
文中、人名に続く○数字は、
現町内会の班を表します。
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①町内会のあゆみ 平成11年1月掲載
②第六天神社のあらまし その1 平成11年5月掲載
③ 〃 その2 平成11年6月掲載
④ 〃 その3 平成11年8月掲載
⑤ 〃 その4 平成11年10月掲載
⑥ 〃 その5 平成11年11月掲載
⑦ 〃 その6 平成12年1月掲載
⑧ 〃 その7 平成12年4月掲載
⑨ 〃 その8 平成12年6月掲載
⑩学校とこどもたち その1 平成12年9月掲載
⑪ 〃 その2 平成12年11月掲載
⑫ 〃 その3 平成13年1月掲載
⑬ 〃 その4 平成13年2月掲載
⑭ 〃 その5 平成13年5月掲載
⑮ 〃 その6 平成13年8月掲載
⑯ 〃 その7 平成13年10月掲載
⑰ 〃 その8 平成14年1月掲載
⑱ 〃 その9 平成14年4月掲載
⑲ 〃 その10 平成14年9月掲載
⑳ 〃 その11 平成14年10月掲載
㉑ 〃 その12 以降 Web のみ
⑫ 上矢部共進小学校
⑬~⑰ 中川尋常高等小学校
↑ ↑ ↑
ひでおちゃんは昭和3年生まれだから、この時代のお話が一番長いのです!!
⑱~⑳ 横浜市立戸塚小学校
㉑~ 〃 東戸塚小学校 更新しました!
坂本の戦没者を偲んで (特別編)
坂本のはじまり (今後の予定)
暮らしと戦争 (今後の予定)
限りなき発展 (今後の予定)
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① 町内会のあゆみ
坂本町内会は昭和15年、国政の命により結成設立された。
全国的に部落会、町内会、隣組制度を確立し、20年の終戦と同時に解散となる。この間、3人の会長が運営し、昭和30年代に入り、社会情勢に併せて、再出発し現代に至る。
現・河原会長は歴代7人目で、会の歴史は通算49年になる。
【参 考】
◇ 現在の戸数と人口
約480戸2100人
◇ 昭和15年
38戸240人
◇ 明治5年は上矢部七拾弐番屋敷(小島嘉助現⑤)~九拾九番屋敷(安西権右衛門現鳥が丘)
28戸183人
◇ 壱百番屋敷は第六天社
◇ 慶安5年(1652年)の戸数
28戸
◇ 明治初期は上矢部村○○番屋敷と表示。
以後、昭和14年3月までは神奈川県鎌倉郡中川村上矢部字坂本だった。
(郷土史・市、区の文献から)
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② 第六天神社のあらまし(その1)
425年前に建立されたといわれ、祭神は面足尊(おもたるのみこと)惺根尊(かしこねのみこと)の二神。
現在の社殿は192年前に再建され、創建時代の戦国の世と異なり、文化隆盛を極めた時代。幸いにして天災、人災に遭うこともなく、立派な社である。
当初の例祭は3月15日であったが、明治から11月23日となり、最近は地域との関連もあり9月15日に行っている。
この例祭を司った神官は、坂井⑪が代々大正11年まで、以後は築山(谷矢部西)中川(戸塚町)本多(現・戸塚町)らが担当した。坂井幸雄⑪が昭和28年以降この補佐役を務めている。
昭和10年代まで年間祭事は、「除夜の太鼓」で新年を迎え、14日の「さいと焼き」子どもの「お宮参りと七五三」「結婚式」など多彩。さらに、毎月1日と15日は高学年(中学1・2年)が中心となり境内の清掃をしてから登校し、その日村人のほとんどが参拝をしたものである。約400年間村人の憩いの場、情報交換の場であった。
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③ 第六天神社のあらまし(その2)
名主・村長が町内会長に、宮役・百姓代表が各委員、役員にと、時の流れで呼び方もだいぶ変わったものである。
今日まで村の生活を見守ってきたもののひとつに、石段の左右に立つ樹齢450年の樫と椎の木がある。そして鳥居の両側にある、いちょうとヒマラヤ杉は、昭和15年に皇紀2600年記念を祝い、青年団の犬山喜吉①坂井初雄⑪石塚泰次⑭安西久満治(鳥が丘)ら役員らが植えたもので共に樹齢70年。
