『おらしよ』または隠れ切支丹の伝えた音楽



(図をクリックすると大きくなる.)


1543 年9月(天文12年8月),ポルトガル人2名 を乗せた中国船が種子島に漂着した.この時藩主 種子島恵時・
時尭 (ときたか,1528-1579) 親子は鉄砲を手にいれた. 戦国時代,各藩は競って新式の武器,鉄砲 (当時「種
子島」と呼ばれた) を製造・使用するようになる.

次いで1549年から1551年にかけて,キリスト教の布教を願って,イエズス会のフランシスコ・ザヴィエルが来日する.
こうして戦国時代末期, 織田信長・豊臣秀吉が天下を獲った織豊時代に,初めて西洋音楽が日本に届いた.

その後江戸時代三代将軍徳川家光の時キリスト教は御法度となり,信者は弾圧され隠れ切支丹となる.

ここでは今に伝わる隠れ切支丹の音楽について記す.

<鉄砲伝来>

ポルトガル船が種子島に漂着した.

図1.ポルトガル人が使用していたと推定されるワルトゼーミューラー (Waldseemüller) の1507年製世界地図.
[増田義郎: p. 72]


図2.南蛮屏風.
狩野内膳筆,桃山時代.(重要文化財).
[神戸市立博物館蔵]

日本人が初めて見る西欧人と黒人.

<ザヴィエルの来日>

1549 (天文18) 年8月鹿児島に着いたザヴィエルは,薩摩,肥前平戸で積極的に布教活動を行った.
1551 (天文20) 年,京に上り天皇から布教許可を得ようとして,謁見を試みたが失敗 した.
しかし山口では大内義隆,豊後大分では大友義鎮の支持を得,獲得した信者は500人 にのぼったという
その後,中国の布教を志し中国へ渡ろうとしたが,うまくいかず 1552年9月に中国広東省上川島で客死した.

図3.Francisco de Xavier (1506年4月 - 1552年12月<). (重要文化財).
[神戸市立博物館蔵]
大阪府茨木市北部(千提寺地区)の高山右近旧領に大正時代まで発見され なかった隠れキリシタンの家々があり,旧家は信仰の品々を入れた 「あけずの櫃」を長男にのみ伝承して誰にも見せなかった. この像はこの地のある旧家で発見された.

ポルトガルとの貿易を望ん だ大名は,イエズス会の宣教師を保護するとともに布教にも協力し,なかには洗礼を受ける
大名もあった (キリシタン大名).
実際,大友義鎮 (1530-1587) は,家督を譲り宗麟と名乗り,1578年 (天正6年7月25日),修道士ジョアンにより洗礼を受け,
洗礼名フランチェスコを授かった [若桑: pp. 75-76].

ゴアに赴任したイエズス会宣教師で巡察使のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano, 1539-1606)は日本に
渡ることを決意し, 1579 年7月(天正7年) に島原半島南端の有馬領口ノ浦に到着した[若桑: p. 108].
彼は切支丹となった大友宗麟に面会し,その庇護を受け,有馬にセミナリオ (イエズス会の中等教育機関) を発足させた
[若桑: p. 126; p. 155].

<織田信長の引見>

ヴァリニャーノは 1580 (天正8) 年,安土のセミナリオを訪ね,織田信長に謁見した.
その際,信長はクラヴィオとヴィオラ・ダ・ガンバを演奏させたという [若桑: p. 157; 信長の行状については,若桑: p. 170ff].

<天正遣欧少年使節と音楽>

大友宗麟 (引退前は義鎮,洗礼名フランチェスコ)・ 有馬晴信 (洗礼名プロタジオ,のちジョアン,1567-1612)・
大村純忠 (洗礼名バルトロメオ,1533-1587) の3大名は,ヴァリニャーノの 勧めにより,セミナリオ
(長崎県南島原市有馬町にあったイエズス会の中等教育 機関) の卒業生から 12〜14 歳の 4 人の少年

  伊東マンショ(1569?-1612) (大友宗麟の名代)
  千々石(ちじわ)ミゲル(1570- ? ) (有馬晴信・大村純忠の名代)
  中浦ジュリアン(1570 ?- 1633) (副使)
  原マルチノ(1568 ?- 1629) (副使)

を選び,1582(天正10)年2月,使節として数名の随員と共にローマ教皇のもとに派遣 した.

1584年 (天正12年) にはポルトガル人に相次いで,スペイン人も 肥前の平戸に来航し,日本との貿易を開始した.

