
第十五部 地獄坂の人々 ・ 4 -- わが友・石原源吉君
(目 次)
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| 地獄坂の人々 ・4 | |
| わが友・石原源吉君 | |
| 1 | 石原源吉君の『冬の北見から』 |
| 2 | 鮭を釣る石原源吉君 |
| 3 | 師走のオホーツク便り |
| 4 | 根室の端谷敏郎君逝去 |
| 5 | あの塹壕が歴史遺産なら、オレ達は、モヨロ貝塚人か |
| 6 | 石黒茂雄君の訃報、そして、石原君の考えたこと |
| 7 | 石原源吉君、心境をじっくり語る |
| 8 | 石原源吉君の遺した言葉 |
ご想像のように寒い日が続いています。
小学生の頃、私の母は毎年冬になって商売がヒマになると、一年の慰労に新潟への里
帰りを主とした内地旅行をしていました。その母曰く、「冬は内地へ行く気にならない
よ。綿入れを何枚も着てコタツや火鉢に寒い寒いとしがみついている。冬は暖房がきい
ている家の中で、単衣で笑いながら暮らしている北見のほうが良い」今でもこれが内地
の冬を知らない私の認識です。
当地の冬は零下二0度(時には零下三0度)になる事も多いのですが、それが全て
のようなニュースとして取り上げられます。そのような寒さは冬中続くものではなく、
三寒四温というようなパターンで反復します。それも深夜から朝にかけてのもので夜が
明けて陽が当たるようになると、日中の平均気温は一桁のマイナスであまり苦になりま
せん(今日、二月十五日正午の外気温は0度)。
寒さで参ることはありませんが、十二月下旬から三月一杯くらい迄はそれなりの費用も
かかります。私の家ではストーブの一つは一晩中微燃焼で燃やし続けます。夜間に火を止
めて家が冷え切ってしまうと、また暖めるのが大変なのでそのほうが効率的なのです(ボ
ロ家の悲哀?)お陰でこの期間は温水ボイラー、据付ストーブ二台、ポータブルストーブ
二台のために月三百五十リットルくらいの灯油を必要とします。昔のように薪割り、石炭
運びの手間が不要になりましたが、反面家の中では紙一枚燃やすことが出来ず、もったい
なぁと思いながら可燃物をゴミとして出します。
* * *
通信で、友人たちの近況を楽しく読ませていただきました。四寮へ入ったとき、玄関
のすぐ横のトイレ臭い部屋で一緒だった佐々木明君、ケロリとした顔でエッチなことを話
す思い出が残っている出雲君など懐かしい人々です。
健康を損なう友人たちが多くなったことには一抹の寂しさを覚えます。人生八十才の時
代などと強がっていますが、やはりそれなりの思いをもって門松を見る年頃になりました。
私も二年程前の開腹手術以来体調がすぐれません。
「運動にもなるから家の前の除雪を・・・」とカミさんは言いますが、一寸でも腹に力を
入れるような事をすると約30cmの傷跡が痛むのでそれも出来ません。
* * *
例年ですと今頃はサロマ湖でチカ、網走湖でワカサギなどの氷下釣りをしている頃です
が、今年は行こうという気が起きません。三月頃、寒気が緩んでから(氷の厚さは三月一
杯大丈夫です)出掛けることにしようかと、今はひねもす読書とテレビの毎日です。一日
一語も発しない日も多く、時々口をパクパクさせて会話に要する頬の筋肉を動かしたりし
ています。寂しい話になりましたが「どうしようもないんだから」とカミさんがコボすの
を見ると私はまだ元気のようです。
* * *
先日十年振りに根室の端谷君と電話で話しました。根室は今や観光名所、同期の者から
根室訪問の打診はないのか尋ねました。道東に住んでいるのは我々二人だけであり、親し
い友人などが北方領土を見たい、知床を見たいなどと道東へ来た場合は、尾岱沼をリレー・
ポイントにして二人で同行案内しようかなどと長話になりました。
