【 Two face 】
Scene1−観えない明日を











 ガラス窓をカンカンと雨粒が叩く。
 メロディラインの無い自然の音楽は、静まり返った室内に少しばかり心地良く鳴り響いていた。
 室内には少年と少女が二人。河野貴明と小牧郁乃。病院の一室である。
 郁乃はベッドに横になったまま、窓の外をぼんやりと見つめていた。
 貴明はそんな郁乃を見られず、パイプ椅子に座ったまま俯いている。
 二人の間には会話と言える会話が数時間ほど交わされていない。
 まるでこの奇妙な空間が当たり前のように。
 以前はもっと病院の一室とは言えないくらい、この場所は明るい雰囲気があったはずだ。
 ただ一人の少女がここに居ないというだけで、こんなにも違うものなのだろうか。
 雨は激しさを増し、窓を叩くリズムが速くなり、力強くなった。
「ねぇ……姉は最後まで笑ってた?」
 雨音に掻き消されそうにか細い声で、郁乃は視線をそのままに貴明に言う。
 貴明は疲れたように顔をゆっくり上げて、同じく窓の外を眺めた。
「……笑ってた。困ったような顔しながら……笑ってたよ」
「そっか……」
 二人に表情の変化は無かった。
 感情など何処かに忘れてしまったかのように。
「ごめん」
「なんであんたが謝るのよ」
「愛佳を守れなかった。恋人なのに……俺は――」
「自惚れないでよっ。あたしがあんたを責めたって、あんたが自分を責めたって、姉は帰って来ないの」
 貴明の言葉を遮って、郁乃が強めの口ぶりで捲くし立てる。
 少し横目で郁乃は貴明を鈍く睨む。
「ごめん」
「あーもう、姉みたくそうやってすぐ謝る癖、直したほうが良いよ」
「…………」
 貴明はそれ以上何も言えなくなり、また室内に嫌な静寂が訪れた。
 小さく溜め息を吐く郁乃は、少し苛立ちを抑えながら目を閉じる。
「そろそろ帰るよ」
「うん、じゃあ」
 立ち上がる貴明にひらひらと片手を振って郁乃は見送る。
 ずっと座りっぱなしだった貴明は、おぼつかない足取りで病室を後にした。
 一人になった郁乃はドアが閉まる音を背後に聞き、また溜め息を吐いた。
「誰も悪くないよ……たかあきだって……」
 強く降り続いていた雨は、もう弱まり始めていた。




 とぼとぼと傘を差して歩く貴明。
 病院を出た後も、ずっと思い悩んだ顔をさせながら帰路を辿っている。
 愛佳が亡くなってから一人で郁乃の元へ通う毎日を続けていた。
 今までそうしていたことが当たり前だったから。
 郁乃は何度か同じ学校に通い始めている。
 そんな郁乃を病院から送り迎いをするのは愛佳と貴明の役目だった。
 しかし今では貴明一人の役目になってしまっているが、愛佳が亡くなってから郁乃は学校へ行こうとしなかった。
 無理強いさせるのも悪いと、貴明は登校については口を出さないようにしている。
 郁乃と顔を合わせるのが少し辛いというのも、多少なり貴明の心境に影響していた。
 では何故、貴明は郁乃に逢うのだろうか。
 ただの自己満足なのか。それとも罪滅ぼしなのか。
 愛佳と交わした最後の約束が、今では僅かながらに足枷として貴明の心を鈍く痛める。
 郁乃のことを任されてしまった以上、中途半端に投げ出すことは出来そうにもない。
 ではいったい、郁乃について何をしてやればいいのだろう。貴明は自問自答を繰り返す。
 病状の回復を手伝えば良いのか? いや、手伝うだけで治るのなら愛佳がすでにやっている。
 学校生活への完全復帰か? それも病気が邪魔して恐らく無理だろう。
 堂々巡りを繰り返す思考の渦に嫌気さえ覚える。
「俺に頼まれても、何してやればいいのか判らない。どうすればいいんだ、愛佳……」
 一人黒い空を見上げて呟く。少しやつれたその顔が、痛々しく雨に打たれている。
 貴明の心には、黒く疼く言い様の無いモヤモヤが付きまとっていた。
 守り抜いたあの書庫のように、そう簡単には上手く行きそうにもないのだろうか。




