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1.番犬が吠えなかった
中学生の時、学校図書館の本を全部読もうと競争したお馬鹿さんが2人いたが、その片割れは実はこの私である(4方の棚の1方の1/3ほど征服して疲れてしまった)。
その中の少年少女向けの推理小説のシリーズ(?)だと思うが、「番犬が吠えなかった」ことから犯人を推理する短編があった。ホームページで調べてみると、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの回想』の中の短編「名馬シルヴァー・ブレイズ」(銀星号事件)であった。
名探偵ファイロ・ヴァンスが活躍する『ベンスン殺人事件』などで有名な作家のヴァン・ダインは推理小説のルール「20則」を示しているが、その最後には、使い古された10の陳腐な手法の1つとして、この「番犬が吠えなかったので犯人はその犬に馴染みのあるものだったとわかる」をあげている。
2.シャーロック・ホームズなみの寺尾裁判長の名推理
狭山事件で私が一番に引っ掛かったのは、脅迫状である。高校3年生の時に狭山事件の報道に出会ったが、犯人が「車出いく」と指示していたから、犯人は車でくると信じて張り込みを行い、まんまと犯人を逃がしてしまった、というのには、びっくりした。吉展ちゃん事件で犯人を取り逃がしたわずか1か月後にこの有様であるから、日本の警察はどこまでマヌケなのか、強い不信感を抱いた。
大学院生になって、狭山事件が冤罪事件、という話を聞いた時、さもありなん、「車出いく」に騙された警察なら、簡単に真犯人のペテンに引っかかったに違いないと思ったものである。
その後、就職してから狭山事件の本(部落解放同盟の『狭山差別裁判 第3版』)を読む機会があり、まず気になったのはスコップである。当時は、このスコップが差別捜査の出発点とされていた(注:私は脅迫状こそが差別的見込み捜査の出発点と考えている)。
後の2審寺尾判決の認定によれば、「豚舎には豚の盗難防止のため番犬がいて、この犬が吠えれば少し離れた山田和義方居宅からも数匹の犬が駆けつけてくるようになっていることから、犯人は山田和義方に出入りの者であると推認された」というのである。
シャーロック・ホームズなみの見事な名推理である。私は、寺尾裁判長はコナン・ドイルの愛読者であったのではないかと、「推理」している。
問題は、真犯人もまた、コナン・ドイルの「名馬シルヴァー・ブレイズ」を読んでいた可能性があることである。
寺尾裁判長は「人間は意識的・無意識的に自己の行動を潤色し正当化しようとするものである」とし、これを「永遠の真理」としているが、実際、狭山事件の犯人は「友だちが車出いく」と嘘をつき、畑の中を歩いて現れている。この「永遠の真理」は狭山事件の犯人については当てはまる。
この真理に従うと、犯人は「番犬が吠えなかったので犯人はその犬に馴染みのあるものだった」を知っていて、わざと、番犬のいる場所からスコップを盗み出し、捜査の方向を養豚場に向けようとした可能性が高いとみなければ筋が通らない。
しかし、警察や警備会社の資料を読めばわかるが、空き巣犯は、どんな犬でもエサで容易に手なずけることができるので注意すべし、と書かれてある。2匹の犬を飼っている私自身の経験からみても、これは納得できる。
「番犬が吠えなかったので犯人はその犬に馴染みのあるものだ」という法則が防犯の専門家によって否定されている以上、犯人を山田養豚場関係者と決めつけるのは間違っている。
真犯人が「犬に馴染みのあるもの」に捜査の目を向けさせるために山田養豚場からスコップを盗み出し、「自己の行動を潤色」したことは、寺尾裁判長の「永遠の真理」と防犯のプロの経験則のダブルで証明されるのである。
3.名探偵ファイロ・ヴァンスの足跡論
「狭山事件を推理する 第16章 前の門」では、高校か大学時代に読んだヴァン・ダインの小説『カナリア殺人事件』を紹介したが、その中で素人探偵ファイロ・ヴァンスは次のように述べている。
「僕はねえ、逃げて行った人物が男の足跡をのこそうと、女の足跡を残そうと、あるいはまた、カンガルーの足跡をのこそうと、竹馬を使おうと、自転車に乗って逃げ出そうと、跡などはぜんぜん残さないで、空を飛んで行こうと、そんなことにはかかわりなく、それくらいのことはすべてやってみせることができるよ」
「人間は意識的・無意識的に自己の行動を潤色し正当化しようとする」という「永遠の真理」に従えば、佐野屋の脇に残された犯人の足跡もまた、珍しい職人タビだからと言って、犯人はとび職か植木職と推理してはならないことになる。寺尾裁判長の「永遠の真理」からは、犯人は、とび職人や植木職人に捜査の目を向けるために、職人タビで現場に現れた可能性が高い、と結論づけなければ論理的ではない。
