「ターツ」


なに、と応えはやわらかい。8畳2間の彼のアパート。こっちの部屋にはスプリングのきいたベッドと小さな本棚しかない。向こうにあるキッチンの前に立つ彼のまっすぐな背中が綺麗だった。


「タツ」
「なんだよ」


お湯がシュンシュンと音を立てている。彼の淹れてくれるコーヒーがわたしは好きだった。薄くて甘いやつで、あたしでもブラック(というよりブラウンだけど)のままで飲めるように特別に淹れてくれるコーヒー。彼は普通の濃い目のコーヒーがすきだから、 わざわざ別々に作ってくれるのだ。美味しいじゃないですか、ねぇ?


「コーヒー?」
「ああ」
「甘いのがいい」
「はいはい」


肩ごしに振り返った苦笑。すっとした眉の間に寄せられたしわと右側だけつりあがった唇。彼のその笑い方は年に似合わず渋い。あたしは清潔なにおいのするシーツに顔をうずめた。いつも忙しく全国をとびまわっているのに、いったいいつ洗濯 してるんだろう。ちなみに彼がこの家を開けているあいだ、あたしは一度だって洗濯なんかしてあげたことはない。せいぜいが掃除がいいところ。なんせ家事は苦手ですから。


「おはよ」
ぬっとマグカップが差し出され、白いお日様の匂いがこげ茶の苦い匂いに変わった。明るいテノールの声に魅かれて顔を起こすと、透明な湯気の向こうで彼が微笑んだ。繰り返される、おはよう、という声。


「おはよお」
そんなにこのコーヒー好きか」
「好きぃ」
「不味そうな色だけどな」


まあ、おまえが好きならいいけど。ぼんやりとその呟きを聞きながら身体をゆっくりと持ち上げる。起きぬけのわたしは何も身につけていなくて、彼がひっぱってきた毛布を羽織らせてくれた。そのくすぐったさに目を細めてカップに口をつける。さらりと した茶色の液体に感じるのは、カカオ豆に似た甘さとわずかな酸味。毎朝同じ味のコーヒーは彼みたい。わたしは満足してに彼を見上げた。色素の薄い髪。舐めたらこのコーヒーみたいな味がするのかしら。


「タツ天才」


スプリングをきしませながら彼はどうも、と笑った。わたしも笑い返す。天才。彼はグリーンのフィールドでは秀才だけど、ここでは天才だ。わたしを喜ばす天才。コーヒーを淹れる天才。それってすごいことじゃない。彼は二物も三物も持っている のだ。

そんなことを考えていたら、いつのまにか彼の笑顔が近づいていた。むき出しの鎖骨をなぞられて身体をよじる。じゃれるような指先から逃げようとしてベッドに逆戻り。さりげなく頭をかばって下敷きになってくれた彼の左手が愛しい。 死守したコーヒーがたぷんと揺れて温かかった。高くかかげた手のひらに気をとられた隙に唇をふさがれる。間。


「誕生日おめでとう」


カップがサイドデスクの上で冷めていく。すでにわたしの両手は彼の手の中。逃げ出せないし、逃げ出そうとも思わない。わたし専用のコーヒーは捨てがたいけれど、彼はコーヒーよりずっとずっと捨てがたい。なにせ彼はずうっと温かいのだ。


「ありがとう」


するりと目のまえの肩に腕を絡ませる。しっかりとした首からまっすぐな背中、硬い肩。ぜんぶわたしのもの、ぜんぶ大好き。





おでこにひとつのキス。プレゼントは、と彼は笑った。口下手であんまり良いこと言えないけれど、わたしはこの笑顔が好きだった。久しぶりに見る、子供っぽい笑顔。



「水野の姓っていうのはどう?」



                                                              Will you merry me?
















(今なら無料でオレ本人もついてきますが?)