「ただいま」
 誰も居ない我が家に帰って来ると、貴明は電気も点けぬままリビングのソファに寝転がった。
 水気を含んだ制服が気持ち悪かったが、最早着替える気力さえない。
 夕食を作ろうにも体がだるく重い。何故かもう動きたくは無かった。
 都合の良いことに食欲は沸いてこない。
 このまま寝てしまおうか。そんなことを思って目を閉じる。
 外から聞こえる僅かな雨音以外、ここには耳障りなノイズは存在しなかった。
 ――ピンポーン。
 目を閉じて数秒後に玄関のチャイムが鳴り響く。
「なんてタイミングだよ、全く……」
 そう毒づいてから、貴明はのろのろとソファから降りて玄関へと向かう。
 鍵を外してドアを開けると、そこには私服姿のこのみが立っていた。
「どうしたこのみ?」
「うん、えっと……タカくんが帰ってくるとこ見かけたから。もしかしたら夕御飯、食べてないかなって思って」
 少し遠慮がちに貴明の表情を伺う。
「いやまぁ、食ってないことは食ってないけど、あんまり食欲ないしさ」
「体調悪いの?」
「ちょっと体がだるいだけだよ。雨ん中出掛けたせいかな?」
 貴明は大丈夫だと言わんばかりに笑って見せるが、ただの苦笑いになってしまって余計にこのみは表情を曇らせた。
「夕御飯どうする? 消化にいいものくらいでも、食べたほうがいいと思うんだけど」
「そうだな、折角だし作ってくれると助かる」
「うん、任せてよ」
 このみは靴を脱いで綺麗に揃えると、「お邪魔します」の一言を残してキッチンへ。
 貴明は濡れた上着を脱いで、さっきのようにソファへと横になる。
 明かりが点いているのと、誰かがそこに居るというだけで、先程の静寂が嘘のように消えていた。
 やがてキッチンからトントンとリズミカルな包丁捌きの音。
 まだ時間が掛かるだろう。貴明はもう一度目を閉じて眠りに落ちることにした。


「タカくん、起きてよ」
「んぁ?」
「御飯冷めちゃうよ」
 ゆさゆさと揺れる感覚に貴明は次第に眠りから引き戻される。
 目を開けるとエプロン姿のこのみの顔が目の前にあった。
「朝か……」
「もう、寝ぼけてるー。朝じゃなくてまだ午後七時過ぎだよ」
 ああそうか、このみが夕御飯を作りに来てくれていたんだっけか。
 ようやく覚醒し始めた頭で理解する。
 横になっていたソファから起きようとしたとき、いきなり後頭部付近に鈍痛が襲う。
「痛っ」
「どうしたのタカくん?」
「頭がズキズキ痛む」
「ちょっと借りるね」
 そう言ってこのみは貴明の前髪を手の平でかきあげて、同じように自分もそうする。
 そして互いのおでこをくっ付け合う。
「ん〜、タカくんちょっと熱っぽいかな」
 首を少しでも動かせばキス出来そうな距離。
 子供の頃とはまるで違う、少し大人びた雰囲気の柔らかそうな唇が目の前にあった。
 ふわりとしたシャンプーのシトラスの香りが鼻をくすぐる。
 相手が幼馴染のこのみだったとしても、貴明には慣れないその距離が次第に心臓の鼓動を速めた。
「あれ? また熱が上がったかな」
 それは違います。あなたがあまりにも大胆なことするのでぼくの顔から火が出そうなだけです。
 ぱくぱくと口だけ動かして、声にならない言い訳を頭の中で始める。
 このみは何か納得したように頷くと、ゆっくりおでこを離して柔らかく微笑む。
「タカくん風邪引いたみたいだね」
「かぜ?」
「体がだるいって言ってたし、食欲もあまりないって言ってたから。もしかして雨に濡れて帰ってきたりしなかった?」
「そういえば……濡れたまま着替えもしてない」
「やっぱり。こういうときはちゃっちゃと御飯食べて薬飲んで寝ること。タカくん早く御飯食べて」
「あ、ああ……」
 テーブルの上にはお粥とは違ったおじやが土鍋に盛られていた。
「お粥じゃちょっと味気ないかなって思って」
 まさかこれも必殺シリーズの一つじゃないのだろうか。病弱になったところで手製のお粥を食わせてイチコロ。
 ……んなわけないか。
 無意味な一人ツッコミを終えて、貴明はレンゲに手を伸ばしておじやを食べ始めた。
「うん、お粥とはまた違った味で美味い」
「えへ〜、良かった。あ、そういえば風邪薬って買い置きしてある?」
「確か、いつも使ってる救急箱にまだあったような」
「じゃあ、ちょっと取ってくるね」
 勝手知ったる他人の家。このみはリビングの隅にある戸棚をごぞごそと漁り始める。
 幼い頃から出入りしていたのだから、もうこの家には何処に何があるのかお見通しな訳だ。
 貴明はおじやを租借しながら、忙しく動くこのみの姿を眺めていた。
「消費期限は……うん、まだ大丈夫っと。タカくん、それ食べ終わったらこの薬飲んでね」
 箱ごと持ってきた風邪薬をテーブルに置いて、このみはキッチンへ向かって行く。
 蛇口を捻ってガラスコップに水を注いで持ってくる。
 実に気の利く幼な妻といったところか。
「なぁこのみ」
「なに?」
「もしさ、俺が死んだら悲しいか?」
 言ってしまった後で貴明は後悔した。
 答えの判っている質問をするほど馬鹿げたことはない。
 むしろ、何故今そんなことをこのみ聞いてしまったのだろうか。
 そして何故、唐突にそんな疑問を持ってしまったのか理解不能であった。
 風邪という病気で少し心が弱くなってしまったのか。
「悪い、なんでもない」
 貴明はそう言いつつ小さく溜め息を吐きながら、残り僅かになったおじやを腹に詰めて片付ける。
 このみは僅かな間、表情を歪めて考え込む仕草をみせた。
「さて、と。風邪が悪化する前にそろそろ寝るわ」
「あ、うん」
 置かれていた風邪薬の箱から一つ包装薬を取り出して飲み始める。
 薬特有の苦い味が口の中に広がった。


