懐かしい匂いがした。
厳密に言えば『懐かしい』と言うより『久しぶり』。
それも三日前に訪れたばかりだったのだが。
この場所は想い出が詰まっている。
二人で築き上げた大切な時間。
まだお互いが緊張で引き攣らせた笑いしか出来なかったあの頃。
今はもう、遠い昔に感じてしまう。
たった一つ残された小さな本棚から、バーコードの貼りずれた一冊を手に取ってみる。
ずしりと腕に伝わる重み。
それは掛け替えの無い重み。
この本たちは全てを見てきた。
悲しみも喜びも全てを……。
「いよいよ明日、か……」
今にも雨が降りだしそうな灰色の空を窓越しに見上げながら、愛佳は誰に言うわけでもなく言葉を紡いだ。
「心配?」
貴明は持っていた本を棚に戻し、愛佳の方へと視線を向けて優しく問う。
愛佳も視線を空から外して貴明と向き合った。
「だって、いくら妹の病気がいい方向に向かっているとしても、やっぱりちゃんと学校生活が毎日送れるか心配だよ」
「きっと大丈夫さ。この前一度登校したときだって何も問題起きなかったし、何より本人が愛佳と一緒の学校へ行きたいって言ってるんだ。それに俺たちが付いてるから平気だと思う」
「うん、そうだね……。でも、今まで通り二人でこの場所に来ることが出来ないのが、ちょっと残念かな」
「秘密基地みたいなもんだったしな。まぁ、CDが置かれるようになってから変わってしまったけど……でも、三人でこの場所に来るのもいいかもしれない。きっと賑やかになるだろうな」
そう遠くない未来を想像して貴明は笑う。それにつられるようにして愛佳もクスクスと笑った。
書庫にあった本の九割はCDへと入れ替えられ、それに伴って利用者も増えた。
そのお陰で貴明と愛佳は以前のように書庫で過ごす時間が少なくなってしまった。
何故二人はこうして書庫に出入り出来るのか。
その答えは二週間前にまで遡る。
二人が見つけた希少本が校内で話題になり、やがてその話が先生たちの耳にまで入った。
図書委員を管轄していた先生にも話は伝わって、希少本に興味を持ったその先生はすぐに図書委員長を問い詰める。
図書委員長は希少本のことを己の手柄として後々に報告する予定だったらしい。
先生は図書委員長から全てを聞き、貴明と愛佳へ必要以上に謝罪の言葉を送った。
すでにCDの発注と料金の支払いはしてしまっていて、書庫のCD化はもう止められない、すまないと。
しかし二人の功績――書籍管理のバーコード化作業や希少本――もあって、なんとかスペースを確保してみると先生は約束をした。
そして本棚一つ分の書籍が残された。それは二人が守り抜いたと言っても過言ではないもの。
先生はついでに書籍と同じように、CDも管理しやすくするためにバーコード化を二人に頼んだ。
結果、書庫の鍵はそのまま愛佳の手に残る形となり、CDのバーコード化作業も書籍に引き続き行った。
今は作業自体もう終わっていたが、しばらく図書委員だけでは書庫のCDまで管理出来そうにも無いからと、そのまま書庫の鍵を押し付けられるように愛佳の手を離れなかった。
最も、愛佳にとっては複雑な心境だったに違いないが。
「あたしね、ずっとこういう時間が続けばいいなって思う。幸せだと感じられる今を大切にしたい……」
「……俺もだ」
「ねぇ、たかあきくん」
「ん?」
「えっと、あの、もっと幸せだって、その、思えるように――」
愛佳の言葉を最後まで聞かぬまま、貴明はその体を優しく抱き締めた。
互いの顔が間近にある。互いの鼓動が胸に伝わってくる。それだけで、二人の顔が薄紅に染まった。
そしてどちらが合図したでもなく目を閉じ、唇は自然と触れ合う。
僅かな時間だったが、二人にとってはゆっくりと時間が流れていた。
二人は願う。
こんな幸せがいつまでも続きますように、と。
こんな時間がいつまでも続きますように、と。
灰色の空から雨が降り始めていた。
それは二人への祝福の雨粒なのか、それとも……。
「やっぱりお似合いだわ」
「なんか羨ましいな〜」
図書委員の女生徒二人が、図書室から書庫へ続くドアの隙間から顔だけを覗かせながら、溜め息混じりにそんなことをぼやいてた。
