| ★和歌・俳句・うた |
|---|
| 01 | 万葉集 (759) |
02 | 大伴家持の歌 (718〜785) |
03 | 古今和歌集 (905頃) |
04 | 西行法師 (1118〜1190) |
05 | 梁塵秘抄 (1719) |
06 | 新古今和歌集 (1210) |
| 07 | 閑吟集 (1518) |
08 | 芭 蕉 (1644〜1694) |
09 | 蕪 村 (1717〜1783) |
10 | 一 茶 (1763〜1819) |
11 | 頼 山陽の五言 (1780〜1832) |
12 | 土井晩翠 (1871〜1952) |
| 13 | 与謝野鉄幹 (1873〜1935) |
14 | 高浜虚子 (1874〜1956) |
15 | 島木赤彦 (1876〜1925) |
16 | 山頭火 (1882〜1940) |
17 | 斉藤茂吉 (1882〜1953) |
18 | 高村光太郎 (1883〜1956) |
| 19 | 石川啄木 (1885〜1912) |
20 | 尾崎放哉 (1885〜1926) |
21 | 若山牧水 (1885〜1928) |
22 | 土岐善麿 (1885〜1980) |
23 | 吉井 勇 (1886〜1960) |
24 | 柳宗悦 (1889〜1961) |
| 25 | 室生犀星 (1889〜1962) |
26 | 三木露風 (1889〜1964) |
27 | 大石順教 (1889〜1968) |
28 | 八木 重吉 (1892〜1927) |
29 | 中川一政 (1893〜1991) |
30 | 西脇順三郎 (1894〜1982) |
| 31 | 宮沢賢治 (1896〜1933) |
32 | 中村久子 (1897〜1968) |
33 | 清水かつら (1898〜1951) |
34 | 安積得也 (1900〜1994) |
35 | 木村無想 (1904〜1984) |
36 | 三好達治 (1906〜1964) |
| 37 | 坂村 真民 (1909〜2006) |
38 | 柴田トヨ (1911〜2013) |
39 | 相田みつお (1924〜1991) |
40 | 長崎源之助 (1924〜2011) |
41 | 茨木のり子 (1926〜2006) |
42 | 新川和江 (1929〜) |
| 43 | 谷川俊太郎 (1931〜) |
44 | 大島みち子 (1942〜1963) |
45 | 星野富広 (1946〜) |
46 | 『早春賦』 |
▼万葉の人びと 犬養孝(PHP)
現代に生きる万葉のこころ
皆さん、これから三十七回ににわたって゛万葉の人びと゛ということでお話したいと思います。歌のよみ方の異同だとか、言葉の解釈など、細かい点まで触れることはできませんが、皆さんと共に万葉の世界を楽しく探ってみたいと思います。 皆さんは、学校で『万葉集』を習われますでしょう。何しろ『万葉集』は、およそ千三百年前の歌、一番古い歌集ですぁら、学校で、日本人の教養としても知っておかなければならないから習う、とお思いになるかも知れない。その通りだとだと思います。しかし『万葉集』は、ただ古いから勉強するというだけではありません。万葉の歌は今日も生きているんですよ。千三百年前の一番古い歌が一番新しく、現代人の心に生きてくるんです。 一つだけそ証拠を挙げましょう。 私が大阪大学におりましたときに、学生を連れて、『万葉集』にうたわれた故地を歩きました。その回数、百二十回。参加した学生役二万名。正確に言いますと一万八千五百十四名です。その人たちが、現地に行って、 「先生、すばらしいですねぇ。人麻呂の心ってすごいですねぇ。万葉びとって詩人ですね」 と言って感激するんです。その感激がもう、忘れられない。出席などなにも取らないのに、そんなに大勢来るんです。私はそれだけで万葉の心が今日も生きているいる一つのいい証拠になると思うんです。 では『万葉集』を生きた形で理解しようとするにはどうしたらいいでしょうか。 一つは万葉の時代は、たいへん古い時代ですね。一番新しい歌でも、天平宝宇三年、西暦七五九年に詠まれたものです。そうすると、今から千二百余年前でしょ。そうした古い時代ですから、その歴史の中に置いてみないと万葉の歌は理解できません。歌が生きてこないんです。 たとえば、『万葉集』四千五百余首の中には恋の歌がとても多いんです。どうしてそんなに多いのでしょうか。それは、今とは結婚生活が全然違うからです。今日は、たいがいつきあって、結婚式をあげて新婚旅行に行き、そしてアパートなどにいるでしょ。すると年中一緒にいるから、恋いしいのなんのって言っていられないでしょう。もう脇で赤ちゃんが泣いたりすると。ところが万葉時代は、夫婦は相当長い間別居なんです。ゆくゆく一緒になりますけれど。そいう別居だということを知れば、なるほど両方でもって恋し合うことの多いのもよくわかることでしょう。 『万葉集』にはとても恋の歌が多い。女の人の恋の歌は待つ歌がいちばん多い。夫の来るのを待つ歌、夫が帰って行ってしまったあとの気持の歌、そいう歌が非常に多い。ということは、やはり今とは違うんです。我々は、現代に生きているものですから、現代をきじゅんにして物を考えがちです。たとえば、今日、みんな新婚旅行するでしょう。だから万葉時代も新婚旅行するのかと思って、学生さんがまじめな顔で、「先生、万葉時代の貴族はどこへ新婚旅行に行ったんでしょか」なんて聞く。それからまた、人麻呂が「大君は神にしませば……」と言いますね。すると「天皇は神じゃないですよ。人間宣言をなさったもの」なんて言う。とんjんでもないことです。古い時代の事を今の感覚で考えていては、万葉の歌はりかいできません。「大君は 神にしませば……」というのも、壬申の乱という、あの大乱後の天武天皇。