ところで、神社史には明治37、8年の日露戦争の祝勝会の詳細が記されている。この時は犠牲者がなかったが、わずか32年後の昭和12年7月に日中戦争が起こり、鎮守の杜では戦場に旅立つ人の壮行会が何十回と行われ、ある時は、合同で挙行したこともあった。
ラッパ、太鼓を先頭に「必勝・武運長久」ののぼり旗を立てた行列は、坂本踏切(今の人道橋の所)を渡り、柏尾川堤から戸塚駅へ・・。
同志のうち、10人が再び坂本の土を踏むことはなかった。
時の人口約220名。この史実は坂本にとって忘れがたい痛手である。(次号につづく)
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④ 第六天神社のあらまし(その3)
昭和12年から8年間の戦争による坂本村(町)の犠牲者は、10人で次の方々です。(●印は家族など不詳)紙面よりご冥福をお祈りします。
安西正一⑮(昭和12年支那の中支で渡岸作戦中工兵隊員として)、竹田善一⑨、●成田 誠、犬山照雄①、廣田銀造⑨、●高橋
久、石塚秀夫(鳥が丘)、石塚武夫㉖、廣田常雄④、山田恭司㉕(同19年10月フィリピンのレイテ湾戦で第二神風特攻隊忠勇隊長として)
昭和15年7月、軍事目的で全国市町村に隣組制度が確立され、坂本は5組編成の町内会でスタートした。
初代会長には、犬山義治①が就任。翌16年12月太平洋戦争に突入し、毎月8日、会長が社殿前で宣戦勅語を奉読するのを町民は整然と聞き入った。やがて本土空襲が日を重ねて激しくなり、同20年春には「学童疎開」の一策としてお宮さんの本堂が低学年の教室として利用されたのである。だが、何の設備もない粗末なもので、長続きしなかった。(生徒体験者は安西勇)ほか。出張教師は戸塚小学校の平井和滋先生)
ちょうどこの頃、石段下にL字型の防空壕が完成した。
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⑤ 第六天神社のあらまし(その4)
昭和20年春、第六天神社石段下にL字型の長さ約15m、高さ2m、巾1.8mの防空壕が完成。
隣組10軒が1日2交代で、鍬やスコップなどの手作業だけで掘ったというのだから驚きだ。
完成時の使節団として市の役人、陸軍関係者など数人が来場し、一巡して「これは市民の誇りで功績は誠に大である」と褒め称えたとか。残念ながらこの時の記録がなく、当事者もみな他界してしまった今では昔話の一片でしかない・・。
これから3ヶ月あまりで終戦となり、町内会は解散。宮役(総代)3人が会全体の運営処理の任を負い、ここで坂本の組織体制は逆戻りしたのである。
が、戦後の苦しい時代が流れる中、坂本には人情味や庶民性のある風習が根強く生き残っていた。
戦時下の青年団も同時に解散となったが、物も娯楽も少ない時代だからこそ自分たちでなんとかしようという気概で、あらたに青年会としてスタートさせた。そして3年続いた秋祭りでの「奉納素人演芸大会」は坂本の行事のひとつでもあった。
前号おもしろ百科の「平井和滋」は「平井知滋」の誤りでした。
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⑥ 第六天神社のあらまし(その5)
歴史ある秋の祭礼(10月2日)で「奉納素人演芸大会」は坂本の飛躍台であり、組織ひとつない中で3年間続いた。
運営はすべて青年会が取り組んだが、資金集めの苦労は、今でも語り草のひとつになっている。
活動はまず、境内に杉丸太を組み合わせた芝居小屋を作り(今、会館が建っている所)、台本、演出からスタートした。
幸いだったのは、地元出身で横浜で衣裳屋を営んでいた方から、舞台裏など全面的な支援があったことである。化粧、着付けがプロ級ということで「馬子にも衣装」、気分は高揚した。
開催当日は境内一面に麦藁をまき、藁ござを広げての見物風景だった。柿や栗を食べながら、これぞ秋の夜の楽しみ方!が、観客が押し寄せ、けが人まで出てお巡りさんが出動する騒ぎもあった!
