チベット・ラサ観光(1992年8月)


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 1992年8月北京で国際会議に出席発表の後,会議が主催したポスト・コンファレンス・ツアーのうちのチベットへ行くツアーに参加した.チベットは,中国政府の言う暴動の結果,1988年春から90年4月までラサに戒厳令がしかれていた.ごく最近,外国人が旅行者として行けるようになったばかりである.河口慧海の『チベット旅行記』で予習をし,期待に胸を膨らませて旅行に臨んだ.あいにくカメラの露出計の機嫌が悪くなり,写真の出来はきわめて悪いがご了承願いたい.




ラサの象徴 ポタラ宮殿の威容.


 成都を8月18日朝早く飛行機で出発,午前中にラサの飛行場に到着した.飛行場は砂の河原にあり,周りには人家も無くきわめて殺風景である.まわりの山肌がむき出しで樹木は見えない.流石に高地(標高約3000メートル)に来た事を実感する.
 飛行場からラサ(拉薩)まではバスで約2時間.途中2・3の部落があるだけで人の気配はほとんど無い.


ラサへ向かう飛行機から.標高5000メートルを超える山々. タングラ(唐古拉)山脈の末
端部であろうか.

飛行場を降り迎えのバスに乗ろうとすると,早速物乞いの洗礼を受けた.


途中畑は殆ど無い.わずかばかりの耕作地.



珍しく小さな部落があった.

部落の子供.

部落の親子.


部落の建物.


対岸に仏像の絵.流石仏教国だ.


ラサ市の入り口には検問があり,漢族の解放軍の兵士が見張っていた.


 ラサは富士山とほぼ同じ高さの高地である.ガイド・ブックには,到着してすぐ動くと高山病になると書いてあったので,昼寝をすることにした.案の定すぐ町に出た外国人たちは頭が痛くなり,空気枕に入った酸素をかかえ,酸素を吸っていた.

 民族性豊かな夜の歓迎宴.
ホテルはチベット風だが,食事は中華料理であった.河口の本に書いてあった,チベット人の常食であるツァンパ(麦こがし.粉を水で練っただけのもの)とバター茶(お茶にバターとミルクと塩少々を加え良く混ぜ合わせたもの)を特別に所望したが,とても口に合わず閉口した.


歓迎の宴.


早速チベット美人と記念撮影.


ヤク.バター用のミルクを採る重要な家畜.牛よりは少し気が荒いようだ.


 翌 19 日はポタラ(布達拉)宮見学.ポタラ宮は町で一番高い丘の上にある.丘の中腹の城門から入り頂上まで登らなければならない.



ポタラ宮入り口.

ポタラ宮の標識.

入場券.


城壁は高い.

ダライ・ラマ(達頼喇嘛)像か.

小坊主が経典を勉強中.


宮殿から南方を見る.






文化革命で荒れた宮殿の修理.

白宮.

宮殿を後にする.


町の点景.


アクセサリーのみやげ物売り.


アクセサリーの押し売り.観光客を見ると
寄ってくる.トルコ石とかきれいだ.

行商のおばさんの井戸端会議.右手は恥ずかしがるおばさん.


ノルブリンカ(ダライ・ラマの離宮).
 1959年の暴動の際,ダライ・ラマは急遽インドに逃れることになった.そのときあわてて出立したため,寝室は散らかしたままだった.その寝室の様子が保存されていた.


ノルブリンカ宮.

ノルブリンカ宮前の狛犬像.

門の飾り.


夕方,ジョカン(大昭)寺を大急ぎで廻った.これは文字通り右廻りをした.ジョカン寺はチベット仏教の総本山である.五体投地でラサからチベット西端のカイラス山の聖地まで巡礼する人がいるということだ.1回の五体投地で身長分以下しか前進できないから,時速は1 km弱,カイラス山まではザット見積もっても1年はかかりそうだ.


ジョカン寺前の広場.

五体投地.

五体投地.


仏様.

寺の中.お灯明のバター油がくさくて頭が
痛くなる.

文化大革命で荒らされた所を修理.



奉仕作業.


マニ車.これを回してお経を唱えると霊験
あらたか.

幔幕に囲まれた本堂.