持統天皇、そういう方々を考えた時に、初めてわかるので、だから歴史の中、時代の中に歌を戻さなければんじゃらないのです。 もう一つ、万葉の歌は日本全国の風土と密着しているんです。ただ『万葉集』には北海道・青森県・秋田県・山形県・岩手県・沖縄県は出てこない。その他の日本全国各県は出てくるのです。それらの土地は風土がみな違うでしょう。たとえば雪ひとつにしても札幌の人は、雪を何とも思っていないでしょう。雪が嫌だったら暮らせないし、雪なんか少しも珍しくない。だから、雪は生活の一部になっている。ところが、飛鳥あたりになりますと、雪はめったに降りません。だから古代でも雪が降ったら、もう大喜びするんです。 たとえば天武天皇は、 わが里に 大雪降れり 大原の 古(ふ)りにし里に 落(ふ)らまくは後(のち) (巻二ー一〇三) ゛わが里には大雪が降ったよ゛と言われてはいますが、実は大雪ではないんですね。飛鳥あたりですから、ほんのちょっぴり降ったんです。それでも嬉しいから゛わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 落らまくは後゛と、こううたっているんでしょう。すなわち、雪ひとつにしても土地が違えば感じが違うんです。だから、やはりそれぞれの風土に、たとえば、瀬戸内海で生まれた歌は、瀬戸内海の風土にかえしてみないとわかりません。これから万葉の人びとの話をはじめますが、常に歴史の中に、時代の中に置いてみようと思う、その関連でみていきたいと思います。
『万葉集』というのは、いわば歌の博物館のようなものです。作者のだれ一人として、その中に自分の歌を入れてもらおうなど思って作ったわけでありません。それぞれの歌は、それぞれの時代に、それぞれの場所で生まれたものですから、歌を本当に理解するためには、その歌の生まれた時代や生まれた風土にできる限り戻してみんまければなりません。そうして、初めて博物館の標本のような歌が生き生きと躍り出して来るんです。(中略)
(巻一 一) 籠(こ)もよ み籠(こ)持ち ふくしもよ みぶくし持ち この丘(おか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 告(の)らさね そらみつ やまとの國は おしなべて 吾(われ)こそをれしきなべて 吾(われ)こそませ 我こそは 告(の)らめ 家をも名をも (岩波文庫) *参考:「ふくし」は竹や木の先をへら状にとがらせた、土をほる道具。 2008.10.27 (巻一 二七) 淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言(い)し芳野よく見よよき人よく見つ (岩波文庫)
*朝日新聞2008.10.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
りっぱな人がいい所だとよーく見た。そして「よい」と言った吉野よ。よく見よう。りっぱな人がよく見たのだから (巻一 五一)
采女(うねめ)の袖吹きかへす明日香(あすか)風京(みやこ)を遠みいたづらに吹く〔明日香宮より藤原宮に *朝日新聞2009.11.28 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より 采女(うねめ)の袖(そで)吹きかへす 明日香風(あすかかぜ)都を遠み 無用(いたずら)に吹く 私見:岩波文庫では「いたずら」にとかかれていますが中西先生は無用(いたずら)と書かれています。 参考:うねめ【采女】:「うねべ」とも。古代、天皇のそばで日常の雑役に奉仕した後宮の女官。 (巻一 五三) 藤原の大宮づかへあれつくや處女(をとめ)がともはともしろきろかも〔作者はいまだ詳かならず〕(岩波文庫) *朝日新聞200.8.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より 藤原(ふじはら)の 大宮仕(つか)へ 生(あ)れつぐや 処女(おとめ)がともは 羨しきろかも 藤原の宮に奉仕するために生まれつづくのか。少女たちは。うらやましいことだ 私見:岩波文庫でよむと「あれ」の意味が分かりません。古語辞典ではあれ【生まれ】うまれ、うじ素性。ともし【羨し】うらやましい。ナカニシ先生の歌のほうが私ども古語になれないものには親切である。つぎに先生が解説されている説明は当時の歴史をしらなければ想像もつかないものだと。いのち与えるは おとめの役割で纏められている。 (巻一 五四) 巨勢(こせ)山の つらつら椿 つらつらに 見つつ 思(しの)はな 巨勢の春野を 坂門人足(さかとのひとたり(岩波文庫) *朝日新聞2010.04.18 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より 巨勢山(こせやま)の つらつら椿 つらつらに 見つつ思(しの)はな 巨勢の春野を そこで『万葉集』ではツバキがりっぱな男性の比喩に使われました。 (巻一 六四)
*朝日新聞2009年11月6日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
「ところでカモは雌雄仲のいい鳥で、『万葉集』でもかならずいっしょにいる姿が歌われています。皇子はアシ辺のカモの姿から妻を思いやったにちがいありません。」と説明されています。 私見:「ゆうべ」と「ゆうへ」のよみが異なるのはなぜでしょうか。
(巻一 八二) うらさぶる
*朝日新聞2009年11月14日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
私見:「長田王」の読みが「ながたのおほきみ」と「おさだのおおきみ」と異なっているのは?
