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なぜ加藤正夫=西岡力氏は、原善四郎氏が関東軍第三課に在籍していた事実を隠した論文を書いたのか

千田夏光が原善四郎氏とのインタビューを捏造したと言うデマの出所を検証してみるでは、このデマの出所が、西岡力氏であることを検証してみた。要約すると「インタビュー捏造」の根拠は、原参謀が関特演時に、実際は関東軍第一課に属していたにも関わらず、第三課で兵站業務を担当していたと原氏が語ったと、千田が書いたと言うことだけ。実際の千田夏光の原善四郎氏のインタビューを読んで確認してほしい。原善四郎氏が、関特演当時、三課ではなく一課の所属であったことはマチガイないと思われるが、わずか一ケ所、一字の間違いである。加藤正夫氏が、このマチガイを根拠に一点突破を図り、千田が原氏にインタビューをしたことをも、ウソと決めつけようとしているのは確かだが、成功しているかどうかは全くの別問題である。千田が架空のインタビューをでっち上げ、それを自ら加藤氏に認めたと言う内容の箇所は、加藤氏の論文には全くない。それらしいのは、以下の2つの文章である。

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 以上のように千田氏が昭和十四年の”慰安婦二万人動員計画”があったと主張する唯一の根拠は、原参謀の証言なのだ。
ただし原参謀の名前を出し、語らせているが、具体的に直接に原氏がはっきり語ったようには書いてはいない。”慰安婦二万人動員計画”にしても、原参謀の口からは、はっきりと断言しているわけではなく、伝聞をまとめたような感じすらする。そこに逃げ道をつくろうとしているのかもしれない。(P54~55)

 千田夏光氏とは一九九二年二回、電話で"関特演"に際しての慰安婦婦動員計画を中心に質問したことがあるが、その時の回答で「慰安婦二万動員計画、には、私の書物(昭和四八年刊)より先の昭和四〇年に武蔵大学教授島田俊彦氏の『関東軍』(中公新書)という本がある。この本の一七六ページに慰安婦二万人動員計画が書かれており、それが私の説の根拠だ」と語っている。つまり千田氏の書物にはタネ本があったということだ。
 島田氏の『関東軍』の問題の個所には「原善四郎参謀が兵 隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行 機で朝鮮に出かけ、約一万(予定は二万)の朝鮮女性をかき 集めて北満の広野に送り、施設を特設して営業させた、とい う一幕もあった」と書かれていた。
 ただし島田氏のこの本にも、前後の書き方からみて伝聞内容を文章にした感じが強かったため、確かめたいと思って武蔵大学人文学科事務所に照会したが、明治四一年生れの島田氏はすでに故人となっていたというわけだ。千田氏の著書のもう一つの重大なポイントは原参謀が「たまたま関特演のとき兵站担当をやっていました。そう、通称で後方参謀と呼ばれる参謀です。関東軍司令部参謀第三課に属していました。でも当時のことはよく憶えていないのですよ」(一〇三ページ)といったように書いている点である。前述したように原参謀は関東軍司令部第一課参謀であるから、千田氏が実際に原参謀と会見して取材したとすれば「第三課(兵站担当)でした」という書き方にはならないということである。
 ということは千田氏が原参謀から直接取材して書いたかどうかの点で疑問ありといわねばならない。原参謀はすでに故人であるので確かめようはないわけだ。(P60)

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関特演が昭和十四年と書いてるところなどご愛敬だが、加藤氏自身が「原参謀はすでに故人であるので確かめようはないわけだ」と、はっきり書いてある。千田が電話で「捏造を認めた」のなら、それこそ加藤氏ではないが、こんな書き方になるはずがない。インタビューがはっきりと「捏造」であると言われたら、千田も対応のしようがあっただろうが、実際は以上のような曖昧な記述である。これが千田の死後、西岡力氏によって、千田が「インタビューの捏造」を加藤氏に認めたことになるのだから、スゴイ話である。





では、原氏は関東軍第三課に属していたことはなかったのだろうか。これが今回の話題である。加藤氏は時期の明記も注釈もなしに、大見出しでこう書いている。

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原参謀は第三課所属ではない(注:大見出し)

千田氏の"慰安婦二万人動員計画"には次のような問題点をあげることができる。
第一、千田氏の本では、原善四郎参謀について「関特演のとき兵站担当をやっていました。そう、通称で後方参謀と呼ばれる参謀です。関東軍司令部参謀第三課に属していました(一〇三ページ)と書かれているが、筆者が防衛研究所図書館の史料を調べたところ、原氏は昭和一四年八月一日~一六年一〇月五日の"関特演"の時には、関東軍司令部第一課參謀、一六年一〇月六日~一七年一月一一日は參謀本部兵站總監部參謀、一八年八月二日~終戦までは、閱東軍司命部第四課(対満政策・内面指導)参謀、つまり軍政面の担当であったことが判明した(「主要部隊長參謀・在職期間等調査表」「陸軍職員表其の一の二=方面軍以上の軍」)。
 そこで千田氏の著書での「原氏が関東軍第三課参謀として 関特演の際に慰安婦二万人の募集を朝鮮総督府に依頼に行った」との記述は問題となる。原参謀の経歴には関東軍司令部第三課というのはないからだ。(P55)