少年使節のうち,ジュリアンを除く3人は,1585年3月23日にグレゴリオXIII世 に謁見し,親書を手渡した. 教皇は4月10日に亡
くなってしまう.同月26日に新教皇として,シスト (Sixtus) V世が選ばれた.少年使節3人はシストV世の即位式に招待される.
即位式と祝祭の様子が法王庁ヴァティカン図書館のシストの大広間の壁画にあり,少年使節4人が描かれている.
教皇は使節らが帰るときに「キリストの騎士」の称号を与えた.また3人の領主には豪華な贈り物をした[若桑: pp. 339-341].


図4.天正遣欧使節.
伊東マンショ, 千々石(ちじわ)ミゲル, 中浦ジュリアン,
原マルチノ.
中央は付き添いのメスキータ神父 (Padre Diego de Mesquita)
[京都大学蔵]

天正遣欧少年使節団の4人は,8年あまりの旅を終え,20歳前後の青年となり, 1590年7月巡察使ヴァリニャーノ,
メスキータ神父らと共に長崎に戻った[若桑: p. 467].

彼らは,織田信長よりローマ法皇への献上品(屏風)を携えて行ったが, 少年使節が日本を出帆して4ヶ月後の
1582年6月(天正10年6月)に本能寺の変が起こり,織田信長は自害し,豊臣秀吉の時代が始まっていた.

<秀吉の引見>

使節帰国の翌年の1591年3月3日 (天正19年閏1月8日),4人は聚楽第において豊臣秀吉に謁見し,欧州事情を
披瀝すると共に,持ち帰った楽器を用い西洋音楽を御前演奏をした.

天正遣欧使節が持ち帰った楽器は次の5種類である.

1.クラヴィチェンバロ(伊: Clavicembalo;英:Harpsichord)
    鍵盤撥弦楽器.鍵盤を用いて弦をプレクトラムではじいて音を出す.
    15世紀にはイタリアのクラヴィチェンバロ製作家が弦にかかる張力の
    弱い,軽い楽器を作っていた.チェンバロの前身の楽器.
2.クラヴィコード(伊:Clavicordo;英:Clavichord, )
    クラヴィコードは14世紀頃に発明され,1840年代まで製作されつづけた
      鍵盤楽器.
    18世紀中葉から主としてドイツ語圏の国々,スカンジナビア半島および
    イベリア半島において全盛期を迎えた.
    1400年ごろから1800年ごろにかけて,チェンバロ,ピアノおよびオルガン
    のために書かれた音楽の多くは,クラヴィコードによって演奏することが
    可能であり,また実際に演奏されていた.
3.アルパ(伊:Arpa;英:harp)
       弦鳴撥弦楽器.弓を使わずにもっぱらはじいて音を出す.
    最も古い楽器の一つで,同種の楽器は世界各地に分布している.
    日本語では竪琴(たてごと)と呼ばれる楽器群に含まれる.
4.ヴィオラ・ダ・ガンバ(伊:Viola da gamba;英:viol)
    16〜18世紀にヨーロッパで用いられた弦鳴擦弦楽器.
    「ヴィオラ・ダ・ガンバ」はイタリア語で「脚のヴィオラ」の意味で,楽器
    を脚で支えることに由来する.これに対して「ヴィオラ・ダ・ブラッチョ」
    (=腕のヴィオラ)と呼ばれたのがヴァイオリン属(ヴァイオリン,ヴィオ
    ラ,チェロ)である.
    ヴィオラ・ダ・ガンバはヴァイオリン属よりも歴史はやや古く,ヴァイオ
    リン属に比べると音量が小さいため,劇場や野外での演奏には適さず,
    もっぱら宮廷や上流市民の家庭における室内楽,および教会音楽で
    用いられた.
    また,ヴァイオリン属に似ていること,また18世紀後半に完全に廃れ
    てしまったことから,しばしばヴァイオリン属の前身楽器と誤解される
    が,両者は異なる系統である.
5.リュート(伊:Liuto;英:Lute)
    弦鳴弾弦楽器の一種.古くは紀元前20世紀頃のメソポタミアや紀元前15世
    紀頃のエジプトに現れるが,ヨーロッパに導入されたのは10世紀に入って
    からで十字軍によって中東からもたらされたとか,スペインのイスラム教徒
    とキリスト教徒の間を横断して運ばれたなどの説がある.
    主にルネッサンスからバロック期にかけて盛んに使用された.