◆(巻二 一三三) ささの葉はみ山もさやに
*朝日新聞2010.01.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌
たしかな愛の信念です。
◆(巻二 一五八) やまぶきの立ちよそひたる山
*朝日新聞2010.01.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
当時ヤマブキは永遠を象徴する花だと考えられていました。
皇女の死は陰暦四月七日。ちょうどヤマブキがまっ盛りのころでした。作者は身のまわりに咲くヤマブキを見つめながら、生命の泉を幻に描くばかりで、絶望にうちひしがれていたことでしょう。
◆(巻三 二五〇) 玉藻刈る
*朝日新聞200.9.05 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
先生の説明では「現在、東京に首都圏ということばがありますね。奈良県に都があったころの首都圏は、だいたい明石海峡まででした。
都の領域を出て、いよいよ「
私見:万葉集を読むといつも当時の歴史・風土・人心などを知らなければ、歌の心を読み取ることが出来ないものだと。
◆(巻三 三一八)
*朝日新聞2010.01.23 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
*百人一首では
私見:岩波文庫、ナカニシ先生、百人一首で読み方が違っています。
2010.01.24
◆(巻三 二六六)
*朝日新聞200.9.05 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
先生の説明では、むかしは、死者の魂が鳥にになると信じられていましたから、死者の魂が湖上にみちみちてきたのですね。
私見:心と情が読み方が違っています。
◆(巻四 四八八) 君待つとわが戀ひをればわが
*朝日新聞2010年9月25日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
◆(巻四 五九六)
*朝日新聞2010.04.25 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
◆(巻四 六〇八)
*朝日新聞2009.07.19 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
◆(巻四 七一〇) み空行く月の光にただ一目あひ見し人の
*朝日新聞2010年8月21日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
音楽などの芸を売って、各地をさすらった女性たちでした。夢の中でのはかなき出会い 2010.8.30
◆(巻五 七九三) 世の中は空 2008.10.23
◆(巻五 七九八) 妹が見しあふちの花はちりぬべしわが泣く涙いまだ
*朝日新聞2010年8月21日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
九州・太宰府(だざいふ)で作者は長官・大伴旅人(おおとものたびと)の妻の死に遭遇(そうぐう)します。
2010年10月23日14時44分
◆(巻五 八〇三) ◆(巻五 八九三)
以下は朝日新聞2010年6月19日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より 作者の山上憶良には独特の人生観がありました。
それでは人間はどうしたらよいか。憶良は苦しみの中ですばらしい物をつかむことが大切だと考えました。苦しみが大きいほど、すばらしさは大きくなります。
私見:ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)の説明で、人生観に触れられているのは珍しいものでした。 2010.06.30 ◆(巻五 八九四)
神代より 言ひ
参考1:ことだま【言霊】:言語に宿っている不思議な霊力。
◆(巻六 九一九) 若の浦潮満ち来れば
*朝日新聞2009.1.22 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
◆(巻六 九七八)
*朝日新聞2010年6月26日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より 激励か、生涯の悔恨か
男子は、むざむざと一生をすごしてはいけない後のちに語りつがれるような
家柄にも出世コースにも恵まれなかった憶良は、四十歳で命をかけた中国派遣の使節団の一員となり、やっと出世のいと口をつかみました。
参考:巻五 八九三 にも〔山上憶良の歌〕が歌われています。併せて読んでください。
◆(巻七 一〇七五)
*朝日新聞2010年6月26日 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
月夜にやさしい出会いを2010年8月28日
天が水の世界だというのは、「旧約聖書」も同じですね。
◆(巻七 一二〇七) 粟島こぎ渡らんと思へども明石の
◆(巻七 一二四一) ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露にぬれにけるかも 〔古集の歌〕(岩波文庫)
*朝日新聞2009.09.19 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
朝、真っ黒な黒髪の山を越えて、山の下露にすっかり濡れたことだ、と説明されています。「恋人のぬくむくもり 後ろ髪引かれ」と一言もあります。
◆(巻七 一四三一) 百濟野の萩の古枝に春待つとをりし鶯鳴きにけむかも 〔山部宿禰赤人の歌〕(岩波文庫)
*朝日新聞2010.04.11 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
百濟野のハギの古枝に身をひそませて春を待っているウグイスは、もう鳴き始めたか
このころ百濟野の地には、荒廃した離宮がありました。そこに身をひそめていたのはどの皇子だったでしょう。奈良時代は皇位継承をめぐって、皇子たちの受難がつづきました。歴史の謎を思わせる一首です。
参考:百濟野は(奈良県北葛城郡広陵町百濟ノ野)
◆(巻七 一五〇〇) 夏の野の繁みに咲ける姫
*夏の野の
*朝日新聞2009.08.29 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
「生い茂る夏草の底に咲く姫ユリ。そのように人知れず恋をすることは、つらい」 ひそやかな恋 野の花のようと説明されています。
◆(巻八 一四一八)
*朝日新聞 ナカニシ先生のこども塾(奈良県立万葉文化館長・中西進)より
犬養孝『万葉の人びと』(PHP)P.17
