旧満州地域の慰安所の兵士の証言から読み取れる確実なこととして、憲兵隊の強い慰安所への関与がある。元兵士の証言からも、、「慰安婦」の移送、医師の定期健診の立ち合い、軍事機密漏えいの監視、「就業」時の「危険思想」の確認など、憲兵は要所要所で重要な役割を果たす。例えば、この例など、不当に「慰安婦」にさせられた女性を、憲兵が保護した例として語られそうだが、そもそも自己申告の証言であるし、この憲兵は、担当する慰安所の移送、面接、管理すべてに、実際に関わった上での行動だと言うことになる。
ここでは「検閲された手紙が語る満洲国の実態/小林英夫(編),張志強(編) 小学館(2007)」の「憲兵隊の部隊構成と業務内容」を紹介する。一般的に、憲兵の役割としては、軍人、軍属の犯罪を監視する「軍事警察」があるが、当然、旧満州の憲兵の権限はそれにとどまらない。
慰安婦問題関連で言うと、軍需監察、鉄道警察業務が、憲兵の役割に含まれるという箇所が特に興味深い。一旦、軍需工場に動員され、そこから慰安婦に連行されるという証言が多いからだ。よく問題になる「女子勤労挺身隊」は、日本内地への動員に限られるが、旧満州地域への動員はネット上にほとんど資料がみられない。日本内地への朝鮮からの移入は、厳しく制限されていたが、朝鮮から満州へは制限がはるかに緩い。「女子勤労挺身隊」よりも、むしろ他地域の軍需動員の方が問題だろう。
1941年の太平洋戦争の開戦の年は、関特演に伴う大増員の行われた年だが、憲兵隊の置かれた都市には、ほとんどで慰安所が確認できる。といってもさすがに長いので、太字のところだけ読んでもらうだけでも十分だと思う。
(P218~223)
関東憲兵隊の誕生と拡大
まず最初に、関東憲兵隊はどのような部隊編成をとっていたのかみていこう。関東憲兵隊の歴史は、日露講和条約締結後の一九○五年(明治三八)一二月にさかのぼる。兵力は三五八名、本部は旅順に置かれ、旅順、奉天、遼陽、鉄嶺、安東、長春にそれぞれ憲兵分隊が配置された。翌○六年二月第十五憲兵隊と名称が変更されたが、○七年一○月には再び関東憲兵隊という旧称に改称されている。
その後、一九一九年(大正八)には、組織が改編され関東憲兵隊は関東都督府が廃止されるにともない日本憲兵隊直属となった。満洲事変直前の関東憲兵隊の編成は、旅順に憲兵隊本部をもち、旅順、大連、安東、長春、公主嶺、遼陽、奉天、鉄嶺に分隊を置いて活動していた。
憲兵隊の兵力も一九○五年の発足当初は士官三○名、準士官・下士官八八名、兵二四○名の合計三五八名であったが、一九年にはそれぞれ一一名、四二名、一二八名の合計一八一名となり、満洲事変勃発直前の三一年には士官三一名、准士官二四三名、兵三八一名の合計六五五名となっていた。憲兵隊長も憲兵隊スタート直後の○五年から一七年までは佐官クラスが務めていたが、シベリア出兵が行われた一八年以降からは将官クラスが就任するようになった。
一九三一年(昭和六)九月の満洲事変以降、憲兵隊は関東軍の作戦に協力して活動範囲を拡大し、抗日運動の探査、治安維持、要人警護・監視などの任務に従事している。三二年六月参謀本部は、「満洲派遣部隊編制改正要領」により、関東憲兵隊を日本憲兵隊直属から関東軍の作戦序列に組入れた。この結果、関東憲兵隊では大幅な編制改正が実施され、奉天、長春、ハルビン、チチハル、承徳、延吉に憲兵隊が配置され、隷下に分隊・分遣隊が配置された。たとえば奉天憲兵隊の場合には、隷下に奉天分隊(城内分遣隊・皇姑屯兵工廠分遣隊)、附屬地分隊(皇姑屯分遣隊・本渓湖分遣隊・,撫順分遣隊)、遼陽分隊(鞍山分遣隊·海城分遣隊·大石橋分遣隊,営口分遣隊)、大連分隊(旅順口分遣隊)、安東分隊が配属された。
