日本が去った後の台湾はどうなったのでしょうか

 

 戦後、日本には占領軍としてアメリカ軍が駐留したように、法律的にはまだ日本の領土であった台湾には、中華民国(国民党)軍が派遣されました。

 台湾の民衆は半世紀にも亘り大陸と隔絶されていたわけですから、祖国に復帰できることに大いに喜び、歓迎したそうです。

  ところが、国民党軍は靴もはかず、鍋釜・こうもり傘を背負ったヨレヨレの敗残兵であったため、「日本が負けたのはアメリカによってであり、中華民国ではなかった」と皆が思ったそうです。

 1949年、共産党との争いに敗れた国民党(蒋介石)は一族郎党を引き連れ、台湾に逃げ大陸反抗の根拠地としました。台湾を一時的な場所であるとし、社会建設を行うどころか、日本時代の資産を党所有とし、食荒らし台湾民衆を弾圧・抑圧しました。 

 そして、歴史は大いなる暗転を迎えます。「二・二八事件」が発生しました。1947年2月28日のことです。

 

 李登輝前総統が「台湾二二八の真実」(阮美ス著)に寄せた序文に以下の記述があります。

 

 戦争の終結とともに、日本人は台湾を去り、中華民国という統治者がやってきた。

 その軍隊が台湾人に銃口を向け、また官憲が多くの台湾人を逮捕して、じゅうぶんな審理も経ず、いわれなき罪状を付して「処刑」したのである。(P6)


簫さんが和訳された

「二・二八事件の真相」

(李筱峰著)
民衆の国民党への期待が絶望に
変わっていくさまがわかります

 

  私は06年12月、8回目の訪台で、息子とともに事件の生き証人の一人である簫錦文さんから事件の解説をしていただきました。  80歳を超える高齢には思えない若々しさで、午後1時から閉館の5時ギリギリまで長時間にわたり、語っていただき、ありがとうございました。    簫さんはビルマで日本兵として戦い、負傷してバンコクで入院の後、帰台後に国民党によりあわや死刑にされそうになったといいます。弟さんは無実の罪で殺されました。  事件の発端は2月27日夕方、台北市内で専売公社の取締官が1人のヤミ煙草販売女性を撲打したことから、圧制による不満が溜まっていた周囲の民衆が立ち上がり始まりました。

  波紋は全土に広がり国民党は全土の台湾知識人等約3万人を殺戮した事件です。未だに正確な被害者の全容は解明されていません。 この紀念館は1987年、戒厳令が解除された後の1997年、陳水扁総統が市長時代に、当時の李登輝総統とともに開設されました。  簫さんの言葉は、これは「文化の衝突」だといいます。  文化の低い者が高い者を統治することによる悲劇。

 すでに、台湾の就学率はほぼ100%で識字率も高く、上下水道は整備され衛生状況は良かったのですが、衛生状態が急激に悪化したようです。  水道の蛇口から水が出るのを見た兵士が金物屋で蛇口を買い、壁に取り付けて「水が出ない!」と言い、また、金槌が金で出来ていると勘違いし、ともに店主に暴行を働いたということです。(「台湾論」小林よしのり著でも紹介されています。)   役人や教師の質もひどくなり、日本時代に無かった賄賂が当然の社会になったようです。

 一例を紹介していただいたのですが、役人が商店に物を買いに来て領収書を渡そうとすると、「2倍の値段にせよ!」というので、断ると暴行されるので、言うがままにしたら、数日後、使用後に返品に来て2倍の金額を返さなくてはならなかったような例は日常だったそうです。  また、戸締りしなくても泥棒はいなかったのに、自転車を家の外に置いていたらすぐに盗まれたようです。もちろん、乗り方を知らないので担いで持っていったようです。

  日本が蓄積した行政・民間資産は国民党関係者が押収し、役所などの役職も全て独占し、大陸から来た人間を「外省人」とし、台湾人を「本省人」として、主要な就業機会を与えず差別したそうです。

 また、一日に4回も物価が上昇する急激なインフレーションが訪れ、台湾人の暮らしは悪化し、日本時代には経験したことのない飢饉も訪れ、餓死者も出たと言います。

  文化的に劣位なグループは、自分より優れた者の存在を抹殺しなければ統治を継続できないという、劣等感から行為に及んだのでしょうか。

  国民党は動員戡乱時期臨時条款を継続し、令状なしでの逮捕を行い、民衆を恐怖の底に陥れたのです。共産党のテロに対比し「白色テロル」と称され、1991年に廃止されるまで国民党の恐怖政治は継続されました。

  

 簫さんは月・水・木の午前9時に総統府、火は10時に二・二八紀念館に行けば、予約なしで解説していただけます。     
 なお、
この日は、阮美スさんもおられ、著作(「台湾二二八の真実」「漫画・台湾二二八事件」日本語版)にサインしてもらいました。

 彼女は結婚直後に、父を国民党に連行され二度と戻らなかったといいます。 

 

二・二八紀念館

解説する簫錦文さん

当初歓迎した街の様子

 国民党の旗を間違えている

 

被害者を弔う碑

 

二・二八紀念公園にある碑文

 この事件は悲情城市(1989年監督, 侯孝賢 ヴェネチア国際映画祭金獅子賞 )で、初めて台湾国内で公に描かれるようになりました。

   当時、内地に引き上げる日本人との交友も描かれています。

 台湾映画に造詣が深い田村志津枝さん著「悲情城市の人びと」(晶文社)に公開直後の台湾の様子が詳述されています。

 日本時代の国語は日本語でしたが、公学校(小学校)で台湾語の授業もあり、禁止されることは無かったが、北京語に代わり、台湾語が禁止され罰金も科せられるなどの結果、家族内でも世代間の疎通が難しくなったといいます。

(このあたりは、呉念眞監督による映画「多桑」にも描かれています。)
 

 呉念監督の講演は日本台湾医師連合のホームページ に紹介されています。

 多くの台湾人は身近な者を殺傷された結果「政治」を口にしなくなり、口々に、「犬が去って豚が来た。」とつぶやきました。

 有名な言葉です。日本人(犬)は偉そうに威張るが、番犬として我々を守ってくれたが、中国人(豚)は汚くて食い散らすだけだということです。

 そういえば、田河水泡が描いた漫画「のらくろ」にの日本兵は犬で、中国(支那)兵は豚だったような。

  戦後の一時期に日本の僻地医療の多くが台湾人に担われていたことを思い出しました。

 優秀な人は、政治家になるのを避け医師となり、日本を始め海外に脱出したり、またブラックリストに載り、帰台できなくなり、日本人が嫌がる業務に携わったのでしょう。 (日本台湾医師連合のホームページ)

 

 この頃、日本は、自分の国の復興を第一に優先し、半世紀もの間、運命を共にした台湾の存在を全く忘れてしまっていたのです。むしろ、当時の日本政府は民衆を弾圧した中国国民党との友好のパイプを維持しようとしていました。 

 

新生台湾国の建国を支援しよう! に続く

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