| ★随 想(1) | ★随 想(2) |
| 1 | 根上りの根を切つて | 2 | 〈あ・す・こ・そ・は〉の教え | 3 | 待つ楽しみ―ふるさとへの回帰 | 4 | 今週のことば | 5 | 抜き書き |
| 6 | なぜ歳を経ると見えて来るか? | 7 | 年末のイベント――賀状の筆書き―― | 8 | 味覚の不思議 | 9 | 竹細工―小学校入学前― | 10 | 私の節目を作ってくださった方々 |
| 11 | ウィキペディアおよびスパイシー の活用 | 12 | 少年の希望の話から | 13 | 庭掃除に思う | 14 | 親切は人を温める | 15 | 見る目を持った方々 |
| 16 | 書体の変化と体調 |
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静岡県浜松市の中区にある根上がり松(ねあがりまつ)は、根の部分が2メートル以上も地表から浮き上がっている非常に珍しい松です。根上がり松は「鴨江の根上がり松《と呼ばれる2本のクロマツで、昭和34年に浜松市の指定天然記念物の登録を受けました。(インターネットによる) ▼我が家には門冠り(もんかんぶり)の松を?えている。家屋に近い所にあり、地表から高さ7〜8センチの根上になっていた。 庭の樹木も成長して来たので剪定してもらった。それぞれ80センチほどに揃えて低くした。次の年から、私でもすこしずつえも枝を切ったりすることがしたかったから。 その時、剪定に来てくれた人が、この根上りに気づき、もしもこれにつまずいて倒れたりすると、骨折して、さらにドミノ骨折する心配があるからきりとった方がよいだろうとのはなし。 賛成した。丁寧に切り取られて障害物が取り除かれ、この通路を安心して通れるようになった。 ▼翌日、切り取った部分を見ると、始めは透明であったヤニが翌日はあめ色に変色していた。さらに3〜4日して、触ってみると少し硬くなっていた。しかも切り取った部分に白い塊があった。生命活動をしているのは確かである。 松には命の源でもある根の一部であったとしても、大けがをしたことになるのだろうから、生き延びるためのヤニであると思うと、樹木の生命力を思わざるをえなかった。 ▼農作業の仕事の一つに<土寄せ>があることを聞いたことがある。お寺の掃除を手伝ったとき総門の前の左右に松がうえられていた。そこでそうじしていると、土寄せをしてくださいといいながら松の根元に周りの砂を箒でかき揚げたことがあります。これも根上がりを少なくする方法だろうかと素人判断……。 平成二十四年十月二十二日 |
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〈あ・す・こ・そ・は〉の教え 親しくしていただいているかたから、〈あ・す・こ・そ・は〉の教えをお送りします。と、下記の文章を書き込んだメールをいただきました。
あいさつ…人より先に自分から。
すまいる…笑顔に開く天の花。
こしぼね…立志と立腰。性根を養う極秘伝。
そうじ…(場)を清め(心)を清める。
はがき…こころの交流、ご縁の持続。 この教えを私なりに少し説明させて頂きます。 ▼あいさつについては、おはようと言った挨拶でも、お互いの心に見えない絆が出来るものだとおもいます。人より先に自分から行うと相手の気持ちに和ませる力与えているとおもいます。 ▼すまいるについては、人と人との関係を円満にします。さらに、それに愛語が付け加えると、このひとはなんとマナーが良い人だと思い、いつまでも心のひだにきざまれることでしょう。 ▼こしぼねについては、椅子(座席が少し堅いほうがよい)に坐り、背もたれから少し離れた位置に坐り、腰骨をピンと立てますと、背骨もまっすぐになります。顔は正面に向けアゴは首のほうにひきつけるとよいようです。こしぼねを立てることを「立腰(りつよう)」といわれています。出来れば、誰かにこしぼねに触っていただき、よく立つているか調べていただくとよいようです。 坐禅の姿に似ています。毎日少しでも試みてはいかがでしょうか。 ▼そうじについての説明はこの通りです。ご家庭で奥様がされているのが普通だと思います。ご自身で奥様のお手伝いをされては。お手伝いする場所は便所が良いと思います。便所の掃除がきれいに行き届いているかどうかで、その家庭の品位(こんな言葉があるかどうかは疑問)がうかがわれると、言われています。 さらに付け加えますと、禅寺では便所は「東司(とうす)《と言われていて、最も先輩の修行者がされるそうです。 ▼はがきは説明の通りだとおもいます。ただ、メールが発達しているので、時の風潮である程度、はがきの代わりにメールを使うのはやむを得ないかと、私は妥協しています。 ▼黒崎の補足:月に一度くらいですが、メールで挨拶しています外科の医師として地域の医療に貢献されたS.M.先生は必ず万年筆で書かれ、ご自身の絵を刷り込んだハガキを頂戴しています。大事に保管しています。 ご参考にお読みください。 平成二十四年十月二十四日 |
