街灯が僅かに闇を照らしだす中、私服姿のこのみが通学路を走っていた。
 家に帰るためではなく、学校のある丘へと続く道を逆戻りするために。
 桜の髪飾りを揺らしながらひたすら走り続ける。
「タカくん……っ、タカくんっ」
 幼馴染の名前を呼ぶその瞳には、不安の混じった涙が滲み溢れていた。


 数分前にこのみが夕飯を作りに貴明の元を訪れたのは、午後八時を随分廻ったときのこと。
 もしかすれば風邪でまだ寝込んでるかもしれない貴明のためと、あわよくば少しの間でも看病してあげようと思いついたのだ。
 放課後に真っ直ぐ訪れなかったのは、なんとなく躊躇ってしまったから。
 あまり付きっ切りというのも、かえって迷惑なのではないかと感じた。
 このみは家の呼び鈴を押してみるが、中からの反応は一向に無かった。
 寝ているのかと思い合鍵で家の中へ入ったが人気のある様子は無く、このみは二階にある貴明の部屋へと向かう。
 ノックをしてから通い慣れた貴明の部屋に入ってみたものの、真っ暗な部屋に貴明の姿はなかった。
 ベッドの上の掛け布団は勢い良く弾かれたようにずれ落ち、床には貴明が着ていたであろう普段着が散らばっていた。
 今朝に訪れたときとは部屋の状況が異なっていることに首を傾げる。
 風邪が治らないから病院でも行ったのかな。このみはそう思ったとき、浮かんだ病院という単語にハッとした。
 もしかして郁乃の元へ行っているのではないか、と。
 だとすればもし、風邪が治っていない体でそれなりに距離のある病院まで行っていたら、それこそ道中で一大事になりかねない。
 急に不安になったこのみは踵を返して部屋を飛び出す。
 湧き上がった不安と同時に、もし自分の思惑が当たっていたとして、そこまで貴明を突き動かす郁乃に対して嫉妬さえ感じていた。








【 Two face 】
Scene3−揺らめく想い











 消灯時間が迫った病院の廊下は、電灯が所々消され薄暗く静かだった。
 そんな廊下の一角で、二人の男が声を抑えながら会話をしている。
「うーん、そう言われてもなぁ」
「俺はもう平気ですから。ほら、この通り」
 何やら渋い表情をした郁乃の担当医と、右腕に点滴を打ったまま両腕をぐるぐると勢い良く回す貴明だった。
「判った、判った。頼むから点滴をした腕を振り回さないでくれ」
「じゃあいいんですね?」
「全く……しばらく安静にして様子見したほうがいいのだがね。まあ、本人がそこまで言うなら仕方ない」
「ありがとう先生。早速ですけど、これ外してもらえますか?」
 腕に絡み付いた点滴のチューブを摘みながら貴明は笑う。
「待て待て、ここじゃ流石に無理だからナースステーションの隣にある個室へ行こう」
 そう促して先に歩き始めた担当医のあとを追って、貴明は点滴のスタンドを押しながら歩きだす。
「でもいいのかい? 小牧君の傍に居てあげなくて。別れもちゃんとしてないのだろう?」
「さすがに寝てる人間を無理に起こすのは気が引けますよ。たぶん郁乃も思ってるはずです。今は互いに一人で考える時間が必要だと。それに、俺自身がこの状況に甘えてしまいそうで嫌なんです。なんとなく顔を合わせにくいっていうのもありますけど……」
「なるほどね。自ら茨の道を行くって感じだな。でも今まで通りお見舞いには来るのだろう?」
「ええ、それはもちろんです」
「そうか、それなら安心したよ――っと、ここだったな」
 二人は会話に夢中でナースステーションを通り過ぎようとしていた。
 他の病室とは違うノブ式ドアの前で立ち止まり、担当医は白衣のポケットから鍵束を取り出して、その一つをノブの鍵穴へと差し込み回す。
 カタンッとロックの外れる僅かな音が廊下に響いた。
 担当医はドアを開けて電灯のスイッチを押して、蛍光灯の光で明るくなった個室へ入る。
