【 Two face 】
Scene5−新しい日常
「――で、あるからしてこの問題の答えはこうなる」
教師の声が念仏のように聞こえてくる。
これといって真新しい授業内容ではないため酷く退屈な時間だった。
現に雄二は教科書を見ているふりしながら寝ている。
「次は教科書38ページの問2についてだが……」
そんな声をぼんやりと流し聞きつつ、貴明はあくびを噛み殺して窓の外を見上げる。
今朝の晴天が嘘のように雲行きは怪しくなり始めていた。
鉛色に覆われた空は今にも雨粒を吐き出しそうな雰囲気で、どうやら天気予報は外れそうである。
傘を持ってきていないことを心配しながら、貴明は四時限目の授業終了チャイムを待ち侘びた。
授業終了と共にクラスメイトの大半が急ぎ足で教室を出て行く。
昼食の調達に学食へ向かうその姿は、まるでそこがある種の戦場なのかと思うほどである。
人気メニューという勲章を得るために、誰よりも早く目的地に辿り着こうとしている戦士達といったところか。
そんな光景を見守る二人の少年も、ついこの間まではその中の一人であった。
「貴明、今日も姉貴が弁当作ってきてるらしいぞ」
「あー悪い、今日は一緒に食えない」
「なんでだ?」
「ちょっと先約があって」
「先約……? そうか」
何か思い当たることに気付いた雄二はニヤリと笑う。
今朝から普段とは少し違う貴明の様子を見ていた雄二には、その先約とやらの相手が予測できていた。
「な、なんだよその不気味な笑顔は」
「大丈夫心配すんなって。姉貴とこのみには上手く言っておくから。青春という楽しい時間を過ごせよ若造。じゃあなッ」
気持ち悪いほどの爽やかな笑顔を残したあと、雄二は泣くふりをしながら教室を駆け足で出て行った。
廊下から「なんで俺には青春がこないんだー」という声が聞こえてきたのはきっと幻聴ではないのだろう。
「何か勘違いしてるなあいつ……」
溜め息を吐いてから貴明も目的地を目指して歩き出す。
各教室から漏れてくるざわめきを背に受け、時折反対方向へと走る生徒とぶつかりそうになりながら廊下を進む。
一年生の教室が連なるところまで来ると、貴明は郁乃が待っているであろう教室へと足早で向かった。
しかし、いざ教室に入ろうとなると足が止まる。
何度かこのみや環の都合で他学年の教室には来ていたが、それでもなんとなく躊躇ってしまう。
明確な目的があるというのに、学年が違うという雰囲気だけで気後れした。
教室の前で唸りながら佇む貴明の姿はどこか怪しいものであった。
「ちょっとそこの変質者」
「えっ? あ、ごめんなさいなんでもないです!」
急に変質者呼ばわりされたことに驚き、慌てて貴明は身を翻して走り出そうとする。
だがそのときに、声を掛けてきた人物に左手首を捕まれ、傷の痛みと引っ張られる力でバランスを崩して倒れそうになる。
「待ちなさいって、あたしよあたし」
振り返った貴明の視線の先には、車椅子の上で貴明の腕を掴んだまま前のめりになっている郁乃の姿があった。
「……な、なんだ、驚かすなよ」
「だっていつまで経ってもあんたがこっち来ないから、わざわざあたしから来てあげたのに」
掴んでいた貴明の腕を離しながら、郁乃はまさかあれだけ驚くとは思ってもいなかったので心の中で少しだけ反省した。
「そ、そうかありがとう」
開放された左手首の痛みに貴明は苦笑いしかできなかった。
「で、お昼はどうするの?」
「そうだな、学食と言いたいところだけど、車椅子じゃちょっとあそこは厳しいかな。購買で惣菜パンか何か買って、別の場所で食べるっていうのもアリだけど」
「じゃあ手っ取り早く購買で。あたし教室で待ってるから」
「もしかして俺、パシリですか?」
「当たり前じゃない。あたしに行けって言うほうが鬼だと思うけど。あ、そうそう、揚げ物と味が濃いのは避けてね。いってらっしゃい」