    

図5a.二重弦の "Bolognia
Doppia" (1600)
[Museo Medival Bolognia]

図5b.The Lepante clavichord (16cか)
[Musee de la Musique, Paris]



図5c.Kupetzky画(1711) "A Man Playing
A Lute"

図5d.Vittore Carpaccio (1510 年頃)
"Presentation of Jesus in the Temple" (部分)

四重奏が演奏されたが,曲名は記録されていないので,皆川達夫氏の推定による.
使用した楽器は,アルパ (小さいハープ),クラヴィコード,リュート,ヴィオラ・ダ・ガンバ
であったとされている.

曲目は,ジョスカン・デ・プレ (Josquin des Pres; 1450/55年-1521年)作曲
『千々の悲しみ』"Mille regrets" であっただろう:

Mille Regrets (Josquin des Pres)
http://www.youtube.com/watch?v=8kCKsOT_gno
古楽器伴奏のものは,
Mille regrets-Josquin Memling
http://www.youtube.com/watch?v=8WuQ0FFo8xA

秀吉は三度もアンコールをしたという.
秀吉は4名に対し仕官を勧めたが,全員共,司祭になることを決心していたことより,秀吉の申し出でを断った
[若桑: pp. 467-481].

はじめは秀吉も信長同様,キリスト教に対して好意的だったが,秀吉はキリスト教に 疑惑を持ちはじめ,その考えを
変えつつあった.実際,使節日本帰国の3年前,秀吉はバテレン(宣教師)追放令を発布し,キリスト教布教の弾圧を
開始したのである.

1597年2月 (慶長元年12月),豊臣秀吉の命令によって長崎で26人のカトリック信者が処刑された.処刑の際,子供の
囚人2人は「ラウダテ・プエリ・ドミヌム (Laudate pueri Dominum = 主の僕たちよ、主をほめたたえよ)」を歌ったという.
[若桑: p. 461].
日本でキリスト教の信仰を理由に 最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった.
彼らは後の1862年に「日本二十六聖人」として列聖される.

Laudate Pueri Dominum https://www.youtube.com/watch?v=QMBqZybLmBM

<徳川幕府>

そして,時代は「関が原の戦い」に大勝した徳川家康に 移る.
1612 (慶長17) 年には「禁教令」が出され,三代将軍家光の時代の1637 (寛永14) 年の島原・天草の乱の後は,
更に切支丹禁制が強化 された.わずかに残された信者たちは深く潜伏し,隠れキリシタンとなっていった.

希望に燃えて帰国した使節4名は8年半にわたる訪欧の旅で得た知識・経験を 十二分に発揮出来ぬまま,

伊東マンショは病死,
千々石ミゲルは棄教,
中浦ジュリアンは殉教,
原マルチノは国外追放

になるのである.

また,家康は切支丹大名高山右近 (1552 (天文21)年生まれ) を怖れ,1614 (慶長19) 年,国外追放にする.
右近は行き先のマニラで歓迎されるが,すぐに病を得て翌1615年2月に客死する.

<慶長遣欧使節>

外国貿易を望む伊達正宗の命を受け,家臣の支倉六右衛門常長は,1613 (慶長18) 年から 1620(元和6)年にかけてローマに赴き,
パウロ五世に拝謁する.
途中,スペイン王フェリペIII世の大歓迎を受け,支倉はカトリックの洗礼を決心,1615年2月17日にマドリッドのサン・フランチェスコ
聖堂附属女子修道院 (Monasterio de las Descalzas Reales) において,スペインの宰相レルマ公が教父となり洗礼 (洗礼名
フィリポ・フランチェスコ) を受ける[シピオーネ・アマチ 『伊達正宗遣欧使節記』 ].
その際「テ・デウム (Te Deum laudamus)」が歌われた[高橋:pp. 152-172].

歌唱は:
Te Deum laudamus
http://www.youtube.com/watch?v=sLwBlTaOGIQ


図6. サン・フランチェスコ聖堂附属女子修道院の内部.


日本に戻った時は,切支丹禁制の世となり報われることもなく,失意のまま亡くなった.
後,支倉は伊達正宗の命を受けてローマに行ったので,君命を辱めたわけではないという仙台藩家老らの反省から,
孫の代になって名誉回復される.現在は,常長の関連の品物は国宝指定されている.


図7a. 支倉常長,パウロ五世に拝謁.
[シピオーネ・アマチ『伊達正宗遣欧使節記』;高橋:p. 229].

図7b.パウロ五世より下賜された肖像画 (国宝).