この後2回ほど、映画会を開いた。国内外のニュース、のらくろ二等兵、風の又三郎といった内容で、やはり大人気であった。
やがて、高度成長時代に入り、坂本にも数多い相談や行政からの問題が持ち込まれるようになった。討議場所も個人宅では限界があり、「会館建設案」が急浮上。昭和28年春頃のことである。
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⑦ 第六天神社のあらまし(その6)
昭和30年代を迎える頃、坂本も急速に人口が増えて活気が出てきた。もちろん、ワンマン道路(横浜新道)の開通(28年8月)もあったが・・。そうして、3年余の年月を費やして念願の神楽殿(町内会館)が昭和33年秋、ようやく完成したのである。
境内の松や杉などを伐採して活用したので、建設費は大幅に削減できた。これらの樹木は明治時代に植林したもので先代の労は大きい。伐採も運搬にしても、多くの汗と力があったのである。まだワンマン道路といっても横断は自由で大きな丸太を荷車で運ぶこともできた。
完成記念の手拭いには10月2日付で「神楽殿完成記念」「坂本第六天神社氏子中」とある。時の宮役(総代)は犬山英二①坂井博雄⑪安西直蔵㉙の3人。今日では「第六社」というが、創建時の「第六天神社」の名称に先代たちは愛着があったのだろう。
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⑧ 第六天神社のあらまし(その7)
坂本のお宮さんは、創建されて約430年。当時は第六天神社と呼ばれていたようだが、約190年前の再建(現在の本殿)時には、第六天神といった。「村の天神さま」「お宮さん」と村人は崇拝しつつ、情報交換の場にしてきた。
時代は変わって、昭和21年、宗教法人である「神社本庁」の設置によって全国の約八万を数える神社、社、神宮、宮、六社などが見直され、各社の運営、管理面等の検討、社名の変更も行われたという。
今日では、第六社であるが、最近までは第六天社ともいってたし、市販の公図にしても様々な名で書かれている!
ところで、坂本のお宮さんでは年に一度、秋の祭典(祭礼)があるが、今日まで中断したという記録がない。まさしく伝統行事である。
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⑨ 第六天神社のあらまし(その8)
秋の祭礼に繰り出す御神輿と山車は、子どもたちの楽しみのひとつである。
この神輿は石井幸次郎氏③(平成6年88才没)が昭和55年に知人の大工さんに特注したもので、山車はこの三年後に広田久雄氏⑨が横浜伊勢佐木町界隈で活躍していた山車を譲り受けて奉納したものである。(木車はゴムタイヤに取替えた)
また、去年は祭りのハッピも新調されている。
この本殿と社務所(会館)には先代の汗と力による遺品が多く残されているし、本殿の縁下にある2本ののぼり竿は明治40年頃のもので、昭和10年代まで「村のまつり」のシンボルだった。
現在日本全国に約15万余の神社、寺院があるが、地方では雑草に埋もれた鳥居や礎石だけを残しているものが多いという。今、各地で「村・町おこし」がその歴史や文化を組み入れた内容で展開されている。
坂本のお宮さんもこれからの運営管理など多くの課題を背負っているが、20世紀最後の秋祭りはもうすぐだ!
