【 Two face 】
Scene4−近く遠い距離











 眩しいほどの朝日が真っ白な遮光カーテンの隙間から零れていた。
 周りが騒がしくなっていくにつれて、今日という日常が訪れる。
 普段より早起きしてから結構な時間が経っている郁乃だったが、未だ寝惚け気味なのはきっと病気のせいだけではないのだろう。
 パジャマとは違う服に着替えてからずっと、ベッドに座って無気力に虚空を見つめていた。
 外を忙しなく歩く看護師の足音に混じって、ドアをノックする音で郁乃のぼーっとしていた意識が引き戻される。
「どうぞー」
 気だるそうな返事を確認してから、ノックをした主が入ってくる。
「失礼するよ」
 そんな声と共に現れたのは郁乃の担当医だった。
「おはよう――おや? その制服は……なるほど、今日は登校するんだね」
 いつもと違う郁乃の姿を見た担当医は少し驚いた口調になっていたが、すぐに何か納得したようにひとつ頷いた。
 郁乃は桜色の制服に着替えていた。
 片手で数えられるくらいしか着ていない、あの姉と同じ学校の制服に。
「はい、たまには外に出ないと腐っちゃいそうで」
 自ら外に出たいと言うなんて珍しいなと担当医は思ったが、あえてそこは口に出さなかった。
「そうかそうか。今日はいい天気だから、それもいいかもしれない。そういえば、お迎えのナイト様はまだ来てないみたいだね」
「騎士ってガラじゃありませんよ、あいつは。どっちかというとすぐやられる悪役のほうです」
「そ、そうなのか? ……とりあえず手首の処置をしようか」
 少し貴明のことを同情しながら、担当医は郁乃の制服の左袖を捲り上げて手首の包帯を巻き取り、血で赤く染り乾いて固まったガーゼを剥がす。
 出血こそ治まっているが、かさぶたのように赤黒い固まりが傷口を覆っていた。
 担当医は白衣のポケットから携帯用の消毒液を含ませた脱脂綿の袋を取り出して中身を開けると、それで傷口の赤黒い血の固まりを拭き取る。
 血の固まりを拭き終えると、まだ生々しい傷痕が郁乃の白く細い手首にくっきりと残っていた。
「さすがにまだ塞ぎきってないか……。まだ痛むかい?」
「普通にしていれば平気ですけど、刺激を受けると痛みます」
「ふむ、まぁ予想道理といったところか。学校へ行くのなら新しいものに変えないといけないな。ちょっと待ってておくれよ」
 赤く染まった脱脂綿を手近にあったゴミ箱へ捨て、担当医は早足で郁乃の病室を後にした。
 残された郁乃は晒された手首の傷を逆手の指でそっと触れると、刃物で切り付けられたような鋭い痛みが神経を伝う。
 未だ慣れない痛感に顔を歪めて左手を強く握り、滲み出してきた涙を堪えるために目を瞑った。
「あたしの……バカ……」
 自ら犯してしまったことに後悔し、同時に嫌悪感を抱く。
 郁乃が閉じていた目を見開くと、直接触れたせいか傷口からじわりと血が滲み出してきていた。
 赤く温かい雫は重力に圧されながら手首から手の甲を伝い、指先から零れて白いシーツに一滴一滴と染みを作りあげる。
 まるでそれは涙のようだった。
 泣いた心が流す紅い涙なのだろうか。
 郁乃は微動だにせず、その光景を何かに思い耽っているような表情で眺めているだけだった。
 近付いて来る足音にも気付かないままに。
「開けっ放しじゃないか。入るぞ――」
 足音の正体は制服姿の貴明だった。
 窓から差し込む朝日の逆光で目を細めた貴明は、次第に慣れてくる視界の先から飛び込んできた風景に少し混乱する。
 郁乃が普段着ている寝間着とは明らかに違う鮮やかな服を見て、病室を間違えたかと思ったがネームプレートは確かに小牧郁乃と書いてあった。そして、なぜ手首から血を流しているのか最初は理解出来なかったが、目の前で起こっている出来事に貴明は昨日のことを思い出して青ざめた。
 もしやまた自傷してしまったのかと嫌な汗が額に浮きあがる。
「――い、郁乃ッ!」
 貴明は無我夢中でその名を叫び、脇に抱えていた鞄を投げ出してベッドまで駆け寄った。