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現役時代には感じなかった待つ楽しみをおぼえるようになっている。 ▼勤務していた時、わたしども男4人の兄弟は夫婦連れで年に一回は日本の各地を旅行していた。 東北に旅行した時、我々は青森まで飛行機を利用したが、その中の一人が飛行機に乗りたくないと、その夫婦は前日から国鉄を利用して途中で一泊して、合流したことがある。その時、新田次郎作『八甲田山死の』を読み、私は一度は登ってみたかった山をバスで登ったが、秋であったので、冬の遭難事件を想像してのたびでした。 ▼お互いが定年退職して、今年四月には、宮島への日帰り旅行をしたばかりであったが、十一月故郷(ふるさと)に集合して、近くのホテルで会おうと長兄が言い出して、郷里の家を守っている弟が皆さんに電話連絡して決定した。年輩ともなれば、”ふるさとは遠きにありて思うものなり”とはいえ、反面、おもいでの玉手箱を開きたいおもいがたかまる。 予定日まであと何日だと指折り数えている。その期間の待つ楽しみは長ければ長い程、生活に張りがでてくる。 待つ楽しみに次のようなことを思う ▼故郷へは集合時間より早く、余裕をもつて、JRの鈍行で沿線の風景を堪能し、到着したら、あそこに寄り、貴重品ともいえる小学校・中学校時代の友人を訪ねようと計画をたてる。たとえ会えなくても町のあちこちを散策して子供時代の原型を思いながらの変化を楽しもう。 予定の前日等には会ったときの楽しみなどを想像して、当日の準備をあれこれと自分でしよう。 楽しみが終わると、また逢う日までお互いに元気で!とあいさつして別れよう。 その日の歓楽を心の中で楽しみながら家路へと足を運ぶだろう。 ああ、当日は皆さんとのふれ合いが出来たが、「会者定離(えしゃじょうり)」の原則のとりこになり、寂寞が胸に迫ってくるだろう、必ずそうなる。 今日、皆と会えたのも「一期一会」だとの覚悟のほどを固めて、「いま・ここ・われ」の気持ちを奮い立たせて生きよう…。 次の待つ楽しみをきたいして…。 平成二十四年十月二十六日 |
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会社を定年退社してのち、7年と1学期間、高校に勤めたことがあります。 振り返りますと、なにぶんの新米(しんまい)の先生としての1学期は「学校と企業の違いに戸惑い、先輩の先生たちの教えかたを見よう見まねての教科(理科)の指導で精一杯でした。生活指導などにはとても手が回りませんでした。 ▼1学期が終わり夏休み、自宅研修で、反省しながら2学期の教科指導教案作りにはげみました。 2学期に入ると、少し教えかたにゆとりを感じるようになり、担当クラスの生徒の学力(数学・国語を含めて)も知ることができ、できるだけ理解できるようにこころがけました。 このようにして、かけ出し先生の私の1年間はすぎた。 ▼その後、生活の指導に役立つ方法を考えていました。 私が小学校4年生の時の担任:亀田先生が黒板の上に色紙に「いま、いまを本気に《と熱心に指導されて、勉強することを教えられました。今にして思えば、先生が生徒を教える信念を言葉に表されたのだったと思います。このことは忘れられない言葉です。 ▼教室には授業のための黒板の横に1メートル四角の連絡用掲示板がありまして、これを利用して、毎週土曜日の放課後、来週の生活の指導に少しでも参考になる言葉をチョークでかきました。 たとえば、 「ほんものは続く。つづけばほんものになる」「根を養えば 根はおのずから育つ」「いま、いまを本気に」などの言葉を書きました。 そして、翌月曜日の朝のホームクラスの時間に、生徒の一人を指さして朗読させて、その後、沈黙の時間をとりました。 生徒への効果ははっきりしませんでしたが、この言葉どうり、毎週、上述のような言葉を探し求めて続けることが私には勉強になりました。 ▼あるとき、職員室で英語の難波先生が私に「立派な言葉を毎週読ませてもらっています」 と、話して下さったことがありました。 「ああこんなことがあるのか。担当している生徒たちにと思ってしかいなかったが、先生まで読んでくださっていたのだと、励まされました。 池の水面に小石を投げ込むとその波紋がひろがるように「なにか行動すれば、はかることの出来ない影響を与えるものだと、「今週のことば」を書くことを続けました。 平成二十四年十月三十一日 |
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この言葉を知ったのは、新聞記事だったと思う。 ある大学の先生が学生の読書指導に当たっての方法である。 学生に自分の好きな本を読ませて、学生自身がこれぞと思った文章をそのまま抜き書き取り、感想を書かせる方法についてであった。