(完)
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⑩ 学校とこどもたち (その1)
江戸は東京に、相模は神奈川(府)になって、明治が始まった。明治5年(1872年)に学制が頒布され、寺子屋や私塾などが政府の管轄下に置かれた。学校・教育に関する制令が多く施行された明治には、日清、日露戦争が起きている。
さて、坂本のこどもたちは、この一世紀余をどう歩んできたのだろうか。10回の連載でお送りします。
坂本周辺の寺小屋としては、「正福寺」(上矢部旧橋本鉄鋼所の南西)が有名で、のちに克明学舎(学校)となった。
次が、「上矢部共進小学校」「中川尋常高等小学校」(今の岡津小)。横浜市に編入してから、市立の戸塚小→東戸塚小→矢部小→現在の鳥が丘小と通学距離は短くなる。
上矢部郷土史や文献によると坂本村の生活は豊かでなかったので、寺子屋は勿論、明治20年頃まで、学校に通うこどもは皆無だったという。
この頃の月謝は、50銭(昭和10年頃でも大福が一個1銭)。それに、7月と12月には金一分(今の1万円位)も必要だったのである。
2回の戦争体験から政府は義務教育6年制と月謝全面撤廃を実施したものの、明治は終幕を迎えていたのである…
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⑪ 学校とこどもたち (その2)
この坂本村は昭和になるまでの300年間、戸数はわずか28戸。
三方が山(海抜平均30m)に囲まれ、東側の約200mが開けていただけだったから、狭い土地の段々畑と田んぼでは生活するのがやっとの土地だったのである。
★ 北から坂本隧道~跨線橋・街山八幡社~しらかば幼稚園の裏山である。★
一人前になると、坂本から出て働く者も多く、、人口はずっと200人足らずであったという。
この頃の子どもの仕事といえば、子守り、水汲み、薪拾いと風呂焚き、夜は行灯のホヤ掃除などで、とても学校に通うどころではなかった。江戸時代になると、東海道の戸塚宿(戸塚・吉田・矢部)が急速に栄えたので、坂本村の生活ぶりが、より目立ったのではなかろうか。
明治中期になり、ようやくひとりふたりと学校の門を叩き始めるのであるが、驚かされるのは、坂本の先代故人が書き残した江戸後期からの実に見事な筆跡や内容の記録や古文書である。
小さな村の中で「親から子どもへ、子どもから孫へ」と寺子屋教育(読み書き、そろばん)が囲炉裏を囲んでしっかりとされていたのである。
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⑫ 学校とこどもたち (その3)
大正10年に廃校になった上矢部共進小学校(現・日の森近く)の45年間はどんな時代だったのか。
それは、海国日本・文武両道を目指しての教育一途であった。すなわち、明治19年に4年制の義務教育、続いて40年には6年制を施行した。高額な月謝制の廃止もした。貧富を問わず国民皆兵である。
この学校に明治37年入学した人が「すでに高等科もあり充実した教育だった」と言っている。
当時、高等科があったのは戸塚と中和田くらいである。
校舎は平屋建ての四教室で、ひとつに2学年の複式学級であった。児童数の増加で新校舎も建てられた。当時の上矢部、坂本、秋葉、名瀬村の有志の尽力もあった。
そのひとりに石塚武兵衛③(明治30年79才没)の名前が残っている。当時使用した井戸は松本諒さん宅で使われている。(昭和54年の話)。場所は上矢部の片曽(かたっそ)広瀬順地、松本諒さんの屋敷周辺である。新校舎建立は地域では初めてのガラス障子であった。遠足は、大正4年に蒔田の共進博覧会に歩いて行ったという1回だけ!