 名前を呼ばれた郁乃はゆっくりと首を動かし、隣で青ざめた顔をしている貴明をみつける。
「たかあき……?」
「なにしてんだよお前、血が出てるじゃないかっ」
 そう言いながら貴明はポケットに手を突っ込んで何かを探し始めたが、目的のものが見つからなく苛付いたように舌打ちをした。
 焦る頭で何か思い付いたのだろう。貴明は郁乃の左手首を手にとり、血が流れ出す傷口に自らの手を添えて出血を抑え始めた。
「痛っ」
 直に傷口を触ってしまったからだろう、郁乃は眉間に皺を寄せて痛みに耐えていた。
「クソッ、血が……郁乃、これ誰がやった?」
 昨日までしていたはずの包帯が外され、血を拭ったような跡があり、郁乃自身がやったことではないのだろうと貴明は感じていた。
「先生。また来るって言ってた」
「そうか……」
 貴明の指の隙間から血が滲み溢れてくる。
 傷口の部分だけ他とは違う熱を帯び、白く細い手首は脈打つように鼓動していた。
 このままだと昨日と同じ繰り返しになってしまうと、貴明が焦りながら思考を巡らせたとき、のんびりとした救世主が現れた。
「やあお待たせ。隣の患者さんに捕まってちょっと時間くってね――ん? 河野君じゃないか。これはお邪魔だっかなハハハッ」
 笑うたびにカタカタと揺れるトレイの中身。
 貴明は首だけ振り返って担当医をきつく睨む。
「先生なに呑気なこと言ってるんですか、早く手伝ってくださいよ。また出血してるんですから」
「すまんすまん。最悪の事態も考えて一応用意はしてきたから安心しなさい」
 担当医は持ってきたトレイを貴明の傍の机に置き、真っ白なガーゼを袋から取り出して貴明に手渡す。
「まずはそれで血を拭ってから消毒をしよう。その次に止血だ」
 言われるがままに貴明は処置をこなし始める。
 ガーゼで数回血をふき取ったあと、再び担当医から手渡された脱脂綿には消毒薬の匂い。
 それを手首の傷口とその周りに塗りたくり、新しいガーゼで傷口を押さえつつ余分な消毒薬を取り除く。
「上出来だ。ここからは私がやるから、河野君は手を洗ってきなさい」
「でも……」
「大丈夫。そんなに心配するほどの出血量じゃない。それに、そのまま血の付いた手で学校へ行く気かい?」
「……判りました、お願いします」
 貴明は名残惜しそうに郁乃の手首から手を離すと、担当医に深く一礼してから病室を出て行く。
 そんな後姿を郁乃はただ見つめるだけだった。
「生真面目な少年だな」
 そう言いながらトレイから止血剤の容器を取って蓋を開け、軟膏を少量を指に付けて傷口に少しずつ塗り始める。
 白く濁った軟膏は血と混じって薄いピンク色に変わった。
「……きっと怖いんだと思います」
 今まで黙っていた郁乃からの思いがけない言葉に、担当医は手を止めて郁乃の横顔を見やった。
 少し伏せがちなその顔には、何か寂しげな表情さえ浮かんでいる。
「怖い?」
「誰かが居なくなるということがです。親しい仲ならなおさらに」
「なるほどね……」
 郁乃の答えを聞いて、担当医は再び処置をし始める。
「学校……行けるかな」
「まだ時間あるし大丈夫だろう」
「そうじゃなくて、今もこんなことあったし、あいつの足手まといにならないかなって」
「何言ってるんだい小牧君らしくもないな。何のために制服に着替えたんだい? 学校へ行こうと決めたからだろう? 何のために河野君は毎日のようにここへ来ているんだい? 小牧君を迎えに来るためだろう? 泣き言ばかりじゃこの先はいい方向へ行かないんだから、少しは自分に自信を持って胸を張って河野君と向き合いなさい。意地悪したって突き放したってきっと河野君は変わらないよ」
「…………」
 担当医の言葉に郁乃は返すことすらできず、黙ったまま下唇を噛んだ。
「親しい仲よりも信頼しあえる仲ってね――はい、処置終わり。学校へゴー」
「先生……ありがとう」
「その言葉を言うべき相手が違うと思うぞ」
 使い終わったガーゼと止血剤をトレイへ戻しながら、担当医は照れたような苦笑いをしていた。
