|
第5章 車出いく
私はこれまでいくつかの事件に関わり、多くの事件物のドキュメンタリーや推理小説、刑事小説などを読んできたが、この狭山事件の脅迫状ほど興味をそそられるものはなかった。
強いてあげれば、三億円事件の犯人が出した一連の脅迫状(読売新聞社会部『大捜査三億円事件』ほか)と、グリコ・森永事件の犯人の脅迫状(朝日新聞大阪社会部『緊急報告 グリコ・森永事件』、グループばぐ『かい入れ面相の戦争』ほか)がこれに匹敵する。狭山事件の真犯人の残した脅迫状は日本の犯罪史上にのこる第一級の犯罪資料と言ってよい(写真3、4参照)。


この脅迫状の基本的な性格は、情報の過剰性である。
もともと犯罪においては、現場に残る手掛かりー情報を最小限にすることが犯人にとって一番安全なのが一般的である。ところが、狭山事件の場合、脅迫状を初めとしてさまざまな点でその逆であることが目につく。
脅迫状の入っていた封筒をみよう。表は「少時様」という宛名を消して「上田江さく」と書き直している。裏には「上田江」「上田江さく」と書いている。「昭司様」「上田栄作」に対して当て字が使われていることについては後でまとめて考察するが、ここでは「少時様」と宛名を書いて、それを完全に消していない、あるいは脅迫状と封筒を全面的に書き直していないことに注目したい。
これでは、犯人はもともと「少時」方の子供を狙っていたことを知られてしまうことになる。とくに「少時」が「庄司」「東海林」などの名字ではなく、「昭三」「正二」「正治」などの名前であったとするならば、犯人は表札をたまたま見たという程度以上にその家のことを知っていた痕跡を残すことになる。これは、犯罪者の心理としては奇妙である。
ところが、脅迫状の本文をみると、犯人は欄外に「少時 このかみにツツんでこい」と書いた「少時」を読み取れないまでに抹消している。
ここでは犯人が脅迫状の回収を指示している周到さと、「少時」を丁寧に抹消していることは、犯人の心理としては一貫したものを示している。
脅迫状の本文では「少時」の痕跡を消し去りながら、封筒については「少時様」を2本斜線できれいに訂正し、もとの字が読めるままにしておくのは、どう考えてもアンバランスである。
犯人は凡帳面で細心な性格とズサンな性格をあわせ持っているのか、それとも封筒の表の「少時様」をわざと残したのか、どちらなのであろうか。
脅迫状の本文は、続いて「子供の命がほ知かたら4月29日の夜12時に。金二十万円女の人がもツて前の門のところにいろ。友だちが車出いくからその人にわたせー」と書かれ、「4月29日」が「五月2日」に、「前の門」の「前」が「さのヤ」の門に訂正されている(ここでも、「29」は読み取れないまで抹消されているが、「前」は読み取れる。この点については後に推理する)。
この三行の脅迫状の核心部分で注意すべきは、「友だちが」「車出いく」というくだりである。
一般的には犯人は犯罪の秘密を進んで教えることはない。
共犯者の存在や、交通手段を特に書かなければならない理由は一般的には全くない。ところが、この事件では「車出いく」は脅迫状の中で四回繰り返され、重要な結果を引き起こすこととなった。
それは、この「車出いく」に引っ掛けられて県警の張り込みが道路中心に分散し、畑の中から犯人が現れたときにうつ手がなく、まんまと犯人を取り逃がす結果を招いてしまったのである。犯人のトリックは見事に成功したのであって、この点において狭山事件の真犯人は三億円事件の犯人に匹敵すると言ってよい。
吉展ちゃん事件での犯人の取り逃がしの原因は、すでに見たように単なる偶然と警察のミスとの複合によるものであった。ところが、狭山事件での犯人の取り逃がしは犯人の巧妙なトリックに原因があったのである。およそその質を異にしているのであって、犯人取り逃がしの表面的類似性で狭山事件と吉展ちゃん事件を同列・類似の事件とみてはならない。
今でこそ「車」というのはありふれた交通手段であるが、この事件の発生した一九六三年当時で言えばかなり特別な乗り物であった。例えば、当時の狭山署には乗用車は署長用の一台しかなく、人々の通勤手段といえば自転車かバイクであった。後に黒沢明監督の映画『天国と地獄』で身代金を列車から投下させるのが相当話題になったが、それと比べても「車出いく」というのは、目新しい手口の事件であった。
