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中川八洋氏による「関特演時の慰安婦動員」は大ウソと言う主張に反駁する

つもりだっったんだけど、他にやることもあるし、バカバカしいので、後回し。とりあえず下の2つの例で十分だろう。

昭和16年(1941年)の七月から八月にかけ、土屋がいたチチハルにも、関東軍特別演習(関特演)で倍増された兵が続々と詰めかけた。誇張していえば、野も山も街も、日本兵であふれるほどだった。(聞き書き ある憲兵の記録 朝日文庫 P143)

このハイラルでは昭和十五年頃は満人、ロシア人、日本人の女性によるピーヤ(女郎屋)が若干あっただけでしたが、昭和十六年関東軍特別演習で満州に相当多くの日本軍が集結した頃、いつの間にか半島出身女性の十五人ぐらいのピーヤが七ヶ所も出来たのには驚きました。(勝又正彦ハイラル第八国境守備隊司令部付曹長の証言/正論(2014年12月号)

第十章 「従軍慰安婦強制連行」という嘘 -「戦場公娼」制か、無制限「強姦」か

四、「第二の吉田清治」-千田夏光

 従軍慰安婦をめぐる「歴史の偽造」で吉田清治に勝るとも劣らぬもう一人の人物がいる。千田夏光である。その著『従軍慰安婦』の精緻な虚構は吉田に勝る。
 歴史を捏造していく手並みのほんの一例として、その「第四章 痛哭! “挺身隊”」の一部をとりあげる。千田夏光はこの創作(フィクション)を次のような書き出しから始めている。つまり、1972年頃?にインタビューしたと言うのだ。
 「“関特演”・・・・・・の動員の中に“慰安婦”の動員も含まれていた。関東軍の後方担当参謀原善四郎少佐(のち中佐)という人物がいたが、作戦部隊の兵隊の欲求度や所持金に女性の肉体的能力を計算したすえ、“必要慰安婦の数は2万人”とはじき出し、飛行機で朝鮮へ調達に出かけている」
 「原善四郎氏は大阪市の南に隠栖されていた。・・・・・・私はそこからお尋ねすることにした」
そして、原善四郎は、次のように「回答」したのだという。
 「朝鮮総督府総務局に行き依頼した」
 「実際に集まったのは8千人ぐらいだった」
 「(最初は断った師団長も)2ヶ月とたたぬうち、やはり“配属してくれ”と泣きついて来た」
 このように、千田夏光のつくり話も、吉田清治のそれと似て、数字を駆使している。日本人は嘘数字に弱い。が、千田はその数字で自らつまずいている。1941年6月22日のドイツの対ソ侵攻に呼応して、ソ連のシベリアに東側から侵攻する動員準備としての「関東軍特別演習」は、7月28日にはサイゴンに入城して「南進」に戦略が定まったため、8月2日頃には、シベリア侵攻断念(陸軍統帥部の正式断念は8月9日)が陸軍中枢の意志となっていた。「関特演」はあっという間に“単なる演習”に格下げされた。
「関特演」の動員下命は、第一次が7月7日、第二次が7月16日であった。内地から動員された宇都宮の第五十一師団と弘前の第五十七師団は、この7月16日での下命であった。ところが、8月9日には正式の中止決定である。つまり、実質的には(7月16日~8月2日の)2週間の「幻の動員」にすぎなかった。この“奇襲”開戦の当初の予定日は8月29日であったことを思えば出産予定の一ヶ月前に自ら掻爬してしまった「机上の大動員」であったといえる。要するに、「関特演」は、実際には、上記の二個師団を除き、満鮮軍の平時編制を戦時編制に切り換えただけであった。ほぼすべての部隊は、満州と朝鮮の既存の部隊に限定された。「国あげての戦争準備」とは程遠く、そんなものは影も形もなかった。
 そうとはいえ、この「演習」はあくまでも開戦準備であったから、パールハーバー奇襲と同じく、機密のなかの機密であった。当然、“企図秘匿”は至上命令であった。だから、実際には「動員」の二文字すらなく、「臨時編制」の四文字に置きかえられていた。出征兵士の壮行会や歓送会は禁止された。以上が初歩的な「関特演」の史実である。これだけでも、もう十分に、千田夏光の荒唐無稽な創作の実態が明白になっただろう。
<千田の創作1>
