意を決して証言の口火を 金学順

一九二四年、中国吉林生まれ。生後百日にもならぬうちに父が死亡。母と平壌に戻った。その後継父のもとで成長し、十五歳で平壌の妓生巻番に通い十七歳で卒業した。しかしまだ営業できる年ではなかったため中国に渡る。北京に到着すると同時に軍部隊に連行され慰安婦生活をさせられることになった。

吉林で生まれて

   私が生まれた所は旧満州の吉林省です。母から聞いた話では、母は十五歳で父と結婚し平壌で生活していたのですが、日本人の群にまじって中国へ避難したということです。母が私を中国で一九二四年に産んで、その後百日もたたずに父が亡くなったといいます。どのように亡くなったかくわしい事情はわかりません。知る人もない他郷で女一人生活するのは難しいので母は二歳になった私を連れて、また平壌に帰って来たということです。
   平壌に戻った後も、幼い私を連れて実家に行き、ほとんど乞食同然にしながら細々と食いつないでいたようです。母は頼る所がなかったためか、熱心に教会へ通いました。
   幼い時母にくっついてよく教会に通ったことを思い出します。私は讃美歌を歌うのが得意でしたし、教会の牧師がかわいがってくださるのもうれしくて、熱心に通いました。私は幼い時から意地っ張りで母の言うことを聞かないとよく叱られました。そんなとき母は「お前が生まれたために父さんが死んだんだ。お前の父さんもさんざん私を困らせたけど、お前も父さんの血を引いたようだね」となじるのでした。
   平壌の教会が運営する学校に四年ほど通ったのですが、学費は無料でした。十一歳まで学校に通ったと思います。学校に行って勉強したり駆けっこをしたり友だちと遊んだりするのが好きでした。私は足が速かったのでリレー選手にもなりました。私の人生のなかで、それでもこの時の記憶が一番良いものとして残っています。学びたければ学び、遊びたければ遊ぶこともできましたから。
母はよその家に住み込みで働きに行ったこともありました。朝、弁当包みを持って出かけ、よその家の畑の草取りをしたり洗濯をしていたこともありました。私が学校へ通う頃には、靴下を編む機械を借りてきて家で靴下を編む仕事をしていました。私も学校から帰ると母がしている仕事を手伝ったものです。
   私が十四歳になった年に母が再婚しました。新しい父は私より年上の息子一人と娘一人を連れていました。兄は二十歳ぐらいになっていて姉は十六歳でした。その姉は一緒に住むようになってまもなく嫁ぎました。新しい父とは一たくありませんでしたが、兄とはよく遊んだものです。

妓生の家の養女に出されて

   母と二人だけで生きてきた私にとって、父親という人と一緒に生活するのはとても不自由でたまりませんでした。「アポジ」と呼ぶこともできないし、父と面と向かうことはなるべくしないようにしました。母に対しても愛情がなくなり反抗したりしたので、母とも仲違いしてしまいました。
   母は私を、妓生を養成する家の養女に出しました。私が十五歳のときでした。母と一緒にその家に行き歌をうたって、合格したのです。それから母は養父から四十円をもらい、何年かの契約で私をその家に置いて行ったと記憶しています。あまりにも家にいることが窮屈で嫌だったので、その方がかえってせいせいすると思いました。
   私が養女として行った家は平壌府キョンジェ里一三三番地でした。その家には私より先に来ていた姉さん格の養女が一人いました。私はその家でクムファと呼ばれました。その姉さんと私は平壌の妓生生巻番『妓生養成学校」へ一緒に通いました。その巻番は二階建てで、門に大きな看板もかけてあり生徒も三百人ほどおりました。私は二年ぐらい巻番に通って、踊り、パンソリ、時調(朝鮮の代表的な歌謡形式)などを熱心に学びました。
   巻番から卒業証書を貰えれば正式に妓生になって営業することができるのでした。ところが十九歳にならないと役所から妓生許可が下りないのです。卒業した年、私は十七歳だったので卒業しても営業することができませんでした。それで養父は私を連れてあちこち駆けずりまわり、許可を得ようと必死でした。私が年齢より体が大きかったので、養父は年を大目に話したのですが、役所からは実際の年が十七歳だからだめだと言われました。
   国内では私たちを連れて営業できなかったので、養父は中国に行けば稼げるだろうと言いました。それで養家で一緒に妓生になるための習い事を習った姉さんと私は、養父に連れられて中国へ行くことになりました。一九四一年、私が満十七歳になった年でした。養父は中国へ発つ前に母に連絡して中国へ行くことを承諾してもらいました。出発する日、母は黄色いセーターを買って来てくれて、平壌駅まで出て来て見送ってくれました。

