飛田は、いつから存在したのか。一九一二年(明治四十五)一月十六日に焼失した遊廓・難波新地乙部の代替地として、設置されたというのが通説である。
のちに「南の大火」と呼ばれた難波新地の大火事は、湯屋の煙突から吹き出した火が元で、十一時間以上燃え、付近の建物五千戸を総なめにした。困り果てた楼主たちが、焼け跡を復興して営業の再許可を取ろうと大阪府に申し出たのがその端緒ではある。しかし、飛田が代替地だったというのはきれいごとで、汚職と背任行為が巧みに絡み合っていたのだから、飛田は出自からして怪しさいっばいだったようだ。
時は、一八七二年(明治五)に発令された「芸娼妓解放令」の下にあったために、難波新地の再許可は、「風紀上よろしくない」と、まず却下された。ざっくり言うと江戸時代まで当たり前の存在だった遊廓だが、この芸娼妓解放令は、横浜港沖で起きた「マリア・ルーズ号事件」をきっかけに発令された。上海からペルーへ向かう途上だったこの船から一人の中国人が逃亡し、「我々二百三十一人の中国人は船内で奴隷扱いを受けている」と助けを求めた。日本政府は中国人たちを保護し、「船長は無罪」という司法判決を下すが、人道上の問題として、中国人たちを船長に引き渡すことを拒否した。これを不服としたペルー人弁護士が、「日本にだって娼妓という奴隷が数万人もいるじゃないか」と逆切れ発言をした。そのため、明治政府が「国際問題に発展すると面倒だ」と大慌てで「遊廓業者は娼妓を解放しなさい」と発令したのだ。
「それは困る。なんとかしてくれ」と訴える楼主たちに、全国の先陣を切って大阪府はこの法令の裏をくぐって、味方した。「娼妓が前借金を背負う形式ではなく、自由独立業者の形式なら、売春を行う場所を提供してよろしい」と「貸席営業制」を設けたのだ。ところが、風当たりがきつく、一九一二年(明治四十五)二月にこれを覆す。国レベルでは、一九〇〇年(明治三十三)に、「満十八歳以上の女性で、所轄警察署に備える娼妓名簿に登録された者でなければ娼妓稼をなすことができない(「名簿に登録すると、娼妓になれる」と言い換えられる)」とする内務省令「娼妓取締規則」が発令されていた。難波新地乙部営業の再許可願いは、府として貸席営業制廃止を宣言したば「同じ場所に復興できないなら、代替地を」と、難波新地乙部の楼主たちは大阪府に陳情書を提出する。市会議員でもあった楼主代表、上田忠三郎らが府庁に日参、上京して内務省に掛け合うなど「尽力」を重ねた。代替地は阿倍野付近か大阪築港付近かと噂が飛ぶ中、大阪府は、四年後の一九一六年(大正五)四月十五日、「布告示第一〇七号」で、突然、飛田の地を遊廓に指定したのだ。
第一の理由に挙げられたのが、「失業した難波新地遊廓業者の救済」で、「なぜ飛田の地が選ばれたか」についての説明はなかった。もしや、これには利権がからんでいるのではないかー。布告が出た五日後、大阪朝日新聞が、立憲同志会系の水野興兵衛府会議員によって飛田の土地の一部が購入されていた事実をスクープした。
遊廓地に指定されたのは、二万二千六百三十坪もの広大な土地だ。それまで一坪一円相当だった地価が、一夜明ければ三十円に高騰していた。これを買収して開発し、百戸余りの建物を建てたのは、一九一六年八月に資本金百五十万円で設立された阪南土地建物という会社で、先述の上田忠三郎が代表者だったのだから、その経緯は明らかにグレーだったのだ。