それ程大金とも言えない「二十万円」の金を要求し、しかも普通の農家の娘を誘拐していることと比べて、車の利用というのはいかにもアンバランスである。警察も偽装工作を疑ってよさそうなものであるが、犯人のトリックに引っ掛かってしまう。
捜査経験を積んでいるはずの警察が、犯人の奇抜な罵にはまったのは、脅迫状にさらに巧妙な仕掛けがあったからである。
それは「その人にわたせー」という身代金を直接手渡しするようにとの犯人の指示である。
仮に「〇〇に金を置いておけ。友だちが車で取りに行く」であったとするならば、警察は犯人が本当に車で来ると考えなかったであろう。「車出いくからその人にわたせー」と指示されていたので、犯人が車で来てひったくり的に金を奪って逃げることを想定したのである。
脅迫状にはもう一つ巧妙な仕掛けがあった。それは「夜12時に」と時間を指定し、さらに「時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。ー」「時間どおり」「時間どおり」と三回も時間厳守を脅迫したことである。
これは何気なく読むと見逃すが、犯人が車でひったくり的に金を奪いにくると思わせるうえでは実に効果的である。途中まで車で来て、あとは歩いて現場に接近する、といった状況を警察に想定させないために、これ以上の巧妙な表現は考えにくい。
警察は犯人が車で道路上を時間どおりにやって来るものと思い込み、道路の要所要所に多数四十名もの警官を分散配置した。結果的に佐野屋の周辺を手薄にしてしまい、畑の中から犯人が現れた時には打つ手がなく、犯人を取り逃がしてしまう。
「車出いく」と、「その人にわたせー」、「時が一分出もをくれたら」という表現は三位一体となって、車による身代金受取りという奇抜な犯行方法をスムーズに警察に受け入れさせる効果を発揮したのである。
結果からみると、実に巧妙なやり方である。しかし、犯人の立場にたって推理する、ということを基本とする以上、結果から判断することは禁物である。犯人がとることのできた、さまざまの選択肢の一つとして、この結果を判断すべきである。
言うまでもないが、営利誘拐事件の基本目標は、身代金を安全に奪うことである。当然、この基本目標に犯人の注意は集中するはずである。第一に考えることは、被害者の家族が警察に届け出ないようにすることである。そのためには、子供が生きており、金を出せば無事に帰すことを家族に信用させる必要がある。それと、金を出すことを惜しまない金持ちを対象とすることも重要である。
第二は、警察が張り込んでいるかどうかを察知し、張り込んでいた場合には、安全に逃走できるようにすることである。第三は、警察は当然張り込んでいる、ということを前提にして、その裏をかいて金を奪う、というウルトラCである。
狭山事件で不自然な印象を受けるのは、農家の娘を対象にして「二十万円」を狙っているわりには、警察の張り込みの裏をかく、というトリックが巧妙で、いかにも不釣り合いであるという点である。
仮に「少時」方を狙っていたとしても、事情は変わらない。警察・裁判所が想定した「しょうじ」の江畑昭司は教師であり、この地方で特に金持ちの家とは言えない。
さらに異様な印象を受けるのは、「その人にわたせー」という金の受取り方法である。
「車出いく」のトリックで警察の張り込みをうまくかわして徒歩で現場に行ったとしても、相変わらず基本的な課題が犯人にとっては未解決のままである。現場に行って金を「女の人」から直接受け取るという冒険である。
東京のようなところならまだしも、狭山のような人口の少ない農村地帯では、顔を見られるということはそれだけで危険なことである。それは脅迫状を書いた犯人自身にとっても、取りに行く「友だち」であっても同じである。
何も直接に手渡しで金を受け取らなくても、吉展ちゃん事件や洋裁生殺し事件のように、どこかに金を置いておけと指示し、後で取りにいくのが一番自然なやり方である。吉展ちゃん事件でそのようなやり方で犯人が成功した直後に、それを真似せずに、「その人にわたせー」という方法を考えつくというのは、いかにも不自然である。
この脅迫状の方法だと、「女の人」に顔を見られてしまうだけではない。元の計画では「少時」方の「前の門」で金を受け取る計画であるから、その家の人にも門の中などから目撃される恐れがある。