日本軍に奪われた処女

   平壌で汽車に乗って新義州から安東橋を渡りサンへグァンへ行く時、養父が日本の憲兵に検問されました。養父は検問所に入って何時間か後に出て来ました。それからまた何日か汽車に乗って行きました。途中汽車の中で寝たり、旅館で寝たりしました。北京に行けば良い商売になると言って、養父は私たちを連れて北京まで行きました。
北京に到着してある食堂で昼食をとり出てくる時、日本の軍人が養父を呼び止めました。数名いた中で階級章に星二つをつけた将校が、養父に「お前たちは朝鮮人じゃないのか」と聞きます。養父は私たちは中国へ稼ぎに来た朝鮮人だと話しました。するとその将校は、金儲けなら自分の国ですればいいのになぜ中国へ来たのかと言いながら「スパイじゃないのか?こっちへ来い」と言って養父を連れて行きました。
   姉さんと私は別の軍人たちに連行されました。路地一つを過ぎると無蓋のトラックが一台止まっていました。それには軍人たちが四十人から五十人ぐらい乗っていました。私たちにそのトラックに乗れと言うので乗らないと言いましたが、両側からさっとかつぎ上げられて乗せられてしまいました。少したって養父を連れて行った将校が戻って来た後、トラックはすぐ出発しました。その将校は運転席の横に乗りました。私たちはとても驚き恐ろしくもなって、トラックの中で身を縮めて泣いていました。途中で後ろを見ると同じようなトラックがもう一台ついて来ていました。
   午後に捕まってトラックに乗せられてから一晩が過ぎました。時たま銃声がするとみんな降りてトラックの下にもぐり、うつ伏せになっていました。車の中で一度握り飯をもらいました。また乾パンを食べさせようともしましたが、みながうずくまって泣いていたのでそれきりでした。翌日、まっ暗な中、トラックに乗っていた人たちが全員降ろされました。何人かの軍人がある家に私たちを連れて入りました。後でわかったことですが、中国人たちが逃げて空き家になっていたようです。
   まっ暗で気も動転していたので、その日はそこがどの辺なのか見当すらつきません。姉さんと私は部屋に入って行き、一体全体、何がどうなっているやらそれさえわからず互いに顔を見合わせていました。少し時間がたって昼に養父を引っばっていった将校が部屋に入って来て、私を布で仕切った隣の部屋へ連れて行きました。姉さんと離されるだけでも恐ろしく、行くまいともがきましたが、力ずくで引っばられて隣の部屋に連れて行かれました。その将校は私を抱きかかえながら服を脱がせようとしました。抵抗しましたが、服はみな引き裂かれてしまい、結局その将校に私は処女を奪われてしまったのです。その夜私はその将校に二回も犯されました。
   翌日、陽が昇る前にその将校は部屋から出て行きました。私は引き裂かれた服をかき集めて体を隠し、座って泣きました。その将校は出て行きながら、もうそんな服は着てはいけないと言いました。将校が出て行った後、隣の部屋に姉さんがいるかしらと思って仕切りをあけてみました。カーキ色の軍服を着た軍人が横になっていて、姉さんも引き裂かれた服で体を覆って座って泣いていました。私は驚いて布仕切りを下ろしました。外が明るくなって軍人が立ち去った後、姉さんが布仕切りを押しのけて出て来ました。私たちはみじめな気持ちで息が詰まり抱き合って声を上げて激しく泣きました。姉さんも必死に抵抗したのであちこち殴られたと言いました。私は私なりに将校と争っていたので、隣室でどんなことがあったかもわからなかったのです。