 少し汚れた白い壁と天井。頼りなく光り輝く蛍光灯。白いシーツだけ敷かれたシングルベッド。その横には小さな木製机と背もたれの無い丸椅子。あまり使われていないのだろう、他とは違う埃の混じったような空気が漂う殺風景な室内だった。
「そこに座って少し待っててくれ」
 貴明は指示されて長い間使われていない様子のベッドに腰掛け、担当医は入ってきたところとは違う、ナースステーションへと続くガラス窓の付いたドアを開けてその中へ。
 一人になった貴明が短く点滅し始めた天井の蛍光灯を眺めてしばらくすると、アルミトレイと何か入った小さな紙袋を持った担当医が姿を現す。
 ベッドまで近付くと、持っていた物を机に置いてから貴明と向きあうように丸椅子に座った。
「点滴のしてるとこが上になるように右腕をこちらにだして。拳は握ったままで力を抜いておいてくれよ」
 言われたとおりする貴明を確認した担当医は、アルミトレイから消毒薬の浸されたガーゼを取り出し、それを点滴の針が打たれた箇所に添える。
「針を抜いたらこのガーゼを自分で持って出血を抑えてくれな」
 点滴針が抜けないように固定していたスパイラルテープを剥がして針を引き抜く。
 痛みを全く感じないほどにアッサリとその作業は終わった。
 貴明はすぐに担当医と入れ替わるように左手をガーゼに添えて止血。
 出血は僅かな時間で止まった。
 担当医はアルミトレイから絆創膏にも似た小さなテープを取って貴明の止血箇所へ貼る。
「傷が塞がるまでしばらくこれは取らないでおいたほうがいい。で、これが左手首の薬だ」
 机の上に置かれていた紙袋を貴明に手渡して、担当医は紙袋に入っている薬品の説明を始める。
「中身は青い蓋の容器が皮膚結合作用のある軟膏で、黒い蓋の容器が応急用の止血剤軟膏だ。あと軟膏を塗って患部に浸透させるガーゼにそれを固定するテープ。それと包帯が入ってる。軟膏自体は直接患部に塗ってもいいが、雑菌など入らないように絶対ガーゼは患部に添えてくれ。ガーゼなどを取り替える場合は市販の消毒薬で傷口を綺麗にしてからやってほしい。止血剤のほうの軟膏は傷が広がったりして、どうしても出血が治まらない場合などに使ってくれ」
「治るのにどれくらいかかります?」
「傷口自体は完全に塞がるまで結構かかるし痕は少し残るが、まあ自業自得だと思って精進するんだな」
「ハァ……そうですね」
 後悔の溜め息を吐き、貴明は苦笑いを浮かべた。
「本来なら針で傷を縫って塞いぎたいところだが、君たちはまだ若いから後々のことを考えて自然治癒のほうがいいだろう。縫ったほうが早いがその分抜糸などの痕で余計目立つことになるからね。まあ、正直言って、小牧君のほうはもう少しで危ない状態になっていたが……応急処置で済んで良かったよ」
「……そのことは、先生に感謝しています。でも一つ気になるんですが」
「なんだい?」
「確か郁乃の病気は、自分の体を守る仕組みが自身を攻撃するとか、そういうものだったと聞いたんですが……もし、手首の傷がきっかけで症状が重くなったりしないか、それが心配なんです」
 貴明は顔を伏せ、包帯の巻かれた自分の左手首を見つめながら表情を硬くした。
 そんな貴明を見て担当医の表情も曇り始める。
「そうだねぇ……もしかしたら病状が悪化してしまうかもしれないし、そうならないかもしれない。私は一応小牧君の担当医という立場で長いこと診てきたけど、今回のような自傷の例は始めてだ。今はまだ私でも判らない……」
「そう、ですか……」
 語尾を沈めて、湧き出た悲しみを抑えるように下唇を噛んだ。
 そのとき、唇に出来ていた傷から再び滲み出した血が口の中に入り、鉄を舐めたような独特の味が広がった。
「外傷の痛みより、メンタル面のほうが厳しいのかもしれない。ほら、『病は気から』って言うし。んー、そうだな、河野君が精神面で支えてあげれば、小牧君も助かるんじゃないかな?」
「もちろん出来る限りのことは俺もするつもりです――」
 一呼吸したあとに貴明は頭を上げて担当医と向き合う。
「俺はあの子に、色々な傷を負わせてしまったから……」
