関特演に伴う朝鮮人慰安婦大量調達の話
「何年か前にソウル新聞に短い記事だったけれど、そのことを書いたことがあるのです。参考のため読んでみますか」
と言われるのだった。ソウル新聞から取り寄せたその新聞記事を、朝鮮語を読めない私のため訳しても下さるのであった。初めに紹介した”奸悪な日帝はこの土地から引っ張った挺身隊の記録を敗戦がきまると全部焼いてしまい正確な被害資料を残さなかった”とある新聞記事はその時のものであった。それは、韓国のペテラン記者たちが足を棒にして取材してまわった結果がこれだけだから、探されているものは韓国にもないのですよ、という間接的表現でもあった。やはり体験者、目撃者の体験談や日撃談を組みたてていくしかないのであった。
ところが、そこで知ったのは、この国で慰安婦にされた女性のことは挺身隊とよばれ、その体験者たちは、いずれも牡職のように日が固いのであった。何人かをやっと探し出してもなかなか語ってくれないのであった。そしてその何人目かに会い終ったとき知ったのは、彼女らがそれを極めて恥にしていること、日を閉じ語りたがらぬのは、その恥辱感のためであるということだった。恥辱、言われてみればその通りであ
った。誰が慰安婦にさせられた過去の傷痕をとくとくと語る者がいようか。韓汶洙さん。 女性。五十四歳。
「私自身は行かなかったが、昭和十五年春だったと思う。貧しい農村であった故郷に日本人の背の低い男
の人が来て、金になる仕事がある。仕事の内容は楽で食事も与えられると言って家々を回った。当時は
各村に必ず日本人警官が駐在所を開いていたが、その警官や面長(村長)を同道していたので間違いないと思ったのでしょう。生活の苦しい農家から何人かの娘が応募しました。応募は未婚の若い女性に限られていました。日本内地の紡績工場や軍の被服工廠などに行った者がいたので、そうした仕事だと思って応募した者は出ていった。これがはじまりでした」
京城で紹介された一人だった。「組織的に、また強制的に集めに来たのではなかったのですか。私はそのように聞いていたのですが」
「昭和十四年から十五年ごろまではそんなことはありませんでした」
彼女も牡職のように口の固い一人であったが、二度めにたずねたとき無表情な顔でそう語っていった。しいて無表情をつくろっているような顔でもあった。ソウルの市場の清掃人夫の妻であると言っていた。
「すると組織的また強制的になったのは、昭和十五年以降ということですか」
「私の故郷ではそうでした」
忠清北道というのは韓国の中央部にある農村地帯だ。彼女によると昭和十二年暮れから昭和十四、五年ごろまではとにかく、警官や村長をつれては来たが強制ではなく、それは詐術的手段としてのものであったらしい。昭和初年の東北地方で東京の女衒が農民をたぶらかし、娘を連れて行ったのと同様な手口であったらしい。したがって、村の駐在警官は主役でなく、軍御用女衒の圧力機関とし、サーベルを鳴らしついて行っただけであったようだ。全羅南道の出身で、昭和十三、四年ごろ釜山の日本人料理屋で働いていた、という柳慧林さんも同じような事を語っていた。五十六歳、仁川の雑貨商の妻である。それにしても、当時の警官の権威は大変なもので、
或る意味では生殺与奪の権をすら持っていた。戦争がすすみ、自い朝鮮服が総督府命で禁止されたとき、それでも知らず着ている農村の老爺老婆に、インキをかけて歩いた警官の話も伝わっているし、朝鮮農民は道で通りすがるとき、往年の代官に対する農民のごとく、警官に土下座せんばかりにおじぎをするのが普通で
あったという。軍御用女衒が彼らを同伴して現われたとき、勧誘に否と素直に言えないのが普通でないだろうか。
ところでソウルでも高名なAホテルの営業課長をつとめる高泳煥氏も、韓汶洙さんと柳慧林さんの話を肯定していた。戦争中からそうした事を見つめて来た一人である。
「昭和十二年から十四年ごろまでは、軍の息のかかった女街がプサン(釜山)マサン(馬山)あたりの飲屋とか街で、適当に声をかけ半分騙して連れていったようです。いや、そう聞いています。そのほか韓汶洙さんの故郷の例もあったのでしょう。また日本内地に渡ったものの、まともな仕事を与えられないで困っている朝鮮人子女を騙して連れていった例も聞いています。あのころは、こちらで土地を失い日本へ渡ったが、
仕事は土方やパタ屋くらいだったから、その人たちの娘もみな困っていたのです。日本人の家へ女中か子守に雇われるのは大変な出世でした。その人たちの娘を騙して連れていくだけで間に合っていたのでしょう。
日中戦争初期のころの慰安婦は、日本内地か韓国の南から集められていたそうです。組織的に全半島から動員されたのはそれ以降です。一九四三年(昭和十八年)からは大変なことになりました」
ここで高泳煥氏の言う昭和十八年以降のことはさておくとして、日中戦争初期の段階では確かにその程度で必要量を満たすことができたのだろう。当時の朝鮮半島の住民は三千万人、たしかにそれも可能だったか