 自分の部屋のベッドで横になっている。リビングのソファとは随分と違う寝心地の良さだった。
 看病すると言い始めたこのみが、床に座る格好で貴明の状態を隣で見守っている。
 額に乗せられた冷えたタオルと、暖かい布団が貴明の意識を薄く奪い始めていた。
 さっきよりも頭痛が酷くなり、熱も上がっている気がしている。
 これじゃ本当に風邪引いたみたいだな、と貴明は内心で少し自嘲気味に笑った。
「……タカくん」
 うとうとと眠り始めたときに、このみに名前を呼ばれて目を開ける。
「ん?」
「タカくんは、愛佳さんが亡くなって悲しい?」
 リビングで貴明が質問したことの続きだろうか。急に愛佳のことを触れられ、逆に貴明はビクリと身を強張らせた。
 すっかり眠気も吹き飛んでしまったようだ。
「そりゃあもちろん……今も時々思い出すし、悲しくなるし、言い様の無い感じにだってなるさ」
「じゃあそれと同じ。わたしも同じ気持ちになるよ。ううん、もしかしたらソレ以上かも」
「どういうことだ?」
「わたしにとっても、タカくんは特別な存在なの。昔から、そして今でも……。もしもタカくんが死んじゃったら、わたし生きて行けないかもしれないよ」
 そう言い終えたあとに貴明から視線を外し、曇り始めた表情を隠すように顔を伏せた。
「大丈夫、俺は居なくなったりしないよ」
 布団から片手を伸ばして、優しくこのみの頭を撫でる。
 しかし、貴明の心に巣食う黒いモヤが晴れることはなかった。
「ホント? 愛佳さんの後を追ってとか嫌だよ?」
「ああ、判ってる」
 泣きそうなこのみの顔を見て、貴明はそれだけしか答えられなかった。
 実際、愛佳の後を追ってしまおうか考えた時期もあった。
 でもそれはただの現実逃避。
 楽な道を選んでも愛佳は許してくれないだろう。
 何より郁乃の方が辛いはずなのに、貴明にはそんな素振りも見せなかった。
 きっと影で人一倍悲しんでいるに違いない。
「タカくん、わたしもう帰らなきゃいけないけど、大丈夫?」
「ん、大丈夫。ただの風邪だし」
「何かあったら電話してね。じゃあ明日の朝また来るから」
 最後に額のタオルを再度濡らして、このみは部屋を出て行こうとする。
「悪い、こんな時間まで」
「ううん、いいよ。早く良くなってね」
「ああ……」
 ドア付近に備え付けられたスイッチで部屋の電気を消し、片手を振りながらこのみは部屋のドアを閉めた。
 暗くなった室内に貴明は急に寂しさを覚える。
 時計が刻む秒針の音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
 風邪が治ったらこのみにちゃんとお礼を言おう。
 そう心に誓いながら眠りへと堕ちていく。
 未だ観えぬ明日を迎えるために。






 このみは自室に帰ってくると、私服姿のままベッドにダイブした。
 日中に干してあった布団は、太陽の光を受けて暖かく優しい香りに包まれている。
「タカくんのあんな思いつめたような顔、始めて見た……」
 貴明が家に帰って来る数分前、コンビニで買い物を済ませた帰りにこのみは、暗い表情で帰路に向かう貴明を目撃していた。
 雨の中で差した傘もあまり役には立っていない、濡れて悲しげな貴明の姿を。
 普段から想像のつかないその表情もあって、このみはその場で声を掛けることに躊躇った。
 愛佳が亡くなったときから、時折曇った表情を貴明はみせていたが、それはすぐに消えていつもの貴明に戻っていた。
 貴明自身がこのみ達に愛佳のことや郁乃のことを話さなくなってから、逆にそのことに触れることがタブーなのではないのか、という暗黙の了解みたいのがあった。
 しかし、貴明が毎日のように郁乃の元へ通っていることは皆知っていた。
「郁乃ちゃん、か……」
 その名前を呟いた途端、このみは少し嫉妬にも似た感情を覚えて、布団をきゅっと力一杯に握り締める。
 愛佳が相手なら仕方無かった。到底敵わぬ相手だと思っていたから。
 貴明の心にぽっかりと穴が開いている今、このみはその穴を埋めたかった。
 大切な人から必要とされたかった。
「このみ、すごく嫌なこと、考えてるよね」
 枕代わりのクッションを抱え込むように抱き締めて、涙が溢れそうな瞳を閉じた。
 明日は観えない。
 終わりのないメビウスの輪のように、ぐるぐると思考は廻り続けていた。




初出/'05.02.16
改訂/'05.02.20