中身のないことばかりで長くなりました。在京の皆様に宜しくお伝え下さい・。
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2.鮭を釣る石原源吉君
上記の石原君の文章を通信に掲載した翌年、平成5年秋の通信第8号には、会社の夏休
みに道東方面を漫遊した途中で石原君に会った時のことを北村が通信に書いている。
* * *
『鮭を釣る石原源吉君』 北村 昭三
夏休みを利用して、道東方面をのんびり家内と回ってきたのですが、北見の石原君に連
絡した所、わざわざ屈斜路湖畔のプリンスホテルまで濃霧の美幌峠を越えて会いに来てく
れました。
卒業以来の再会で、いささか腹の出てきた彼の体型が気になるのですが、これは同期生
なら誰ものが同じこと。時の流れですね。
昨年の同期会の写真などを見せ、積もる話が一区切りの頃、彼は車から鮭釣りの仕掛け
を取ってきて見せてくれました
幾種類もの仕掛けは、カラフルなビニールでさまざまな形に作ってあり、その先端にはあ
の大きな鮭を釣り上げる強い鉤がついている。
「これ、みんな手造りなんだよ。何時友達から電話が来てもすぐに出られるように釣り道
具一式全部車に積んであるんだ」と楽しそうに説明してくれた。
鮭は、北からオホーツク海の海岸を南下し、八月初旬から鮭釣りは始まっている。遡上
する河口から1、090b離れた海岸であれば釣ってもよいのだそうである。なぜ、90b
という端数がつくのかは聞き損ないました。
その翌日、快晴の北浜の海辺で、竿を一人で5、6本も立てて魚信を待っている釣り師た
ちを見、暫くは砂浜に腰を下ろして夏のオホーツクの海と遠くの知床の山々に見とれてい
ましたが、その間に釣果はみられませんでした。
帰京後、石原君から、便りがありました
『友人夫妻の誘いを受け九月一日から標津の方へ鮭釣りに行き、四泊の野宿をしてきました。
あいにく東京を襲った台風の余波で海が濁って、釣果が悪く、友人は五匹、私は二匹だけ、
あと一、二日と思いましたが、十三号台風の影響で、風は無くとも雨模様になってきたので
諦めて帰って来ました。獲物は「日ごろお世話になっているから・・」とカミさんが近所に
配って歩き、我が家には四半身が残っただけでした』
オホーツクの海岸で何日間も悠々と竿を立て飛び跳ねる鮭を豪快に釣り揚げるとは、北海
道ならではの豪華な趣味ではありませんか。
ついでですが、羅臼から尾岱沼にかけての長い海岸沿いに、国後島が大変に近く見えてい
て、北方領土といわれる島々に抱くこの地方の人々の気持ちが、東京で右翼の宣伝カーが怒
鳴っているだけの政治道具の一つではないことを、実感として理解した事も申し添えます。
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3.師走のオホーツク便り
通信第12号、平成7年冬季号には、石原君の次のような投稿が載っている。
* * *
『師走のオホーツク便り』 石原 源吉
有難いことに、暗い時間帯の運転を必要とする鮭釣りには、老友たちが「オレの車で行
こう」と誘いに来てくれます。浜に並べ立てている竿先の動きを見分けるのも困難ですが、
友人たちが「ホラツ、三番目の竿に魚がついている!」などと声を掛けてくれるので助かり
ます。
お陰で、皆と同じにシーズンを過ごし、豊漁年の故もあって昨年は二十五匹であった成果
も今年は六十匹でした。もっとも殆どは他人にくれてしまい、我が家のフリーザーには三匹
だけ入っています。友人たちに「来月からチカ、ワカサギ、キュウリなどの氷下釣りに誘い
にくるから」と言われて、そのつもりでいます。
この趣味は『釣り馬鹿』の世界で、お互いに汚い格好で浜で友達になり『オレ、アンタ』
の仲になった人が話し合っているうちに、以前は隣町の教育長だった、或いは現在大きな会
