ついに解明された 時間とは何か

〜目次〜
  1. 時間とは何かを考える場合、当然、四次元というものが問題になってくるので四次元とは何かをまず説明する
  2. 記憶と時間の関係
  3. では、記憶のない世界について、もっとくわしく考えてみよう
  4. 仮 定
  5. 因果律とは何か
  6. ここで私は二つめの仮定をする
  7. 光の伝わりかた
  8. 光と視覚
  9. なぜ四次元を目で見ることができないか、もう一度くわしく説明する
  10. 時間が進むことと記憶との関係
  11. 現実の世界との比較
  12. 結 論

1.時間とは何かを考える場合、当然四次元というものが問題になってくるので、四次元とは何かをまず説明する

私たちの見る世界は三次元であるが、いつ、どこで起こったかがはっきりしていなければ物事をはっきりさせることはできない。

つまり、この世は四次元だと考えるようになったのはなぜかと言うと、空間だけを問題にするのならたて、よこ、高さ以外の方向はないが、この世で起こる出来事を問題にするかぎり、「どこで」と「いつ」との両方が必要である。

つまり「いつ」というもう一つの次元が加わってくることに気が付いたからである。

2.記憶と時間の関係

ところで、もし私たちに記憶という能力がなかったらどうなるだろう、「どこで」はわかるが「いつ」起こったかを覚えていることはできないということになる。
この場合だと世の中を四次元だと考える必要はなかったわけである。つまり私たちに記憶という能力があるから私たちは、この世は四次元だと気が付いたのである。

もう一度具体的に説明すると、この世がなぜ四次元だと考えるようになったかというと、たとえばA点に一辺が10cmの立方体があったとする(図1)。
図1 これははっきりと三次元におさまる。では、この立方体が数分かかって1mはなれたB点へ移動したとする(図2.)。
図2 この出来事全体を三次元にはっきりとおさめることができるだろうか、それはできない、立方体がA点を出発してB点へ到着するまで何分かかったか(つまり時間)がはっきりしていなくてはこの出来事全体をはっきりさせることはできない。

つまり時間というもう一つの次元が加わってくるのである。では、もし私たちに記憶という能力がなかったらどうなるだろう、立方体がB点へ到着した時点について考えてみると、記憶がないのだから、この立方体が過去にA点にあったということは知らないということになる。

さらに、この立方体がA点から数分かかってB点へ到着するまでの過程を見ていても、それも、覚えていないということになる。
このように、もし私たちに記憶という能力がなかったら、時間というものがあることに気がつかなかったはずである。
つまり、この世が四次元だとは気がつかなかったはずである。

(記憶とは実は視覚などと同じ感覚機能の一つではないだろうか、視覚が空間を感じ取るなら記憶は時間を感じ取る、というように)とするなら記憶とは私たちが気づかなかった第六感ということになる。

記憶とは言っても過去の出来事を、覚えているというだけが記憶ではない。たとえば視覚によって得られる瞬間的な、あるいは永続的な感覚がある、そして私たちはふつう、それらをすべて視覚というが実はそれには記憶という能力も含まれている。
視覚とは本来、外界の現象を断続的に感じとる能力と言うべきである。そしてそれらを瞬間的に、及び永続的に覚えているのは記憶と言うべきである。

3.では、記憶のない世界についてもっとくわしく考えてみよう

私たちが、なにかを「思考」しているときのことを考えてみると、何について「思考」しているかというと、必ず過去の出来事について「思考」しているはずである。

表現上は、未来に何が起こるかについて「思考」する、などということもあるが、この場合でも「思考」するための情報はすべて過去のものである。
この情報とは、視覚や触覚などによって得たものを、記憶という能力によって保存しておいたもの、あるいは過去に「思考」したことについてを、記憶という能力によって保存しておいたものである。

ということは、もし、私たちに記憶という能力がなかったら「思考」するための情報がない、ということになり、当然なにかについて「思考」する、ということができなくなる。

その状態の中から見た世界とは、いったいどのようであろう、なんの記憶もないし「思考」もできない、つまり、なんにもない、もちろん時間もない(意識のない状態)おそらくそうだろう。

