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伊藤桂一「気高き慰安婦たち」にみる関特演時の慰安婦「調達」

以下に紹介する伊藤桂一が書いた3つの論文は、すべて同じ北満の璦琿(アイグン)にあった関東軍第六国境守備隊の慰安所設置の話である。「気高き慰安婦たち」(2007)では、菱田大佐が個人的な権限で慰安所を開設したかのような話になっているが、1996年に書かれた小説「北満哀艶歌」を読むと、この慰安所が「旅団司令部」の指示で開設された慰安所であり、時期的に「関特演」時の慰安婦「調達」に間違いないことが分かる。

伊藤がなぜ、元の小説までさかのぼって調べなければ、分からないような「インチキ」をやったのか、ここでは触れないが、40分一円五十銭と言う「玉代」は、旧満州の慰安所に共通する金額で、数多くの証言が存在するが、公娼施設の「ショート」の「玉代」としては、内地でも朝鮮でも平均的な金額(私娼並)で、特に条件がよいとも言えないものである。一般の兵士ですら、給与と同額の「戦地手当」が出ることを考えると、ソ満国境地帯の慰安所に、素人女性の「応募が殺到」するとは、とても考えられない。

ともあれ、秦郁彦氏が関特演時の朝鮮からの慰安婦「調達」例としたソ満東部国境の慰安所の数例ハイラルの第八国境守備隊の例黒竜江省の档案館が公開した東部国境の公文書の例と合わせ、この時期の朝鮮からの大量動員は、動かしがたい事実であると考えられる。

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「気高き慰安婦たち」(2007) 聞き手:野田明美

伊藤:(略)軍は慰安所に無関係だった、あれは民間が勝手にやったことだという意見も耳にするけど、そんなことはない。僕は「慰安婦募集の一記録」という一文を書いたことがあります。満州にいた関東軍の第六国境守備隊隊長だった菱田という大佐が、北満州の西崗子という町に、軍の管理する慰安所を作ったという話です。
この人は、大佐には珍しく下情に通じた人だった。士官学校や陸軍大学校など日本の軍人育成学校の欠陥は、軍事は教えても人間のことは教えなかったことじゃないかと思うんですが、そのなかで珍しく兵隊の気持ちの分かる人だった。例えば、駐屯地にいる軍人、軍属の家族に「婦人の下着類を望楼から見えるところに干さないでくれ」という通達を出したことがある。望楼から双眼鏡で監視している兵隊を刺激しないように、という配慮なんですね。
彼の慰安所計画は、憲兵隊長の強い反対にあいます。“民間人がやるならともかく、軍みずから慰安所を作るなんてとんでもない”と。しかし、菱田部隊長は“君たちは料亭の女を専有してるからよい。兵隊たちは性の処理をどうするんだ”と反論して、これを認めさせた。民間人に任せると性病がこわいし、情報も漏れる。それならいっそ軍がしっかり管理して、慰安婦たちにも安心して働いてもらおうというのが菱田大佐の発想なんですね。

--その話は直接聞かれたんですか?
伊藤:菱田大佐の部隊にいた人に詳しく聞きました。その慰安所は「満州第十八部隊」と名付けられました。
慰安婦は、朝鮮の慶尚北道で募集し、志願してきた女性は軍属として、判任官待遇とする玉代は四十分一円五十銭。衣食住は軍持ち。前借も無期限、無利子で自分の稼ぎによって返済する。つまり、稼げば稼ぐだけ、前借している金を返すことができるわけです。民間の慰安所の場合、楼主夫婦をお母さん、お父さんと呼んで擬似一家の構成にしているから、稼いでも途中でピンはねされてしまうという弊害があった。しかし、軍の慰安所にはそういう心配は、もちろんありませんでした。
そのほか、軍は管理するけど生活には干渉しないとか、そういった条件をきちんとうたって募集したんです。

--女性たちは集まったんですか?
伊藤:たちまち二百人集まったそうです。募集地を慶尚道にしたのは、あの辺りの女性は気質もいいし団結も強い、という理由だったそうです。慰安所の建物は、松、竹、梅と三つあって、一人に一部屋があてがわれた。壁に掛かっている慰安婦の外套の襟には、軍属のマークが縫い付けられている。判任官のものですから、上等兵より階級は上なんですね(笑)。

注)伊藤は「慰安婦募集の一記録」と書いているが、時期から考えて、以下の「戦場慰安婦について」と考えられる。

「従軍慰安婦」朝日新聞VS.文藝春秋 (文春新書)所収(2014)

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戦場慰安婦について(1996)

