私家版 鈴木米次郎(改訂版)
齋藤基彦 ver.11/05; rev. 9/07
初めに
「鈴木米次郎」という名は皆さんにあまりなじみがないかもしれません。
彼は明治時代西洋音楽が日本に導入されたときに、音楽の世界に飛び込んだ最初期の音楽家です。そして日本で2番目の私立音楽学校である『東洋音楽学校』(現在の東京音楽大学)を立ち上げました。明治末期には作曲者として名声を博しましたが、現在では日本の音楽教育の初期の重要な開拓者として記憶に留められています。
私はこの鈴木米次郎に興味を持ち調べ始めましたが、資料などがあまりなく大変な調査になりました。その苦心の結果を以下に纏めましたので、ご覧ください。
なお私は音楽
については素人であり、東京音楽大学とは何の利害関係も無い全くの部外者である
ことをお断りして置きます。
ひょんなことから明治時代に日本の音楽教育を立ち上げた鈴木米次郎(1868−1940)と田村虎蔵(1873−1943)の関係に興味を持ちました。田村虎蔵のほうは立派な伝記があり生涯をたどれますが、米次郎については一般書で詳しいものはありません。略歴が東京音楽大学の記念誌に掲載されていますが、米次郎の前半生(東洋音楽学校設立以前)の年表を調べて見ると、他の資料と幾つかくい違いが見られます。できるだけ正確な年表を作ろうと以前試みたことがありますが、彼自身の一次資料が少ないこと、筆者が音楽についての二次文献資料を自由に見ることができないこと、音楽について素人であること、関西に居ること、などのハンディキャップがあいまって、なかなか思うように作業が進みませんでした。実際筆者の手に入る僅かな資料を検討しても、本人自身の語るところに思い違いがあったり、また学校制度ひとつをとっても、明治初期の激動のときでめまぐるしく変更されており、なかなか日時を確定させることができません。したがってここでは現時点で分かる諸説を併記して、推定の論拠をできるだけ明らかにしたもので満足することにいたしました。音楽上の業績も必要な文献や譜面を見ることができず、また筆者が素人ということもあり、あまり論ずることはできません。ここでは主に米次郎の東洋音楽学校設立までの前半生、特に高等師範付属学校勤務時代に焦点を当てます。
(2005年11月記)
改訂版について
2007年5月、武石みどり監修『音楽教育の礎 鈴木米次郎と東洋音楽学校』が春秋社から出版されました。鈴木米次郎に関する初めての本格的な伝記です。ここで『東京音楽大学65年史』に収録されている、米次郎の生い立ちについての記述内容が訂正されています。これは伝聞資料ではない、より確実な資料に基づいて記述することが可能になったためです。そこで本小論でも、米次郎の幼年期の部分を『音楽教育の礎(いしずえ) 鈴木米次郎と東洋音楽学校』に従って改定することにしました。またついでと言っては何ですが、その他の部分についても文意が明確になるようにするための字句の修正をほどこしました。同時に付録の作曲作品などの資料についても改定を行いました。
(2007年9月記)
目次
それは1998年10月のことですが、筆者がたまたま大阪のラジオ番組を聞き流していたとき、『大阪市街電車唱歌』という曲が紹介されました。(1998年10月2日のNHK大阪の番組「情報スクランブル」で客の桂米之助が紹介した。)驚いたことにメロディーが筆者の母校筑波大付属高校の同窓会歌である『桐陰会(とういんかい)会歌』にそっくりなのです。びっくりして早速『電車唱歌』の譜面を取り寄せてみました。『大阪市街電車唱歌』はト長調で、ヘ長調の『桐陰会会歌』より明るく賑やかな感じはしますが、そっくりというより、むしろ同一といった方が良いくらいの曲でした。『大阪市街電車唱歌』と『桐陰会会歌』の譜面を図1と図2に示します。
図1 田村虎蔵作曲『大阪市街電車唱歌』。作詞は大和田建樹。
この大阪の『電車唱歌』は大和田建樹作詞、田村虎蔵作曲で1908(明治41)年7月に発表され、定価4銭で売り出されました。その年の8月に市電が開業すると大変な人気になり、小学生から芸者に至るまで盛んに口ずさまれたそうです。

図2 山根磐・宮島秀夫作詞、鈴木米次郎作曲『桐陰会会歌』。
音楽辞典で『電車唱歌』の作者を調べてみるとまたまたびっくりです。作詞をしている大和田建樹はなんとあの有名な「汽笛一声新橋を」で始まる『鉄道唱歌』を作詞しています。作曲の田村虎蔵も「まさかりかついできんたろう」の『金太郎』、「大きな袋を肩にかけ」の『大黒様』などわれわれの良く知っている唱歌を作曲した人でした。田村は東京市の電車唱歌である『東京地理教育 電車唱歌』も作曲していました。まさに当時のドリームコンビといって良い組み合わせです。更に辞典には田村虎蔵は東京音楽学校(現在の東京芸術大学)を卒業して高等師範の教師を勤めていたと記載されています。この高等師範というのは筑波大の前身の学校ですから、筆者の母校と繋がっているわけです。
ちなみに路面電車の始まりは京都市で1895(明治28)年2月のこと、東京市はやや遅れて1903(明治36)年8月に新橋・品川間が開通しました。東京の電車唱歌は1905(明治38)年10月に石原和三郎作詞、田村虎蔵作曲で発表されています。石原と田村は高等師範の付属小学校の国語と音楽の先生で同僚の間柄です。先ほどの『金太郎』、『大黒様』も石原の作詞で、二人は協力して言文一致唱歌の作詞・作曲で活躍しました。
一方『桐陰会会歌』の作曲者は筆者の母校の音楽の先生です。作曲は1902(明治35)年で、こちらの方が早い。ついでにこの人も音楽辞典で調べてみると、田村と同じく東京音楽学校を卒業して、東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を創立したとあります。それなりに名の通った人のようです。
結局、米次郎と虎蔵は東京音楽学校の先輩・後輩であり、米次郎は高等師範付属中学、虎蔵はその兄弟校の付属小の音楽の先生で、勤めていた時期にもオーバーラップがあったようですから、同僚といって良い間柄です。互いに見知らぬ仲でなかったことは間違いありません。にわかに作曲の経緯はどうなっていたのか、二人の間柄はどうだったのか興味が湧いてきました。
幸い田村虎蔵に関しては丸山忠璋による『田村虎蔵の生涯』という立派な伝記があり、詳しく様子がわかります。ところが鈴木米次郎の方は『東京音楽大学65年史』に簡単な略歴があるだけで、付属中学を教えていた頃の詳しい情報がありません。やむなく自分で調べなければいけないことになってしまいました。以下はその鈴木米次郎復元の試みですが、思っていた以上に大変だけれども面白い作業となりました。それはまた明治時代の学校制度建設の息吹と、人と人との繋がりを確認する作業ともなりました。
東洋音楽学校の創始者、鈴木米次郎は、『東京音楽大学65年史』によると、1868年(旧暦慶応4年2月6日)に旧旗本鈴木重教と里うの次男として江戸麻布笄(こうがい)町に生まれたとなっています。
米次郎の生まれた麻布の笄町は明治17年測量の『五千分の一東京図』を見るととても広い地域で、そのうちのどのあたりかはわかりませんが、江戸末期出版の『東都麻布之絵図』の笄橋の近くとすると現在の西麻布4丁目の北東の端ということになります。鈴木家の菩提寺、永平寺別院の長谷寺(ちょうこくじ)(武石みどり 私信2004年10月20日)からも近いところです。
ところが最近出版された、武石みどり監修の『音楽教育の礎 鈴木米次郎と東洋音楽学校』では、鈴木家に伝わる『鈴木家由緒書』により、米次郎の生母は里うではなく、名前が不明の先妻によると訂正されました。
この『鈴木家由緒書』によれば、鈴木家の初代は鈴木権之助重輝という三河岡崎の武士で、1590(天正18)年に徳川家康が関東に入ったとき、家康に従い上総へ移ったそうです。以後、鈴木家は代々徳川家に仕えました。鈴木家の八代目に当たる半十郎行道(?−1871年(旧暦明治4年6月11日))は小普請組の千石右近の配下でしたが、男子が無かったため、1857(安政4)年に同じ幕臣で御鳥見役の高倉庄次郎の三男(『東京音楽大学65年史』で次男とされていたのは誤りと考えられる)小重郎重教(1833年(天保4年3月27日)生まれ、1892(明治25)年7月8日没)を養子に迎え、1858(安政5)年に家督を譲りました。この小重郎重教が米次郎の父親となる人です。
鈴木家九代目となる小重郎重教は、1859(安政6)年、小普請組の岩瀬内記氏善の配下となり、麻布笄橋(こうがいばし)に屋敷を貰いました。蛤御門の変や天狗党の乱で幕軍に参加したと伝えられています。そして、小重郎重教は名前の不明な妻(1843(天保14)年−1869(明治2年9月18日))との間に長男錦一郎(きんいちろう)と次男米次郎を設けます。
米次郎が生まれたときは明治維新の激動の最中でした。1868年初めの慶応3年12月9日に王政復古が決まり、江戸城開城が同年春(慶応4年4月)、彰義隊が上野の山で戦うのが同年夏(慶応4年5月)ですから、米次郎が生まれたのは江戸が混乱している真最中でした。そんな中、慶応4年9月8日には改元されて明治となります。
米次郎が生まれるとすぐの1868年(旧暦明治元年10月)に鈴木一家は駿河の府中(現在の静岡市)に移り、見性寺(けんしょうじ)に仮住まいすることになります。
鈴木錦一郎『東洋音楽学校報国団団報』13号 p. 20。見性寺は曹洞宗楠谷山見性寺(静岡市葵区新間)、
静岡市清水区八木間町および磐田市見付の可能性があります。いずれ現地調査が必要と思っています。
ちなみに『東京音楽大学65年史』p. 14 では掛川の見性寺と誤っています。
これは少し前の1868年(慶応4年閏4月)、新政府に許されて、将軍を辞して謹慎中の徳川慶喜(よしのぶ)の家督を田安亀之助が継ぐことになり、徳川家達(いえさと)として徳川400万石から駿河七十万石に移封されることになったためです。徳川家は並みの地方大名となった訳です。このため、多くの幕臣は御役御免となり無禄となりました。これにより幕臣約6500人(家族を含めるとこの数倍)がチャーター船で府中に移ったそうです。
小重郎重教は1869年(明治2年2月)には遠州中泉奉行に配属されますが、その9月に錦一郎と米次郎の生母は27歳の若さで亡くなってしまいます。彼女は見性寺に葬られました。お寺の住職は米次郎を見込んで弟子にしたいと頼みましたが、父親はそれを断ったと言われています。
同じ9月に小重郎重教は掛川勤番組に転属します。このとき掛川に屋敷を貰い6人扶持となります。ここで小重郎重教の父、米次郎の祖父の半十郎行道も1871年(明治4年6月11日)に亡くなってしまいます。この頃、幼児をかかえた小重郎重教は静岡の士族の娘、大原里う(1836年(天保7年11月30日)生まれ、1892(明治25)年7月20日没)を後妻として迎えます。従って『東京音楽大学65年史』で生母とされた里うは錦一郎と米次郎の養母ということになります。
明治維新の激動のさ中、恐らく生活も楽とは言えない状態だったのでしょう。1873(明治6)年には一家をあげて廃藩置県の後の東京に戻り、浅草区七軒町6番地に居を定めることになります。現在の台東区元浅草1丁目にある都立白鴎高校内東側の位置です。
なお旧暦明治5年12月3日を明治6年1月1日とし、以後グレゴリオ暦を用いる、とする改暦があるので、これ以降は明治年号に1867年を加えれば現在使用している太陽暦が得られます。
米次郎はおそらく1874(明治7)年4月に浅草区向柳原1丁目(現台東区浅草橋5丁目)に新築された第五中学区一番小学松前尋常小学校(現在の台東区立台東育英小学校)に入学したと思われます。おそらくというのは、『東京音楽大学65年史』の年表では正確な年月が分からないので標準の満6歳(数え7歳)のときと推定したためです。新政府により1972年(明治5年8月3日)に「学制」が発布されていましたが、初期には必ずしも「学制」の規定がきちんと守られていたかどうかは分からないからです。
ちなみに文部省は「学制」発布の前日の「学事奨励に関する被仰出書」で
自今以後一般の人民華士族農工商及婦女子必す邑に不学の戸なく家に不学の徒な
からしめん事を期す
と高らかに宣言し、その翌日発布された「学制」では
一、厚ク力ヲ小学校ニ可用事、
二、速カニ師表学校ヲ興スヘキ事、
三、一般ノ女子男子ト均シク教育ヲ被ラシムヘキ事、
四、各大学区中漸次中学ヲ設クヘキ事
など9項目をあげて、教育の近代化を図ります。師表学校とは教師の養成機関のことです。「学制」の計画では日本全国を8つの大学区に分け、一つの大学区に32の中学区、それぞれの中学区に210の小学を置くというフランス式の壮大なもので、単純計算でも小学の数は全国で53,760という大規模なものでした。しかしそのための整備が大変ですから小学校から順次整えて行く方針を採りました。小学校は今と同じ満6歳で入学ですが、下等小学と上等小学に分れ、それぞれ4年ずつの課程が組まれました。下等小学は男女共学、上等小学は男女別の学級編成でした。また中学校は下等中学3年、上等中学3年、計6年としました。その上が大学です。
実情はといいますと、1874(明治7)年の段階で小学校の数はほぼ2万2千校、就学率は男児46%、女児17%、総計平均で32%に過ぎません。3人に1人しか小学校に通っていなかったことになります。1890(明治23)年になっても小学校数は2万6千、就学率は49%です。ほぼ全員が就学していると言えるようになるのは明治の終りのことです(名倉英三郎編著『日本教育史』 pp. 104, 112)。
米次郎は自宅から1 kmあまりの道を通ったと考えられます。ちなみに『育英百二十年』によると、この学校は「学制」発布以前の1870年(明治3年6月)、仮小学校第五校として第五大区第二小学区南元町の西福寺(現在も蔵前4丁目に存在)にいちはやく創設され、1873(明治6)年2月に第五中学区一番小学、同年6月に一番小学新堀学校、1874(明治7)年正月に一番小学松前学校と名称を変え、同年4月新校舎落成とともに柳原1丁目(現浅草橋5丁目)に移転しました。1878(明治11)年8月育英小学校と改称され、同12月猿屋町(現浅草橋3丁目)に移り、1885(明治18)年7月校舎新築で現在の位置(浅草橋2丁目)に移ったそうです。1887(明治20)年発行の『五千分の一東京図』ではまだ名前は松前小学となっています。米次郎は柳原1丁目の新校舎に入学し、一度引越しをして明治の地図に載っている猿屋町の小学校を卒業したと思われます。