まず、歌は心の音楽だということをお話したいと思います。みなさんは、学校で和歌が出てくると、どういうふうに習われたでしょうか。私が学生の頃は、歌が出てくると先生は読んで訳されるだけでした。たとえばこの「石ばしる……」の歌についていえば、作者は、天智天皇の皇子の志貴皇子(しきのみこ)です。さて「石ばしる」は垂水の枕詞だ、石の上を水が走って流れる。垂水っていうのは滝だ、滝のほとりのさわらびの「さ」は接頭語。“滝のほとりのワラビが萌え出す春となったなぁ”。先生はこう訳されて、それで終わり、「では次」、そうでなければ、「いい歌ですねぇ。ではその次」といった調子でした。私は学生の時少し生意気だったのでしょうね。国語の時間がつまらなかったのです。
歌というのは、口語に訳したら本当につまらないものです。もし歌がその訳だけを生命とするならば、歌ほどくだらないものはないでしょう。だって“滝のほとりのワラビが萌え出す春となったなぁ”。これが千古の値打ちのある歌かということになるでしょう。歌というものは、何といっても人間の心の音楽です。作った人はとうの昔に死んでしまっている。万葉でいえば、千三百年前に死んでしまっている。しかし、その歌の心の音楽は今に生きているいるのです。
こうやってうたっていくと、ほんとうに何だか春になった、今まで雪や氷に閉ざされていたところの春が来てホッとしたような、春の喜びが感じられるでしょう。それは、歌というものを普通はみんな意味で読みますね。だから意味がよくなければいけません。この歌にしても滝のほとりのワラビが萌え出す春となったというのは、本当に気持ちのいいことです。ところが意味だけではない。歌というのはやはり、五・七・五・七の型というものがあるでしょう。型というのは別の言葉で言えば、表現ですね。この歌にしても、さわらびに焦点を置いて、そのさわらびをちゃんと滝のほとりのさわらびだと限定して、そして、その滝の上には“石ばしる”という言葉があるから、イメージとして石の上を水が走って流れる感じがあるでしょう。さわらびに焦点を置いた上で、詠嘆しているのです。“萌え出づる春に なりにけるかも”と。表現が実によくできています。
それから、この歌の大事な点は律動です。歌のリズムです。見てごらんなさい。この歌で“の”“の”“の”の律動はいかにも流動的に満ちているでしょう。いかにも流動的です。「石ばしる 垂水の上の さ蕨の」というのは、実に淀みなく、流動感に満ちているでしょう。いかにも、こんこんと流れてやまない感じ。その上、“萌え出づる春に なりにけるかも”と言葉を引き伸ばして言っているのも、ゆったりとして、春風駘蕩の感じがします。このように歌は、律動というものを抜きにしては考えられません。
*この歌を絵にされた知人から贈られ、我が家の壁を飾っています。2008.6.11
*犬養先生の文章は2008.10.29 に写しました。
◆(巻八 一五五〇) 秋萩の散りの
*
ナカニシ先生は説明されています。日本人はむかしから「
◆(巻九 一四三三) うち
*うちのぼる 佐保
ナカニシ先生は説明されています。さかのぼっていく佐保川」の河原に、青柳は今こそ春の姿になった
佐保川は春日山から流れ出し、奈良の都をななめに貫いて南下する川です。都人には、もっとも親しい川だったでしょう。(中略)
2010.03.20
◆(巻九 一六六四) 夕されば
*
ナカニシ先生は説明されています。まずシカはなぜ鳴くのか。そう大好きな
また小倉山とは、神様のいらっしゃる山のことですが、とくにおまんじゅう形の山を、したしみをこめてよぶ言い方です。
2009.10.24
◆(巻九 一六八二) とこしへに夏冬行けや
*とこしへに 夏冬行けや
*「永久に夏と冬がつづいているのだろうか、皮の衣を着、扇をてばなさいやまの仙人よ」と、ナカニシ先生は読まれている。
ある日の宮廷です。一枚の絵を中に、数人の人たちががやがやと騒いでいます。どうも中国の絵らしい。
私見:中国で不老不死を求めていた話は読んだりしていましたが、万葉集に取り上げられているのも面白いものだと感じました。
2009.08.08
◆(巻九 一七〇〇) 秋風の山吹の瀬の
*朝日新聞のインターネットの記事から
秋風に
柿本人麻呂の歌集の歌
日本は四季のうつりかわりによって山も川も、空も海も、さまざまに変化してやみません。
*私見:一字読み方が違っている。
2009.9.26
◆(巻九 一七九一) 旅人の宿りせむ野に霜降らばわが子羽ぐくめ
*天平5(733)年、日本政府が中国へ派遣した使節団に加わった一人の男性に対して、母親はこんな歌をおくりました。こどもは一人っ子だったようです。
◆(巻十 一八二一) 春がすみ流るるなへに
*春
ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。
春になりました。春特有のの霞もぼっとまわりに立ちこめて、流れるようにただよっています。それにつられたのでしょうか、ウグイスも飛んできて鳴き声をひびかせます。ウグイスは「春告げ鳥」といわれて、春が来た証拠のようにみなされていました。
*「なへに」は…とともに。…につれて。(古語辞典)
◆(巻十 一八四〇) 梅が
*
*岩波文庫と朝日新聞では言葉が異なっている。
◆(巻十 一八四〇) 梅が
*
◆(巻十 一八四〇) 梅が
*
*岩波文庫と朝日新聞では言葉が異なっている。
◆(巻十 二〇一三) 天の川水
*
ナカニシ先生は次のように説明されている。
七月七日の夜に、彦星(ひこぼし)と織姫(おりひめ)が天の川をはさんで近づく伝説は「万葉集」でも、たくさん歌われています。
七夕の夜には秋を感じて2010年7月10日
*私見:岩波文庫の歌はすべて区切りのない書き方をしていますのでなかにし先生の書き方は参考になります。
◆(巻十 二一七七) 春はもえ夏は緑にくれなゐの
*春は
*岩波文庫と朝日新聞では言葉が異なっている。この読みの違いはどちらかが正しいのだろうか?
◆(巻十 二二七六) 雁がねの初聲聞きて咲き
*
*岩波文庫と朝日新聞では言葉の読みが異なっている。
生き物は みな結ばれている
◆(巻十 二三三四)
*
なかにし先生は「沫雪はどんどん降れ。長い間、会えないわたしは、それを見て恋人をしのぼう」(中略)
◆(巻十一 二三六八) たらちねの母が手
*たらちねの 母が手
愛情いっぱいのお母さんから、離れて、こんなにどうしたらいいか、わからないこと、初めてなの。大人になっても母に恋の相談
2010.01.20
◆(巻十二 二九八一) うつせみの常の
*うつせみの
ナカニシ先生は、月並みな言葉の奥の誠実さといわれ、次のように説明されていました。
平凡なきまり文句だとは思うのに、何度も聞かされると、つい迷ってしまう
いま作者の女性は、男性からプロポーズされています。
人間関係は誠実なのが、いちばん大事です。
それを感じかけている女性は、いい選択をしようとしているともいえます。
平凡なものを尊重しようとする態度は「万葉集」の基本の精神です。とかくわざとらしいものは、ニセ物のばあいが多いからです。
ニセ物は、だめですね。
私見:中西先生はご専門ですが、この歌の説明はどこから来るのでしょうか?
