回してみると植村先生の人脈の広さから意外な大人数となっていた.お店とのやりとりでは奥様お得意の中国語が飛び出したのは言うまでもない.みんなで楽しく食事を済ませて,さて勘定となったら,先生がご馳走してくださるという.みんな立派な給料取りになっていたのだが,ついつい学生気分になりご馳走になってしまった.改めて先生ご馳走様でした.


会食後の記念撮影.
後列左から,安藤,川畑,邑瀬,上村美和子夫人,
真隅,筆者.
前列,三浦,先生,春子夫人,上村,川路.(敬称略).
もう一人の参加者,高柳氏はシャッターを押している
ので写っていない.
(1992年8月撮影)

ご病気(2004年)
お正月に先生が入院されたが,程なく退院されたという話を人づてに聞いた.3月の青木研のパーティーでは(上村先生の企画で?)退官の3人(中尾,塚田,それに私)が呼び集められた.私はお久し振りに先生ご夫妻に御目にかかれると思っていたが,先生はまだ本復されていないということでお見えにならなかった.その後4月にまた入院されたと伺った.
8月にお見舞いに伺ったときはもう声を出すことが難しくなられていた.病室に入ると初め先生は,私にヒゲがあるので最初は分からなかったと意思表示をされた.私がいろいろお話することにも,いちいちうなずかれた.最後に「先生,私も孫が出来ることになり,じいさまになります」とご報告すると,大きく口を開けて笑われた.長話で奥様は気が気でなかったかもしれないが,私は先生のお元気な様子にホットした.
大分お悪いと聞いてその次10月末に伺ったときは,ご闘病でつらいときであっただろうに,瞬きもせず私の話をじっと聞いてくださった.御眼にかかったのはこれが最後となった.

(2005年11月15日記)


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