「さて、老兵はまだ仕事があるのでこれで失礼するよ」
 白衣の襟を直してからトレイを持ち上げると担当医は踵を返す。
 入れ替わるようにして貴明が病室に入ってくると、担当医は耳打ちをするように「じゃぁあとヨロシク」と囁く。
 貴明は何がヨロシクなのか判らなかったが、とりあえず頷いておくことにした。
 廊下を歩きだした担当医の背中に、もう一度貴明はお辞儀をしてから落ちていた鞄を拾い、郁乃の元へ歩き出す。
 ベッドの上の郁乃は、借りてきた猫のようにじっと俯いて座っていた。
「……えーっと、その、ありがとう」
「はい?」
「だから、ありがとうって言ってんのよバカ」
 少しだけ赤くなった顔を上げ、キョトンとする貴明を睨んだ。
「……ごめん」
「なんであんたが謝るのよ」
「いや、なんとなく……」
「ほんと、ばかなんだから」
 言葉は刺々しいものであったが、二人の表情には穏やかなものがあった。
「学校、行くか?」
「いまさら行けないなんて言えないじゃない」
「そっか……制服、似合ってるな」
「そんなお世辞はいいから早く車椅子持って来る」
「はいはい」



 いつもと同じでいて、それでも少し違う日常が始まった。
 高鳴る胸の鼓動は、嬉しさか不安か判らないままに。



「それじゃ行って来ます。ほら、郁乃も何か言えって」
「……判ってるわよ。いってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
「車には気を付けるのよ」
 数人の看護師に見送られ、貴明は郁乃の乗る自走式車椅子を押し出した。
 正面玄関前の階段に備え付けられた緩やかなスロープを降りながら、貴明は郁乃に話し掛ける。
「どうだい、外の世界はたまにはいいもんだろう?」
「そうね……でも、少し眩しいかも」
 郁乃は太陽の光に目を細めながら空を仰いだ。
 病室から眺めているだけだった風景と違い、まるで比べ物にならないほどに鮮やかだった。
「この景色を堪能させてあげたいところだが、あまりゆっくりもしていられない時間だし……少し急ぐぞ」
 握ったハンドルグリップに力を込めて車椅子のスピードを速める。
「ちょ、ちょっと、乱暴にしないでよ」
 カタカタと揺れる車椅子に不安を感じて郁乃は、持っていた貴明の鞄と自分の鞄を胸に抱きしめるようにして体を強張らせた。
 普段とは違う郁乃の反応に少し笑いが込み上げてくる。
 いつもは一人寂しく登校していた通学路も、誰かが傍にいるというだけで、こんなにも気の持ちようが違ってくるのだろうか。
 病院から学校までの距離はそれほどなく、無理に急ぐ必要もないのと高台へと続く上り坂もあって貴明はスピードを緩めた。
「そうだ、郁乃。昼飯はどうするんだ?」
「んー、学食か購買。もしかしたら食べないかも」
「食べないのは良くないな。病院食じゃないと食っちゃいけないとかあったけ?」
「それは特にない。ただそのときにお腹すいてなければ食べないかもってこと」
「そうか、じゃあ俺と一緒に食うか?」
「なんであんたなんかと」
「いや、一人で学食行くにしても車椅子じゃ辛いだろ? 購買にしたって同じような場所にあるし」
「奢りなら付き合ってもいいわよ」
「……ちゃっかりしてるな」
「何か言った?」
「いーえ何も」
 そんな他愛も無い話をしていると、同じ制服に身を包んだ生徒たちのまばらな影と学校の校門が見えてくる。
 忙しなく校舎に向かう生徒の中に混じりながら、貴明と郁乃も校門を抜けた。
 車椅子が珍しいのか、他の生徒の注目を集めているのが判って、未だ慣れないその視線に郁乃は顔を伏せて溜め息をつく。
 貴明は小さく「気にするな」と言うと、郁乃は「気にしてなんかないわよ」と強く返した。
 玄関へと続く階段の隅に付けられた木製のスロープを上り、生徒の波を縫いながら下駄箱まで辿り着く。
「あたしは履き替える必要ないから」
 病院からそのまま履いてきていたスリッパを指差す。