社の会長だなどと知り、誘われてその自宅を訪れ豪邸に驚くなど、社会的地位を離れ、趣味
の世界だけでの交遊は良いものだと思っています。
ご承知かも知れませんが、こんな豊漁となると、筋子だけが狙いで、魚を捨てて行くという
荒っぽい若者が多く、心ある釣り人の眉をひそめさせます。われわれ老人たちは、制限区域
外で釣りを楽しみ、浜のゴミを片付けてくるなど、節度ある行動をしています。
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4.根室の端谷敏郎君急逝
平成9年4月、根室の端谷敏郎君が急逝した。石原源吉君が書いてくれた端谷君への切ない
想いが通信第19号に掲載されている。
* * *
『端谷敏郎君が亡くなられたことを東京に住む辻澤君から教えられ、在りし日の彼を想い、
悲しみつつ「知らなかったなあ。近くの弔事を遠くから教えられるとは・・・。この年齢に
なると便りのないのは無事の知らせ、などと悠長な事を言ってはいられないんだなあ、など
と考えました。
. 彼と最後に会ったのは、四、五年前に北見市内のホテルから彼の連絡を受け、ロビーで一
時間ほど話した時でした。北見への目的を尋ねますと、「北見にあるお寺の落慶式へ、同じ
派の寺が募集した檀家の団体に参加して・・・」と、殊勝な話でした。二十年近く前に、私
が根室地方を旅行し、端谷君と会った時、「高校生だった息子が学校行事でのマラソンに参
加して、車に轢かれて死んだんで・・」と語ったのが記憶にある私は、そのような悲しみを
内に抱く彼の仏心に頷けるものがあったのです。
そして、こんな事を書くべきではないかも知れませんが、他にも、彼は国際政治の狭間に巻
き込まれた悲運の人でした。
戦前からの根室は近海の漁業資源に恵まれ、千島列島の後方基地として豊かな町で、彼の生
家も水産関係の商家と聞いていました。
敗戦で目の前の漁場を失う打撃を受けた根室でしたが、かの国が主張する千島列島沿いの領
海外の公海を利用した漁業で生き続けていました。しかし、昭和五十年頃に領海二百海里法が
定められ千島沿いの公海水域を失い、さらに米国とロシアの圧力で自由に動ける場が殆どなう
なり、根室の漁業、特に水産加工業は壊滅状態になったのです。
缶詰をメインに大規模な経営をしていた端谷君もその波に巻き込まれ、一切の設備が無用の
スクラップ化、当時の金額で億単位の損害を残したまま倒産の憂き目をみたのです。
知命の年齢で、この苦しみを味わった彼の気持ちを思い、何の力にもなれない自分を考えて、
彼との接触があった時にこれを話題にすることはありませんでしたが、内心感服していたこと
があります。
それは、私のような並の器なら、老境といわれる年齢に差しかかってから、今までの一切を
失うようなダメージを受ければ、その後は落ち込んだままジメーとした暗い余生になるであろ
う。端谷君は逞しい。アクシデントとも言うべきあの躓きがあっても、彼はそのことを浜の訛
りのある言葉で明るく語って私に接していた・・・。
又一人サムライであった数少ない友人がこの世を去りました。』
この追悼文の掲載された地獄坂通信は、端谷君の奥様にも送られた。石原君は、端谷君の奥
様からお礼の電話を頂き、そのことを次のように手紙で伝えてきた:
『奥さんは、「通信に石原さんが夫について書いて下さった文章を泣きながら読ませて頂き
ました。本当に有り難うございました」と恐縮するお言葉、あの時、思いつくままに書いた文
章だったが、こんなに喜んでくれるんだったら、もっと書きようがあったなあと、慰める言葉
を選びながら電話のお相手を致しました。
端谷君はその日、何の予兆もない朝を向かえ、庭の草むしりをしていた時に、バッタリ倒れ、