寺尾裁判長は、「人間は意識的・無意識的に自己の行動を潤色し正当化しようとする」という「永遠の真理」を、石川さんの自白と客観的証拠の多くの不一致を、自白が被告人の嘘であると証明するために持ち出してきたが、一番肝心の犯人の犯罪行為から適用しなければ論理的に間違っていると言わざるをえない。。
石川さんを逮捕される前と逮捕後に分け、前者には「人間潤色説」を適応せず、後者にだけ適応するというのはいかがなものであろうか? 逮捕されたとたんに、石川さんは人間になって潤色(面白く作りかえる)するようになったとでも言うのであろうか?
4.亀井トム氏の『ライゲートの大地主』の「脅迫状ダブル筆跡説」
私は亀井トム氏の財産争い殺人説、山田養豚場関係者殺し屋説、西富源治さん方犯行現場説、「4人の変死者説→4人共犯説」、善枝さんの腹部蹴り上げ説、頭部・顔面殴打説、転倒気絶説、精液多量説に基づく輪姦説(複数犯強姦説)、正常位強姦説、ひこつくし結び野犬狩りロープ説、木綿ロープ絞殺説、ドラム缶・トラックでの死体運搬・腹部擦過傷説、玉石・棍棒両墓制説、茶の葉消臭罪説、残土トラック運搬説などの推理はことごとく間違っていると考えている。
しかしながら、脅迫状の「少時様」の斜め2重線による見え消しや「金二十万円」の表記、横書きの習熟などから経理経験者と見なした点や、営利誘拐偽装説、佐野屋へ現れた犯人の行動を偽装とみなした点など、彼の鋭い推理には教えられる点も多かった。また、根拠は明らにしていなものの「脅迫文を書いた犯人(主犯)は英文位読め」と見るなどの指摘も行っている。
さらに、亀井氏はコナン・ドイル作の『シャーロック・ホームズの叡智』の中の「ライゲートの大地主」を真似て、主犯と従犯が脅迫文の文字を交互に書いて筆跡をごまかしたとしているが、脅迫状の筆跡にはそのような痕跡は見られず、この推理は採用できない。

ただ、脅迫状の本文はボールペンで早い筆致で流ちょうに流れるように書かれているのに対し、修正部分の「中畑江」や「五」「2」「さのヤ」は、筆致が遅くてゴツゴツした、いわゆる「かな釘流」で万年筆又はペンで書かれており、別の人物が修正したしたかのように書かれている。「友だちが車出いく」の「友だち」が偽装工作の可能性が高いことからみて、これは複数犯の偽装工作である可能性が高い。
亀井氏の「真の加害者らしき人物の一人が少年時代に探偵小説が好きであったと思われるフシがあり、犯罪の偽装や筆跡をくらます手法が、かつて耽読していた探偵小説からヒントを得ているように思われた」のうちの「真犯人探偵小説ファン説」には私も賛成であるが(ただし、私は単独犯説)、この「交互複合筆跡」には賛成できない。
私は「探偵小説(推理小説、ミステリー)」を耽読するファンの足下にも及ばないが、それでも「名馬シルヴァー・ブレイズ」(銀星号事件)や「ライゲートの大地主」、『カナリア殺人事件』くらいは読んでいた。もし犯人が亀井氏の言うように「探偵小説好き」であったなら、それらをヒントにした可能性は十分にある。
5.仁木悦子氏の推理小説『黒いリボン』の脅迫状
日本初の本格的な女流推理小説家の仁木悦子氏は、狭山事件について、「稚せつな脅迫文は、あくまでこじつけで知能の遅れた人ではない。むしろ犯罪については異常に頭のさえた持ち主に違いない」という興味深いコメントを5月5日の埼玉新聞に寄せている。
氏は『猫は知っていた』で江戸川乱歩賞を受賞したのであるが、営利誘拐をテーマとした『黒いリボン』(昭和58年角川文庫)を狭山事件の5年前に書いている。そこには、次のような脅迫状が登場する。
――子どもを連れて行くから取りかえしたくば金をつくれ。三百万円つくれ。警察にゆったらしょうちせぬ。警察にゆったら子供の命はない。けいさつや他にんにゆえば、女の子もゆうかいして殺すとおもえ。
国ちか主じんへ ブラック・リボン――
この脅迫状は新聞や雑誌などの活字を切り張りしたもので、「警」には「驚」、「連」には「運」の文字が貼られ、「教養のない人間がやった」と推理されている。
狭山事件の脅迫状とは次のような類似性が見られる。
小説『黒いリボン』と狭山事件との類似性
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小説『黒いリボン』
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狭山事件
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「他にんにゆえば」
