もちろん、これは「昭和史の謎」のもじりで、秦郁彦氏が1975年に書かれた村上元曹長の手記という、存在の明らかでない文章をもとに、関特演の時の「慰安婦」調達を論じていることへの皮肉である。村上貞夫氏の書いた文章で、公になっているのは、以下に引用した、千田夏光宛の手紙だけであるからだ。
村上氏の手紙の中で重要と思われるのは、「調達」した「慰安婦」の実際の人数だけではない。例えばこの箇所「慰安婦業者は日本人でしたが若干朝鮮人が含まれて居りました。その業者は日本軍師団連隊の出身の兵、下士官除隊者で、その顔と軍下附の御用商人の木札を所持して軍用輸送船、軍用列車、軍用車両そして軍用の食糧を受けて軍の移動先を転々と女を連れて前線まで行く事が出来た訳です」。明確に旧満州の慰安所の楼主の主体が、元軍人で日本人であったことが記されている。
ところが、秦氏の「慰安婦と戦場の性」では、村上元曹長の手記(1975)を典拠として、こう記述されている。
「総督府の紹介で売春業者のボスに話をつけた村上曹長は、関特演の中止で展開部隊の越冬準備が始まった秋に、続々と楼主につれられて到着した朝鮮人慰安婦たちを新京駅頭に迎え、配置先を割り振った。」
「新京駅駅頭に迎え」とか言う具体的な話はもしかしたら、「手記」に書いているのかもしれないが(笑)、千田宛の手紙の内容を考慮すると、こう文章を修正しなければならない。
「総督府の紹介で売春業者のボスに話をつけた村上曹長は、関特演の中止で展開部隊の越冬準備が始まった秋に、続々と元軍人の楼主につれられて到着した朝鮮人慰安婦たちを新京駅頭に迎え、配置先を割り振った。」
1975年と言えば、秦氏が慰安婦問題に言及すらしていない頃だから、村上元曹長から手紙が届くこともあり得ないだろう。1999年の千田との対談でも、村上元曹長の千田宛の手紙の話が話題になっているが、「手記」の話は出てこない。秦氏が、誰も知らない「村上元曹長」の手記の存在を知っているとしたら、すぐに公開して欲しいものだ。
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益々ご清栄の事とお喜び申し上げます。
さて、先生の著書「従軍慰安婦」拝読いたしました。
小生、昭和十四年から十七年まで関東軍参謀部第三課兵站班に勤務し、仙台陸軍予備士官学校教官中尉で復員いたしました。
関東軍司令部勤務中、「ノモンハン事変」「関特演」「大東亜戦開戦」と多忙の時期で、磯谷伍郎大佐(後中将大本営第三部長)が高級参謀、直属参謀は原善四郎参謀でした。 文中の関東軍従軍慰安婦の件は原参謀大綱企画をし、命令伝達通達配置指示及業者との接触等事務処理は小生がいたしました。当初日本人慰安婦を集める予定でしたが、何分当時支那事変の最中で多くの日本人慰安婦は支那大陸に渡り、その不足分を朝鮮人慰安婦を集めた訳で、原参謀は七、〇〇〇人と申して居られますが、小生の記憶では三、〇〇〇人位だったと思います。
当時配置表が兵站班事務室の小生のロッカーにマル秘扱いで保管して居りましたが、終戦と共に処分した事と思います。
小生は終戦後復員業務の為、厚生省復員事務官として引揚船にてコロ島まで十数回往復し、復員者、引揚者の指導調査にあたりました。
満州各地で邦人難民が集結移動中ソ連兵の女の供出強要、女探しに困惑した時その任を買って出たのが日本人の慰安婦だったそうです。その犠牲の為多くの一般邦人の婦女が助かり、引揚団長は金品を贈りその労を感謝したと語っていました。
慰安婦業者は日本人でしたが若干朝鮮人が含まれて居りました。
その業者は日本軍師団連隊の出身の兵、下士官除隊者で、その顔と軍下附の御用商人の木札を所持して軍用輸送船、軍用列車、軍用車両そして軍用の食糧を受けて軍の移動先を転々と女を連れて前線まで行く事が出来た訳です。
慰安婦業者の集団は、一〇名から十五名くらいでしたが、内には二〇名近い女を連れた業者もおりました。その慰安婦が就業中、妊娠、出産する者も居り、その為、子連の慰安婦も居たと聞いております。
慰安婦は軍の必需品で、各国共必要性を認めているようです。
慰安婦の犠牲に依り、日本兵が違反、現住民の被害を少しでも防ぐことが出来たと思います。
読後感としてこの便り差上げます。
向寒の折ご健康の程祈りあげます。
一月十ニ日
村上貞夫
千田夏光様
注)1980年に村上が千田宛に送ったとされる書簡の全文である。出典にある本の原文より文字起こしをおこなった。
出典:
「慰安婦」・戦時性暴力の実態〈1〉日本・台湾・朝鮮編 (日本軍性奴隷制を裁く―2000年女性国際戦犯法廷の記録)/緑風出版
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実は、この手紙には、「昭和十四年から十七年まで関東軍参謀部第三課兵站班に勤務し」といったツジツマの合わない部分がある。上司として「磯谷伍郎大佐(後中将大本営第三部長)が高級参謀」がいたなど、「高級参謀」は、通常は参謀第一課の課長である作戦主任参謀に対し使われ、張作霖爆死事件の河本大作大佐など、有名人がウヨウヨいる謀略の震源の地位であるから、これもマチガイである。
