巫娼(ふしょう)のおもかげ/谷川健一(1972)

沖縄の有名な辻は日本本土の色町とずいぶん変わっていた。遊女屋だけがあって、 揚屋も見番もない。また帳場も妓夫太郎のようなものもいなかった。地回りのようなゴロツキが出入りするわけでもなく、ふだんの炊事や掃除はいうまでもなく、宴会などの料理からその後始末までみんな女たちがやる。下男下女や板場などもいない。まったく女の手で運営されていた。

それに遊女屋といっても、一楼一楼主というのではなくて、世帯のちがった数人の抱え主がよりあつまっていた。その数は台所のかまどのまえにまつられる「火の神」の数と一致した。抱え主は「火の神」の持ち主でもあって、引っ越すときは、火の神をもって出る。抱え主は数人または十数人の抱え子をもっている。そして廓の自治も女たちにまかされていた。毎年旧の十月一日にその役員がきめられた。廓内は二つに分けて、上村渠と前村渠があった。この二つの自治団体には盛前と盛前小という補佐役があって、任期は一年、廓内に関する一切の事務をとりしきる。この盛前や盛前小はもとより女であるが、そのすいせん役も辻遊廓の主だった老妓たちである。

人選がきまったら、盛前と盛前小は家業にいそしむ暇もないほどに、多忙となる。彼女たちはノロにでも任命された気持ちで神への奉仕にいそしむ。その仕事のほとんどが神祭りのつとめであるといえば、遊廓に似つかわしくないと思われるかもしれない。だが、この辻の習慣にはふるく女たちが神に仕え、また神政政治の主役であった時代の名残があるとみられている。

辻の年中行事の一つに尾類馬(ゾリ)というのがある。尾類とは辻の女郎の呼称である。これは女郎をなまった言葉ともいい、また柳田国男のように「出る」と関連があると解釈するむきもある。すなわちデルという語は奄美諸島ではドレ・ゾレという語に変化しているが、これは村々を渡りあるく、自由な女たちを指したらしい。奄美では野合のことをドレアイというそうだが、ドラネコやドラ息子のドラもそうした意味を含んでいるのではあるまいか。

それはさておき「尾類馬」は毎年、旧の正月二十日におこなわれる。伝承によると昔、首里のある高貴な家の姫が遊女となり、廓ぐらしをさせられていた。一度苦界に身を沈めたので思うままに親兄弟にも対面できない。そこで遊女たちの行列を外にくり出して、そのなかに自分も加わり、見物にきた親兄弟の姿をみようとして考え出した催し物であるとされている。この行列は道の辻で舞いながら、最後は波上宮に参詣しておわるというはなやかなもので、辻名物となっている。

辻の遊女たちは乞食王とよばれる墓の主を自分たちの先祖の墓だといって。この乞食王の墓は首里の尚真王の王子の妃を葬ってあるところと伝えられている。口碑では彼女は天刑病(ライ病)をわずらっていたので乞食王の墓という名がつけられたというが、「尾馬」の行事はその王妃の命日にあてられている。さきに首里の貴女が遊女となった話といい、 あるいは首里の王子の妃が辻の遊女の先祖という伝承といい、そこには痛ましい貴女の歴史すなわち貴種流離の物語のようなものを感じないではいられない。奈良の京終という遊廓で、中将姫が信奉されていたことと、一脈通じるものがあるのである。

辻遊廓は日本本土の遊廓とは異質の点が多くあった。上原榮子の「辻の華」にはその様子が詳細に述べられている。その一部を紹介する。

那覇市の一角にあった辻遊廓の各楼は、互いにとなりの楼の赤い瓦ぶきの屋根しか見えないほど、高く石垣をめぐらし、その厚さも三尺か四尺ほどであった。その楼の入口にはいかめしい外門があり、外門をくぐり抜けると内玄関に大きな扉がもうけられていた。その扉は夜の八時頃になると、横桟をがちりとかけて重々しく閉められた。

辻に遊ぶのには、まず紹介者を必要とした。遊廓の方では、その客の氏素性、出身地や、人柄、資産の有無、女性関係などをこまかく調べた上で紹介者に諾否の返答をする。紹介者というのは、れっきとした顧客である。