ましてや、難波新地の楼主たちの変わり身は早く、大火から四年の間に、焼失した当の難波新地乙部の楼百二十六軒のうち七十六軒は京阪神の他の遊廓に既に移り、二十五軒は他業に就き、また出身地など地方に移転済みの人も少なくなく、飛田が指定される時には、代替地を必要とする者はほとんどいなかったというから、何をか言わんやである。
飛田は今でこそ住宅密集地の大阪市西成区に位置するが、当時の行政区は大阪府東成郡天王寺村大字堺田。葱や菜っ葉の畑だった。
わずか七百メートルほど北の新世界では、一九〇三年(明治三十六)に第五回内国勧業博覧会が開催され、その跡地に天王寺公園や通天閣、ルナパーク(遊園地)が設けられ、パリをモデルに区画し歓楽街の歴史を刻み始めていたが、その賑わいはかろうじて大阪市域最南端の大阪鉄道(現JR大阪環状線)の線路の辺りまでで、飛田には全く届いていない。
さかのぼれば、江戸時代に、大坂の市街地整理の一環で辺隅な地に設けられた「大坂七墓」の一つ、飛田墓地(鳶田、〇田、〇田とも書かれた)の東南端に位置した。飛田墓地には、極刑を行う仕置場もあり、火葬の煙が絶えず、白骨が山と積まれていたという。明治初期まで盂蘭盆に、諸霊供養のために七業を回る風習があり、「是ぞ三途と一足に飛田の墓」という句が残っている。
「飛田墓地にあったお骨は、明治七年から徐々に、新設された阿倍野墓地(現阿倍野区)や一心寺(現天王寺区)へ移されたので、明治中後期にはだだっ広い空地となり、誰ぞが畑にしていたみたいやけど、少なくとも人が住むようなところではなかったでしょうね」
と、二〇〇二年に教えてくれたのは、現飛田の北西約六百メートルの堺筋治いにあった不動産会社社長の菊谷さんだった。菊谷さんは、社屋の隣地に立つ、寛永二年の銘の入った「太子地蔵尊」と「飛田墓地無縁塔」、「慶長十九年の義戦(大坂冬の陣によって壊滅した墓石を八十四年後の元禄十一年、天台沙門融順が整備した」旨の銘文が刻まれた巨大な墓石を、自主管理していた。その後、菊谷さんが亡くなり、二〇〇六年ごろに三つとも取り除かれてしまったのが残念だ。それらが墓地の飛田を偲ぶ希少なオブジェだった。
大阪には、江戸時代から連綿と続く南地五花街(現中央区の宗右衛門町、櫓町、阪町、九郎右衛門町、難波新地の総称)、新町(現西区)、北掘江(現西区)、曾根崎新地(現北区)と、大阪港開港後の「外人対策」を主目的に一八六九年(明治二)に新設された松島遊廓(現西区)の六か所の色街がすでにあった。これら色街の貸座敷には、芸者を中心とする「甲部」と、娼妓が中心の「乙部」があり、乙部にあたるのは、松島と新町の一部と、焼けた難波新地乙部だった。つまり、飛田遊郭は、近代大阪における、松島遊廓に次ぐ二つ目の遊廓新設だったわけだ。
激しい反対運動はあった。
先鋒に立ったのはキリスト教者たちで、かねてから廃娼運動を進めていた大阪矯風会(一八九九=明治三十二年設立=会長・林歌子)と、廊清会(一九一一=明治四十四年の吉原遊廓全焼を機に組織された=会長・島田三郎)だった。林歌子は、現淀川区の乳幼児養護施設(当時は孤児院)「博愛社」や女性の保護救済施設「婦人ホーム」を開設した人である。
「飛田遊廓建設の必要がどこにありますか。遊廓を置けば、私娼が増すばかりで、迂闊な議論はまるで子どものようです・・・・」と語った林は、布告がでた四日後の四月十九日、島田三郎と二人で大久保利武知事(明治の元勲・大久保利通の三男)と新妻駒五郎警察部長を訪問して撤回を求め、その足で大阪朝日新聞を訪れて、反対運動を展開するので、協力してほしいと依頼する。天王寺公会堂、土佐堀青年会館などで反対集会を開いたばかりか、四月二十二日には上京し、安部磯雄、山室軍平、松宮弥平、渡