蛇足ですが、育英小は人数減のため、近くの柳北小(柳北女児小から始まり育英小と同じくらい古い)と2002年に合併して台東区立台東育英小学校となっています。
「学制」の小学校の修学期間は前にも述べたように下等小学4年、高等小学4年の計8年間ですが、これはあくまで目安です。何故なら、「学制」の規定は、学校の整備が間に合わず、就学しない児童も多かったなど、当時の日本の実情には合わないことがすぐに判明したので、1879(明治12)年9月に地方の自由度を認め、小学校の設置や就学義務の規定を緩めたものに変更します(田中不二麿の通称「自由教育令」)。これにより、就学年数は一応8年だが、最短で4年毎年4ヶ月就学すれば良いことにしました。しかし、これでは規定をあまり自由にし過ぎたとの反省から、翌年12月に再び厳しくする(河野敏鎌の「改正教育令」)といった変更があるからです。
米次郎は小学校を修了して1882(明治15)年4月から8月(米次郎数え15歳)の間に東京府中学校(現都立日比谷高校)に入学したのではないでしょうか。残念ながら育英小卒業と東京府中学校入学の記録は双方とも残っていなので正確にはわかりませんが、府中学から東京府に提出された資料で、米次郎が少なくとも1882年12月(第7級(1年生後半)修了)から1883年7月(第6級(2年生前半)終了)にかけて在学していたことは確実です。(1880年入学という可能性も無いわけではないですが、そうすると1882年12月に第7級修了というのは、少し遅いような気がします。)入学試験の成績が良く、入学早々に第7級(1年生後半のクラス)に編入されたようです(『明治十五年十二月東京府中学校学級試験得点表』および『明治十六年七月東京府中学校学級試験得点表』、何れも東京都公文書館所蔵)。
『日比谷高校百年史』によると、この中学校は元々1878(明治11)年9月に設立され、東京府第一中学校と称していました。この時点ではまだ中学の基準は明確ではなく、府は独自に修業年限を正則科で4年、大学入学志望者向きに全て英語で授業する変則科3年を設けました。校舎は初め当てにしていた校舎が使えなかったので、本郷区元町水道橋際の元高松藩邸内の松平頼総屋敷にある旧玉藻小学校(玉藻は高松藩の城名にちなむ)を仮校舎

図3 鈴木米次郎関連地図。 1)東京市浅草区七軒町6番地。 2)浅草区柳原町1丁目 松前尋常
小学校。3) 麹町区内幸町東京府庁内 東京府中学校。4)上野四軒寺跡 音楽取調掛。5)本郷区向岡
弥生町 第一高等中学校。6)神田区一ツ橋通町2番地 高等師範学校付属小学校。7)神田区宮本町
高等師範学校付属中学校。8)上野西四軒寺跡 東京音楽学校。9)下谷区池之端七軒町7番地。
10)下谷区桜木町28番地。11)神田区裏猿楽町2番地 東洋音楽学校。
として出発しました。翌年正月に神田区表神保町(一ツ橋町)の旧英語学校の跡地(元越後高田藩邸内の榊原正敬屋敷)、次いで1881(明治14)年7月に麹町区内幸町の東京府庁内に移転し、東京府第二中学(1879年9月に設立、入学者は満13歳以上20歳以下の男子で、修業5年)と合併して東京府中学校と改名、1884年5月にようやく麹町区内山下町に新校舎が落成して落ち着きます。米次郎は内幸町の校舎に入学したと思われます。
中学校に関する簡単な規定(下等中学3年、上等中学3年)は「学制」にありましたが、その制度、内容を具体的に初めて規定したのは1881(明治14)年7月に公布された「中学校教則大綱」で、修業年限は初等中学科4年と高等中学科2年の合わせて6年としました。また小学校については同年5月の「小学校教則大綱」で初等科3年、中等科3年、高等科2年と分け直し、中学入学資格は小学校の中等科卒業(現在の小学校6年卒相当)以上の者を入学させる制度としました。この制度変更にともなって、中学卒業後進学する大学予備門の募集基準も変更されたので府中学校の変則科は応募者が無くなり、1881(明治14)年11月に廃止されてしまいます。また、府は翌年2月に正則科も廃止して初等科4年と高等科2年とし、学年は8月21日に始まるとしました。このとき中学入学資格を小学校中等科卒(標準で満12歳)以上としています。ちなみに中学校が安定していわゆる旧制の尋常中学5年になるのは、もう少し後の1886(明治19)年の「中学令」以後のことです。
米次郎が入学したのはこんな制度の不安定な時代でした。米次郎は『東京府中学校学級試験得点表』から考えると、4年制の初等科に入学したと思われます。この頃の東京の市内交通機関として、まだ路面電車は無く(東京で路面電車が走るのは1900(明治33)年10月のことです)、1872(明治15)年10月に浅草・新橋間で馬車鉄道が開通しますが、あまり人気はなかったようです。米次郎は徒歩で府中学校まで通っていたと思われますが、浅草から通うのは今の基準で考えるとかなり大変です。
この頃の雰囲気は1879(明治12)年に府中学に入学した夏目金之助(漱石)(1867(慶応3年1月)―1916)の回想記で知ることができます。
学校の名もよくは覚えて居ないが、今の高等商業の横辺りに在って、僕の入った
のは十二三の頃か知ら。何でも今の中学生などより余程ちいさかったような気が
する。学校は正則と変則とに別れて居て、正則の方は一般の普通学をやり、変則
の方では英語を重にやった。
― 中略 ―
で大学予備門へ入るには変則の方だと英語を余計やって居たから容易に入れたけ
れど、正則の方では英語をやらなかったから卒業して後更に英語を勉強しなけれ
ば予備門へは入れなかったのである。面白くもないし、二、三年で僕は此中学を
止めて了って・・・
(『中学文芸』臨時増刊、1906年6月。『日比谷高校百年史 上巻』p. 15に再録)
とあります。夏目は米次郎より1歳年長ですが、数え13歳で府中学に入学し、1881(明治14)年、15歳のとき中途退学しています。そして1884年東京大学予備門に入学し、予備門の後身である第一高等中学(後の第一高等学校)を1890年に卒業して東京帝国大学に進学します。
1881(明治14)年入学、1885年卒の岡田哲蔵は
私は明治14年の暮に青山小学校を卒業して東京府中学校に入学した。それは内幸
町の東京府庁の構内にあって当時府下唯一の中学校であったが入学には何等の競
争も無く困難も無かった。
(『日比谷高校百年史 上巻』p. 37)
と述べています。臨時講義には帝大(今の東京大)から菊池大麓が来て物理実験をしたり、外山正一が来て倫理学を教えたそうです。ちなみにこの二人は後に帝大の総長になった人です。また1884(明治17)年卒の志田ナ太郎は次のように述べています。
では同級生の話でもしよう。立身出世の方々には横山大観、各務謙吉、尾崎紅葉
氏等である。
それで当時の正則な中学は予備門入学に不適であった為大抵予備校で一年位学
んだものである。自分も東京英語学校で大観氏と勉強したが氏は一年落ちた為断
然あきらめて美術界に入られたのだ。然し不思議な事に氏は初めから絵で立つ気
は毛頭なかったらしい。一寸とした動機で柄にもなく美術界に入ったのだ。そし
て今日の大成を見てゐるのは自分から見て全く不思議だ。
(『日比谷高校百年史 上巻』p. 20)
という具合ですし、尾崎紅葉(1868(慶応3年12月)―1903)は1879年数え13歳で府立第二中学に入学していますが中途退学をしたそうです。
「学制」が想定していた中学から大学に繋がるところは未整備だったようです。府中学はその後、志願者の増加に対応するため、1887(明治20)年に京橋区築地、1899(明治32)年には麹町区西日比谷の現在の位置に移転します。
米次郎はこの中学から転校し築地の共立学校に英語を習いに行ったそうです。(鈴木錦一郎『東洋音楽学校報国団団報』13号 p. 20。『東京音楽大学65年史』p. 14)。彼は外人に接し英語を学ぶ必要があると強く感じたようです。府中学校には1880(明治16)年6月まで在学記録があるので、転校はこの少し後でしょう。この転校は父小重郎重教が1983(明治16)年12月に家督を兄錦一郎に譲ったこと(武石みどり監修『音楽教育の礎』p. 10)がからんでいるかもしれません。米次郎は後にこの時期のことを
築地の方にある学校に通ふのに毎日何里もの道を歩いて往復した。このとき身体
を芯から鍛えたため、小柄な身体には似合わず強靭になった。
(『音楽世界』1941年2月号 p. 91)
と教え子の伊藤義雄に語っています。
この築地の共立中学というのは見つかりません。当時築地には外国人居留区があり外国人宣
教師の作った学校があり、その中には後の立教大学など有名なものも多数ありますが、共立学校
と関連のあるものはないようです。当時共立学校の名がついているのは、神田淡路町にあったも
ので、これは現在の開成学園につながります。これは大学予備門に入るための予備校のようなも
のですが、住所がまったく符合しません。その他に府中学が東京府尋常中学と改称し1887年
6月に築地の新校舎に移ったとき、入学希望者が多かったため急遽補充中学を作りました。こ
の補充中学はその後尋常中学から分離して1891年共立中学と改称し、更に1894年には東京府
城北中学校と改称、1901年に府立第四中学となり現在の都立戸山高校となります。これも残念
ながら米次郎が転校した時期には存在していないので関連付けるのは無理があります。明治10
年代から明治26年までで東京府内の公立中学校は府中学の1校のみで私立中が出来るのは1889
(明治22)年からですから、米次郎の通った共立学校は私塾のようなものだったと思われます。
明治初期に有名だった英学塾としては、両国の共立学舎がありますが、明治中期の活動ははっき
りしない点があり、通学距離も府中学よりずっと短く築地と間違えるとは思えません。この辺の
ことを知るには音楽取調掛(現東京芸大)に提出されているであろう履歴書を調べることですが、
残念ながら個人情報ということで開示されません。歴史的な人物についての資料を非開示にする
というのは、歴史研究をあきらめろというのと同じで、理解に苦しむ措置です。
ここで当時の音楽教育を見てみましょう。学制発布のときは小学校については
唱歌当分之ヲ欠ク
という状態だし、また中学校に関しては
奏楽当分欠ク
ということでした。1877(明治10)年11月、東京女子師範学校(現在のお茶ノ水大)で唱歌教育を行うため、式部寮雅楽課に唱歌教材の作成を依頼、これにより『保育唱歌』ができたのが唱歌教育の初めです。ちなみにこのとき作られた『保育唱歌』は芴拍子を打ちながら朗詠と同じように歌う方式で、邦楽の律旋法なので日本人には自然なのでしょう。うまくいったと後年米次郎は述べています(『学校音楽』1936年12月号p. 17)。その一部は『伶人たちの唱歌〜保育唱歌』というCD(ビクターエンタテインメントから出ている『原典による近代唱歌集成―誕生・変遷・伝播―』のシリーズの1枚)になっており、それを聞くと何ともいわれぬのどかな気分になります。
日本の西洋音楽の教育は1880(明治13)年アメリカから文部省お雇い教師として招聘されたメーソン(Luther Whiting Mason、1818.4−1897.7)が4月より東京師範学校と東京女子師範学校で行った唱歌教育が始まりです。東京師範付属小でもメーソンによる唱歌の教育が4月から試みられています。メーソンは翌年4月から学習院でも教え始めます。
また1881(明治14)年の「中学校教則大綱」でも
初等中学科ハ修身和漢文英語算術代数幾何地理歴史生理動物植物物理化学経済記
簿習字図画及唱歌体操トス
但英語ハ之ヲ欠キ又ハ仏語若クハ独語ヲ以テ之ニ換フルコトヲ得且唱歌ハ教授法
等ノ整フヲ待テ之ヲ設クヘシ
とありますし、1886(明治19)年6月に出た「尋常中学校ノ学科及其程度」でも
唱歌ハ当分之ヲ欠クモ妨ケナシ
という状態でした。1883(明治16)年7月の「東京府中学校規則」の唱歌の項を見ると
唱歌ノ要ハ専心情ヲ感発シ以テ脩身ニ資スルニ在リ故ニ各級ニ通シテ之ヲ課ス乃
チ先ツ単音唱歌ヲ授ケテ複音唱歌ニ及ホシ次ニ主トシテ諸重音唱歌ヲ授クヘシ凡
唱歌ハ音律を正シクシ声調ヲ和スルヲ旨トスル者ナレハ楽器ハ風琴筝胡弓等ノ如
キ音調純正ノ者ヲ用イ歌詞ハ趣味高雅優美ニシテ道徳上ニ裨益アル者ヲ撰ハン事
ヲ要ス
(『日比谷高校百年史』上巻p. 31)
とありなかなか立派ですが、これはあくまで作文で、実施することはできなかったと思われます。府中学に初めての音楽教師石田清輔が着任するのは1888(明治21)年のことです。米次郎が小学校や中学校で唱歌を習うことはありませんでした。実際、米次郎自身も音楽学校入学当時の事情を
私は違った方面から入りましたから全く学校に入ってから音楽を学んだのであり
ます。
(『教育音楽』1940年1月号p. 107。『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第一巻』
p. 258に再録)
とはっきり述べています。
1885(明治18)年9月、米次郎は数え18歳で音楽取調所(後の東京芸大)に入学します。動機は次男坊であったので、新時代にふさわしい新しい技能を学ぶためと伝えられています。堀内敬三によると、明治初期の音楽事情を米次郎は次のように述べています。
陸軍軍楽隊はダクロンの意見による四十二人の編成を定員としたが、明治六・七・
八年頃は人員が足りなくて駿河・三河等の旧幕臣の次男三男を勧めて入らせたり
〔鈴木米次郎氏談〕教導団の歩兵志願者の内から採用したりして四十余名を維持
した。
(堀内敬三『音楽五十年史』p. 21)
こんなことも米次郎が音楽を選ぶ動機になったのかも知れません。
もともと音楽取調所は、文部省に命じられて高嶺秀夫、神津専三郎と共にアメリカの教育事情を視察してきた伊沢修二(1851−1917)らが、当時の日本で音楽教育が行われていないのを憂えて1879(明治12)年3月に音楽伝習所を作ることを文部省に提案し、その結果同年10月、省内に「音楽取調掛」として設置されたもので、伊沢修二が初代の御用掛に着きます。高嶺秀夫は帰国後、東京高等師範の校長になり、ペスタロッチの教育法を日本に導入します。伊沢は音楽取調掛の目標を
