江戸期の日露交流



(図をクリックすると大きくなる.)



江戸後期の日露交渉の歴史を見る.
併せて,地図礼賛 「北方地図」も参照されたい.
年表を見てみよう.


1698  大阪淡路屋又兵衛船の伝兵衛 , アトラソフ によりカムチャツカで保護される.ペテルブルグ
     に送られ,1701年1月にピョートル大帝に謁見,大帝の命令でロシア語を習得 すると共に,
     1705年よりロシア人の若者に日本語を教えた.ロシアに永住する.
1710  サニマ(三右衛門?)カムチャツカに漂着,保護される.
     サニマはコズィレフスキーの千島探検に同行.後1714年ペテルブルクに 送られ,ロシアに帰化.
1711-13  イヴァン・コズィレフスキー
     サニマを案内兼通訳として同行,千島列島を探検,国後島に到達. クリールスキー諸島と命名.
1728  ヴィトィウス・ベーリング(デンマーク人)ベーリング海峡の発見. (1725-1730, 1732-1743 探検)
1734  薩摩若潮丸のソーザ(宗蔵)とゴンザ(権蔵),アンナ・イヴァノーヴナ帝 に謁見.ロシアで日本
     語教師になる.
1744年暮  船主で船頭竹内徳兵衛ら 多賀丸で(南部藩下北半島)佐井港から出港.
     千島列島オンネコタン島に漂着.
     1746年(47年?)一行のうち 5名はペテルブルグに連れて行か れ,同地で日本語を教えた.
     1754年5月日本語学校がイルクーツクに移転することとなり, 病死を除く3名 はイルクーツクに戻り,
     残っていた仲間と 合流した. [亀井高明『ソフィアの悲恋』(吉川弘文館,1966) pp. 141-142; 169]
1771(明和8)  ハンガリー人流刑囚べニョフスキー(ハンペンゴロウの名で知られる), カムチャツカを脱走し
     日本土佐佐貴浜・阿波日和佐次いで奄美大島に寄航.ロシアの南下を警告.
1778(安永7)  イルクーツクの商人シャパーリンら,ナタリア号にて国後島の総乙名
     ツキノエの案内でノッカマップ(根室市東方,ロシア側資料ではNotokome)に 6月19日(安永7年6月9日)
     上陸.翌20日日本側役人と面会して松前藩と交易したいと交渉.回答は来年 受け取るということで,
     6月22日(和暦12日)一端アンチーピンとオホーツクに帰り報告. 好機逃がすべからずとその年直ちに
     ナタリア号でウルップ島に戻り越冬.
     1779(安永8)年になり,国後島を経て6月24日ノッカマップに来るが,松前藩 が到着しないので,
     8月まで待つが,しびれを切らし8月25日アッケシに入港.松前藩役人は(和暦 4月29日松前を出たが)
     経由地の下北半島佐井で天候が思わしくなく長期に足止めされようやく9月2日 (和暦8月7日)
     アッケシ到着.藩の回答は「国策により通商はできない,長崎に行ってくれ」 であった.
     この交渉の様子が幕府に報告 されたのは1785(天明5)年であった[渡辺:p. 84ff.]