私の場合、普通は、本を読んで参考になる文章に出会えば、線を引くか、その頭に印をつけるか、簡単な感想めいたメモを書いている。ただ私のホームページ ▼私が抜き書きについておもうことについて少しのべてみます。 先ず、たとえば「抜き書きしたものが少なくても、そのものへの感想が深い考察であれば学生は考える力を養うのに役立つだろう。 次に、その本を通読して多くの感動する言葉に出合い、「抜き書き《すれば通読の喜びがあり、またその抜き書き文章に共通するものを見出して、自分の関心あることを知ることが出来るだろう。 いずれにしても、読みながしと比べれば手数を掛けただけ、自分のものになる事は明確である。 ▼この方法を実行された親しくしていただいている先生が大学で教育された体験談についてのお話をしますと その方は自費出版された新書版の本を生徒に無償提供されまして、抜き書き・感想を実行されました。 ほとんどの学生は通読して抜き書き・感想を書いて提出してくれたそうで、さまざまな視点での感想を記述していて、先生もその内容について感動されてはなしてくださいました。 ▼私はこの方法は読書指導に役立っ具体的な方法だと思います。 読書が本人の第二の天性になるまで身につけることが大事だと思っている私は具体的方法として、「読書週間には、吊にのみ聞いて、実は知らない書物、すなわち、論語、孟子、万葉、源氏、ホーマー、ダンテ、シェスクスピア、ゲーテなどを、はじめの十行でもよろしい、とにかく読んでみる、ということをしたら、どんなものであろう。《(読書週間に寄せて)*小島直記『回り道を選んだ男たち』(新潮社)に、福原麟太郎随想全集からの引用されたものを取上げましたが、出来るだけ努力したいものです。 平成二十四年十一月六日 |
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表題の課題は親しくしている人から与えられたものです。 私どもは、「50歳代に自己・人生・自然など、おおくのことについて考え、思っていたことが、60代になると深く見えてくるようになる」と口にする。 もう少し身近なことになりますと、「昔、読んだ本を歳とってから読むと違った読み方をしていることにきずく」ことがしばしばある。 私の場合、同じ本を毎年1回は読み通す本があり、その都度、以前には、これはと感じていなかった文章に意味をくみとり、新しく線を引いたりしている。 本題についてかんがえてみよう。 私たちの身は生れ落ちた瞬間から光陰に移されて、しばしも、とどまることはありません。こころは絶えず環境の影響を受け、いわゆる無常の世界に生きています。このこと自体が自然の法則だと思っています。 その中に私どもはいるわけですから、歳を経ると当然外部からの影響を受けながら成長しつずけていると思います(環境・自分の選択・心がけにより善(よ)くもなりなり悪くもなることは注意しなけれなならない)。 このようにして、歳を経ると、自分が無心であれば、すべての真実の様子が自分のこころに近ずいてきてくれるのではないかとおもっています。このことから「なぜ歳を経ると見えてくる」即ち真実の様子(少し堅苦しい言葉でいえば実相)が分かってくるものだと思う。 自分が無心であればと上述しましたが、それが出来るのかという点に突き当たります。 日頃、無心の境地にはなりたいとおもいながらも、なかなか得られません。過ぎ去ったことを気にしたり、これからのことをあれこれと取りこし苦労しています。こんなことをしても過去のことがやり直せない、またこれから何がおこるかわかりません。 荘子は「不将不迎、応而不藏」:「将(送…おく)らず迎えず、応じて蔵せず」といっています。私どもの心構えとして端的に説明しています。
私たちは「いま・ここ」にしか生きていないことを否定することはできません。そこで「いま・ここ」で出来る限り自分に与えられていることにはげんでいれば、知らず知らずに無心に入っていくことが出来るでしょう。
与えられた課題に対する考えは私見に過ぎませんので、ご批判教示ください。 2012.12.24
