洋学事事始



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 文明開化と共に西洋からいろいろな風俗・事物が日本に到来した.浮世絵師は好んでそれらを題材にした.西洋音楽もその一つである.1879(明治12)年文部省に音楽取調掛(後に東京音楽学校,現在の東京芸術大学)が設置され,日本で本格的な西洋音楽が教育されることとなった.ここでは西洋音楽と当時の人々を扱った画題を取り上げる.


図1.「欧州管弦楽合奏之図」
橋本(楊洲)周延(ちかのぶ)画
(1889年5月)
アップライトのピアノを弾いているのは音楽学校洋琴(ピアノ)掛の瓜生繁子,ヴァイオリンを弾いているのは同じく助手の幸田延,フルートを演奏しているのは教授方嘱託の奥好義(よしいさ)と言われている.本格的な伴奏で『明治唱歌』第二集(大和田建樹,奥好義選.中央堂,1888年12月)の中の「岩間の清水」(大和田建樹作詞,奥好義作曲)を混声で斉唱している.左手の楽譜は原譜を正確に写してある.ピアノ譜は3度上げた伴奏になっているようだ.演奏の様子や楽譜が正確なところから見ると,絵師の周延(ちかのぶ)は音楽にかなりの素養があったと思われる.
ちなみにピアノの瓜生繁子は数え12歳で1872(明治5)年の岩倉遣欧使節団に津田梅子らと共に同行してアメリカに行き,音楽を学んだ永井しげ.帰朝後,音楽学校や東京女子師範で教鞭を執った.シューマンの「舞踏への招待」のピアノ演奏を得意とした.幸田延は1885(明治18)年数え16歳で音楽取調掛の第1回全科卒業し,アメリカ・ヨーロッパに留学しヴァイオリンを学び日本に帰り,音楽学校の教授になった.日本で初めて本格的演奏者となった.奥好義は宮内省伶人であったが,西洋音楽を学び普及に力を尽くした.

写真1. ヴァッサー・カレッジを卒業 するときの永井(新姓 瓜生)繁.(1881年)
生田澄江『舞踏への勧誘』
(文芸社,2003年)より.

写真2. 音楽留学時の幸田延.
(1889年頃か).
萩原由紀子『幸田姉妹』
(ショパン,2003年)より.


図2.「小学唱歌之略図」
橋本(楊洲)周延 画
(1887年)
文部省は小学校用の教材として,1881年から1884年にかけて「小学唱歌集」全3編を発行した.この図には,若い男女が小学唱歌の練習をしている様子が描かれている.小学唱歌を歌うにはいささかフケているが,西洋風の音楽に初めて接するのだから,やむを得ないであろう.図中に「小学唱歌集」初篇の初めの6曲「かをれ」「春山」「あられ」「いは(祝)え」「千代に」「和歌の浦」の歌詞が書き込まれている.伴奏の楽器はオルガンであろう.この頃,風琴と称したオルガンはまだ極めて珍しく,画中のオルガンは舶来品である.山葉寅楠が国産オルガンを製造するため会社を設立したのは1899年であった. 戸外の桜が満開だから季節は4月であろう.池は上野の山から見た不忍の池であろうか.少し違うように見える.

図3.「上野桜花観遊ノ図」
橋本(楊洲)周延 画
(1887年3月)
戸外で男女がダンスを楽しんでいる.あるいは鹿鳴館の舞踏会に出るため,練習に励んでいるのであろうか.室内中央の女性はダンスの音楽伴奏に参加しようとしているのだろうか.手にした楽器はヴァイオリンというには大きすぎるから,ヴィオラであろうか.左右の女性は和装であるから,中央の婦人のお付の者ではなかろうか.右の女性が弦楽器の弓を持っている.眼下に不忍池を見下ろしているから,場所は上野の山の高台にある精養軒であろうか.

図4.「梅園唱歌図」
橋本(楊洲)周延画
(1887年12月)
梅の花の咲き誇る中で唱歌の練習をしているようだ.オルガンの黒鍵が正確でない.周延は他の絵ではこんなへまはしていない.上手の手から水が漏れたというところか.

図5.「貴顕舞踏の略図」
橋本(楊洲)周延 画
(1887−1892年頃)
着飾った紳士淑女がダンスをしている.伴奏はピアノ2台だから,合奏しているのだろう.

橋本(楊洲と号する)周延(ちかのぶ)(1838 (天保9)年−1912年)は越後生まれ.初め歌川歌川国芳の門人になるが,後に派の流れを汲む豊原国周(くにちか)のもとへ移る.明治の洋風の時事物や風俗画を得意とした.当時の髪型コレクションの図なども描いている.
図6. 「束髪美人競(くらべ)」
橋本(楊洲)周延 画
(1887年9月)


(2007年2月)

2011. 12. 23  『初めての西洋唱歌』を『洋楽事始』と改題した.
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