辺ツネ、久布自愛自廃娼運動家と共に、大隈重信総理に訴えた。その足で岡山駅に飛び、台湾から帰国の途にあった一木喜徳郎内務大臣を詰問するなど、精力的に動き回った。
新聞各社の記者は、新妻警察部長に「なぜ飛田を指定したのか、なぜこの時期になのか」と問いつめる。「難波新地焼失時にした代替地指定の口約束、遊廊経営者の失業対策、市内遊廊の散娼整理、、私娼制圧のため。指定に時間をかけたのは、土地騰貴を防ぐため」と回答される。その結果、各紙とも連日キャンペーンを張り、飛田遊廓の突然の指定への憤慨を露にした記事が掲載された。
認可の最高責任者は、大久保利武知事だった。だが、「前任者からの引き継ぎ事項」の一点張りで逃げ、池上四郎大阪市長も「市域外のことは、自分には関係ない」と言う。責任の所在が宙に浮きそうになったが、先述した大阪朝日新聞による利権をすっば抜いた報道により、市民にも、反対派につく者が増えていく。
四月二十七日、廓清会、矯風会、基督教徒の一団(おそらく救世軍)の三派で「飛田遊廓設置反対同盟会」を結成した。陳述書を持って大阪府庁に出向き、大久保知事を詰問したほか、山室軍平、島田三郎、矢嶋楫子、安部磯雄らを招いて、大阪ばかりか東京、神戸、横浜でも「大演説会」を開催した上に、五月十三日には、内務、文部大臣と総理に「陳情書」を提出した。また大阪倶楽部員、弁護士会員、医師会員、市会議員、各学校長、府立今宮中学校と私立桃山中学校(二校とも飛田近くに立地)の職員、生徒父兄、同窓会員、飛田近辺の各戸、衆議院議員ら合計二千三百人に、同会の主張を書いた手紙を、賛否の意見を送り返すよう葉書を同封して発送した。九百二十人から返事が戻り、同会の主張に反対したのは約十通だけだったという。
飛田遊廓設置反対同盟会が綴った冊子『飛田遊廊反対意見」を読むと、桃山中学校長が自校の生徒たちの通学路にあたることを心配する観点からの意見を寄せているが、論客の多くは天下国家のあり方や女性の人権に立脚した反対意見を述べており、そのレベルの高さに驚かされる。海外でも話題になり、五月十日付けの『シカゴ・デイリー・ニュース』に報じられたそうだ。
十月二十一日には、矯風会がデモをした。日本で初めての女性だけのデモとされる。矢嶋楫子、林歌子に、二列艦隊で、百数十人の和服姿の女性が静かに祈りながら、川向こうの江之子島(現西区)の大阪府庁まで歩いたのだ。反対署名と「請願書」を大久保知事に届けようとしたのだが、大阪府庁は大騒ぎとなり、知事は居留守を使った。
盛り上がった反対運動には、突飛な行動もついて回った。
翌一九一七年(大正六)の春、高知県から中川藤太郎という材木商が飛田遊廓予定地にやってきて、自分の小指を包丁で切り落とし、流れ出る鮮血で「祝融来」の三文字をしたため、公衆の面前にさらした。「祝融」とは火の神のことで、転じて火事火災を意味し、「火よ来たれ」と呪いをかけたのだ。
また、同年五月二日には、「曲芸飛行」にやって来たアメリカ人飛行士アート・スミスが反対運動に共感し、大阪の空から「飛田遊廓設置反対」のビラを大量に撤いた。このように、さまざまな反対運動が行われたものの、運動は実らなかった。同年十月、大久保知事は辞任する。その”置き土産”に、遂に飛田遊廊建設の最終認可を与えたのだった。反対運動に敗れた後、林歌子は、飛田遊郭の指定地を見下ろす阿倍野の外国人墓地で集会を開いた。一同、涙にむせぶばかりだったが、久布白落実が立ち上がって、画期的な発言をした。
