日応上人全集1

日蓮本仏論


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予は今夕本題に掲げたる日蓮本仏論に就いて少く演べようと思います。吾が本宗は最大真深秘の大法を護持紹継せる独立宗なるを以て、其の教義も亦諸宗派に卓絶超越しております。蓋し吾宗の法系を申せば、久遠元初・名字の釈尊に由て起り、末法出現の日蓮大聖人に至て開顕せられたるの法義にして、六百数十年来連綿として伝承せる血脈正統の日蓮正宗であります。
 夫れ、教理的釈尊も歴史的教主も倶に顕本日蓮大聖人の御内証なるを以て、日蓮大聖人は、久遠に約せば本地自行・名字の釈尊であります。今末法に臨んでは一迷先達不渡余行直達正観の大法主であります。蓋し自証已後の釈尊は、或は本果、或は中間、或は今日と種々に垂迹示現すと雖も、倶に是れ通時脱益の教主にして、末法下種の本仏でありません。今末法濁世の衆生は本未有善の機類にして、本已有善の機根ではありません。下種本仏の出現して化度すべきの時であります。故に下種の本仏已に末法に入て百七十余年、貞応元年壬午二月十六日を以て、大日本国房州小湊浦に降誕ましましたのであります。是れ即ち吾祖日蓮大聖人にておわします。
 日蓮大聖人は、教相に約して外用浅近の辺より論ずれば本化上行菩薩の再身なりといえども、進んで文底内証を以て云えば久遠元初・名字の釈尊であります。是より進んで尚委悉に之を辯じましょう。
   第一に、上行菩薩は久遠本仏の御内証であると云う事を論じ、是れに就て
    初に上行菩薩の外用を論じ、
    次に上行菩薩の内証を論ず。
   第二に、日蓮大聖人は久遠名字の釈尊にして末法下種の本仏なる事を論ず。
   是れに就て、
    初に宗祖大聖に於ても内証・外用の二義ある事を辯じ
    次に宗祖を上行の再誕と称するは宗祖の外用たる事を辯ず。
    三に宗祖は久遠本仏なる事を辯ず。

 第一に、上行菩薩は久遠本仏の御内証なる事を論じますれば、本化上行菩薩に就て、外用と内証との二身ある事を知るべきであります。又付嘱に於ても附文・元意の二義ある事であります。
 第一に、外用に約する上行とは、文句九に上行菩薩の涌出に就て四義を挙げてあります。
 云く、聞名の故に来る、破執の故に来る、顕本の故に来る、弘法の故に来る等の四義であります。聞名の故に来るとは、涌出品の趣に依ると、他方の国土より来れるは、恒河沙の数にも過ぎたる多くの菩薩方が大衆の中に於て起立し合唱し、礼を作して仏に白して言うよには、世尊、若し御滅後の上は我等をして此の娑婆世界に此の経典を弘通する事を聴し給えと懇請せられた。爾時に仏、諸の菩薩摩訶薩衆に告るよう、止なん善男子、汝等に此の経を護持せんことを須ひず。所以者何なれば、我娑婆世界に六萬恒河沙等の菩薩等が我が滅後に於て能く此法を説くものであると。不思議や此の時に娑婆世界の三千大千国土の地皆震動して、而も其の中に於て無量千萬億の菩薩摩訶薩ありて同時に涌出せり。是の諸の菩薩は身皆金色にして、三十二相無量光明を供えられておると説き給えてある。

 又是の菩薩衆の中に四人の導師あり。一をば上行と名け、二をば無辺行と名け、三をば浄行と名け、四をば、安立行と名く。是の四菩薩の衆中に於て最も上首唱導の師と為すとある。是れ即ち他方の菩薩の此の土の弘教を止めて、自ら六萬恒河沙衆有りとの別命に依て涌出せられたる上行等の菩薩である。故に聖祖は此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏尚文殊薬王等に付嘱せず。何に況んや其の已下をや。但地涌千界を召て八品を説て之を付嘱す本尊抄に仰せ置かれた。

 第二に、破執も故に来るとは、彼の本化涌出の別命に就ては弥勒菩薩等大に疑を生じた時に仏は遠本を顕わされた。此の顕本に依て第三の執情が破された。故に破執の故に来る、顕本の故に来る等と云うたのであります。