図1. アッケシでのシャバーリンらの日露会見.
1779(安永8)年
ドイツ・ゲッティンゲン大学博物館


1783年1月15日(露暦1783年1月4日,天明2年12月13日)  伊勢白子浦神昌丸(一見屋
     彦兵衛持船,500石積弁才(べざい)船) 紀州藩蔵米350石を積み白子浦を出発.
     大黒屋光太夫ら17名乗り組み.江戸へ向かう.1783年8月17日(露暦8月6日,
     天明3年7月20日)アリューシャン列島アムチトカ島に漂着.
     エカチェリーナ二世に拝謁して一行のうち光太夫,磯吉,小市(ただし小市 は根室で
     待機中に病死)が帰還するのは1793年のことになる.
1781-83(天明元-3)  工藤平助『赤蝦夷風説考』
1785(天明5年9月)  林子平『三国通覧図説』
1785(天明5)  林子平『蝦夷図全図』
1785-86(天明5-6)  田沼意次命令の天明五・六年蝦夷探検(佐藤玄五郎,青山俊蔵他)
1787-91(天明7-寛政3)  林子平『海国兵談』
1785-86(天明5-6)  田沼意次の命を受け,佐藤玄六郎・青山俊蔵他が蝦夷探検.
1789(寛政元年5月)  国後メナシの反乱(または寛政蝦夷の乱).
     クナシリ・メナシ(現在の標津町付近)のアイヌ達は四代飛騨屋久兵衛益郷の手代
     が身内を毒殺したと思い反発し,和人71人を殺害した.この事態に,松前藩は総勢
     約260名を派遣して,ノッカマップ(根室半島オホーツク海側)にアイヌを集め,蜂起
     の指導者37人を斬罪にした.
     幕府から不始末をとがめられた松前藩は,飛騨屋から全ての請負場所を取りあげた.
1790(寛政2)  最上徳内『蝦夷国風俗人情の沙汰付図』
1791(寛政3年9月2日) 松平定信「海防指令」を発する.
知り合う. 1791年露暦1月15日 光太夫・イヴァノヴィッチ,キリル・ラクスマンと共にイルクーツクを出発.2月19日ペテルブルグに到着 --> 1791年露暦6月28日  大黒屋光太夫,キリル・ラックスマンの助けを借り,エカチェリーナ二世に拝謁,
     帰国許可をもらう.大黒屋光太夫を哀れむ歌が流行した.
1792年10月20日(露暦10月9日,寛政4年9月5日)  アダム・ラックスマン中尉,光太夫らを伴いエカチェリーナ号
     で根室に来日.
     ラックスマンらは根室で越冬し,翌年7月函館着.松前へ陸路移動,松前で 光太夫と磯吉
     を引き渡し,信牌を提出.8月(寛政5年7月)函館から帰国.



図2a. Adam Kirillovich Laksman
(1766-?)


図2b. 送還された大黒屋光太夫(左)と磯吉.
北海道大学付属図書館
両者共伊勢白子出身.



図3a. エカチェリーナ号.
函館図書館


図3b. ロシア船之図
天理大学付属図書館
ラックスマンの根室宿営地.
左にエカチェリーナ号, 右手にヲロシャ人小屋が見える.小屋の内部は上図.



図3c. ヲロシャ人物并小屋内図
天理大学付属図書館
ラックスマン一行と大黒屋光太夫.
左から 3人目光太夫 5人目船長ロフツォフ 右端ラックスマン



図4a. Ekaterina II(1729-1796)


図4b. 光太夫の招来したエカチェリーナ
女帝の肖像画.


図5. 光太夫がエカチェリーナ女帝に謁見した後,はやった歌.
ソフィア・イヴァノーヴナ作詞.歌詞・メロディーは亀井高孝『大黒屋光太夫』 (吉川弘文館,1992年5月)
p. 220f.に詳しい.

この通称「ソフィアの歌」のmidiは:
SofiaSong.mid
歌唱は『おろしや国酔夢譚 サントラ』 のno. 7に収録されており,そのmp3は:
SofiaSong1.mp3

光太夫が日本にもたらした歌詞は,

  あゝ  たいくつや 我
  他(ひと)の 国(で)
    みなみなたのむ
    みなみなすてまいぞ
  なさけないぞやおまえがた.

  なさけないぞやおまえがた
  見むきもせいで あちらむく
    うらめしや
    つらめしや
  いまは なくばかり.

コンスタチノフ[V.M. Konstantinov,Novii Mir, (1961) No. 5, 279]による復元歌詞は,

  Ах,скучно мне
  На чужой стороне:
    Все не мило,
    Все постыло,
  Друга милого нет!

  Друга милого нет,
  Не гладел(а) бы я на свет!
    Что, бывало,
    Утешало,
  О том плачу я.