も知れない。
それなら昭和十八年まで大量の慰安婦動員はなかったのか。いやあった。大量動員の前に、中量動員ともいえる事件があったのである。それもそれ以前の女衒まかせではなく、国家権力をバックにした組織的な動きである。それは前に書いた”関特演”のときになるようだ。若い未婚女性としたのは、道徳律の厳しい朝鮮の未婚女性には性病の心配がなかったこと、既婚女性をひっばれば、反日意識の火に油を注ぐような
結果になるとの判断からだったのだろう。
では関特演の時どのような手段がとられたのか。原善四郎氏は、朝鮮総督府総務局へその徴募を依頼し、総督府は道、、面とそれをおろし、最終的に面長の責任で集めたと語っていたが、数日の徒労の後やっとソウルで或る人物に会えた。名前は絶対に出さない約束である。彼の父親は某道某郡某面の面長を当時やっており、そのため日本の敗戦で日本統治から解放されたとき、面(村)を棄てざるを得なくなり、やがて離散した一家の一員であることを深く彼は恥じているのであった。彼もまた過去を語りたがらぬ朝鮮人の一人であった。
「軍から、いや朝鮮総督府から命令があったのは何年何月ごろだったのです」
「私はまだ少年だったから、はっきりした年月は憶えていませんでしたが、大東亜戦争のはじまった年ですから、日本の昭和十六年、その五月か六月ごろだったと思います。田の草とりがはじまった時期です。親が或る日のこと頭をかかえていたのです。駐在所の警官がたずねて来た直後です」
「若い女性を集めろと言われたのですね」
「そうです」
「慰安婦にするためと言って来ていたのですか」
「そこまでは知りません。それに慰安婦という言葉は韓国にはありませんでした。確か軍隊で兵隊さんの世話とか後方で洗濯をする、などの仕事をさせるための女性と言われたようです。でも、それだけ聞くと何のための女かは誰でもわかるでしょう。だから父は同じ同胞として悩んだのだと思います。しかし拒むことは許されせん。断わったり拒んだりしたら自分が刑務所に入れられるだろうし、家族もまた酷い目にあわされるのも分かっていました」
「それでお父さんはどうされました」
「日本内地でいい仕事がある、どうだ娘さんをやらないか。娘さんから仕送りして貰えるだろう、そんな
ことを言って勧誘して歩いたようです」
「村中の家をですか」
「いえ、それは・・・・・・」
「つまり貧しい家、子沢山で生活の苦しい家ですね」
「ま、そういうことです」
それは関特演のときだと思われます。そのとき何人くらい集めろと言われたのでしょうか」
「私の故郷では四人か五人だったと思います。集まったのは二人だったと聞きました。これは解放後(昭和二十年八月十五日以後)になって聞いたのですが、この時は全半島的に命令を出したのではなく南部、つまり今の韓国に集中していたそうです。はっきりしたことは分かりませんが」
「女らが出かけて行くときの様子は如何でしたか。母親が涙で見送るなどの光景があったのでしょう」
「泣いて見送る光景は確かにありましたが、それは就職のため故郷を離れる者を見送るときのあれで、深刻なものはなかったように記憶しています。慰安婦にされるとは、見送る方も見送られる方も知らなかった訳ですから当然でしょう。ところが何カ月すぎても音信がない、何処へ行ったかも分からない。私の父親の所へ、何処へ行ったか尋ねに来る人もいましたが、その時も父は苦しそうでした」
そこには悪代官に責められる庄屋といった封建時代の姿がある。彼はこんな風に当時の朝鮮にあった警官の姿を説明していた。それは金属供出のはじまったころのことである。
「朝鮮人は昔から金属の食器を農家でも使っていました。真鑑製の物です。ところが戦争がはじまると、
真輸は砲金として無くてはならぬ金属になりました。その食器の供出を総督府の命令で警官が伝えに来たの
です。総督府からの命令はすべて駐在警官が伝え、執行していましたが、先祖代々の食器をそうやすやすと
供出できないのが人情でしょう。棚の奥などに誰もが隠してしまいました。集まらないのです。これに業を煮やした警官は、土足でずかずか家の中へ入って来て、棚や床下をひっかきまわし持ち去っていくのです。
抵抗の姿勢でも示そうものなら留置場が待っています。酷い悲しい時代でした。父は弱かったと言えば言え
ます。でも当時の朝鮮人に何ができたのでしょう。解放後に故郷を棄てざるを得なくなりましたが、私は父は運が悪かったのだと思っています。あの時期に面長をやらされたのが悲運だったと思っています」
語りながら彼は泣いた。だが、ここでも一番泣いたのは高泳煥氏によれば八千人という女性たちのはずで
あった。彼の村から出た二人は日本人の言う敗戦後、朝鮮人の言う解放後になっても帰って来なかったという。それにしても彼の父親のような立場にあり苦しんだ面長は多かったのだろう。
出典:従軍慰安婦/千田夏光(初版は双葉社:1973年、引用文は三一書房版:1978年)(P108〜113)