 ――姉を奪われた傷も、手首の傷も、唇の傷も、心の深い傷も全て自分のせいだ。だから、その傷の代償を払わなくてはいけない。
 愛佳がしていた以上に見守って、出来る限りのことをして、今まで以上に支えていこう。
 嫌われてもいい。殴られたって構わない。残った小さな希望さえ棄ててしまわないように……。
 貴明はその手に決意を込めるように力強く両手を握る。持っていた紙袋がくしゃりと歪んだ。
 それにつられるようにして左手首に痛みが走るが、郁乃の痛みに比べたらマシだと思っていた。
「河野君も、あまり気負いしないほうがいい。いつか自分自身の心も潰されてしまうぞ」
「俺は大丈夫です。もうこんな痛い思いはしたくないですから」
 貴明は左手首をさすりながら自嘲気味に笑ってみせる。
 そんな姿を見て担当医は不安を感じた。
 きっとこの少年は色々なものを抱えこんでしまっているのではないのだろうか、と。
 担当医は愛佳と貴明が付き合っていたことは郁乃から聞いていた。
 その愛佳が事故死し、それが特に貴明の心に深く傷を負わせているのは、その二人を知る者なら誰でも推測できることであった。
 しかし、それ以上に何か貴明は思い詰めているように担当医は感じていたのだが、それがなんなのかは判らないでいた。
「……それじゃあ、俺はもう行きます」
「あ、ああ。玄関まで送ろう」
 考え事をしていた担当医は、立ち上がり始めていた貴明に合わせて椅子から腰を浮かせる。
 先にドアを開けて出て行く貴明に続いて真っ暗な廊下へ。
 ナースステーションから漏れる明かりが、無言で歩く二人の影を映し出す。
 非常口看板が発する緑色の光の中、階段を下りて一階の廊下に辿り着いても二人の間に会話は無かった。
 鍵の掛かった正面玄関にまで来ると、靴を履き替えながら貴明は担当医に告げる。
「また明日の朝、様子見に来ます。それまで郁乃に何かあったらお願いします」
「判った。気を付けてな」
「はい」
 そう言い残し、貴明は正面玄関の内鍵を開けて闇の中へ向かう。
 担当医は貴明の後姿が見えなくなると、外に出て白衣の胸ポケットに忍ばせておいた煙草と使い捨てライターを取り出し吸い始めた。
 夜空に溶け込み消えていく紫煙の先には、いったい何があるのだろうか。
「ふぅ……神様って奴はときに死神のような顔を見せてくれる。それぞれが真実を知ったとき、どうなってしまうのか……」
 煙草の火が照らすのは、少し疲れた様子の担当医の顔だった。




 すっかり暗くなった道を歩いていると、どこか遠くに来てしまったのかとさえ思える。
 病室から見えた星と月は、空を覆う分厚い雲に隠れて光を失っていた。
 昼と夜では全く違う顔を見せる空。
 そして今は、闇に光り輝くものですら消えてしまっていた。
 ただそれだけなのに、どうしてこうも孤独を強く感じて寂しい気持ちになるのだろうか。
 隣に誰か居ないというだけで、自分の姿を照らすものがないというだけで……。
 病院という場所では、まだそれらをこんなにも強く感じなかったというのに。
 あそこには郁乃が居たから。愛佳がずっと見守って大事に想っていた、少し生意気だがとても姉思いの妹が。
 そんな郁乃から愛佳を奪い喪ってしまった。そして、郁乃は自らの手で血を流してしまった。
 何よりも、初めて弱みを見せた郁乃に対しての行為そのものが、愛佳への裏切りに値するのではないか。
「……俺は最低だな」
 貴明は乾いた唇に痛みを覚えて指でそっとなぞる。
 温もりはもうそこに残っていなかった。
 どうしてあんなことをしてしまったのかと、罪悪感にも似た嫌悪感が心に渦巻く。
 同じ傷を心身共に抱え、同じ痛みを知ったからなのか。それとも互いの傷を舐め合う相手が欲しかったのか。
 郁乃に愛佳の面影を映しているだけかもしれない。
 そして冷静になれば結論は出る。これは一時の気の迷いなんだと。
「間違ってるよな」
 だから、貴明は湧き出てきた小さな感情を押し殺した。