である.曲はウクライナ民謡に依った.
この歌は当時良く知られていたようだ.実際,1810年から翌々年にかけて,松前で捕われの身
となったゴロヴニンはその著書『日本幽囚記』(岩波文庫,[1943], 1996)(上) p. 179 で,

日本人は,われわれロシア人が東洋の文字を珍重するやうに,ロシアの文字を珍重が
るのである.彼等は一つの扇子を見せてくれたが,そこには「あゝ,異国(とつくに)
のさびしさよ」といふ歌が四行に書いてあって,ラクスマンに随行したバビコフ某と
サインがしてあった.ラクスマン一行が当地に来たのはもう二十年も前のことなのに,
その扇面は汚点一つなく,真新しくしてゐた.

と記録している.中村喜和『あるロシア歌謡の歴史:いわゆる「ソフィアの歌」について』
[『言語文化』(一橋大学機関リポジトリ)3 (1966) 25-55.]によると,
「あゝ,異国のさびしさよ」は上記「ソフィアの歌」の初句部分 <<Ах,скучно
 мне на чужой стороне>> で,バビコフ某は,桂川甫周著『北槎 聞略』
巻之一に記載の「商人 ウラス・ニキフルウィッチ・バビコーフ 子三十一歳」である.



図6. 函館を行進するロシア使節一行
山下恒夫『大黒屋光太夫』(岩波新書,2004)より.
先頭より,ラックスマン・船長ロフツォフ・商人バビコフ・水先案内人 シャバリン・磯吉・船長倅アレクセイ・船頭光太夫・通詞トゥゴルコフ.

図7. 漂民御覧の図
鈴鹿市教育委員会
光太夫と磯吉は1793年(寛政5年9月18日)江戸城内吹上御物見所で将軍家斉に拝謁,

大黒屋光太夫のロシア滞在の聞き書きが1794(寛政6)年,桂川甫周著『北槎聞略』として纏められた.
これは,亀井高孝校訂『北槎聞略』(岩波文庫,1990年10月)として読める.光太夫の伝記は,亀井高孝
『大黒屋光太夫』(吉川弘文館,1992年5月)がある.

『北槎聞略』に「楽器」と称してロシアの楽器が紹介されている.

図7b. ロシアの楽器
桂川甫周『北槎聞略』巻之九
左からバラライカ(三弦),イギリシカ大小2種類
(ヴァイオリンとチェロか).
この他,オルゴールの説明あり.


井上靖『おろしゃ酔夢譚』(文春文庫,1974)が光太夫の冒険を小説とし,日露合作映画『おろしや国酔
夢譚 』(緒方拳主演)となった. 他に,吉村昭『大黒屋光太夫』(新潮文庫,2005)もある.

1798(寛政10)  近藤重蔵,最上徳内と国後島・択捉島に渡り,択捉島に「大日本恵土呂府」の
     標識を建てる.
1799  蝦夷地を試験的に松前藩から幕府直轄とした(1806年まで).これはブロートンの影響.
1800(寛政12)  近藤は高田屋嘉兵衛に命じ択捉島に漁場を開設.
1801年(享和元年6月)  支配勘定富山元十郎と中間目付深山宇平太はウルップ島に渡り,「天長地久大日本七属島」の標柱を建てる.

1804(文化元)  ニコライ・レザノフは,以前ラックスマンが要請した通商交渉のため,アレクサンドル
     1世の親書を持ち,ナジェジダ号(クルーゼンシュテルン船長 )とネヴァ号を率い,9月26日
     長崎に来航する.ロシア最初の公式訪問.アリューシャン列島に漂着 した石巻漂流民津太夫
     ら4名を9月27日 (文化元年9月6日) 引き渡す.
     津太夫らは日本人初の世界一周をしたことになる.



図8a. Nikolai P. Rezanov
(1764-1807).

図8b. Ivan Fëdorovich Krusenshtern
(1770.11-1846.8)



図9a. レザノフ.


図9b. クルーゼンシュテルン(左)とレザノフ.

レザノフとは犬猿の仲だった クルーゼンシュテルンはこの後1803年から1806年にかけて,二番目の
世界一周を成功させる.