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「気んじょの人にはなすな」
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「子供の命はない。・・・殺すとおもえ。」
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「子供の命がないとおもいー」
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「ゆったら」「ゆえば」(話し言葉表記)
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「おもいー」「気名かツたら」(話し言葉表記)
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漸層法:「しょうちせぬ。」
→ 「命はない。」 → 「殺す」
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漸層法:「命がないとおもい。―」
→「小供は死。」 → 「死出いる」 →
「死出死まう」 → 「ころしてヤる」
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「驚察」「運れていく」(形が似た漢字の使用)
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刑札(当て字)
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このような類似性は、単なる偶然といえるであろうか?
「新推理・狭山事件46 脅迫状の12の偽装工作 4 犯人は推理小説マニア」の「図表3 営利誘拐事件で犯人が真似した事件や推理小説・ドラマ」で明らかにしたように、営利誘拐事件では映画や小説を真似た、という事件が多い。狭山事件の真犯人もまた、この仁木悦夫氏の『黒いリボン』を真似した可能性が高い。
私が特に注目したのは、「他にんにゆえば」という表現であるが、この小説では、犯人は被害者家族が親しい人間に相談されたら困る事情があった。
狭山事件の脅迫状にも「気んじょの人にもはなすな」という特異な表現があり、犯人が近所の人に話されたら困る事情があって指示したのか、それとも、そう思わせる擬装工作なのかで、「犯人が近所の人なのかどうか」の重要な手掛かりになった。
前著『狭山事件を推理する』では、犯人がわかりにくい中畑家を特定でき、しかも自転車がいつもの場所に返されていたことから、真犯人は「中畑家の近所の人」と推理したが、「新推理・狭山事件」においては、真犯人は「江畑家の近所の人」として「被差別部落犯」を擬装するとともに、「中畑家の近所の人」として山田養豚場関係者を仮想犯人としてでっち上げるダブルトリック(2重偽装工作)と考えるようになった。真犯人は江畑・中畑両家の「気んじょ」ではない安全圏にいて、なおかつ、夜間に裏道から中畑家を特定でき、善枝さんが自転車を停める場所を知っていた、中畑家に出入りしたことのある人物、という推理に変わってきた。
この「気んじょ」が犯人の独創的な工夫なのか、それとも模倣なのか、気になっていたのであるが、仁木悦子氏の『黒いリボン』の脅迫状をヒントにした可能性が高い、と考えるに至った。
『黒いリボン』の内容を紹介するわけにはいかないが、幼児営利誘拐は擬装で、動機は殺人というのは、まさに私の狭山事件像そのものである。
また、『黒いリボン』には脅迫状から指紋が検出できることが書かれており、真犯人はこの本から知識をえて、軍手をはめて脅迫状を書いた可能性が高い。
4.「バタくさい(西洋風の)」真犯人
「真犯人はシャーロック・ホームズやヴァン・ダイン、仁木悦子の推理小説の愛読者であった」とすれば、その手口は容易に組み立てることは可能であった。
それにしても、脅迫状の作者が横書きに習熟していること、英詩にしか見られない「。―(マル・ダッシュ)」「―(ダッシュ)」の句読法を使っていること、誕生祝いの食事を口実に善枝さんを呼びだしていること、女生徒達が買い出しにでかけた献立表の材料にはなく、当時の5月の狭山には珍しいトマト(温室栽培が始まった頃である)が善枝さんの胃内に残されていたことなどと合わせて総合的に推理してみると、狭山事件の真犯人は「バタくさい(西洋風)」と思われてならない。
仁木悦子氏の推理小説もまた、江戸川乱歩氏や横溝正史氏などの怪奇推理小説や松本清張氏らの社会派推理小説とは違って、謎解きゲーム的な推理小説で、「日本のA・クリスティ」と呼ばれたように「バタくさい」ものであった。