 例え他人が許そうとも、自分自身がそんなこと許せないだろう。
 今まで通りに見守って接していれば、きっと深く付いた傷も時間が少しずつ塞いでくれるはずなのだ。
 これ以上郁乃にも辛く苦しい思いをさせたくはなかった。
 きっと郁乃も負い目を感じてしまうだろう。
 普段は強がっているが、本当は誰よりも弱く傷付きやすいのだ。
 もっと別の方法で支え合えればいい。
 生半可な愛情は悲しみしか生まないのかもしれないのだから。


 人気の無い道を貴明が歩き続けていると、その前方から誰かが走ってくる足音が闇の向こうから聞こえてくる。
 ずっと下を向きながら歩いていた貴明が顔を上げて見やると、五メートルほど離れた街灯に晒されたその姿にまず驚いた。
 その場で立ち止まり、息を切らして肩を上下させるこのみだった。
「タ、タカくん……良かった……」
 今にもその場で倒れそうなこのみを、貴明は慌てて駆け寄り体を支えた。
 このみの体重を受けた左手首に痛みが走り、思わず顔をしかめて持っていた紙袋を地面に落としてしまう。
「――つっ! お、おいしっかりしろ。どうしたんだ!?」
「風邪治ったかなって……夕ご飯作りにタカくんちに行ってみたけど、誰も居なくて……心配になって不安になって……それでね、病院に行ったと思って迎えに……」
 息も絶え絶えに話すこのみの顔色はあまり良くなかった。
「……悪い、心配させて」
「ううん、タカくんに逢えたからもう平気だよ」
 そう言い終えたあとにこのみは、涙の痕を手の甲で拭って深呼吸をしながら気持ちを落ち着かせる。
 そして、今も体を支えてくれている貴明から自ら離れた。
 本当はずっと感じていたかった温もり。しかし、残ったその小さな温もりも、僅かな夜風がさらって行ってしまう。
「それよりタカくん風邪は?」
「あ、ああ……もう治ったかな。大丈夫だよ」
 すっかり忘れていたことを思い出し、貴明は取り落としたままの紙袋を左手で拾い上げながら、少しばかり苦笑いを浮かべた。
 病院で点滴を打って僅かな時間だが寝ていたからなのか、今は風邪の影響は全く無い。
 このみは大丈夫だと聞いて安心したのか、硬かった表情を緩めた。
「そうなんだ、良かった〜。ねぇタカくん、それって風邪薬? それと、その左手の包帯どうしたの?」
 貴明が紙袋を拾う動作を見ていたのか、このみは目に付いた疑問を投げ掛けた。
「これ? うん、まあその……そうだな、風邪薬だ。念のため貰ってきた。こっちは寝てるときにベッドから落ちて少し捻っただけさ」
 一瞬心臓が跳ね上がりそうになる貴明だが、このみの話に合わせて適当に誤魔化そうと思い付き嘘を並べた。
 もうこれ以上心配させないために。
 きっと本当のことを言ってしまえば、このみは狼狽えてしまうだろう。
「良かった。わたしはてっきり――」
 このみは言いかけた言葉を飲み込み、回れ右をして貴明に背を向けた。
「てっきりなんだ?」
「なんでもないよ。それより帰ろ。タカくんまだ夕御飯食べてないよね?」
「ん? あー……そういえばそうだった」
「じゃぁ行こっ。今日もわたしが作ってあげるから」
「そんなに引っ張るなよ。痛いってこのみ。夕飯作ったら家帰ってちゃんと寝ろよな。もう結構な時間なんだから」
「了解でありますよ隊長」
「ったく――……ありがとうよ、このみ」






 静かだった。
 消灯時間を過ぎた病室にはエアコンの動く僅かな低い音と、備え付けられたアナログ式の時計が針を刻む音だけ。
 一人で過ごす夜はもう慣れていたはずなのに、なぜこうも寂しく感じてしまうのだろう。
 隣のベッドにはもう誰も居なかったが、確かにそこには誰かが居た形跡があった。
 そこに寝ていたはずの少年の姿はもうここには無い。
 郁乃は隣のベッドから視線を外し、闇に染まって遥か彼方まで続きそうな天井を見つめる。
 ピリピリと痛む左手首に目が冴えてしまって、しばらく寝付けそうにもなかった。
