『狭山事件を推理する』HP復刻版 第10章 叫び声

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『狭山事件を推理する』HP復刻版

目次

第1章 事件

第2章 Yの相関

第3章 最終目撃者

第4章 通学路

第5章 車出いく

第6章 情報過剰性

第7章 脅迫状

第8章 脅迫状訂正

第9章 訪問者

第10章 叫び声

第11章 犯行時間

第12章 ロープ

第13章 荒縄とスコップ

第14章 所持品 

第15章 Vの悲劇 

第16章 前の門  

第17章 脅迫状の作成

第18章 殺害・死体遺棄

第19章 黙劇者 

第20章 評決

 資料1 1審判決

 資料2 誘拐事件資料

 資料3 参考文献

 

 
新推理・狭山事件

 はじめに

1 殺害現場はどこか?

2 脅迫状の詩的表現技法
3 誕生祝いの最終食事
4 強姦か合意の性交か
5 単独犯か複数犯か
6 線状擦過傷の謎
7 虫害が示す犯行現場
8 背後からの腕締め
9 後頭部の傷は生前か死後か?
10 「合理的捜査」か「差別捜査」か?
11 「引っ掻き傷」の男
12 「佐野屋から30分」
13 「強姦・殺害」か「和姦・殺害」か?

  14 真犯人像への方法論  

 

 

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 hyousimidasi.jpg 第10章 叫び声

 

  犯人が警察の裏をかく準備は完全に整っていた。脅迫状の「車出いく」「時かんどおり」「その人にわたせー」のメッセージと、自転車を被害者方の庭先に乗りつけた、という思い込みの相乗効果によって、警察は犯人が車で佐野屋に乗りつけ、金をひったくって逃げるものと思い込んでいた。

 5月2日夜の10時項には佐野屋周辺に40名の警察官が張り込みを完了した。埼玉県警は朝から大谷木警部を狭山署に応援に派遣していたが、午後8時ころ刑事部長の中勲自らが県警の刑事7人を伴って乗り込み、直接張り込みを指揮した。

 最初、狭山署と大谷木警部は佐野屋の周りを中心に犯人が徒歩で来ることをも想定した張り込みを計画していたが、中刑事部長はその計画を全面変更し、張り込みを道路中心に切り換えた。

 したがって犯人取り逃がしの責任はこの中刑事部長らにあったことが明らかである。ところが、山川一雄が起訴されたあとの人事異動では、竹内狭山署長、大谷木警部らは犯人取り逃がしの責任を問われて左遷され、山川一雄を逮捕し自白させた手柄は刑事部次席の将田(実質的な捜査責任者)らが独占するのであるから、警察組織というのはずいぶん酷いものである。

 中刑事部長らの指揮で、2人1組の刑事が、佐野屋へ通じる5本の道路の辻々に張り込んだ。

 

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 この日も1日と同じように午後4時半頃から雨が降っていたが、8時頃にはあがり、西の空には半月がかかっていた。上田家では、婦人警官に行って欲しいと希望したが、警察は「女の人」と指示してきた犯人が上田家には女は登美恵しかいないことを知っていると考え、登美恵を行かせることにした。

 登美恵は11時30分に兄の車で自宅を出て、県道狭山・入曽線の手前で車を降り、そこから歩いて佐野屋に向かった。その道筋には、ひったくりを警戒して点々と刑事が張り込んでいた。11時50分頃に佐野屋に着き、入り口の戸の前で待った。その途中でバイクと自動車にすれちがい、さらに佐野屋の前に立っているときその前を自転車が1台、通行人が1人通っている。事件記録ではそれらの人が何者か明らかにされていないが、選挙の当選祝いの関係者か、警察官であろう。

 登美恵の西側の佐野屋の垣の中には付き添いをかってでたPTA会長の牧田秀雄が潜み、東側の生け垣の中には大谷木警部・飯野刑事が、道路をへだてた向かいの茶畑の中には山下警部・本田刑事が張り込んだ。事情を聞いて協力していた佐野屋の主人の佐野隆二は、戸の内側で耳をすましていた。

