引っ越しました。5秒後に自動的に遷移しますが、ナニも起こらない時は、ここをクリックして下さい。

 

秦郁彦氏による関特演時の「慰安婦」動員の証明

ここでは、秦郁彦氏の、関特演時の「慰安婦」動員についての各論考を引用した。1992年の「従軍慰安婦たちの春秋」では、ほとんど、千田夏光の「従軍慰安婦」の内容の引き写しで、いわゆる「官斡旋」による慰安婦「調達」例として語られているのだが、1999年の「慰安婦と戦場の性」では、「総督府の紹介で売春業者のボスに話をつけた村上曹長は、関特演の中止で展開部隊の越冬準備が始まった秋に、続々と楼主につれられて到着した朝鮮人慰安婦たちを新京駅頭に迎え、配置先を割り振った。」という記述になっている。秦氏の盟友と言うべき西岡力氏が要約するように、「関特演を機に満州でも軍専用の慰安所が開設されたが、朝鮮から楼主に連れられて朝鮮人慰安婦がやってきたのであって、権力による強制連行ではない」と変わったのである。

最低でも3000人の朝鮮からの「慰安婦」女性の一挙「調達」が、まともな方法で可能だとはとても思えない。これについては、別の項目で改めてシツコク論じるつもりだが、秦氏が関特演時の「慰安婦」動員が、どのような方法でなされたと考えているかというのは、とりあえずどうでもいい。この「新説」が、検証に耐えられるようなものであるかどうかは、全く別問題だからだ。 

秦氏が「証拠」として引用しているのは、関東軍兵士、憲兵の証言の三例だが、これだけでも十分だろう。海原治氏など、よくテレビにも出ていた有名人である。ここでは、秦氏ですら、関特演時の「慰安婦」大量動員の事実を、肯定しているということを確認してもらえればいいと思う。

-------------------------------------------------------------

第41章 従軍慰安婦たちの春秋

・・・・・・・その後も軍服まがいの服装に軍刀をぶらさげて「軍命令」をちらつかせたり、「いずれ女子挺身隊で徴用されるぐらいなら」と言葉巧みに持ちかける業者や周旋人が横行した。ところが、1941年夏の関特演あたりから朝鮮半島で官斡旋 の募集方式が導入されたようだ。
関特演は対ソ戦の発動に備え演習の名目で在満兵力を一挙に40万から70万へ増強する緊急動員だったが、島田俊彦『関東軍』の記述や千田夏光が主務者の関東軍後方参謀原善四郎元中佐からヒヤリングしたところでは、約2万人の慰安婦が必要と算定した原が朝鮮総督婦に飛来して、募集 を依頼した(千田『従軍慰安婦 正編』) 
結果的には娼婦をふくめ8千人しか集まらなかったが、これだけの数を短期間に調達するのは在来方式では無理だったから、道知事→群守→面長(村長) のルートで割り当てを下におろしたという 。
実際に人選する面長と派出所の巡査は、農村社会では絶対に近い発言力を持っていたので「娘達は一抹の不安を抱きながらも ”面長や巡査が言うことであるから間違いないだろう”と働く覚悟を決めて」応募した。実情はまさに「半ば勧誘し、半ば強制」(金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』)になったと思われる。(P334~335)

出典:『昭和史の謎を追う(下)』秦郁彦著 (1993)