そういえば、当時、狭山市には米軍のジョンソン基地(現在は自衛隊の入間基地)があり、後に自殺した善枝さんの姉の恋人はこの基地に勤めていた。善枝さんの兄の周辺などに、基地関係者や教師などで英詩に親しみ、コナン・ドイルやヴァン・ダイン、仁木悦子氏の推理小説を愛読していた人がいた可能性は十分にある。当時、田舎の地方都市の1中学生・高校生であった私がこれらを呼んでいたくらいであるから、20・30歳代の大人であれば、その可能性は高いと言わなければならない。
寺尾裁判長らは、コナン・ドイルは読んでいて「犬に吠えられずに・・・」と推理したが、どうやら、ヴァン・ダインの足跡の推理は読んでいなかったようである。
また、寺尾判決は「たまたま起こったいわゆる吉展ちゃん事件にヒントを得て、自分も幼児を誘拐してその親から身の代金を喝取しようと考えるに至った」としているが、「仁木悦子氏の推理小説『黒いリボン』の脅迫状にヒントを得て」と訂正すべきであろう。
<資料>「新推理・狭山事件46 脅迫状の12の偽装工作 4 犯人は推理小説マニア」より
図表3 営利誘拐事件で犯人が真似した事件や推理小説・ドラマ
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発生年月日 |
事件名 |
被害者 |
犯人 |
真似した事件・推理小説・ドラマ |
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昭和30年(1955).2.25 |
千代田区小学生誘拐事件 |
小学4年生(9) |
川崎市の銭湯の釜炊き(19) |
探偵小説マニア |
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昭和30年(1955).6.7 |
豊島区幼女誘拐事件 |
5歳の幼女 |
中学3年生(15) |
植草甚一原案、川内康範脚本の映画「悪魔の囁き」 |
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昭和30年(1955).7.15 |
トニー谷長男誘拐事件 |
小学生(6) |
雑誌編集者(33) |
米のリンドバーグ事件 |
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昭和32年(1957).12.16 |
碧南市幼児誘拐殺人事件(近藤二三夫ちゃん事件) |
幼児(6) |
被害者の叔父・無職(18) |
石原慎太郎主演の映画「危険な英雄」 |
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昭和32年(1957).12.17 |
田川市少女誘拐殺人事件(郁恵ちゃん殺し事件) |
小学6年生(11) |
左官見習い(19) |
漫画難誌 |
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昭和34年(1959).11.1 |
山口県吉敷郡少年誘拐事件 |
男子(10) |
少年 |
探偵小説ファン |
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昭和35年(1960).5.16 |
世田谷区男児誘拐殺人事件(雅樹ちゃん事件) |
カバン製造会社社長の長男の慶応義塾幼稚舎2年生(6) |
歯科医(32) |
仏の自動車王・プジョーの孫・エリック誘拐事件 |
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昭和35年(1960).11.17 |
鹿児島市幼児誘拐殺害事件 |
叔父が勤める店の二男(5) |
無職(17) |
益田喜頓主演の映画「刑事物語 小さな目撃者」 |
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昭和40年(1965).1.13 |
新潟デザイナー誘拐殺人事件 |
女性デザイナー(24) |
自動車修理工場経営者の息子(23) |
映画「天国と地獄」 |
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平成18年(2006).1.6 |
仙台乳児誘拐事件 |
生後11日の乳児(病院より) |
衣料品販売業(54)と妻(35)、知人(32) |
岡嶋二人著『99%の誘拐』 |
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