第一項 東西二洋ノ音楽ヲ折衷シテ新曲ヲ作ル事
第二項 将来国楽ヲ興スベキ人物ヲ養成スル事
第三項 諸学校ニ音楽ヲ実施スル事
としました(伊沢修二「音楽取調ニ付見込書」1879年10月30日付寺島宗則文部卿宛文書)。つまり西洋音楽をそのまま輸入するのではなく、日本の風土に適した形にしようとしたのです。明治13年3月に現在の東大本郷キャンパスの法文系1号館の位置にあった建物を改築して庁舎として、10月に男子9名、女子13名、計22名の新伝習生が入学します。当時の入学風景を東京音楽学校1906(明治39)年卒の澤田柳吉は次のように先輩から聞いたそうです。
それで伊沢先生当時は『御金出すさかい、わて処の生徒になって貰へまへんやろ
かい』て調子で生徒を探し廻はったものだそうですが、尤も其の時代は、詩をつ
くるより田を作れなど云ふ事が私達の父親達の間で盛んに話されてゐた時分でも
ありましたから、全く伊沢先生其他先輩当局者の骨折りも随分であったことは想
像するのに難くない事でもあり、また従って試験問題のごときも(ド)の音をピ
アノで出してこれと同じ声を出してみろと言はれて、受験者が(ド)の音を出し
てそれにピッタリ調子でも合はうものなら、忽ち天才又半音位の違ひならターレ
ント勿論及第、三四音違った処で全然棄てた者に非ず仮入学許可す言ふ具合に、
ドシドシ片づけて仕舞ったものだそうです。
(『音楽時代』第1巻第3号、1928年8月。松本善三『提琴有情』p. 36に再録)
音楽取調掛は1885(明治18)年に名称を「音楽取調所」と変えて、建物も本郷から上野の公園の科学博物館の位置に移動しています。明治の『五千分の一東京図』に外国教師館と記されている所です。その後もう一度引っ越して、現在の東京芸大の位置に落ち着くのは1890(明治23)年のことです。

図4 東京音楽学校卒業記念写真(1888年7月撮影)。前列左より遠山キネ、幸田延、Guillaume Sauvlet、
伊沢修二校長、木村サク、森トミ、中列左から神津専三郎、納所弁二郎、上真行、瓜生繁子、岩城寛、鈴木
米次郎、小林錠之助、後列左から2人目小山作之助、3人目鳥居忱。(『東京芸術大学百年史 東京音楽学校
篇 第一巻』p. 13より)
ここで彼は伊沢修二やソーブレ(Gillaume Sauvlet、1843年生、没年不明、オランダ、1886年4月から1888年7月の間音楽取調所教官)に習います。
島田種輝によると、
私はそのとき、校長は何科で音楽学校を出られたのですか、と聞くとバイオリン
科だというのです。バイオリンはどこまでやりましたか、と聞くと、ホーマンの
二巻だ、と答えたものです。
(『東京音楽大学65年史』p. 40)
ホーマン(Christian Heinrich Hohmann、1811.3−1861.5)の教科書とは “Praktische Violinschule” でしょうか。技術的にはごく初歩的なものでした。
音楽取調掛は短い期間「音楽取調所」と改称しますが、すぐ元の音楽取調掛に戻し、1887(明治20)年10月には文部省直轄の「東京音楽学校」と名称を変えます。米次郎はこの音楽学校となってからの最初の全科修了生として1888(明治21)年7月に卒業します。 同じときに卒業したのは岩城寛(後に愛知県尋常師範学校教員、宮城県尋常中学校(現在の仙台一高)の校歌の作曲などをした)、小林錠之助(後に神奈川県尋常師範学校教員)と鈴木米次郎の3人でした。米次郎自身は東京音楽学校第3回の免状を貰ったと言っていますが、これは音楽取調掛が開学してから1885(明治18)年7月に最初の全科卒業生、幸田延(ノブ)、遠山甲子(キネ)、市川道(ミチ)の3人、1887(明治20)年2月に第2回目の卒業生、小山作之助や納所(のうしょ)弁次郎など14名が出ているのでその第3回目に当たると考えたのでしょう。図4 はそのときの卒業記念写真です。
米次郎は卒業後ただちに研究生を命じられます。「東京唱歌会」という会を作り、小学校の先生(訓導)に唱歌を教えていた鳥居忱(まこと)(1853−1917.5)に頼まれて、まだ学生だった山田源一郎(1870−1927.5、後に「女子音楽学校」を創設)とともに千葉県埴生郡成田の教育会で1週間『小学唱歌集』を指導します。この『小学唱歌集』は1881(明治14)年から1884年にかけて音楽取調掛が編集し、文部省が発行したものです。米次郎と山田が選ばれた理由はバイオリンを良くし、楽器が携帯に便利だったためだそうです。この頃現地の学校にはオルガンも無く、自分らで楽器を用意して行かなければならなかったからです。
当時は汽車も無く、朝8時頃両国橋を馬車で出発、船橋で昼食し、馬車を乗り換えて佐倉を通り3時頃成田に着くという大変な旅だったそうです。歓迎会では酒をすすめられて酒の飲めない米次郎は閉口したようです。生徒のレベルも低く、なかなか苦労したと本人が語っています(『学校音楽』1936年12月号p. 9.『教育音楽』1964年11月号p. 70に再録)。
この講習会から帰るとすぐ8月には横浜にある神奈川県尋常師範学校(現在の横浜国立大)に行けと伊沢校長に命じられます。米次郎は東京を離れたくないので渋りますが、既に取り決められているということなので奉職することになりました。横浜には音楽学校で習ったソーブレー先生も居られたのであきらめたようです。
ここで彼は英語と音楽を教えることになります。幸いなことに時間は比較的自由にあけることができたので、メルボルンから1889(明治22)年に来日したばかりのパットン夫人(Emily Sophia Patton、1831.5−1912)に師事して、英会話と当時としてはモダンなトニック・ソルファ唱歌法とを学び、また西洋のマナーや社交ダンスも習います。
トニック・ソルファ法というのは音程をドレミ・・・の順で教えるのではなく、まずドソミの主音程、次にそれを5度移調するという具合にして練習し、オクターブの音程を習得する方法です。また音の高低は手の形(ハンド・サイン)で表します(図5参照)。英国などで盛んに使われていました。
社交ダンスを習ったことも後で大いに役立ちます。これらはその後の手指模範唱法、唱歌遊戯を経て現代のリズム教育につながるといわれています。パットン夫人は、この後1894(明治27)年、東京音楽学校に雇われますが、音楽学校ではトニック・ソルファ法は受け入れられず、彼女の雇用は長続きしませんでした。

図5 ハンド・サイン。
そんな中、1889(明治22)年1月頃、憲法発布の式典に備え、神田区一ツ橋(現在の一ツ橋2丁目)の体育練習場跡の高等師範学校付属高等女学校の講堂に各学校の体操と音楽の教師が集まり、万歳三唱を戸山正一(まさかず)帝国大学教授(1848−1900.3、1881年東京大学文学部長、1897年第二代東大総長、後に伊藤内閣の文部大臣、新体詩を提唱)の発声で練習しました。これが万歳三唱の始まりだそうです(『学校音楽』1936年12月号p. 9.『教育音楽』1964年11月号p. 70に再録)。ちなみに大日本帝国憲法は1889(明治22)年2月11日に発布されます。この日、文部大臣森有礼(ありのり)が憲法発布の席に出る準備をしていたところを暴漢に襲われ翌日死亡します。森は当時の学制の整備の中心的牽引者でした。
また同年9月には東京音楽学校時代の恩師上真行(まさみち)の校閲を受け、『音楽理論百ヶ条』という訳書を刊行します。これは米次郎の著作第1号で、この後沢山の教科書を書く糸口になったものです。当時の新聞の広告には
本書ハ音楽ヲ学ブモノノ知ラデ叶ハヌ理論一百条ヲ最モ簡易□切ニ論
述シ且ツ傍ラ唱歌教授ノ要法ニ論及シタル近年稀有ノ好著訳ナリ請フ
一本ヲ購読シテ音楽ノ理法ト唱歌ノ教法トニ兼通シタマヒ
(『東京日日新聞』1889年10月3日)
とあります(□印は不明文字)。
米次郎は横浜の尋常師範学校を辞し、1889(明治22)年12月には第一高等中学校(この年3月本郷区向岡弥生町の新校舎に移転)の嘱託になり、音楽と英語の講師を務めます(鈴木履歴書1)。
米次郎は第1高等中学で授業をしたのは、小出浩一の聞き書き(『学校音楽』1936年12月、ほ
ぼ同じ内容が『教育音楽』1964年11月号、12月号に再録)では1890年7月と言っています
が、憲法発布の年も1年遅く間違えているので勘違いです。
この高等中学校とは尋常中学の後に続くもので,後に(旧制の)高等学校と名称を変えます。1886(明治19)年に今までの「中学教則大綱」を改め、「中学令」が公布されました。ここで中学校は卒業後実社会に出る中堅層のための尋常中学(修学5年)と、その上級に大学進学を希望する者に予備教育をするための高等中学(本科2年、実際は学力が不足するのでその準備として予科3年が加わりました。『日比谷高校百年史』p. 51)に編成し直されます。高等中学は全国に5校設置され、東京大学予備門を改組した第一高等中学はその内のひとつです。他に仙台、京都、金沢、熊本に設置されました。これらは初めは文部大臣の管理下に置かれましたが、1889(明治22)年には全額国庫負担の官立となりました。「学制」で設計されたものがようやく形となったわけです。このとき今までの初等中学4年は尋常中学5年となります。
ここで米次郎は府中学時代の友人に教師と生徒という形で再会します。
それから今度は第一高等学校(ママ)へ行けといふことになりました。第一高等学
校では今まで教師がゐたがどうも旨く行かないからやって見てくれ、といふので
行ってみると生徒の内には自分の友達もゐる。私は早くから音楽学校へ入ったが、
外の連中は色々予備をしてゐて、第一高等学校へ入ったから大概未だ生徒でした。
だから学校へ行ってゐる間は先生だけれども、家へ帰れば友達だから大いに都合
が好かった。
(『学校音楽』1936年12月号p. 9. 『教育音楽』1964年11月号p.70に再録)
という状態になった訳で非常に楽しかったようです。このとき前述の『小学唱歌集』3冊と1887(明治20)年発行の『幼稚園唱歌集』の4冊を教材にしますが、生徒が馬鹿にしてうるさいので内緒で国歌、民謡などを原語で教えたところ、生徒が興味を持ち出し、結果としてはとてもうまくいったと述べています。ここではトニック・ソルファ法を実践したのではないでしょうか。1890(明治23)年にトニック・ソルファ音楽学校より「音楽理論唱歌受検証書」を貰っていますし、また1897(明治30)年には『新式唱歌 ― 一名トニック・ソルファ唱歌集』という著書を出版し、その普及に力を注いでいます。
東京音楽学校は官立学校として発足して間もなくの1891(明治24)年に存立の危機にさらされます。帝国議会の予算委員会で、東京音楽学校など官立学校の一部を経費削減のため廃止せよという議論があがりました。これは世間に大変な議論を引き起こしました。折角これまで、諸外国から近代国家として認知してもらうため、国策として教育を重視し努力してきたのに、これを無にすると考えられたためです。特に東京音楽学校は深刻でした。当時はまだ江戸時代からの考えを引きずって、音楽は必要不可欠なものではないと考える人も沢山居たからです。勿論多数の良識ある人々は反対の論陣を張りました。米次郎も音楽家としての廃止反対の論を「東京新報」に発表しています。少々堅苦しい文ですが、米次郎の当時の考えを知ることができるので、一部を以下に示します。
琵琶の亡国の音なるは先儒既に論する所なり鄭衛の声淫なるも亦先哲の説かれた
る所なり世に亡国の音を教へ鄭衛の声を盛にするの音楽学校あらんか余輩は第一
に之が廃止を唱へんとするものなり之に反して日本男児の勇気を鼓し心胆を宇内
に卓立し金甌無欠の国体を万世に伝へ古来曽て外侮を受けざる国威を愈々内外に
発揚せんとするが如き歌曲を以て我次代の国民を養成せんとする音楽学校あらん
か余輩は第一に之が維持拡張を主唱せざるべからず論者試に左の数歌を吟唱せら
れよ是はこれ東京音楽学校にて編成せられたる歌曲に係るものなり
(『東京新報』 1891年1月19日)
として、米次郎が好もしいと考えた歌を数曲例示しています。ここで鄭衛の声とは中国春秋時代の国の鄭や衛の音楽がみだらだったことから,みだらな音楽を指し、金甌無欠とは完璧という意味です。要旨は音楽には低俗な音楽と日本男児の勇気を鼓舞し国威を発揚させる良い音楽があり、東京音楽学校はその良い音楽を普及させるためには欠くことができない、というものです。幸いなことにこのときは音楽学校は廃止には至らずに決着しました。この音楽学校存廃論争の詳しい経過は『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇、第一巻』で知ることができます。しかし騒ぎはこれで完全に終りになった訳ではなく、後で述べるように1893(明治26)年9月に音楽学校は高等師範学校の付属学校となることになります。
1891(明治24)年7月に米次郎は元日や紀元節などの祝祭日の式典に小学校(中学校でも?)で歌う唱歌の作曲を依頼されますが、残念ながら最終的には採用されませんでした(『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第一巻』p. 504)。
米次郎は1891(明治24)年10月、高等師範学校(後の筑波大学)付属学校の音楽の授業嘱託となります。俸給は月額25円でした(『鈴木履歴書1』)。ちなみにこの俸給の額は当時の水準でどの程度のものだったのでしょうか。例えば、当時東京音楽学校嘱託教授で週3回勤務の瓜生繁子の報酬は月額35円でした。彼女は他に本務の高等女学校教授があり、年俸の合計は660円となり、女性としては日本一の高給取りでした(生田澄江『舞踏への勧誘』p. 157)。もっとも瓜生繁子は旧姓は永井といい、岩倉遣欧使節団に同行して渡米した、日本最初の女子留学生の一人だった人ですから、別格かもしれません。
米次郎は1893(明治26)年には音楽学校の授業嘱託にもなります。授業嘱託というのは現代の語感からは臨時雇いという感じがしますが、定職と考えて良いもののようです。