 朝鮮からの慰安婦(売春婦)の朝鮮総督府への依頼、総督府による募集、「8千人」という慰安婦の集合、満州北部への輸送は、仮に7月7日に開始されたとしても、なんとたった1ヶ月未満の8月2日までに完了した、というのである。軍隊の動員より早く、かつ動員された軍隊よりその輸送も迅速だった、というのである。
<千田の創作2>
 朝鮮全土で公然と朝鮮人の面長(村長)と村の巡査とを叱咤しての、「8千人」という巨大募集は、完全に秘密裡に実行された。一個師団にほぼ近い、売春婦「8千人」と恐らくその置屋の関係者約1千人以上が、朝鮮から満州北部に完全に秘密裡に輸送された。
<千田の創作3>
 新規動員(補充)された将兵兵舎や馬の厩舎すらなく、テントその他でその場をしのぎ、それらの建設を応急的にやっているときに、この「8千人」と置屋関係者の建物だけは絶対優先で直ちにつくられ完備されていた。
<千田の創作4>
 従軍慰安婦「8千人」が仮に8月上旬に満州北部に到達したとすれば、その「2ヶ月後」は10月上旬である。「関特演」は8月9日に中止になっていた。それでも、ある師団長はシベリア用慰安婦が欲しいとこの10月頃に関東軍参謀部の兵站班に泣きついた。
<千田の創作5>
 「従軍置屋」の担当は憲兵部隊であるのに、関東軍では実戦部隊の兵站班が所轄した。
<千田の創作6>
 「従軍慰安婦」と共産主義者が名付けた「移動赤線」の公娼は、支那や現在の東南アジア地域への軍隊のあとについていき、つまり「従軍」して商売をする売春婦のことをいう。千田の場合は、日本軍がシベリアに侵攻したあとについていき、シベリアで「商売」したものをいう。だが、対ソ戦は開始されていない。それなのに、千田は、「8千人」の慰安婦がシベリアに「幻の日本軍」のあとについていった、朝鮮に帰って来なかった、シベリアで「幻の日ソ両軍の戦闘」に巻き込まれ全員が死んだ、という。
<千田の創作7>
 (杓子定規の縦割り行政機構の日本で)関東軍の一参謀の依頼で、朝鮮総督府総務局の官僚たちがすぐに応じて引き受けてくれた。また、総務局は「従軍慰安婦」の「募集」を所管する部局であった。
<千田の創作8>
 動員を開始した直後には、食糧や弾薬の輸送を担当する兵站部門は眠る間もない超多忙と激務になる。が、その中心的なエリート参謀が、のこのこと朝鮮に売春婦募集にいく時間的余裕がたっぷりとあった。
<千田の創作9>
 千田は次のように述べる。
 「父親(面長)がある日のこと頭をかかえていたのです。駐在所の警官がたずねて来た直後です。・・・・・・若い女性を集めろと言われたのですね」
 すなわち千田は、駐在所の警官が面長(村長)に対する命令権がある、巡査という末端の警官は村長の上司である、と主張する。しかし、面長の上司は郡守である。郡守の上司は道長官(道知事)である。一方、村の巡査は警察署長の部下である。警察署長は県(道)の警務部長の部下である。警務部長は、総督府の警務局長の命令に服する。
 千田夏光が明らかにしなければならない事項が、このほか三つある。第一は、本当に原善四郎にインタビューしたのか。インタビューの録音テープは存在するのか。第二は、「父(面長)」を語った韓国人(正編の111頁)は本当に実在するのか。第三は、これだけの虚偽創作は、個人で発案したのか、それとも背後の組織の命令によるのか。
 さて、韓国の国定教科書に次のような記述がある。
 「女性までも挺身隊という名目で引き立てられ、日本軍の慰安婦として犠牲になったりした」
「女子挺身隊」とは、女学生の勤労動員のことであり、男性工員などが戦場にいき極端な人手不足となった軍需工場などで、この男性工員の代りをしたのである。これは第二次世界大戦中、英国その他すべてのヨーロッパの交戦国およびスイスなどでも共通する制度であった。当時の朝鮮人は「日本国民」であったため、「内地」の日本人女学生と同等に勤労動員令の対象となった。慰安婦(売春婦)とは全く違う。似てもいない。つまり、上記の教科書の虚偽記述は、この千田夏光の『従軍慰安婦』第四章「痛哭! “挺身隊”」の虚構を知りつつ、それを盗用したのだろうか。もしそうならば、韓国の歴史教科書を嘘宣伝書にした、千田の罪は計り知れない。

出典:中川八洋『歴史を偽造する韓国』 徳間書店(2002)