4.仮 定

時間と空間が同等であるかどうかは現在の物理学ではまだわかっていない、ただ、相対性理論などから、時間と空間は同等ではないか、と推測されている。

そこで、私は時間と空間は同等である(つまり、四次元時空というものが実在し、それはどの方向にも同等な空間である)と仮定することにした、ここから先は、すべてこう仮定した上での理論である。

私がこう仮定したのは、四次元時空はどの方向にも同等なものであるとしたほうが自然であるからである。その中の一次元をとってきて時間とし、しかもそれは進むものだ。などというのは不自然だと考えたからである。

時間と空間が同等であるとした場合、四次元時空にはどのような特長があるだろう。
一般相対性理論では、この世の現象は四次元時空の幾何学であるという。しかし、四次元の絵を描くことはできないので、三次元X.Y.Z.から、Zをなくし時間ctを加える、(図3) .これがミンコフスキー空間である。
図3 この考え方が正しければ、その中の一次元の時間の方向のとり方によって、その三次元空間の物理学はいろいろ変化するはずである。
この四次元時空の幾何学の中で、たとえば私たちと同じ時間の方向をとれば、その三次元空間では私たちと同じ物理学(自然現象)が成り立っているように見える。
また、ちがった時間の方向をとれば、その三次元空間ではちがった物理学が成り立っているように見える。

このように四次元時空には時間の方向の取り方によって特長がある。
【たとえば】私たちと同じ時間の方向をとる世界では因果律というものが成り立つが、これもその特長の一つである。

5.因果律とは何か

この世の現象は時間的に、かならず原因の後に結果がくる、これが因果律である。

いままで言ったことを四次元の幾何学で考えてみると、私たちの時間の方向をとった場合、因果律は常に成り立つ、つまり、そのような法則のもとに、四次元の幾何学がまず出来ていて、その中を私たちが進んで行く(時間が進む)から、私たちの世界では因果律が成り立っている。
ということが言える。

種の起源も生物の進化も生命活動も因果律に基づくものである。四次元時空で、一次元の時間を取る方向はいろいろあるが、種の起源も生物の進化も生命活動も 成立する時間の方向は、因果律の成立する私たちの時間の方向しかないのである。

6.ここで私は二つめの仮定をする

因果律は四次元時空の幾何学を形づくっている法則であり、それは、時間が進むこと以前に決まっているものである。

このことは、実は時間と空間が同等であると仮定したときすでに、こう仮定したと同じことなのである。
なぜなら、時間と空間が同等であると認めた時点でこの世の現象を四次元の幾何学であると認めたと同時に、時間は、本当は進んでいないと仮定したと同じことである。

7.光の伝わりかた

四次元時空の特長として因果律と同様に、光の伝わりかたもその特長の一つである。これは四次元時空では(図9.)ライトコーンとしてあらわされる。
ライトコーン(図9.)は常にct軸を中心とした逆円錐になっている。
 私たちの世界で考えると光は私たちの三次元空間にだけ伝わる。私たち生物は、その光を目で見るのだから、私たちの三次元空間だけしか見ることができない。
私たちの感覚で言うと(図9.)は(図10.)のようになる。(図10.)ではライトコーンはほとんど平面になっている。X.Y.Z→X.Yであるからこの平面はちょうど私たちの三次元空間である。
(この図10.で私たちのt軸は光の面に垂直になっているが、私たちの世界では光速度はどの方向にも一定だから、これでかまわない)

図9 図10

光がこのように伝わるのはあたりまえの話であるが、ひょっとしたらそれは私たちの見る世界に大きく影響しているのではないだろうかと私は考えた。

8.光と視覚

私たちは外界を感じとるために、進化によって視覚というものを身につけた(本当は触覚などもあるが視覚は外界を感じ取る感覚の主であるからここでは視覚だけを取り扱う)