高等師範学校の当時の校長(今でいう学長)は高嶺秀夫でした。高嶺は前に述べたように伊沢と一緒に文部省から派遣されてアメリカの教育事情を視察した人です。元々は会津藩出身の人で、幕末には藩主松平容保(かたもり)の近習を務めました。夫人の(旧姓中村)専(セン)は音楽取調掛の第1回伝習生で、その後メーソンの通訳の仕事をしていた語学の達者な人です。赴任すると高嶺校長は米次郎に付属学校へ行けと命じます。当時高等師範学校では音楽は随意科目だったのですが付属学校では正科目だったためです。

表1 高等師範学校付属小学校の教授細目(1892年7月)。(『東京教育大学付属小学校教育百年史』 p. 467)
多くは『幼稚園唱歌集』(文部省音楽取調掛編、1887)、『小学唱歌集』全3編(文部省音楽
取調掛編、1881−1884)から選ばれている。詳しくは付録を参照。
米次郎は小学3年生から教えることになります。小学校としては日本人で初めての音楽専科の教師になったわけです。ここで米次郎は五線譜で教えたと述べています(『学校音楽』1936年12月号p. 9。 『教育音楽』1964年11月号p. 70に再録)。付属小・中とも校舎は1890(明治23)年4月にお茶ノ水の昌平黌跡から神田一ツ橋通町2番地の東京高等女学校の跡地に移転していたので、勤務地は一ツ橋になります。米次郎の自宅浅草七軒町から徒歩で通勤したと思われます。
米次郎の着任した年の11月に「小学校教則大綱」が公布されます。その唱歌科目の内容は
「尋常小学校ノ教科ニ唱歌ヲ加フルトキハ通常譜表ヲ用ヒスシテ容易キ単音ヲ授
クヘシ」
「高等小学校ニ於テハ初メハ前項ニ準シ漸ク譜表ヲ用ヒテ複音唱歌ヲ授クヘシ」
となっています。これに対応して翌年7月に尋常小学1年(現行の小学1年対応)から高等小学2年(現行の小学6年対応)までの「教授細目」(カリキュラム)が附属小学科から発表されます。音楽のカリキュラムについては、詳しくは表1を参照してください。音楽の専門家である米次郎が中心となり編成したと思われます。1年生には『蝶々』、『君が代』、『紀元節』、4年生には『霞か雲か』などが入っています。また『進め進め』は今の『舌切雀』[雀々お宿はどこだ]と同じ曲で、『見渡せば』は現行の『結んで開いて、手を打って』、『菊』は同じ歌詞で現在は『庭の千草』として知られています。詳しくは付録を参照してください。
さて高等師範付属学校が整備されて付属中学が出来るのは1988(明治21)年9月ですが、ここで少しその生い立ちの様子を見てみましょう。明治初期の学制の変化がいかに激しかったかが良く分かります。あわせて、米次郎の教え子たちの年代特定を試みます。
付属学校の親にあたる「師範学校」(筑波大の前身)は1872年(明治5年5月)に神田宮本町の昌平黌跡に開設されます。初代の校長は文部官僚の諸葛信澄でした。「学制」発布の直前で、直後の8月に学制が発布されたことは前に述べました。師範学校は小学中学の教師を養成するための教育をするのが目的ですから、そのための実践と効果を測るために、1873(明治6)年1月に「師範学校付属小学校」を師範学校の敷地内に開設、4月より授業を開始します。初め下等小学の課程(満6歳から4年間)、5月になると上等小学の課程(満10歳から4年間)を増設します。「師範学校」は同じ年8月に「東京師範学校」と改称されます。これは他の都市にも官立の師範学校を作ったため、それらと区別するためです。
次いで1874(明治7)年3月に「東京女子師範学校」(後のお茶ノ水大)を隣接する敷地に開設し、翌年11月に開校します。この東京女子師範学校には「付属幼稚園」、「付属女児小学」が併設され、日本ではここで始めて唱歌教育を行ったことは前に触れた通りです。更に東京女子師範学校は1882(明治15)年「付属高等女学校」を本郷区湯島に開設します。これは日本最初の高等女学校となります。着々と制度が整備されていくことが感じられます。
この段階では男子生徒のための付属中学校はまだ開設されていません。1883(明治16)年になると東京師範学校および付属学校で音楽が正課となりますが、勿論正規の専門教育を受けた音楽教師はまだ居りません。1885(明治18)年8月には東京師範学校は東京女子師範学校を合併し、幼稚園、女児小学、高等女学校を付属学校とします。しかし男子と女子が同じ所で学ぶのはまずいという声が上がり、付属高等女学校は1886(明治19)年2月文部省直轄となってしまいます。
1886(明治19)年に「小学令」と「中学令」が出され、それまで小学校を初等・中等・高等の3科に分けていた(「改定小学校教則綱領」、1882年3月)のを改定し、四四制が施行されます。これは小学校8年のうち前半の尋常科4年を義務教育とし、後半の高等科は中学進学の場合は2年、中学に行かず実社会に出る場合は4年で修了とするものです(「尋常中学校ノ学科及其程度」、1886年6月)。義務教育の始まりです。この時中学の修学期間が尋常5年となったことは前に述べました。また同年の「師範学校令」により、東京師範学校は「高等師範学校」と名前を変えます。これは小学校の教員の養成を府県の設置した「尋常師範学校」にまかせ、高等師範はもっぱら中学校教諭を養成することにしたためです。このとき高等師範付属小学校では尋常小学科(修業4年)と高等小学科(修業4年)の2科に分け、1年1学級の編成をしますが、児童の学力差が大きかったので級をやめて、男児・女児別に組編成をすることにし、1の組から9の組までに分けました(『東京教育大学 教育百年史』p. 27)。
1888(明治21)年9月に高等師範学校付属小学校は尋常小学科4年の義務教育部分と高等小学科2年、尋常中学科6年に改定され、まとめて「付属学校」と改称します。高等師範学校「付属中学校」の始まりです。
しかしこの6年制は上記の「中学令」の修学5年と調和しません。この辺の事情について当時の附属校園主任だった岡五郎(現在の副校長)の談話があります。
私はその時(明治二十年)山川校長から「附属校園は全国学校の模範たるべきも
のである。これを改革する為に努力せよ。その変革を喜ばないものには退学を命
じてもよい。また授業料を増額してその負担に堪えないものは退学させてもよい」
という厳命を受けた(当時の授業料は五十銭であった)。その頃生徒は六百数十名
であったが、授業料の値上げをしても殆ど全部の者が在学を望む有様であったか
ら、資金が沢山出来たので良い教師を招聘して大いに校風を振起した。而も山川
校長は軍人だから規律が厳しかったので、学校は整然として良くなった。その頃、
高等中学校に入る者の多くは予備として私立の中学校に入らねばならなかった
から、「是非中学校を設けなければならぬ」と思って、校長に相談すると、校長は
「高等師範学校は中学校・師範学校の教師を養成する所だから、附属の中学校
及び師範がなくては真の研究は出来ぬ。」といって、校庭の隅に校舎を建てゝ尋常
中学校を置くこととした。その上、此の中学を六年とし、無試験で高等中学校に
入り得るやう、第一高等中学校長木下広次氏と相談し、一面文部省に此の意見を
提出したところ、大分議論があったが、山川将軍が校長であり、文部大臣は森さ
ん(有礼)であったから、「誠にこれを建設すべし」と決裁された。それは明治二
十一年のことであった。
(『創立六十年史 東京文理科大学・東京高等師範学校』p. 271。『創立百年史 筑波
大学付属中学校・高等学校』p. 12に再録)
この話はサンケイ新聞(1963年1月)にも紹介されています。山川校長とは第4代高嶺秀夫校長を引き継いで1886(明治19)年3月から1891(明治24年)8月の間、第5代東京師範学校の校長を勤めた山川(大蔵改め)浩です。山川は会津戊辰戦争のとき、会津藩の若年寄りとして勇名を轟かせた人で、明治維新後、会津藩が移封されて下北半島に斗南(となみ)藩が設置されたとき、斗南藩権(ごん)大参事として廃藩した会津の後始末や旧藩主松平容保(かたもり)の面倒を見ました。廃藩置県で藩として仕事がなくなると東京に住みつき、戊辰戦争のときの敵将、谷干城(たてき)に拾われて陸軍省に出仕し、西南の役で功を挙げます。校長就任時は大佐でしたが、直後の12月に陸軍少将に昇進し、1990(明治23)年9月に貴族院議員となった将軍です。女子高等師範学校で舎監をしていた山川二葉や東大総長となった山川健次郎、鹿鳴館の華と言われた大山巌夫人(咲子改め)捨松は実の姉弟と妹です。前にも述べたように、高嶺も会津戊辰戦争のとき藩主松平容保の近習を勤めており、山川はその上役にあたります。高嶺は山川の病気辞任の後再び校長になります。岡の談話に出てくる木下が第一高等中学の校長になるのは正確には明治22年5月のことなので、明治21年にはまだ教頭だったと思われます(http;//www6.ocn.ne.jp/~kohryoh/home.html, 『嗚呼玉杯に花うけて 第一高等学校八十年史』 p. 271)。
ちょっと脱線しますが、捨松は1872(明治4)年の岩倉遣欧使節団に同行する女子留学生としてわずか数え12歳で選ばれ、数え8歳の津田梅子や数え11歳の永井繁子らとともに総勢5人でアメリカに渡り、見事ヴァッサー・カレッジ(Vassar College)を卒業して、日本人女性として初めて大学卒の資格をとった当時最高のインテリ女性です。帰国後、戊辰戦争の敵将大山巌に強く請われて後妻に入るという数奇な運命をたどりました。また永井繁子はヴァッサー・カレッジで音楽を学び、帰国してすぐ海軍士官瓜生外吉と結婚し、東京音楽学校でピアノを教えることとなる瓜生繁子です。森はこのとき駐米公使として、遣欧使節の対応をする傍ら、女子留学生の監督、面倒を見ていました。ちなみに女子留学生へは北海道開拓使から旅費、学費、生活費の他、年間800ドルの奨学金が支給されたそうです(生田澄江『舞踏への勧誘』 p. 24)。当時としては大変な金額だったと思われます。
当時の森文部大臣は師範学校を視察したとき、規律が乱れているのに驚き、軍隊式の規律を確立するために陸軍省と交渉し、山川を無理やり現役のまま陸軍から師範学校の校長に招聘したのですから、山川の要請を聞かないわけにはいかなかったのです(鈴木博夫『東京教育大学百年史』pp. 89−100)。付属中学の授業料は1888(明治21)年9月の改正で月額2円、一挙4倍としています(『創立百年史 筑波大学付属中学校・高等学校』p. 29)。ちなみに府尋常中学の授業料は1883(明治16)年から月額1円、1890(明治23)年に改定されて1円50銭でした(『日比谷高校百年史 上』p. 737)。
当時の高等中学校は前にも触れたように、予科3年、本科2年の計5年かかるのが普通で、大学を卒業するまでに標準で数え27歳になってしまいます。いくらなんでもこれでは長すぎる上、教科の内容が尋常中学の課程と重複が多いというので、当時の府尋常中の校長勝浦鞆雄などは、尋常中学から高等中学の本科に入学させ、予科は廃止すべきであるという主張を持っていました。
このようなことから、附属小学校高等科3年生(現在の中学1年生相当)と高等科4年生はそれぞれ附属学校尋常中学科1年と2年に編入されました。また明治22年には高等小学科を修業4年に延ばし、男子生徒は高等小学科修業2年の後尋常中学科に編入するように標準化しています。この変更で付属小学校については「小学令」の規定と同じになりました。
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卒業生 |
1回 卒 |
2回卒 |
3回卒 |
4回卒 |
5回卒 |
6回卒 |
7回卒 |
鈴木関連事項 |
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1888年 |
1 |
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1889年 |
2 |
1 |
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1890年 |
3 |
2 |
1 |
1 |
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1891年 |
5 |
4 |
3 |
2 |
1 |
1 |
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10月附属学校嘱託 |
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1892年 |
6 |
5 |
4 |
3 |
2 |
2 1 |
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1893年 |
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6 |
5 |
4 |
3 |
3 2 |
1 |
12月附属音楽学校嘱託 |
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1894年 |
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6 |
5 |
4 |
4 3 |
2 |
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1895年 |
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6 |
5 |
5 4 |
3 |
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1896年 |
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6 |
6 5 |
4 |
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1897年 |
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5 |
4月高等師範助教授 |
