どこかおかしい算数の授業
○ はじめに
昨今,経済協力開発機構(0ECD)が昨年実施した「生徒の学習到達度調査」(PISA)の結果が発表された。日本の高校1年生は,「数学的応用力」「読解力」「科学的応用力」「問題解決能力」のうち,「読解力」が前回(2000年調査)の8位から14位に,「数学的応用力」も1位から6位に下がり,学力低下が懸念される結果となった。
現行の学習指導要領では,ゆとりの中で,基礎基本の定着を図る「授業改善」を求めている。しかし,実際現場の教職員にどれだけの指導方法の向上が図られているかは疑問である。さらには,学習内容が削減され,学力低下を一層深刻にしているとも考えられる。現場においては,学習内容が削減されたことで,学習内容を身につけるために「ドリル学習」などを繰り返して行うことに重点が置かれ,PISAで調査される「数学的な応用力」「問題解決能力」などの育成を図る指導が軽視される現状がある。今こそ,日本の算数・数学教育を見直す必要を強く感じる。
以前,広島県教育委員会 常盤豊前教育長(現文部科学省教育課程課長)に私の授業を参観していただいたことがある。このとき,前教育長から,「授業が楽しく,子ども達の目が輝いている」と誉め言葉をいただいた。それは,子ども達自らの問題解決能力を高めることをねらいとした学習だからだと考える。目の前にある「知識・理解」「表現・処理」だけに目を向けた授業をしていては,真の学力は身につかない。算数科の授業は,短絡的であってはならない。
こうした思いから,このホームページを作成することにした。
1 「分かる」「できる」が見える算数
算数科の学習は,結果として「分かる」「できる」を評価することが中心となりやすい教科である。それは,計算ができることや計算の仕方がわかることなど,「表現・処理」「知識・理解」の部分が,よく見えることに起因する。
例えば,市販のテストを見ても,その評価問題は,次のようである。
2年生のたし算の例
こたえ( ) しき 3 35円のおかしと,25円のチョコレートをかいました。あわせてなん円でしょう
このテストでは,1の問題は「表現・処理」,3の問題や4の問題が「数学的な考え方」を評価することになっている。
市販のテストが悪いと言うつもりは全くない。これらの問題ができるかどうかは,算数科では重要なことである。もしできなければ「学力がついていない。」と即,判断される。実に評価しやすい教科だと言える。
しかし,私達教師は,この評価に惑わされてはならない。確かに,「表現・処理」「知識・理解」は大切である。そのために,繰り返しドリルを行ったり,特設の時間を設けてスキルアップの学習の場を設定したりしている。繰り返して行うことで,スキルは確かに身に付けることができるし,子ども達の基礎・基本として重要なことである。だが,算数科でつけたい力は,こうした結果で判断される内容だけなのであろうか。
数量や図形についての算数的活動を通して,基礎的な知識と技能を身に付け,日常の事象について見通しをもち筋道をたてて考える能力を育てるとともに,活動の楽しさや数理的な処理のよさに気づき,進んで生活に生かそうとする態度を育てる。
学習指導要領では,算数科の目標は次のように述べられている。
この中には,確かに「基礎的な知識と技能を身に付け」という言葉がある。ただし,その後に「日常の事象について見通しをもち筋道をたてて考える能力を育てる」ということが続いている。さらに,「活動の楽しさや数理的な処理のよさに気づき,進んで生活に生かそうとする態度を育てる」とある。基礎的な技能を身に付けることは,目標の一部分に過ぎないのである。
さらに,「基礎的な知識と技能を身に付け」の前に,「数量や図形についての算数的活動を通して」と条件となる言葉がある。
算数的活動については,小学校学習指導要領解説算数編−東洋館出版−の中に,次のように述べられている。「児童自身による作業や体験などの主体的な活動を通して,数量や図形についての意味を理解し,考える力を高め,それらを活用していけるようにすることを重視するためにあげられたものである。」
この文章から考えてみると,基礎的な知識や技能は,意味を理解し,考える力を高め,それらを活用していけるものでなくてはならないと言える。テストで,結果として評価すると,技能や知識が身に付いたかどうかは判断できる。しかし,意味を理解し,考える力を高め,活用していく力がついたかどうかは評価できないのだ。
もっと深く市販のテストを分析してみると,おかしなことに気がつく。
2の問題や3の問題は,本当に数学的な考え方を評価できるのであろうか。間違いに気づくには,確かに論理的な思考を伴うに違いない。しかし,思考して間違いを指摘することなしでは,十分に思考したとは言えない。子ども達は実際,間違いを見つけるこうした問題では,自分で始めから計算してみれば分かるのである。つまり,この問題は1の問題と変わらないことになる。どこにどんな間違いがあるかを問う問題であれば別なのだが・・・。
3の問題はどうだろうか。文章の問題を読んで,式に表して,計算するという問題である。文章を読んで式に表す中では,確かに思考する。問題場面を理解し,自分の日常生活にある場面や体験と結びつけて,たし算の場面であると考える力は大切なことである。活用していく力をつけることにもなるであろう。確かに数学的な考え方に入る内容である。だが,本当は,たし算の計算の仕方を考えるときにある数学的な考え方を問うことはしていない。
例えば,次のような問題は考えられないであろうか。
次の計算のまちがいは,どこでしょう。まちがっているところを書きましょう。
これは,なかなか難しい問題である。この中にある数学的な考え方は,単位の考えである。単位の違うものをたしていることを指摘できるかどうかである。たし算の筆算を支える概念は,深い数理解と単位の考えではないだろうか。この考えを十分に身に付いていれば,三けた,四けたの計算になっても類比的推測によっていくらでも筆算をすることができる。これこそが身に付けたい数学的な考え方ではなかろうか。こうしたことを評価する問題は,テストには見られないようである。