2010.07.22
◆(巻十三 三二五四) しき島の
*「日本は言霊の国」だと、みなさん言われている。
◆(巻十四の三四〇三)
上の一首は、ある本に曰く とある。(岩波文庫)
*吾(あ)が恋は まさかもかなし 草枕 多胡(たご)の入野(いりの)の 奥(おく)もかなしも
私の恋はいまもかなしい。草を枕にする多胡の、入野の奥――未来もかなしい
「恋心ってどんな気持ち」と聞かれたら、どう答えますか。
*朝日新聞2010年7月24日の記事から
私見:万葉の人びと 犬養孝の当時の時代の習慣・風土を思いながら読むことができました。
◆(巻十四の三四五九〉 稲つけばかかる
*稲(いね)舂(つ)けば 皹(かか)る吾(あ)が手を 今夜(こよい)もか 殿の若子(わくご)が 取りて嘆かむ
*朝日新聞2010年7月31日の記事から
◆(巻十六 三八二四) さしなべに湯
上の一首は、伝え傅へ云へらく、一時衆集ひて宴飲しき。時に夜漏三更にして、狐の声聞えき。すなはち衆諸、奥麻呂を誘ひて曰く、その饌具の雑器、狐の声、河、橋等の物に關けて、但、歌作れといひき。すなはち、声に應へてこの歌を作りきといへり。(岩波文庫)
*さし鍋に 湯
ナカニシ先生は、酔って難題 興乗るだじゃれと書かれている。
◆(巻十六 三八三六) 奈良山の
上の歌一首は、博士
*奈良山の
ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。
奈良山に生えるコノテガシワは面(おもて)が二つ。
それと同じように、両方にへつらう心まがりの奴(やつ)らよ
右の人にも左の人にも、いいことを言う人がいますね。そんな人をコノテガシワの木にたとえたのです。この木はまるで手のひらのように葉を伸ばし、葉が両面とも表のように見えるからです。
こんな人がいたら困りますね。
◆(巻十七 三八九六) 家にてもゆたふ命波の上に浮きてしをれば
*家にても たゆたふ命 波の上に 思ひし
ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。
船の動揺を命のゆらぎと感じたところに、作者の深い物思いがありますね。
人間の生き方を、改めて考えさせられます。
命の不安 船揺れてさ
2010.09.12 写之
◆(巻十七 三九六三)
上の歌一首は、大伴家持作れり。(岩波文庫)
*
ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。
*この世はとるに足らないものだ。落花にまぎれて死ぬと思うと
むかしから、すぐれた歌人たちが落花にまぎれて死んだと、言い伝えてきました。柿本人麻呂、小野小町、和泉式部らです。
この万葉歌人は、花の死をとおして、とかくこだわりがちな俗世間への執念を、反省しています。美しい花びらの死と、みにくい俗世間での争いをくらべながら、作者はきっといつまでも落花を静かに見つめていたにちがいありません。
*
◆(巻十七 四〇二四) 立山の雪しよのなか
上の歌一首は、大伴宿禰家持作れり。(岩波文庫)
*
ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。
富山県の立山は屏風のように高い峰を東西につらね、いくつかの川を日本海へとはしらせます。
私感:「雪消水」は、私には美しい言葉です。昔、三月中旬、山形県の小国町の基督独立学園訪問の途中の雪景色をみて「美しいですね」とつぶやきました。ところが新潟県出身の同乗者が雪国の冬をしらないから、そんなことが言えるのですとたしなめられた思い出があります。北国の方々が春を待つ気持が察せられます。
◆(巻十七 四〇二九)
上の歌一首は、大伴宿禰家持作れり。(岩波文庫)
*
ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。
珠洲の港を朝漕ぎ出してくると、長浜の浦には月が照っていたことだ
長浜は能登半島の東海岸でしょうが、どこか不明です。
いま目の前の海上に浮かんだ月が、波にゆられていた一日の船旅の、まるで結論のように見えたのでしょう。
じつは近代の詩人、萩原朔太郎に「泳ぐ人」が海上の月を見るという詩があります。いま海上の月を見つけた家持は「泳ぐ人」になっていました。一日の船旅で、心が彼を「泳ぐ人」にしたのです。
いえいえ、彼は大きく大伴家をゆさぶる時代の波にもゆられていましたし、越中へと身を運び、漂泊の旅の中にもいました。泳ぐ魂の持ち主でした。
波にゆらゆら 泳ぐ魂
◆(巻十八 四〇九七)
上の一首は、十二月、大伴宿禰家持作れり。(岩波文庫)
ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。
*天皇(すめろき)の 御代栄(みよさか)えむと 東(あずま)なる 陸奥山(みちのくやま)に 黄金(くがね)花咲く (朝日新聞の5月16日の記事から)
天皇の御代の繁栄を予言するように、東国、陸奥山から黄金が出た
七四九年、日本は初めて金の採掘に成功しました。大地の中に、あのキラキラと輝く金が眠っていたとは。
人びとの驚きと喜びは、大きかったでしょう。
歌が作られたのは五月(陰暦)でした。空にもまぶしい太陽が輝いていました。
◆(巻十八 四一三四) 雪の上に照れる
上の一首は、十二月、大伴宿禰家持作れり。(岩波文庫)
ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。
*雪の上に 照れる
ところで、雪月花のとり合わせは、中国の詩人・白楽天(七七二〜八四六)の詩が日本に入ってきてから日本で喜ばれたといわれてきました。
ところがじつは、白楽天が生まれるよりずっと前、七四九年十二月のこの一首によって大伴家持が発見した美でした。
美しい風景を仲良しといっしょに楽しみたいと思ったことも、すばらしいですね。自然の美しさが、愛の心を呼んだのでしょう。