「じゃあ俺の下駄箱に行くか」
「ここで待っててもいいけど」
「それは無理。目を離した隙にどこか行かれたら心配だし」
 そう言って車椅子の方向転換をし、貴明が使っている二年生の下駄箱へ向かう。
「どこも行きゃしないっての」
「まあまあ、そう言わずに。ちょっとここ不安定だからブレーキかけといてくれな」
 郁乃が手元のタッグルブレーキでタイヤが動かないように固定したのを確認し、貴明は車椅子から離れて自分の下駄箱から上履きを取り出し履き替える。
 脱いだ革靴を下駄箱にしまい、再び車椅子の背後に廻ってハンドルグリップを握った。
 それに合わせて郁乃もブレーキを解除して車椅子は動き出す。
 下駄箱から廊下にかけて僅かな段差があり、貴明は郁乃の足元にある小さな前輪キャスターを浮かせるようにして車椅子を傾けた。
「ちょっと揺れるぞ」
 前輪が廊下に着いたのを確認したあと、車椅子の後ろを持ち上げるようにして押し、残った大きい後輪タイヤを同じく廊下へ着ける。
 人一人分が乗る車椅子は意外と重く、それなりの労力が必要だった。
 第一の関門クリアーといった様子で貴明は大きく息を吐いた。
 廊下に敷かれたマットレスでタイヤの汚れを落としながら進み出すと、さらに厳しい関門が待ち受けている。
 一年と二年の教室が二階にあるため、必然的に階段を上るしかなかった。
 病院と違ってエレベータという便利なものが無く、この階段を使う以外に道がなさそうだ。
 階段を颯爽と駆け上って行く生徒を尻目に、貴明は眉間に皺を寄せてどうしようかと思考を巡らす。
「ねぇ、前みたいにあたしをおんぶして上ればいいんじゃないの?」
「仮にそうするとして、車椅子はどうするんだ? 前は愛佳が居たから俺が車椅子を運べたけど……」
 階段などの段差によって車椅子で行けない場所には、愛佳が郁乃をおんぶして移動し、そのあとから貴明が折り畳んだ車椅子を持って運ぶという分担作業をしていた。
 しかし、愛佳の居ない今となっては貴明が一人でこなすしかなさそうだった。
「一人で両方ともやればいいと思うけど」
「……やっぱりそれしかないか。ブレーキ頼む」
 郁乃をおんぶするときと連れて行っている間、車椅子が動かないようにしなくてはならない。
 ブレーキでしっかりタイヤが固定されているのを確認してから、貴明は郁乃の前まで来て背中をむけたまましゃがむ。
「よし来い」
 郁乃は肘掛に手を置きながら上半身を傾け、フットレスに乗せた足を踏ん張って貴明の背中へと倒れ掛かるようにしておぶさる。
 いきなり襲ってきた予想外の重さに貴明は前のめりに倒れそうになるが、階段の縁に手を付いてなんとか体制を整えた。
 バランスを取ってから貴明は腕を郁乃の太ももに伸ばし、その細いながらも柔らかい足を支えながら立ち上がる。
「変なことしないでよ?」
「何言ってるんだ。それよりしっかり捕まってろよ」
 首に回された郁乃の腕に力が入る。
 まだ不完全な体勢を直すために、貴明はおぶさった郁乃を持ち上げるようにして軽く跳ねた。
 その際に、太ももを支えていた手をスカートを押さえるようにしながら、さらに太ももの付け根まで手を回して全体重を支える。
 酷く言えばお尻を鷲掴みしてしまっていた。
「ちょっ、ちょっとどこ触ってんのよあんたはっ」
「う、うるせぇっ、パンツ見えてもいいのか。それにこのほうが安定するんだよ」
 互いに赤くなりながら言い合う。
 いくら愛佳のおかげで貴明に耐性が付いたとしても、やはり女性の体に触るのは未だに慣れない様子であった。
 ぶつぶつと呟く郁乃をおぶさったまま、貴明は階段を上り始める。
 同じ年頃の女性と比べると郁乃の体重は軽いほうなのは確かだが、それでも何十キロとある質量はそれなりに重い。
 階段を上る貴明の速度が次第にゆっくりとしたものになっていく。
 中間地点の踊り場まで来ると、貴明はさらに続く階段の先を見据えて溜め息を吐いた。
「結構厳しいな」
「それ、どーゆー意味?」