それが彼の終焉だったそうです。その死があまりにも突然であったため、奥様はただ呆然とし
て一切の思考を失い「お葬式をどうやって出したか覚えていません、同期を代表して小樽の小
坂昭夫さんからお悔やみのお電話をいただいた時も、どのようにお相手をしたかも覚えていま
せん。この頃、やっと少しばかり物を考えられるようになりました」と声を詰まらせながら語
る奥さんにただ痛々しさを感じました』
通信の訃報欄には、「動脈瘤破裂により」急逝、とあったが、『二十年近く前にこれを事前
に発見、処置できたのは奇跡だ、と言われている私には、複雑な思いがあります』と石原君は
手紙の最後に記していた。
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5.あの塹壕が歴史遺産なら、オレ達はモヨロ貝塚人か
釣りに出掛けることの少なくなった石原君は、その時々のニュースに基づいて新聞社など
に投書をしていたようであった。時たま戴く手紙には、ユニークな意見が述べられていた。
一つには、体調が次第に衰えて行くこと、そしてその一方、ワープロを使って手紙を
書くことの楽しさを覚えたことによるものだろうと私は思っていた。
平成15年の夏、北海道新聞の記事の大きな切り抜きを同封した手紙が届いた。
* * *
『木造トーチカ跡発見
セメント欠乏か・・大樹の海岸で
太平洋戦争末期に造られた木造のトーチカ(防御陣地)と見られる跡が、十勝大樹
町の海岸で建築の専門家グループの調査により発見された。現存のトーチカは大部分
がコンクリート製で、木造は珍しい。関係者は「物資不足でセメントが尽きたのかな
どと推測。戦争を考える貴重な歴史遺産としてさらに詳しい調査を続ける。
トーチカは米軍上陸に備えて、旧陸軍が主に道東の海岸線に構築した。そして、海
に向かう面には銃眼があった筈と専門家は解説する』
そして、木造トーチカ跡の写真と、推定横断面図が掲載されていた。
石原君は早速にワープロで打った手紙を出している。
『北海道新聞に掲載された「木造トーチカ」に関する記事を、ある懐かしさを抱きながら読
んで、記事の中で「歴史遺産」なる語句に接し「日本人があの戦争について黙しているう
ちに、五、六十年で歴史遺産に・・・、あそこで働いていたオレ達はモヨロ貝塚人か・
・・」と、苦笑めいた想いを抱きました』
(モヨロ貝塚とは、アイヌ民族以前の先住民族(ギリヤーク系)の竪穴住居で、大正二年
に網走で発見され、オホーツク文化の代表的遺跡として網走市の「北見郷土館」に展示さ
れている。北村注)
さすが石原君、と思わず吹き出した表現ですが、考えてみると、まさにその通りですね。私
たちの心の中に生き生きと残っているあの大樹村での日々は、もう六十年も昔のことで、現在
五十歳より若い人たちには、あの「塹壕掘り」も「木造トーチカ」の建設とでも言わないと今
では通用しないのでしょうね。私たちの郷愁とは程遠い味気ない表現です。
石原君は、その手紙の中で、大樹村、萌和山での私達の塹壕堀り作業や小学校での生活の実
態を具体的に説明し、さらに「小樽地獄坂」の中の「大樹村」の章をコピーして送っています。
この調査を行った設計会社の社長さんから、お会いしたいと連絡があったそうですが、石原
君は、「酸素ボンベを担いでいなくてはならない肺気腫の身障者、そして重度の糖尿病患者」
なのでと云う言い訳で、会うことだけは避けています。
手紙の上では元気なようですが、そんな病気を抱えていて大丈夫かと、私にはその方が心配
です。
以上は、平成16年の通信第33号に掲載されました。
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6.石黒茂雄君の訃報、そして、石原君の考えたこと
通信の同じ第33号には、群馬県高崎の石黒茂雄君の訃報が掲載されており、石原君が追悼