下校時刻を知らせるチャイムが校内に響き渡り、残っていた生徒達はそれぞれが帰路を辿り始める。
その数十分後、愛佳は帰らぬ人となった。
【 Two face 】
Scene2−二人の傷痕
ジリリリリと甲高い目覚ましの音で貴明は目を覚ます。
寝汗で気分は最悪。頭痛も治まっていない。おまけに体のだるさは取れていなくて体調は優れなかった。
一日寝ただけでは風邪が治らなかったようだ。
これでは学校を休むしかない。
貴明は再び眠りに就こうと目を閉じたが、ドアをノックする音でそれも叶わなかった。
誰だと貴明は思ったが、この家に自由に出入りできる人間は限られているので、今から入ってくる人物は予想がついていた。
「おはよタカくん。気分はどう?」
「昨日より少しマシになった」
制服の上から真っ白なエプロンを着けたこのみは、ベッドまで近付くと貴明のおでこに乗っていた乾いたタオルの代わりに自分の手の平を乗せる。
今まで水仕事をしていたのだろうか、このみの手の平は冷たくて、それが熱を帯びた貴明にとっては気持ち良かった。
「まだ熱下がってないね。今日は学校休む?」
手の平を戻して、このみは貴明の顔を覗き込む。
幼さを残した無垢な瞳が、未だ寝ぼけ気味だった貴明の視線と絡み合った。
そのとき、貴明は気付いてしまった。
このみの瞳が薄く充血し、目元が少し腫れているのを。
心配させてしまったかと、貴明は心の中で思う。
しかしそれ以外にもこのみの腫れた目の理由はあったのだが、貴明には知る由も無かった。
「……そうしたほうがいいかな。雄二に風邪で休むって言えば担任に伝えてくれるだろうから頼む」
「うん、判ったよ。一応お粥作っておいたけど食べられそう?」
「今は無理そうだけど、後で食べるよ。ありがとうこのみ」
昨夜と同じように、貴明はこのみの頭を撫でる。
さらさらとした髪の感触が貴明の手の平で踊った。
このみは目を細めて幸せそうに微笑む。
「心配かけさせてごめんな」
小さく貴明は言った。
このみは首を振り無言で否定する。
「そうだ、このみ時間大丈夫か?」
「え? あ、わわっ、もうこんな時間!? 遅刻しちゃう〜。タカくん行ってきます!」
「おう、ちゃんと雄二に伝えておいてくれよ」
「了解であります〜」
やがて穏やかな時間も終わりを迎えることとなり、このみは登校のため慌てて部屋を出て行った。
ドタドタと家を出て行く音が聞こえなくなると、貴明は汚れた天井を眺めた。
郁乃のことを思い出す。
愛佳が亡くなってから日課となった朝と夕方の病院への通院。
最も、郁乃の見舞いも兼ねているのだが。
朝は登校する郁乃の迎えと手伝いのために病院へと足を運ぶが、これまで一向に郁乃は登校する気配を見せなかった。
携帯電話などの連絡手段が無いため、郁乃が学校にいつ行くと言い出すか判らないので念のため毎日訪れている。
夕方は純粋にお見舞いと、愛佳の代わりに身の回りの世話をし始めたためだ。
しかし今朝は病院へ行けそうにもなく、もしかしたら気まぐれで郁乃が学校へ行きたいと待っているのではないかと貴明は思った。
でもその可能性は限りなくゼロに近い。
郁乃にとって姉の愛佳が居ない学校なんて、それこそ行く気にならないのだろうから。
貴明は天井を眺めながら大きく息を吐いた。
こうして寝ているだけで何も出来ない自分に対して苛立ちさえ覚える。
それと同時に、郁乃に対してこれまで何もしてやれなかった無力な自分に嫌悪感さえ感じていた。
どうしたらいいんだと焦燥感が募るばかりだった。
「愛佳……」
愛しい人の名前を呼んでも、返事は返ってこない。
今この場に居てほしかった。慰めて欲しかった。声を聞きたかった。笑顔を見たかった。温もりが欲しかった。
それらはもう叶わぬ現実が残酷に心へと突きつけられる。
貴明は数日ぶりとなる涙を静かに流した。
「へぇ、風邪なんて珍しいな」
「そういうことだから、担任の先生に伝えておいてくれってタカくんが」
「オーケー、判った」
通学路を歩くこのみと雄二と環。
