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つかこうへい氏の「満州駅伝」と朴裕河氏(シリーズ第一弾)

『池田、いいか。嫌がる女を無理矢理連行し、抵抗したら傷つけ殺し、病気持ちにさせておきながら変な情けをかけた日には、大日本帝国は根底から揺らぐ。この戦争が終わったあと、“あれは狂っていたんだ、だからあのことは仕方なかった”そう言い切らねばならんのだ。それにはな、愛だ恋だを芽生えさすだけの理性などあってはいけないんだ。でなければ、大日本帝国が根底から揺らぐ!!
 そこんとこを汲んでもう一度何かを言ってみろ!!』
『上等兵殿。こいつは可哀相な女であります。朝鮮から慰安婦として連れてこられて、日に何十人も客を取らされて、この女は可哀相な女であります。どうか助けてやってください』
『それは分かってる』
『好きになってしまったのであります。誘ったのは自分です。こいつは悪くありません』
 その時、スンジャが前に身を乗り出し、はがい締めにする兵たちを振り切るようにしながら叫んでくれたのです。
『違う。この人悪くない。朝鮮から連れてこられて、何人も男取らされて、私たちが何した。この人だけが、人間らしく扱ってくれた。自分の時は休めって言ってくれた。この人が死ぬなら自分も死ぬ』
『よし、そうか。撃て!!』
 そう言って、右手を高々と振り上げようとした、ちょうどその瞬間でした。サイレンが鳴り響き玉音放送が流れたのです」

出典:娘に語る祖国―『満州駅伝』‐従軍慰安婦編/つかこうへい 光文社 (1997)

すでに亡くなった在日韓国人の劇作家のつかこうへいに、「慰安婦」を扱った「満州駅伝」と言う本がある。偶然、飲み屋で会ったと言う、池田元二等兵の証言を元に、終戦の日の旧満州の四平街に「慰安婦」と兵士の駅伝が走ったと言う設定で作ったお話が、後半部に収められている。赤字で引用したのは、恋愛関係にあったイ・スンジャと言う慰安婦と、駅伝の最中に逃亡しようとしていたところを見つかった、池田二等兵が上官に問い詰められる部分である。
満州で「駅伝」が行われたと言うのは事実、とつかは言うが、逃亡の可能性があったから、「慰安婦」の「駅伝」はあり得ない。そもそも、「仕事」に差し支えるから、長距離走のような、耐久力の必要な行事を企画するわけがない。単に二人の逃亡の奇妙な道具立てとして、「駅伝」は使われているだけなのだが、「慰安婦」だけの「運動会」が行われたという例なら、複数の証言がある。千田夏光の「従軍慰安婦(1973)」の中にも証言があるし、漢口の積慶理慰安所でも証言例がある。昔から広く知られていた話なのだが、あくまでも「慰安婦」の「気晴らし」のためのものだ。この「運動会」についても、朴裕河氏は、「慰安婦」の「隠蔽された」「楽しい記憶」であると言うことを書いているのだが、このバカバカしさには後で触れる。
「恋愛関係」になる「慰安婦」と兵士と言うのも、運動会の話と同様に、千田夏光の「従軍慰安婦」にも書かれているとおり、広く知られた話である。巻末の参考文献を読む限り、つかは性奴隷状態に置かれていたことを告発した、肝心の元「慰安婦」女性の証言を読んでいないし、読まないことで非難されることになるとも思っていなかったのだろう。要するに、兵士の証言を聞いて回った末に、被害者女性の証言が出る前の、日本人の平均的な慰安婦問題の認識まで、つかが後退しただけのことだ。正直、上官の鬼塚が元々は朝鮮人で、イ・スンジャが戦後、日本でストリッパーになったというストーリーなど、面白いとか言う前に「痛々しい」と言う他ない。だから、この本を書いたつかに対して、今更、批判を書き連ねる気もないし、その程度の本だと考えてもらっていいと思うが、ここで改めて、つかの本を紹介するのは、この本が確実に、「帝国の慰安婦」の著者である朴裕河氏に、影響を与えていると思われるからである。
つかこうへい自身は、当事者に「恋愛感情」があるくらいだから「性奴隷」と言い難いのではないか、と言う慎重な立場にいるように私には見えるし、引用した文章からも、朴氏ほど単純とも思えないのだが、どうやら、つかのこの「恋愛感情もあった」を全面的に理論展開したのが、朴氏の「性奴隷と言う言葉が楽しい記憶を隠蔽してしまう理論(以下、「隠蔽理論」とする)」のようだ。