 何気ない貴明の一言に喰い付いてくる郁乃。
 その声にはなんとも言えない迫力が混じっていた。
「いや、まあ、決して重いとか思ってる訳じゃなくて――」
「思いっきり口に出してるじゃないの」
「…………ごめん」
「いいからさっさと歩く。そろそろチャイムが鳴っちゃうよ」
「それじゃあリクエストにお答えしますか」
 そう言うなり貴明は先程と比べ物にならないスピードで階段を駆け上る。
「うあぁー! 落ちる! 落ちるって!」
 耳元で郁乃のやかましい悲鳴を聞きつつ、貴明は内心でこいつの弱点を見つけたのかもと含み笑いをする。
 しかしそんなことは長く続かず、自らの弱点に気付いて笑えなくなる。
 段差を上るたびに背中に押し付けられる柔らかい感触と、時折顔をかすめる郁乃の髪の僅かな匂いが、貴明の心臓をより一層に速く鼓動させていた。
 改めて郁乃も立派な女なんだと再認識させられながら、貴明は階段を上り切って息を整える。
「早く降ろしてくれない?」
「大丈夫なのか?」
「あのね、いくら車椅子が必要だからって全く足が悪いわけじゃないんだから」
「そういえばそうだったっけ」
 少しくらいの移動なら自らの足で歩ける郁乃だが、それが長距離や高低差の激しい場所にはある程度の無理があった。
 現に病院内なら車椅子を使うことのほうが少なく、狭い範囲での日常生活にはそれほど支障はない。
 病気のせいで長い間ベッドの上で過ごしていたため、筋力自体が衰えてしまったというのも少なからず影響しているのだが。
「じゃ、車椅子取ってくるから」
 郁乃を背中から降ろし、踵を返して今来た道を引き戻す。
 取り残された郁乃は階段を駆け下りていく貴明の後姿を見送り、スカートにできた皺をはたくように直した。
 そして、汗ばんだ自分の両手を広げてからゆっくりと握り込む。
「あったかくて、おっきかったな……あいつの背中……」
 何度も感じた愛佳の背中とは違う、男性特有のたくましさを持つ貴明の背中。
 僅かな時間であったが、それだけで以前よりは貴明のことを知り始めていた。
 目に見えるだけでは判らなかったことが、触れるということにより知りえなかった部分が判ってくる。
 それは貴明にも同じことが言えた。
 今まではどこか遠くに感じられた二人の距離。
 郁乃はその距離が僅かに縮まったのかなと思い、口元に手を当てて少しだけ笑った。
 しかし、姉のことをふと思い出してそんな笑いもすぐに消えてしまう。
 近付けばそれだけ遠ざかる本当の心。
 罪悪感という目に見えない足枷が、今もなお郁乃の自我を重く縛り付けている。
 その足枷を取り除くためには、自らの意思で偽りの仮面を被らなければなかった。
 自分の心を偽ることを昔から郁乃はしていたが、それでも未だ高鳴る胸の鼓動は偽りのものではなかった。
 だから、郁乃はもう一度拳を握り込みながら心の中で謝る。
 何度も何度も『ごめんなさい』と。
 それから貴明が折り畳んだ車椅子を担いで階段を上って来たときには、いつもどおりの郁乃に戻っていた。





「ここからは一人でもだいじょうぶだから」
「そうか? まあ、俺が教室まで付いて行くこともないか」
「じゃあね」
「おう、昼休みにまた来るからな」
「なんでよ」
「なんでって、朝来るとき約束したじゃないか」
「あ、そういえば。確か……奢りっていう話だっけ」
「……はい、そうです。奢らせていただきマス」
「いちおう楽しみにしとくから。それじゃあね」
「気を付けろよ」
 貴明が車椅子のハンドルを放して郁乃が持っていた鞄を手渡したあと、タイヤを手で漕ぎながら先を行き始めた郁乃を見送る。
 開いたままのドアをくぐり教室に入って行くのを確認して、貴明は二年の教室がある反対方向へと振り向いて歩き出した。
 一人で大丈夫だろうかと心配になりながらも目的地を目指す。
 愛佳がなぜあんなにも親身になって郁乃の世話をしていたのか、いまさらになって少し判ったような気がしていた。




初出/'05.04.05