 第四に、弘法の故に来るとは、経に是好良薬今留在此乃至遣使還告と説いて釈尊の内証一大事の秘法・本地難思境智の妙法・真の事の一念三千たる本門寿量の妙法を本化上行菩薩に付嘱し、仏滅後正像を過ぎて末法の始に出現し一閻浮提の一切衆生に与え給わんが為に世に出現在ませしなり。故に弘法の故に来るとなり。
本尊抄に本門の四依地涌千界末法の初に必ず出現し玉う可し、今の遣使還告地涌なり、是好良薬は寿量品の肝要、名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり等と云々。
 余は繁きが故に之を略します。已上演べ来る処は此れ文上本眷属の本化上行菩薩にして、経には無量無辺百千萬億那由陀阿僧祇劫に於て、嘱累の為めの故に此の経の功徳を説く、猶尽す能わず。要を以て之を言わば、如来一切所有の法、如来一切自在の神力、如来一切秘要の蔵、如来一切甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説すと説せられてある。
 復た吾祖大聖は、大地の底より上行菩薩と申せし老人を召し出して、多宝・十方の諸仏の御前にして、釈迦如来七宝の塔の中にして、妙法蓮華経の五字を上行菩薩に譲り玉う等と本尊抄に仰せおかれた。是れ日蓮各宗の緇素等が、吾祖を上行の再誕なりと称するの的証であります。爾し此れは一往教相附文に約した通論であります。

  次に内証に約する上行
 一往教相附文の辺を以て論じますると上に演べた如くでありますが、再往元意に約する内証の上行とは、久遠元初の上行菩薩であります。
 抑も此の久遠元初の上行菩薩は、曽て本国土に住して霊山へも出現せず、御附嘱をも領せざる処の本眷属であります。経には我本行菩薩道と説いて本因妙の釈尊の内証の眷属である。此の内証の本眷属を文底観心の上行とも久遠元初の上行とも称するのである。其の謂如何となれば、即ち久遠元初の釈尊の御内証所具の地水火風空の五大の中の火大を指して即ち久遠の上行菩薩と申すのであります。此の上行菩薩は本国土を動き給わず、償わず、働らかず、無作本有の四大菩薩であります。故に我本行菩薩道と申します。
観心本尊抄に曰く、「経に曰く、我本行菩薩道所成寿命今猶未尽復倍上数等と云々。我等が己心の菩薩界なり、地涌千界の菩薩は己身の釈尊の眷属なり。例せば太公・周公旦等の如く、周武の臣下成王幼稚の眷属なり。武内の大臣は神功皇后の棟梁仁徳王子の臣下なり。上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩界なり。妙楽大師の云く、当地身土一念三千、故成道の時此の本理に称う、一身一念法界に偏すと云々。」
 此の文に云う処の我本行菩薩道乃至我等己心の菩薩界とは、我等己心の釈尊は則ち是れ種が家の本果妙にして無始の仏界、我等己心の菩薩界は則ち是れ種が家の本因妙にして無始の九界である。此の本因本果の釈尊は我等が己心の主君である。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属で、常恒に随逐して仏の行化を補くる事は、譬えば太公・周公旦の周武等の臣下たるが如く、此の地涌千界の上行等は我等己心の菩薩である。斯の如く君臣既に我等が一心に住す。一心豈に君臣を別つべきや。是れ君臣父子師弟の合体を示して、三徳に約して以て一体を示し給いたる御法門であります。
 釈には法性之淵底、玄宗之極地と。又形を十界に垂れ種々の像を作るも、弥勒菩薩は尚不識一人と。此等の経釈を案ずるに、上行菩薩の御内証は妙覚の釈にて在すこと顕然である。
 故に疏の九には、下若し来らずば迹破することを得ず、遠を顕すことを得ずと。又文句の九には、慧利かぎりなし、一月の萬影は孰は能く思量せんと。妙楽の云く、若し影を撥せずんば安ぞ天月を知らん。諸仏菩薩実本の量り難きを明し、冥に如来の迹の量る可らざることを顕すと云々。又云く、初に此の仏菩薩に従って結縁し、還て此の仏菩薩に於て成就す云々。
 此等の御釈の意は、釈尊と上行とは名異体同にして一体の尊仏なることを示せる処の明文であります。