遅刻間際だというのに、三人は特に慌てる様子も無く校舎を目指していた。
「それにしてもタカ坊大丈夫かしら」
「風邪くらいでそんな心配することもないだろ?」
「そりゃそうだけど……なんて言うか、最近特にタカ坊元気無かったし、もしもってこと考えちゃうと、ね……」
語尾を弱めながら環は少し俯く。その表情は険しかった。
「おいおい、変なこと言うなよ姉貴。あいつに限ってそんなこと」
「雄二にはまだ判らないのよ。大切な人が居なくなるっていうことが。タカ坊は昔から少しデリケートなところがあったから、尚更心配しちゃうのよ。風邪とか病気になったときは余計弱気になっちゃうし……」
「タカくんは絶対そんなことしないよ。それより郁乃ちゃんのほうが……」
環と同じように険しい顔のこのみ。
「ああ、委員ちょの妹さんか。一度学校へ連れられて来てたのから見かけなくなったな」
「タカ坊が言ってたけど、あのコ凄くお姉ちゃんコだったんだってね。タカ坊よりショック受けてるわよきっと。学校へ来なくなったのも、それが原因かもしれないわね」
「まあ、俺たちがどうこうできるって問題でもないしな……あくまで本人たちの気の持ちようというか、本人次第ってところだよな」
雄二は言葉の終わりに溜め息を吐いて頭をガリガリと掻く。
「そうね、今はそっとしてあげるほうが最善なのかもしれないわね」
「……でもわたしは、タカくんの傷を治してあげたい」
少し潤んだ瞳でこのみは二人を見つめる。
泣きそうでいて何か決意の混じった、そんな複雑な表情だった。
「このみ……」
環はこのみをそっと胸に抱き寄せて頭を撫でた。
そんな二人を尻目に雄二は空を見上げ、四人で過ごした懐かしい日々を思い出して苦笑する。もう一度、バカバカしくて面白おかしかった日々が戻ってきて欲しいと心の中で強く願った。
それぞれの想いを乗せるように、一筋の風が三人の間を吹き抜ける。
まだ肌寒く感じるその風は、紫陽花の花びらと共に群青の空へと消えていく。
散り往くあの風は何を送り返してくれるのだろう。
眩しいほどの陽光と笑顔なのか、それとも鉛色の雨雲と涙なのか。
今はまだ、誰も辿り着く場所は知らない。
夕方になり、ずっと寝ていた貴明は体調も良くなってかベッドから抜け出し、身だしなみもそこそこに街中のアスファルトを走っていた。
毎日のように通ったあの目的地へ、一分一秒でも速くと。
病み上がりの体にムチを打ちながら必死に走ってはいたが、流石に普段と同じ感覚では無理だった。
ゼンマイの切れたブリキ玩具のように、貴明は息を荒げてその場で立ち止まってしまう。
まだ風邪でこじらせた熱が引いてないのか、ドッと噴き出してきた汗が目に染みた。
――ここで立ち止まってはいけないんだ。まだ弱音を吐くわけにはいかないんだ。
汗を手の甲で拭いながら、自分に言い聞かせるように心の中で繰り返す。
貴明は使命感にも似たものを感じて焦っていた。
これは多分、昼間寝ている間に観た夢の影響だろう。
一人の少女が白いベッドの上で泣いていた夢。
誰かの名前を叫びながら「独りは嫌だ」と、ただひたすらに涙を流す姿に胸がズキリと痛んだ。
そして気付けば自分も泣いていた。それは同情なのか共感なのか判らなかったが。
そんな夢を観たあとに目覚めると嫌な胸騒ぎがして、家を飛び出したのがついさっきのことだった。
きっと待っている。ただの自惚れなのかもしれないが、貴明は不安を感じていた。
だから、体力の回復も待たずにまた走り出す。
心臓が破裂しそうなほどに鼓動していても、酸素不足で息が詰まりそうになっても、膝が笑ってうまく走れなくても、がむしゃらに路地を駆け抜けた。
ずっと遠くのゴールを目指して。
「ハァッ、ハァッ……す、すいません、面会の者の河野ですが……」
「いつもご苦労様。手続きはこっちで済ませておくからどうぞ」
「ありがとうございます」
ほぼ毎日通っているだけあって顔パスで受付を通過する。
流石にここでは走れなく、早足で階段を上って長い廊下を急ぐ。
『小牧郁乃』と書かれたネームプレートの前で立ち止まる。