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卒業年月 |
93.3 |
94.3 |
95.3 |
96.3 |
96.6 |
97.3 |
98.3 |
|
|
卒業生数 |
8 |
14 |
14 |
16 |
10 |
36 |
24 |
|
表2 高等師範附属中学校の学年進行。卒業生の数は『東京高等師範学校 附属中学校一覧 自明治三十九
年四月 至明治四十年三月』東京高等師範学校附属中学校編(1906年6月)pp. 76−95 に依った。この数
は卒業生名簿である『桐陰会名簿』の数と若干のずれがある。「桐陰会」には卒業生でなくても入会できた
ので、そのためと思われる。第5回の卒業生は変則的に6月に卒業している。
付属中学校の記録を見ると、実際の運用では最初の生徒は1888(明治21)年に中学に進級
し1890(明治23)年4月現在3年生ですがその後1年飛び級して1893年3月卒、2回目の生
徒は1889年4月中学進級、3年生の分は全員飛び級で1894年卒、3回目は1890年中学進級、
2年生を飛び級し1895年卒ですから、ここまで全部在学5年で卒業しています。4回卒は3回
卒生と同じ1890年進級、在学6年で1896年3月卒です。この学年は3回目の入学生徒のうち
飛び級しなかった生徒とも考えられなくはないですが、それにしては数が多すぎますので、6年
制の生徒として入学したのではないでしょうか。5回卒は1891年進級、5年3ヶ月在学で1896
年6月卒、6回卒生は1891年進級組と92年進級組とがあり共に1897年卒ですから、在学5年
と6年が半々です。1893年進学の7回生以降の標準在学は5年だと思われます。これから分か
るように付属中学では4回卒から6回卒の半数の間で実質在学期間6年の生徒が存在するだけ
です。付属中学には1896年1月(『桐陰』は1894年説)に「修学期間を6年から5年に改定
する」という記事がありますが、1892年入学生徒から修業5年が適用されました。付属中学か
ら6年生が卒業して居なくなるのは1897年4月以後のことです。
付属尋常中学の例外的な六年制の様子について、付属中学を1892(明治25)年4月に入学、1897年に卒業した八田嘉明(6回卒)は
それから私共の前の級迄は中学の学制が六年でありましたが、私共の級から五年
になった、それで私共の二年上の級は二十九年(筆者注:明治)に卒業しましたが、
一年上の級は何でもよく覚えませぬが成績に依って分けたと思ひます。半分は私
共より二年上の級と三月遅れ位に卒業して、後の半分は私共と一緒に次の年に卒
業するやうに、其時は大分損得があって、不平もあったやうでした。さうして高
等学校へ参りますにも、六年で卒業した人で成績の好い人は、高等学校に予備科
と云ふのがありましたが、予備科に入らずに一級か二級上の方に入った、私共の
時からは、高等学校の三年制度の一番下に入りましたが、斯う云ふ風に、我々の
卒業する頃が一番さう云ふ風に大学、高等学校、中学の制度が今に近く変った時
であります。
(『桐陰会雑誌』93巻(1930年12月)p. 24)
と証言しています。付属中学の学籍簿で実情を調べてみると、立ち上げの時期の生徒は殆ど飛び級をさせてしまい、在学期間が実質6年の生徒が存在するのは4回卒から6回卒の半数の間だけです。
この様子を表2にまとめました。こうして見ると米次郎の高等師範在任期間は1891(明治24)年10月から1904(明治37)年8月なので、米次郎が少しでも関わった中学生は1893(明治26)年3月の1回卒から1909(明治42)年3月の18回卒までと考えられます。小学生については初め3年から教えたとあるので、小学校入学1889(明治22)年(小学校時代を6年として付属中学9回卒)からですが、後輩田村虎蔵が付属小訓導に着任する1899(明治32年)7月からは、米次郎は小学生を教えるのを免除されて中学生のみになったと推定されるので、この頃も唱歌専科の先生が教えるのは小学3年からだとすると、1903(明治36)年の中学入学生(卒業は1908年3月、17回卒)まででしょう。
米次郎が生徒にどのように受け止められたか生徒の証言を見てみましょう。
神保格(付属中1901年、10回卒)は付属中学の特色について
ほんの一例を言えば、唱歌である。小学校や女学校や地方の師範学校は別とし、
男の中学校で唱歌を正課としていたのはその頃学習院中等科(納所弁次郎先生)
と付属中学ぐらいではなかったかと思う。唱歌といっても私共生徒の頃は主に日
清戦争の軍歌だけであったが時には英語の歌も教わった。受持ちの鈴木米次郎先
生の卓見といってよいのだろう。
(『創立七十年 東京教育大学付属中学・高校沿革略史』p. 59)
と述べています。
香川鉄蔵(付属中1906年、15回卒)は1901(明治34)年に中学1年生になった生徒ですが
最後に書いて本末を誤ったが、諸先生方の感化は流石に大きい。―中略― 鈴木米
次郎先生の唱歌の時間はノンキで、かういふ時とばかり僕らは羽をのばしたが、
是れも後々までものどかな思い出であって、中学時代には優しい先生もゐてほし
い。
(『桐陰会雑誌』108号1938年。『桐陰』p. 48に再録)
と述べています。1903(明治36)年に中学に進級した高畠覚三(1908年、附属中17回卒)は小学校時代の思い出を
この講堂内に、音楽室のコーナーがあり、最初は鈴木米次郎先生、次ぎは田村虎
蔵先生であった。「にわかにどよむ人の声、夜深き夢をさましけり・・・」は、赤
穂義士討入りの丹誠を讃えたもの、「いでゝは耕牧漁塩の法を説き、入りては三百
余種の文を書く・・・」は、佐藤信淵の功績を激賞したものである。高等科に進
んでからは、「ライトリ、ロウ、ライトリ、ロウ」「トインクル、トインクル、リ
トル、スター」「ネバー、テル、エ、ライ、マイボーイ」など英文の唱歌も習った。
校歌はなかった。
(『付属百年の思い出』p. 11)

図6 高等師範学校付属尋常中学科第1回卒業式記念写真(1893年3月撮影)。後列左から3人目は高嶺
秀夫高等師範学校長、最右端が鈴木米次郎、中列左から6人目はシーモール(原綴Seymore?)だろうか。
(『桐陰会雑誌』45号。『桐陰』に再録。)
と述べています。「ライトリ、ロウ(Lightly Row)」の原曲はスペイン民謡でメロディーはわれわれの知っている「蝶々」と同じものです。ちなみにこの日本語の歌詞は、1894(明治7)年、当時愛知県師範学校長だった伊沢修二が同校の国語教師の野村秋足に依頼して出来たものといわれています。
時代が下がって1916(大正5)年、付属中学25回卒の増田幸一は小学校時代について
ここに、右の他教えを受けた先生の名前を書くと、学級担任は五、六年を通じ松
田良蔵先生.教科担任は芦田恵之助(綴り方)、肥後盛熊(同)、後藤胤保(算術)、
田村虎蔵(唱歌)、岡山秀吉(手工)などの諸先生である。
(『付属百年の思い出』p. 30)
と述べており、音楽教育は田村虎蔵に引き継がれています。1915(大正4)年、24回卒の堀内敬三は
私は音楽が好きだったから附属でも合唱なんぞをやっていた。その頃田村虎蔵先
生という音楽教育界の大御所が附属を教えていたので、私達は小学校時代に五線
譜を読まされ、中学校の上級では唱歌は随意科だったが、かなりむずかしい合唱
曲を歌っていた。そのおかげで、アメリカの大学に入学するとすぐその大学の混
声合唱団 ― 約三百人、音楽学校生徒を基幹とし、各学部の学生でも、先生でも
又は一般の人でも読譜試験に通れば入れる ― に入れた。その頃日本の中学校で
習っただけの唱歌の実力で本格的な合唱曲の譜を見てすぐに歌えるという事は附
属以外には無かったろうと思う。私はこの合唱団のおかげで世界の合唱名曲に親
しんだ。だから附属時代に田村虎蔵先生から習った音楽が大変役に立ったのであ
る。
(『桐陰』p. 53)
と述懐しています。堀内敬三は音楽評論家として活躍し、「音楽之友社」社長を経て後に東洋音学短大の第2代(東洋音楽学校から通算第5代)学長を勤めます。小・中学時代は田村虎蔵に音楽を習っています。堀内の同級生には国立音学大学の創立に関わった矢田部頸吉(1896.3−1980.11)や日銀総裁、蔵相を歴任した渋沢敬三(1896.8−1963.10)がいます。
また米次郎が後に東洋音楽学校を設立するとき東洋音楽学校の商議員となる中村春二(1877.3−1923.12、「成蹊実務学校」、現在の成蹊学園の創立者)は1896(明治29)年3月の附属中4回卒、「東京フヒルハルモニー会」を作るときにパトロンとなる岩崎小弥太(1879.8−1945.12、岩崎弥太郎の孫、男爵、三菱合資会社の社長として活躍)は1896年6月の5回卒なので米次郎が中学音楽教師をしているときに在学していますが、直接唱歌教育は受けていないと思われます。
少し脱線しますが、明治期の教育制度の実態を見るために、岩崎小弥太の経歴を少し詳しく見て見ましょう。小弥太は1879(明治12)年8月神田区生まれ、1882(明治15)年9月より1885年1月まで高等師範付属幼稚園、1885年10月より86年12月まで学習院予備科(これは尋常小学1年から4年に相当)、1889年4月高等師範付属学校高等科に入り、1891年3月に数え13歳で尋常中学に進学、1896(明治29)年6月に数え18歳で卒業(付属中5回卒)しています。尋常中学には5年3ヶ月居たことになります。同じ年の9月第一高等学校に入学、3年在学して、数え21歳の1899(明治32)年9月に東京帝国大学法科大学に入学、翌年7月退学して、英国に向かいます。1902(明治35)年10月、ケンブリッジ大学のペンブルック・カレッジに入学します。1905(明治38年)9月ケンブリッジ大学を数え27歳で卒業して翌年3月帰朝します。
また小弥太の終生の友人、中村春二は1877(明治10)年3月生まれ、1883(明治16)年番町小学校入学、高等科第3年まで修業の後、補充中学に入り第5級を修業して、1896(明治19年)3月より富士見町富華学校で漢学を学び、1887(明治20)年より土手三番町東塾で英学を学んだ後、1889(明治22)年付属学校高等科2年に編入、1890年数え14歳で付属尋常中学に進学、1896(29年)3月数え20歳で卒業(4回卒)しています。中学には6年通いました。そして1900(明治33)年、数え24歳で第一高等学校卒業、1903(明治36)年東京帝国大学国文科を数え27歳で卒業します。中村春二は後に東洋音楽学校の商議員を勤め、更に小弥太の援助を受けて1912(明治45)年「成蹊実務学校」を設立します。
両者の学歴の中身を較べると、学齢というものが絶対視されていなく、その多様性に驚かされます。
また高等師範時代の米次郎に話を戻します。
1892(明治25)年7月8日に父重教が享年60歳で他界します。同じ月の20日には養母の里うも後を追うように世を去ります。享年57歳でした(『東京音楽大学65年史』p. 14)。
相次いで父母を失った米次郎の心境はいかばかりだったでしょうか。いよいよ巣立ちのときが来ました。正確な日時は分かりませんが、父母を失って間も無くの1893(明治26)年初めの頃、根岸磯菜(ソナ)と結婚したのではないでしょうか。1892年中は父母の喪がありますし、磯菜は93年度の東京音楽学校の卒業名簿ではまだ根岸姓で、長女忍が誕生するのが1893年12月末なので、そのように推定しました。根岸磯菜は米次郎と同じ東京音楽学校専修科を1891(明治24)年に卒業し、東京女学館に勤めていました。この頃米次郎は下谷区茅町2丁目21番地(現在の台東区池之端2丁目)に移り、次いでごく近くの下谷区池之端七軒町7番地(現在の台東区池之端2丁目)に落ち着きます。結婚を機に茅町に新居を構えたのかもしれません。この後1902(明治35)年か03年頃、下谷区上野桜木町38番地(現在の台東区上野桜木2丁目、東京芸大美術学部の前)に移ります。鈴木夫妻は一男四女(第3子の次女富重は夭折)を設けます。
『桐陰会雑誌』14号(1901年)に掲載されている教官名簿で、米次郎の住所は池之端七軒町7番地となっており、
『桐陰会雑誌』18号(1903年3月)では、上野桜木町38番地となっています。上野桜木町の番地は
斎藤斐章『普通教育 歴史唱歌』(山海堂、1903年6月)の奥付けでは 38 番地
鈴木,野村共編『輪唱複音唱歌集』(十字屋、1903年7月)の奥付けでは 28 番地、
『桐陰会雑誌』22号(1904年10月)の「桐陰会音楽部の弘告」では36 番地、
と錯綜しているが、『桐陰会雑誌』18号(1903年3月)の「38番地」を採用します。
1893(明治26)年9月米次郎はクレーの原著に基づき『バイオリン教科書 巻之壱』を出版します。これは日本でのバイオリンの教則本として3番目にあたるそうです。最初の教科書は恒川鐐之助の『ヴヮイオリン教科書』で『音楽雑誌』(1891年9月、10月発行)に広告があるが未発見のもの、2番目は山田源一郎の『図解バイオリン指南』(三木佐助商店、1892年4月)です。もし恒川の教科書が出版されていなければ、米次郎のものは2番目ということになります。(松本善三『提琴有情』 p. 73)。

図7 東京音楽学校1891年7月卒業記念写真。前列左より4人目より未来の妻根岸磯菜、神津専三郎、
Rudolf Dittrich、後列左から木村サク,鈴木米次郎、山田源一郎,1人飛んで上真行、右端遠山甲子。
(『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第一巻』p. 15より)。
同じ9月には米次郎の母校東京音楽学校は国費削減のため「東京高等師範学校付属音楽学校」として格下げになります。1891年の音楽学校存廃論争に続く打撃です。音楽学校の方で強い反対運動があったのは勿論のことです。このとき講道館柔道で名高い嘉納治五郎が東京高等師範の校長になり、付属小・中と付属音楽学校とを統括します。嘉納は文武両道を兼ね備えなければならないとして体操を重視し高等師範の学生を鍛えた、名校長として知られる人です。1896(明治29)年12月に高等師範学校付属尋常中学科を付属尋常小学科と分離し、中学校舎を神田一ツ橋通町から高等師範のある御茶ノ水の敷地に移転して、名前も「高等師範学校付属尋常中学校」と改称します。米次郎は1893(明治26)年12月から音楽学校の授業嘱託もしておりますから、1897年度からは上野の付属音楽学校と神田一ツ橋通町の付属小学校と御茶ノ水の付属中学校と3ヶ所に勤務することになったと思われます。この頃米次郎は下谷区池之端七軒町に住んでおり、まだ市電のようなものは無かったので勤務地まで歩いたとすれば、結構大変な毎日だったと思われます。