 尚、天台大師は云く、然るに能問者皆是古仏と妙楽大師は云く、今菩薩尚是れ古仏なりと歎ず一切処に遍すと。又云く、雨の猛を見て竜の大なることを知り、華の盛なるを見て池の深きことを知る、応に虚空に満るを見て則真に法界に弥ることを知る等と云々。
宗祖御義口伝に云く、地涌の菩薩を本地といえり、本とは過去塵点よりの利益として無始無終の利益なり、此の菩薩は本法所持の人也と云々。
 是等の釈意は、是れ亦本地の菩薩は久遠の古仏にして、本地本仏無作の実仏なることを標し給ひし現文であります。然れば即ち上行菩薩に於ても外用と内証との両辺ありて、而して其の内証に約して論ずるに斯の如くであります。已上演べ来りましたる事柄を今爰に略言せば、其の要は三義であります。
 一には、釈尊己心所具の上行菩薩なり、
 二には、名異体同の上行菩薩なり、
 三には、久遠古仏の上行菩薩なり。
 夫れ爾り。然らば吾祖日蓮大聖人が自ら上行の再誕なりと卑下し給うといえども、是は此れ教相一途の文上のみ。強ちに此の外用の一遍に執して、単に上行の再誕なれば久遠の本仏にあらずと誣ゆるは、提婆・?伽利にも過ぎたる大謗法と云わざるを得ない。
 若し爾らずと云わば予は爰に一議論あり。其論点は諸義あれども略して三義を示さん。
 一には、釈尊本有の昔理即名字の位にありて妙法蓮華経を御修行遊ばされました、其の時に上行等を弟子になされた。是れ又理即名字の凡夫でいらせられた釈尊と上行とは、師弟不二にして而も宛然でありました。迹中の弟子の文殊も、既に過去に於ては龍種尊王仏と申す尊き御仏であります。況んや本化上行等の菩薩に於いてをや。上行等既に本因の弟子と為って如何ぞ本果の釈迦を敬礼せり。是れ即ち本因の師弟而二門を顕さんが為、上行等は暫く菩薩の尊形を示現し本果の釈迦を敬礼せり。是れ即ち本因の師弟而二門を顕さんが為のみ。上行・無辺行・浄行・安立行等は釈迦本因名字即の師弟であります。而も寿量品の妙法を稟承せられたのである。豈に今日神力品に来て初て寿量の妙法蓮華経を稟承するの理あらん。
 二には、本果の釈迦如来、已に過去久遠にも一代諸経五時八教を説き、而して第五の法華の説法畢らん時、神力品を説いて上行菩薩に結要付嘱せられしにあらずや。是れ上行付嘱の最初なり。上行菩薩は其の付嘱を受けて寂光に還帰し、本果の仏の本涅槃妙の後、名字の僧形と成て末法に出現し、折伏弘教し玉えり。是れは此れ折伏強毒の最初なり。何ぞ今日の神力品に於て初て付嘱を受くるの理あらん。
 三には、本果已後今日以前の諸仏は本果の垂迹なり。名字不同乃至或説他身と云々。諸仏法華経を説くに、法華経本門の時本因妙を諸菩薩に付嘱せられしなり。尚付嘱の証標は同く神力嘱累である。然らば又是れ何ぞ今日神力品に於て初て付嘱せらるるの理あらん。
 之れに由て之を観るに、今日の法華経は只是れ儀式的・形式的なりと云うも敢えて激語にあらずと思う。今日満場の諸士に於て爾らずと云うものあらば、先ず先決問題として此の三義を答釈せられよ。

 第二に、吾祖日蓮大聖人は久遠の本仏なる事を論ぜん
    初に、吾祖大聖の内証外用を論ず。

 蓋し宗祖大聖は末法下種の主師親にして本門寿量文底本因妙の教主である。故に
開目抄には、日蓮は日本国の諸人に主師父母なりと。撰時抄には、日蓮は当帝の父母、念仏者・禅宗・真言等の師範なり、又主君なりと。又云く、日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。是をそしりあだむ人を結構せん人は閻浮提第一の大難に値うべし。是は日本国をふりゆるがす正嘉の大地震、一天を罰する文永の大彗星等也。是等を見よ。仏滅後の後仏法を行ずる者にあだをなすと雖も、今の如き大難はなき也。南無妙法蓮華経と一切衆生に進めたる人一人もなし。此の徳は誰か一天に眼を合せ、四海に肩を並ぶべきやと。報恩抄に云く、一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年の間一人も唱えず、日蓮一人南無妙法蓮華経と声も惜まず唱うる也。乃至日蓮が慈悲広大ならば等と云々。
