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昨日、友人と話をしていて、20数年前に、幼児言語の専門家(当時、某教育大学の助教授)から、脅迫状の「女の人」などの表現について「『女が』とならないのは、幼さを示すか、女性コンプレックスの表れではないか。後者なら中年以上のインテリであろう」と分析し、「その人」や「ちがう人」の表現については、「『そいつに』『ちがうやつ』と表現していないのは、幼さか人間を物体化しないやさしさを示している」とのコメントをいただいたことを思い出した。
この「人」表現についてはずっと気になっていたので、この機会に分析しておきたい。
脅迫状
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少時 このかみにツツんでこい
子供の命がほ知かたら4(五)月28(2)日の夜 12時に、
金二十万円女の人がもツて前(さのヤ)の門のところにいろ。
友だちが車出いくからその人にわたせ-
時が一分出もをくれたら 子供の命がないとおもい。-
刑札には名知たら小供は死。
もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら。
子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ。
もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにかえツて気たら
子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける。
くりか江す 刑札にはなすな。
気んじょの人にもはなすな
子供 死出死まう。
もし金をとりにいツて。ちがう人がいたら
そのままかえてきて。こどもわころしてヤる。 |

(1) 4つの「人」表現
脅迫状には「女の人」「その人」「気んじょの人」「ちがう人」の4つの「人」表現が見られるが、私にとってはずっと気になったフレーズである。
というのは、いつ、どこで、どのような機会であったか記憶が定かではないが、私には「人」という表現に出会って、実に新鮮な、印象的な言葉で、「はっと」した記憶が確かにあるからである。おそらく中学生の頃であろう。
次の印象的な出会いの記憶ははっきりとしていて、数学教育で有名な遠山啓氏の雑誌『ひと』を妻が買ってきて、その表紙を目にした時のことである。
いずれにしても、「人」という表現は、私の日常生活圏外の言葉であったからである。これはかなり特殊な私の経験かもしれない。
改めて脅迫状を見てみると、「金二十万円女の人がもツて前の門のところにいろ。」の「女の人」は、普通なら「女の人」ではなく「女」「か「母親」「おかあさん」などと書くであろう。
また、「少時様」に宛てた脅迫状であるから、命令は「少時様」に対してであり、「女に持たせて前の門のところ立たせろ」であろう。「女の人」に命令し、「前の門のところにいろ」というのは捻れている。
さらに「友だちが車出いくからその人にわたせ−」は、「友だちが車で行くからわたせ。」か、あるいは「友だちが車出いくからそいつに(その男に)わたせ−」と書くのが普通であろう。
「刑札にはなすな。/気んじょの人にもはなすな」も、普通なら「刑札にはなすな。/気んじょにもはなすな」あるいは「刑札や気んじょにはなすな」であろう。
「もし金をとりにいツて。ちがう人がいたら」も、普通なら、「もし金をとりにいツて。ちがう女(あるいは、別の女)がいたら」であろう。
いずれにしても、私ならこんなに「人」表現を使うことはない。
脅迫状作者は相手を「女」「そいつ」「ちがうやつ」と書けない「幼さ」や「女性コンプレックス」があったのであろうか、あるいは「人間を物体化しないやさしさ」があったのであろうか?
それとも、もっと違った女性像や人間像があったのであろうか?
(2) 3つの指示代名詞の表現効果
脅迫状には「その人」だけでなく、「そこ江いツてみろ」「そのまま」の強調した表現も見られる。
「友だちが車出いくからその人にわたせ−」は、「友だちが車出いくからわたせ−」よりも、「その人」と指示することによって、その場面を思い浮かばせる視覚効果を持っている。
「子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ。」は、「子供わ西武園の池の中に死出いる。」よりも、「そこ江いツてみろ。」と表現することにより、臨場性を高め、「死出いる」場面をイメージさせて脅迫効果を高めている。