1890年代になると日本と清国の間は緊張してきます。そして遂に1894年8月日本は清国に宣戦布告し、戦争に突入します。日清戦争の始まりです。このような情勢に目をつけた米次郎は山田源一郎らと連携して、ニュースが入る度に歌詞を作ってもらい、それに曲をつけて次から次へと発表することを思いつきます。こうして明治時代の代表的な軍歌集『大捷軍歌』全7集(1894−1897)ができあがりました。このシリーズは時事性があり大変な人気を得ました。この辺の事情を米次郎は次のように述べています。
大捷軍歌これは日清両国の間に事起こるに当たつて我々音楽教師も分相応の事を
仕なければいかん大いに士気を鼓舞し又事実を擴く伝へたいと思ひ私と納所とが
発起して東京府青山師範にゐた山田源一郎と華族女学校と女子高等師範の奥好義
先生と相会し毎日新聞記事を見てゐて著しき材料が出ると直ぐ歌詠みのところへ
もつて行つて唱歌として作つて貰ひ、それに譜をつけて発表した。又擴く学校教
員を集めて各処に講習会を開いた或る時は馬背に跨り或る時は徒歩に舟に交通頗
る不便の時代だから随分困難をして手を分けて休みを利用して講習に出掛けた。
此唱歌は何れも戦争の発端より終りまで著しき実際の出来事を集めた活き事を歌
つてゐたのだから喜ぶ。随分流行りました。
(『学校音楽』1936年12月 p.15)
米次郎は、台湾で三十数人の兵士が戦死するという悲惨なニュースに基づいて旗野十一郎(たりひこ)が作詞した『三角湧(さんかくゆう)』に曲を付けますが、一般の人の大きな共感を呼びます。こうして米次郎は全国的な知名度を獲得しました(堀内敬三『日本の軍歌』 p. 140)。
1896(明治29)年11月には長男一夫が誕生します。一夫は長じて後に、米次郎の創設した東洋音楽学校の理事を務めます。
1897(明治30)年4月に米次郎は高等師範学校助教諭になります(『鈴木履歴書1』)。米次郎数え30歳のことです。また11月には米次郎の主著ともいうべき『新式唱歌 ― 一名トニック・ソルファ法』を出版します。横浜でパットン夫人に学んだものを普及しようとしたわけです。トニック・ソルファ法については、この年高等師範の紀要にあたる『東京茗渓会雑誌』にも一連の解説を書いています。まさに脂の乗り切った状態であったと考えられます。
ここで日本の当時の音楽界に目を転じて見ましょう。洋楽の普及がままならない中、一般に普及しようと1898(明治31)年1月「明治音楽会」という演奏団体が設立されます。会長は付属音楽学校の主事、上原六四郎、創立会員に付属音楽学校の納所(のうしょ)弁次郎らと共に米次郎も会員として参加します。新聞広告を出し、1月22日に第1回を開きます。この後51回まで定期演奏会を行いますが、残念ながら1910(明治43)年12月に解散してしまいます。まだ一般の人が洋楽を受け入れる素地が十分でなかったようです。
音楽教育で面白い話が付属中同窓会の機関誌『桐陰会雑誌』に載っています。1898(明治31)年9月、唱歌を中学の必修にするかどうかを検討するため、付属尋常中学5年生16名が上野の東京音楽学校で演奏したときの話です。以下少し長いですけれど引用します。
豫テヨリ尋常中学校長会議ノ諮問案タル唱歌ヲ中学教課ノ必須科トナスノ可否ニ
就キテ之ガ参考ニ資センガ為メ我附属中学校生徒ニ演奏セシムル事トナリ、九月
二十五日午後二時ヨリ上野ナル音楽学校演奏室ニ於テ我五年級生徒十六名ハ唱歌
ヲ奏スル事トハナリヌ、当日来会者柏田文部次官始メ五十余名ノ各中学校長ナリ、
先ヅ矢田部校長ハ一応ノ挨拶ト必須科トスルノ希望ヲ述ベラレ、渡部音楽学校主
事ノ会図ノ下ニ台ニ登リ音楽学校教授山田、小山師ノ指揮ニテ「進メ矢玉」、「須
磨明石」、「我海軍」、「マスラ武夫」ノ四曲合奏セリ、ぴあのノ声ハ之ニ和シ聞ク
者ヲシテ手舞ヒ足跳レルノ思アラシム、次デ音楽学校生徒ノ合唱セラレタル数回
及ビぴあの[ヴの平仮名]ぁいをりんノ独奏アリテ散会セシハ四時過グル頃ナリ
キ。
後ニシテ聞ケバ議案ハ中学校長会議ノ可決スル所トナラヅ空シク廃案ニ帰セリト、
サレバ我等ノ合奏ハ以テ多数ノ校長ノ意ヲ動スニ足ラザリシカ、将タ之ヲ解スル
能ハザリシカ、吾人ハ早ク之ヲ必須科トシテ高尚ナル風俗ト思想トヲ有スル国民
ヲ養ハン事切望ニ堪ヘズ。
(『桐陰』p. 65)
文中の矢田部校長は当時の付属尋常中学校長と付属音楽学校長を兼任していた矢田部良吉高等師範学校長(1851−1899)、山田、小山とあるのは山田源一郎助教授、小山作之助(1863−1927.6)助教授でしょう。この合唱訓練は米次郎が行ったと思われますが、鈴木の名前は出てきておりません。中学校長会の議論の結果、音楽が中学の必修とならなかったのは、残念ながらまだ多くの人を納得させるだけの音楽的水準に達していなかったのでしょう。
当日の歌詞付きのプログラムが残されています。
進め矢玉 [進め矢玉の雨の中](中村秋香作詞、小山作之助作曲)
須磨明石 [松風きよき夕波よ]
ますらたけを[われらはいかなる国民(くにたみ)ぞ](東宮鉄真呂作詞、Henry Clay
Work作曲 “Marching through Georgia”)
忠臣
[嗚呼香ぐはし楠の二本(ふたもと)](原曲スペインの“Juanita”、
文部省音楽取調掛編『小学唱歌集』第三編の第79曲)
馬上の少年 [栗毛の馬に鞭をあげて](東京音楽学校編『中学唱歌』第24曲)
我海軍 [朝日に輝く日の丸の旗](外山正一作詞、山田源一郎作曲)
士気の歌 [国こそ広かれくにがら見よや]
大鵬 [大鵬水撃翺(かけ)るや三千里]
埴生の宿 [埴生の宿もわが宿](里見義作詞、Henry Bishop作曲 “Home,
sweet home”、
東京音楽学校編『中等唱歌集』第15曲)
薩摩潟[天晴天晴(あわれあわれ)正義の士](鳥居忱作詞、Robert Schumann 作曲
"Zigeunerleben"、現在は『流浪の民』として知られる)
(小長久子『滝廉太郎』p. 136)
日清戦争の後でもあり、歌詞は軍国的なものが多いです。作詞作曲者の分かるものには付記しました。
また上の記事からこの頃は付属中学では音楽の授業は5年生まで行われていたことがうかがえます。前に述べた付属10回卒の藤原信一郎の証言や、後で触れるように米次郎が1893年度から中学で音楽を教え始めていることに注意すると、付属中では7回卒以後の学生について音楽を5年生まで教育していたと考えられます。「尋常中学校ノ学科及其程度」(1986年6月)の例示では2年生まででした。
付属音楽学校の方もこの運動に呼応して教材の『中学唱歌』を編集することにしました。音楽学校としての存在感を示したいということもあったと思われます。作品を懸賞募集したところ滝廉太郎の作品が3曲当選し、滝は入選賞金15円を得たといわれています。そして編集中の『中学唱歌』(1901年3月に発行される)を試みに高師付中の生徒に歌わせてみたら『箱根八里』が断然他の曲を圧して人気があった。それに反して女高師付中の生徒は『荒城の月』が一番いいと言ったと伝えられています(大槻三好『童謡の父 石原和三郎先生』p. 165)。いずれも滝の作品でした。
この説は遠藤宏『明治音楽史考』p. 321以下にも述べられていますが、『東京芸術大学百年史 東京音
楽学校篇 第一巻』p. 509ではこの他に『前途万里』と『武蔵野』も滝の作品としています。
1899(明治32)年米次郎は文部省から「師範学校学科程度取調委員」を委嘱されます。学科の水準を調べ勧告をするような検査官のようなものだったのでしょう。この年4月に高等師範学校付属音楽学校は再び「東京音楽学校」として分離します。関係者の悲願の独立がかなったわけです。そして8月に渡辺竜聖が東京音楽学校長となります。1899年7月、米次郎の音楽学校での後輩である田村虎蔵が高等師範訓導として付属小学校に赴任します。
田村虎蔵は1873(明治6)年5月24日鳥取県岩井郡蒲生村字馬場村(現在の岩美郡岩美町馬場)で重蔵としまの末子3男として生まれました。地元の学校で学んだ後、1892(明治25)年9月に東京音楽学校予科に入ります。校長の村岡範囲馳(はんいち、1853−1929、貢進生、日本初の理学博士、第2代東京音楽学校長)は同郷の人で、虎蔵の憧れの人でした。虎蔵在学中の1893(明治26)年に音楽学校が高等師範に合併されるという事件ありがあったことは前に触れました。この頃、虎蔵は音楽学校で通訳の授業補助をしていた米次郎を知ります。
虎蔵は1895(明治28)年7月に高師付属東京音楽学校を卒業して、兵庫県尋常師範学校で助教諭をします。1899(明治32)年7月、再び上京して、高等師範学校訓導になります。つまり付属小学校の音楽の先生になります。また同時に東京音楽学校の助教授を兼任します。当時の高等師範の校長は矢田部良吉でしたが、8月には伊沢修二に変わります。米次郎にとっては音楽取調掛時代の恩師にあたる人です。
虎蔵が付属小学校に赴任した時点で、付属中17回卒の高畠覚三が述べていたように、米次郎は付属中学の方に集中すれば良くなったと思われます。米次郎は高等師範の本科と付属中学、田村は本科と付属小学というように分担したと思われます。ただし1896(明治29)年12月に付属中学の方は御茶ノ水の校舎に移り、付属小学校の方は一ツ橋校舎に残っていましたから、米次郎と虎蔵の両者はそれほど頻繁には会わなかったのではないかと思われます(表3参照)。

表3 付属学校のキャンパスの変遷と鈴木米次郎と田村虎蔵の関係。米次郎の勤務地は赤線、
虎蔵の勤務地は黒線で示す。付属中の移転の時期について『桐陰』では(1)1894年12月、
(2)1896年12月、(3)1897年1月の3説あるとして確定していないが、(1)は根拠文
献の誤植、(2)と(3)は同時期なので、ここでは付属小学校・高校の公式の説(2)を採る。
1901(明治34)年12月、鈴木夫妻に三女の稲子が生まれます。稲子は成人して東京音楽学校を卒業、海軍士官の久保田芳雄と結婚、後に東洋音楽学校の教師となります。こうして米次郎の音楽家としての遺伝子は稲子の家系に引き継がれます。
さて、1902(明治35)年に卒業生の穂積重遠(10回1901年卒)が「校歌を作れ」と提唱します(『桐陰会雑誌』16号(1902年6月)p. 16)。それを受けて、付属中学の校友会である「桐陰会」の会歌を作ろうということになりました。「桐陰会」とは在校生と卒業生の親睦団体として1890年にできた「校友会」を発展的に解消し1897年2月に設立された同窓会です。この頃校歌を持っていたのは女子高等師範学校および付属学校(1878年制定)と女子学習院(1887年制定)くらいなものでしょう。男子ではようやく高等学校の寮歌が、生徒達の手で作曲されて、歌われるようになります。有名な第一高等学校東寮の『嗚呼玉杯に花うけて』は1902年の記念祭で発表されます。『桐陰会歌』もこういう風潮に影響されたのかもしれません。当時付属中5年生の山根磐と宮島秀夫(1903年12回卒)が歌詞を作り、漢文の先生だった鈴木静が歌詞の手入れをします。米次郎はそれに曲を付けます(図2参照)。残念ながら生徒の作曲というところまではいかなかったようです。この『桐陰会会歌』は現在も校歌に代わるものとして歌い継がれています。しかし明治時代に作られた歌詞(付録の鈴木米次郎
作曲作品の校歌の項参照)は歴史・漢文の高い知識が無いととても理解できないような内容です。昔の生徒の素養の高さには感心させられます。

図8 田村虎蔵・和子夫妻(1902年撮影)。(丸山忠璋『田村虎蔵の生涯』p. 100より)
ここで話を冒頭で述べた『桐陰会会歌』と『大阪市電唱歌』の関係にもどします。虎蔵が大阪市から『大阪市電唱歌』に曲(作詞は大和田建樹)付けるよう依頼されたとき、付属中で良く歌われているこの『桐陰会会歌』のメロディーが頭にあったのでしょう。虎蔵が米次郎の曲を拝借したいと申し出たのに対して、米次郎がどうぞと言ったのではないでしょうか。米次郎と虎蔵は短い期間同じキャンパスで仕事をしていましたが、この頃米次郎は御茶ノ水、虎蔵は一橋に勤務と別れ別れになります。しかし同じ高等師範の付属学校の教師同士ですから、強い仲間意識があったでしょう。曲の借用というのは今なら当然問題になるケースですが、明治のおおらかな良き時代では問題としなかったのではないでしょうか。それにしても米次郎のメロディーが大阪で大ヒットしたことを彼自身は知っていたのかどうか、もし知っていたらどう反応したのか興味がそそられます。残念ながら今となっては知る由もありません。
この他に二人の競作があることに気が付きました。茨城県が石原和三郎に茨城ゆかりの歌の作詞を依頼し、そのうち茨城県の風土を詠みこんだ『茨城県唱歌』には田村を当て、水戸光圀を称えた『義公』の作曲には米次郎に依頼したもので、1901(明治34)年2月に発表されています。石原和三郎は前に触れた付属小の国語の先生です。ただし『県歌』の歌詞は61番まであるのに、『義公』は2番だけですから、石原は『県歌』を作るのに勢力を使い切ってしまった感じがあります。米次郎と虎蔵の関係は『桐陰会会歌』以前から深かったということになります。
1904(明治37)年6月、付属中学で初めての学芸会が挙行されます。その記録の中に「鈴木」部長が登場しますが、米次郎ではなく、おそらく漢文の先生の鈴木静であると思われます。当時は音楽にくらべ漢文の方が主要科目ですから、担任になる可能性も高いと考えられるからです。出し物は演説、朗読、英語対話など、音楽もあってピアノ独奏3人、Train March(2年生)、Sonata (Haydn)(5年生)、六段(4年生)、唱歌が2曲、Home, Sweet Home(3年生有志)、夏(5年生有志)といった具合です。唱歌は当然米次郎が訓練したでしょう。批評記録によると、器楽独奏の方は評判が良かったが、唱歌の方はもう少し練習して欲しいという評で、出来はあまりかんばしくなかったようです。それにしてもこの時代ピアノを演奏した生徒はおそらく家庭教師に習っていたのでしょう。当時ピアノを持てる家は相当裕福な所に限られていたでしょうから、演奏した生徒は良家のお坊ちゃんだったのではないでしょうか(『桐陰』p. 67)。