◆(巻十八 四一三六) あしひきの山の
ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。
*あしひきの 山の
家持はさっそく習慣をまねてヤドリギを髪にさし、新年にあたっての祝福を、部下とともに祈りました。土地の人となじんでいく、やさしい人柄がしのばれますね。
ところでヤドリギを魔よけのおまじないにすることは、千年以上もむかしから、世界中の人たちがしてきました。いまヨーロッパではクリスマスの夜にヤドリギの下ならキスをしてもいいとか。
『万葉集』の歌が、こんなに世界的で、しかも久しい歴史に参加しているとは、うれしいですね。(朝日新聞の記事より)
◆(巻十九 四一五三)
*「ふね」は木篇に伐を並べての字であり。漢和辞典にも見つからなかった。
上の一首は、守大伴宿禰家持作れり。(岩波文庫)
ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。
*
モモが旺盛な生命力をもつ木で、悪い物を払う力があるとされていましたから、この日にモモの花をかざったのです。(以下略)(朝日新聞の記事より)
◆(巻二十 四二四六) 父母が
*
父母が頭を撫でて「無事でいなさい」といった言葉が忘れられない。当時の防人の意味をしることができました。(朝日新聞の記事より)
2008.12.11
◆(巻二十 四三四三)
ナカニシ先生は、つぎのように説明されている。
*
妻が痩せる原因には、まず、帰ることのむずかしい夫との別れがあります。
2010年9月18日
◆(巻二十 四三六一) 桜花今さかりになり難波の海おし照る宮に
ナカニシ先生は、つぎのように掲載されている。
*桜花 今
サクラは満開である。難波の海がかがやく宮殿で天子が世を統治なされるにつれて(朝日新聞の記事より)
みなさんは次のような話を聞いたことはありませんか。「日本人は奈良時代にウメを愛し、平安時代からサクラを愛した」と。
しかしごらんなさい。奈良時代の『万葉集』でも、こんなにサクラをほめたたえています。
とくに「なへ」という表現は、二つの物が連動することを意味します。よい政治が行われるとそれにつれて、サクラもますます美しくなる、と作者は考えるのです。(朝日新聞の記事より)
2010.03.27
◆(巻二十 四二四六) 松の
朝日新聞 ナカニシ先生の万葉 こども塾(2010年02月27日)によれば
松の
道沿いの松並木を見ると、家の人が人が見送ろうと立っていたのと同じだ
じつはこの時代、松を人に見立てる習慣がありました。松が人間だったら太刀をあげようなどと歌うほどです。
作者はこの時、マツが「待つ」と同じ発音だと気づいて、心の中で大声で叫びました。「帰りを待つていてくれる!」。この歌にはそんな思いもこめました。
私見:万葉の時代の防人と明治以降の兵士の気持ちの底にあるものに同じものを感じます。
◆(巻二十 四三八二) ふたがみ
朝日新聞 ナカニシ先生の万葉 こども塾(2010年1月9日)によれば
ふたがみ
*「ふたほがみ」の言葉はは意味不明。きっと悪口の俗語だからでしょう。上にはへつらい、下にはきびしい「お上」というのでしょうか。一方自分は仮病(あだ病)をつかっていたと、ふざけてみせます。(中略)じつは彼らはいま、たいへんな悲劇の中にいます。華族とのわから。ほとんど生きて帰れない。難波(なには)までの旅費は自弁。働き手を失った一家は貧しくなる。
◆(巻二十 四四八四) さく花はうつろふ時ありあしひきの山
朝日新聞 ナカニシ先生の万葉 こども塾(2010年7月3日)によれば
草の根の強さに人生見る
七五七年六月二十三日(陰暦)に作られた歌です。ところがその五日後に政府転覆の大陰謀が発覚、首謀者が次つぎと拷問(ごうもん)を受けて絶命します。
家持は先立ってこの陰謀を知っていて、花を求める人間の姿を静かに考えていたのでしょう。陰謀への誘いを必死に拒否しつづけたこともわかります。
結局彼は拷問死をまぬかれました。
家持の生命を救ったものは、心に映した山菅の根の生命のあり方でした。
私見:東西古今を通して政権争いは絶えないものがわかります。
2010.07.16
◆(巻二十 四四九三) 始(はつ)春の初子(はつ ね)の今日の玉箒(たまばはき)手に執(と)るからにゆらく玉の緒
朝日新聞 ナカニシ先生の万葉 こども塾(2010年1月9日)によれば
*始春と初春の字の違いがある。箒は蚕の箱を掃く道具だそうです。初子は、その月の最初の子の日。特に、正月の最初の子の日。
◆(巻二十 四五一六) 新しき年の初めの初春の今日ふる雪のいや
右の一首は守大伴宿禰家持作れり。(岩波文庫)
万葉集の最後の歌である。よごと【善事・吉事】よいこと。めでたいこと。⇔
2010.01.10
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海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草 *作曲者:芳賀 徹(昭和十二年である。)
『万葉集』巻十八に「陸奥國より 大伴家持が天平感宝元年(七四九年)五月に作ったというこの古い長歌の一節は、信時潔による昭和の名曲となって、いまも私たちの心の底にあの人たちのための鎮魂の祈りをよびおこさずにはいない。(1部分抜き書き) |
雪の降りけるをよめる 紀貫之 0009 霞たち木のめもはるの雪ふれば花なき里も花ぞ散りける(0023) 一 夏と秋とゆきかふ空のかよひじは かたへ涼しき風や吹くらん (凡河内躬恒ー古今和歌集巻3)(168) *名義 はじめ続(しょく)万葉集と称し、のち改める。万葉集より後の古い歌と今の世の歌とを集める意。 334 わたつ海(み)の 浜の真砂(まさご) かぞへつつ 君が千歳(ちとせ)の あり数(かず)にせむ 343 わがきみは 千代にましませ さざれ石の 巌(いはほ)となりて 苔のむすまで 345 しほの山さしでの磯に すむ千鳥 君が御代(みよ)をば 八千代とぞ鳴く 346 わが齢(よはひ) 君が八千代に とりそへて とどめおきてば 思い出にせよ