「もし金をとりにいツて。ちがう人がいたら/そのままかえてきて。こどもわころしてヤる。」は、「もし金をとりにいツて。ちがう人がいたら/こどもわころしてヤる。」よりも、金を取る、取らないに関わらず、「女の人」の指示不履行だけで子供は殺す、という脅迫効果を高めている。
これらの表現能力の的確さを見ると、脅迫状作者は「幼さ」や「女性コンプレックス」から、「女の人」「その人」「ちがう人」の表現をとったというよりも、指示名詞を使って脅迫効果を高めた可能性が高いように思える。
(3) 「人」表現は流行していた可能性がある
脅迫状作者には相手を「女」「そいつ」「ちがうやつ」などと書かない「幼さ」や「女性コンプレックス」「人間を物体化しないやさしさ」があるという見解に対して、私の見方は、犯人には相手を自立した「人」として見る人間観があったのではないか、そしてそれは、当時、「人」を付けて表現する流行があったからではないか、と考えている。
その流行として私が最初に思いついたのは、春日八郎の『長崎の女(ひと)』で、「恋の涙か 蘇鉄の花か」のイントロから始まり、「ああ 長崎の 長崎の女(ひと)」を終章(エンディング)とする懐かしい曲であるが、調べてみると、このレコード発売は1963年6月、狭山事件の後であった。
そこで、さらに記憶をたどって調べてみると、私がよく歌っていて歌詞を覚えている歌では、西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』(1960年4月)に、「アカシアの雨にうたれて/このまま 死んで しまいたい」から始まり、「朝の光のその中で/冷たくなった私を見つけて/あのひとは/涙を流して くれるでしょうか」があった。
同じく『エリカの花散る時』(1963年2月)には「青い海を見つめて/伊豆の山かげに」から始まり、「別れたひとの ふるさとを/たずねてひとり 旅を行く」のフレーズがあった。
歌声喫茶から歌われ始めた『山のロザリオ』(1961年9月)は、私達がブラバンで高校3年生の文化祭で初めて行進曲などではなくて演奏して大喝采を受けた懐かしい曲であるが、「黒い瞳ロザリオ 今日も一人歌うよ/・・・/帰れ帰れもう一度 やさしかったあの人/・・」という部分があった。
仲宗根美樹の「病葉(わくらば)を きょうも浮かべて」の印象的なイントロから始まる『川は流れる』(1961年11月)には、2番に「ある人は 心つめたく/ある人は 好きで別れて」がある。
「知らない街を 歩いてみたい」から始まる永六輔作詞・中村八大作曲・ジェリー藤尾歌の『遠くへ行きたい』(1962年9月)は今もふと口ずさむことがあるが、エンディングには「愛する人とめぐり逢いたい/どこか遠くへ 行きたい」がある。
とりあえず、狭山事件の脅迫状作者が生きた頃の、私の好きな歌だけをいくつかピックアップしてみたが、「あのひと」「別れたひと」「あの人」「ある人」「愛する人」など、愛する対象に「人」という言葉が使われている。
これは1960年代から大きな流れとなった個人主義の時代の反映ではないか、と考えている。
私は、中学校3年生の時、「3本立て45円、55円」の洋画に夢中になるとともに、遊び仲間達とは荒唐無稽な「日活ウエスタン映画」(赤木圭一郎の「拳銃無頼帖シリーズ」、小林旭の「渡り鳥シリーズ」「流れ者シリーズ」)を見ていたが、それは、私たちの中に早く家から出たい、一人で自由になりたい、という強いあこがれがあったからである。中卒で都会に出て働く遊び仲間が2人いたが、私も早く仕事を覚えて商売をしようか(母親のやっていたカメラ店から、チェーン店を興すことを夢見ていた。もしやっていれば、日本初であろう)、それとも高校に進学するのとどちらが得か、悩んでいた時であったから、自立に憧れたのである。
安保反対のデモに参加していた永六輔氏が挫折感をいだき、1961年に『上を向いて歩こう』を書いた時、かれは「一人ぼっちの夜」に「上を向いて歩こう」と自分に言い聞かせていたように思われる。
恋人や家族、仲間、会社や組合などの集団から離れてから、個人が自立を意識せざるをえない時代であったからこそ、この時代には「人」という言葉が新鮮であったのではなかろうか? 「あのひと」「別れたひと」「あの人」「ある人」「愛する人」では、相手も自分も個人として自立しているのである。
犯人はそのような時代の新しい言葉に敏感であったため、脅迫状にあえて「人」を多用した可能性がある、と私は考えている。
善枝さんの兄の賢一さんがその手記で、「善枝の位牌の前で犯人逮捕の報をきき/『善枝! 本当にこの人なのか?』/と聞いても 遺影は何もいわず、表情すら/変えられないのです。」と書いているのもまた、この時代に「人」と表現することが流行ったことを伺わせる。普通なら、「『善枝、犯人が逮捕されたぞ』と遺影に報告しました」と書くのではなかろうか?