遠藤周作『生き上手 死に上手』(文春文庫)をめっくっていると、「年をとるほど見えてくるもの」を見つけた。「なぜ歳を経ると見えて来るか?」に似た言葉であるので読み、うつすことにした。 カミの世界へと近づいていくこと 「われわれのライフサイクルのうちでもっともカミに近い段階にあたるものが老人のそれであるということになるであろう。年をとるということはたんに老いて死を迎えるということを意味するのではない。それは生命の暗い谷間を降りていくことなのではなく、むしろカミの世界へとしだいに近づいていくこと、すなわち至福の山頂へとのぼっていく、ゆるやかな道ゆきを意味していたのである」(山折哲雄) 夏の一日、山折哲雄の『日本人の顔』という本を読んでいたら、出合った文章である。 山折氏のこの本は日本における翁(おきな)やカミのイメージを仏教と比較されながら傾聴すべき説を提出されているのだが、氏の考えによると日本人の翁の表情には優しい翁と怖(こわ)い翁の二つがあり、怖い翁のイメージはカミに近いものと見なされているのだそうだ。 そして氏は柳田国男の『先祖の話』を引用しながら、我々日本人は死後、家や村の周りにある山や森や丘にのぼって祖霊となり、更に供養を受けて一定期間をへるとカミになることを信じてきたと書いておられる。このカミは正月や盆がくると里におりて村人を祝福するのである。 親類に病人が出たために夏を東京で過した私は盆のあいだ、多くの人々が先祖の墓参りのために故郷に引きあげたあと静かさを満喫した。 そして宗教がないといわれている現代日本人の心の奥にはやっぱり盆をまもる何かが残っていることをしみじみ考えざるをえなかった。 意識の表面では否定するかもしれぬが、その奥底にある死んだ父や母や兄姉と、盆のあいだは交流したいという願望は日本人に特有のものである。それはやっぱり死んだ肉親が自分からそう遠くない世界に存在していて、こちらのことをあれこれ心配しているいてほしいという気持が我々の心のどこかにあるからにちがいない。 そういう気持ちはいわゆる科学や理屈が否定しても消し去ることのできぬもので、私も年齢(とし)を重ねるにつれ、むしろ、そういう本来の気持のほうを大事にしたいと思うようになった。 死んだ父や母が死後も自分を見まもってくれているように、自分も死後は残った家族や子供を見まもりたいという願望は多くの日本人にある。 そうでなければあれほど多くの人が盆のあいだ東京から去っていく筈はない。あの季節はたんなる休暇や家族旅行だけではなく、当人たちの気づかぬ、もっと深いものがあるように思えてくる。 ▼書き写していると、子供のころ、母とお墓に参り、帰る時には両手を後ろに組みあわせて父親を抱いてかえるようにさせられていた。母は誰に教わったのか知れないが私にはおしえていたことを思うと、母の両親に教わったにちがいない。 私の家内が雲の上に去って、近所のかたから「奥様がまもってくれていますよ」といわれたりしている。 平成二十八年七月二十四日 |
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今までは宛先・本文ともに印刷して、本文は一様であるから消息を知らせるために一言の添え書きをしていた。 24年の年末にはじめて本文全部を筆ペンで書いてみることにした。 思いがけなく、気分が落ち着く…書いている時に一人だけの静かな時間をもてるからか?印刷では得られないものであった。字が上手だとか下手だとかの気分は少しもおこらない。これが私の字だと……。 相手の消息をあれこれ思いやる気持ちも深いようだ。元気で、病気などしていないだろうか? ご家族はどうだろうか? 趣味を楽しんでいるだろうか、などなど。 村山正則先生は
『俗 ドクトル三人衆』P.138 に書かれている。
「先生は文字を書くには万年筆に限る《と言われているが、筆ペンでもじっくり書けるようである。 少し写経に近いものを感じたのは収穫であった。時間に余裕があるからで、多忙な方々には無理かもしれない。 書道を習ったことはありませんが、本気でやれば無心になれるかも知れないと感じた。書道家の人たちの心を思う。 平成二十四年十二月 |
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2月はじめ、スーパーに行くと、「酒かす」の袋に目がとまった。 子供のころ、さむい時分たびたび食べさせてくれていたのを思い出して、早速買って、なかに入れれるものを思い出して、鮭を買って帰る。 ▼その日の夕方、ヘルパーさんに作って下さいと頼んだ。そのかたはしらかったらしくて、パソコンを操作している私の部屋に来られて、「酒かす汁の造り方」を検索してくださいと。グーグルで調べるとあった。少し読んで分かりましたと言って、つくってくれた。 夕食にその汁を見ると具は鮭だけであった。どうも、ヘルパーさんは作ったくれたものだが、あんのじょう経験がないのだろうと想像した。 ▼その2日後、他のヘルパーん(前のヘルパーさんより年輩)がこられたので、また、同じように汁を作ってもらった。このときは私は子供の頃、母が作ってくれていたのを思い出して、食材に小芋を買ってきていた。鮭は残っていたので使って下さり大根・人参など野菜を使って美味しい汁を期待していた。 だけど、小芋・野菜は使っていたが、鮭は入っていなかった。その上、酒かすの量が薄かった。 ▼二人のヘルパーさんの酒かすの造り方は個人の経験によるものであり、私の酒かすの味覚は母からうえつけられていたもので、高齢になってもその記憶が残っているのは不思議なものだと思った。 酒かすに限らず、果物・お菓子などのもろもろの何十年の昔の味覚が残っています。私だけではないでしょう。 ▼現在の子供達も大人になりさらに高齢になると、今食べている食べ物の味覚の記憶を体で感じることだろう。スーパーでの加工食品の記憶が多いのではなかろうか? 味覚の記憶に限らず科学の分野でも「免疫力の記憶の不思議」を研究しているものがいる。 ▼人間は不思議なものを沢山持っているものだと思うと同時に、その理由が解明されてもさらに「不思議の解明」をしようと次々にとどまることなく追求する、不思議な動物だなあ!と、酒かす汁をいただきながら思いが発展した……。 平成二十五年二月二十日 |
今、わたしは小刀(切り出し・折りたたみ型)を持つていない。子供の時はあたえられていた。現在はどうだろうか? 想像すると、子供にもたせると「あぶない」と多くの方々が思われているのではかろうか。 鉛筆削りなどが準備されている。 ▼小学校に入る前ころから、私たち子供は小刀を使って、少し年のおおきい近所の子供に教えられて、「竹とんぼ」をつくっていた。竹をけずつているとき、小刀を滑らして、指先を切ったりして痛い目をして、少しずつ上達してなんどもするうちに使い方をおぼえてけがをしなくなった。 仲間でそれぞれのトンボが、滞空時間が長いかなど競争して楽しく遊んでいた。 ▼また竹馬なども教えられて作っていた。身長の約1.5倍くらいの枯れた竹(物干し竿の太さ)の節に自分を載せる20センチくらいの板(蒲鉾板の幅より少し狭い)を2枚はさんで紐でしばりつけてつくった。二本同じものを作り完成。 それに乗るには、始めは友達に二本の竹馬の前で支えて貰い片足を一本の竹馬にのり、次にもう一本の竹馬に片方の足をかけて体全体を載せる遊びである。そして片足を一歩前に出し、次に片足を前に出すのである。普通な徒歩での足の運びと同じ要領で竹馬に乗って行うのである。
懐かしい言葉を思い出した。 子供達だけで作り、道路(自動車はほとんど通らない。馬車が荷物をうんぱんしていた)で遊んでいた。時代は流れ流れ、広い道路は自動車であふれ、信号で整理されている。 参考:グーグルで検索すると竹馬 平成二十五年六月十五日 |
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私が会社員になるまでの節目をつくってくださったものに絞って時系列に整理します。 ▼小学校4年生の亀田担任先生。私には現在でも不思議にかんじているのですが、3年生までは算数と国語が甲、そのたはすべて乙であった(成績評価:甲・乙・丙の三段階)。そんな子供であったのが4年生で全甲の生徒になりました。この先生の指導理念は「いまいまを本気に」でした。先生は直筆で教壇の上にかかげられていました。この言葉の本当の意味は十分にはわかりませんでした。しかし私の座右の銘となっています。先生は一年間で転勤されました。 ▼次は、母親。言葉を尽くせるものできものではありません。中学校に進学させてくれたことは、その後の私が歩ゆんだ道の基礎になりました。 昭和15年(1930)当時は子供を中等学校に進学せる雰囲気はありませんでした。尋常高等小学校で、小学校6年生で卒業した子供は家業・農業・漁業などをしていた。高等科に行くものは幸せなことであった。そしてそれを卒業すると企業の養成工になのは、出来の良いものたちであった。 私は当然、家庭の状況から中学に進むことはできないほどであることは十分に子供ながらに理解していた。 父は司法書士であった。昭和10年にに逝去して、母は父の仕事を引き継ぎ、父親の親戚の旅館でも働いていました。また母の実兄の援助をうけていました。 母の思いを知るすべはありませが多分、経済的に苦しい体験から心に秘めた決意によるもでしたのでしょう、兄弟姉妹6人をすべて中等学校に進学させてくれました。 ▼中学に進むと、当時は全県から入学できるものでしたから、近隣の町村のできる子供があつまり、中学校には寄宿舎もあり、また町の民家に下宿しているものがいました。 授業も小学校と違い、多くの教科の先生が教えられる方式で教えられ、その授業の進み方の速さも違い、同級生の勉強のしかたもみながら自分のほうほうを模索して、中学3年生からはトップテンに這入るまでになりました。担任の先生は同じ中学校出身で京大卒業された国語の飛騨先生で3年・4年・5年と受け持たれてくださいました。 中学時代の同級生は数が減りましたが5年間の教育でしたから親友もできましてた。現在は数が減りましてが友情はかわりありません。 ▼5年生の2学期(現在では中学3年生)に海軍兵学校第76期生になりました。 この学校ではわずか10カ月でしたが、教育・規律など、私の一つの節目をつくつてくれました。