| 一、僕にとって哲学とは |
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「哲学」という学問は、非常に捉えにくい。普通の人が「哲学」と聞くと、なんだか小難しそうに感じたり、漠然としすぎていて具体的なイメージを持てなかったりすることが多いと思う。実際、僕もそうだった。「哲学とは?」という問いに対する答え方はいろいろ在るだろうけど、今回は僕の持ってる哲学のイメージを書いて、それに答えてみたいと思う。
「哲学」とは自己確立のための思考である―というのが、僕が最近持っている具体的なイメージだ。これは、いささか自己中心的と取られるかもしれない。しかし自己を確立できずにどうして世界を語れるだろう?結局どんなに客観的な思考を持とうとも、「自分」という根っこがなくては何も語れないんじゃないだろうか。
さて、じゃあ哲学がどうして自己確立のための学問といえるのか。それは、皆さんが哲学するときの事を考えてもらえればいい。
哲学をする時、ある人はプラトンについて興味を持ち、二千年前のギリシャ語のテキストを読む。ある人は「人間の存在理由とは何か」を知ろうとする。こうした取り組みには一見関係性がないようだが、そこにはひとつの共通項がある。あなたがプラトンと向き合うとき、プラトンの向こうにはあなた自身がいる。哲学的命題に取り組むとき、それはあなたにとって何よりも重みのある、あなた自身の問題なのだ。
われわれは哲学をする時、何らかの思考システムや命題を通して、自分自身について深く考えていく。そして、その思考の中で何かを掴み、自分の生き方や考え方のシステムを構築させていく―こうして人は、哲学によって自分というものを確立させるのだ。
それは、彫刻家が彫刻を創り出す作業に似ているかもしれない。真理が封じ込められた大理石に向かい、偉大な哲学理論や哲学的命題というノミを振るって、僕らはまだ見ぬ自分自身を彫り出していくのだ。
これが他の人にとって分かりやすい答えなのか、また共感できる答えなのかどうかは分からない。結局何をどう考えるかはその人次第だから。しかしともかく、これが「哲学とは何か?」という質問について答える時の、僕の答えだ。
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| 二、父の肖像 |
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僕の父の話をしよう。
父は朗らかだった。
いつも良くしゃべり、話の端々には冗談が絶えなかった。父は我が家のムードメーカーだった。関東出身のくせに地元の祭りにがんがん参加する、楽しいことには目のない人だった。
父は山が好きだった。
僕に「岳」の字が入った名前をつけたのは父。休みの日は、時々近くの山に登った。夏休みの定番コースは長野県。高原の名所には、全部足を踏み入れた。
父は小学校の教師だった。
そのくせ、父に勉強を教えてもらった記憶はあまりない。でも、夕食の後はいつも僕と姉を相手にいろんな話をしてくれた。この国のこと、命のこと、人間のこと。それは僕にとって全然知らない世界を覗くことで、いつも引き込まれて聞いていた。
父は厳しかった。
叩かれた事もあった。寒い冬の夜に、外にたたき出されたこともあった。ちゃんと謝るまで、絶対に許してくれなかった。でも、何故か父を嫌いになったことはなかった。
ある日、父は僕に「手術を受けることになった」、と言った。がんだった。父は知らなかったが、その時もう転移していた。手術をして退院した後、しばらくして告知を受けた。延命治療は、しなかった。死ぬまでの間に多くの人たちと言葉を交わし、ある冬の日、息を引き取った。
父は満足して死んだのだろうか。それは、父以外には分からない。でも、僕に多くのものを残してくれたのは確かだ。
「尊敬している人は?」と聞かれたら、僕は真っ先に「父です」と答える。
それが、僕の父だ。
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| 三、小説家〜村上春樹 |
僕が好きな作家は沢山いるし、感動した本はいろいろある。それでも、「あなたにとって一番好きな作家は誰ですか?」と聞れたら迷わずに答えるのが、この村上春樹だ。
彼の小説を初めて読んだのは、高校の実力テストの時。その文章に引かれて、テストが終わったあとにすぐ図書館へ行って借りたのを覚えている。今思うと、あの小説をテストの問題文にしたことについてはいささかの疑問が残るところだけど、まぁそれはよしとしよう。
僕は小説家やミュージシャンといった自分の才能を作品として提供する人たちに、その人となりを問うことはまずない。僕にとって芸術を生み出す人自身とその作品は全然別のものだからだ。「そんなことはない」と言う人がいたら、ワーグナーやゴッホやジミ・ヘンドリクスのことを思い浮かべてみてほしい。僕の言わんとすることがわかるはずだ。