一九三一年九月から満洲国が建国された三二年三月をはさんで三三年まで、中国東北には旧張学良系の抗日軍が各地で活動したため憲兵隊の活動はその鎮圧に向けられた。三四年には、満洲国の首都新京(長春)に関東憲兵隊司令部がおかれ、長春憲兵分隊は新京憲兵隊と改称された。一九三五年後半になると、抗日運動の中心が旧張学良派から共産主義者達に移りはじめ、武力戦に加えて思想戦の様相を呈し、満洲国の治安は、表面はともかく底流で悪化したため、関東軍は大規模な武力討伐作戦を計画、その実施にあたっては中央警務連絡委員会を設立した。三六年四月関東軍は「三年治安粛清計画大綱」を制定するが、そのなかに「憲兵司令官、憲兵隊長にその職務に応じ警務機関を指揮統括する権限を賦与する」「憲兵司令官、憲兵隊長、憲兵分隊長を委員長とする中央、地方、地区警務統制委員会を組織し、満洲各地警務機関を指揮統括し 思想対策を実施する」命令を盛り込んでいた。
これによって各地の警務連絡委員会は警務統制委員会に再編された。関東憲兵隊司令官は中央警務統制委員長を兼任し、満洲の各警務機関首脳を、憲兵隊長は地方警務統制 委員長を兼任、各省の警務庁長、満洲国軍各地憲兵団長、鉄道警備隊本隊長を、そして各憲兵分隊長(分遣隊、分駐所)も地区長を兼任して所在地の警察署(分署)長、鉄道警護隊分隊長、満洲国軍憲兵分隊長を、おのおの指揮する権限をもった。つまりこれにより、満洲国の警務は総て関東憲兵隊の指揮下に入り、警務連絡委員会時代とは比較にならないほど警務統制委員会では憲兵の権限が強化された。各憲兵隊、憲兵分隊からの報告を受けて憲兵隊司令部が取りまとめる『検閲月報』が編集されるようになるのも、この時期であった。
一九四一年一二月の太平洋戦争勃発以降になると、英米国人や領事館員、キリスト教徒などを対象に郵便・通信検閲はいっそう強化され、戦局が悪化するに従ってその厳しさは増加していった。また関東憲兵隊の配置はさらに広がりと厚みを増した。憲兵隊司令官の下で関東憲兵隊教習隊、特設憲兵隊とならんで新京、奉天、ハルビン、牡丹江、間島、東寧、鶏寧、東安、佳木斯、孫呉、チチハル、ハイラル、錦州、承徳、大連、通化、四平、興安に各憲兵隊が、阿爾山に独立憲兵分隊が配置された。各憲兵隊の下に は憲兵分隊が、その下には分遣隊と分駐所が置かれ、その組織は満洲国全体に網の目のようにめぐらされていた。
北支那・中支那・南支那派遣憲兵隊について
北支那派遣憲兵隊の起源は一九○一年に締結された義和団事件議定書にある。この議定書の結果、日本軍の華北地域の駐屯が認められたが、日本軍は天津に司令部を置いて活動を開始した。軍司令部がおかれた天津に憲兵隊司令部が設立され、北京と山海関には分遣隊が配置されていた。さらに分遣隊は塘沽、唐山におかれ、新たに山海関分遣隊の下には秦皇島分駐所が、天津には東占分遣所がそれぞれ設けられた。
一九三六年五月に軍の機構改編にともない天津軍が、従来の二・五倍の約五○○○名へと大幅に増強された。それにともない憲兵隊も従来の三○名から七○名へと増強され、名称も支那駐屯憲兵隊へと改称された。機構は天津に司令部を、天津と北京に分隊をおき、山海関に分遣隊を配し、秦皇島、昌黎、欄県、唐山、塘沽、唐占、総占、通州、豊台に分駐所を置くかたちに発展した。豊台は、慮溝橋事件発生地に近く日本軍が駐屯していた場所であった。
一九三七年七月に慮溝橋事件が勃発、日中戦争へと拡大すると、状況は一変する。一九三八年八月一日、戦線の拡大にともない北支那駐屯派遣憲兵隊司令部が北京に設置され、北京、天津、済南、青島、徐州、張家口、石家荘、太原、臨汾に憲兵隊が配置され た(のちに開封憲兵隊新設)。華北も満洲国同様、占領地各地に憲兵分隊・分遣隊が置 かれた。三七年一二月、東京で結成された中支那派遣憲兵隊は同月末には上海に上陸し、 中支那方面軍司令官の隷下に入った。この指揮下で中支那派遣憲兵隊の編成が行われ、 三八年一月上海、南京、蘇州、杭州に憲兵隊が配置された。当初憲兵司令部は上海に設 置されたが、二二八年末には南京へ移転した。華中でも占領地の拡大にともなって憲兵隊が設置され、敗戦までに蘇北、漢口、九江に憲兵隊が増設された。
一九四四年四月と六月に甲憲兵隊、乙憲兵隊が相次いで召集され、湘桂作戦に従事した。湘桂作戦の終了後、甲憲兵隊は長沙、衝陽などに憲兵分隊・分遣隊を、乙憲兵隊は柳州、桂林などに派遣隊をそれぞれ新設した。