「……はい、行ってきます」
郁乃に満面の笑みで一方的に言いくるめられた貴明は、肩を落としながら成す術もなく購買へと向かうしかなかった。
元々こういう予定を考えていたとはいえ、尻に敷かれてる気分でどうも悔しい。
相手が病気というハンデを抱えているので仕方のないことなのだけど。
とぼとぼと歩く貴明を見送り、郁乃は車椅子を手馴れた手付きで操って教室へと引き返す。
自分の席まで辿り着くと、そのまま机に突っ伏して溜め息を吐いた。
――どうして素っ気無くしてしまったのだろう。本当に来るとは思っていなかったから嬉しかったはずなのに。行けるのなら一緒に行ってあげたかった。車椅子がなければ、肩を並べてどこにでも行けるのに。
先程のやりとりを思い出し、郁乃はそんな風に考えながらもう一度溜め息を吐く。
教室に残るクラスメイトの楽しそうな声をBGMにして、郁乃は浅い眠りの中へと身を委ねるだけだった。
購買部に辿り着いた貴明は息も切れ切れに人の波に揉まれていた。
食料を求める生徒がごった返す様はまさに地獄絵図。築地の朝市といったところか。
百戦錬磨の購買のおばちゃんでさえ、この忙しさにはさすがに目が回りそうであった。
手際良く品出しとレジをこなすおばちゃんと、我先にと飢えた狼達の戦いは衰えることすらない。
貴明はそんな中で揉みくちゃにされながらも、目的のカツサンドとミックスサンドにクリームパンを買い終えて戦線離脱をした。
人気のカツサンドが最後の一個だったときには相当焦ったが、なんとか確保出来たことが貴明にとっては奇跡的ですらあった。
道中にある自動販売機でホットの緑茶を二缶購入し、一先ず買い出しは終了して郁乃の教室へと向かう。
二人分の昼食を両手に持っているだけで、なんとなく本当に使いっ走りにさせられているようで情けない。
きっと苛められている気の弱い人間はこんな気持ちになるのかと、貴明は人もまばらな廊下を歩きながらそう思った。
郁乃の待つ教室まで辿り着いた貴明は、一つ深呼吸をしてからドアが開いたままの入り口に近付く。
「……失礼します」
小声でそう言ってから、まるで職員室にでも入るような心境で貴明は教室に入る。
貴明が後輩達の視線を受けながら郁乃の席まで向かうと、郁乃は机に突っ伏して寝ていた。
この場合は起こしたほうが良いのだろうかと、しばし貴明は立ったまま悩んだ。
とりあえず空いていた郁乃の前の席に腰を掛けて、買ってきた持ち物を座った席の机に置く。
僅かに聞こえてくる郁乃の寝息が、無理矢理に起こすことを躊躇わせた。
開け放たれたままの窓から時折吹き付けるそよ風が、郁乃の長い髪を優しく揺らす。
昼休みの時間はまだある。
きっと慣れない学校の授業で疲れたのだろう。
貴明はそう思いながら出てきたあくびを噛み殺し、こんな穏やかな時間もたまにはいいかなと思った。
しかし、周りの視線に気付いた貴明は少しだけ気まずさを覚える。
他の生徒から見たらこの光景自体が何かと興味を引かれるのも事実。
滅多に学校に来ない車椅子姿の病弱のクラスメイト。
そんなクラスメイトの昼寝を見守る先輩の男。持ってきたのは昼食だということは周知の通り。
そしてこの病弱のクラスメイトの姉は、後輩や同級生に先輩達からも信頼のあった小牧愛佳。
恐らく、貴明と愛佳は校内でも有名なカップルだったに違いない。
以上のことを踏まえた上で、個人の解釈の仕方によっては変な噂すらたてられそうなのは一目瞭然。
現に数人の女生徒がコソコソと内緒話を展開させているではないか。
まさかと内心で苦笑いつつも、貴明の額には嫌な汗が滲み出してきていた。
言い訳をすればできるのだろうけど、逆に泥沼に嵌ることも考えられるため貴明は沈黙を選ぶ。