 寝るという目的が果たせなくなりそうな今、自然と頭をよぎるのは僅か数時間前に起きた出来事である。

 左手首を自ら切ったのは夕方過ぎ。
 なぜだろうか、そうしなければいけないとあたしは思ってしまった。
 衝動的にしてしまったと言えばそうなるかもしれない。
 不安だった。黒い翳りだけが心を支配してしまって、息苦しさにも似た感覚を抱いた。
 いつもなら姉が傍に居てくれていたけど、何日も逢っていないと思い出して、もうこの世界には存在しないと嫌にも痛感させられた。
 そのときにたかあきの顔が浮かんできて、今日はまだ来ないのかとふと思ってしまった。
 最初はたかあきを恨んだ。姉を奪った張本人だと。
 しかしそれはあたしが勝手に思い込んでいただけだった。
 姉が亡くなってから毎日のようにたかあきはあたしの元を尋ねて来てくれていた。
 そして必ず「ごめん」と謝る。
 言葉は少なくとも、精一杯の気持ちが込められていると感じた。
 ある日の夕方、たかあきはあたしの前で始めて泣いた。
 そのときあたしは寝ていたのだけれど、僅かに聞こえてきたすすり泣く声に目を覚まし、どうしたらいいのか判らずにそのまま寝たふりをしてしまった。
 それ以来、たかあきもあたしと同じく苦しいのだと知り、いつしか抱いていた憎しみの念は消えてしまっていた。
 それをきっかけに、たかあきが病室を訪れてくれるのが嬉しく思い始めた。
 一生懸命姉と同じようにしようとするたかあきの姿とぎこちない笑顔が、なぜだかあたしの不安を消し飛ばしてくれる。
 そして今日、いつも訪れる朝の時間。珍しく寝坊して遅刻しそうだからここには来ないのかと思った。
 同じ日の、いつも訪れる夕方の時間。ホームルームが長引いているのだろうかと思い待ち惚けをしていた。
 時間が経つにつれて、もしかしたら今日は来ないのかと思うと、不思議と急に寂しくなってしまった。
 そうなったとき唐突に孤独を感じてしまい、今まで仕舞い込んでいた黒い翳りが再び襲ってくる。
 姉が亡くなったと聞いたときと似たような絶望感が。
 たかあきという存在で繋ぎ止められていたような世界。
 その鎖が緩く解かれたとき、抑え付けられていた負の感情が溢れ出した。
 治る見込みのメドが今のところない病にいずれ倒れるのなら、いっそのこと今ここで命を落としても同じだと。
 とめどなく流れる涙が視界をぼやかす中、あたしはベッドの横に備え付けられた机の上に置かれたままの果物ナイフを見つけ、右手にその果物ナイフを持って左手首に刃を添えて切りつけた。
 皮膚の僅か下の血管という行き道を失った血が噴出す。
 鋭い痛みに歯を喰いしばって耐え、左手首からは体中の血を抜かれている気分だった。
 血の気が無くなった体は重く、ベッドのスプリングを軋ませて倒れ込んだ。
 朦朧とし始めた意識が無くなりそうなときに浮かんだのは、姉ではなくたかあきの顔。
 そしてその直後に病室のドアをノックする音が聞こえてきたのは、ただの幻聴ではなかったのだと後で知ることになった。
 たかあきの顔が脳裏に浮かんだのは、闇に呑まれそうな心のどこかで『まだ死にたくない、助けてほしい』と強く思っていたからなのだろうか。
 現にたかあきに助けられ、今もこうしてベッドの上で確かな実感を得ている。生きているという実感を。
 自傷し意識を失ってから目を覚ましたときに、たかあきの声がぼんやりと聞こえてきて、一瞬、ここはまだ夢の中なのかという錯覚さえ感じた。
 けれど、あたしの発した声と目を見開いてはっきり見えてきた世界は間違いなく現実のもの。
 目の前にはたかあきの泣き笑いをした顔があって、何度も見てきたその表情にあたしは少し安堵した。
 すぐに目を開けなかったのはなんとなく怖かったから。
 そして、いつものように謝るたかあきに、あたしはいつものように言葉を投げ掛ける。現実味をさらに実感するために。
 すると突然たかあきは笑いだして、ついあたしも頬が緩む。