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ここで加藤は、 はっきりと「原参謀の経歴には関東軍司令部第三課というのはないからだ」と書いている。「原参謀は第三課所属ではない」というのは、関特演時に第三課所属ではないので、文書の流れからもセーフとしても、原善四郎氏と原参謀が同一人物なのだから、完全なマチガイである。原氏が関特演の2年前、つまり加藤氏が原氏の経歴として挙げている以前の期間、第三課に属していたことが、文書に記録されているからである。これはある方にメールでご教示頂いたのだが、まあビックリである。

国立公文書館 アジア歴史資料センター 

標題:関東軍司令部将校高等文官職員表 (昭和14年4月10日調)

閲覧するには、検索欄にC13070956100と入力するだけである。原氏は1939年(昭和14年)当時、第三課付の大尉であったことが分かる。原善四郎氏は、第三課に属していたことがあったのだ。しかも、原氏の上司は、驚くべきことに、村上元曹長の手記で、村上氏の上司として言及されている、磯矢伍郎大佐である。

もう一度、整理してみよう。加藤氏がわざわざ防衛研究所の史料によって調べた原氏の経歴は赤字、加藤氏が紹介した以前の原氏の経歴を補足したのが、青字の部分である。ちなみに、一課で関特演時に原氏の上司であったとされる今岡豊氏が、第一課で兵站担当の参謀であったのは、1939(昭和14)年12月1日~1943(昭和18)年8月2日までである(加藤論文による)。

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1928(昭和3)年 陸軍士官学校卒業(40期)、任官
1938(昭和13)年 陸軍大学校卒業(50期)
1939(昭和14)年(4月10日調べ)関東軍司令部第三課(大尉)

1939(昭和14)年8月1日~1941(昭和16)年10月5日:関東軍司令部第一課参謀
1941(昭和16)年10月5日~1942年(昭和17)年1月11日:参謀本部兵站総監部参謀
1943(昭和18)年8月2日~終戦まで:関東軍司令部第四課(対満政策・内面指導)参謀

出典: 千田夏光「従軍慰安婦」の重大な誤り/加藤正夫 現代コリア(1993年2・3月号)(P55)より

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ここで疑問になるのが、加藤氏は、第一課の参謀になる前に原氏が第三課に所属していた事実を、知っていて敢えて書かなかったのだろうかということである。メールで指摘してくれた方は、「杜撰な調査だ」と慎重な姿勢だが、もちろん杜撰なことはマチガイないのだが、どうもこれは知っていて、敢えて伏せたと考えた方がいいのではないかと思う。もともと、原氏が関特演当時、第三課ではなく、第一課に所属していた参謀だったと言うのは、加藤論文に登場する、関特演当時の原氏の上司であった、今岡豊氏からの指摘だろうと思われるが、それが現代コリアの西岡氏の耳に入り、記事の構想を立て、実際のアリバイ的な裏付調査を、第三者の加藤氏が担当することになったのだろう。今岡氏は、関特演時の兵站担当は一課であったと、雄弁に加藤氏に語るが、逆に今岡氏は組織改編の経緯や原氏が三課から異動してきた経緯を知っていたはずである。おそらく、原氏が三課にいたことは、彼らは意図的に知っていて隠したのである。「原善四郎」ではなく、「原参謀」と書けば、確かに第三課に所属したことはないことになるのだ。

【追記1】2016.02.06 --------------------------------------------------------------
原氏の経歴については、第四課時代のアヘン取引との関わりを、旧満州での兵士の慰安所証言集補足している。こちらも参照されたい。

【追記2】2016.02.06 --------------------------------------------------------------
ウィキペディアの「千田夏光」に以下の記述がある。

『従軍慰安婦 正編』の中には原善四郎(関東軍参謀)に面会し、「連行した慰安婦は八千人」との証言を引き出したとの記述がある[3]。しかし、原の軍歴に間違いがあったため『正論』や『諸君!』で面会した事実に相次いで疑問が投げられた[4]。後に、千田は原の軍歴については、原と面会することなく確認しないまま他の書物を引き写したことを認めている[4]

「原と面会することなく確認しないまま他の書物を引き写したことを認めている」という文章の出典[4]として挙げられているのは、(加藤正夫「千田夏光著『従軍慰安婦』の重大な誤り」『現代コリア』1993年2・3月号、p55-6)であるが、加藤氏の論文にそのような記述は一切ない。