▼古今和歌集 巻第七 賀 歌 題しらず よみ人しらず の四首です。
1、あなたは、千年も万年もおすこやかに長生をお保ち下さい。細かい石が大きな岩となって、苔が生えるさきざきまでも。一種の長寿を祈った歌。 2、わがきみは「きみ」は、当時「主君」の意に限定されず、敬愛する相手に対して用いられている。のちに『和漢朗詠集』で「君が代は」と変わり、それが流布本「古今集と混合して国歌「君が代」となり、その「君が代」(あなたが生きていらっしゃる間)を「天皇の治世」ともとりなした。 千代にましましませ 底本では「千代に八千代だが、これは俊成本以後の本文なので改めた。 ▼素直に詠みますと、四首とも女の人の歌でしょうか、その女の人が、さざれ石に、浜の真砂、千鳥の鳴き声に「あなた」の長寿を願っている気持ちを詠まれているものでした。私には、女に限らず夫婦ともども長寿を願う気持ちが伝わってきます。
新潮社日本古典集成(第19回)昭和五十三年七月十日 第二刷
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一 願はくは花のしたにて春死なんその如月の望月のころ (続古今和歌集) 二 月を見て心うかれしいにしへの秋にもさらにめぐり逢ひぬる (新古今和歌集 1530 題しらず) 三 夜もすがら月こそ袖にやどりけれむかしの秋をおもひ出ずれば (新古今和歌集 1531 題しらず) 四 月の色に心をきよくそめましやみやこを出でぬわが身なりせば (新古今和歌集 1532 題しらず) 五 棄つとならば憂世を厭ふしるしあらむ我には曇れ秋の夜の月 (新古今和歌集 1533 題しらず) 六 ふけにけるわがみのかげをおもふまにはるかに月の傾きにける (新古今和歌集 1534 題しらず 参考:佐藤義家出家して西行(1140年10月13日) |
遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんと生まれけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さへこそ動(ゆる)がれる。 360 (岩波文庫)による。 *私感:近所の小学校・幼稚園の外を歩いているとき、無心に校舎のそとで運動している子供たちの声や動きについ我が身も動かされる。 200.11.071 |
二 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく (太上天皇) 七六 薄く濃き野邉のみどりの若草にあとまで見ゆる雪のむらぎえ (宮内卿) 一六九 暮れて行く春のみなとは知らねども霞に落つる宇治のしば舟 (寂蓮法師) 三六一 さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ (寂蓮法師) 七百六 今日ごとに今日や限と惜しめども又も今年に逢ひにけるかな (皇太后大夫俊成) 一九三九 これやこのうき世の外ならむとぼそのあけぼのの空 (新古今和歌集 21939 寂蓮法師) *名義 古今集の正統を継承し、かつ和歌の新時代を創造するの意をこめたものか。 |
一三 年々に人こそ古(ふ)りてなき世なれ、色も香も変らぬ宿の花盛り花盛り、誰見はやさんとばかり、又廻(めぐ)り来て小車の、我と浮世に有明の、尽きぬや怨みなるらむ、よしそれとても春の夜の、夢の中(うち)なる夢なれや夢なれや。 五五 何せうぞくすんで、一期は夢よ、ただ狂へ。 九六 ただ人は情けあれ、朝顔の花の上なる露の世に * この歌を読んで千代尼のよく知られた「朝顔に 釣瓶とられて 貰ひ水」の歌を思いました。 二五二 しやつとしたこそ人よけれ。 解題:「毛詩三百余篇になぞらへ、数を同じくして」とあるによって、毛詩と同数の三百十一編なる事を説いた。。 (岩波文庫)による。 2008.03.07 |
▼おくのほそ道
燈(ひ)ともせと云ひつつ出るや秋の暮れ 三椀の雑煮かゆる長者ぶり 去年より又さびしぞ秋の暮れ 父母のことのみおもふ秋のくれ 名月や池をめぐりて夜もすがら うづみ火や我(わが)かくれ家(が)も雪のなか *正岡子規は、「此句は家の外から家を見たのでは無く、家の内に在りて我家が雪深き中に埋れて居る様を思ふたのであろう。」と言っている。
*私見:「与謝蕪村 夜色楼台雪万家の図 個人蔵」の絵を連想する。 しら梅に明くる夜ぽかりとなりにけり *蕪村の辞世句 |
うたたねも叱り手のなき寒さかな 死に支度いたせいたせと桜かな 死にべたと山や思わん夕時雨 いざさらば死にげいこせん花の雨 またことし死損じけり秋の暮 美しさや障子の穴の天の川 *一茶臨終の句 |
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葵丑の歳 偶作 十有三春秋 (十有三の春秋 ) 逝者已如水 (逝く者は已に水の如し) 天地無始終 (天地始終無く) 人生有生死 (人生生死有り) 安得類古人 (安んぞ古人に類せんを得んや) 千載列青史 (千載青史に列せん) *読み下しは筆者 |
荒城の月
明治卅一年頃東京音楽学校の需(もとめ)に 応じて作れるもの、
春高楼の花の宴 めぐる盃影さして 千代の松が枝わけ出でし むかしの光いまいづこ。 秋陣営の霜の色 鳴き行く雁の数見せて 植うるつるぎに照りそひし むかしの光今いづこ。 いま荒城のよはの月 変らぬ光たがためぞ 垣に残るはただかづら 松に歌ふはただあらし。 天上影は変らねど 栄枯は移る世の姿 写さんとてか今もなほ あゝ荒城の夜半の月。 2008.5.14 |