分厚いドアを二回ノックして中からの返事を待つが、数秒経っても返ってはこなかった。
「……開けるぞ」
一応断り文句を言ってからドアをスライドさせると、中から消毒薬のような独特の匂いが鼻を衝いた。
見えた先はカーテンが閉め切られ、明かりも点いていない真っ暗な室内だった。
廊下から漏れる光で映し出されたのは、ベッドの上で背中を向けてうずくまった郁乃の姿。
貴明は寝ているのかと思い近付いてみたが、歩を進めるたびに明らかになる真実に我が目を疑った。
ベッドのシーツが郁乃を中心にして僅かに赤黒く染まっている。
その瞬間、郁乃の姿が事故当時の愛佳の姿と重なった。
信じられない光景に、血の気が引いていくのがはっきりと判って脂汗が噴き出した。
「お、おい! 郁乃!」
ベッドに飛び乗りそうなほど慌てて郁乃の肩を揺すってみたが反応は無い。
更に強く肩を引き寄せると、郁乃の体が貴明のほうへと反転した。
カツーンと何かが床に落ちる音。
涙の跡を残したまま眠ったような穏やかな顔。
今も赤いものを流す左手首。
未だバラバラだったそれらのバスルピースが一つになったとき、貴明は頭から冷水を浴びせられたような感覚を受けた。
「あ……うぁ……い、いく……の……」
貴明の声は震えて掠れていた。
想像もしていなかった現実を目の前に叩き付けられ、貴明にはそれを受け入れる余裕すらなかった。
体の力が抜けたように、貴明はガクリと冷たい床に崩れ落ちる。
愛佳に続いて郁乃まで死んでしまうのか。
貴明には絶望感が支配していた。
涙で滲み始めた視界の先で床に転がった果物ナイフを見つけた。先程落ちたものだろう。
貴明はそれを握り締め自らの左手首へ刃を翳し、ナイフを持つ震えた右手で圧し引いた。
鋭い痛みが襲い、鮮血がポタポタと床に染みを作る。
衝動的に起こした行為によって与えられた痛みは、貴明に冷静さを取り戻させる結果となった。
「――クソッ! 何やってんだ河野貴明!」
果物ナイフを放り出して、咄嗟に貴明は備え付けられたナースコールを手に取ってボタンを押す。
ノイズが数回、天井のスピーカーから流れた。
「小牧さんどうしました?」
女性の看護師の声を確認したあと、スピーカーに向かって貴明は叫ぶ。
「郁乃が手首切った! 早く来てくれ! 頼むッ!!」
「手首を!? 判りましたすぐ行きます!」
ブツっと何かが切れる音がスピーカーから聞こえて、貴明は一先ず安心したように床へ寝転んだ。
手首から流れる血が意識を奪い始めていた。
鉄錆にも似た匂いを嗅ぎながら、貴明はゆっくりと目を閉じる。
きっと郁乃は助かると信じて。
大慌てで室内に入ってきた看護師と担当医は、その惨状にしばし言葉を失う。
ナースコールでは郁乃だけが手首を切ったと言っていたが、それを知らせた本人までもが手首から血を流しているではないか。
「先生……」
「とりあえず止血だ。そのあとに状態確認をする。急げ」
「はいっ」
看護師は貴明を、担当医は郁乃をそれぞれ手当てし始める。
急ぎながらもあらかじめ持ってきたアルミ製のトレイには、ピンセットやハサミなどの器具の他に、薬品は止血剤のトロンビンと凝結塊形成作用のある酸化セルロースを含ませたガーゼのみであったため、応急処置程度しか出来そうにもなかった。
手首の血を丁寧に拭いながらトロンビンを数回に渡って傷口に塗り、出血が収まったのを確認してからガーゼを当てて、包帯でキツめに患部を固定するように巻く。その作業を二人は手際良くこなし、脈拍と体温と瞳孔をチェックする。
「ふぅ、小牧君のほうは一応、出血は酷かったが脈は弱いながらもある。そっちはどうだ?」
「はい、こちらも大丈夫なようです。念のため、二人に点滴打っておきますか?」
「そうしよう。あーっと、河野君だっけか? その子と小牧君はベッドの空いてる別室に移そう。タンカー持ってきてくれ」
「はい」
看護師が病室を出て行くと、担当医はやれやれと言った具合に薬品とハサミなどの器具を片付け始めた。
「自暴自棄になるのは仕方ない。でも、死んでしまってからでは後悔すら出来ないのだぞ……」