 夫れ此等の諸文に、宗祖は末法の我等衆生の主師親なる事を表し給いしなり。就中撰時・報恩の二文に、或は南無妙法蓮華経と一切衆生に進めたる人なし。此の徳は誰か一天に眼を合せ等と曰い、或は一閻浮提の内に仏滅後二千[二百二十五年が間一人も唱えず、日蓮一人等と曰う。則ち是れ天地開闢已来一四天下に未曾有なりし本門寿量品文底下種本因妙の題目を、宗祖大聖始て我日本国に流布せしめ、末法の下根下機、極悪深重の我等衆生に無比広大の仏種を下させ給う一迷先達の教主、以教余迷の導師、一天四海我独尊の本仏たることを示させ給う金文であります。
 鳴呼慎まざる可けんや、恐れざる可けんやである。夫れ爾り。然らば何ぞ是を末法万種の人の御本尊様と崇敬せざらんやである。
 斯く論じ来れば諸君或は謂う、宗祖の御徳実に広大無比なれども、今日の御当位は現に薄地の凡身を示し、其の御本地も亦釈尊久遠の御弟子、本位上行菩薩の再誕と見えたり。何ぞ師父の釈尊を置て、僣して宗祖を称して本尊と崇め奉るの理由あるべきやと。之に就て宗祖に亦内証・外用の両義あり。今論次に臨んで序に之を演べよう。
 ○宗祖の外用内証 上行再誕の日蓮は外用
久遠本仏の日蓮は内証
 ○次に上行再誕の日蓮
上行再誕の日蓮とは、
本尊抄に曰く、本門の四依地涌千界末法之初に必ず出現し玉う可し。今の遣使還告は地涌也、是好良薬は寿量品の肝要、名体宗用教の南無妙法蓮華経是也と云々。
下山抄に曰く、地涌の大菩薩末法の初に出現し給て、本門寿量品の肝心、南無妙法蓮華経の五字の題目を、一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序の為也と云々。
大田抄に曰く、所詮仏専ら末世の時に限って五字の要を此等の大士に付嘱し玉う故也と云々。
 此等の祖文は、詮ずる所、釈尊が本化上行菩薩に本門寿量の妙法を付嘱し、上行菩薩末法に出現して、一閻浮提の一切衆生に与え玉うべきなりとの金言なり。当に知るべし、吾祖は上行の再誕として弘法の故に来れる者なり。経に、是好良薬今留在此乃至遣使還告と説いて釈尊の内証一大事の秘法・本地難思境地の妙法を仏滅後正像を過ぎて末法の初に出現し、一閻浮提の一切衆生に授与すべきの勅命の故に来れる者なり。然るに已に末法に入て経文の如く、及加刀杖者数々見擯出等の大難に値い、法華経を説の如く行ぜし者は誰かある。恐らくは聖祖を除き去て他に其の人ありしとは思われざるなり。若し然らば聖祖は名字の当躰薄地の凡身を示し給えども上行の出現すべき時に出現し、其の上行の事を行い、上行の言を宣ぶるに於ては即ち上行ならざるべからずである。
 例せば堯舜如くなる衣服を著し、堯舜如くなる有道の言語を宣べ、堯舜如く身に行わば其の人は即ち堯舜なりと、孟子の曹交に答えたる言と同一般でありましょう。
 若し吾祖をして上行にあらずとせば、経釈已に妄語となりぬるを如何せんだ。
 聖祖予て是等の疑いを未萠に防がんとて開目抄に於て詳かに宣示し給えり。
今略して其の文意を演ぶれば、
俗衆・道門・潜聖の三類の強敵は、法然並に所化の衆及び当時の道隆・良観等卿か彼の勧持品の三類に異らず。然らば三類の強敵は今目前に見る所なり。
而して法華経の行者とし仏語を実語とする人日本国中に未だ一人の有るを聞かざるなり。抑も誰れの人か勧持品の未来記の如く、法華経の故に俗衆に悪口罵詈せらるる者やある。誰れの僧か及加刀杖者と説かれし如く法華経の故に非道の杖に当てられ謗者の鉾先に掛けらるる者やある。誰の僧か向国王大臣乃至謂是邪見人も説いて、法華経の故に公家武家に讒奏せられ、数々見擯出とて度々所を追われ、流罪死罪に行われし者やある。恐らくは日本国中に此の人を出さんとするに日蓮より他に其の人一人もあるべからず。但し日蓮は法華経の行者とは云がたき事なり。所以如何となれば、法華経の行者をば必ずしも諸天善神等影の身に随うごとく常に之を守護し、其の身を安穏ならしめ玉う事は経文顕然たり。更に一分の冥助なきなり。