ぞっとする慰安婦生活

   少し経つと外から女の声が聞こえました。朝鮮語でした。女が一人戸を開けて入って来て「ここにはどういうふうにして来たの」と聞きました。姉さんがかくかくしかじかで来ることになったと話すと「来たからにはもう仕方がないでしょ。ここから逃げるのは無理だよ。運命だと思って、このまま生きて行くしかないよ」と言いました。その日布仕切りをした二部屋に、軍人たちが木で寝台を作って持って来ました。私たちは部屋を一つずつ割り当てられてここで過ごすことになりました。その家の隣には部隊がありました。後で軍人たちが話してくれたところでは、そこはテッペキチン(鉄壁鎮?)だということでした。私たちがいた所は中国人の村でしたが、日本軍の存在のせいか中国人は一人も見かけませんでした。
   その家には女ばかり五人いました。二十二歳になるシズエが一番年かさで、ミヤコとサダコは十九歳だということでした。シズエは私と姉さんに日本名をつけてくれました。私はアイコ、姉さんはエミコと名付けられました。米とおかずは隣りにある部隊から軍人たちが持って来てくれました。
   ご飯は女たちで当番を決めて順番に作りました。けれど私が一番年下なので洗濯とご飯づくりを多くさせられました。たまに軍人たちに食事を持って来てくれるように言うと、自分たちが食べるつもりのご飯と汁を持って来てくれることもありました。乾パンのような物をこっそり持って来てくれることもありました。衣服は軍人たちが着古した木綿の下着のような物を着ました。また時には中国人たちが家に置いて行った服を持ってきてくれたので、それを着ることもありました。
   シズエは日本語をとても上手に話し、主に将校たちだけを相手しました。ミヤコとサダコは自分たちが先に来たからと言って自分たちが相手するのが嫌な、すれっ枯らしの軍人たちを私たちのところによこします。みんな同じ境遇のはずなのに、先に来た者が後から来た者をいじめるのがいやで、私はその人たちとあまり親しくつきあいませんでした。シズエはソウルから来たと言っていましたが、ミヤコとサダコとはあまりつき合わなかったので、どこから来たのか、なぜ来ることになったのか知りません。
   その家には部屋が全部で五つありました。部屋には毛布が掛けられた寝台があり、戸の横には洗面器が置いてありました。シズエは私たちに消毒液が入ったびんをくれました。それを洗面器に溶かすとピンク色になるのです。軍人たちの相手が終わったら洗浄するようにと言われました。
   私たちを直接管理する人はいなかったのですが、部隊がすぐ横にあるため私たちがどこかに出かけようとすると、歩哨が尋問するのでした。出かけるとは言っても、知っている所がないのですからどこへも行くことなどできませんでした。
軍人たちは、自分が入りたい部屋に入りました。一カ月ぐらいたっても、いっも常連の軍人たちが来て目新しい人たちはいませんでした。私たちはこの人たちだけの専属になっているような気がしました。
  軍人たちは討伐によく出かけました。一週間に三、四日は夜に討伐に出かけ、夜明け頃に帰ったりするのです。討伐をして帰って来る時は軍人たちは歌いながら行進して来ました。すると私たきていなければなりません。普通は軍人たちは午後に来るのですが、そんな日は一日に七、八人の人たちを相手しなければなりませんでした。