また『桐陰会雑誌』22号(1904年10月)に「桐陰会音楽部の弘告」として
毎週金曜日午後三時から下谷区桜木町丗六鈴木米次郎氏方へ。
一、音楽部は只今のところ唱歌のみですが、そのうち楽器もしたいとおもひます。
一、改正は桐陰会とは全く別にいたし三ヶ月廿銭。
一、年に一回復習演奏会を開く事。
という記事があります。米次郎は自宅で生徒の部活動の唱歌指導をしていたようです。
1904(明治37)年3月には四女緑が誕生しています。緑は後に東京帝大教授となる我妻栄に嫁ぎます。夫となった我妻栄は米次郎の没後、1945(昭和20)年4月に東洋音楽学校の第3代校長となります。
1904(明治37)年8月米次郎は(高等師範から校名変更した)東京高等師範学校を退任します。『桐陰会雑誌』23号(1905年1月)は
鈴木米次郎師は今を距る十一年の昔より親しく本校に教鞭を執られしが遂に九月
上旬辞せらるゝに至りぬ。
田村虎蔵師新たに鈴木師に代りて唱歌に教鞭を執らるゝことゝなりたり。
としています。これにより米次郎が付属中学で音楽を教え始めたのは、付属学校着任の1891(明治24)年からではなく1893年度からと考えられます。
この退任のとき音楽学校を設立する積りであったかは推測の域を出ませんが、そういう決心をしたのではないでしょうか。この時代のエリートは国の発展のために尽くすという強い気持ちの人が多いですから。米次郎は在職14年、その間教えた学生は小・中を含めると付属中学1回卒から18回卒に亘ります。東京音楽学校の方は同じ年の12月に退職します。
他方、虎蔵は1906(明治39)年12月、高等師範学校教諭兼任となって、小・中両方の教育の責任を負うことになります。虎蔵は1924(大正13)年まで付属小に勤めるかたわら、石原和三郎らと「言文一致唱歌」を提唱し、数多くの唱歌童謡を残しました。
東京高等師範学校を辞任した米次郎は1904(明治37)年9月東京盲唖学校の嘱託になります。ここで音楽教育にがんばっていた友人の佐藤国蔵の懇請によるものでしょう。米次郎は国蔵を通して盲唖の人の音楽教育に深い関心を持っていました(鈴木栄助『盲人に音楽を 佐藤国蔵の生涯』)。米次郎は1910(明治43)年に『訓盲楽譜』を訳し、1914(大正3)年には点字の筝曲楽譜記載法を完成します。盲唖学校との関わりは1921(大正10)年まで続きます。また1906(明治39)年12月暮れから一月ちょっと清国各地を視察します。この頃米次郎は清国留学生の音楽教育にも力を注ぎます。

図9 鈴木米次郎(1907年撮影。東京音楽大学蔵)
1907(明治40)年5月米次郎は遂に東洋音楽学校(後の東京音楽大)の設立に漕ぎ着けます。これは山田源一郎が1905(明治38)年10月に開設した「日本音楽学校」、後の「女子音楽学校」(現在は「日本音楽学校」という名前に戻っている)に次ぐものです。神田区裏猿楽町6番地(現在の明治大学附属校の校庭)の土地を借りて、田辺順吉設計で60坪2階建ての新校舎を作ります。

図10 東洋音楽学校舎設計図。(東京府に提出された私立学校認可証より)
創立のときの役員は、名誉商議員として伊沢修二、上原六四郎、高楠順次郎、商議員は島崎赤太郎、小山作之助、中村春二でした。伊沢はいわずと知れた東京音楽学校の恩師で日本の音楽教育を立ち上げた音楽界の大御所(それでもまだ数え47歳)、上原は前にも出てきた「明治音楽会」の会長をしている人で、島崎と小山は東京音楽学校の後輩先輩にあたります。これに夫人の磯菜も教授として加わります。中村は前にものべたように高等師範附属中での教え子でした。元々米次郎は中村春二の父秋香と親しい仲でした。秋香が東京音楽学校で国文学を教えていた縁で、米次郎には秋香の詞『近江八景』に曲を付けるなどの仕事があります。また春二が結婚してから仲間と作った音楽同好会では、頼まれて米次郎が指導をしていました。春二らはこの同好会で、はじめは文部省唱歌を歌っていましたが、混声合唱なども試みたと言われています(『人間 中村春二』p. 25)。それにしても、学校建設のため必要な資金は米次郎が負担する備品代だけで3200円、この他に校舎の建設費がありますから、20〜30円程度の月俸だった米次郎にとっては莫大な金額です。資金を援助したパトロンが居ただろうと考えられますが、委細は不明です。
東洋音楽学校はアカデミーより腕で勝負できるコンセルヴァトワールを目指しました。音楽を楽しむというよりは、音楽で飯の食えるプロフェッショナルな人の養成を考えていたようです。音楽は個人的にも社会的にも有用でなければならないと信念を彼は持っていました(『月刊楽譜』 1914年11月号 p. 3)。この考えは東京音楽学校存廃のときの論説にも色濃く反映していますし,そもそも音楽取調掛入学を選ぶ動機のところから一貫しているように思えます。

図11 中村春二(中村彝(つね)画、1824年)。(成蹊学園蔵)
1908(明治41)年には管弦楽部を設け、東京音楽学校で教えていたユンケル(August Junker、1870.1−1944.1、プロシャ)やヴェルクマイスター(Heinrich Werkmeister、 1883.3−1936.8、プロシャ)を招いて指導を仰ぎ、本格的西洋音楽の導入に乗り出します。
米次郎はまたこの頃「帝国教育会」の言文一致唱歌の編集にも加わります。この帝国教育会とは1883(明治16)年に設立された「大日本教育会」が1897年、恩師伊沢修二らの「国家教育社」を併合して改組されたものです(上沼八郎『伊沢修二』p. 211)。1910(明治43)年4月、かねてより西洋音楽を普及振興し、前途有望な音楽家を後援し、立派な音楽を社会に提供したいと考えていた、三菱合資会社副社長の岩崎小弥太男爵の後援を得て、米次郎はヴェルクマイスターと図り、「東京フヒルハルモニー会」を設立します。会長は松方正作(小弥太の姉繁子の夫)、理事の岩崎小弥太、今村繁三、(田島改め)浜口担、菊池幹太郎はいずれも小弥太の英国留学以来の親友です。その他大隈重信伯爵、イギリス大使マクドナルド(Claude M. MacDonald)(『東京音楽大学65年史』p. 20 ではアーサー・マクドナルドとしていますが、当時そのような大使は居ないので、誤りと思われます)、各夫人らの後援を受けます。

図12 岩崎小弥太(1909年頃撮影)。(『岩崎小弥太』より)
小弥太は前に述べたように米次郎の高等師範附属中の教え子です。小弥太はチェロをヴェルクマイスターに習い、友人たちと合奏を楽しむ程の音楽愛好家でした。信時潔(1887.12−1965.8、『海ゆかば』の作曲で知られる)は
私もウェルクマイステル先生の弟子で、岩崎さんとは謂はば相弟子である。先生
から岩崎さんは素人離れのした立派な技倆の持ち主だと聞いてゐた
(岩崎家伝記刊行会編『岩崎小弥太伝』 p. 81)
と語っているそうです。
また楽団員養成のため、会の付属オーケストラ団を組織します。オーケストラの管楽器奏者は外部からも参加者がありましたが、東洋音楽学校の卒業生が中心となって結成されました。しかし小弥太と米次郎の意見が会わなくなってまもなく解散し、1912年8月に東洋音楽学校は独立に「東京オーケストラ団」を結成します。
これに並行して、小弥太は山田耕筰(1886.6−1965.12)の欧州留学を後援し、念願の本格的な管弦楽演奏のため、山田の帰朝後1915(大正4)年5月、山田に依頼して新たに「東京フヒルハルモニー会管弦楽部」を組織し、運営をまかせます。管弦学部は5月23日に第1回の定期演奏会を行います.これは民間交響楽団の嚆矢となるものです。
小弥太は山田にまかせた楽団のために音楽堂の建設も目論見ましたが、時期尚早でした。資金難やら耕筰に対する世間の中傷などのため断念し、1916(大正5)年2月には山田への援助も打ち切ってしまいます。しかし山田耕筰はこれにもめげず、この後も頑張り、1925(大正14)年3月に近衛秀麿らと「日本交響楽協会」を結成し、交響楽の本格的な演奏活動を4月から開始することになります。
東洋音楽学校は1911(明治44)年4月、「東洋音楽専門学校」と改称します。1912(大正元)年8月には、東洋汽船(社長浅野総一郎)のアメリカ航路の客船に東洋音楽学校の卒業生によるオーケストラを乗船させて演奏航海を始めます。こちらの方は幸い好評で、米次郎も同乗しアメリカのソールト・レークまで行き、オーケストラ指揮法を研究しました。
1917(大正6)年5月明治音楽界の最大の功労者である恩師伊沢修二が亡くなります。享年67歳でした。
この後東洋音楽学校は1923(大正12)年9月1日関東大震災に遭い、校舎は全焼の憂き目に遭います。困窮した米次郎に付属中学校時代の生徒であった中村春二が助けの手を差し延べてくれました。池袋で春二が経営していた成蹊学園の校舎を借りて、東洋音楽学校の授業を絶やすこと無く続けることができました。こうして翌春、音楽学校が雑司が谷に仮校舎を建設するまでをしのぎます。ここから以降の詳しいことについては東京音楽大学の記録にまかせることにしましょう。
1927(昭和2年)5月、山田源一郎が亡くなります。東京音楽学校以来の無二の友人であり、良きライバルであった後輩に先立たれ、米次郎はいかばかりか力を落としたでしょう。6月には先輩の小山作之助も亡くなります。
こんな中の1930(昭和5)年、思いもかけぬプレゼントが米次郎のかつての教え子達から贈られることになりました(武石みどり編『音楽の礎 鈴木米次郎と東洋音楽学校』p. 199)。鈴木老校長が長年音楽教育に勤めているのに、何ら報いられることが無いのを残念に思った、赤司鷹一郎、鳩山一郎、穂積重遠、井坂孝、林博太郎、川村竹治、梶原仲(忠と誤記されている)治らが鉄筋コンクリート400坪の校舎を東洋音楽学校に贈呈することになりました(東京朝日新聞1930年7月15日)。この新校舎が米次郎にとって大きな助けになったのは疑う余地がありません。それにしてもスケールの大きな贈り物には一驚を禁じえません。
名をあげられた、井坂孝は第一高等中法科を1893年卒業し当時は横浜商工会頭、後に東京瓦斯社長を務めました。赤司、川村、梶原は第一高等中法科を翌1894年に卒業した同期生で、それぞれ前文部次官、司法大臣、そして横浜正金銀行頭取から日本勧業銀行総裁を勤めました。林博太郎伯爵は1892年東京府尋常中学を卒業、山口高校を経て帝大を卒業し、当時帝大教授で、後に満鉄総裁を務めた人です。また、府尋中学の同窓会である「如欄会」の会長でした。鳩山一郎と穂積重遠は高等師範付属中をそれぞれ1900年9回卒と1901年10回卒の同窓生で、鳩山は当時衆院議員、翌年には文部大臣となり滝川事件に関与、後年首相になりましたし、穂積は帝大教授で後に最高裁の判事を務めました。一見不思議な組み合わせですが、一高や府尋中、付属中で米次郎の薫陶を受けた人々だったのです。ちなみに、鳩山家の音楽好きは付属中を穂積と中学同期の藤岡信一郎が次のように報告しています。
なお当時の校長は嘉納治五郎先生で、柔道は必須課目であった事、及びどういう
訳か唱歌も一年から五年までこれまた必須課目となっておりました。唱歌の教室で
は、[鈴木]先生が如何になだめすかしてもただの一回も歌なるものを口にせずに
終始した一生徒がいた事と、鳩山秀夫君[一郎の弟]のすばらしい美声が未だに記
憶に止まっております。ちなみに鳩山前首相(九回)は毎晩家族一同と賛美歌の合
唱を楽しんでおられるようですが、これも付属時代の唱歌の稽古が多分に影響して
いるものと微苦笑を禁じ得ない次第であります。
(『創立七十年 教育大学付属高等学校・中学校』p. 61)
また穂積重遠は中村春二宅で米次郎指導のもと合唱を楽しんだり、前に述べたように、付属中学の「校歌をつくれ」と檄を飛ばし、「桐陰会会歌」制定を提唱した人物です。
1933(昭和8)年6月、田村虎蔵の還暦を祝って「田村虎蔵先生音楽教育40周年記念会」という会が東京の日比谷公会堂で執り行われました。公会堂に集まった人は二千人を超えたそうです。第一部では虎蔵が作曲した唱歌を子供たちが演奏しました。続いて第二部では堀内敬三(当時日大講師)が司会者を行い、小松耕輔(1884.12−1966.2)が田村のために作詞した記念祝歌に堀内が曲を付け、参加者全員で合唱しました。最後に納所弁次郎(1865−1936.5)の発声で万歳三唱をしました。席を上野精養軒に移した祝賀会には全国から有志三百人余りが集まり虎蔵を称えました。この会の締めくくりの万歳三唱の音頭は米次郎が執りました(丸山忠璋『田村虎蔵の生涯』 p. 15)。日本の音楽教育を立ち上げた人々が一堂に会したわけです。何時の間にか米次郎はその最長老の仲間になっていました。納所弁次郎も1936(昭和11)年5月に亡くなります。米次郎は相次いで友を失う寂しさを感じたに違いありません。
1936(昭和11)年6月米次郎の孫まで含め家族全員が集まりお祝いをします。古希の前祝でしょうか。そのとき撮った幸福な一族の写真が残されています。

図13 鈴木一族(1936年6月撮影)。大人:前列左から(大木改め)鈴木智恵、(我妻)緑、鈴木米次郎、
鈴木磯菜、(藤村)忍、(久保田)稲子、後列左から藤村倉太、我妻栄、鈴木一夫、久保田芳雄。(鈴木栄助『盲人に
音楽を 佐藤国蔵の生涯』p. 237より)
米次郎は1940(昭和15)年12月突然体調をくずし、東大病院坂口内科に入院しますが、入院1週間で12月28日急逝します。享年73歳でした。扁桃腺炎と言われています。米次郎は糖尿病を患っていたので、合併症だろうと孫の我妻堯(たかし)医博は述べています(我妻堯 私信2004年11月27日)。
妻の磯菜も後を追うようにして1942(昭和17)年2月28日に享年72歳で亡くなります。二人は東京の雑司が谷墓地で恩師伊沢修二を見守るようにして眠っています。