若し爾らば誰をか法華経の行者とせん。仏と提婆とは身と影との如く生々世々に離れず、聖徳太子と守屋とは蓮華の華果同時に生ずるが如し。故に法華経の行者有れば必ず三類の強敵なかる可らざるなり。当世の三類粗ぼあるに似たり。但し法華経の行者なし。日蓮其人を法華経の行者と云わんとすれば大に経文に違う事あり。則ち法華経第五安楽行品に云く、諸天童子以為給使刀杖不加毒不能者と。又云く、頭破作七分如阿梨樹枝と。又云く、亦於現世得其福報と。又云く、若復見受持是経典者、出其過悪若実若不実、此人現世得白癩病等と云々。此等の経文の如んば、法華経の行者には諸天来て常に侍し、刀杖も加えらるる事なく、毒も此の人を害すること能わずと見え侍べり。然るに今日蓮汝を見るに更に其の験なく、結局謗法者の杖に打たれ、非道の刃にかけらるる事一度二度ならず、亦た汝を悪口罵詈せし者国中に充満すれども、誰の人か其の口の閉塞せしものやある。又経には現世安穏と説けども、汝が目下の容姿を見るに、一日片時も安穏の思いに住せることを聞かず。是を以て之を思えば後生善処も期すべからず。頭破作七分如阿梨樹枝と説けども、汝を悩乱せる者誰か頭の破れし人ありしや。亦於現世得其福報と説けども、汝を見るに弥よ貧苦に逼れり。若実若不実此人現世得白癩病と説けども、汝が過悪を数うるも其れがため一人の癩病を感ぜし者を聞かず。若し爾らば日蓮汝を以て末代今時の法華経の行者なりと云んか、是の如く経文に齟齬し、徳なく罰なく甚以て不審しき事なりとの、数箇の疑難を挙げて之に御答え遊ばして云く、汝が疑い大に吉し。序に不審を晴させん。
 不軽品に云く、悪口罵詈等。又云く、或以杖木瓦石而打擲之等と云々。涅槃経に云く、若殺若害等と云々。法華経に云く、而此経者如来現在猶多恐嫉等と云々。仏は小指を提婆にやぶられ九横の大難に値い玉う。此は法華経の行者に非ざるや。不軽菩薩は一乗の行者と云わるまじきか。目連は竹杖外道に殺さる。法華記別の後なり。付法蔵第十四の提婆菩薩、第二十三の師子尊者の二人は人に殺さる。此等は法華経の行者にはあらざる乎。竺の道生は蘇山に流される、法道はかなやきを面にやいて江南にうつさる。此等は一乗の持者にあらざるか。北野の天神・白居易は遠流せらる。賢人にあらざるか
 等の玉うて前段の疑難を答釈し給いし事であります。
 而して今日蓮が流罪死罪等種々の難に値えるを以て法華経の行者にあらずと云わば、上件の経文は如何がせん。道生・法道も一乗の持者にあらざるか、北野の天神・白居易も賢人にあらずやと反詰し、吾祖大聖は是れ上行菩薩の再誕なることを示し、弥よ進んで御自身の法華経の行者・三徳有縁の大法主たる義を明示せられたのであります。若し爾らば已上弁ずるが如く、教相一往外用の辺より論ずるも、宗祖は是れ上行の再誕たること文明らかにして義詳かなり。日蓮門下の徒も此の点に於ては異論なかるべし。爾るに吾祖日蓮大聖人をして久遠元初自受用報身無作三身如来にして即ち久遠の本仏なりと云うに至ては本宗独特の重にして曽て他派の聞知せざる神秘的の深法なり。是より進んで此の重義を説き明かしまするから御謹聴を願います。

 三に久遠本仏の日蓮
 宗祖、久遠の本仏たる事を示すに付いては、先ず宗祖の御当体に三義あることを知るべし。
 一には、凡夫の日蓮
 二には、上行再誕の日蓮
 三には、久遠本仏の日蓮
 初に、凡夫の御時の日蓮とは、即ち御出現在せし時より御年三十二歳宗建に至るまでは、そも天台の沙門と名乗せ玉うこと諸判に在て顕かなり。或は虚空蔵菩薩に智慧を祈るとか、或は虚空蔵菩薩より智恵の珠を日蓮が袖に入れ玉いしなど遊ばされしは、示同凡夫の御振舞也。是を凡夫の日蓮とす。
 次に上行再誕の日蓮とは、御年三十二歳より発迹顕本の暁に至るまで、是れ上行菩薩の再誕を表彰し給いしなり。
日向記に云く、日蓮も生年三十二にして自得し奉る題目なり。今末法に入て上行菩薩所伝の本法南無妙法蓮華経を奉弘、日蓮世間に出世すと云えども、三十二歳までは此の題目を唱え出さざるは仏法不現前なりと云々。
 御義口伝上に、日蓮は生年三十二より南無妙法蓮華経を護念するなりと云々。