   午後に軍人たちが来れば一人が三十分ぐらいいて帰りました。夕方軍人たちが来る時は酒を飲んで来て「歌え、踊れ」と騒いでは困らせるのが常でした。そんな時、私は裏庭に隠れたりしましたが、軍人に見つかると、いつも以上に手荒に扱われました。軍人たちは自分で部屋を選んで入ったので、来る人たちはほとんど決まっていました。入って来て三十分ぐらいで私をくたくたにさせてしまう軍人がいるかと思えば、やさしい軍人もいました。私の頭を自分の股ぐらに無理やり押しつけて、性器をしゃぶれと迫る軍人もいました。また事が終わると洗面器の水で自分の性器を洗ってくれという人もいました。機嫌の悪い時に反抗でもしようものなら起き上がれなくなるまでぶたれました。
    軍人たちは自分たちでサック(コンドーム)を持って来ました。私たちにサックは配られませんでした。一週間に一回、後方で軍医が兵士を連れてきて検査しましたが、忙しいと来ない週もありました。軍医が来ると聞けば一生懸命消毒薬で拭きました。軍医が来て診察してみて少しでも異常があれば黄色く光る六〇六号の注射を打たれるのです。それを注射してゲップがでると鼻に匂いが立ち昇って、とても気分が悪かったものです。
    月経のときは、軍医に頼んで集めておいた脱脂綿を使いました。月経でも軍人の相手をさせられました。相手したくなくても軍人たちが入って来ればどうすることもできないからです。綿を丸めて血が外へ漏れ出さないように深く入れて軍人の相手をしました。そうやったあとで綿が出て来なくなって苦労したこともありました。集めておいた綿がなくなると、布切れをちぎって小さくして丸めて入れたりもしました。
   軍人たちが来ない午前の時間には私たちは洗濯をしたり、真ん中の部屋に集まって話をしたりしました。けれど私はもともと従順な性格ではない上に、ひたすらどうすれば逃げ出せるかということばかり考えていたので、エミコ姉さん以外の人たちとは仲良くしませんでした。
  私たちのところに来る軍人たちは部隊から許可を受けて来ているようでした。初めは軍人たちが金を出しているのかどうなのかまったくわからなかったのですが、しばらくしてシズエから、兵士たちは一円五十銭、将校たちが泊まりの時は八円を出さねばならないのだという話を聞いたことがありました。軍人たちは誰に払っているのかと聞いたら、私たちがその金を受け取れるはずだと言いました。けれど私は慰安婦生活の間中、軍人たちから金を受け取ったことがありません。シズエがどの程度のことを知っていてそんなことを言ったのかわかりません。
   ある日朝食をとっていると、部隊の軍人が私たちのところに来て、とにかく早く荷物をまとめろと言いました。服を包んでいると早く出て来て車に乗れと催促するので、わけもわからぬままそこを発ちました。そこに行って二カ月が過ぎた頃でした。トラック二台にはすでに軍人たちが全員乗っています。将校は長い刀を下げて馬に乗っていました。私たちは日が暮れる前に新しい所に着きました。初めにいた所からそんなに遠く離れてはいないのにずっと田舎じみた所で、銃声が前の所よりもっと頻繁に聞こえました。
今度の慰安所は前のところよりも小さく、各部屋は布仕切りではなく壁で分けられていました。
   生活はあまり変わりませんでした。が、私たちの所に来る軍人たちの数は少し減ってきたように思いました。軍医もここへ移ってからはほとんど来ませんでした。軍人たちが討伐に出かける回数が以前よりも多くなり、朝に酒びんを持ってやって来る軍人がたくさんいました。前にいた所よりもいっそうみじめな生活でした。
   どうすればここから逃げ出せるかということばかり考えていました。エミコ姉さんと逃げる方法をいろいろ話し合ったりしましたが、道を全然知らないので、外へ出てもどちらの方へ行けばいいのか皆目見当もつきませんでした。逃げる時は必ず一緒にと姉さんと約束しました。シズエは年も私より上でいろいろと面倒を見てくれましたが、それでも一番心が通じる人はエミコ姉さんだったからです。