 20日午前はラサ郊外のデプン(積米)寺,午後はセラ(色拉)寺へ行く.
デブン寺で,イタリアの教授がチベットの政治情勢について,熱心に若い僧に聞いていた.僧は「中国の放送は信用できないので,自分たちは BBC の放送で情報を得ている」と言っていた.ラサの戒厳令が解除されたばかりで,チベットの置かれている様子を表わす生々しい証言だ.


ラサの町は犬が多い.そしてとてものんびり暮らしている.

デブン寺入り口.

山肌に張り付いたように建てられている.


岩のモニュメント.

岩に描かれた仏像.

寺からの眺め.

いろいろな仏像がたくさん飾られていた.日本のものと違って,とてもカラフルだ.殆どは塑像だ.


観音菩薩か.

ヒンドゥー教の神像か.




阿弥陀仏か.

脇侍.

ダライ・ラマ.


台所の様子.

食事の用意.


釜.


 セラ寺は河口慧海と多田等観ゆかりの寺だ.
河口は仏教原典を探るべく大阪を1897年出発,当時鎖国だったチベットに中国僧と偽り1900年に入国,1900年3月から1901年7月までこの寺で修行した.現地の人に施した医療行為でダライ・ラマ13世の信頼を受け,政治顧問を勤めたが,日本人であることが露見しそうになり1903年に帰国した.その際大量のチベット仏典を日本に持ち返った.
多田は西本願寺派の大谷光瑞により1912年インドに派遣され,ブータン経由でラサに入り,1913年から1922年までこの寺で修行し,仏典を持ち返った.この寺ではトゥプテン・タダと親しまれた.坊主に河口慧海の事を知っているかと聞いたら聞いたことがあるし修行した部屋があると答えた.
慧海はチベットの一妻多夫制を強く非難していたが,その点については聞かなかった.風呂も一生のうち,生まれた時と結婚する時と死んだ時の3度しか入らないと何処かで聞いた覚えがあるが,真実はどうであれ,ここの気候は乾燥しているから,あまり風呂に入らなくても済むのかも知れない.


セラ寺の全景.


仲良くなった坊主が突然私について来いと
言い裏山に登り始めた.

ここが文化革命で荒らされていない修行場所だと言う.


岩に描かれた仏画.



中庭で(お盆の?)祈祷会が開かれるという.参観者の中には, 早速ご開帳という不届き
連中もいる.

着座した僧侶たち.




えんじ色の僧衣は下っ端の僧侶.

導師の指図で祈祷と儀式.

祈祷会が終わり,我々も記念撮影.



 いよいよラサを去る21日朝,空港に向かった.空港に着いてみると,飛行機が故障して出発が遅れるという.機材を成都から取り寄せるので時間がかかるそうだ.そうこうする内に,機材が間に合わず欠航と決まった.今日は空港ホテル宿泊ということになり,ホテルに入った.これがひどい代物でクーラーが無いのは我慢するとしても水が出ない.昼だというのにスタッフはいないし,食べ物も無い.女性客がトイレにも行けないと騒ぎ出し,結局ラサに戻ることになった.
出戻りの今度は全員西洋流のホテルに泊まることになった.ラサ市内をぶらつき,筆者は夕食にヤクのハンバーグを注文した.とてもおいしかった.さすが牛の仲間と言う感じだ

 次の日空港に来て見るとまだ修理が終わらないという.我々が騒いでとうとう何とか乗機したが,窓の外ではまだ修理をしているではないか.我々は機内から当の飛行機の修理を見るという,めったに無いチャンスにめぐり合ったってしまった.帰りは落ちるならパイロット諸共と覚悟を決めた.怖い思いをしながら成都に無地到着した時は,思わず客の拍手があった.



空港の子供たち.


待たされる客.軍人は休暇で里帰りの連中だろう.

乗機して修理を待つ.暑いので後部ドアをはずした.


はずされた電気系統のカバー.

主翼に乗って修理する人たち.

最後に後部ドアをはめて出発準備完了.



[余禄]  慧海は仏教本来の姿を求めてチベットへ行った.インドでは仏教弾圧のため,古い経典は大半が失われたが,幸いチベットにはサンスクリットから直接訳された古い経典が残っていたからである. ここで,チベットの仏教について,慧海による概説を見ておこう.