図10a. 旗艦ナジェジダ号.

図10b. 「魯西亜船入津之図」
大槻玄沢『環海異聞』(1807)



図11a. 「レザノフ来航絵巻」
東大資料編纂所
レザノフの上陸.

図11b. 「魯西亜人貴賎之図」
「レザノフ来航絵巻」(部分)
東京大学史料編纂所

図12. 「ヲロシア人」
神戸博物館
楽隊を引き連れたレザノフ.


レザノフは『日本滞在日記 1804-1805』(岩波文庫,2000年8月)(長らく公開が禁じられ1994年公開,
大島幹雄訳,暦はロシア旧暦のユリウス暦で表記してある)を表わす.
日露会談については,『通行一覧』(巻275〜283),『続長崎実録大成(長崎志続編)』に史料として
残っている.石巻漂流民は江戸で大槻玄沢に聞き取りされ,その記録は後に大槻『環海異聞』(1807)
十五巻 として纏められた.

『環海異聞』には漂民の見た楽器の図がある.

図12b. 漂民の見た楽器
大槻玄沢『環海異聞』(1807)巻之七所載
池田皓 訳『環海異聞』(雄松堂出版,1989)より
左から三弦バライカ(バラライカ),胡弓ケレブコ ( ヴァイオリン),笛ドウチカ(継ぎ笛,フルートか),琴ゴウシケ(ツィターの一種か.糸は金属の針金.40 弦).


しかし,日本は親書の受け取りを拒否,レザノフは翌1805年4月に退去.
幕府の態度に腹をたてたレザノフは部下フヴォストフとダヴィドフに(皇帝の訓令無しに)北方の島の攻撃
を命じた.

彼らは1806年(文化3年9月)に 樺太アニワ湾のクシュンコタン(大泊)を襲った (文化露寇または
九春古丹事件).
この報告が松前に届いたのは翌年露暦(?)4月であった.
1807年6月(文化4年4月)には択捉島のナイホ番屋を焼き払う (丁卯事件).
次いでシャナの沖合いから砲撃して,間宮林蔵らは戦わずして国後島フレベツに退却した.
逃げた武士を嘲笑する落首が残されている.
   「えぞの浦に立ち出で見ればうろたえの武士のたわけの高は知れつつ」
更に5月に樺太アニワ湾のオフィトマリ,ルウタカを襲い, 転じて利尻島沖でで民船を襲い焼き払った.
また6月ノシャップ沖で松前藩船禎祥丸,利尻島沖で幕府の官船万春丸,松前商船誠竜丸を捕獲積荷
を奪い焼却, 上陸して番屋などを焼き払った.

後悔したレザノフはサンクトペテルブルグに戻る途中,攻撃命令を撤回したが,伝達は届かなかった
という.レザノフは サンクトペテルブルグに着く前に病死,1809年にフヴォストフらは事故死する.
この事件は後にゴロヴニンの捕囚へとつながる.

1808(文化5)  松田伝十郎・間宮林蔵,樺太西岸を北上し海峡を視認.
1809(文化6)  間宮林蔵,海峡を渡り大陸を往復.帰途,アムール川下流域を調査.
1811年7月23日(文化8年6月4日)  ヴァシーリイ・ゴロヴニン(ゴロウニンとも呼ぶ)国後島で松前藩に捕まる.

ゴロヴニンの副官ピョートル・リコルディは1812年(文化9年8月)高田屋嘉兵衛を拉致,彼の助けを借り
て,幕府側と交渉の結果, フヴォストフ・ダヴィドフの襲撃は私的な襲撃であるとして和解, ゴロヴニン
は1813年10月22日(露暦10月11日,文化10年9月29日)に解放される.


「ゴロヴニン事件」は日露関係に重要な影響を与えたので,あまり「音のある風景」とは言えないが,関連
の図を付け加えておこう.



図13a. Vasilii Mikhailovich
Golovnin (1776-1831).