戦場慰安婦の問題については、産経新聞が折り折り に正当な意見を述べているので、感心する。この問題については、謝罪癖の身についている連中が、自分勝手な考えを述べるので、わずらわしかった。新聞の健闘ぶりに、少々協力させてもらうことにする。
軍事雑誌「丸」(潮書房刊)に私は戦記短篇を連載 しているが、近号の作品に、旧満州璦琿県の部隊(第六国境守備隊)が、200名の慰安婦を募集したいきさつについて触れている。 
慰安婦は、慶尚南道、慶尚北道で募集したが、募集をはじめると直ちに、200名の応募があった。 
条件が特によかったためである。条件の要点は、衣食住を軍が一切保証し、慰安婦の資格は軍属の下士官待遇(兵隊より上である)とし、給料もそれに準じて支給する。 軍は、生活上のことについては全く干渉しない、といったものである。貧しさのために、身を売って働くというのはつらいことだが、200名の慰安婦嬢は、40分1円50銭の約束で 兵隊に接し、稼ぎはそのまま彼女たちの収入となった。募集条件には、前借も認めるとしたので、 前借金を、1、2年で返せた人も多かった。 
この200名の慰安婦たちは、満州第十八部隊という呼称がつき、松、竹、梅とわけられた3棟の兵舎に分散し、仲間同士の組織で生活した。任務(?)を終えて帰国した者もいるし、 なじんだ兵隊の除隊を待って結婚した者もいる。ただ、ソ連軍の侵入によって、痛ましい目に 遭った人も、当然いる。これは気の毒なことである。同情してあげたい。 
日本の軍隊には、基本的に、性の問題にかかわる女性たちを、だいじに扱う、という考え方があった。女性を強制連行して、奴隷の如く働かせた、ということなど、あり得るはずはない。 
もし日本軍が、女性たちを強制連行したとすれば、当時の慰安婦諸嬢は、何千何万の署名を集め、自身の経歴、働かされた年月、任地、接した部隊名を明記して、抗議行動を起こしたろう。 
つまり、慰安婦の仕事は、彼女たちにとっては、やむを得ぬ職業だったのである。ただ、運不運はあったと思う。その点、満州第十八部隊で働いた人たちは、辛いながらも張り合いはあったろう。 
満州第十八部隊は、慰安婦の人格をまず認めていた。この部隊を創設した第六国境守備隊長は菱田元四郎大佐である。この人は、人間すべてを平等にみたし、秀れた識見を持っていた。 

「オール讀物」伊藤桂一 1996年12月号

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北満哀艶歌/新・秘めたる戦記(1996)

木崎一等兵たち初年兵十八名が、昭和十六年三月の下旬に、勤務交代の命を得て、梁家屯の兵舎へもどってきた時は、従来の初年兵生活とは、掌を返すように事情が変わってい た。楽になったのである。
第七中隊には、八十名の初年兵が入隊してきていて、初年兵たちは、すべて甲種合格の健康な兵隊で、徒溝子陣地から帰ってきた古参兵に対してはむろん、木崎ら新二年兵に対 しても、
「二年兵殿、ご苦労さまです」
と寄ってきて、装具を外してくれる。旧三年兵は、二月末に除隊になって原隊へ転属し たので、いまは、三年兵、木崎たち二年兵、それに初年兵の、新たな態勢が整ったのであ る。何といっても、現役兵だけを揃えた、教育の徹底した、精鋭関東軍の一環を、第七中隊もまた持していたことになる。
 木崎ら二年兵は、身分が楽になるとともに、営内の酒保にも気楽に行け、寛ぐことができるようになった。
 そんなある日に、満州第十八部隊創設の旅団通達が、公布されたのである
木崎一等兵たちが、休日に、隊伍を組み引率されて、西崗子の町へ出向けたのは、二年兵としての生活がつづいて、しばらくのちのことである。西崗子は、梁家屯から、四キロ ほど離れている。むろん、満州第十八部隊を訪ねることが、主たる目的である。 
さきに遊びに行ったことのある三年兵は、
「兵舎もここより新しいし、設備もええ。彼女らは優雅に暮らしとるよ。国を出る時の借金など、じきに返せるんやないか。稼ぎのほかに、兵隊と同じに、十日毎に給料も渡るしの。なにしろ、下士官待遇やからな」 
 といったが、木崎らは、第十八部隊の生活の模様をその眼でみて、この部隊が、ともか く優遇?-されていることだけは実感した。
西崗子には、それまで、将校専用の遊女屋もあり、商人の経営する満州人の女を抱えた店もニ、三軒あったが、このたびの満州第十八部隊は、軍が肝入れして朝鮮人を集めた大規模なもので、松、竹、梅と区分してある大きな棟に、二百名もの慰安婦が生活したのである。この慰安施設のほかに、新陸軍病院も立派なものが建設されている。慰安所の建物 は、土塀造りに屋根は板金、黒コールタールを塗り、内部の廊下には、客待ちの場所にペチカがある。各個室は三畳ほどの畳敷で、箪笥や化粧鏡もある。各部屋の夜具も官給品だ し、彼女たちの、壁に架けられた外套の襟には、むろん下士官待遇、判任官としての赤い星標がついている。
 宿舎内には、彼女らの炊事場もあって、彼女らは自活し、自営して、国を出てくる時の前借を、その身を以て、返済してゆくのである。借金を返済すれば、それで自由の身になれるのだ。軍は、主として慶尚南道、全羅南道あたりから女性たちを募集し、はるばると この北満の地へ引率してきたのである。 
彼女たちの、生活上の被服や、日用品などは、軍から支給される仕組みになっている。 つまり、彼女たちは、四十分間一円五十銭の玉代で兵隊を遊ばせ、その金を蓄積してゆけばよいのである。
彼女たちは、民族的な団結心が強く、互いにしっかりと支え合っている。それに、軍の庇護があるので、見識も高く、気が向かなければ、兵隊を遊ばせなくてもよいし、生理の時は、むろん休める。彼女たちはみな、明るい元気な暮らし方をしているーと、西崗子で遊んだ古参兵たちは、みな話していたものである。(P53-P55)

新・秘めたる戦記(第一巻)/伊藤桂一(光人社)1998年

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以下は、伊藤が1986年に書いた本からの抜粋である。伊藤は「慰安婦に身売りした朝鮮人女性」に、同情的な書き方をしているので、表立って批判されることはなかった反面、発言内容を検証されることもなかったのだが、この頃は確実に「騙されて」慰安婦にさせられたと言う考えを持っていたことが分かる。つまり、1990年代に入って、「貧しさから身売りした」と言う立場に「転向」したということだ。

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騙すのは、看護婦にする、というのと、食堂の給仕にする、というのとつまり肉体的供与を条件とせず連れて行って、現場に着いたら因果を含めたものである。逃げる方法はない。

出典:戦旅の手帳/光人社 (1986)

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