やがて中川村(阿久和、岡津、名瀬、秋葉、上矢部、坂本)として「一村一校」の計画が浮上する。
つづく
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⑬ 学校とこどもたち (その4)
明治22年、府県制の施行により坂本を含む6つの村は合併され「中川村」が誕生した。名の由来は真ん中を阿久和川が流れているから。
この頃、上矢部・岡津・阿久和それぞれに小学校があったが、軍政一途の時代で、一村一校制にして行政指示など統一するよう鎌倉郡長より時の門倉善三郎村長に要請が届いたのである。
しかし、長年の各村観念が強固で意見一致をみないまま大正9年春を迎えた。争点は学校の建設場所であった。
村会がようやく意向に賛同するも村民が納得しなかった。
この責任をとって村長は辞職、後任の中丸氏や助役(石川)宅が反対派に襲われたりしたので、戸塚署は警戒体制を指示したと、時の横浜貿易新報(明治11年2月)が報じている。
このような経緯があり、新築費8万円をかけ、上矢部と岡津の境界線上に小学校が建てられた。鎌倉郡中川村中川尋常高等小学校、今の岡津小である。校庭には境界線である「村社三嶋神社」の参道が通っている。
この時、坂本の子どもたちを戸塚小・川上小に分離したらとの意見もあったが、最終的には全員中川小に決まった。もし、分離されていたら、今日の坂本の姿はなかったかもしれない。
以後16年間、坂本の子どもたちは中川小に通ったのである。
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⑭ 学校とこどもたち (その5)
昭和14年3月までの16年間、子どもたちが通った中川尋常高等学校小学校は、前身の共進小から1Kmも遠く、坂本村の一部だった鳥ヶ谷(全10軒)からは約3.37Km(三十三町二十五間)であった。
狭く淋しい山坂(現在の上矢部工業団地)を雨や風の日も通い続けた。そこには当時3軒の農家があるだけだった。坂本村から富士橋に出て大山道(瀬谷柏尾線)を行く通学路もあった。登下校には高等科の生徒(現・中1、2年)が下級生を連れて先頭を歩いた。これによって、事件や事故の記録は残っていない。
話はかわって、軍政一途の75年間の教科書についてあれこれ。
修身(道徳)は、キミ(君)、タミ(民)の語を強調している。国語は「コマ、マリ、リス」の尻取り法。大正7年に「ハナ、ハト、マメ、マス」となり、昭和8年頃から「サイタサイタ、サクラガサイタ」となる。
その後、昭和20年に新しい時代が始まる。翌年に六・三制実施、22年には国民学校(昭和16年以降)が横浜市立○○小学校と改称された。
※お詫び 前号の明治11年は大正11年の誤りでした。
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⑮ 学校とこどもたち (その6)
中川小学校(現泉区岡津小)時代はどのようだったか?※ 昭和14年3月まで。
◆服装など= ほとんどが着物で、昭和10年頃から洋服姿がみられるようになり、同14年には約1割に増えた。文具と弁当箱を新聞紙に包み、大き目の風呂敷に丸めて腰に結ぶ。10年頃から、肩かけや手提げの木綿のカバンがみられた。
◆先生と学習= 先生は、ほとんど男性。女性は、音楽、和裁、遊戯、事務補助くらいで、全体の一割。学習指導は厳しく、竹の棒で頭や肩を打って注意したり、廊下に立たせたり。また、学科、作文、図画、習字など、クラスの成績上位5名ほどを廊下に張り出したりしていた。
◆生徒代表制= 村ごとに代表がいて、通学時や運動会(村別対抗リレー他)の練習などで皆をまとめていた。
大正天皇が葉山で亡くなり東京に帰るお召列車が通る際、村人と共に約20人の生徒を指揮したのが、石井万吉③(平成12年・87才没)だった。時は、大正15年12月27日夜8時頃。場所は、線路沿いの畑で(現町内会3班の東側)麦わらを積み上げて燃やして出迎えたのだった。(この頃、線路沿い約250mは、道路は敷設されていない。)
◆書籍類= 当時、食べ物は安かったが書籍は印税も高く、贅沢品であった。饅頭1個1銭弱。本1冊60銭~1円(今なら千円程度の内容の本)だった。
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⑯ 学校とこどもたち (その7)
昭和10年頃の子どもたちの遊び。