郁乃が起きていれば、そんなことも考えずに済みそうだったのだが、生憎本人は何も知らずに寝ている。
急に乾いた喉を潤すため、貴明は手元にあった緑茶のプルタブを開けて温かい液体を流し込んだ。
そしてオヤジ臭い溜め息を一つ吐く。
好きなようにしろと言わんばかりもう一度緑茶をあおり、半ば自棄になりながら貴明は腹を括った。
周りの人間から傷に塩を塗るようなことはしてほしくない。できることなら日々平穏な学校生活を貴明は望んでいた。
先程まで曇り空だったはずの窓からこぼれる僅かな日差しが、今では憎らしくさえ思えてくる。
緑茶の缶を持つ手に思わず力が入り、僅かに缶の潰れる鈍い音が発せられた。
それに反応するように、机に突っ伏して寝ている郁乃の頭がピクリと動く。
「……んー?」
寝惚けたようにゆっくりと頭を上げる郁乃。
起こしてしまったかと貴明は苦笑いを浮かべながら頭を掻いた。
郁乃は目を細めて数回首を振って辺りを見回したあと、目の前のぼんやりと映る貴明を見つけて目を見開く。
「あ、あれ? あたし、寝てた……?」
「おはよう。昼飯、買ってきたぞ」
「あ、ありがとう」
少し俯きながら小声で感謝の言葉を投げかけたあと、郁乃は車椅子に座り直して姿勢を正す。
ただそれだけのことなのに、毎度のように襲ってくる寝起き後の怠慢感が余計困難にさせてしまう。
「ふぅ……」
小さく溜め息を吐く郁乃。
なんとなくこういう姿を貴明には見せたくなかった。
心配した顔が瞬時に郁乃の脳裏に浮かび上がり、まさに目の前にはその顔があった。
「大丈夫かよ」
「いつものことだし平気。それよりご飯食べるんでしょ?」
目の前に置かれている紙袋を指差す。
「……食えるのか?」
「正直あまり食欲はないけどね。でもせっかく買ってきてくれたし」
「俺の奢りだしな」
「そうそう」
貴明は苦笑いをしながら紙袋を開けてパンを一つ一つ取り出し机に並べる。
「菓子パンと調理パンしかないけど……どれがいい?」
「じゃあクリームパン」
「ほいよ、足りなかったら他のも食っていいからな。あとこれ――」
プルタブの開いていない冷め始めた緑茶を郁乃の前に差し出す。
「クリームパンにお茶ってのも組み合わせ悪いけどな。あれだったら違うの買ってくるけどどうする?」
「別にいいって」
少し苦笑いにも似た表情をうかべながらそう貴明に告げると、緑茶の缶を引き寄せ右手でプルタブを引き起こそうと指に力を込めた。
だが、急に襲ってきた指先の痺れに郁乃は思わず顔を歪め、持っていた缶を机の上に倒してしまう。
カツサンドの包装をご機嫌の様子で剥いていた貴明はその音にビックリし、反射的に倒れた缶を掴んで立て直した。
「こぼれてない、よな。どうした郁乃?」
「ちょっと、滑っただけ。気にしないで」
「あ、ああ……判った」
両手を隠すように握り締めた郁乃の姿を見てから、貴明は掴んだままの缶のプルタブを開けて郁乃の前にもう一度差し出した。
「ほら、こぼすなよ」
「あ、ありがと……」
また心配をかけさせてしまったと、郁乃は心の奥底で溜め息をついた。
こんな簡単なことでさえ今の自分は出来ないのかと思うと、悔しい気持ちと同時に恥ずかしい気持ちにすらなる。
それでも、何も言わずに優しくしてくれる貴明。今はそれが少し嬉しくもあり、不安でもあった。
『ごめんね――』
俯いたまま唇だけを静かに動かし、囁き紡いだ言葉。
貴明の耳に届かないように、窓の外から流れてきた風がさらってゆく。
無意識に謝るなんてまるで貴明みたいだと思って、郁乃は小さく笑った。
「ん? 何笑ってんだ?」
「だってほっぺにソース付いてるし」
「マジかっ!?」
そう聞いた途端、貴明は手の甲で口の周りを拭い始めた。
あるはずも無いソースを求めて動く姿が、子供のようで余計に可笑しくなる。