さて、視覚とは光を感じ取る機能であるから光が伝わってこなければ当然役に立たない、そして、光は私たちの三次元方向にしか伝わらない、だから私たちは光の伝わってくる三次元以上を見ることはできない、私たちが見る世界が三次元なのはこのためではないだろうか、とするなら、もし私たちに視覚という感覚機能しかなかったら、私たちはこの世は三次元だとしか考えなかっただろう、しかし私たちはこの世が本当は四次元であることを知っている。
なぜだろうか、それは(2.記憶と時間の関係)で言ったように、私たちに記憶という能力があるからである。

つまり、四次元時空の中で光では見ることのできない時間軸ct方向への感覚を記憶という能力によって感じとることに成功したのである。
進化によっていろいろの方法がためされたが、記憶という方法しかなかったのである。

この考え方が正しければ、時間と空間は本当は同じものであって、それを見る私たち自身の感覚機能のちがいから、この二つを異質のものであると感じるのではないだろうか。
ここで一つ問題がある。私たちは視覚も記憶も進化によって身につけたものであるが、時間と空間は同等(つまり、時間は本当は進んでいない)と仮定した上で進化が成り立つかどうかである。

進化は一見、時間が進むという前提の上に成り立っているように見えるが、それと同時に進化とは因果関係で成り立っている。
つまり、進化とは因果律に基づく一つの現象である。だから進化も四次元時空から見れば、因果律に基づく一つの幾何学になっているはずである。
因果律は、時間と空間は同等であると仮定した上でも成り立つとしたから、 進化もこう仮定した上でも成り立つ。
また、私たちがなぜ三次元空間も時間軸も感じとらなければならなかったかというと、その方が当然、自然淘汰に有利だからである。

9.なぜ四次元を目で見ることができないか、もう一度くわしく説明する

(図11.)は、四次元時空に、ある物体があり、その物体がAの位置(時刻)で発した光、Bの位置(時刻)で発した光があり、Aから発した光をちょうどうける点に、目をおいたものである。
四次元を目で見るということは、簡単に言えば、目が(図11.)の位置にあったまま(時間的にも位置的にも止まった状態)で、点Aと点Bの両方を見るということであるが、そんなことはできない。どうしてもct軸がのこってしまうのである。
図11 つまり四次元時空を目で見ることはできない。

ところが、点Aと点Bの両方を見る方法がある。
(図12.)の目1.と目2.の方法である。(実は、四次元時空での目のとり方は無限にあるのだが、ここでは、この二つだけについて考えてみる)
(図12.)の目2.を私たちの世界で表現すると、これはかなり大きい、あるいは長い目である。
なぜなら、点Aで発せられた光はものすごい速さで伝わる。
次に点Bで光が発せられる時にはAの光と目2.の交点はかなり遠くになっているからである。これはひょっとすると地球よりも大きい、あるいは長い目である。
こんな目をもつ生物が地球上に発生するわけがない。
(この場合は目2とAの交点、目2とBの交点は、はなれているので,Aの交点とBの交点との間で情報を伝えなければ四次元時空を把握することはできない。そして、その情報伝達の速度は光よりも速くなければならない。)

では、目1.はどうだろう、これを私たちの世界で表現すると、これならいくら小さい目でもかまわない、しかし、目1.とAの光との交点、Bの光との交点は、はなれているので、Aの交点とBの交点との間で情報を伝えなければ、四次元時空を把握することはできない。

目1.の場合、受けた光を情報にかえて伝えるのだから(図12.)の目1.は四次元時空を光で見たことにはならない。また、この情報を伝えるやくめを記憶が行っているのではないか、と私は考えた。 図12

つまり、四次元の三次元分を目で見、のこり一次元は記憶という能力で感じとることになった。

(いままで言ったことを図におきかえてみると(図13.)のようになる。) 図13

10.時間が進むことと記憶との関係

(2.記憶と時間の関係)で言ったように、もし私たちに記憶という能力がなければ私たちは、時間というものの存在に気がつかなかったのだから、もちろん時間が進むという感じもしなかったはずである。
そこで私は、時間は進むと感じるのは私たちの記憶という能力の影響ではないか、と推測した。