正月のこま廻しや羽根つき、竹馬、縄跳び、凧上げ、お手玉、虫捕りに魚獲り。夏は水遊び、冬は雪合戦と外での遊びがほとんどだった。
中でも今の子どもたちに聞かせてやりたいのは、水遊び。
今のスポーツ広場は池だったし、柏尾川でも泳いでいた。
東海道の坂本陸橋の下に堰があって、深さは3m近くあった。そこに線路から飛び込むのである。電車の運転手は窓から怒鳴り、電車は汽笛を鳴らしながら走り去って行く・・下流では低学年が魚を獲っていた。いい時代だった。
昭和10年には、日本足袋(現ブリヂストン)が操業し、工業用水池が造成された。そこに金網の下から潜り込んで守衛に追われた者もいた。
冬の朝は、皆で森さん③宅に集まり、玉子大の石を焚き火で焼き、新聞紙に包んで手を温めながら登校した。
時は流れ、昭和14年4月、横浜市に編入することになり、17年余りの中川小学校の時代は終幕した。
田舎の学校から都会の戸塚小学校に!この時、和服は2割程度。年毎に軍政教育の足音は高まり、子ども心にもそれは伝わってきていた。
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⑰ 学校とこどもたち (その8)
前回の「昭和10年頃の子どもたちの遊び」が好評に尽き、続編である。
昭和8年、戸塚競馬場が今の東戸塚小学校・日立工場一帯に開設された。(1周1600m・巾30)
開催日の夕方になると子どもたちは誘い合ってよく出かけた。それは、柏尾川堤などに捨ててある外れ馬券を集めて遊んだり、露天商が店じまいするおまけやサービスが目当てだったからである。
そして桜の季節には、また違った賑わいがあった。吉田大橋から東口の吉倉橋を中心として、花見客が捨てる空き瓶を拾ってはクズ屋(廃品回収業者)に持って行った。一升瓶は5銭、ビール瓶は3銭、ラムネ瓶は1銭5厘で引き取ってもらえた。10銭で大福が8個買えた時代に、それは充分なおやつ代になった。(1円=100銭)
また、開催期間には数軒の農家が物置を馬小屋として貸したり、調教師や馬主を宿泊させる宿屋にしたりして生活を支えていた。
朝夕の馬の調教に、坂本踏切(現・人道橋のところ)から吉田大橋までの堤防道約500mが絶好の距離であったようだ。道路に落ちる馬糞は肥料になるので、すぐに拾い集められて、道はいつも整然としていた。
矢部団地(プロムナード)一帯の広々とした田園風景は、遠い昔である。
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⑱ 学校とこどもたち (その9)
昭和14年4月、坂本(村)が横浜市に編入した時、大正14年~昭和7年生まれの約25人が戸塚尋常高等小学校(現戸塚小学校)へ全員転校となり、昭和8年生まれが新入生として入学した。
この学校は、昭和2年にたんぼを埋めて建てられたので周りには何もない。冬の寒かったこと!昭和26年10月、東戸塚小学校が開校になるまでの12年間坂本の子どもたちはお世話になった。校庭の藤棚がきれいで見事だったことが記憶に残っている。
さて、昭和16年、戦争が始まった頃、子どもたちはほとんどが洋服を着ていたが、男の子は丸坊主頭、女の子はモンペだった。すぐに物資不足となり、下駄履きが増えて、和洋混じったチグハグな格好になってしまった。
戦時中でも運動会や遠足はあった。男子の騎馬戦は騎手が地面につくまでだったのでケガが多かった。女子のなぎなた演技は、はちまきをして整然としたものだった。鈴割りは割れると「武運長久・日本必勝」などと書かれた垂れ幕が出てきた。遠足は、ほとんど歩きだったので、高学年になって電車に乗った遠足は本当に楽しかった。
やがて戦争が激しくなり昭和19年に学童疎開が促進されたが、坂本の子どもで体験者はいなかった。
翌20年、町内会別授業で坂本のお宮さんの本殿が教室に使われた。
お ・ ま ・ け
区役所の隣にある戸塚小学校の歴史は古いが(来年130周年!)今の場所に昭和2年、たんぼを埋めて建てられたもの。この土は大正12年の関東大震災で今の西友戸塚店の南側にあったトンネルが崩れて切り通しにした時の残土を運び込んだものである。
昭和20年戸塚区内の小学校は8校(戸塚・川上・中川・瀬谷・中和田・大正・本郷・豊田)だけだったから通学時間にはこどもの足で1時間以上かかった。この8校で対抗リレーをした時は最高に盛り上がった。(昔の子はかけっこが速い!)