 

 エンジン音を響かせて道路上を犯人が現れることを予想して万全の準備が整えられていたが、午前0時10分すぎ、犯人は意外にも佐野屋東の畑のなかから「おーい、おーい」と登美恵に呼び掛けた。

 その声をはっきりと聞くことができたのは、大谷木ほかの4人の刑事と、登美恵、牧田秀雄の合計6人であった。

 犯人が10分間近く、とぎれとぎれに登美恵と交わした問答は次のとおりである。

 

犯 人 「おーい」「おーい」

「おーい」「おーい」

登美恵 「なによ」

犯 人 「金を持ってきたか」

登美恵 「持ってきたわよ」

犯 人 「こっちへ持ってこい」

登美恵 「こっちへいらっしゃいよ」

犯 人 「こっちへ持ってこい」

・・・・

犯 人 「サツに言ったんべい、そこに2人いるじゃねえか」

    「本当に金を持って来たのか」

登美恵 「私も約束どおり来たんだから、こっちへいらっしゃいよ」

犯 人 「持って来ないんなら30分たてば帰らなくちゃならないんだから帰るぞ」

登美恵 「あなたも男ならここまでいらっしゃいよ」

犯 人 「おらあ帰るぞ」

    「おらあ帰るぞ」

・・・・

 

 予想外の事態になり、大谷木警部らは飛び出そうにも、生け垣に隔てられて出られず、あわてた。

 一方、自分の前まで車で犯人が来ると思っていた登美恵は、犯人から畑の方に来るように要求されたが、現金を持たず「二十万円」に見せ掛けた紙包みを持っていたため動くに動けず、逆に犯人に自分の方に来るようにおびきよせる以外になかった。

  「サツに言ったんべい、そこに2人いるじゃねえか」と機先を制されたうえ、ポツリポツリと間をおいて押し問答が続いたため、大谷木警部らは動き出すきっかけをつかめなかった。最後に犯人が「おらあ帰るぞ」と言ったあとも、まだ会話が続くものと思ったため、犯人が逃走したあとしばらく時間をおいてから警察は追跡を開始することとなり、完全に遅れをとってしまった。

 包囲しようにも、警察官は道路にそって5方向に線状に分散配置されていたから、招集をかけることは困難で、一部を追跡捜査に回したほかはそのままの配置で朝まで網にかかるのを待つしかなかった。追跡は完全に失敗であったが、そもそもそういう事態は想定していなかったので、いわば当然の結果であった。

 3日朝、捜査本部が狭山市役所堀兼支所に設けられ、現場捜査、山狩り捜査が開始されるとともに、付近の聞き込み捜査、被害者の足取り捜査なども開始された。犯行現場の近くの畑のなかの3箇所から足跡が発見され、警察犬により犯人の逃走方向の追跡が行なわれた。

 以上が犯人を取り逃がした経過である。この場面はこの事件の中で犯人が直接姿を現した唯一の箇所であり、狭山事件の性格をよく示しているので、詳しく見ていきたい。

 

 まず、犯人の声、会話の内容について見てみよう。犯人の声の特徴は次のように報道されている。

  ・「声から犯人は中年男」(5月4日朝日新聞)

  ・「三十〜四十歳ぐらい」(同 毎日新聞)

  ・「竹内狭山署長・・・三十歳前後とも推定できる」(同 読売新聞)

  ・「三十五〜四十歳ぐらい」(同 東京新聞)

  ・「牧田吉雄さん(注、秀雄の誤り)・・・中年の男」(同)

  ・「二十歳代」(同 日経新聞)

  ・「二十歳前後」(同 埼玉新聞)

  ・「二十歳以上」(同 中日、サンケイ新聞)

  ・「登美恵・・・三十〜四十歳くらい」(同 サンケイ新聞夕刊)

  ・「中刑事部長・・・三十歳以上」(5月5日毎日新聞夕刊)

 