そう言いながら床に落ちていた果物ナイフを拾い上げ、まだ真新しい血を真っ白なガーゼで拭き取ってナイフをアルミトレイへ乗せた。
寝息をたて始めた二人を見やり、最悪の事態は免れたことに安堵して担当医は大きく溜め息を吐く。
その後、貴明と郁乃は同じ病室へと移され、点滴を受けながら並んだベッドで寝かされる。
郁乃の個室はベッドのシーツとマットの取り替えと、床に残された血の掃除に念のための消毒でしばらく立ち入り禁止となっていた。
日はすっかり落ちて闇が空を覆い三日月が煌々と照った頃、貴明はゆっくりと意識を覚醒させる。
自分の部屋とは明らかに違う見慣れない天井。
ここはどこだと疑問に思ったとき、ズキリと左手首に鋭い痛みが走った。
「ぅくっ、痛て……」
そして数時間前の記憶を蘇らせて、貴明は重大なことに気付く。
「そうだ、郁乃は!?」
上半身をベッドから引き剥がして、薄暗い室内を見渡す。
隣で布団に包まった郁乃を見つけ、貴明は勢い良くベッドから転げ落ちるようにして近付いた。
右腕から伸びる点滴のチューブが揺れ、ガタンと点滴パックの吊るされたスタンドが倒れる。
それにも構わず貴明は郁乃の顔を覗き込んだ。
僅かに聞こえる寝息が、郁乃が無事であることを知らせてくれる。
「良かった……」
泣き笑いの表情で、貴明は郁乃のベッドに寄り掛かるようにへたり込む。
「……痛いっての」
「え?」
突然聞こえてきた声に貴明は思わず顔を上げる。
「あんたの腕があたしの傷に当たってるっての」
郁乃は目を開けぬままそんなことを抗議してきた。
「あ、ああ、悪い――って起きてたのかよ」
郁乃のベッドから体を離しながら貴明は再び郁乃の顔を覗き込んだが、郁乃の目は未だ閉じたままだった。
「さっき起きた。誰かさんが騒がしいから」
「ごめん」
「なーに謝ってんのよ。その癖直しなさいって言ってるでしょ」
「……は、はははっ」
「何がおかしいのよ?」
突然笑い始めた貴明を不思議に思い、郁乃は上半身を起こしながら目を開けて目の前の顔を見やった。
不機嫌そうな郁乃の表情は、どことなく優しいものも含まれている。
「あんなことあったのに、変わってないなって思って」
「……こ、これはただの気の迷いなの! 若気の至りって――ぁっ」
包帯の巻かれた左手首を指差しながら、少し頬を赤く染めて反論する郁乃だったが、貴明の左手首にも包帯が巻かれていることに気付いて言葉を失った。
貴明も郁乃の視線に気付き、自分の左手首を引き上げて苦笑いを浮かべた。
「若気の至りってやつだな」
「バカ……あんたまで傷付いてどうすんのよ……」
泣きそうなのを堪え、そっと郁乃は貴明の手首を両手で包み込んだ。
「まあその……取り残されるのは嫌だったから」
今度は貴明が余った右手を郁乃の両手に重ねる。
互いの温もりが深いものになると、郁乃は堪え切れない涙を一粒流した。
「あたしだって、嫌だよ……。今朝、たかあきが来なくて寂しくなって、姉も居ないんだって思っちゃって……それで、夕方になってもたかあきは来なくて、もう来ないのかと思ったら涙が溢れてきて、不安になって気付いたらナイフを見つけて……どうせ治らない病気で死ぬんなら今にでもって――」
たどたどしく語る言葉を遮るように、貴明は郁乃の体を抱き締めた。
その小さな体は拒絶することなく貴明の胸に収まった。
「ごめんな……郁乃……ごめんな」
「――うっ、ひぅっ、うわぁぁぁぁん!」
貴明の胸に顔を埋めて、ぽろぽろと大粒の涙を流す。
他人に弱みをみせることを嫌っていた郁乃が、貴明の前で始めてみせた姿だった。
貴明は郁乃が泣き止むまで抱き締め続ける。
もう悲しい思いはさせない。悲しい思いもしたくはない。
そんな想いを込めながら強く、そして長い時間そうしていた。
夜空に浮かぶ三日月と星たちは静かに見届ける。
満たされぬ心たちは何処へ往くのかと。
二人には同じ傷痕があった。
大切な人を失った傷と自らの手で付けた傷。
そして、互いに付け合った唇の傷が……。
初出/'05.02.21