大正13年特別非常連絡用に電話が設置された。その時の番号は横浜・49番。現在は(881)0049である。坂本に電話が開通したのはずっと遅れて昭和37年のことだった。
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⑲ 学校とこどもたち (その10)
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昭和14年4月から26年10月までの戸塚小学校(国民学校時代も)時代はどうだったのか。それは軍国と民主教育の変遷そのものだった。
明治40年頃から昭和16年までは学校の月謝は全部国が負担したが、以後は20銭を徴収した。戦争に勝利するために・・。しかし、物資不足は深刻化し、子ども向けの本も手に入らなくなった。手元の一冊を見たら17年頃65銭、送料12銭それに税(消費税)は7銭とある。今日なら1500円くらいの本と思われる。
そして終戦。教科書はアメリカの指示で修身(道徳)、国語、社会(地理)などはその一部を墨で消したり、修正したのである。
本が不足して二人で読み合うという経験をした人も多いはず。
10月になると疎開先から学童が帰校し始め、翌年には平和産業が稼動して周辺の人口は急増した。戸塚周辺の企業は戦災を受けず、復興が他に比べて早かった。
学校では、青空授業や午前午後の二部授業でも追いつかず、東戸塚小学校が新設された。時は昭和26年10月、児童数765名、教員数19名でのスタートだった。
鎌倉郡時代の八校制(戸塚・川上・中川・中和田・大正・本郷・豊田)から九校目の独立校となる。
坂本の子ども全員が転校し、矢部小学校新設までの19年間を東戸塚小学校に通うことになる。
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坂本の戦没者を偲んで
過去の大戦で坂本では10名の方が亡くなられました。家族の声や日刊紙、戦記資料などを基にその頃のことをまとめてみました。(文中敬称略)
山田 恭司(やすじ) (24才)
広島県呉市の沖に浮かぶ江田島に時の軍政が誇った海軍兵学校があった。(現・自衛隊幹部養成校)ここを特待生として卒業。その式典には両親も特別招待されたという。(正二郎・アキ両親談)教科、訓練とも優秀、大尉に昇進し幹部候補生として基盤を築かれた。
しかし、昭和19年を迎えた日本は戦雲利あらず、敗戦の一途をたどるのであった。
本土決戦と名づけたフィリピン戦は壮絶な戦いが3ヶ月近く続いたという。この時山田大尉は第二神風特攻隊、忠勇隊隊長として彗星機に乗り込む。他に4機、九九式艦上爆撃機4機、零戦1機の10機編隊であった。出陣を目前にし、最後の挨拶に自宅を訪ねたという。(山田 談)
果敢な攻撃で大型輸送船2隻を大破させるも沈没には至らず。時は10月27日、レイテ湾の波高き洋上であった。
同志も皆、隊長級の精鋭ばかりだったというが特攻隊であるから生還はない・・・
英霊として坂本に還ったのは、20年2月の晴れた日だった。この頃山田宅を含む隣組はわずか15軒(現・10~25組の地域)坂本の人口約240人だった。軍、官、民が一体となって英霊を迎えた農道(現・オネスト脇から光学社宅へ)は旗と人の波で埋もれたのだった。
後に二階級特進し、中佐に。 (つづく)
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| 石塚 秀夫 (21才)(坂本鳥ヶ谷・現鳥が丘)
昭和18年2月、山梨県甲府連隊に入営。同24日に転属のため屯営を出発し、軍用列車で坂本を通過した時、戦地に赴く旨の一筆を書いて煙草の箱に入れて投げ落とした。(移動はマル秘であった)これを保線係の人が拾って最寄の犬山宅に届けた。それは当時の町内会長犬山義治宅①であった。(後に石塚宅に持参した)
博多から朝鮮を経由して中国河内省で警備とあわせ訓練を受ける。そして、昭和19年3月、青島を出向し、パラオ島から南方最前線の西部ニューギニア島へ守備隊として上陸。5月のことであった。