犯人とこの賢一さんは同じ「人」を使う言語文化圏にいた可能性が高い。
(4) 「この人」と「おまえ」
賢一さんは、石川さんの逮捕に対し、『善枝! 本当にこの人なのか?』と善枝さんの遺影に聞いたと書いている。
そして、続けて、「犯人たるおまえに/なぜ善人に戻って呉れなかったのか、悪に取りつかれた/おまえでさえ戻るのみの善をおまえはもって居た筈であり、その善は今日のこの日を待っては居なかった筈なのに・・・」と3度も「おまえ」と書いている。
ここで、「この人」は逮捕された石川一雄さんを指している。しかし「犯人たるおまえ」「悪に取りつかれたおまえ」「戻るのみの善をおまえはもって居た筈」の「おまえ」は、「この人」とは明らかにニュアンスが違っている。
「この人」という書き方は見知らぬ人物に対する距離感を置いた丁寧な言い方であるのに対し、「おまえ」はよく知っている人物に対して咎めるような呼びかけに思える。「貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く・・・」の「貴様」と「俺」ではないが、「おまえ」と「おれ」の関係である。
さらにここで、賢一さんは「善枝」さんの「善」を使い、「善人」「善をおまえはもって居た筈」を、「犯人たるおまえ」「悪に取りつかれたおまえ」と対置させている。
賢一さんは「善人」「善をおまえはもって居た筈」の人物をよく知っており、その彼が「犯人たるおまえ」「悪に取りつかれたおまえ」に変わったことを、「善枝」=「善人」=「善」とともに非難しているように思える。
「その善は今日のこの日を待っては居なかった筈なのに・・・」ということは、おまえ=石川さんでは明らかに矛盾している。もし、彼が石川さんが犯人であると確信していたなら、「その善は」「今日のこの日」(逮捕)を「待っていた」になるはずである。普通の遺族なら、「逮捕された以上、どうして善枝を殺したのか、真実を包み隠さず話して、罪を償って欲しい」と述べたはずである。
「その善は今日のこの日を待っては居なかった筈なのに・・・」ということは、おまえの中の善は、石川さんの誤認逮捕を望んでいなかったはずではないか、と詰問しているように思える。
しかしながら、その後、賢一さんは「悪に取りつかれたおまえ」の共犯者となり、万年筆と腕時計の警察の証拠品偽造に手を貸している。発見された万年筆と腕時計が善枝さんのものであることは、賢一さんと姉の登美恵さんの供述が唯一の根拠とされているのである。
それは「おまえ」を守ることであったのか、それとも、別に守るべき人がいたのであろうか? いずれにしても、石川さんの死刑判決に2人は手を貸し、そのためかどうかは不明であるが、登美恵さんは自殺している。
(5) もう1つの詩
確か、亀井トム・栗崎ゆたか氏の『狭山事件無実の新事実』 (三一新書)には、自殺した善枝さんの弟の喜久蔵さん(仮名)の遺書が掲載されていた。その本を見つけ出すことができなかったので、伊吹隼人氏の『検証・狭山事件』(社会評論社)から転載したい。
私の生きる道はどこかしら。社会も流れ、私も流されるとしたら、余りにもさみしい夜になるでしょう。あすの社会も、きょうの社会も余り変わりはないけれど、私はただ、私はただ、私の社会の中に、きょうという日を見つめて生きるのです。そしてまた、私は古いものの中に、いつまでもいいところもあることを願いたい。いまを生きるのです。けれども、これは余りに遠すぎた夢かしら。すべては終わり、すべては夢だったのね。
これは奇妙な遺書である。女性を主人公とした歌詞として作っていた詩をもとに書き換えたような、不統一で乱れの見える文章である。
「2行−2行―2行」の連、「すべては終わり」の連用形、「社会:私」「あす:きょう:いま」の対句、「私はただ、私はただ、私の社会」「生きる道・・・生きるのです・・・生きるのです」の反復法、「私の生きる道はどこかしら」の呼びかけ、「夢かしら」の連用形止めなどの詩的な表現技法を使っているのは、近親者に宛てるような普通の遺書ではない。
兄の賢一さんだけでなく、弟の喜久蔵さんもまた、詩に親しんでいおり、それは、歌謡曲の歌詞の作詞のようにおもえる。兄の影響を受けたものと思われるが、賢一さんの手記の表現力とはほど遠い。
この喜久蔵さんの遺書から伺われるのは、この時代、狭山では詩作、とくに歌詞の作詞が流行っていた可能性があることである。
伊吹隼人氏の著書『検証・狭山事件』によれば、善枝さんの中学校3年生の担任であった英語教師の吉沢健一先生は卒業文集『ちくば』に「よろこびの詩」という文を寄せているが、失礼ながら、この文章はおよそ詩的ではないにも関わらず「よろこびの詩」というタイトルが付けられている(「真犯人仮説・狭山事件7 吉沢先生犯人仮説」参照)。この事実もまた、当時の狭山市において、詩作に親しむ文化があったことを示している。
(5) おわりに
「新推理・狭山事件2 脅迫状の詩的表現技法」と「新推理・狭山事件41 ソネット形式と詩的漢字使い」において、私は「真犯人詩人説」を推理してきた。
さらに、今回の「人」表現の分析において、真犯人と賢一さんが親しんでいた詩というのは、あるいは「歌詞」の作詞ではなかったか、と推理するに至った。
このような「表現分析」には、その人の経験則によって大きな幅ができるのはいたしかたない。「人」の分析からだけでそこまで言えるか、と批判を受けることは当然であろうが、1つの手掛かりとしてまとめておいた。
確実なことは、私にはこのように「人」表現を多用するクセはなく、警察の口述指導のない状況での石川さんもまた同様であったに違いないことである。
130816→0919→1118 甲斐仁志
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