 声から年齢を割り出すことがどの程度可能かは別として、犯人の声を聞いた6人の多数が「中年」の声と感じていることに注目したい。この段階ではこの6人は犯人についてはっきりとした予断は持っておらず、感じたままに記者に話していると見られるので重要である。

 なぜこれらの人が「中年」と思ったのか、その理由は述べられていないが、私が注目したいのは、犯人が終始、落ち着きはらっていたことである。それは会話の口調だけでなく、「子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける」と脅迫状に書いたことに対応して、「30分たてば帰らなくちゃならないんだから帰るぞ」とわざわざ述べていることにも表れている。

 具体的に、2日夜の犯人の立場にたって再考してみよう。

 恐らく0時のかなり前に犯人は現場に着いて付近の様子を窺っていたであろう。その時、普段ほとんど人通りのない時刻であるにもかかわらず、乗用車とバイクが通り、登美恵が現われたあとには自転車に乗って歌をうたいながら男が通り、別に徒歩の男が目の前を通過している。これだけで、犯人の緊張は次第に高まらざるをえない。

 このような時、若い、まだ人生でいろんな場数を踏んでいない人物だとどうなるであろうか。その時の声は相当にうわずった、落ち着きのないものになるに違いない。

 最初から最後まで落ち着きはらい、声を震わせたり、つっかえたりすることなく、一定のテンポで話すことができるのは、よほどの事である。

 この犯人の冷静さは、人生経験をつみ、特にピンチを切り抜ける場数をふんだ中年の男にして初めて可能なことであると私は考える。人生経験をつんだベテランの刑事、牧田秀雄(スパイ養成機関の陸軍中野学校の出身者)、上田登美恵らの多くが感じた「中年男」という直感こそ、この狭山事件の犯人像をもっともよく示していると言える。

 さらに、犯人の声の質について、「サビがあり」(5月4日読売、日経)、「登美恵・・・しわがれた声」(同サンケイ)、「低い声」(5日読売)、「押殺したような低音」(17日「週刊朝日」)、などと表現されていることも、中年男の声の質を示していると見てよいであろう。中年になり声帯に弾力性がなくなるにつれ、低く、枯れた声になり、若々しい張り、艶がなくなることは、一般的な傾向である。

  「中年男」という、思いがけない犯人像が浮かんできたが、同時にもう一つ重要な手掛かりを犯人は残している。

 それは、この現場で犯人が極めて慎重に振る舞ったことである。

 すでに見たように、「車出いくからその人にわたせー」という脅迫状、被害者の自転車を被害者方の敷地の中の納屋に置くやり方、にみられる犯人の直接行動性、粗雑性が、犯人の見せかけにすぎないことがはっきりとわかる。

  ここでは犯人はいきなり現れて金を奪うということをせずに、畑の中から声をかけ、しかも自分の方に登美恵を執拗に呼び寄せる、という冷静、沈着な姿を示している。

 それだけではない。脅迫状で「時が一分出もをくれたら」「時かんどおり」「時かんどおり」と時間厳守を指示し、さらに「子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける」と約束した偽装工作に対応して、ここでも犯人は「30分たてば帰らなくちゃならない」と時間にこだわっている。片道30分のところに犯人の拠点があり、そこに共犯者がいるという脅迫状のストーリーにそった発言をしているのである。

 犯人は粗雑で、乱暴な、見境のない人物ではない。極めて計画的で、しかも緊迫した場面でも忘れることなく正確に計画を実行できる行動力を持った人物であることがわかる。

子供を狙って営利誘拐を計画していた人物が女子高校生に対象を変更した、というような、いきあたりバッタリな人物像とは全く対照的な、別の人物像がここでは明らかとなった。

 その動機は、農家の娘を狙っての「二十万円」の金欲しさ、ということではあるまい。中年の男で、しかも冷静で計画的行動力をもった人物なら、金持ちの子供を狙い、大金を要求する犯行を成功させることは充分に可能であったと思われる。