米次郎は20余りの著訳書と60曲ほどの唱歌作品を残しました。また彼の社会に残した業績を列記すると、東洋音楽学校を立ち上げ育てた他に
トニック・ソルファ教授法などの先駆的導入
幼児児童に対する先駆的なリトミック教育の実施
盲人の音楽教育に力を注いだ
清国の音楽教育の立ち上げに熱心に取り組んだ
があげられると思います。
最後に米次郎の人となりを示す挿話を記して筆を擱くことにします。
田村虎蔵は『音楽世界』に掲載された追悼文の中で
余が君の知遇を得たのは、去る明治25・26年の交、余が上野音楽学校生徒として
在学中、外人の和声楽講義の通訳をせられたのに始まる。 其の後、高等師範校に
同僚として在勤したのが六個年、爾来余は君を斯道の先輩として尊敬し、比較的
親しい交際を続けてきたのであった。とは云へ、所謂竹馬の友でもなければ、又
親友と云ふ程でもなかった、故に君の私的方面のことは少しも知らない。が、君
は我等楽人中、最も品行方正の方であったから、兎角の資料を世に提供せられな
かったと信ずる。― 中略 ― 君は常に莞爾として人に接し、話声さえ君が体躯と
同様に小さく大声を上げて口論する様なことはない。何時も変らぬ温顔に、優し
い口調で対者に快感を与へるのであった。恐らく他と大喧嘩などされたことはな
いであらう。従って多くの人に愛される資質を備へて居られた。けれども必要と
認めた意見は堂々と述べ、初心を貫徹させる程の気概はあった。君の趣味として
は読書と旅行とで、特に独り山野を跋渉するのが好きであった。昨年は紀元二千
六百年(1940年:筆者注)を記念して、百二十三代の御陵廻りを計画し、淳仁・崇
徳・安徳の三御陵を除く外、他は全部の参拝を遂げられ、「もう少しだ」と余の話
されたのは実に昨年十二月十日であった。
(『音楽世界』1941年2月号p. 89)
と惜しんでいます。実際米次郎の手になる幾つかのスケッチが孫から東京音大に寄贈されていますが、なかなかの腕前です。東洋音楽学校の教え子、伊藤義雄は同じ号で
平常学校に出勤して時折校長の閑話を拝聴する事も屡々であったが、校長は決し
て座談の上手な方ではなかった。それに忌憚なく云ふと、考へ方が昔風で幼稚ぢ
みてゐたり、随分物足りない所もあったが若い時に苦労した話には実に感服させ
られたものであった。― 中略 ― これ程不死身の校長も一面には実に生徒を可愛
がる情の厚い所があった。何の理由もなしに突然お伴を仰せ付かって夕食の御馳
走になった事もある。途中で夭折した生徒の事など何遍も繰返して話しては涙を
流した。
(『音楽世界』1941年2月号p. 91)
と述べています。心を許しあった師弟という感じがします。また仕事振りについて
米次郎は雨の降る日は好んで散歩に出かけ、雨の音を聞きながら創意工夫をこら
すのが習慣であった。
とも伝えられています。こんなときに曲の構想を練ったり、また学校の経営のことも考えたでしょう。彼の残したと伝えられる言葉 ”Let them like the music”(『東京音楽大学65年史』p. 16)は彼の教育者としての面目躍如たるものがあります。
―了―
後記
この稿をまとめるにあたって、鈴木米次郎関係の基礎資料の収集に当たっては東京音楽大学の武石みどり準教授に大変お世話になりました。特に米次郎の履歴資料、ここには掲載しない鈴木家系図などは武石みどり氏に依っています。鈴木米次郎の著作、作曲作品目録は東京音楽大学のアーカイブを利用させていただきました。『大阪市街電車唱歌』については大阪市交通局から参考資料を頂戴しました。また高等師範付属中に関する基礎知識については前筑波大学付属高等学校副校長広井禎氏、音楽関係について元同校教諭新島弘氏、明治時代の教育史については放送大学の波多野諠余夫教授にご教示いただきました。鈴木米次郎の孫にあたる我妻堯氏からも貴重な情報をいただきました。また東京都立日比谷高校資料室の石川英雄氏および中村由紀子氏をはじめ、その他お名前を申しあげませんが人事資料情報などで沢山の方々のご協力をいただき、幾つかの日時を確定することができました。音楽に素人である筆者の無謀な試みを助けてくださった皆様に感謝の意を表します。しかしながら鈴木米次郎の若いときの履歴で、共立学校については謎が残りました.これを解く鍵となるであろう東京芸術大学に提出された鈴木米次郎の入学時の履歴書は残念ながら開示されませんでした。今後の調査に待ちたいと思います。最後に私家版という事でコピーライト尊重などについて不十分な点が在るかも知れません。ご迷惑をおかけした場合は慎んでお詫び申し上げます。
『鈴木履歴書1』(筑波大学旧職員履歴書、筑波大学蔵)
『鈴木履歴書2』(1907年4月23日付音楽学校設立認可願に添付、東京都公文書館所蔵)
住所:下谷区上野桜木町38番地
『鈴木履歴書3』(1907年9月16日付東京音楽学校校長認可願に添付、東京都公文書館所蔵)
住所:神田区裏猿楽町6番地
『鈴木履歴書4』(1911年2月22日付専門学校設立認可願に添付、東京都公文書館所蔵)
住所:神田区裏猿楽町6番地
『明治十五年十二月東京府中学校学級試験得点表』(東京都公文書館所蔵)
『明治十六年七月東京府中学校学級試験得点表』(東京都公文書館所蔵)
『育英百二十年』育英小学校百二十周年記念事業協賛会編(1990年10月24日)
『日比谷高校百年史 上・中・下巻』日比谷高校百年史編集委員会編(1979年3月)
『写真図説 嗚呼玉杯に花うけて 第一高等学校八十年史』西沢佶編(講談社、1972年5月)
『東京教育大学付属小学校 教育百年史』東京教育大学付属小学校創立百周年記念事業委員会
編(1973年1月)
『付属百年の思い出』東京教育大学付属小学校創立百周年記念事業委員会編(1973年1月)
『東京高等師範学校 付属中学校一覧 自明治三十九年四月至明治四十年三月』東京高等師範学校
付属中学校編(1906年6月)
『創立七十年 東京教育大学付属中学・高校沿革略史』(1959年3月)
『創立百年史 筑波大学付属中学校・高等学校』筑波大学付属中学校・高等学校百年史編集委員
会編(1988年10月)
『桐陰』「桐陰」刊行委員会編(1984年7月)
『東京高等師範学校 沿革略史』東京高等師範学校編(1911年10月)
『創立六十年 東京文理科大学・東京高等師範学校』東京文理科大学編(1931年10月)
『東京教育大学百年史』鈴木博雄(図書文化社、<1978年7月)
『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇、第一巻』(音楽之友社、1987年10月)
『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇、第二巻』(音楽之友社、2003年3月)
『東京音楽大学65年史』東京音楽大学65年史編纂委員会編(1972年9月)
『音楽教育の礎(いしずえ) 鈴木米次郎と東洋音楽学校』武石みどり監修、東京音楽大学創立百周年
記念誌刊行委員会編(春秋社、2007年5月)
『日本教育史』名倉英三郎編著(八千代出版、1998年3月)
『原典・解説 日本教育史』鈴木博雄(図書出版、1985年5月)
『明治期 日本人と音楽』日本近代洋楽史研究会編(国立音楽大学付属図書館、大空社、
1995年)明治期の「東京日日新聞」の音楽記事の集成。
『日本の洋楽百年史』秋山龍英編著(第一法規、1966年1月)
『明治音楽史考』遠藤宏(友朋堂、1948年4月)定価230円。
『音楽五十年史』堀内敬三(鱒書房、1942年12月)定価2円80銭。
『日本の唱歌 上、中、下』金田一春彦、安西愛子編(講談社文庫、1977年10月−1982年
5月)
『日本唱歌集』堀内敬三、井上武士編(岩波文庫、1991年6月)
『定本 日本の軍歌』堀内敬三(実業之日本社、1969年9月)
『洋楽導入者の軌跡』中村理平(刃根書房、1993年2月)
『提琴有情 ― 日本のヴァイオリン音楽史』松本善三(レッスンの友社、1995年11月)
『近代音楽教育論成立史研究』河口道明(音楽之友社、1996年6月)
『音楽基礎研究文献集 第1巻』江崎公子編(大空社、1990年2月)
鈴木米次郎編、『新式唱歌 ― 一名トニック・ソルファ唱歌集』 (十字屋、明治30年11月5日)を採録。
『幼稚園唱歌集 全』文部省音楽取調掛編(文部省、1887年12月)定価8銭。
『小学 唱歌集』初編、第二編、第三編、文部省音楽取調掛編(文部省、1881年11月−
1984年3月)定価各8銭、6銭,15銭9厘。
『中等唱歌集』東京音楽学校編(1889年12月)定価22銭。
『中学唱歌』東京音楽学校編(1901年3月)定価35銭。
『大阪市街電車唱歌』(大和田建樹詞、田村虎蔵曲)(阪江文港堂・田中青柳堂、1908年
12月)[春咲く花の梅田より] 定価4銭。
『市電 大阪市電廃止記念誌』(大阪市交通局、1969年)非売品。
市電ブームに乗って、大ヒット。小学生からお座敷の芸者にいたるまでさかんに口ずさまれた。
『教科摘要 討清軍隊 大捷軍歌』全七編、山田源一郎 編(増子屋書店・開進堂書店、1894年
11月−1896年12月)
『茨城県唱歌 全』(石原和三郎詞、田宮虎蔵、鈴木米次郎曲)(冨山房、1901年2月8日)
『伊沢修二』上沼八郎(吉川弘文館、1988年8月)
『舞踏への勧誘 日本最初の女子留学生永井繁子の生涯』生田澄江(文芸社、2003年3月)
『言文一致唱歌の創始者 田村虎蔵の生涯』丸山忠璋 (音楽之友社、1998年7月)
鈴木米次郎に関する記述:pp.21, 67, 123.誤植:pp.75, 90, 139, 153.
『滝廉太郎』小長久子(吉川弘文館、1987年9月)
『盲人に音楽を 佐藤国蔵の生涯』鈴木栄助(NHKブックス、日本放送出版協会、1979年
8月)
『童謡の父 石原和三郎先生』大槻三好(群馬出版社、1955年4月)定価150円。
『「音楽の泉」の人 堀内敬三 ― その時代と生涯 ―』堀内和夫(芸術現代社、1992年
7月)
『徳川慶喜公伝 1−4』渋沢栄一(東洋文庫、平凡社、1967年4月−1968年1月)
『岩崎小彌太傳』岩崎家伝記刊行会編(東京大学出版会、1957年12月発行、1979年5月
復刻)
『岩崎小彌太』宮川隆泰(中公新書、1996年8月)
『人間 中村春二伝』中村浩(岩崎美術社、1969年7月)
『会津将軍 山川浩』星亮一(新人物往来社、1994年5月)
『嘉永・慶応 江戸切絵図』師橋辰夫監修・解説(人文社、1995年4月)尾張屋清七版。
『明治大正東京散歩』人文社編集部編(人文社、2003年10月)
東京郵便局、東京逓信管理局編集、『東京市十五区番地界入図』、(1907年)通称郵便図に基づく。
『五千分の一東京図』参謀本部陸軍部測量局(1883−84年測量、1886年製版、1887年
8月発行)9枚組。
『日本の路面電車 II 』原口隆行(JTBキャンブックス、2000年)
田村虎蔵「我が楽界の長老 鈴木米次郎君を悼む」、『音楽世界』1941年2月号
pp. 89−91.
伊藤義雄「鈴木米次郎先生を憶う」、『音楽世界』1941年2月号 pp. 91−92.
鈴木錦一郎「弔辞」、『東洋音楽学校報告団団報』13号(1941年7月)pp. 20−21.
小出浩平「東洋音楽大学創立者鈴木米次郎先生」、『教育音楽』1964年11月号 pp. 70−72;
12月号pp. 70−72.
これは『学校音楽』1936年12月号 pp. 9−18の井上武士と小出浩平のインタビュー
「鈴木米次郎先生に物を聞く会」を再録したもので、『東京音楽大学65年史』pp. 15−16 に
も部分的に引用されている。
鈴木米次郎『東京新報』 1891年1月19日.
鈴木米次郎『月刊楽譜』 1914年11月号 p. 3.
鈴木米次郎「伊沢修二先生懐旧談」、『教育音楽』1940年1月号pp. 98−114.
これは『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇』 pp. 258−260 に再録されている。
岡五郎(高等師範付属校園主任)『創立六十年史 東京文理科大学・東京高等師範学校』p. 271.
『創立百年史 筑波大学付属中学校・高等学校』p. 12に再録.
八田嘉明 (高等師範付属中1897年、6回卒) 「桐陰の昔話」、『桐陰会雑誌』
93号(1930年12月)
p. 24.
神保格(高等師範付属中1901年、10回卒)「桐陰の昔話」、『桐陰会雑誌』92号(1930年7月).
(『桐陰』p. 54に再録)
神保格『創立七十年 東京教育大学付属中学・高校沿革略史』p. 59.
香川鉄蔵(高等師範付属中1906年、15回卒)「附中1年生時代の思い出」、『桐陰会雑誌』108号
(1938年).(『桐陰』p. 48
に再録)
藤岡信一郎(高等師範付属中1901年、10回卒)『創立七十年 東京教育大学付属中学・高校
沿革略史』p. 61.
高畠覚三(高等師範付属中1908年、17回卒)『付属百年の思い出』p. 11.
増田幸一(高等師範付属中1916年、25回卒)『付属百年の思い出』p. 30.
堀内敬三(高等師範付属中1915年、24回卒)『桐陰』p. 53.
夏目金之助(漱石)『日比谷高校百年史 上巻』p. 15.
原典は『中学文芸』臨時増刊、1906年6月。
岡田哲蔵(府尋常中1885年卒)『日比谷高校百年史 上巻』p. 37.
志田ナ太郎(府尋常中1884年卒)『日比谷高校百年史 上巻』p. 20.
島田種輝(東洋音楽学校卒)『東京音楽大学65年史』p. 40.
伊沢修二「音楽取調ニ付見込書」1879年10月30日付寺島宗則文部卿宛文書.
武石みどり 私信2004年10月20日.
我妻堯 私信2004年11月27日.
R. S. Stevens, “Emily Patton: An
Australian Pioneer of Tonic Sol-fa in
Research Studies in Music Education 14 (2000) 40-49.
『原典による近代唱歌集成―誕生・変遷・伝播―』安田寛・赤井励・閔庚燦編(ビクター
エンタテインメント、2000年4月)CDと解説からなる。