の言葉を書いている。石黒君と石原君は戦後になってから四寮で同室となった仲間だった。以
下は、石原君が、石黒君のお宅へ電話をして奥様から伺ったことを知らせてくれた石黒君追悼
の文章である。
『一昨日、石黒君のお宅にお悔やみの電話をしました。
石黒君はいろんな病気を抱えての長患いでしたが、最悪だったのは各部の血管が細くなり、
最後には血管に風船状のものを入れて膨らませるなどの手術までしましたが効無く、ついには
三人の付添婦を配するまで・・・八年間の闘病を続けた終焉は、気づかれないまま脳梗塞を起
こしていたそうです。
四寮で同室時代に「・・だんべ」の方言を使っていた若い頃の彼の姿しか思い出せない私に
はただただ悲しい話でした。
「長い時間でしたが、出来る全ての事はしました。いま悲しみはありません」と語る奥さんの
言葉の内容や口調には上州女の強さを感じました。
* * *
私は以前から家の者には「人間は必ず死ぬ。長患いをして自らも苦しみ、周りの者に迷惑を
掛けるよりは、それが寿命ならばポックリ死ぬ方が良い」と言い、「病気になったら救命治療
はしてもらうが不治の病と判ったときには無駄な延命治療はするな」と言っており、わが家の
クサンチッペはケロリとして、「分かった、ただ何か起きても困るから一筆書いて置きなさい
よ」と言っていました・・』
* * *
この後半の部分は、直接に石黒君追悼の文章とは繋がらないのだが、石原君の原稿の通りに、
敢えて通信に掲載した。意味がはっきりと判るのは数年後になるのだが・・・(北村)
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7.石原源吉君、心境をじっくり語る
二年前、平成17年7月、暫くぶりで石原君から長い手紙が来た。ワープロでB5、8枚に
びっしりと打ってあった。体調が悪かったのであろう。暫く途絶えていた手紙でした。
『昨日(7/10)、私の出身校庁立小樽商業(高商ではない)の同期会がそろそろ解散をし
たいのでお別れ会をしたいがという案内状が届きました。
案内文に「互いに傘寿も近くなって、無病息災は少なく、大方の仲間は医・薬の世話になり
・・」とあるのを読み、わが身と思い合わせて、さもありなんと頷きました。
そして、我々の小樽高商の同期の者達の今と明日について考えて見ました。
思うこと多々なるものがありました。大きな躊躇いを抱きながらこの手紙を書き始めてい
ます』
という前書きに始まる手紙でした。遠回りな書き方なのだが、内容の主体は、通信の編集・
発行を北村と共に行っている辻澤君の事のようでした。石原君は辻澤君とは小樽高商入学以前
から、私の知らない交遊があって、彼の家庭のことも知っていました。その辻澤君の奥さんが
先頃病気で亡くなり、子供のいない辻澤君の身を石原君は案じているのです。
通信発行の初期には、印刷の上がった通信を辻澤君は家へ持って帰り、奥さんと共に、セッ
トし、折畳んで、宛名シールと切手を貼って郵送していたことも彼は知っていました。
相手が私であるから気を許して書いている石原君の手紙なので、この場に全てを書き写す
ことはプライバシイのこともあり、無理のようで、多少端折ることにします。
石原君の北見での生活、特に退職後の釣り仲間たちとの交友は通信にも書いており、その仲
間たち、会社で現役の頃には責任のある立場にあったが、リタイアして共に楽しく過ごしてい
た仲間たちも、だんだんと数が少なくなっています。
彼自身も、五年ほど前に浜でバッタリ倒れて大騒ぎをし、仲間に近くの病院に運びこまれて
から釣りを止めました。残った仲間たちも(なにしろ老人のグループですから)4人は死に、
現存者は彼を含め3人だけです。特に妻に先立たれた男の悲しさを近くで見て、そのようなと