この頃すでに日本は各地で敗戦と玉砕が続き苦境に立たされていた。制空権も奪われ、海上からの物資も届かず日ごとに孤立していった。
6ヶ月間の苦戦の末11月22日最前線の島マノクワリの台地で戦死す。
○ ○ ○ ○ ○
弟の石塚清次(現戸塚町)さんが当時の状況を知りたくて、平成7年日刊紙に呼びかけたところ、なんと12人から貴重な証言を得られ、電話口でその何人かは泣いていたという。
毎日のように爆撃と機銃掃射があり、映画「南の島に雪が降る」はこのマノクワリのことであるという。
虫鳴くや 未還の兄の地を見たし
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⑳ 学校とこどもたち (その11)
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もう少し戸塚小学校時代の話を・・
講堂=学校の講堂としては大きくて立派だった。終戦後まもなく進駐軍の物資倉庫として接収されたが、すぐに今の東戸塚小学校の北側(日本光学工場)に倉庫は移転した。
その後、昭和23年娯楽も乏しい時代だったので、地域の青年たちがこの講堂で素人演芸会を開いた。講堂は満員になり、窓まで鈴なりの盛況ぶりだった。そしてその10年後、大改修が行われた。
通学路=坂本(鳥が谷)から学校まで約2,5キロ。坂本地域を出ると現在の蔵坪三叉路(信号機のところ)まではほとんど田んぼばかり。それは、線路の東側吉田大橋から谷矢部東・西の地域、上矢部高校入り口あたりまで続いていたのである。夏の太陽、冬の北風を遮るものもない。
暑い日、数軒あった蔵坪の民家で井戸水をもらって飲んだのも懐かしい記憶である。
この頃はよく柏尾川が氾濫して、一面湖のようになった。今の戸塚ボーリング場周辺が一番低く、水位が1メートル以上になったこともあった!
今のように学校の連絡網などは一切ない時代だから、個人の判断で休校を決めたのだった。
20年代は平和産業が活気を呈し、戸塚の人口も急激に増え、25年4月、戸塚小学校の児童数は2500人を越えた。
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学校とこどもたち (その12)
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東戸塚小学校での20年間(昭和26年~45年)、子どもたちはどんな体験をしていたのだろうか。
まず通学の距離は前の戸塚小学校とほとんど同じだったが、戸塚駅前の大踏切が通学路にあって苦労したことは当時通った者なら忘れられないはずである。
当時は電車の運転本数は少なかったが、 ワンマン道路や横浜新道が開通する前で、戸塚駅は貨物の入れ替え作業が盛んで、大踏切もその作業所であったため、その大踏切は「開かずの踏切」と呼ばれ有名になった。
今ならば柏尾川沿いの堤防が近道だが、ブリヂストンも矢部団地もなかった頃は、一帯が田んぼで農家の人が利用する程度だったので、通学路にはならない寂しさだった。
学校では、一番遠い鳥ヶ谷(現鳥が丘)の子どもは遅刻しても大目にみてもらえたという。
また、30年頃には、駅舎内を通学用にと申し入れもし、通り抜けることが許された時期もあったようだ。
駅までの踏切は、今の坂本人道橋のところの無人踏切と蔵坪町内のタバコ屋さん(町井商店)の前にもあった。
その蔵坪に停車中の貨車の下を潜り抜けた子どもも多かったが、事故の記録が残ってないのは幸いである。
さて、転校したものの木造校舎が一棟で、広い校庭に樹木もなくデコボコだったので、リヤカーで土や石炭がらを撒いたという。
これは当時の役員さんの話ですが、これから東戸塚小学校のようすを記録集などを活用して、順次まとめて掲載していきます。
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