何よりも、『性奴隷』とは、性的酷使以外の経験と記憶を隠蔽してしまう言葉である。慰安婦たちが総体的な被害者であることは確かでも、そのような側面のみに注目して、『被害者』としての記憶以外を隠蔽するのは、慰安婦の全人格を受け入れないことになる。それは、慰安婦たちから、自らの記憶の〈主人〉になる権利を奪うことでもある。他者が望む記憶だけを持たせれば、それはある意味、従属を強いることになる。

出典:帝国の慰安婦/朴裕河 朝日新聞出版 P143


朴氏の慰安婦問題の認識については、「帝国主義とフェミニズム」「売春差別」と言った左翼的枠組みを上野千鶴子氏から、元「慰安婦」は基本的には自発的に志願して「売春」に従事した、と言うヨタ話は秦郁彦氏から受け継いでいると言うのは分かっていた。おそらく、この「隠蔽理論」も、「屁理屈」の部分は上野氏の影響が見られるが、基本的には、つかの「小説」から着想したものだろう。「同志的」と言った言葉は、さすがにつかは使用していないので、このあたりは、黒田勝弘氏あたりからの影響かもしれない。「性的酷使以外の経験と記憶」と言うのは、前述した「運動会」のことだったりするが、これは当然にオマケのエピソードである。単純に「慰安婦」女性と兵士の「恋愛」の話が「楽しい記憶」のメインとなるのは明らかだ。つかも朴氏も、「慰安婦」が兵士と一緒にメシを食いに行ったとか、ピクニックに行ったとか言う話を真に受けているようだが、日本軍がそんな牧歌的な組織であるわけがない。そういう特権を行使できるのは、古参の下士官か将校だけである。

「満州駅伝」の巻末の参考文献には、田村泰次郎の「春婦伝」や古山高麗雄の「蟻の自由」といった、朴氏が「帝国の慰安婦」で引用した作品が並ぶ。私はなぜ、朴氏が特に有名でもない古山の本を引用しているのか、さっぱり分からなかったが、この参考文献を読んで納得した。実際に読んでみると、古山の文章は、インテリの下級兵士の立場のものであり、「文学作品」として優れたものではあっても、あえて引用する必要は全く感じられないが、高橋源一郎といった人は、朴氏にブンガク臭を嗅いで、「感動」してしまったようだ。田村泰次郎の「蝗」の中のエピソードとして引用される、移動中に部隊に「慰安」を強要される、「朝鮮人」であることから差別を受けたといった話は、文玉珠さんの証言の中にもある。あえてフィクションから引用する意味があるのだろうかと思っていたのだが、ちゃんとタネ本があったわけ。実は「満州駅伝」を参考にしましたって言うのは、あまりにもミエミエで、外聞のいい話ではないので、日本文学研究者らしく、あんまり知られていない小説から、オマケとして引用してみましたってことだろう。朴氏の「隠蔽理論」では、「性奴隷」と言う言葉は、酷薄な「朝鮮人差別」の経験をも「隠蔽」してしまうのだが、そういうことを言いたいのだろうかと、皮肉の一つでも言いたくなるというものである。

