物語の始まりは、帝が桓帝(かんてい)の時代から始まる。
この桓帝、宦官(かんがん)を信用しきっていたため、それにつけこんで宦官はだんだん勢力を増していった。
その後、帝が霊帝(れいてい)に代わっても、宦官は勢力を保持したままであった。
そのことに危機感を覚えた大将軍竇武(とうぶ)と太傅陳蕃(ちんばん)が、宦官達を抹殺しようと計画をたてるが、計画がもれてしまい、
竇武と陳蕃は命を落としてしまう。
このことで、よりいっそう権力を増した宦官は、やりたいほうだいであった。
その後、中国全土で不吉な事件が数多くおきた。
議郎蔡邕(さいよう)は「この事件は、宦官が政治に口出ししたためにおきたもの」と帝に上奏。
それを知った宦官曹節(そうせつ)は、蔡邕を罪におとし、官位を奪って、郷里に飛ばしたのである。
その後、張譲(ちょうじょう)・趙忠(ちょうちゅう)・封諝(ほうしょ)・段珪(だんけい)・曹節(そうせつ)・候覧(こうらん)・蹇碩(けんせき)・程曠(ていこう)・夏惲(かうん)・郭勝(かくしょう)の十人の宦官が十常侍と呼ばれるようになる。
その時代、張角(ちょうかく)・張宝(ちょうほう)・張梁(ちょうりょう)という三兄弟がいた。
張角は、山に薬草を取りに行ったとき、南華老仙(なんかろうせん)から太平要術という三巻の巻き物を授かる。
それから、張角はその三巻の巻物を読み終わると、町中に広まった疫病を治し、自分を太平道人(たいへいどうじん)と称した。
その不思議な力の噂を聞きつけた国中の人々が、張角のもとにぞくぞくと押し寄せたのである。
その数、数十万。
そのことで張角は、天下を手に取ることを決意するのである。
その初めとして、弟子の馬元義(ばげんぎ)に宦官封諝と内通の約束を交わさせた。
張角は三月五日と日を決め、そのことを封諝に伝えるよう弟子の唐州(とうしゅう)に頼んだのである。
がしかし、唐州はその足で役所に出頭したため、この計画はバレ、馬元義は大将軍何進(かしん)に捕らえられ斬首、封諝は投獄されたのである。
それを知った張角は、自分を天公将軍(てんこうしょうぐん)、張宝は地公将軍(ちこうしょうぐん)、張梁は人公将軍(じんこうしょうぐん)と名乗り、一斉に兵をあげたのである。
その賊を討つため、盧植(ろしょく)、皇甫嵩(こうほすう)、朱儁(しゅしゅん)が官兵を率いることになる。
場所は移って、幽州。ここの太守劉焉(りゅうえん)は、近くまで迫った張角軍をどうするべきかと、校尉の鄒靖(すうせい)と話し合い、兵隊の数を増やすため、町に兵を募集する高札を立てることにした。
その高札が涿県にも立った時、その看板の前に一人の男が現れた。
その男、名を劉備(りゅうび)、字を玄徳(げんとく)といった。
その劉備の後ろから声をかけた男がいた。
その男、名を張飛(ちょうひ)、字を翼徳。
張飛が言うには、「少しの資産があるから義勇兵を募って、共に戦おう」。
劉備も、賊を破り民を安心させたいという志があり、2人会話を弾ませ近くの酒屋に入った。
そこで2人酒を酌み交わしていると、1人の男が「城へ行って義勇兵に志願する。急いで行きたいから酒を早く出してくれ」と言いながら酒屋に入ってきた。
劉備はすぐにその男を自分の席に呼んだ。
その男、名を関羽(かんう)、字を寿長(じゅちょう)。のち字を雲長(うんちょう)と改めた。
劉備が義勇兵を作る話をすると、関羽も喜んで加わると言い。3人で張飛の家へ向かった。
張飛の屋敷の裏に桃園があり、そこで3人義兄弟の契りを交わす。
そして、村の勇士を募ると、集まってきたのは五百人あまり。
しかし、馬だけが手にはいらず困っていると、2人の商人が馬を引き連れ歩いてくるとの知られがはいり、劉備はその商人を出迎え、話を切り出した。
2人の商人の名は、張世平(ちょうせいへい)と蘇双(そそう)といい、中山の大商人で、賊から逃れて帰っているところであった。
劉備は、2人にことの成り行きを話すと、2人は快く良馬と金銀を差し出したのである。
その後、劉備・関羽・張飛の三人は五百人あまりの義勇兵を従えて、鄒靖に面会し、鄒靖が劉焉に引き合わせると、劉焉は喜び、劉備を甥分にした。
数日後、黄巾の賊将程遠志(ていえんし)が5万の軍を引き連れて、涿県まで押し寄せてくるとの知らせがあり、劉備達義勇兵は鄒靖と共に賊を打ち破るため、大興山のふもとまで出陣した。
劉備が賊将程遠志をののしると、程遠志は副将鄧茂(とうも)と共にうって出てきた。
しかし、鄧茂は張飛に一突きでやられ、程遠志も関羽に一突きでやられた。
これを見た賊兵は武器を捨てて逃げだし、劉備軍圧勝で幕を閉じた。