化儀抄


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 総本山第九世日有上人は、第二十六世日寛上人と共に中興の祖と仰がれてきた上人である。
富士上野の南条家の出身で、第八世日影上人の御弟子となられ、その後、応永26年に猊座に登られている。

当時の総本山は、物心両面に亘って大変に疲弊した時代であったと伝えられているが、日有上人はこの時に出現なされ、山内の堂宇の整備維持、僧侶の養成等に尽力されたのである。
 
 また上人は、東は奥州、西は京都、あるいは越後、佐渡までも布教に廻られており、他宗門と論談し折伏して、教化の実を挙げられている。今日残っている東北の古い寺院は、日有上人が中興された寺が多い、といわれている。
このように、広く諸国を廻遊され、また、布教に励まれた御見識により、宗門僧俗のあらゆる化儀法式を整備され、御指南なされたと拝されるのである。その御指南の中から、日有上人の弟子の南条日住師が121ケ条にまとめたものが、この『化儀抄』である。

さて、『化儀抄』の内容は、まず、末法の御本仏宗祖大聖人の御当体である三大秘法の御本尊を即身成仏の法であるとする、当宗伝統の「信心」を根本とされて、主に「師弟相対」「行体行儀」「謗法不与同」について種々述べられ、さらに「社参の禁止」「世法の儀礼」等に至るまで、僧俗が行住座臥において領解していなければならないことを、詳細に亘って御指南されている。

これらの信条化儀の各条が、今日の日蓮正宗の化儀の規範となっていることは周知の事実である。
                                 
                   〜 化儀抄のやさしい解説(暁鐘)の序より 〜

  第1条 僧俗の平等と差別

一、貴賎道俗の差別なく、信心の人は妙法蓮華経なる故に、何れも同等なり。然れども、竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず、僧俗の礼儀有るべきか。信心の所は無作一仏・即身成仏なるが故に、道俗何にも全く不同あるべからず。縦い、人に愚痴にして等閑有りとも、我は其の心中を不便に思うべきか。之れに於いて、在家・出家の不同有るべし。等閑の義を、なお不便に思うは出家、悪く思うは在家なり。是れ即ち世間・仏法の二なり

「貴賎道俗の差別なく、信心の人は妙法蓮華経なる故に、何れも同等なり」というのは、身分が貴かろうと賤しかろうと、金持ちであろうと貧乏人であろうと、この信心をしていくことによって即身成仏が叶うという点においては、全く平等である、と言われているのである。現今の創価学会においては、この部分だけを抜き出して用い、”だから僧俗は同等だ”などと言うのであるが、早まってはいけない。その後に「然れども」とただし書きが加わり、「竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず、僧俗の礼儀有るべきか」と。要するに、同じ一本の竹というも、そこに上の節・下の節があるのと同じように、位を乱さずに、僧俗の礼儀を守っていかなければならない、と示されているのである。

 これを考えてみるに、妙法の信心をしている人は皆成仏できるから平等だ、といっても、たとえば、御僧侶の中にも、能化・所化という次第、区別がある。また、在家の中でも、信仰暦の長い人・浅い人という違いもある。要するに、いろいろな点において、立場の違い、差別というものが、現実に存在しているのである。
日有上人は、その差別面を仰せられ、上下の位を乱さずに、僧俗の礼儀を守って信心していくべきことを示されたのである。
そして、「信心の所は無作一仏・即身成仏なるが故に、道俗何にも全く不同有るべからず」
と仰せられ、そのように(礼儀を守って)信心していくところには、皆、無作の一仏となって即身成仏をすることができるから、出家であっても在家であっても功徳に違いない、と。


ちなみにキリスト教などの教えにおいては、神は人間を作った側であり、人間は神によって作られた側であるという、絶対的な差別が存在しており、どんなに信仰しても、人間が神になることはできない。どこまで行っても、差別が埋まることはないのである。


ところが仏法においては、仏が法を説き、それを凡夫が聴聞するという点においては、厳然たる差別が存するが、しかし、その仏の説かれた法に随って修行していくと、我々凡夫もまた、同じ成仏の境涯に進むことができる・・それが無作の一仏になるということである。


次に「縦い、人に愚痴にして等閑有りとも、我は其の心中を不便に思うべきかというのは、たとえば在家の信徒達が御僧侶に対して礼儀を尽くさなかった、無礼な口の利き方をした、というようなことがあったとしても、その相手の心根を哀れに思うべきだ、ということである。要するに、相手は、悪意でしているのではなく、まだ信心がわかっていないから、そういう非礼な」態度をとるのだと、相手の信心未熟を哀れに思って、許してあげなければいけない、というのである。


次に「之れに於いて、在家・出家の不同有るべし。等閑の義を、なお不便に思うは出家、悪く思うは在家なり。是れ即ち世間・仏法の二なり」と言われ、ここに、在家と出家の違いがある、と仰せられている。
すなわち、たとえ、相手が礼儀に欠けた行為をしてきても、それを慈悲の心で哀れに思っていくのは出家の立場であり、許せないと思うのは凡夫の心であり、在家の立場なのだ、それが世間と仏法の違い、在家と出家の違いである、と言われているのである。

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