脅迫状の回収まで指示する用意周到な犯人にしては、あまりにもズサンである。
「車出いく」のトリックで家人や警察の裏をかくことに成功したとしても、「女の人」や家族の人に目撃されたのでは元も子もない。犯人は「車出いく」の思いつきに熱中のあまり、肝心の安全に金をとる算段にまで気がまわらなかったのであろうか。
ここで私は、この事件の見方を根本から覆すような疑問に到達せざるをえない。果たして犯人は本気で金目当てで犯行を行なったのであろうかと。
犯人が佐野屋に実際に現れているだけに、始めからこの事件は金目当ての犯罪と見られた。しかしもしほんとうに真犯人が金を狙っていたのであれば、犯行を計画する時点においてどこにもっとも注意を集中し、どこに力を入れて計画を練り脅迫状の文章を考えたであろうか。
そのような立場に身を置いて考えてみると、やはり金の受取り方法に一番工夫をこらし、「友だちが車出いく」などという偽装工作は二の次のこととするに違いない。
どこか人目につきにくい、しかも警察の動きを安全に察知できるところに金を置かせ、警察が張り込んでいなければ金を取りに行くということを考えるのではなかろうか。現に吉展ちゃん事件でそのような成功例が報道された直後である。それを真似せずにより稚拙な方法をとるということは、一般的には考えにくい。
ところが、真犯人が何らかの事情で善枝を殺害し、しかもその目的・動機をかくし、営利誘拐事件に見せ掛けようとしたのであればどうであろうか。善枝の家は農家であって、金目当てに狙われるような家とは一般には受けとられない。しかも、高校生であって、幼児を誘拐するのとは同じようには見られにくい。そこで、犯人は「もともと子供を狙っていた男が、偶然に善枝と出会って誘拐した」というストーリーを立て偽装した、という事は考えられないであろうか。
次の課題は、犯人が金目当てで事件をひきおこしたことをそれらしく見せることである。洋裁生殺し事件では、五十万円を要求した犯人が金を取りに現れなかったことで疑惑を持たれ、捜査が誘拐一本には絞られなかった。その教訓を生かすとすれば、「〇〇に金を置け」というより、「その人にわたせー」とより強く金目当ての犯行を印象づけ、現場に現れる必要があったのではなかろうか。
「その人にわたせー」との指示は別の効果もあった。「〇〇に置いておけ」ではなく「その人にわたせー」と犯人が指示しているとすれば、犯人(あるいは犯人グループの一人)は「少時」方や被害者方と面識がない、と警察に思い込ませることができる。もし真犯人が善枝の周辺の人物であったとするならば、被害者周辺に警察の目が向くことは一番恐れているはずであり、それを防ぐうえで「その人にわたせー」は実に有効である。
過去の誘拐事件をみても、身代金を直接に被害者家族から受け取るというやり方は、都市的な流しの犯行か、事情を知らない第三者を使いにたてる(グリコ・森永事件のように第三者を脅して使者にするなど)か、のどちらかである。狭い田舎の事件では考えにくい手口である。
「車出いく」という高度なトリックを考えることのできた犯人が、直接手渡しという拙劣な受取り方法しか考えつかなかったというのは、あまりにもアンバランスで奇妙である。
金を取るという主目標については間抜けでありながら、警察の張り込みをうまくかわすという副次的な事柄については繊密で巧妙という犯人像をどう見るべきであろうか。
この狭山事件の歪んだ犯人像は、真犯人の犯行目的が金目当てではなく、別のところにあった、という変換を行なうと、きれいに別の犯人像に変わるのである。
あまりにも脅迫状の深読みのしすぎではないか、単に思慮分別に欠けた犯人がたまたま「その人にわたせー」などと書いただけではないか、という意見もあろう。ここで結論を出してしまうのではなく、さらに先に進んでみよう。
すでに封筒について述べたことであるが、「少時様」を完全に消すなり破り取るなどしなかった犯人は、脅迫状の本文でも「4月29日」「前の門」という、最初の犯行予定日と犯行現場の手掛かりを残している。
脅迫状の写真を見ればわかるように、犯人の国語力からみて短時間のうちに脅迫状を書き直せないことはない。善枝を誘拐したのであれば、彼女の鞄の中には封筒はともかくノートや筆記用具はあった。時間的な余裕があれば、脅迫状を書き直せないことはなかったはずである。