朝鮮男性との脱出

   新しい所に移って一カ月ちょっと過ぎた頃、四十歳ぐらいに見える朝鮮人男性が私の部屋に入って来ました。もともと軍人以外は入って来ることはできなかったのですが、その人はここに朝鮮人の女たちがいるという噂を聞いて、部隊の軍人たちが全部討伐に出かけてしまった隙に乗じ、歩哨の目をくぐり抜けて入って来たと言うのです。その人は朝鮮から来た銀銭商人だと言いました。懐かしい気持ち半分で「朝鮮人なら出る時私も連れていってください」と頼みました。朝鮮人も日本人も、男はみんなそっくり同じようなものです。この男も私に対して自分の欲求をぶつけました。そしてそのまま出て行こうとするので、捕まえて喰い下がりました。私は彼に、このまま行くなんてひどい、もしこのまま逃げるなら大声をあげてやると言いました。けれども隣室には聞こえないように小さな声で言いました。もしも隣室のエミコ姉さんが聞いて自分も行きたいと言えば、軍人たちに見つかるような気がしたからです。その人は私にどうやって連行されたのか、年は幾つかと聞きました。自分は一カ所に定住しないで全中国を歩き廻っているので、ついて歩くのはとても辛くて危険だと言いました。それでも「ここから出られたら死んでもいい。ついて行けなくなったら棄ててもいいから、せめてここから連れて逃げて」と哀願しました。
   正確な時間はわかりませんが、私がその人と慰安所を抜け出したのは、明け方の二時か三時頃だったと思います。荷物などもともとありませんでしたが、文字通り何も持たず身一つでついて出ました。あまりに気が動転していたので、どうやって部隊のあった路地を抜け出したか思い出せません。軍人たちが討伐に出ていたとはいえ、歩哨はいたのですから、見つからなかったのは運が良かったとしか言いようがありません。
   北京から連行されて四カ月ぶりにそこを脱走してきたのです。もう夏が過ぎて季節は秋に入っていました。男は途中、中国人が捨てて行った空き家に入って行って、衣類を見つけ私に着るように言いました。男は地理に明るく空いている家も上手に見つけました。中国語も大変上手で中国人になりすますのもかなり上手でした。私は中国語もできないし、捕まるかもしれないと思うと恐ろしくて、その男の後ろばかりついて歩きました。彼は他の人たちには私を女房だと紹介しました。その人は平壌でクァンソン高普(高等普通学校)を出た人で、故郷は平安南道天シ世耐でした。故郷に息子がいると言っていました。彼は日本語も上手で字も上手に書きました。平壌へ帰ろうと言ったのに彼は帰ることはできないと言うばかりで、その理由は言ってくれませんでした。
   彼は中国の隅々まで全部知りつくしているかのようでした。蘇州、北京、南京などあらゆる所を歩き廻りました。彼が何をしている人なのか正確にはわかりませんでした。たぶん、中国人の依頼を受けてアへンの仲介をしていたのだと思います。
一九四二年、十八歳の秋に私は妊娠しました。彼は、子どもを産むなら一カ所に定住しなければならないと言って、上海に居を定めました。上海に降りて黄浦江の端を渡りフランス租界へ行って暮らしました。そこには五十三カ国の領事館がありました。日本租界とか英国租界は向かい側から攻撃を受けるので不安だというのでフランス租界へ行ったのです。
   私が十九歳になった年の陰暦九月二十日に初めての子を産みました。女の子でした。そして一九四五年、私が二十一歳になった年の正月に息子を産みました。二人とも上海で産んだわけです。私たちはここで「松井洋行」という質屋を経営しました。元金は中国人が出し、実際の商売は私たち二人がしたのです。金貨しもしました。もうけは金を出した中国人と折半し、商売はどうにかこうにかうまく行っていました。

喜んでくれる人もいない故国へ

   解放[一九四五年八月十五日、日本の敗戦を植民地だった朝鮮では解放と呼ぶ]を迎えると、ユ・イルピョンという居留民団長が朝鮮に帰る者は船に乗るようにと知らせてくれました。私たちは一九四六年六月に上海から船に乗って韓国に出発しました。二階建ての大きな船に光復軍とともに乗ったのです。その時船賃として大人は千円ずつ、子どもは五百円ずつ取られました。つまり私たち四人家族は三千円払って船に乗ったわけです。船が仁川に到着しました。ところがコレラが発生したということですぐには降りられず、船の中で二十六日間待ってから降りました。それからはソウルの奨忠堂収容所で三カ月間過ごしました。そこで娘がコレラに感染して亡くなりました。気候が寒くなり始めると夫は、部屋を借りるために知人をたずね歩きました。どうにか知人の家の一室を借りて私たちは十月に収容所を出て行くことになったのです。