 チベット仏教は大別して8世紀頃インドから伝えられた紅帽派と15世紀に興った新教の黄帽派に分けられる.古い紅帽派は妻帯・飲酒・肉食を認めており.慧海はこれを堕落した仏法と考えた.
 新しい黄帽派は経律論の三蔵を重んじ,顕教とそれを更に進めた密教(密教を修得しないと仏には成れないとする)がある.ただし日本の密教より少し原始的な教義であると考えられる.それに土着宗教のポン教が混入する.これは,アミニズム・シャーマン的で組織化されていない黒ポンと教義・経本・仏を持つ白ポンの二つに分けられる.

 現在はダライ・ラマを頂点とする黄帽派が主流である.ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされ,死ぬと何処かに輪廻転生するので,その転生した人間を見付けだし,新しいダライ・ラマにする.ダライ・ラマはチベットの宗教と政治を司る最高責任者である.次席を務めるのがパンチェン・ラマ(班禅喇嘛,阿弥陀仏の化身)である.

 チベットでは最近独立を求める暴動が起きた.青蔵鉄道が開通して漢人がどっと押し寄せて来たのもきっかけの一つではないかと思う.背景を知るために,チベットの歴史をザットおさらいしておこう.

 チベットが歴史に登場するのは7世紀の初めである.ソンツェン・ガムボ(581年〜649年頃)がチベット高原の諸部族を統一して国を建てた.すなわち古代西蔵王国吐蛮である.ソンツェン・ガムボはネパールの王女ティツンと結婚した.その息子は唐の太宗の娘 文成公主と結婚したが,息子が若死したため,この公主はチベットの風習に従い,義父にあたるソンツェン・ガムボと再婚した.熱心な仏教徒だった二人の夫人によって(紅帽派)仏教がチベットに導入され,ジョカン寺が建立された.

 ソンツェン・ガムボの死後,吐蛮国は盛んとなり唐と対立し,一時は長安を占拠するまでになるが,やがて平和条約が結ばれ,822年に銘文を刻んだ石碑(唐蛮会盟碑)がジョカン寺の前に建てられ,現在に伝わっている.その後843年に内紛が起き,さしもの吐蛮国も衰えた.

 チベットは群雄割拠の時代になるが,13世紀になると,元のフビライ汗の信頼を受けたパスパにチベットの支配権が与えられた.このパスパはチベット出身の指導者サキャ・パンディタの甥にあたる.しかしこれも元朝の衰えとともに力を失っていった.長い群雄割拠の後,1642年ンガワン・ロサン・ギャムツォ(ダライ.ラマ5世)(1617年〜82年)は武力により再度チベットを統一して,チベットの黄金時代をもたらす.彼はポタラ宮殿の建設に着手し,(黄帽派の)祭政一致の政治を行った.しかしこれも長くは続かず,ダライ.ラマ5世が没すると,清朝の保護国となった.

 近代に入ると,鎖国していたチベットも西洋列強の圧力に悩まされるようになった.ロシアの南下を恐れたイギリスはチベットに武力侵入し,1903年にラサ条約が締結され,チベットはインドと同じようにイギリスの支配下になった.1912年の辛亥革命で清朝は倒れ,イギリス・中華民国・チベットの代表者によるシムラ会議が開かれるが,チベット独立を主張するダライ・ラマ13世の主張は認められなかった.慧海がチベットに渡ったのはこの混乱の時期だった.

 第二次世界大戦の結果,中華人民共和国が誕生すると,新生中国はチベットを領土の一部と宣言し,人民解放軍をチベットに進駐させた.これに対して独立を主張する大規模な暴動が1959年に起き,ダライ・ラマ14世はインドに逃れ,亡命政権を作り現在に至っている.この後の暴動も表向きは制圧されているが,この旅行の直前まで戒厳令が敷かれていたことは既に述べた.

 かようにチベットは常に.中国からの独立を目指しており,その根は清の時代に遡る.依然としてその運動は絶えず,時々それが顕在化するという事情になっている.根本的にはチベットの宗教(共産国では宗教は阿片である),言い換えると民族的な独自性をどのように取り扱うかという事に帰着する.世界各地で起こる紛争を見ていると,人類は未だその解決法を持っていないようだ. この歴史については『地球の歩き方 中国-C チベット』を参考にさせていただいた.


2008年7月記


河口慧海『チベット旅行記』(1〜5)(講談社学術文庫,1978年6月〜10月)

地球の歩き方編集室編『地球の歩き方 中国-C チベット』(ダイヤモンド・ビッグ社,1992年1月)
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