それをしなかったのは犯人の横着というより、犯人が意図的に情報を残したと見るべきではなかろうか。
最初の四行(欄外をふくむ)ですべての必要な指示を済ませた犯人は、続いて脅しを行なっている。
「車」と「友だち」と時間厳守について犯人が過剰ともいえる繰り返しを行なっていたことはすでに述べたが、「子供の命がないとおもい。ー」「小供は死。」「子供わ西武園の池の中に死出いる」「子供死出死まう。」「こどもわころしてヤる。」と被害者を殺すということについて過剰に繰り返しを行なっていることは異様である。
子供を無事に保護しており、約束を守れば返す、と両親に希望を持たせなければ、金を取ることは出来ないのに、まるで既に殺してしまったかのような脅迫となっている。かえって逆効果で、警察に届け出ることになってしまうのではなかろうか。これでは入質を返すあてがないことを何度も強調しているようなものである。
被害者を誘拐後にすぐに殺す計画であったなら、逆に犯人は子供が生きていることを脅迫状で強調しそうなものである。ここにも、いわずもがなの情報の過剰表現が見られる。
また、「西武園の池の中に死出いる」は、西武園が競輪場で有名であるだけに、犯人はここに通っている人間であるということをわざわざ教えるに等しい行為である。普段西武園の競輪場に通っている人物なら、むしろかえってこのような地名は避け、「入間川の中に死出いる」などと書くのではなかろうか。
ここでも、情報を犯人は過剰に盛り込んでいる印象を受ける。
脅迫状で「子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける。」と書き、佐野屋で「三十分たてば帰らなくちゃならないんだから帰るぞ」と犯人が言い残し、「1時かんご」と、「三十分たてば」を往復時間できっちりと対応させていることも気になる。
佐野屋での緊張した場面で、脅迫状に書いた「1時かんご」を覚えていて口に出した犯人の冷静さ、首尾一貫した計画性には驚かされる。
これら過剰な情報は、単なる犯人の書き過ぎとは考えられない。全てが、計画された過剰性、自らの犯行動機と真実の犯行を隠す偽装工作とみるべきではなかろうか。
最後に、以上の考察と山川一雄犯人説との関係を見ておこう。
二審判決は、「少時」を山川一雄方の近くの江畑昭司ではないかと推測しているが、この推測からはむしろ山川シロの結論がでてくることを明らかにしておきたい。
なぜなら山川一雄は江畑昭司方(正確には同人が婿入りした岸本米平方)に何度もお茶摘みに行き、父親と同家の井戸掘りの仕事もしており、江畑方の人達とはお互いに顔見知りである。
その江畑昭司を念頭において山川一雄が脅迫状を書くとすれば、その家の「前の門」のところで、その家の「女の人」から「その人にわたせー」という方法での身代金受取りの構想が出てくるであろうか。顔見知りであるだけでなく、声も覚えられている可能性の高い相手に対してである。
これは山川一雄犯人説の根本的な弱点である。裁判所の推理には無理がある。
また二審判決は、山川一雄がこの事件の脅迫状を吉展ちゃん事件の脅迫状をまねて書いたと推理している。その理由は、吉展ちゃん事件の犯人が脅迫電話で「金をポロ紙につつんで置け」と言ったのが、狭山事件の脅迫状の「少時 このかみにツツんでこい」に似ている、と言うのである。
確かに紙で包むという形式は同じであるが、その目的は両事件では全く異なっている。
吉展ちゃん事件の犯人は、金を指定の場所に置かせて自分が取りにいくまでの間に別の人間に持ち去られないようにするため、カムフラージュのためにポロ紙に包むことを指示した。
ところが、狭山事件の犯人は脅迫状を回収するために脅迫状で金を包むことを指示したのであって、全く別の動機に基づいている。身代金の手渡しを求める狭山事件の犯人には、それをボロに見せかけるための紙包みは不用であり、真似する必要はどこにもない。
吉展ちゃん事件を真似た犯行と裁判所が推理するのであれば、最も重要な金の受け渡し方法がなぜ異なるのか、といった事実をまず合理的に推理することが先決である。
このような重要な根本問題について推理を働かせてこそ、この事件の犯人に迫ることが初めて可能となる。
筆者注:その後、明らかとなった事実をもとにした推理については、「新たな推理」において明らかにしていきたい。
  
|