図13b. 囚われのゴロヴニン.
1811(文化8)年
個人蔵



図14. 魯西亜舶図
スループ船ディアナ号.
1811(文化8)年
個人蔵

図15.俄羅斯(おろしや)人生捕之図
1811年
早稲田大図書館
ゴロヴニンは国後島の泊で捕縛され, 根室に連行され,そこから松前へ 陸路護送された.
先頭で名はカヒイタン(船長のこと),年三十二才,長サ七尺二寸と注記されている.

図16a.高田屋嘉兵衛(1769(明和6年1月)-
1827(文久10年4月))肖像画
1846 (弘化3) 年
北方歴史研究協会
択捉島の探検が幕府に認められ,航路を開き漁業を
振興し,巨万の富を築いた.それらを全て函館の町
造りに注ぎ込んだ.1812年リコルドに拉致されるが,
ゴロヴニンの釈放に尽力し,函館に戻った.
図16b.高田屋嘉兵衛肖像画
1861(文久元)年,領事館付き司祭ヴラディカ・ニコライ
が函館 に着任する時に持参した賛辞文付きの肖像画.



ゴロヴニンはその捕囚の経験を1816年に『日本幽囚記 1811年から1813年』として出版した.翻訳は
早くも『遭厄日本紀事』として1825(文政8)年に出ている.最近のものでは川上満訳『日本幽囚記』(岩波
文庫,1943年5月-10月/1996年10月)がある.
高田屋嘉兵衛の活躍ぶりは司馬遼太郎の伝記小説『菜の花の沖』(文芸春秋社,1982)に活写され
ている.

1821(文政4)  蝦夷地を幕府直轄から再び1799年のように松前藩領に戻す.

1853年8月22日(露暦8月10日,嘉永6年7月18日) ペリーに遅れる事数週間で, ロシア使節
プチャーチン海軍中将が通商を求めて,旗艦パルラダ号(艦長ウニコフスキー少佐)で長崎に来航した.
そして開港を 求める国書を差し出した.
しかしクリミヤ戦争が始まりそうであったため,プチャーチンは江戸から幕府の全権が来るのを待ち
きれず,情報収集のため11月23日(露暦11月11日,陰暦10月23日)長崎を一旦離れ上海に向かった.




図17a.Yevfimy Putyatin
(1803.11-1883.10)
画家不詳


図17b.魯西亜人使節之図
尾形探香画
嘉永6年12月
福岡県立美術館蔵

図17c.プチャーチン銅像.







図18a.「魯西整儀 写真館」(7枚の内の1枚)
川原慶賀 画
1853(嘉永6)年
ロシア使節一行の長崎上陸の際の軍楽隊.右図に続く.


図18b.「魯西整儀 写真館」(7枚の内の1枚)
川原慶賀 画
1853(嘉永6)年
中央がプチャーチン.右下の"Getekent Door
Tojosky" は「署名登与助」の意で川原慶賀の事.


上海で情報を集め,1854年1月3日(露暦1853年12月22日,嘉永6年12月5日)に再度来日した.
今度の応接には幕府全権の筒井肥前守政憲と川路左衛門尉聖謨(としあきら)が当たった.
下図は1854年1月12日(露暦1853年12月31日,嘉永6年12月14日)長崎上陸の様子を記録したもの.




図19.「長崎渡来之図」(部分)
土屋 秀禾(しゅうか,1868-1929)模写
早稲田大学蔵

6回会談したが,またも交渉は成立せず,2月5日(露暦1月24日,嘉永7年1月8日)に長崎を出てマニラに向かった. 交渉はうまくいかなかったが,ロシア側は川路には好感を持った.


図20. 川路左衛門尉聖謨(1801-1868)
1854年2月10日 (安政元年12月24日)撮影
川路 明 氏蔵
下田で日露和親条約締結のあと,
プチャーチン付きの写真師が撮影した銀板写真.
ペリーが函館に立ち寄ったとき撮影した松前勘解由 に次ぐ古写真. 日本人写真師が開業するのは1860年以後の話である.