  犯人の目的は、金目当てではなく、善枝の殺害であったと考えられる。

  社会的地位のある中年男性が若い女性と性的関係をもち、その女性から結婚を迫られ、社会的にその事実が公になることをおそれてその女性を殺害する、という事件はけっこう多い。そのような事件の1つとしてこの事件を見ると、すべてが矛盾しない。

  ただし、ここで1つの問題が残る。なぜ危険をおかして2日夜に犯人が佐野屋に現れたのか、ということである。

  佐野屋脇の畑に犯人が現れた以上、犯人は金が欲しかったのではないか、殺害が目的ならそこまで危険を冒すことはしないのではないか? という疑問については、事件当時の状況を具体的に考えないと理解することはできない。

   犯人が殺人を計画し、それを営利誘拐事件に見せかけようと考えた時、まず頭に浮かんだのは、直前の吉展ちゃん事件ではなく、北海道の洋裁生殺し事件であったことは確実である。

  自分がこれからやろうとしている犯罪に一番類似している直前の事件で、しかも失敗例、というのは、気にしないわけにはいかない。

 

 洋裁生殺し事件が失敗したのは、被害者が電話で呼び出され、被害者が男とデートに行くと言い残したことから顔見知りと思われたことと、脅迫状を自宅に届けながら指定した場所に現れず、営利誘拐事件が偽装と見破られたことなどである。

 単に脅迫状を届けただけでは、相手が高校生だけに営利誘拐事件とはみられない、と犯人が教訓化したことは間違いない。それと、農家の娘を誘拐の対象に選ぶであろうか、という疑問にも対策をたてなければならない。洋裁生殺し事件のすぐ後で計画をたてる犯人としては、否が応でもこれらの事を考えないわけにはいかない。

 どんなに危険を冒しても、指定した場所に犯人は登場する必要があった。そして、いかに安全に逃げるか、が犯人の最大の関心事であった。金を奪うのは二の次でよい。それが「車出いく」「その人にわたせー」「時かんどおり」という脅迫状の三位一体の偽装工作であり、自転車を上田家の納屋に置いた理由である。

 犯人は、現場に安全に登場し逃亡するという、その一点に全神経を集中し、慎重・巧妙に計画を練りあげた。

 佐野屋で逃走する時、「30分たてば・・・・」と言い残したのは、金をとりにきたのは「友だち」であり、複数犯行である、という脅迫状のストーリーを忠実に演じたものであった。これは動機が個人的な殺人である、ということを隠すためにどうしても必要であった。この「30分」というのは金目当ての犯人であれば、わざわざ言い残す必要のない情報であり、ここにも犯人の偽装性が現れている。

   また洋裁生殺し事件の教訓として、犯人は被害者と一緒の所を目撃されてはまずい、と考えたに違いない。何処かで連絡をとり、別々に行動して、人目を避けて被害者を犯行場所に誘い込んだ、と推理される。

 

   山川一雄のことをみておこう。山川一雄は当時24歳で、それより老けて感じるというような状況は見出せない。

 その声は、第1次逮捕の時だけでなく、第2次逮捕の時にも証拠とされていないから、恐らく犯人には似ていなかったものと思われる。容疑者がリストアップされると同時に、佐野屋で犯人の声を聞いた何人かの刑事はその人物の声を聞きに行ったはずである。当然、山川一雄についても、その声は刑事によって最初にチェックされたはずである。

 もし、その時、山川一雄の声が犯人と似ていたなら、直ちに報告書がつくられ、登美恵や牧田秀雄にも聞かせたはずである。そして逮捕・起訴の有力な証拠とされたに違いない。

 ところが、登美恵と牧田秀雄に山川一雄の声を聞かせたのは、山川一雄の逮捕後10日もたってのことであった。そして、まず肉声を聞かせるのではなく、テープにとった山川一雄の声を聞かせるという奇妙なやり方をとっている。

 それも最初は似てなく、犯人の声より山川一雄の声の方が高いと登美恵は述べており、テープのスピードを調節したところ山川一雄の声が低くなって犯人の声に似てきた、というのである。

 山川一雄の声は、犯人よりも高くて、異なっていたものとみられる。

 

 

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