夫も子も亡くして

   私は野菜売りをし、夫も工事現場に出かけて生活費を稼ぎました。六・二五「朝鮮戦争」の後には夫が代書屋をしながら統長[統は市の行政区画で洞の下、班の上]もしました。それから部隊に惣菜を納品する仕事もしました。ある日惣菜を納品するために検査を受けに出かけた夫が、その建物が壊れて下敷きになったという知らせがありました。駆けつけてみると、屋根が何日間も降り続いて落ちたのでした。何人も下敷きになっていて、そこで死んだ人もいたし、血だらけになって息も絶えだえになっている人もいます。夫は赤十字病院に運ばれましたが、五十日ぐらいで亡くなりました。
   夫とは名ばかりで、彼との生活の中では苦痛の方がはるかに大きいものでした。私が慰安婦生活をしていたことを知っていたので、酒を呑んで機嫌が悪くなると、胸をえぐるようなことを言いました。帰って来た夫のそばに寄るのも嫌でしたし、自分の身の上に嫌気がさして夫の言うことをきかなかったので、よけいにひどいことを言われたのだと思います。息子がいる前で不潔な女だの、軍人の相手 をしていただのと言われる時には、汚された運命を恨むばかりでした。夫の死を見送って息子と二人の生活を始めました。あまりにも私を苦しめた人だったので、死んだ後もそんなに悲しくありませんでした。私は工場からメリヤスを買いつけて江原道あたりを回りながら店に品物を卸す仕事をしました。私が江原道に行くと何日も家を空けるので、東草から貧しい家の子を一人連れて来て息子と一緒に留守番をさせました。息子が国民学校[小学校]四年生の時、海を見たいと言うので、夏休みに品物を卸しがてら束草へ連れて行きました。その時、海水浴に行った息子が心臓麻痺で死んでしまいました。親に縁の薄かった女は、夫の縁も、子どもの縁も薄いのかと思い、すっかり生きる気力をなくしてしまいました。
   死のうと何度も心に決めて薬を飲んだけれど死ねませんでした。一九六一年にふらっと全羅道に移り住んで、手当たり次第に仕事をしながら酒と煙草で二十年を過ごしました。そうこうするうちに放浪してみじめに生きている自分の姿を振り返り、いずれ死ぬにしてもこんなみじめな生活をしていてはいけないという気がして、ソウルに上京しました。全羅道の知人が紹介してくれた家に女中として入ったのです。七年間その家で仕事をしましたが動悸がして体の調子が悪いので、一九八七年にその家を出ました。その時わずかばかり貯めておいたお金で、現在私が住んでいる部屋を借りました。
   洞の事務所で幹旋してくれた就労事業に出かけたところ、偶然に原爆被害者であるハルモニと出会いました。私も、日本に対して悔しい思いを抱いてきましたし、自分の人生があまりにも嘆かわしく、誰かに話したいと思っていたところでしたので、私が軍慰安婦だった事実を話しました。そして、韓国内で初めて出てきた慰安婦証言者ということで、方々から呼ばれていろいろな所へ行きました。でも記憶を蘇らせる作業はとてもつらいものです。
   なぜ私は人並みに生きることができなかったのか。他の老人たちを見る度に「あの人たちと私とは違う」と比較してしまいます。私の純潔を奪い、私をこんなにした奴らをズタズタに引き裂いてしまいたい気持ちもあります。でも、どうやって私の口惜しい心情を解くことができるというのでしょうか。今はこれ以上私の記憶を明らかにしたくありません。韓国政府も日本政府も、死んでしまえばそれで終わりのような女の悲惨な人生には、何の関心もないのだろうと思ってしまうのです。
(P41~56)