安政元年12月24日の川路日記に 「日なたに四方雪の如くなる木綿を張り,其の内にギヤマンにて差渡し三寸ばかりの目がねの如くなるものをかけ,五六分ばかりのうちに顔色,シワ,出来物のあとまでうつる」とある.[肥田喜左衛門『下田の歴史と史跡』(下田開国博物館,2004年9月)pp. 124-125]

図21.「甲寅長崎江魯夷入津図」(水彩画)
1854(嘉永7)年
鳥取県立美術館蔵
プチャーチンの艦船パラダ号
手前の艀に軍楽隊が乗っている.


図22.「甲寅長崎江魯夷入津図」
1854(嘉永7)年
鳥取県立美術館蔵
プチャーチンの軍楽隊




1854年10月21日(嘉永7年8月30日)フリゲート艦ディアナ号(艦長レソフスキー海軍少佐) を率いたプチャーチン3度目の試みでは作戦を変え,まず 単独で函館港に入った.しかし,ここでの交渉を拒まれ,ついで大阪へ向かい大阪天保山沖に現れた.
天保山には14,000余人,沿岸には3万余人が警備についた.

図23.「天保山諸家警備之図」
1854(嘉永7)年
津山郷土博物館蔵
プチャーチンが天保山に現れた.




大阪天保山では,下田へ行くよう要請されたので,プチャーチンは下田に向かい,1854年12月3日(露暦11月21日,陰暦10月14日)下田に到着した. 筒井正憲・川路聖謨 と再会し交渉を12月22日(露暦12月10日,陰暦11月3日)開始したが,翌12月23日(露暦12月11日,陰暦11月4日午前8時過ぎ),伊豆半島を中心に大地震が起こった(安政と改暦されたのは陰暦11月27日であるが,安政の大地震と通称される).
津波のため旗艦ディアナは大破したが,ロシアは地元被災者の医療援助を申し出,地元民から感謝された.ディアナ号は修理のため戸田(へだ)に移動する途中,大嵐に会い沈没してしまった.

図24.「ディアナ号沈没」
"Illustrated London News"
Jan. 5, 1856.




このため500人近い乗組員は幕府の許可と援助を得て戸田 で日本人とともに新たに船を造る事となった.全長25m,100トンあまりのスクーナー帆船(60人乗り)は約3ヶ月で完成し「戸田号」と名づけられた.こうして戸田は近代的な造船発祥の地となった. 図は1855年4月(安政2年3月7日)の戸田号の進水式の様子.陸上の左から3人目がプチャーチン.通訳ヨシフ・ゴシケーヴィチ(左から8人目の灰色の上着着用)は橘耕斎(ロシアに密航,帰化してヤマトノフと名乗る)の助けを借りて,ロシア最初の和露辞典『和魯通言比考』(ペテルブルグ,1857)を完成し,初代の在日本ロシア領事を勤めた.

この間,下田に戻ったプチャーチンは, 1855年2月7日(安政元年12月21日,露暦1月26日)日露和親通交条約(通称下田条約)を締結した.

図25.「プチャーチン戸田浦来航、軍艦建造図」
印真 画
1855年(安政2年)頃
東洋文庫蔵

ロシア船員の内159名は下田でアメリカ船をチャーターして4月のうちに帰国. プチャーチンは部下47名と共に5月8日(安政2年3月22日)下田よりこの船でロシアへ向かった.残りの300名弱は7月にドイツ船グレタ号でロシアに向かったが,(クリミア戦争の敵国)イギリスに拿捕され,病人以外彼らが最終的にロシアに帰ったのはずっと後のことになる.

この後プチャーチンは,通商条約締結のため1858年7月(安政5年6月16日)下田に再来する.神奈川に移り,1858年8月19日(安政5年7月11日,露暦8月7日)日露修好通商条約を締結した.

明治になって,未確定であった樺太の国境を確定させた.すなわち1875(明治8)年5月7日の樺太千島交換条約(サンクト・ペテルスブルグ条約)によって,千島列島は全島日本の領有に,樺太は全島ロシアの領有にすることに合意した.