クラスメートとは終生の思い出の友ができました。 ▼終戦後、短期間就職していますと、飛騨先生が旧制高校あるいは工専へ進めてはと母に話しかけてくれました。その結果、広島工専の応用化学にはいりました。 工専の3年生の夏休みに竹内助教授が旧制大学受験してはとすすめられましたので、母に話すと、兄が高等工業学校を卒業して、国鉄に就職していましたので、兄弟のバランスを考えて、せつかくだが、ここまでで我慢してくれないかといわれました。このうえ母に負担をかけるのはとかんがえまして、断念しました。母の考えを配慮せずに苦学してでもとの方法もあっただろうが、その当時(昭和24年)の環境は厳しかったのは、年配の方々はどなたもご存じのとおりでした。 ▼3年生の2学期10月、現在の「クラレ」から募集が学校にあり、推薦されて入社試験をうけました。合格いたしましてその後の道がきまりました。 卒業の時に就職が決まっていたのは、同級生40人のうち8名(20%)で、現在、想像もできない時代であったのです。 クラレは昭和25年に日本で初めて国産合成繊維:「ビニロン」の工業生産に踏み切ったときでした。 ここまで筆をすすめますと私は多くの節目がありました。節目に良い小・中学校での先生、友に出会い、海兵・工専での先生の指導に感謝します。 亡き母の歳に近くなりました、ありがとうございました。 平成二十五年六月二十日 |
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Google,Yahooの検索で、たとえば、西郷隆盛を検索すると「西郷隆盛 Wikipedia」の項目があります。その最下部に「ウィキペディアについて」が説明されています。 記事の引用については、著作権が放棄されているわけではありませんので、著作権法の認める範囲で行うことができます。引用の範囲を超える二次的利用はCC-BY-SA 3.0の規定に従うことが求められます(詳しくはウィキペディアを引用するをご覧ください。) 西郷隆盛といえば勝海舟と結びつきます。「勝海舟 - Wikipedia」も当然、掲載されています。歴史上の有名人物について大筋は知ることができますので大変重宝しています。 では現代、活躍されている方々はどうかといえば、これまた掲載されています。 歴史上の人物など百科事典に匹敵するものではないかと思います。 私は科学者について調べることをしていますが、相当詳しく記載されています。 「ウィキニュース」もありまして、科学的な研究成果が記載されています。「氏名ウィキニュース」で検索しますと、内容、研究者の氏名など、あらすじをしることができます。 ▼次に私が興味を持っているものに「スパイシー」です。 「西郷隆盛 - あのひと検索スパイシー - Spysee」 を検索しますと、本人の「プロフィル」、「人と人とのつながりの絵図」、「つながりの強いひと」などを知ることができます。 つながりの強いひととして、大久保利通、勝海舟、坂本龍馬、明治天皇、板垣退助などが説明されています ▼「氏名」で検索しますと、「氏名 - あのひと検索スパイシー - Spysee」を見ることができます。 現在、科学の分野について活躍されている方々について、上述の項目について知ることができます。報道機関にたびたび情報が流されている人たちもこれらを利用すると自分で知らなかったことがわかります。 皆様も活用されている方がが多いと思いますが、いろいろなことを知ることができて人の結びつきなど、なるほど「そうだったのか?」と想像されて楽しいものです。 平成二十五年六月二十四日 |
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昭和15年前後に小学校6年生から中学へ進学を希望していた少年が第一希望校に進めず、やむなく他の中学にすすまなければならなくなった。 この思い出は少年の胸に刻印されていたようで、80歳になっても、その残念・無念さが口から出てくる。 この残念さはその後の本人に与えた影響は二つ考えられる。 その一は、そこで落ち込んで、その後、伸びない。 その二は、残念な思いがバネになってその後、飛躍してゆく。 本人は「その二」だった。 本音で話していると、冒頭の思いが聞かれされた。 ▼歳月は行く水のごとく流れて、多くのものは忘却されてしまう。 しかし自分にとつて深く心に刻まれていたことは流れ去ることなく思い出される。 ▼以上のことから、連想の環が広がり、少年の希望の挫折は少年に限ららず社会人でも同じである。 私は、非常に狭い会社員生活(入社した会社で定年まで終身雇用時代)しか知りませんが 決して一筋縄では行きません。学歴横行時代でした。現在でも残っていると思われる。 そこで大切なことは、「与えられた仕事に打ち込むことである」と。 自分を取り巻く人はたくさんいます。その人たちの中に「見る人は見ている」ことは間違いありません。というのは「見られている」のです。 挫折をバネにする人になってほしいと、私はつぶやいている「声援を送っているよ!」と。 平成二十五年七月二日 |