きに、彼は辻澤君の事を思うのです。
手紙の最後の頁へ来てようやく本題に入ったようです。その頁には題名がついていました
*
私の現状・・、この記述に時間がかかる理由。
『事の成り行き上、恥を書きます。五年前までは車を走らせて釣など元気な私でしたが、浜で
倒れた後、糖尿病と肺気腫が認知されて医・薬は勿論、家で一日20単位のインスリンを自己
注射、酸素吸入のチューブを鼻にかけての醜状です。
運動を必要とする糖尿病と、すぐ息切れする肺気腫という矛盾する病気での間で、歩きたく
ても息切れがして・・、歩かないからますます歩けなくなる・・の悪循環で、最近は歩いても
20米位の歩行が限界という所です。150米先の郵便局、200米先の病院にも・・ハイヤ
ー代が大変です。カミさんから「何があっても大変だから外へ出るんじゃないよ」と釘を刺さ
れ“箱入りジジイ”状態です。
家の中では、“立ちくらみ、よろめき、”は始終・・、イヤハヤ。内心「帝国陸軍二等兵こ
こに潰れるか」の日々ですが外面はケロリとして「人間、死せざる者あるべきか、大体80歳
まで生きるなんて思っても居なかった。食事の度、そのグラム数を計量して・・、三度三度そ
んなセコイ事ができるものか!」と一見は意気ケンコウ?たるものがあり、カミさんからは
「救いようがない」とホメられて??います。
今の自分のことを考えると、「他人の心配事ではないだろう」と言われますが、「追い詰め
られた体験を伝えるのが必要」と考えるのです。
小学生の孫娘達が訪ねて来た時、互いにはずんだ会話をする以外、殆ど会話のない夫婦です
が、黙っていても“目配り”してくれているようで、二ヶ月程前に次男を呼んで、何かガタガ
タしているなと思っていたら家の中二ヶ所に手摺が取り付けられていました。素直でない老人
は「余計なものを・・、バカにして」と怒って見せたものの結構役に立ち、内心感謝していま
す。人間80歳にもなると何時何があるか分からず、「常時、介護してくれ」とは言いません
が、周囲に“目配りしてくれる人”は必要でしょう。
ただ参ったのは、糖尿病の故でしょうか、この一、二年急に目が薄くなり、運転免許の更新
も出来ずに失効、新聞も困難、テレビのテロップも読めずテレビは殆どラジオ代わり。この手
紙も手探りでキーボードを打って天眼鏡をかざして転換・・。転換・天眼の繰り返しという哀
れな状態、1頁分も打つと目が痛くなって暫く休むという哀れな状態、一・二日は気力が衰え
て休みという有様。
以上、己の恥を交えながら長話をしてしまいました。』
* * *
手紙はこれで終わったわけではありません。
手紙の最後の頁になって、ようやく、この手紙の本当の意図が述べられていました。彼は奥
さんに先立たれた辻澤君の、これからの事がが心配でならず、遠回りをしながら、しかし本気
でこの手紙を書いているのでした。
『常識のある人ならば、他人のことにそこまでは立ち入らないだろう。』と、ためらいながら、
やはり心配なのですと次のように書いています。
『*子供のいない彼が奥さんに先立たれたという事実のもとで、
*彼は孤独では・・? 目配りをしてくれる人は?
*近くの人々との交友は?
*親戚の人は?
これは、電話や手紙ではできず、直接会って、話合う必要があります。そして、確認された
事情を踏まえ、敢えて今後についてのアドバイスをしたいのです。その為に、“追い込まれて
いる今の私の醜態を書いたのです。ただ、辻澤君のそのような事情を確かめるには、前記の健
康状態にある私にはそれが出来ません。
我々の仲は“ありふれた学友ではない”と思っています。北村君を要とした数人の人なら、
「石原のバカがこんな事を書いてきた」とでも切り出した話題の中で、辻澤君が少しでも気力
・体力のある中に、身辺の整理、適当な施設の利用のアドバイスをして頂けないでしょうか?