(図16.)でそれを説明する。
 (図16.)において、今は時間と空間は同等であると仮定しているから、時間が進むなどとは考えてはいけない、だから、この図は一コマ 一コマが四次元的に同時にある、と考えなければならない。
 では、(図16の図の3)のコマを取り出して考えてみよう、3のコマでは過去に肉とリンゴを食べたという記憶があるから、そこまでなにかが進んだと感じるはずである。 図16

こんどは4のコマを取り出して考えてみよう、4のコマでは過去に肉とリンゴとブドウを食べたという記憶があるから、そこまでなにかが進んだと感じるはずである。

1〜5すべてのコマに、これと同じことが言える。このように、過去の記憶のある一コマ一コマが連続的にならんでいれば、その中にいる人物はあたかも時間が流れているかのように感じるのではないだろうか(四次元的には時間は進んでいないと仮定したうえで)
つまり時間が進むから私たちに過去の記憶があるのではなく、過去の記憶があるから時間が進んでいると感じる。
記憶は因果律に基づくものであり、因果律は時間が進むこと以前に定まっているものである、と私は仮定している。だから今は時間以前に記憶がある、と考えてかまわない。
また、因果律に基づくものであるから、未来の記憶があるなどということは、考えられない、また過去は因果律上見ることもさ触ることもできないから、消えて無くなっていると感じるはずである。

また、3.、で説明したように「思考」しているのは今の瞬間である。それと同時に、ほかの一コマでも今の瞬間と感じて「思考」している一コマがある(「思考」とは因果律に基づく一つの現象であるから、ここでは時間が進むということ以前に「思考」がある。と考えていい。)このような一コマ一コマが連続的にならんでいれば、その中にいる人物はあたかも時間が流れているかのように感じるはずである。

(図16.)について、これとよく似た現象がある。しょうぎだおしである。

(図17.)は下の一コマ一コマとしょうぎのコマが混同して説明しにくいので、しょうぎのコマではなくドミノを使っている。 図17

しょうぎだおしは、前のドミノが倒れることによってそのあとのドミノが倒れる。これと同じことが次々に起こってゆき1⇒14まで続くという現象である。

図で言うと、いま8のドミノが倒れることによって9のドミノが倒れようとしている、9のドミノが倒れれば次に10のドミノが倒れるであろう。

この倒れるということを記憶すること、と考えてみよう。

いま8のコマで記憶したために、その勢いで9のコマで記憶が行われようとしている。9のコマで記憶が行われれば、次に10のコマで記憶がおこなわれるであろう。この中では確かになにかが進んでいる。

この原理が時間が進む原理ではないかと私は推測した。

しょうぎだおしも因果律に基づく一つの現象であるから、こう考えればたしかに合理的である。
私たち自身は、時間とはこうやって進むのだと理解してもいいだろう。
しかし厳密に言うならこれは間違いである。 なぜなら(図17.)では10のドミノは明らかに倒れていないのに、下の図の人物にはすでに過去の記憶がある。
下の図の全部のコマにはすでに、すべて過去の記憶があるが、ドミノば、そのドミノが倒れるまでは立ったまま(記憶がない)の状態である。
この不都合を解決するために、私は(図18.)のように考えた。
図17 (図18.)のドミノはすでに、すべて倒れてしまっている。こうすれば前の不都合はなくなる。 それでは(図18.)の8のドミノについて考えてみよう。

図では8のドミノは倒れてしまっているが、8のドミノについて考えている時点では、8のドミノはいま倒れようとしている瞬間なのである。
そして、その時点ではそれ以降のドミノは、まだ立ったままであると考えていいのである。
そうすると、しょうぎだおしは、その瞬間から続いていこうとするだろう。

こんどは、13のドミノについて考えてみよう。

13のドミノについて考えている時点では、13のドミノはいま倒れようとしている瞬間であり、その時点ではそれ以降のドミノはまだ立ったままであると考えていいから、その瞬間からしょうぎだおしは続いていくだろう。