「一遊を試みんと欲するも得べからず、何となれば旧来の顧客の外は、決して登楼を許さず」と『明治の沖縄』は伝えているが、この風習は、辻では大正、昭和と受けつがれていた。そのように遊客をきびしく玲味した理由のひとつは、辻が首里や那覇で活躍する紳士たちの社交場となっていたからである。戦前の沖縄では辻以外に各界名士の交際の場はなかった。つまり辻は会員制の高級クラブの趣を備えた一面をもっていた。これは辻の外向きの顔であったが、内向きには別の顔があった。

辻の遊女たちは、日中は糸車をまわして糸をつむいだり、内職のパナマ帽を編んだり、豚やアヒルの世話をした。それが日課であったという。この一事を以てしても、日本本土の遊廓とまる切りちがったふしぎな生活であったことが分かる。つまり、辻は女人自治が守られたまがうことなき「女の城」であった。私が今次大戦の際の沖縄空襲であとかたもなく灰構に帰した辻の歴史に興味を抱くのは、本土の遊廓に見られない、巫女から巫娼へ、娼婦へという長い伝統をもった女の道筋がたどれる点できわめて貴重だからである。(P94~96)

 

出典:明治三文オペラ-巫娼から遊女へ/谷川健一 現代書館(2007) 初出:中日新聞(1972)

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「娼婦たちの天皇陛下/佐木隆三 (1972)

 一年ほど前に、かつて日本軍の慰安婦だった女性に会った。いまは、小さな店を経営している。戦前の遊郭である辻町で娼婦をしていて、沖縄守備軍に徴用されたのだった。彼女は慰安婦だったことを語るよりも、むしろ辻町の遊女であったことを、話したかったらしい。沖縄の遊女は、按司たちが知行所から女を徴発して蓄え、互に交換して遊楽したことから発生した(宮城栄昌著『沖縄女性史』)。中世の末期ごろ貿易船の男たちを相手にするようになり、十七世紀に入って薩摩支配がはじまってからは、武士は打ちひしがれて酒色にふけて、農民は搾取の強化に苦しんで娘を売って急激にふえた。やがて一六七二年に公娼制度が認められ、那覇の辻と仲島に遊郭が置かれた。遊女たちの一部は、中国大陸から来る冊封使や、薩摩藩の在番奉行たちに現地妻としてあてがわれた。そして明治の琉球処分で中国と縁が切れたから、遊女たちは日本人の"オンリー"になるのだ。

--------- 一八七六(明治九)年六月十九日の東京曙新聞記事によると琉球藩庁に勤務している官吏には、すべて帰国を命じている。その原因は、琉球は文弱で風俗温和、淫風がおこなわれて、婦人はとても男子を尊敬するので、官吏の在勤が長くなると、あるものは倦怠におちいり、あるものは色に迷うようになるという点にあった。官吏の遊び相手になる婦人といえば、尾類(ズリ)たちであった(『沖縄女性史』より)。

本土から来る官僚や商人の現地妻として重宝がられた辻町の女たちは、太平洋戦争の末期に十万もの大軍が沖縄守備にあらわれたことで、こんどは慰安婦として重宝がられたわけだ。娼婦なりにプライドはある。わたしに話してくれた元慰安婦は、「一晩に一人しか客をとらないで奥さんにみたいに尽していた」ころを強調する。要するに男の性欲を排泄させる道具でなく、女の情愛を示していたと言いたいのだ。

「それがさ、慰安所にやられてからは、一日に何十人も相手させられて、それはもう、ズリなんかじゃないよね、こうなると・・・」と、それから先は口をつぐむ。尾類とは文字どおり、人間でないという呼びかたである。年配の男性は、いまでも娼婦をズリという。しかし何と呼ばれようと客に情愛を捧げてきたと元慰安婦は言いたいのであり、軍隊に徴用されてからは人間以下のズリのさらに下の存在だったというのだ。

 沖縄戦が激化し、日本軍は南端へ敗走を続け、このとき慰安婦たちも行動を共にする。朝鮮人が沖縄へ送りこまれていて、不運な娘たちは辻町のズリたちよりもさらに惨めだった。何しろ腰が立たなくなったのをかついでトラックに乗せ、順番を待つ次の部隊へ運んでまたベッドで身体を開かせたという。

この朝鮮人慰安婦も辻町から来た慰安婦も、激戦のさなか補助看護婦や炊事婦として酷使される。そして慰安婦としての役目も、また・・・。話してくれた彼女は、ある上等兵を恋して、負傷して動けないのと看病しているうちに壕にとり残され、やがて米軍の捕虜となった。このあたりの話になると、彼女は口ごもる。口ごもりながらも言う。