何度も書きますが、非常識な手紙です。紙面も丁度終わりました。失礼。』
長い手紙は、ようやく、しかし、突然という感じで終わっている。手紙の主な趣旨は、辻澤
君のことである。それを、回り道をし、自分のことを語りながらも、彼は本当に気に掛かかる
ことを懸命に書いているのだった。
* * *
奥様が亡くなられた後、引き受けていた通信の発行の事からも手を引いた辻澤君とは、私は
ゆっくり話をする機会は殆どなくなっていた。定期的に東京在住の同期の何人かが集まること
はあるのだが、そのような場所で、石原君の心遣いを伝えることもできなかった。
一人暮らしで、気配りをしてくれる人も居ない筈の辻澤君のことを石原君が大変に心配して
いると言う事を漸く遠回しではあるが、伝えることができたのは数ヶ月も後のことだった。
辻澤君は北見へ何度も電話を掛けているようであったが、その内容を聞くこともなく、石原
君の体調はワープロを打てるような状態ではないらしいということだけが私に伝えられ、従っ
て、石原君から私宛の手紙も来ることはなかった。
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8.石原源吉君の遺した言葉
平成19年2月14日の夜、「北見の石原です」という電話を石原源吉君の奥様から戴いた。
思わず悪い予感を持ったのだが、矢張り、悲しいかな、それは石原源吉君が亡くなったいとい
うお知らせであった。
その数日前から、北見で都市ガスが漏れる事故があったという報道が連日伝えられていて、
石原君とは同じクラスで昵懇の仲である伊藤陽吉君が心配して石原君の家へ電話を入れたとこ
ろ、石原君が入院していることを知らされていたのだった。
奥様のお話では、数年前からの糖尿病と肺気腫が急激に進行してのことだった。
さらに奥様は、石原君がその急な入院の際に、小樽高商の同期生宛に書いた書面を奥様に手
渡し、その時が来たら北村君に電話をしてその内容を伝えてくれと云われていたものがあるの
です、ということで、それを読んで下さいました。
◎
高商の同級生へ
石原源吉、去る 月 日死去しました。
ここ数年は糖尿のため失明状態。
肺気腫のため身動きもとれず
皆さんに失礼の数々があり
お詫びしてほしいと申して居りました。
関係の皆さんに何卒宜しく
お伝え願います。 草々
奥様にお願いをして送って戴いたその書面は、急いで書いたのであろう。B4版の用紙は、
何年も以前に発行した通信の裏で、言うならば遺書ということである。“表面にある北村君へ
電話”と書いてあった。通信の印刷されている表側には、発行者の辻澤君と編集者の北村の電
話番号が掲載されている
数日後、池袋の緑丘会館で隔月に行われている同期の東京在住者の定例の会があり、辻澤君
を始め、十数名の出席者たちは、石原君の書いた自らの死亡通知を、言葉もなく静かにじっと
読んで、彼の安らかなご冥福をお祈り致しました。
石原君は、同窓会には一度も出てきたことはなかったと思います。
何やら改まった場所や気難しい人付き合いには苦手意識があったのかも知れません。その代
わり、気楽に喋れる相手には、よく電話を掛けてくる電話魔で、辻澤君を始め気心の知れた人
にはしばしば電話を掛けているのでした。
石原君からの電話、そして、思った通りの事を思ったようにワープロで打ってくるユニーク
な手紙。もう二度と、どちらも来ないのですね。その代わり、貴方は、仲間の同期生たちに、
しっかりと別れの言葉を遺して逝かれました。
しかも、緑丘卒業六十周年の年に・・・。
次号の通信には、貴方が書いたお別れの言葉を写真に撮って掲載し、同期の皆に伝えること
に致します。
石原君、どうか安らかにお休み下さい。
* * *
翌月、地獄坂通信第39号が発行された。私は石原君への追悼の文章の中に、石原君の「高商の
同期生へ」と題した彼の別れの言葉を写真に撮って掲載し、そして、彼が「小樽地獄坂」の中に書い
た大樹村での勤労動員のことや、北見から戴いていた幾つもの手紙のことなどにも触れて卒業後の
彼を偲ぶ言葉とした。
通信第39号をお読みになった、石原君の奥様から、お礼の手紙を戴きました。
『(前略) 主人の生前、亡き後と数々のご迷惑をお掛けしたのに、地獄坂通信をお送り下され厚くお
礼申し上げます。
主人の文章は、主人の意のままにお送りし、申し訳ありませんでした。お手数ですが、処分の程を
お願い致します
主人の晩年は人との交流もなく、唯々、商大のお友達を心の支えに毎日を送っていたのでしょうね。
心より、厚くお礼を申し上げます。
私も、後を振り返らず、前に進む毎日を送ります。
北村様もくれぐれも、お体をご自愛くださいますように。
失礼と存じますが、辻澤様に宜しくお伝え下さいませ。』
☆ ☆ ☆ ☆
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地獄坂余話第十五部 了