だが、ツジツマが合わないイコール信用できないと言うことでもない。
磯谷(正しくは磯矢)伍郎氏は、関特演の前の参謀第三課の課長(兵站(後方)担当参謀)であるが、どうやら組織改編で、関特演の前に兵站担当は、一課に統合された(三課は教育担当になる)ようなのである。当然、実務を担当する下士官は、改編に伴って一課に移動したことが考えられる。
「昭和十四年から十七年まで関東軍参謀部第三課兵站班に勤務し」とあるが、昭和17年には、第三課には兵站班は存在しないだろうから、確実に、煩雑な組織改編や人事異動の事情を端折ってはいるわけだ。千田が「間違えて」三課と書いたことに合わせたのかもしれない。
この手紙については、当然、村上曹長が実在の人物であったと言う証拠がない以上、信頼ある証言とはなり得ない。表面上、これだけの「事実誤認」があるのだから、「幸福の科学」の信者の方でなくても、「信用できない」と言うことになるかもしれない。誰かが偽名もしくは名前を騙って、イタズラで送った可能性があるのはもちろん、極端な話、現状では、千田が「捏造」したと言う話も、出てくるだろう。
だが、原氏の所属が参謀一課だったとか三課だ、と言った加藤正夫氏の指摘を検討していくうちに、「つじつまが合わない」部分は、逆に信頼のおけることを証明する箇所なのではないかと思うようになってきた。
例えば、原氏は千田と面会した際に、以下のように語っている。「慰安婦のことですな。たまたま関特演のとき兵站担当をやっていました。そう、 通称で後方参謀と呼ばれる参謀です。関東軍司令部参謀第三課に属していました。 よく憶えていないのですよ。いろいろ今になって言われますけど」。千田は別の本で、原氏のことを、兵站担当の参謀としては、とびきり優秀な人と書いていたので、兵站一筋かなと思っていたが、どうやら、「たまたまやっていた」と言うことらしい。つまり、関特演以前は、参謀一課で他の作戦業務を担当していたと言うことだ。実務を補佐する下士官の存在は必須だ。
実は、関東軍参謀の人事など、今ではネットで簡単に参照できるが(課長クラスの話ではあるが)、手紙が送られた時には、調べるのに、相当に手間がかかったはずである。当時の関東軍に詳しい人間が、名前を騙って(もしくは偽名を使って)イタズラの手紙を書くとも考えにくい。村上氏が当時、一課の兵站担当であることが確認できれば、まず確実に書かれている内容は事実だろう。当時の下士官の人事を確認するのは、無理だろうから、関東軍に属しているということだけでも確認できれば十分かなとも思う。
これは逆説のような話になるが、手紙が実際に参謀一課にいた、村上元曹長のものだとして、今のところ、決定的な証言になると考えているわけではない。と言うのは、実際には村上元曹長以外の実務担当者がいた、または、3000人が集まった後、その不足分を補うために、再度の動員が企てられた可能性があるからだ。3000人と言う数字を、秦氏は「妥当」と肯定的にとらえているが、あくまでも、彼の考える兵士と「慰安婦」の比率から導き出された「感想」に過ぎない。軍が計画数に大幅に満たない員数不足をヨシとするとは考えにくい。原氏の証言通り、8000人の可能性もあるし、その後の大動員の可能性ももちろんある。
だから、証言としては、今のところ、他の元関東軍兵士の証言と、同一の扱いが妥当だと思う。だが、この証言の傍証となる事実が、今後、現れてくる可能性は高い。その時は、決定的な動かぬ証拠となるだろう。
この手紙の転載許可を、千田から受けたのは金富子氏で、千田から事情を聴いているはずである。私は千田に送られた年は1980年ではなく、1975年ではなかったかと思っているのだが、そのあたりを含めて、詳細を実際に聞いてみようと思っています。といっても、私は金さんとは面識がないので、WAMさんなどに仲介をお願いするかもしれません。その時はよろしくお願いしますって、その前にWAMさんにここを読んでもらえるように頑張らねば。
秦氏が「村上曹長の手記」の詳細を語るというのは、今のところあり得ないと思うのでね。おそらく、こちらは「平成史の謎」として残るだろう。って、どうでもいいか(笑)。
【追記】2016.02.06
原善四郎氏が昭和14年当時、第三課に所属していたことを示す文書が残されていることが分かった。詳細は、なぜ加藤正夫=西岡力氏は、原善四郎氏が関東軍第三課に在籍していた事実を隠した論文を書いたのかを、参照されたい。原氏の上司として名前が記載されているのは、磯谷伍郎大佐である。つまり、村上元曹長の証言は、人事に関する限り、ほとんどオカシなところがないと言って問題ないということだ。
手紙には、「昭和十四年から十七年まで関東軍参謀部第三課兵站班に勤務し」とあるが、昭和十四年に第三課の原氏の元で兵站業務に従事し、その後の組織改編で、一課に原氏とともに異動した。クダクダと異動の経緯を書く必要はないと村上氏が判断したのだろう。
また、原氏が第三課に属していたことを指摘して下さった方からは、合わせて、三課であっても、長が「高級参謀」と呼ばれていた例があるという事実も指摘頂いた。あっという間に、ツジツマは合ってしまったワケである。