-------------------------------------------------------------

 この関特演がらみで、多数の朝鮮人慰安婦も動員されたというエピソードが伝わっているが、その真偽をめぐって論争があるので、概略を観察しておきたい。初出の情報源は次の二つである。
「原善四郎参謀が兵隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行機で朝鮮に出かけ、約一万(予定は二万)の朝鮮女性をかき集めて北満の広野に送り、施設を特設して営業させた、という一幕もあった」(島田俊彦『関東軍』、中公新書、一九六五年、一 七六ページ)
「関特演のとき兵站担当をやっていました。はっきり憶えていないが、朝鮮総督府総務局に行き依頼したように思います。それ以後のことは知りません。・・・だが各道に依頼し、各道は各郡へ、各郡は各面にと流していったのではないですか・・・一部に二万人と言われたが、実際に集まったのは八千人ぐらい」(原の千田夏光への談話、千田『従軍慰安婦』正篇、三一新書、一九七八年)
島田、千田の両方とも、出所は元関東軍第一課兵站班 (班長今岡豊中佐)の原少佐である点は共通している。そ して総督府が行政機構を通じて最末端の面(内地の村に相当)まで割り当てたらしいことから、慰安婦の「官幹旋」ではないか、との推測を生んだ。
しかし、名のりでた百数十人の元慰安婦たちから、この件に該当する申告が出ていないことから、疑問が出た(4)。
また人数についても、兵士の新規増員は三十五万人だから、計画の慰安婦二万人は多すぎる、既に満州で稼業していた女性をふくめた数字ではないか、とも臆測された。それにしても新規増員の女性は何人ぐらいだったのか。
この点について、原参謀の助手役で「命令伝達・通達・配置指示及業者との接触等事務処理」を担当した村上貞夫曹長(のち中尉)は「記憶では三〇〇〇人ぐらいだったと思う。配置表は兵站班事務室の小生のロッカーに 秘扱いで保管していたが終戦と共に処分したことと思う」と手記(一九七五年執筆)で回想している。(P97-P98,99は図表)
総督府の紹介で売春業者のボスに話をつけた村上曹長は、関特演の中止で展開部隊の越冬準備が始まった秋に、続々と楼主につれられて到着した朝鮮人慰安婦たちを新京駅頭に迎え、配置先を割り振った。表2-7 (第二章の「朝鮮における公娼関係統計」)を見ると、総督府管轄下の公娼数は一九四〇年末の九五八〇人から四二年末には七九四二人へ一七%も激減しているから、その多くは満州へ向ったのではあるまいか。
 さて、これら慰安婦たちを国境地帯の駅で目撃した出先の憲兵たちのなかに、関特演を機に満洲も軍専用の慰安所が誕生したと記憶する人が少なくない。その一人である本原政雄憲兵(虎頭憲兵分遣隊)は、十月頃だったか「軍特殊慰安所開設ニ関スル件通達」と題した関東軍司令部の公文書が来て、隊の話題になったと記憶する。
 主旨は、近く慰安所を開設するので、駐屯地司令部は 建設資材等の便宜供与をされたいというもので、それから間もなく、業者が書類をもって出頭、虎頭陣地の近くに五、六人を置く、「軍特殊慰安所」が開業した。
 虎頭から遠くない虎林には第十一師団司令部があり、 関特演で四万の兵力が一挙に十万へ膨張したが、秋に入った頃、師団の経理部に着任したばかりの海原治主計少尉が「虎林に四か所の慰安所を開設」と知らせる会報を見て、部下に「慰安所とは何だ」と聞きピー屋のことであります」「現に民間のピー屋が四、五軒あるじゃな いか」と問答した。そのうち巡察する番がまわり、行ってみると、アンペラ一枚で仕切った粗末な部屋が十余あり、兵が並んでいた。民間のピー屋が日本人主体なのに、こちらは朝鮮人 が主だったという。軍医の話では「初検診でバージンや小学校の先生もいたので聞くと、女街から軍の酒保でサービスするとだまされてきたよし。帰ったらとすすめた 前借金があるので還してからでないと帰れないと語った」とのことだった。
 同じ時期に密山で、関東軍から配分された朝鮮人慰安婦を迎えた森分義臣憲兵は、県長や市の有志と合議して空き家を改造、二十数人を収容したという。森分は大要次のように書いている。
 一週間に一度、県公医と部隊の軍医が検診するのに 立ち会った。病気とわかると娼婦の部屋の入口に休業の赤札を掲示させ、守っているかどうかを臨検するのは憲兵の仕事・・・・・・娼婦になった動機を尋ねたら「家計を助けるために前借してきた」というのが殆どで、残りは「お金が儲かると友達に誘われたから」というものであった。 借金返済の終った者もいて、豪華な毛皮のコートを持っていた者、せっせと親許へと送金している者もいた。
 こうして、国境地帯を中心に軍専用の慰安所はふえていき、新京や奉天のような大都市にも開設されるようになるが、他地域と異なり、在留邦人の数が軍人より圧倒的に多かった事情もあってか、在来型である軍民共用の 遊里が主力であったことに変りはない。ただし太平洋戦争が始まり、関東軍の兵力転用で顧客が減ると、業者のなかには女をひきつれて中国などへ出稼ぎに行く例も少なくなかったようである。(P100)

出典:慰安婦と戦場の性/秦郁彦 新潮社(1999)

-------------------------------------------------------------

【千田】では、実際には何人を集めたのか。「関東軍」(65年、島田俊彦著)では「一万人」とされているんですが、私が大阪に住んでいた原元参謀を探し当てて確かめたところ、「いや八千人」だったと言う。その数字を本で書いたら、原参謀の補助者で慰安婦集めの実務をやったという人から「じつは三千人しか集められなかった」と手紙が届いた。説明の緻密さから見て、この証言が正しいと思っていますが。それほど数字を確かめるのは難しいということです。
【秦】「三千」という数字は他の証言と合わせて検討してみると妥当なところだろうと私も思います。

出典:「歴史論争を総括する」秦郁彦教授・千田夏光氏の対談「論座」朝日新聞社 (1999/9)

-------------------------------------------------------------

なお秦郁彦は前掲著書「慰安婦と戦場の性」の中で、原参謀の助手役であったという村上貞夫曹長の1975年手記や元憲兵らの証言をもとに、関特演を機に満州でも軍専用の慰安所が開設されたが、朝鮮から楼主に連れられて朝鮮人慰安婦がやってきたのであって、権力による強制連行ではないと見ている。(P84)

出典:よくわかる慰安婦問題/西岡力 草思社 ( 2007)