What is the Taliban? 「ターリバーン」とは何か

                                                        (2004年作成)

contents:
1.はじめに
2.「ターリバーン」の名の由来
3.ターリバーンの構造
4.ターリバーンの思想的背景
5.ターリバーンの活動
6.おわりに


1.はじめに

 イスラームには、悪いイメージがつきまとう。しかし、決してそうとは限らないということを知ってもらいたい。アフガニスタンのターリバーンに注目し、何が過激な行動を生み出したのかを明らかにしたい。

2.「ターリバーン」の名の由来

 「ターリバーン」という名称は、「学生・知識の追求者」を意味するアラビア語の“talib(طالب)”にペルシア語の複数語尾
“-an(
ان)”が付いたもの。  ⇒ طالبان 「ターリバーン」

 
1990年代初頭、ムジャーヒディーン(イスラーム聖戦士。主にソ連軍と戦った武装勢力)による内戦でアフガニスタンが荒廃していくなかで、アフガニスタン南部やアフガン難民キャンプが点在するパキスタンなどにあるマドラサ(イスラーム神学校)の学生たちが集会を頻繁に開き組織化する動きが見られた。そして、1994年の初秋にムハンマド・オマルを中心とした20名程のグループが頭角を現し、後にそれが2〜5万人に拡大する。マドラサの学生・寄宿生が大半を占めることから、「ターリバーン」と呼ばれるようになったのである。

3.ターリバーンの構造

 最高指導者:ムハンマド・オマル

                    ムハンマド・オマルの実像

1959年頃、カンダハール近郊のノデフ村の貧農家庭に生まれる。ギルザイ・パシュトゥーンのホタキ部族。
1980年代の対ソ聖戦の間、ウロズガン州のタリンコトに移住。その後、カンダハール州メワンド地区のシンゲサル村に赴き、そのムラー(イスラーム知識人)となりマドラサを開く。
1989〜92年までハリスのイスラーム党に加わり、ナジブラ政権と戦う。その際右目を失う。妻は3人。
ターリバーンの最高指導者となり、“amir al-momenin (信仰者たちの指導者)”と称する。この称号は、ドースト・モハンマドがインドのシク勢力と対峙したときに、使用したものである。オマルは、アフガン人の指導者の地位を正当化するために、この称号を用いたと思われる。

  幹部:ムハンマド・ラバニ、ハッサン・レーマニ、アブドゥル・ジャリル・アクンド、ワキル・アフマド・ムタワキル等。

  結成当初のターリバーンを構成していたのは、アフガニスタン南部、パキスタンのアフガン難民キャンプにつくられた、イスラーム・スンニー派デーオバンド学派のマドラサの学生・寄宿生であった。それに賛同者・日和見的な参加者が加わって数を増したのである。

  方針決定は20名程で構成されたシューラー(合議制の評議会)で行なうとされていた。

4.ターリバーンの思想的背景

  イスラーム・スンニー派デーオバンド学派:
イギリスによるインド直接統治が行なわれていた1867年、インド北部のウッタル・プラデーシュ州デーオバンドに神学校「ダール・アルウルーム学院」が設立された。それに携わった反植民地主義のイスラーム指導者が提唱した理論が、やがてデーオバンド学派と呼ばれるようになった。

  特色:◦反植民地・反啓蒙主義(イギリス他列強による支配への反発)
       ◦禁欲的で形式を重んじる(娯楽を全面的に否定するなど)
       ◦シーア派を異端とみなし、妥協を一切認めない
       ◦女性の社会的役割を制限的にとらえる
       ◦絶対的宗教権威の存在、中央集権的な体制

  cf. アフガニスタンの従来の統治体制:
  地方分権的。部族長・長老を中心とした地域共同体を基盤とした社会に、イスラームが共存していた。

5.ターリバーンの活動

活動内容

ターリバーン台頭の
 舞台裏 

ターリバーンが結成当初の20名から2〜5万人に勢力を拡大できたのは、当初パキスタンやアメリカ、サウジアラビアの支援があったからである。

パキスタンは、対インドを念頭に置き、後方支援地域として、また、中央アジアへのルート開拓という意味でも重要なアフガニスタンに、親パキスタン政権を樹立したいという思惑があった。

アメリカは、ロシアやイランの脅威を排除するのに利用したいと考えていた。長引く内戦で結束力をなくしたアフガニスタンを、ターリバーンを利用して安定化させ、石油・天然ガスのパイプラインを引きやすい状況をつくり出そうとしたのである。

サウジアラビアは、アフガニスタンに対する影響力の強化を目論み、ターリバーンを支援したという。

1994 アフガニスタン南部において20名程で決起。
1996 首都カーブルを制圧。暫定評議会を樹立。

ハミード・カルザイを国連大使に任命したが国連の承認を得られず失敗。

ビン・ラーディンと接触。

「イスラーム体制」の確立を目指す。
1997 「アフガニスタン首長国」を自称。
1998 徴兵制を実施。
2000 アメリカと国連による対ターリバーン制裁(ビン・ラーディンの身柄引き渡し要求)。
2001 ターリバーン内部での対立が激化し、強硬派(ムハンマド・ラバニなど)が台頭。

バーミヤンの大仏破壊(2〜3月)。

ターリバーンが国連事務所を閉鎖。

北部同盟司令官アハマド・シャー・マスウード暗殺(9月9日)。

【アメリカ同時多発テロ(9月11日)】

アメリカによるアフガニスタン空爆開始(10月7日)

北部同盟の反撃により、カーブルのターリバーン政府が事実上崩壊(11月13日)。
ターリバーンの本拠地であるアフガニスタン南部3州の引渡し、ターリバーン崩壊。

暫定政権樹立(12月22日)
2002 ロヤ・ジルガの開催
2003 ターリバーンの新グループ「アフガニスタン・ムスリム青年団体」が、対外ジハードを宣言(1月)

6.おわりに

 イスラームの一派の考え・特色がターリバーンの活動基盤になっているとはいえ、「イスラームが悪い」と決めつけることはできないだろう。反植民地主義や復古主義的な側面はむしろ、イギリスやロシア、アメリカといった列強の脅威の反動で生まれ出てきたものであって、イスラーム固有のものではない。ターリバーンによる過激な弾圧・圧制からは、「イスラームの教え」よりも「何かの脅威におびえて自分の立場を守ろうともがいている人々の姿」が浮彫になっているような気がする。


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