今一度繰り返すと,算数科は,「分かる」「できる」ことが見えやすい教科である。そのために,その評価だけが気にかかり,大切なことを十分に育てることができていない実態がある。まさに,算数科の危機である。
2 「わかる」「できる」にとらわれすぎると
5年の学習内容である「小数のかけ算」を例にあげて考えてみよう。
5年生では,小数×整数,整数×小数,小数×整数(小数は,小数第一位まで)の計算を筆算でできるようになることを学習する。この学習を,「分かる」「できる」と言った狭い見方で考えるならば,次のような指導を形式的に行うことができる。これは,教科書でも見られる。
小数点以下の位に○をしましょう。 答えも同じ数だけ○をして,小数点を打ちましょう。 14.4 × 3 4.8 × 3 4.8 × 3 4.8
確かに,こうすれば結果として計算はできるようになるであろう。徹底的にこの指導を繰り返せば,十分な技能は身に付くと考えられる。しかし,果たしてこれでよいのであろうか。
この方法を繰り返して,小数×小数の計算や数範囲を広げた小数第二位が混ざった計算を自分の力で考えることができるであろうか。
算数科で身につけたい力は,これでよいのであろうか。
もう一つの例をあげてみよう。6年生の学習「単位あたりの量」の学習場面である。
本時は,速さの概念を理解し,速さが道のりと時間という二つの量の割合で表されることを知り,道のり÷時間で表すことできるようになることをねらいとした学習場面である。
指導過程は別として,学習のおわりに速さをもとめる公式(言葉の式)をつくることができた。この後,私達教師がよく口にする言葉は,「『速さ=道のり÷時間』を忘れないように」である。私達の思いの中に,この公式さえ覚えていれば問題を解くことができるといった安易な気持ちがあるのである。
公式を知っていれば,テストの問題は解くことができる。そうすれば分かったことになる。できたことになる。テストができていれば,何か安心してしまう私達が存在するのである。
しかし,本当に『公式を覚えること』が必要なのであろうか。知識として覚えこむことでよいのであろうか。今の社会で,こうしたことをすべて覚えこんでいては,頭はパンクしてしまうのではあるまいか。
私自身は,覚えることより作り出すことができることを重視したい。「忘れていいよ。でも,自分で作れるようになってね。」子ども達に私は,こう伝えたい。
TTを取り入れた授業が一時期流行した。今でも,もちろんTTは効果的な指導方法であるが,一時期のTTと今のTTのスタイルは変わってきている。以前のTTを思い出してみて,算数はこれでよいのかと感じたことがある。
多様なコースを設定したTTの学習の場面である。子ども達はいろいろなコースで楽しみながら学習を進め,2位数×1位数の計算技能を身に付けていく。コースはいろいろなゲームがあり,確かに楽しい。ルーレットで出てきた数をかけあわせる場面や風船の中に隠された数をかけあわせる場面など,工夫がいっぱいだ。しかし,本当にこれでよいのであろうか。と感じたのは,どのコースも同じ計算をただ繰り返しているに過ぎないことである。これで,本当の算数の楽しさを味わうことができるはずはない。スキルを繰り返して身につけることだけがねらいとなり,算数の本質に迫る学習でないのだ。単純なドリル学習を少しでも楽しく学べるように工夫はされているが,計算の中にある原理を追究する学習ではない。この学習をいくら繰り返しても,2位数×2位数の計算の仕方を自らが考え出す力は身につかないのである。この学習でも,目標となっているのは,「表現・処理」という狭い範囲である。こうした学習も必要であるが,これだけが算数の学習だと考えてはならない。もしもこうしたねらいを持った学習を進めるのであれば,個に応じた支援を充実させなくてはならないし,発展的な学習をするコースを設定しなくてはなるまい。今のTTは,こうした学習の場を仕組むように変化してきているのが実状である。
四年生の学習内容に,わり算の筆算がある。導入では,きっと筆算の原理を大切に指導していると思うのだが,筆算の計算の仕方を習熟させる段階になると,原理はどこかに飛んでいった指導を繰り返すことが多くなる。最近は補助計算の仕方を追究した指導法の工夫も見られる。その指導は次のようである。
48÷2の計算を,筆算で行い仕方を身につける学習である。
4 2
@ 48÷2の計算は,一の位をまず隠します。
2 補助計算 84
A 4÷2をすると,2×2=4
48 2×2=4
B 8をおろして,8÷2をします。
4
C 2×4=8
8 2×4=8 84
0
このように,計算の手順は大切にされ,確かにスキルの力は身につくと思われる。この指導では,子ども達に手順を身につけるために,「48わる2は,一の位を隠します。」といった手順の言葉を,復唱させながら指導を行うことも大切にしている。こうすれば,確かに,42÷2の形式の計算は身に付けることができるであろう。スキルを身につける段階では,大切な取り組みとなるのかも知れない。
しかし,こうした指導の問題は,この指導が次に発展できるかどうかである。428÷2になると,「一の位を隠しなさい」とは言えない。ここでは,一の位と十の位を隠しなさいと指導をすることになる。つまりは,「このときはこうして,次のときはこうしなさい。」と違うパターンとして指導をしなくてはいけないのである。子ども達にとってみれば,覚えることが多くなり,場合によって違うものであると考えることになる。これでは,算数は覚える教科となってしまうのである。何度も繰り返すが,算数は覚えなくてよい学習なのである。創り出すことができる学習であるといった思いをもつことができるような指導を考える必要があるのではなかろうか。