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今年もお盆近くなり、庭の草も跳梁跋扈してあまりにも見苦しいので、平素は朝早く散歩していますが、これを中止して草抜きを行っています。 草抜きをしていても「あれこれ」と思いが頭の中を駆け巡ります。これも一人で草抜きをやっているからのお返しだと思いながら少しずつスコップをうごかしていました。 ふと、周利槃特(しゅりはんどく)のことを思い出しましたので、ご紹介します。 「一日示して云く、人の利鈍と云ふは志しの到らざる時のことなり。(中略)中々世智弁聡なるよりも鈍根なるやうにて切なる志しを発する人、速に悟りを得るなり。如来在世の周梨槃特のごときは、 一偈を読誦すること難かりしかど根性切なるによりて一夏に証を取りき」。 『正法眼蔵随聞記』P.64より ▼物覚えの悪い彼は、時々、自分の姓名さえ忘れることがあったので、ついには名札を背中に貼っておいた。「三業に悪を造らず、諸々の有情を傷めず、正念に空を観ずれば、無益の苦しみは免るべし」という簡単な偈が暗誦できない。ある日のこと、祇園精舎の門前に立っていた。釈迦は、静かに足を運ばれ 「おまえはそこで何をしているのか」と訊ねられました。彼は答えまして、「私はどうしてこんなに愚かな人間でございましょうか。私はもうとても仏弟子たることはできません」釈尊はいわれた。「愚者でありながら、自分の愚者たることを知らぬのが、ほんとうの愚者である。お前はチャンとおのれの愚者であることを知っている。だからおまえは真の愚者ではない」。 ▼一本の箒を与えられ、「塵を払い垢を除かん」の一句を改めて教えられた。ついに煩悩の塵埃を掃除することができた 参考:鴨 長明もその著作に周利槃特に触れています。 抑、一期の月影かたぶきて、余算の山のはに近し。たちまちに、三途の闇に向はんとす。何のわざをかかこたむとする。仏の教へ給ふおもむきは、事にふれて執心なかれとなり。今、草菴を愛するも、閑寂に著するも、さはりなるべし。いかゞ、要なき楽しみを述べて、あたら、時を過ぐさむ 。 しづかなるあか月、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく。世をのがれて、山林にまじはるは、心を修めて道を行はむとなり。しかるを、汝、すがたは聖人にて、心は濁りに染めり。栖はすなはち、浄名居士の跡をけがせりといへども、保つところは、わづかに周利槃特が行にだに及ばず。若、これ、貧賎の報のみづからなやますか、はたまた、妄心のいたりて狂せるか。そのとき、心、更に答ふる事なし。只、かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏両三遍申てやみぬ。 于時、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の菴にして、これをしるす。 『方丈記 五』より 平成二十五年八月八日
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「人の親切」をいただきました。 7月の土曜日、買い物に出かけました。途中で雨にふられ、カッタシャツはかなりぬれたまま○○整形外科にたちよりました。 リハビリをいつもしてくださる看護婦さんが、シャッがぬれていたので、シャツの下に乾いたタオルを入れてくれました。しばらくして、レントゲンを撮るときに着る上着に着かえさせてくれました。 そのまま、手順通りの処置をしていただいていました。彼女はリハビリをしている間にドライヤーで乾かしてくれていました。帰るときは雨も上がり青空がのぞき、私は乾いたシャッを身に着けて明るい気持ちで家にかえりました。 本当にありがたいことでした。こんなのを「本当の親切というものだ」と思いました。 これがきっかけになりまして私は気づいたことがありました。 ▼親切をたびたび受けながらそれが忘れられているものがないかと。たとえば、日ごろ親しくしている方からの無心の親切を忘れてはいないかと……。 このような具体的な目に見える親切にたいして、いろいろなものがある、その中の一つに言葉の親切がある。 最近は小学生の通学の登校・下校にあたり「こんにちは!」という子供が少しずつ増えている。「今日は」と返すと、微笑みが見られる。子供と大人に伝わるものがあるのだろう。 さらに多くの方々から、また感受性の鋭い人は、環境から、自然から気づかない大きなな親切を受けているのではないか。それに対してお返しができているのかと反省させられました。 ▼何年来、院長先生は整形に限りませんで、内科・皮膚の症状でも相談させていただいている医師です。地域のかたで「地域の医療に貢献したい」という先生です。 今年の二月に感染症にかかりそのとき、検査をしていただき、大学病に入院して治療をうけて治癒したのも、先生の処置が効果を発揮したものでした。 現在の医学はあまりにも専門・分化しています。その反省からか、「総合内科」が大学病院にあります。二月の治療はこの「総合内科」の先生方の治療でした。入院中、「総合内科」の先生方の勤務を初めて知ることができました。 平成二十五年八月十八日
