〜内野聖陽への極私的アプローチ〜

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第一章 鮮烈な登場 〜女性の思いを託される理想の男性像〜 

1.TV「ふたりっ子」    

2.TV「ミセス シンデレラ」     

3.映画「(ハル)」          

第二章 映像中期のミステリアス志向 〜脱王子様をねらって〜        

1.TV「誰かが私を愛している」 

2.TV「月のかたち」         

3.映画「黒い家」          

第三章 時間の流れを一瞬に凝縮 〜繰り返される死と再生〜 

1.舞台「みみず」          

2.TV「蝉しぐれ」         

3.能と二つの作品について         

第四章 日本史における反骨の系譜 〜過去から現代を撃つ〜 

1.舞台「藪の中」  

2.舞台「野望と夏草」    

3.舞台「北の阿修羅は生きているか」    

4.舞台「カストリ・エレジー」  

第五章 西欧19世紀を背景にした作品群 〜産業革命が世界を変えた〜    

1.舞台「モンテ・クリスト伯」  

2.ミュージカル「レ・ミゼラブル」       

3.ミュージカル「エリザベート」(初演・再演) 

第六章 舞台「ペリクリーズ」 シェイクスピアへの挑戦 〜日本と世界を俯瞰して〜 

1.「ペリクリーズ」における東洋と西洋の邂逅    

2.「ペリクリーズ」原作の古代社会         

3.「ペリクリーズ」シェイクスピアの時代

第七章 その他の舞台における身体のあり方 〜はみ出る男性性〜    

1.舞台「トランス」       

2.舞台「欲望という名の電車」  

3.舞台「ブルールーム」 

第八章 個々の舞台をつなぐもの        

1.TV「エースをねらえ」   

2.東洋的コントロールについて  

3.ミュージカル「エリザベート」2004         

4.終わりに        

 

 

日本では今韓国のドラマや映画が大ブームで、たくさんのイケメン達が何回でも見られる映像の中や、書店で氾濫する雑誌の中からにっこりと微笑みかけている。日本のドラマやざわざわした映画では味わえないロマンテックで劇的なつくりに多くの女性たちが飛びついている。私は、大学時代に能とであい、クラブで謡いや仕舞を習い、能楽堂にも足を運んで、観世銕之丞師の「求塚」で舞われる姿のまわりに炎が見えた事もあったりしてどんどんのめり込んでいった。卒業後は、見に行く回数こそ激減したが、年と共に大学の時には見えていなかった、「井筒」や「松風」の舞に自分なりの体験を重ねてみられるようになってきた。能は600年間、果てしなく上演を重ね、亡霊が呼び出されては去って行き、これからも連綿と続いてゆくことだろう。一方、演劇はといえば、たった一月足らず上演されると、もうあとはいくつかの舞台記録、写真と、観客の心に記憶をとどめるだけで、ほとんどの劇は大量に消費、忘却されてゆくのみである。よほどの名作か人気作でないと再演されずに消えてしまうのである。それではあまりに、心血を注いで劇作家が書き上げ、演者が作り出したものがもったいない。

 

なぜこう考えるのかというと、私はさる俳優の観劇ごとにノートをつけてきた。それはあまりに主観的な見方だし、後世にまで残って数え切れない人々が見続ける映像作品と違って、何年も前に終わった劇についてのモノローグにどのような意味があるのか。しかし、劇が再演を前提にしないからこそ、まとめてみなければならない気がするのである。なぜ、私は大学時代にあれほど能に惹かれたのか、そして今はこの俳優にこんなに魅せられているのか・・それを捜す旅に出たともいえる。その道しるべになりそうな言葉が、多田富雄さんが書かれた「脳の中の能舞台」にあった(注1)。「観客はストーリーの欠損部分を脳の中に補い、自分の能を作り上げながら見る。だから見る人によってストーリーは変わる。ほとんど意味を失った純粋な身体運動の連続である舞に観客は前シテが語った物語の記憶を投影しながら能を完成させていくのだ。」見る人によって変わるストーリー。私は彼、内野聖陽の舞台を見に行った後も繰り返し舞台を自分の中に呼び出して、また原作も読み込んで、自分だけのストーリーを作り出して来たのかもしれない。

 

彼の舞台を何回か見にゆくと、ここはこの前よりよくなったとか、見る方は非常に忙しく能動的に見ていて、自分の脳のなかで舞台をつくっているので、舞台のテンションが上がってくるにつれて、脳の中のテンションも上がって行って、クライマックスで銕之丞師の時に味わったような幻影をみることもある。能で言えば曲調の盛り上がったところでの、能面や所作のわずかな動きだけでじわーっと情趣が滲み出すように、大事なところでほとんど大げさな表情や声を張り上げたりしないのに、なんだか彼の気持ちがどわーっと溢れ出すことがある。

 

彼の、徹底的に本を読みこみ、役を掘り下げてひたすら良い物を造りだそうという情熱には、毎回驚かされるばかりである。そうして誕生した質の高い舞台や映像で、役自身の持つ力と彼のエネルギーが相乗された存在感と、相手の存在がぶつかり合って火花が散ったとき、そこにはものすごい空間が訪れる。それは、表面的な舞台の盛り上がりどころではなく、むしろ静かな場面ほど深く感動的な情趣が私を包む。なぜ、俳優なのに作為的に演じている感じはなくその劇空間にそのままある感じ、が出せるのか。そして、家に帰ってなぜそのシーンで感動したか、もしくはひっかかり、違和感を覚えたのかをじっと反芻すると必ずといっていいほど、後から後から有機的なつながりが見えてきて、高い精神性に包まれる。この、演技がうまい、を越えた何か、その、何か・・は、何なのか、をさがして私は舞台上の彼を追い、本を漁り、自分なりに系統立てようと試みてきた。

 

彼を表現する時に私がまず思うのは、その指先にまで神経が行き届いた、全体の画面や舞台の中で際だった姿である。その舞台の魅力を伝える完成度が非常に高いと思っていたが、最近彼が自分のHP上で、トートとモンテクリスト伯のイラストを描いていて、少し謎が解けた気がした。筆ペンでさらさらと描いているのだが、役の特徴をつかんでいて、うまいのである。彼は客観的に自分を見る目を養い、頭の中で、どういう風に見せたら一番役の本質を伝えられるかをつかんでから、それを板の上に再現するように努力しているのだろう。

 

次に私が惹かれるのが、彼の目である。彼の目の力は団十郎のにらみではないが、威力があると思うし、それを本人は俳優放射能と呼んでいるぐらいである(注2)。「エースをねらえ」の原作者の山本鈴美香は、あるHPで、プロフィールの写真で見た彼の目を、「何か不思議な生き物のよう」であると言っている(注3)。私も結果的に、彼の目が異次元の世界に通じるドアのような気がした場面を、作品ごとに綴ってきたのだと思う。長くなりすぎるので、章ごとにテーマを決めて、主な出演作に絞ってある。どこまで再現できているか、全く隔靴掻痒の感をまぬがれないが、こんな風に思っている人もいるのだ、ぐらいに読み進めていただければ、幸いである。
 

                                                  

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