 末法に入て此の妙法蓮華経の五字七字を唱え出し、説の如く修行し給いし其の人は、上行菩薩にあらずして誰なるか。
諸法実相抄に云く、地涌の菩薩の出現に非ざれば唱えがたき題目也と云々。
 此等の諸文に照し見るに、実に上行の出現にあらずんば唱え出だし玉わざる題目なる事彰かなり。若し然らば宗祖三十二歳唱題の時より上行再誕を期とし玉うべきなり。日蓮も生年三十二にして自得する題目なりと。又仏法不現前等の文意に意を留めて拝すべし。必ず上行の出現を標榜せしは御年三十二歳已後にあること尤も著明なりだ。而して最後の発迹顕本し玉いしは、久遠の本仏を標す。則ち
開目抄下に曰く、日蓮といひし者は去文永八年九月十二日子丑の刻に頸刎られぬ。此は魂魄佐渡の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして有縁の弟子へおくれば、おそろしくておそろしからず、みん人いかにおじぬらん。此は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来記日本国当世をうつし給う明鏡なり。かたみともみるべし等と云々。
 若し而らば佐渡已後豈に久遠の本仏にあらずや。夫れ本文の元意は、宗祖大聖上行の再誕たる御身の当體全く是れ久遠元初自受用砲報身如来と発迹顕本し、凡夫即極即身成仏を標榜し、身體顕照して末法下種の本仏たることを示し玉う明文なり。故に
 義浄房抄に曰く、寿量品の自我偈に云く、一心欲見仏不自惜身命云々。日蓮が己心の仏果を此文に依 て顕す也云々。
 又、
御義口伝下に曰く、本尊と者法華経の行者の一身の当體也。其の宝号を南無妙法蓮華経と云うと云々。
御義口伝に曰く、自受用身とは一念三千なり。伝教の云く、一念三千即自受用身、自受用身と者出尊形仏矣出尊形仏と者無作三身と云う事也云々。
又曰く、無作三身と者末法法華経の行者也。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云う也。
経王抄に曰く、日蓮が魂は南無妙法蓮華経に過ぎたるはなし云々。
 已上引証する祖判の如く、宗祖は久遠即末法適時の本有無作の本仏、自受用報身如来たる事豈に明瞭ならずや。
 而して又宗祖出世の御本懐は、末法万年の一切衆生に下種結縁せしめ、無間地獄の苦を救い給うにあれば、弘安二年十月に至り本門戒壇の大曼荼羅を顕し、全世界の一切衆生に総与し給えり。故に
聖人御難抄に曰く、去る建長五年乃至此法門申はじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。其中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし、余は二十七年なり。其間の大難は各々かつしろしめせり。法華経云而此経者如来現在猶多怨嫉況滅度後云々。
 文に、余は二十七年也とは、上の仏は四十余年、天台大師は三十四年伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給うと、一連互顕の御文にして、宗祖は宗旨建立の日より二十七年にして出世の本懐を顕し給いたることを示し給いたる明文にして、其の間の大難は各々且つしろしめせりとは、御本尊を顕すまでの大難は、仏や天台伝教が本懐を顕し給う其の中の大難にも勝れることを示し給いしものなり、故に次下に、法華経に云く、而此経者如来現在猶多怨嫉況滅度後云々と示し給い、而して此本門戒壇の大本尊は、弘安五年九月に本宗第二祖日興上人へ御付嘱ましまし、六百数十年来我総本山大石寺に奉安せり。
 記の九に云く、若し只信事中遠寿何能令此諸菩薩増道損生至極位故信解本地難思境智信心初転自在無礙方名為力云々。