それと同じことが、すべてのドミノについて、言える。とすればこの中では確かになにかが進んでいる。
それも、13も8も3も、同時になにかが進んでいると考えることができる。
なぜなら、(図18.)で見るかぎり、13も8も3もまったく同じ状態だからである。

このように考えると、自然現象を感じている私たちとは、このように、しょうぎだおしの倒れてしまった後のものが永遠に(有限かもしれない)続いているものであると考えることができる。

その考え方でいくと、今は1983年11月12日午後12時16分42秒で今確かに時間は進んでいるが、【確かに進んでいるように感じるが】過去の1979年8月13日午後3時22分14秒もそれと同時に進んでいる【進んでいるように感じる】と考えられる。さらに、未来の1999年6月22日午後4時50分20秒の時間もそれと同時に進んでいる【進んでいるように感じる】と考えられる。
また、四次元的には過去から未来、すべてが同時にあるのになぜ今が1983年11月12日午後12時16分42秒なのかと言うと、四次元時空のちょうどその断面を見ている(感じている)からであり、そして、その断面では、それまでの過去の記憶があるからである。

次に、(図16.)についてもう一度説明すると「今」の自分から見た「次」の自分とのつながりはなにもない、しかし、私たちは意識のない状態というものを経験することは不可能である。だから、私たちの確認できるのは、常に、意識のある自分、であるはずである。
図16 図から考えると「今」という時点までは、確かに意識があるはずである。意識のある「今」という一コマ一コマが、一つのつながりとなっている。(意識がある、という状態は「思考」などをしている状態で、その中の人物は、今、確かに時間が進んでいる、と感じているはずである。)
 (思考も意識も因果律に基づく一つの現象である。だから、その中の人物には意識があり時間が進んでいるかのように感じている。)

・この理論では、私たちの感覚機能のうちの視覚と記憶だけしかあつかわなかったが、私たちには、まだほかの感覚機能もある。たとえば触覚などがあるが、これは目と同じ三次元空間を感じ取るものである。
そして、その作用は因果律に従うものであるから、たとえば過去をさわる、などということはできないし、未来をさわることもできない、そのほかの感覚機能も同様である。

11.現実の世界との比較

私の「時間とは何か・四次元感覚論」の説明は終わったので、次にそれを、現実の世界と比較してみよう。

現実の私たちの考えている時間というと、時間とは、過去から未来へ一つの点だけが進んでいるように感じる。
そして今というものは、最も時間が進んでいると感じる時期であり過去とは大きく違うように思う。

現実の私たちの考えている時間というと過去とは消えてなくなっているものであると感じる。
私の理論でいうと、【因果律上】過去は見ることも触ることもできないから、その中の本人は、過去は消えてなくなっている、と感じるはずである。しかし過去の記憶はのこっている。と感じているはずである。

未来はというと、ある程度予測することもできるが、大体わからない、過去と未来とを比較すると、かなり違うように感じる。
因果律上、未来は見ることも触ることもできない、未来の記憶はない。

これが現実に私が感じる時間である。

では、私の理論による時間はどのようなものかと言うと、まず、四次元的に過去から未来へ、過去の記憶のある一コマ一コマが並んでいて、その一コマ一コマはすべて四次元的に同時にある。
その中の人物が目で見ることが出来るのは今だけである(厳密に言うと、それにも瞬間的な記憶が含まれている)。この点で過去・未来とは大きく違っている。
また、過去は記憶で感じとれるが、因果律上未来を感じ取ることは出来ない。

 時間の進み方については、(思考も意識も因果律に基づく一つの現象である。だから、その中の人物には意識があり時間が進んでいるかのように感じている。)

私の理論から考えられる時間というものと、現実に私たちが考えている時間というものは、外から見れば大きな違いがあるように思うが、中にいる人間自身の感じ方を比較すると同じである。

12.結 論

まず、相対性理論が実証されつつあるということは、おそらく時間と空間は同等である。
そして私の理論では、時間と空間を同等であると仮定した上で、時間の特長を説明することが出来る。
だから、時間と空間は同等である。時間は本当は進んでいない。

酒巻直秀 著

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