 そのときに初めてたかあきも手首を切っていたことを知った。
 恐らくあたしと同じような理由で衝動的にしてしまったであろう傷。
 あたしがバカなことをしてしまったから、たかあきにも同じ痛みを与えてしまったのだろうか。
 もし、たかあきだけがこの世界から居なくなってしまったら、あたしは今度こそ本当に一人になってしまうところだったのに。
 そう考えると胸が苦しくなって、抑えていた感情が溢れ出してしまいたかあきにぶつけていた。
 そんなあたしをたかあきは胸に抱き締めながら謝る。
 初めて触れる男の人の体はとても硬くて、それでも確かな優しい温もりがあった。
 父親に抱きかかえられたのはいつだっただろう。もう思い出せないほど昔のような気がする。
 そしてあたしはたかあきの前で始めて泣いた。その胸に顔を埋めながら。
 もう人には弱いところを見せないと思っていたのに、たかあきの前ではそれすら薄まってしまう。
 なぜだろう、同じ共通点を持つからなのだろうか。
 それとも、あたしは他の人とは違う特別な感情をたかあきに抱いてしまっているのだろうか。
 だからあたしは、自ら目を閉じてたかあきの唇を奪ってしまったのかもしれない。お互いの前歯が唇を傷付けようともお構いなしに。
 もしかしたらただの気の迷いでしてしまった行為だったのかもしれないけど、それでもあたしの心は少なからず満たされていた。
 純粋に嬉しかった。心臓が口から飛び出しそうなほど鼓動していた。
 初めて味わう感覚に、少しばかり酔いしれてしまっていた。
 そしてあたしは知った。
 たかあきのことが好きなんだと。
 しかし、好きという感情は同時に罪悪感をあたしに突き付けてくれる。
 たかあきは姉の恋人だった。その姉も今は居ない。
 深い傷心を抱えて弱くなった隙を突いてたかあきを奪う。そんなことが許されるのだろうか。ある種の裏切りとも言えなくない。
 傷心ならあたしも抱えているけれど、たかあきとはまた違った類のもの。
 姉に対するたかあきの気持ちは恋人としての純愛で、あたしの気持ちは身内としての家族愛だった。
 同じようでいて実質違う感情。ひと括りに言えば、絆というべきものだろうか。
 だから、あたしもたかあきも姉という絆が現実においてその繋がりを断ち切られたとき、恐らく人生で一番の深い悲しみを覚えた。
 この手首の傷は、悲しみを乗り越えるための代償になってしまったけど、奥底に仕舞った悲しみはまだ癒されてはいない。
 そして今、あたしはタブーにも似たことを仕出かしてしまおうとしている。
 姉へと繋がっていた絆を、たかあきへと結びつけようと。
 家族愛ではない感情と共に。
 あたしは卑怯者なのかもしれない。
 姉の顔が思い浮かぶ度に胸の奥がチクリと痛む。
 それでも、誰かの心に縋り付いていたかった。
 たかあきの傍にもっと居たかった。
 声を聞きたい。笑顔が見たい。温もりが欲しい。もっともっとたかあきが知りたかった。
「……ごめんね……お姉ちゃん……」
 あたしはもう、戻れない境界線を自ら踏み込んでしまっていた。
 与えてくれる優しさに甘えているだけだと知りながらも。
 せめて、頬を伝うこの涙が姉へのお詫び。
 きっと姉は許してくれるはず。
 あたしのことを優先する、世界一優しい姉のことだから、きっと……。
 だから、あたしは罪悪の雫を流し続けた。
 何度も何度も心の中で謝りながら。
 そしていつしかあたしの意識は闇の中へ薄れていった。






 長い夜が終わりへと近付く。
 それぞれは想いを胸に抱きながらどんな夢を見るのだろうか。
 幸せな記憶の夢か、それとも辛い追憶の夢なのか。
 それでも夢を覚まそうと朝はやってくる。
 例えどんなことがあろうとも、世界には日常が訪れ、時は休むことなく永遠とも言える時間を刻み続けるだろう。
 変わったものも、変らないものも全てそのままにして。




初出/'05.03.19