「みなさん、泣くのはもうやめましょう。敗因の一つは、婦人に政治力がなかったことです。次は、婦人参政権獲得運動をしようじゃありませんか」
飛田遊廓設置反対運動の失敗こそが、婦人参政権獲得運動の端緒となったのである。
旧難波新地取締、市会議員で、土地を転がし大儲けした上田忠三郎ら、ゼネコン・阪南土地建物の関係者は認可の報に、してやったりだったろう。土地を五段階評価に分け、将来地下のさらなる高騰による利得を見越して、評価額の二十分の一の寄付を各地主から募ると共に、大地主からは大規模寄付も受け、資金調達に成功した。土木工事をしてインフラを整備、百四戸の家屋を建て、新規開業を希望する者に賃貸して、一律二千五百円の開業資金を貸し付けた。楼主たちは誰もが「よい場所」を希望するので、家屋の割当に紛糾する場面もあったという。
(P120~129)
妓楼は、いわゆる「お茶屋」のような造りだった。多くは、いぶし瓦をいた入母屋造りの木造二階建て、間口は平入り形式。一階の窓には格子、二階は窓の上下に欄間風の切り込みが施された。ハレの日には、軒下に家紋の入った幕が張られ、提灯も釣られた。館内は、中庭をはさんで多数の部屋が配された。
大門通りに「大青楼」と呼ばれる格式高い高級楼が並び、その裏手の弥生通り、山吹通りに中規模の「中青楼」さらに裏手の若菜通り、桜木通りに小規模の「小青楼」が続き、楼の上級・下級は、規模の大小と比例した。大正終わりから昭和初めにかけて、ダンスホールを備えた洋風の建物も登場し、いち早くベッドを置いた楼もあったという。
大青楼に「本旭楼」「巴里」「御園楼」「都楼」「世界楼」「日の本楼」、中青楼に「本家大一楼」、「東大一楼」。また、「大喜楼」「梅ヶ枝楼」「君ヶ代楼」「港楼」「福愛楼」「河萬楼」「マツタニ楼」「キング」「大和」「新大和」「角タツタ」「第二梅ヶ枝楼」「第三梅ヶ枝楼」「三州楼」「富貴楼」には、モダンな設備が備えられていたという。
「『大和』や『梅ヶ枝』は、経営者の出身地の名前やろけど、『キング』とか『日の本』とかは、大きくなりたいみたいな願望やろね。住吉(現住吉区)に名前をつける占い師がいて、みんなそこに相談に行く。占い料、命名料がえらく高いけど、うちのお父さんもそこでつけてもらったと言っていました。売上げが思うようにのびなかった翌年、戎さんの帰りに「どないしてくれるねん」と文句をつけに行って、お金を返してもらったらしいですけど」
父親が飛田の中堅の遊廊業者だった、自分はその婚外子だったと教えてくれた旧知、澤井徳子さんはそう言った。
飛田遊廓の営業形態は「居稼」だった。
「居稼」は、妓楼に自分の部屋を与えられ、そこで客を取る形態のこと。芸者のように、置屋でスタンバイし、お呼びがかかって座敷に出向く形態「送り」に対して、こう呼ばれた。座敷には、往来に面して太い格子が巡らされ、本来、娼妓はその格子の中で、外向きに並ぶ。東京の「張り見世」と同じ、この形態のことも、大阪では合わせて「居稼」と呼んだ。客は外から覗き込んで、娼妓の品定めをする。娼妓がお客に顔を「照らす」を、当て字にしたもので、「稼ぐ」者が「居る」と書くとは、なんともストレートだ。
もっとも、一八九一(明治二十四)、九二年(明治二十五)ごろ、この居稼が禁止され、「娼妓は道路から見えない店の中で、客待ちをせよ」となり、さらに一九一六年(大正五)にはこれも禁止されたので、以後終戦まで、格子の中に娼妓の写真を飾り、客はその写真を見て、誰を指名するかを選ぶ形式に変わったとされる。しかし、「写真見世が建前だったけど、写真はいくらでも修正できたからねえ。楼に上がったお客さんが、『写真とえりゃあ違う」と言ってもめたんだわ。だから、うちらは(警察に)見つからん程度に女の子を並べてました」