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ある日の「日曜日坐禅会」が終わり、小方丈の席で、初めて坐禅をされた年配の人が、自分中心に周りが動いていると思っていましたが、坐禅をして「 私はこの言葉を聞いて、自分中心に周りが動いていいることはさしおきまして、多くの人に教えられた例を振り返り、少し具体的に記録してみます。
▼まず、母親の言葉です。父が早くなくなり、私たち子供をそだててくれました。小学校生の頃でした「あの子は母親一人の子供だからといって、後ろ指をさされることは決してしないように」とのしつけでした。
▼第二は、小学校四年生のクラス担任のK先生です。先生の学級指導方針は「いまいまを本気に!」でした。子供ながら私は変えられました。それまでは、算数が甲で、それ以外の教科はすべて乙でした(当時の評価は、甲・乙・丙の三段階)。ところが全甲の優等生になりました。現在の年齢になってもこの教えは守り続けたいものになっています。 ▼第三は、中学の三年生から五年生まで持ち上がってくださった担任のH先生でした。成績順にクラス編成され、先生が代わったものでしたが、なぜか、いまでもわからないのですが、しいて言えば「見る目を持たれた先生」だったのでしょう。小学校四年生の担任の先生と同じだったのではなかろうか?と。 ▼第四は、海軍兵学校の生徒として受けた教育でした。その中の例をあげれ「言い訳はするな」は現在でも私の実行項目の一つです:海軍の軍人を要請する学校であるから、一度失敗すれば生死にいたることは当然です。その時、「実はかくかくの事情がありました」と言っても後の祭りです。取り返しはできないのです。 ▼また、海軍士官になり、部下を持つようになり、何か変わったことが起これば「部下は士官の顔を見る」といわれていました。その時は毅然として。対策を考えるべきである。 兵学校については、ホームページに沢山書きましたので割愛します。 ▼第五は、会社に入って、数年後、上司の部長から、ある実験を指示されました。「それはすでに実験済みです」と答えました。そうすると「君は以前と変わりないのか」といわれました。これには、一言の反論できませんでした。そこで、「やります。部長も立ち会ってください」と言いまして、繰り返しその実験を見て頂き、納得していただきました。その後、部長は、目をかけてくださるようになり、工場から研究所に転勤になるとき、「見る人は見ているのだよ、しっかり励めよ」と餞別のお言葉をいただきました。 ▼書き足りませんが、人の助けなくては生きていけないものだと思います。人ばかりではないことは少し考えれば想像できます。このように考えれば、感謝し、少しでも世のためになりたいと思うこの頃です……。 平成二十六年一月十六日
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体調の変化を頂いた書簡の書体から知ることができるように思います。 パソコンが発達して、メールで便りをすることが多くなり書簡(手紙・ハガキ)を書くことが非常に少なくなっている。 友人の一人に「手紙またはハガキを書くことがありますか」と尋ねたところ、「そうですね、年賀状に添え書きをするくらいですかね」との回答。 私も、この友人に近く、メールを愛用している。 だが、時折、手紙・ハガキを頂くことがあります。 注意して読み・書体を見ていると、上手・下手は別にして、几帳面な書体が変化しており、内容も何かを訴えるものを感じ取ります。 今年、いただいた方からの年賀状の書体が変化して、乱れていました。その上、昨年は、「○○の病気で入退院を繰り返していました……」との内容でした。 また、親戚の一人からのハガキは字も上手でしたが、晩年、ケアー・ハウスに入ってから、しばらくしてのものは書体が乱れてきました。 そこで、私は提案します。時折、自分でも手紙・ハガキを書いて、「これはおかしいな!いままでの自分の字ではないぞ」と感じられるかどうかを確かめると、医師に相談する前に自分の体調の変化の判断の手掛かりになるだろうと思います。 平成二十六年一月二十六日
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