南支那派遣憲兵隊は、一九三八年一○月に広東を占領した第二一軍配属憲兵隊がその起源である。広東占領後、第二一野戦憲兵隊は広東市内に憲兵隊本部を設置、黄捕・香山・江門に直轄派遣隊を配置した。三九年二月に海南島侵攻作戦が開始されると憲兵はこれに従軍し、海口・〇山に分駐所を設置した(一九四三年六月撤収)。その後、敗戦までの間に中央、河南、仏山、中門、梧州、韶関、汕頭、龍眼洞、恵州の各地に憲兵隊が配置された。これとは別に香港には総督部の指揮下にある香港憲兵隊があり、香港島地区、九竜地区、上水地区に各隊を派遣していた。
憲兵の業務内容
憲兵の業務内容は、軍令と軍政に大きく二分される。軍令は作戦地での任務で軍司令官の隷下に属する。関東憲兵隊は軍令に基づき活動した。軍政は日本国内での任務で、その内容は軍事司法警察活動と軍事行政警察活動に大別された。
関東憲兵隊の任務は、次にあげる八つに分類できた。
一つは、軍事警察で、軍人・軍属への警察任務、二つは行政・保安・司法警察で行政執行業務、保安警察業務、軍事関連司法警察業務がある。三つめは軍事高等警察で通常の軍事警察業務のほかに反軍反戦活動に象徴される思想活動の予防・防止で、四つめは外事防諜・謀略警防である。外国公館員への警察活動や防衛的な防諜(自体防諜)と対外的な防諜(積極防諜)がその中に含まれる。しかし自体防諜と積極防諜をめぐっては謀報機関の間で混乱・対立が生じたので、対外防諜は、特務機関が一元的に扱うこととなった。五つめは軍需監察で、生産の遅滞の防止やサボタージュの防止、軍事生産施設の生産推進、鉄道警察業務などである。六つめは対満戦時特別対策で、建国理念の浸透、民族協和の推進、国民党・中共対策であった。七つめは軍機保護法、軍需工業動員法の発動にかかわる戦時特別法の施行と運用であった。そして八つめが日満一体を実現するための満洲国関連法規の運用と監察であった。 憲兵の業務は多岐にわたっていた。単に軍事警察としての機能にとどまらず、国家安寧のためという日的をフルに活用して庶民の日常生活の隅々に監視の日を張り巡らしていたことがわかろう。
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「検閲された手紙が語る満洲国の実態」には、元憲兵の証言なども収められているが、比較的、簡単に入手できる本として、「聞き書き:ある憲兵の記録 朝日新聞山形支局 朝日新聞社(1991)」がある。というか、憲兵制度の概観と同じく、憲兵の証言も同様に、まとまった本はほとんどない。
チチハルなどで憲兵として勤務した土屋芳雄氏の朝日新聞山形支局の記者による聞き書きで、満州は日本の傀儡国家であるとはいえ、「戦地」ではない。にもかかわらず、憲兵の「特高」業務の凄惨さは、読んでいて、「戦地」であるかのような錯覚を受ける。土屋氏が撫順の戦犯管理所にいたので、事実とは認めがたいと言う人は多いだろうし、実際にそういうケチをつける人間はゴマンといるわけだが、おそらくは完全な事実である。戦後、元憲兵は強力な結束力で、ほとんど、その体験を外にもらさなかったが、土屋氏は撫順にいたがゆえに、数すくない例外足りえたと言うことだろう。土屋氏が特に「犯罪的」な仕事に従事していたと言うわけではない。もともと、旧満州の憲兵たちの「仕事」自体が、このようなものだったということだ。
慰安所関連で言えば、チチハルの繁華街「永安里」の中の軍慰安所のことが書かれている。軍医の検診に立ち会ったと書いているので、確実に慰安所である。他にチチハルには、郊外に大きな慰安所の存在が確認されているが、他の証言とも照らし合わせると、これは、街中にあった下士官、将校用の慰安所のことだろう。本の中では、旧満州の耳慣れない地名が頻出するので、読みにくいと思われるかもしれないが、他の兵士の証言と合わせると、ほとんどの場所に慰安所があることから、憲兵業務と慰安所制度の関わりがうかがい知れる。
しかし、アマゾンレビューがあてにならないのには、改めて呆れる。ウィキペディアと似たようなもんだな。