だから、僕はたとえ村上春樹の手になるものであってもエッセイやノンフィクションには手を出していない。作家自身の風景を見るのではなく、あくまでその作家が想像力によって生み出した世界にどっぷりと浸るのが、僕の求めていることだからだ。
それにもかかわらず、彼の小説は彼の個人的な部分を強く投げかけてくる。彼の個人的な部分と創造的な部分が分かち難くあいまって一つの作品を成しているからだ。そのため、僕が作品に引き込まれる時、否応なしに僕は村上春樹に引き込まれる。そうして、彼の小説は僕に多くのことを教えてくれた。
ウィスキー、古いアメリカンロック、ジャズ、癒されることない渇き、まともに生きようとしても失っていく「何か」…。十代の最後の時期において彼の作品は僕の道標であり、二十代の最初の時期において彼の作品は僕の寄る辺だった。
だから、彼の作品は僕にとって非常に個人的なものとなっている。
※僕の一番好きな作品は『国境の南、太陽の西』。初めて読む人にオススメなのは、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』。間違って短編集から読むと、付いていけなくなること請け合いなので御注意を。 |
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| 四、二十一世紀は何の世紀? |
二十世紀は、「戦争の世紀」だったと言われる。
その名の通り二十世紀には二回にわたる世界大戦が起き、人類史上最も多くの人々が死んでいった。こうした世紀を受けて、「二十一世紀は平和な世紀に」というのが世界の願いだったと言える。
しかし、二〇〇一年九月十一日。そんな世界の願いは、あっという間に覆された。アメリカ・ニューヨークでの同時多発テロ。死者は数千人に及び、人類史上最悪のテロとなった。そして、テロを受けたアメリカは犯人探しのために戦争を開始し、その流れに続く形でイラク戦争が開始された。
アメリカはあの日以来「テロとの闘い」を標榜しているが、その結果はどうだったか。テロから三年目を迎えた二〇〇三年、一年間に世界で起きたテロの数は二〇八件。アメリカが駐屯している―ほとんど「占領」と言っていいが―イラクでは、毎日のように自爆テロを含めたテロのニュースが絶えない。イラクで犠牲になったアメリカ兵の数は千人を、犠牲になったイラク市民の数は一万人を超えている。アメリカのテロに対する対応は、もう見直しを迫られるところまで来ている気がする。
もちろん、テロが悪であることは言うまでもない。どんな理由があろうと、無差別に市民を虐殺することが認められていいはずがない。そこはハッキリとしている。
しかしながら、彼らをそこまで追い詰めたのは何であったか。それは例えばアメリカの覇権主義的な経済政策であったり、無理矢理な武力行使であったり、人道的とは思えない占領政策であったりするのである。そこを考えずして、テロと闘うことはできない。僕はそう思う。
ジョン・レノンを信奉するわけではないけれど、僕達はもっと想像するべきなのではないか。家族が拘束され、いつ父親が帰ってくるとも知れない子供の不安を。目の前で娘が殺された、両親の悲しみを。人間として耐えることのできない恥辱を味合わされた人間の怒りを。
そうすれば、分かるはずだ。「こんなことがあっていい筈がない」と。「こんなことを二度と起こしてはならない」と。
そして、考えるはずだ。「この世界を変えるにはどうすればいいだろうか」と。「日本人として、何かできることはないのか」と。
それだけで、世界はずっと輝きを増すはずだ。
第二次世界大戦が終わりを迎えた年、国連創設の会議が開催された。会議には関係者を含めて九〇七二人が参加。会議は六十五日間に渡って行われ、一日の議事録は平均五十万ページ。多い日には、百七十万ページに及んだという。
あれから五十年。僕達はもう一度力の限り想像し、考える時に来ているのではないだろうか。二十一世紀を、「平和の世紀」にするために。 |
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| 五、生きるコトは死ぬコト |
「生きるコトは死ぬコト」―こんなことを書くと、ビックリする人がいると思う。でも、これはホントのコト。人が生きるということは、とりもなおさず死に向かっているということなのだ。
モリー先生という人がいる。いや、正確に言うと、いた。彼はアメリカの社会学の教授で、誰より生きることを楽しんでいた。その彼が、筋ジストロフィー病にかかる。全身の筋肉が萎縮してゆき、最後には心臓が収縮する力さえなくなるという、不治の病だ。病床で彼は死について考え、そして言った。「どう死ぬかを考えれば、どう生きるかが分かる」と。
このことは、何も特別なことを言っている訳じゃない。何かをやろうとする時、人はどうするだろう。まず、自分が目指すべき目標を立てる。そして、それに向かってどうしていくか手段を考える。そうするはずだ。だから、どう生きるかを考える時、僕達はそのゴールである死について考えるべきなのだ。
