ぱちゃん、とお湯を叩くとピンク色の水滴がとびちった。サクラの入浴剤という珍しいものを手に入れたのでさっそく使ってみたのである。ゆったり温かいお湯に肩を沈めて口までつけるとふんわりしたいい気分になる。
お風呂ってすばらしいものだと思う。正直言ってこれを発明した人は電話や車を発明した人よりもずっと偉大だとあたしは思ってる。だってお風呂はつかるだけで今日あったヤなこと 例えば電車が遅れて遅刻したとかそのせいで上司に怒られたとかお昼いつものパスタ食べようと思ったらお店が臨時休業でハンバーガーしか食べられなかったとかそのショックひきずってコピー機にかけたはずの書類がシュレッダーにばらばら殺人事件でまた上司に怒られたとか そういうこと全部を洗い流してほっと安心させてくれるのだなんて素敵。電話も車もそんな親切なことはしてくれない。
「それどんな感じ」
「極東の島のにおいがするよ」
そういうとクロロはくつくつ笑った。この人ののどの奥でひそめるみたいにして笑う笑い方は見るたびにあたしの心臓をざわめかせる。あたしは浴槽の中で膝を抱いた。
「いつ来たの? 気づかなかった」
「ついさっき。の姿がないからどうしたのかと思った。こんな早くに風呂に入るなんて珍しいんじゃないか」
「つまり?」
「その顔どうしたんだ」
クロロは頭がいいからときどきあたしと会話が上手くかみあわないことがある。あたしが訊いたことの2歩も3歩も先を答えてくれたりするんだけど、そんなの訊いてるこっちだって考えてないことなんだからなんかよくわからない言葉のキャッチボールというよりボウリングみたいなことになってしまうのだ。あとくどい。あたしは賢くないってわかってるんだから、もっと直接的に言えばいいのにと思う。
「殴られたの」
「へえ、誰に」
「お客さんの奥さん」
クロロがドアにもたれて立っているからせっかくこもってた湯気がぜんぶクロロの横をぬけて外に出ていってしまう。それにしてもなんでお湯はピンクなのに湯気は白いんだろ。「どうして」クロロは目を大きくしてる。
「の仕事って水商売だっけ」
「失礼な。外交員です保険の」
あたしは足をばたつかせて不満を表現してみる。たしかにちょっとはお水まがいのこともしたかもしれないけど、売ったのは契約とせいぜい下着ぐらいです。あたしはそれなりに仕事はまじめにやってるつもりだし、不貞を疑われるのは我慢ならない。クロロは困ったみたいに笑ってごめん、と言った。
「旦那さんがお客さんでね、生命保険に入ってんの。お客さんは今年38なんだけど浮気しちゃっててね、あたしじゃないけど、どっかの営業の女の子なんだって。で、それが奥さんにバレたのね。そいで子供が2人とも遠足行ってるからちょうどいいって今日その子を呼び出して、お客さんと奥さんとその子で話そうってことになったわけ」
「なるほど。そこにスーツを着た若い女が入っていってこんにちはなんて能天気に挨拶しようものなら勘違いもされるだろうな」
「そりゃ髪切ったばっかりだったけど、奥さんにだって2回くらいは会ってたのになぁ」
清楚に笑って紅茶とか出してくれて「ごくろうさまです」なんて言ってくれてた白い日傘の似合うような奥さんが玄関くぐったとたん髪をふりみだしながら飛び掛ってきて「この女狐!」とあたしの頬をひっかいたときにはこの奥さんこそキツネが化けた姿なんじゃないかと思ってしまった。あのときの奥さんのひきつった頬と血走った目をあたしは一生忘れないだろう。
「まえに映画で見たハンニャみたいな顔してた。なんであんな怖い顔してたのかな。旦那さんのこと愛してるように見えたのに」
「愛してたからだろう。裏切られて怒ったんだよ」
「なんで怒るの? 裏切られたら悲しいけど怒るようなことじゃなくない?」
「さあ。浮気相手の子がいなければ裏切られなかったかもしれないっていう八つ当たりなのかもしれない」
「えー。あたしはクロロが浮気してても恨んだりしないよ。クロロも相手の子も」
クロロはちょっと黙った。あたしはふふん、と笑う。知らないでいるとでも思ったか。クロロは知的だしかっこいいし金のにおいもまき散らしてるからとてもおモテになるうえに誘われたら拒まない。そんな男がなぜあたしのところに通ってくるのか甚だ疑問である。
「」
クロロはあたしの名前を呼ぶと服のまま浴槽の前まで入ってきて膝をついた。「せっかく髪切ったのに残念だな」頬を撫でるのでうっとりと目を閉じる。あいかわらずきれいな指をしてるなぁと油断していたらキスされた。クロロはキスが上手い。したことがないからわからないけど、きっとセックスも上手いんだろう。あたしじゃない他の女の子たちとは楽しくやってるに違いないのだ。「ぃた」クロロの舌がちょうど切れていたところを舐めたので顔をしかめる。離そうと思った頭を押さえられもっと強く刺激されてあたしは戸惑った。何がしたいんだこの男は。閉じていた目を開けるとクロロもあたしのことを見ていた。夜色の目で。
「浮気をしてるわけじゃない」
鼻を触れ合わせたまま呟かれた言葉は意外性十分であたしを笑わせた。逆にクロロはむっと眉をひそめる。ピンク色のお湯から立ちのぼる湯気のせいでクロロの黒い髪がつやつやと額にはりついている。
「笑うなよ」
「だって・・・・・・どうしたの突然。怒ってないのに」
「ぬれぎぬを着せられているようで不愉快だ。浮気とは別に愛する女を持つことだろう」
あたしはくすくす笑ってしまう。あたしがクロロに対して怒ってないのは別にクロロを愛してないからじゃなく、ただ信用してるだけなのだ。クロロという人を。でも当人であるクロロは自分の強さは信じてるくせに自分の存在は信じてないという精神的にちょっといかがなものかと思われるタイプの人種なので、あたしの信頼に気づかないし理解してもくれない。これは少し悲しいことだが、あたしはクロロのことを愛しちゃってるので彼が週1でも月1でもこうしてあたしの家に元気な姿でやってきてくれるだけでけっこう嬉しかったりする。これもちょっと悲しい事実。
「クロロは誰のことも愛してないのかと思ってた」
「おまえそれは俺に対して失礼だろ」
「嘘。冗談。クロロの愛はいつでも感じてるよ。だからなんとも思わないんだもん」
「それもどうかと思うけどな」
すねたように言うクロロの額に口づけて薄紅色のお湯からあがった。「やきもち焼いてほしいなんて賢いクロロらしくないね」「そんな俺は嫌い?」「まっさか」クロロが後ろからあたしのお腹に腕を回す。濡れるんじゃないかと言ったら今更だと返された。確かにクロロの服はすでに意味をなしていない。それにしても、とあたしはクロロの腕を薄いシャツ越しになぞった。クロロという人はお風呂を発明した人よりもずっと偉大かもしれない。
「が消えていないか確かめに戻ってくるんだ」
5000万の保険金の受取人に指定されていた奥さんにひっかかれたあたしの頬に自分の頬を寄せてクロロが囁くのであたしはまたくすくす笑って、今ならこの人に抱かれてもいいな、なんて思ってしまう。でもやっぱりあたしは逆十字を掲げていながら紳士的なクロロのことを愛しているので、このまま温かいクリームシチューでも作ってあげようと思います。
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(似合ってるよ髪 なんてほんとクロロらしくないせりふだよね)