朴氏のワケの分からん「隠蔽理論」については、当然に批判が集まっている。私は朝鮮人「慰安婦」を、日本軍の裏の顔である、国際売春シンジケートによって、外国で強制的に売春に従事されられた人達としか思えない。その国際売春シンジケートの従業員や客が「大東亜共栄圏」とかいうマボロシを信じていたとしても、まったく事情はかわらない。連行されてきた女性達には何の関係もないのである。「満州駅伝」の、池田二等兵とイ・スンジャの場合と同様、例外的にやさしい個々の兵士に対して、恋愛感情を抱くと言う話はあるが、たいていの場合、しつこくイヤな古参の下士官だの、酔って刀をすぐに抜く将校などととセットになって語られる。「同志的」感情を抱くなど、極めてうまく丸め込まれた例外中の例外の話だろう。屁理屈もたいがいにしてほしい。売春業者が、ダマして連れてきた少女に、「お前の親はお前を〇〇円で俺に売ったのだ。恨むなら親を恨め」と言って、それを少女が信じこんでしまうようなものである。恋愛感情や「同志的感情」があったからといって、誘拐や強制売春と言う、明らかな犯罪行為が免罪されることはあり得ない。犯罪被害者にも、それぞれ場所や時期によって、証言にバリエーションがあるといった話に過ぎない。

「性奴隷」と言う言葉は、つかこうへいが言うような「鎖でつながれて売春を強いられるというイメージ」と言った、SMまがいの状態を指すのではない。「黒人奴隷」が足枷をつけているとしたら、それは反抗か逃亡の懲罰である。平時は仕事の邪魔になるから、「奴隷主」はそんなことはしない。監禁されて鎖につながれて、「ご主人さま」と言わされると言うならば、ほとんどエロマンガの世界であるし、特定の人間にだけ強姦されると言うのならば、慰安所での集団強姦よりまだマシと言うものだろう。「奴隷」と言う言葉が使われるのは、もちろん慰安所制度と「人身売買」との関係からである。

戦前の日本での「公娼制度」下では、(条件付きの)廃業の自由、娼妓になる際の自由意志の確認、契約の有効性のチェックと言った制限が存在した。それによって、ようやく、国際的に「公娼制度は人身売買であるとは言えないのではないかごにょごにょ」と、外務省がさすがに屁理屈と知りつつ、主張することくらいはできるといった程度のものであったが、軍の慰安所に、一切、そのような規定はない。「慰安婦」になるにあたっての自由意志の確認、業者との契約書の確認が行われた例など、極めて少数の例外を除いてほとんど例がない。軍の慰安所制度というのは、もっともマトモに運用された場合でも、軍が人身売買による強制売春に全面的に関与した例に他ならないのだ。

しかも、公娼制度下では、売春は合法的なものだったから、兵士の側に女性を買う罪悪感はない。秦郁彦氏のように「娼婦は話を盛る」と思っていたなら、なおさらである。集団強姦を是とする兵士は、さすがに少数だっただろうが、慰安所制度は、無理やりに「慰安婦」にされた女性の立場からみれば、加害者側に罪悪感のない、日常的な集団「強姦」を認める、極めて過酷な制度である。

日本を代表する「フェミニズム」の代表的論客だと言う上野氏は、朴裕河氏の友人と言うが、こういう単純な話は理解できないらしい。元「慰安婦」女性が、証言集の中で、明確に語っているにも関わらずである。これなら、田嶋陽子さんの方が数倍、好感がもてるというものだ。

次は、これもなんの根拠もない、朴氏の朝鮮人「慰安婦」自発的身売り説を検証します。朴さん自身は、そう考えていると言うことを認めようとはしないでしょうがね。


とりあえず、二つほどリンク。上野氏については、吉見義明氏の「反論」を参照。

scopedogさんの「帝国の慰安婦」関連リンク集の記事(とっても便利) http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20151129
「従軍慰安婦」問題と歴史像-上野千鶴子氏に答える(吉見義明)
http://east-asian-peace.hatenablog.com/entry/2014/07/19/222810