「……嘘」
「え?」
「だから、嘘だって。あはは、おかしー」
「な、なんだよちくしょう。笑うなっての……」
恥ずかしさで赤くなった貴明も、笑う郁乃の顔につられるようにして笑った。
そう、こんな他愛もない日常を二人は望んでいたのかもしれない。
今まで哀しい顔ばかりだった二人が笑い合う。それは本当に久しぶりのような気がした。
感じていた指先の痺れはもう消え去っていた。
「ねぇ、そのカツサンドってやつ、おいしいの?」
興味があったのか、最後の一切れを半分まで食べ終えていた貴明にそう質問した。
「ああ、美味いぞ。なんたってどこの学校でも焼きそばパンと同等くらいの人気らしいからな」
「へぇー、そうなんだ」
学校生活の経験があまり無い郁乃にとって、その例え方では判り難いことだろう。
「食ってみるか?」
「じゃあちょっとだけ……」
貴明が手に持ったまま郁乃の目の前に差し出した、食べかけのカツサンドに小さな口を開けてパクリと食い付く。
そして数回租借をしてからハッと気付く。
間接キスだった。
「どうだ、美味いだろ」
「う、うん……」
頬を少し赤く染めた郁乃とは対象的に、そんなことを気にもしていない様子の貴明は残ったカツサンドを一口でたいらげる。
貴明は元々そういったことに鈍感なのだろう。
間接キス以上のことなんかもうしているはずなのに、なぜか郁乃はその行為と高鳴る鼓動がとても新鮮に感じていた。
口の中に残るソースの甘辛さも手伝い、気持ちを落ち着かせるため緑茶を飲み流す。
それでも周りの視線が集まってる気がして落ち着かなかった。
自分の分のクリームパンを食べ終わった後、残ったミックスサンドを勢い良く頬張る貴明の姿をぼーっと眺める郁乃。
――もしもあたしがお弁当を作ってきたら、こんな風に美味しそうに食べてくれるのかなぁ。あ、でもあたし料理出来ないし……。きっとお姉ちゃんの手料理を食べてたときは、もっと嬉しそうだったんだろうなー……なんか、悔しい。お姉ちゃん……また、あたし嫌なこと考えてた。ごめんね。
そんな風に心の中で独り言を呟いていると、貴明が思い出したように口を開いた。
「そろそろ昼休み終わる時間か……」
教室に入ってくる生徒の数が多くなり始めたのを見て、貴明はゴミの入った紙袋と空き缶を持って席を立つ。
「そうだ、放課後行きたいとこがあるんだけど、寄ってもいいかな?」
「……いいけど、あたしも行くの?」
「できればそうしてくれると有難い」
「ま、どうせ帰りは一緒じゃないとあたしが帰れないからいいけどね」
「悪いな。放課後また迎えに来るから。じゃあまた」
昼休み終了の予鈴が鳴り響く中、貴明は教室を急ぎ足で出て行く。
大半のクラスメイトが戻り次第に騒がしくなる教室。
元々の席主だった男子生徒が郁乃の前に座り、さっきまで自分の目の前で笑っていた貴明の姿がその背中に重なった。
ただそれだけの変化なのに、とても寂しく感じてしまう。
授業開始の本鈴が長く鳴る。
あと二時間の我慢だと自らを奮い立たせながら、教科書とノートを机の上に広げ始めた。
カツサンドの油っぽさが口に残っていたが、それは決して不愉快なものではなかった。
「昨夜はずいぶんとお楽しみでしたね」
「それはジョークか嫌がらせか」
「半々だな」
「なんだそりゃ……」
「ちゃんと二人には誤魔化しておいたぞ。まぁ、その代償がアイアンクローだったわけだがな」
「悪いな、雄二」
「そう思うなら今度は皆で昼飯食おうぜ。その子も誘ってな」
「……そうだな。それもいいかもしれないな」
「全く、たまには俺らにも頼れよな」
「ああ……」
言葉の最後に『ありがとう』と無言で付け足した。
日常は静かに変わり始める。
数千というパズルのピースが一つずつ嵌るように、ゆっくりゆっくりと。
初出/'05.10.12