「自決するつもりだったさ。天皇陛下バンザイして、二人で手榴弾をコチッコチッぶつけたのに、破裂しないでしょ。せっかく天皇陛下バンザイしたのに死ねないもんだから、・・・」

おそらくこのくだりは、彼女の作り話であろう。壕の中で上等兵と抱き合いながら、ひたすら生きのびたいと願ったにちがいない。彼女はこのように言うことでしか、自分を救えないのだ。

かつての辻遊郭は、いま波之上と呼ばれて、AサインバーやAサインホテルが林立する。このあたりは、沖縄でいちばん高給な売春街ということになるだろう。いや、売春に高級も低級もない。値段の高い一帯、と言いなおしておこうか。二~三年前から、「波之上はイッパツ十ドル」といわれていた。ここのAサインバーで会った女性は、戦前のことを憶えている年齢で、こんなふうに言っていた。

「なにか行列ができているでしょ、ウチも並ばんでもええの、と母さんに言ったら、家に居た大人たちがみんな、したたか笑うわけ。配給は配給でも・・・・・・ね。あっちの配給行列だったさ」

 

出典:娼婦たちの天皇陛下/佐木隆三 潮出版社(1978) 初出:「潮」(1972)

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月白の道/丸山豊

「銃でおどして」「公衆便所」とし、一瞬の慰安を前線地でむさぼった兵士たち。しかしその設備を拒否した部隊もある。久留米市出身の軍医で詩人の丸山豊の『月白の道』に、次のくだりが残されている。

「雨季が近づいた。夜はホトトギスが、不穏な鳴き声で旅慈をさそった。フィリピン、ボルネオ、ジャワ、ビルマ、そして雲南省へと、やすむひまなしに戦い進んできた私たちの部隊は、敵を怒江の対岸に追いはらって、この龍陵の町に陣地をきずき、はじめて長期駐屯の姿勢をとった。

龍陵は冥府のように、くらい湿っぼい町。ながい間、女性的なすべてに無縁であった私たちは、 ふとしたことにいら立ちやすく、おたがいの表情もとげとげしくなった。部隊の内側から、なにかとんでもない事件がおきそうな気色であった。故国からの女性たちの到着など、まだ予想もされない。なんとかここに、性の対象をもちこまなければならない。それを司令部や参謀たちは苦慮したものとみえ、私の同僚の中野中尉が呼びだされた。

中野中尉はギリと面のするどい男。そこで私たちはギロチンという愛称で呼んだが、じつは心根のやさしい仏教信者。つねに如来さまの像を膚身はなさず、朝と夕には念誦を欠かさない。

おひとよしの中尉は、命令の『あたらしく酒保(軍隊で酒や日用品を売るところ)を開設するために』という表面の目的をかたく信じて、数名の部下をつれて女あつめに出かけた。このあたり、 主要道路をはなれてすこし山深くたどってゆくと、大小さまざまの土侯たちの所領である。その土侯のひとりに会って、見目うるわしき少女の提供を交渉した。

中尉はみごとに戦果をあげて、つまり、ういういしい少女たちをつれてもどってきた。みどりの髪を三つ組みに編んで、白の上着にまっくろのもすそ。龍陵のしめった石だたみをふんで、はだしの少女たちがあるいてくる。久しぶりに見る柔和なものの美しさ、そして、私たちの部隊が意図したことのみにくさ。

ついに真相を知った中野中尉はふんぜんとした。司令部では、日本軍の尊厳と実利をめぐって 活発な論議がわいた。卑劣なくわだてがめいめいの心のなかで破棄された。あやまちを矯めるにためらうことなかれ、司令部から第二の命令がでた。酒保は開かない。中尉はこのままあの女性たちを、土侯のもとに返しにゆきなさい。

中尉は、大分県のおくになまりを丸だしに、涙をながしてよろこんだ。なにが起ころうとしたのか。戦争とはじつに恥しらずなものであるかを、つゆ知らぬあどけない土侯の少女たちは、ふたたび敷石の小道をたどって谷のむこうの原生林へ消えてゆく。とつぜん驟雨のようなざわめきがおしよせ、見れば手長猿の大群が、谷から谷へわたってゆくたけだけしさであった。 中野中尉は翌々年の秋、この龍陵から四〇キロへだてたトウエツの城で、全員戦死の仏たちのひとりとなった。」
(丸山豊著『月白の道』創言社)

 

出典:買春王国の女たち/森崎和江 宝島社(1993)(P177~179)