では、僕達はどんな毎日を過ごしているだろう。
毎日七時に起きて満員電車に乗り、忙しく働く。疲れて帰ったら御飯を食べ、家族と過ごし、眠りに付く。たまの休日には家族や友人と一緒に遊びに行く…。そしてある日、ふっと思う。「今ここで自分が死んだら」と。死にたくない。絶対に死にたくない!死ぬなんて嫌だいやだイヤダ…。そう思う。
でも、どれだけ「嫌だ」と言っても、死は誰にでもやってくる。それも、何の前触れもなく、突然に。遣り残したことがどれだけあろうと、そんなことにはお構いなしに。それなのに人は、必ず・突然にやってくる死について考えない。
死を恐れてはいけない。それは、そこにあるのだから。普段見ようとしていないだけで、僕達の中に既にそれはあるのだ。
だから僕は、自分が死ぬコトについて思いを馳せる。そして、考える。自分が死に向かって、どう生きていくかを。それだけで、一日一日が大きく変わっていく。目の前の現実を、あくまで楽しむ。些細なことにとらわれることなく、自分のやるべきことをしっかりと見据えることができる。そして、一日の終わりに眠りに付く時、自分に向かって「今死んでも後悔はないか」と問う。でも、答えは既に出ているのだ。僕が後悔しようとしまいと、死はやってくる。僕はただ、それを受け入れればいい。
誤解がないように言っておくと、「いつ死んでもいい」と思うことは、生きることを諦めることじゃない。逆に、いつ死んでもいいように精一杯今を生きることに繋がる。でも、人間は完全じゃない。だから、必ず遣り残しは出てくる。それにとらわれるのではなくて、こう考えればいい。「僕は今日やれるだけやった。残ってしまったこれは、もし明日生きられればやろう。今日死ぬなら、諦めればいい。」そんな風に考えればいい。
プラトンは「哲学者は死ぬ準備をしている」と言った。僕達もいつか必ず訪れる死に向かって、準備を始めよう。魂だけになった時のためにではなく、今という一瞬を、より強く生きるために。 |
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| 六、ソシュール・ノート |
「万学の祖」と言えば、アリストテレスのことだ。「発明の父」と言えばエジソンのことである。でも、「近代言語学の父」は誰かと言われてピンと来る人は、一体何人いるだろうか。現代、スイスの偉大な言語学者フェルディナン・ド・ソシュールを知る人はあまりいない。
ソシュールは1857年11月26日、スイスのジュネーヴに生まれた。14歳で処女論文を書き上げ、当時有名だった言語学者・〜から意見を求めている。21歳で『インド・ヨーロッパ諸語における原初の母音体系についての覚え書き』を発行、当時の言語学会に大きな波紋を投げかけた。こうした業績から、彼は「早熟の天才」と呼ばれることとなる。しかし、それ以後まとまった形での著作は刊行されず、長い学問的沈黙が続く。ソシュールにまつわるミステリーの一つである。
その後、晩年になって彼は大学の都合で半ば無理やりに「一般言語学」の講義を受け持つこととなる。そして、1907年1月から同年7月、1908年11月から1909年6月、1910年10月から1911年7月の三回に渡って行われた一般言語学の講義を最後に、1913年にこの世を去った。享年、55歳。彼が20世紀初頭の人間だったことを差し引いても、あまりにも早すぎる死だった。
彼の死後、この三回の講義ノートが弟子たちによって講義録として編纂され、『一般言語学講義』として1922年に出版される。この講義録によって、彼の言語思想は世に知られることとなるのである。それは言語学界に大きな波紋を投げかけただけでなく、「構造主義」という名の下、分野を超えて多くの研究者に波及していった。
これが、ソシュールの生涯の簡単な素描だ。注意深い方はもうお気づきのことかと思うけれど、晩年の彼の思想を伝える彼自身の著書は、実は一冊も存在しないのである。それにもかかわらず、彼の講義から抽出されたエッセンスは多くの分野に影響を与え、様々な学問領域において新たな視点・観点が導入されることとなったのである。これもまた、ソシュールのミステリーだ。
彼が具体的に何を考えたのかと言うことについては、このスペースで語ることは少々難しい。彼が考えたのは「言語」というものの観念のドラスティックな転換であり、そのため彼の言語思想を語るためには、その新たな観念の定義を説明することから始めなければならないからだ。とてもじゃないけれど、このスペースでそれら全てを語ることはできない。
というわけで、今回は彼の思想自身については言及しない。イントロダクションのみで終らせてもらう。また機会があれば―あるいはこのシリーズを連続して扱うことになるかもしれないけれど―ソシュールの思想自身について触れていきたいと思う。ご興味のある方は、その際にぜひソシュールの言語思想に触れてみて下さい。 |