名古屋でそうなら、飛田でも当局の目を盗んで娼妓が顔を出す店もあったと十分に考えられる。
貸座敷で娼妓たちのほかに、現金出納をとり仕切る、雇われ店長「帳場」と、客を呼び入れる「曳き子」、二階に料理などを運ぶ「二階廻」が働いた。
飛田の特徴は、単刀直入にセックス専門だったことだ。多くの他の遊廊には、相当数の芸者も混在したが、飛田には、一九二〇年(大正九)に五十人、一九二五年(大正十四)に二十九人とも二十五人とも、微々たる人数だ。私の父は先年、「飛田の取材をしている」と言うと、「飛田はあかんわ。やめとき」と顔をひどくしかめた。一九二四年(大正十三)に西区で回漕店の息子として生まれた父は、「てかけはん(大阪言葉で『お姿さん』の意)」という言葉を、職業の一つを指すかのように使った。
祖父には「てかけはん」が二人いた。本妻(祖母)公認で、一人は新町の、もう一人は堀江の芸者だった人で、祖父亡き後も父はその二人の「てかけはん」と親戚づきあいを続けた。そんな父だから、飛田もへっちゃらだと思ったのに、他の花街はよくて飛田はダメとはなぜ、と思ったものだ。
下賤な言い方をすれば、飛田は「早い、安い、おいしい」の三拍子揃った男性天国だった。客は予約なしで、直接に登楼し、初見でも手軽に遊べた。太夫も花魁もいない。娼妓は平等に皆、娼妓。客も身分を問われない。花鳥風月を解せなくとも、謎の一つもできなくとも、金さえ持っていれば堂々と客になれた。つまり、客の階層を問わず、セックス専門の飛田は、「一ランク下」に見られていたことが否めない。
だったら、花代は安かったのか。
『東成郡最近発達史』に、一九二五年(大正十四)一月の「一か月間」として、「売揚花数十五方八千余本」「遊興費二十四方九千六百余田」「登楼人員五万八千四百余人」とあるから、遊客一人当たりの消費額は四円二十七銭(うち十二銭は遊興税)。登楼時間は一人平均二時間三十余分ということになる。これは、当時の眼鏡フレームとほぼ同額、米十四・六キロ分、タクシー初乗りの四回分だ。一九二六年(大正十五)の松島遊廓の一人当たり消費額が三円八十三銭だから、むしろ飛田のほうが若干高額である。
その五年後の一九二九年(昭和四)に発行された『全国花街めぐり』には、「花代一本十五銭、一時間十本の勘定」とあり、「一時間一円五十銭」で、他の遊廓とほぼ同様である。また同書には、六時間単位で娼妓を貸切る「仕切」という言葉の記載もあり、「午後六時から十二時まで、花三十五本(五円二十五銭)」「午前〇時から六時まで、花三十三本(四円九十五銭)」「午前六時から正午まで、花十八本(二円七十銭)」「正午から午後六時まで、花三十本(四円五十銭)」と、長時間割引、が適用されていたようだ。
こういった基本料金も、「大紋日(正月三が日、天長節=天皇誕生日」が三割方、「紋日(正月四日から十日まで、二月十一日、天神祭、住吉大社お田植え祭の日)」が二割方増額となるのも松島遊廓とまったく同じで、府内の他の遊廓と比べても、飛田の花代は平均的だった。
なお、関東で主流の「玉代」という言葉は関西では用いられなかった。花代は、芸妓、娼妓を華やかな花に見立てたためで、線香一本がともる間を単位に時間を計算したために、線香代とも呼ばれた。
(P134~139)