この間,清国は1842年のアヘン戦争で香港をイギリスにゆずり,更にアロー号事件や太平天国の乱で英仏の介入をまねき,多くの譲歩をせざるを得なかった.ロシアは1858年5月の愛琿条約で,アムール河(黒竜江)左岸をロシア領とし,ウスリー河(松花江)の通行権を獲得し,更に1860年の北京条約でウスリー河東岸を獲得した.こういうアジア情勢を考えると,列強が中国に係っている間に,日本は列強と友好的な条約を締結することがぎりぎり間に合ったと言うべきか.


(2010年2月)

[参考]

主として
*)大久保利鎌監修,松平乗昌・岩壁義光解説『黒船来航譜』(毎日新聞社,1988年12月)
*)[渡辺]渡辺京二『黒船前夜』(洋泉社,2010年2月)
*)[木村]木村汎『日露国境交渉史』(中公新書,1993年9月)

江戸期の漂流については
*)木崎良平『漂流民とロシア 北の黒船に揺れた幕末日本』(中公新書,1991)

大黒屋光太夫については
*)桂川甫周『北槎聞略』全10巻(1794(寛政6)年)
*)亀井高孝校訂『北槎聞略』(岩波文庫,1990年10月)
*)桂川甫周『漂民御覧之記』(1793(寛政5)年) 家斉謁見の記録
*)磯吉述『魯西亜国漂舩聞書』(東洋文庫・岩崎文庫所蔵写本)
[宮永孝 現代語訳『北槎聞略』(雄松堂,1988)巻末.光太夫の一時帰郷に関する 資料付き;
山下恒夫『大黒屋光太夫史料集』全4巻(日本評論社,2003年)第2巻pp. 341-660]
*)亀井高孝『大黒屋光太夫』(吉川弘文館,1992年5月)
*)木崎良平『漂流民とロシア 北の黒船に揺れた幕末日本』(中公新書,1991)
*)木崎良平『光太夫とラクスマン 幕末日露交渉史の一側面』(刀水書房,1992)
*)山下恒夫『大黒屋光太夫』(岩波新書,2004年2月)
*)井上靖『おろしゃ酔夢譚』(文春文庫,1974)
*)吉村昭『大黒屋光太夫』(新潮文庫,2005)

「ソフィアの歌」については
*)中村喜和『あるロシア歌謡の歴史:いわゆる「ソフィアの歌」について』言語文化
(一橋大学機関リポジトリ),3 (1966) 25-55.
*)亀井高明『ソフィアの悲恋』(吉川弘文館,1966)
*)五木寛之『ソフィアの歌』(新潮社,1994年6月)

レザノフ・仙台石巻若宮丸津太夫らについては
*)レザノフ(大島幹雄訳)『日本滞在日記 1804-1805』(岩波文庫,2000年8月)
*)クルウゼンシュテルン(羽仁五郎訳)『クルウゼンシュテルン日本紀行』(雄松堂書店)
*)大槻玄沢『環海異聞』十五巻(1807,文化4年初夏)

間宮林蔵については
*)[洞]洞富雄『間宮林蔵』(吉川弘文館,1990)

ゴロフニン・高田屋嘉平については
*)ゴロウニン(川上満訳)『日本幽囚記』(岩波文庫,[1943年5月-10月], 1996年10月)
*)司馬遼太郎『菜の花の沖』(文芸春秋社,1982)

プチャーチン関係では
*)川路聖謨著,藤井貞文・川田貞夫校注『長崎日記・下田日記』(東洋文庫)
*)ゴンチャローフ著,高野明・島田陽訳『ゴンチャローフ日本渡航記』(講談社学術文庫,
    2008年7月) (ゴンチャローフ著『フリゲート艦パルラダ号』(1858)の部分訳)
*)吉村昭『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』(講談社,1996年4月)

2010. 2. 20   旧「黒船以前の日露交流」にプチャーチンとの交渉を含め「江戸期の日露
    交流」と改題した.

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