 夫れ此の釈意は、霊山一会の大衆本門寿量の説を聞くといえども、只事中の遠寿、外相の本果の辺のみを信じて、内証本因の境地冥合を信ずるにあらざれば何ぞ此の大利益を得べきとなり。若し爾らば今亦以て此の如く設て、宗祖の弟子檀那として本門の本尊を信受し、題目を唱うとも外相浅近のみに著して、内証深遠の本地難思・境地冥合の重を信解せずんば、何ぞ末法今時の我等衆生が名字妙覚の大利益を得ることを得んやだ。況んや脱益的本尊を信受し、宗祖を菩薩視する日蓮門下の族、豈に本地本仏の御内証を信解し、大利益を蒙ることあらんや。
 予は今前段に立戻て現代の日蓮門下の徒が質疑を遮難せんとす。請う暫時清聴あれ。
 他宗の徒云く、日蓮正宗が日蓮本仏を主張して引く処の文証は、悉く日蓮自身が撰述の諸書の如き、此等は皆日蓮上人が哲学思弁にして、詮ずる処事々無碍、界々互融の宇宙観の一片に過ぎず、信念の内面的解釈に過ぎず云々。
 予は彼の徒に反詰せん。聖祖撰述の書類は己身の哲学思弁に留まって救世の効果なしとするか。若然らば釈尊何が故に本化を召し出し、法を付嘱し玉いしや。其の所嘱の法は聖祖撰述の聖教なり。何ぞ哲学の一片と観下するや。而して又仏所証の法は十界三千の諸法を具足せるものにあらずとするか。
当體義抄に曰く、至理無名聖人観理万物付名時因果具時不思議一法有之、名之為妙法蓮華経此妙法蓮華一法具足十界三千諸法無闕滅修行之者仏因仏果同時得之、聖人此法為師修行覚道給妙因妙果倶時感得給故成妙覚果満如来給也と云々。
三世諸仏惣勘文抄に曰く、釈尊凡夫にて御在せし時我身地水火風空なりと知しめし即座に悟りを開き玉いきと云々。
 之を以て思え。久遠元初の本仏は一迷先達凡夫の当初に在て、我身は勿論天地乾坤森羅万象事々物々皆悉く妙法の当體なりと知り、我己心の妙法蓮華経を師として修行覚道し、妙因妙果倶時に感得し玉いしなり。何ぞ事々無碍、界々互融の宇宙間の一片に過ぎずと卑下するや。宇宙観・人生観を離れて妙法あるにあらず。我身の五大を離れて如何なる観念ありしや。釈尊は宗祖の御当體を指して日月の光明に譬喩し玉えり。
  神力品に曰く、如日月光明能除諸幽冥斯人行世間能滅衆生闇等云々。
  此の経文を聖祖釈して、斯人とは上行菩薩なり、能滅の體は南無妙法蓮華経なり、即ち日蓮の当體是れなりと示し玉えり。
三大秘法抄に曰く、此三大秘法は二千余年の当初、為地涌千界上首日蓮慥に教主大覚世尊より口決相承せしなり等と云々。
南条抄に曰く、教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処也。舌の上は転法輪の所、喉は誕生の所、口中は正覚の砌なるべし。かかる不思議なる法華経の行者の住処なればいかでか霊山浄土に劣るべきと云々。
 是問うの祖判は聖祖の当體そのものが三大秘法なることを標顕し玉いし御文なり。別して御自身末法の人の本尊なる事を標彰せんが為本尊も四菩薩と云々。
観心本尊抄に曰く、正像二千年間小乗釈尊迦葉阿難為脇士権大乗並涅槃経
法華経迹門等釈尊以文殊普賢等為脇士此等仏造書正像未在寿量品仏来入末法初此仏像可令出現云々。
  此の書に未だ寿量品の仏ましまさず末法に来入して始て此の仏像出現せしむべしとの玉う御仏は、彼等日蓮門下の徒が崇拝する処の、釈迦・多宝の色相の仏像にはあらずして、吾人衆生が主師親、三徳有縁の本仏、本門寿量文底下種の教主釈尊即宗祖日蓮大聖人の御事なるべし。故に
三大秘法抄に曰く、寿量品に所建立本尊者五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是也と云々。
血脈抄に曰く、我内証の寿量品と者脱益の寿量の文底本因妙の事也、其の教主者其也。
 依之観之、宗祖は三大秘法総在の御本尊にして、久遠五百塵点劫の当初より此土有縁深厚の本仏教主釈尊なること晴天の日の如くならん。
 彼の徒又執拗にも云く、釈迦を捨てて日蓮を取ると云は仏法にあらず、外道なり。蓮祖を本尊とすること祖師の意にあらず、大に聖人立教の意に背けり。釈迦を本尊とすること祖師の自行化他皆然り。釈迦に依て宗を立つ、法華に依て宗を立つ、豈に釈迦を本祖とせざらんや云々。
 