図7c.支倉常長肖像 (国宝).
 日本人を描いた最初の油絵




<隠れ切支丹現る>

時代は下って,幕末の 1862年 (文久2年) 12月,フランス・パリの外国宣教会宣教師で日本教区長のジラール神父は,横浜にいた
フランス人司祭フューレ神父を長崎に派遣し. 司祭館と教会堂の建築準備に着手した.
1863 (文久3) 年 8月,プティジャン神父 (後に司教) が長崎に着任,フューレ神父を補助し,天主堂は日仏修好通商条約に基づき,
フランス人の礼拝堂として建設されることとなった.
1865年 (元治2年1月) 2月,大浦天主堂が完成した, 献堂式を行い,二十六聖殉教者堂と命名された.
建立まもない天主堂は「フランス寺」と呼ばれ,美しさとものめずらしさで付近の住民たちが多数見物に訪れた.

1865年3月17日 (元治2年2月12日),長崎市浦上の住民十数名が天主堂をたずねて来た.祈っていたプティジャン神父に,
そのうちの4-50歳くらいの女性 (この女性の名は,イザベリナ杉本百合だったと言われている) がひとり近づき, 「私共は
神父様と同じ心であります」とささやき,自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきた,
いわゆる隠れキリシタンである事実を告白した.
その後,プティジャン神父は密かに浦上や五島などに布教に訪れ,隠れた信者の発見に努めた.浦上だけでなく長崎周辺
の各地で多くのカトリック教徒が,秘密裏に信仰を守り続けていたことを知った.
この「信徒発見」のニュースは,やがて当時の教皇ピオ9世の耳に入り,教皇は 感激して,これを「東洋の奇蹟」
と呼んだという.
この日は現在カトリック教会では記念日となっている.


図8. 大浦天主堂 (世界遺産)


<おらしょ>

隠れ切支丹「ごしょう(おらしょ)」の儀式は
出演:萩本氏,大石氏,川崎氏,土肥氏,大川氏(生月町壱部浦)
解説:中園成生
長崎県平戸市生月町博物館・島の館にて
1/4 生月かくれキリシタン「おらしょ★」Ikitsuki hiding kirishitan 'Oratio'
http://www.youtube.com/watch?v=ltj47CBvopE
ここから撮影禁止
2/4 生月かくれキリシタン「おらしょ★」Ikitsuki hiding kirishitan 'Oratio'
http://www.youtube.com/watch?v=bCAhtFOiy1o
3/4 生月かくれキリシタン「おらしょ★」Ikitsuki hiding kirishitan 'Oratio'
http://www.youtube.com/watch?v=PukstO6mItc
伝えられた聖歌の歌唱は
4/4 生月かくれキリシタン「おらしょ★聖歌」Ikitsuki hiding kirishitan'Oratio...
http://www.youtube.com/watch?v=-oS9wR67mDE

隠れ切支丹の歌おらしょは
生月島・歌オラショ「さんじゅあん様の歌」・「だんじく様の歌」
http://www.youtube.com/watch?v=aYSDPjLze-Q
長崎市旧外海町の黒崎,出津にはカクレキリシタンの組織が残っている.このうち黒崎
には,隠れキリシタンの神社「枯松神社」があり,「サン・ジワンさま」を祀っている.

おらしょの現代版合唱は,
千原 英喜_男声合唱のための おらしょ カクレキリシタン3つの歌 より
http://www.youtube.com/watch?v=xi8yoZMPBLA

混声合唱版は
混声合唱のための「どちりなきりしたん」より T
作曲:千原英喜 演奏:東京大学柏葉会合唱団
http://www.youtube.com/watch?v=2jzSci3Zilg&list=PLE4FBEF3D7601C308
混声合唱のための「どちりなきりしたん」より II
http://www.youtube.com/watch?v=iplnnkuwEXU&list=PLE4FBEF3D7601C308


(2013年11月)


参考

*)神戸市立博物館 編,"Namban Arts Selection" (1998年10月).
*)増田義郎,『図説 大航海時代』 (ふくろうの本,河出書房新社,2008年9月).
*)皆川達夫監修,ダイヤグラムグループ編『楽器 歴史 形 奏法 構造』
    (マール社,1992 年).
*)天正の遣欧使節については,
    若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』(集英社, [2003], 2004) が詳しい.
*)音楽関係については,
    アマデウスのSlow Life ♪
    天正遣欧少年使節と音楽 [音楽]
    http://amadeusplace.blog.so-net.ne.jp/2009-11-13
*)慶長使節支倉常長については,
    高橋由貴彦『ローマへの遠い旅』(講談社,1981).
*)大浦天主堂-wikipedia.

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