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| 七、かわりゆく世界の中で |
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
鴨長明『方丈記』より
「無常」というのは鎌倉時代によく使われる言葉だけれども、実際正鵠を射ている。人は生まれ、年をとり、やがて死んでいく。人だけでなく、虫も、動物も、草も、木も、岩も、果てはこの星から全宇宙に至るまで、未来永劫に残りはしない。全てのものに「永遠」は存在しない。「無常」だ。これは、科学的に見てもなかなか正しい見解だろう。
そんな有限な世界の中で、人は諦めきれずに必死に「永遠」を探す。そして、科学で測れないもの達に「永遠」を託そうとする。それは人の心が生み出す、愛、希望、夢、絆…。「たとえどれだけの時間が流れようとも、この想いだけは変わらない。」そんな願いを、祈りを、人は繰り返している。
でも、それすらも「永遠」ではない。それを担う人自身が、何よりも移ろいやすいものだからだ。どんな愛も、それを紡ぎ出す心が変わればなくなってしまう。どんな夢も、それを持つ人間が諦めてしまえば無意味になってしまう。どんな希望も、絆も―人が、心が変わっていくことで、それらは「永遠」であることをやめてしまう。そうして人は、どこにも「永遠」なんてものがないと知ってしまう。そうやって人はオトナになっていく。だけど―
だけど僕は、それでも「永遠」を信じたい。なんの根拠もない。なんの証拠もない。それが自分で作り出すものなのか、誰かが与えてくれるものなのか、どこにあるのか、いつになれば手に入るのか―そんなことは、まったく分からない。その上、死に向かっていく生を考えている僕にとって、これは自己矛盾ですらある。
そうだとしても、僕は信じ続けたい。叫び続けたい。きっと「かわらないもの」があることを。たとえガキっぽいといわれようとも、世界が終わりを告げようとも。 |
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| 八、At the Bar Counter |
バーカウンターに座って、グラスを片手にボンヤリと前を見る。そこにあるのは、おびただしい数の酒瓶。日本酒、焼酎、ウィスキー、ジン、ウォッカ、テキーラ…世界中から集められた、色とりどりのお酒たち。それらを眺めているうちに、僕はボンヤリ考え始める。
「一体いつ頃から人類はお酒を呑んでたんだっけ?」
お酒=アルコールと言う捉え方をすれば、お酒は人類の誕生以前からあったはずだ。糖分…あるいはデンプン質を含んだものが自然に発酵すれば、それはアルコールになるからである。それを偶然人類が発見して、自ら生産するようになった…というのが、お酒の「歴史」の始まりだろう。
ということは、人類とお酒の付き合いは相当に古いはずだ。古代エジプトでは、既にビールが呑まれていたというのを聞いたことがある。そういえばピラミッドが作られていたときの出勤簿に、遅刻理由で「二日酔い」というのがあったっけ。
そして同時に、その付き合いはかなり深いものだったと考えられる。その根拠はいろいろあるけれど、大きく2つのことがそれを端的に物語っている。
まず第1点は、その原料だ。お酒は様々な原料から作られるけれど、米、麦、芋、トウモロコシ…などなど、穀類を使った酒は必ずと言っていいほど各地にある。そして、言い換えればこれらはその地の主食でもあるのだ。穀物の生産量が現在ほどでなかった時代にも、貴重な主食を腐らせてまで、人類は酒を作っていたことになる。
そして、第2点。お酒の使われ方だ。世界各地の古くから続くお祭や儀礼など、様々なシーンでお酒は登場する。それは神からの祝福の証であったり、不浄なるものを浄化する聖性を帯びたものであったり、集団が結束するための鎖であったり…と、多種多様な役割を担っている。
あるいは第1点の事実から推量すると、当時のお酒の生産量はあまり多くなかっただろうから、その希少性がそうした使われ方の要因かもしれないけれど…ともあれ、そのように多義的な意味を持つほど、「お酒」は人類の文化に深く浸透している。この事実も、人類にとってのお酒の重要性をうかがわせる。
数千年の時を経て、人類が愛してきたお酒。なぜ、これほどまでに僕らをひきつけて止まないのか。それは、その味以上に、その香り以上に、お酒によって得られる「解放感」だろう。発達した頭脳のせいで複雑にしてしまった社会から解き放たれ、どうでも良くなれる一瞬―。そんな時間を、お酒は与えてくれるからだ。
そんな風に独り納得して、僕はまたグラスを傾ける。どうでも良くなる一瞬のために。そしてまた、明日からこの複雑でタフな社会を走っていくために。 |
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