今是れが弁馼を加えば、宗祖を人の本尊と崇拝し奉ることは主師親の三徳を兼備し給える故なり。開目抄に云く、一切衆生の尊敬すべきもの三つあり。所謂主師親是なりと。凡そ主師親を以て本尊とし奉ることは内外典の通規なり。経に曰く、今此三界皆是我有、、其中衆生悉是吾子、而今此処多諸患難、唯我一人能為救護と云々。是れ釈尊に三徳の大恩あることを示し給えり。但し此の釈尊は在世脱益の釈尊にして末法有縁の本主にあらず。今末法は久遠本地無作三身の主師親を以て本尊とすべきである。無作三身とは末法の法華経の行者なりとは、已に御義口伝の文を引証して示すが如し。尚又た
新池抄に云く、日本国の男女四十九億九万四千八百二十七人は皆敵となって、主師親の釈尊を用いぬだに不思議なるに、かえりて或はのり或はうち或は処を追い或は讒言し流罪し死罪に行はるると云々。
 文明かに吾祖は三徳具備の大恩ましますことを示し給えり。然らば何ぞ本尊と崇敬せずして可らんや。
 抑も宗祖は久遠の本仏にして、人の本尊と称するに於て多義ありといえども、其の大要を略言せば、経に曰く、有人求仏道、而於一劫中合掌在我前、以無数偈讃、由是讃仏故得無量功徳、嘆美持経者其福復過波文 妙楽大師の云く、若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号等と云々。当に知るべし、此の経釈は滅後の法華経の行者は在世の大覚世尊に百千万億倍勝るべしとの義を示せるものなり。然りと雖も世尊の説き玉えるが如く、如来現在猶多怨嫉、況滅度後、一切世間多怨難信、及加刀杖者数々見稟擯出等の経文に符号する行者に非ずんば、仏に超過の行人とは言う可らざるなり。而して仏滅後二千余年の間此の経文の如く行じ玉う人誰ならん。夫れ天台・伝教の大聖といえども経文の如く行じ給わず。若し然らば宗祖大聖を除去して他に法華経の行者あることなし。
撰時抄の下に曰く、外典に云く、未萌を知るを聖人と云う。内典に云く、三世を知るを聖人と云う。予に三度の高名あり等と云々。
 斯の如く三度の諌を挙げ、而して自ら之を称歎して云く、此の三の大事は日蓮が申したるにはあらず、只だ偏に釈迦如来の御魂いの我が身に入り潜らせ給いけるにや、我身ながらも悦び身に余る。一念三千と申す大事の法門は是也と。此の書の所謂、釈迦如来の御魂いの我身に入替らせ給うと云う其の釈迦如来の御魂と者、是れ即ち久遠元初自受用報身如来の御魂なり。此の御魂即ち今日末法に出現して、示同凡夫の尊容たる宗祖日蓮大聖人の御魂にて在すなり。是即宗祖の御内証全く久遠元初の本仏たる深意を密かに顕し玉う御文言なり。前段に於ても屡ば述ぶるが如く、宗祖大聖は暫く教相に約し外用の浅近より之を云えば上行の再誕なりといえども、亦文底に約し内証深遠より之を論ずれば寿量品の本主にして、自受用報身如来の当体、一念三千の尊形、無作本有の本仏、末法今時の下種仏、本因妙の本主である。故に
船守抄に云く、過去五百塵点のそのかみ、唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり。法華経の一念三千の法門、常住此説法のふるまいかかるとき法華経と釈尊にてをはせども、凡夫は知ることなし等云々。又種々物御消息曰く、種々給いて法華経の飢をもしのぎ、釈迦仏の御命をもたすけまいらせ給いぬと云々。顕仏未来記に曰く、月氏・漢土等に有法華経行者耶。答、四天下に全無二日。四海の内豈有両主耶。久遠元初の唯我独尊と者日蓮是也と云々。
 此等の全文の如く、宗祖は久遠元初の唯我独尊なりと明示せられたり。
 彼等、宗祖を但だ上行の再誕なりとは知れども、未だ曽て
  久遠元初自受用身なることを知らず、却て本宗の正義を破し宗祖大聖を蔑如す。
 誹謗之より大なるはなし。
 妙楽の云く、学者法を非ず人を毀る良く體同異名を知らざるに由る。天主の千名を識らずして驕戸は是帝釈ならずと謂う等と云々。嗚呼悲しむべし。恐るべし。 
 〜(大日蓮一巻  二・三号・大正五年)第六十回御忌御報恩  日應上人全集 T〜
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