「人を恋ふる歌」 妻をめとらば才たけて 顔(みめ)うるわしく情(なさけ)ある 友をえらばば書を読みて 六分(りくぶ)の侠気 四分(しぶ)の熱 恋の命をたずぬれば 名を惜しむかな男(おのこ)ゆえ 友のなさけをたずぬれば 義のあるところ火をも踏む 2011.03.26 |
一 虚子一人銀河と共に西へ行く
*山折哲雄『悪と往生』より 二 去年今年(こぞことし) 貫く棒の 如ごときもの 『六百五十句』(昭三〇)所収。昭和二十五年十二月二十日、新春放送用に作った句という。当時七十六歳。「去年今年」は、昨日が去年で今日は今年という一年の変わり目をとらえ、ぐんと大きく表現した新年の季語。虚子の句はこの季語の力を最大限に利用して、新春だけに限らず、去年をも今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理への思いをうた *「時空」を貫くものを感じる。「不易流行」「一以てこれを貫く」(『論語』の「巻第二 里仁第四」と「巻第八 衛霊公第十五」に使われている。)を思う。 三 一月や去年の日記なほ机邊 四 年を以て巨人としたり歩み去る 2017.01.01 89歳 |
藤田正勝 『西田幾多郎』――生きることと哲学(岩波新書)による 島木冬彦の〈写生〉P.67〜69 この生命の輝きを言いとめるという詩歌の営みを〈写生〉という言葉で表すことができるかもしれない。 西田が短歌の雑誌である『アララギ』にエッセーを寄せたのは、かってアララギ派の代表的な歌人であった島木赤彦と西田とのあいだに深い交流があったからである。一九二六に赤彦が亡くなったときに西田は「島木赤彦君」という短文を『アララギ』に寄せている。それによれば、西田が赤彦を知ったのは、岩波茂雄の紹介で赤彦が『万葉集』の古写本をみるために京都大学を訪れたときのことである。 これをきっかけに交際が始まり、赤彦が彼の歌論『歌道小見(かどうしょうけん)』を出版した際には、その批評を西田に依頼している。そのプランは実現しなかったが、しかし「私の近頃見た書物の中で最も面白く読んだものの一つであった」と西田はエッセーのなかで記している。このような関係が生まれたのは、赤彦の「写生」についての理解と西田の思想との間に、ある近さが存在することを両者が感じとっていたからではないだろうか。 赤彦の「写生」についての基本的な考えは、『歌道小見』の次の言葉から知ることができる。「私どもの心は、多く、具体的事象とその接触によって感動を起こします。感動の対象になって心に触れ来る事象は、その相触るる状態が、事象の姿であると共に、感動の姿でもあるのであります。左様な接触の状態を、そのままに歌に現すことは、同時に感動の状態をそのままに歌に現すことになるのでありまして、この表現の道を写生と呼んで居ります。」 文芸理論として最初に「写生」ということを主張したのは、言うまでもな正岡子規であった。赤彦もその影響を受けている。しかしここで言われている「写」は子規の言う「写生」と必ずしも同じではない。子規では、絵画をモデルとして「実際の有りのままを写す」ことが考えられている。赤彦の場合には、写生はある意味で「実際の有りのままを写す」ことであると言うことができる。しかしその「有りのまま」は、表現者から区別されたかぎりの事象を指すのではない。赤彦が歌おうとする「有りのまま」は、事象と感動とが一つになった状態である。その状態を「直接」に言葉に写すことが赤彦の「写生」である。それは単なる対象の記述ではなく、その人の生の表現である。 この点を捉えて西田はエッセー「島木赤彦君」のなかで次のように述べている。「写生といっても単に物の表面を写すことではない、生を以て生を写すことである。写すといえば既にそこに間隙がある。真の写生は生自身の言表でなければならぬ、否生が生自身の姿を見ることでなければならぬ」。西田が赤彦の「写生」論に共感をしめしたのは、赤彦の短歌についての理解が、まさにこの、芸術は生――赤彦流に言えば事象と感動とが一つになった状態――が生自身の姿を見ることであるという西田の芸術理解に通じるものがあったからであろう。 2008.5.4
二月十三帰国昼夜痛みて呻吟す。胸瘠せに瘠せ骨たちにたつ 生(い)き乍(なが)ら瘠せはてにける佛を己(おの)れみづから拝(おろが)みまをす 火箸もて野菜スープの火加減(ひかげん)を折り折り見居り妻の心あはれ 隣室に書(ふみ)よむ子らの聲きけば心に沁みて生(い)きたかりけり 風呂桶にさはらふ我の背(せ)の骨の斯(か)く現れてありと思へや 魂(たましひ)はいづれの空に行くならん我に用なきことを思ひ居り 2008.5.5,2017.07.11追加。 |
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種田 山頭火(たねだ さんとうか、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日) 戦前日本の俳人。よく山頭火と呼ばれる。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。本名・種田正一。 十一歳のときに母を失った。母の死は病気ではない。自殺である。 父は女道楽の人であった。父が妾をつくり、その妾と行楽の旅に出た留守に、母・フサは井戸にに身を投げて死んだ。 ちょうど山頭火少年は裏庭で近所の子どもたちと遊んでいた。裏井戸のあたりの騒ぎに近づくと、「あっちへ行っとりなさい」と大人たちに追い払われた。しかし山頭火少年はしっかりと、井戸から引きあげられる母親の、水びたしの姿を見たのである。 のちに僧となって行乞(ぎょうこつ)の旅をつづけることになった山頭火は、白布に母の位牌を巻いて持っていた。「あんな死に方をした母は、成仏をしていない」 そう思って、母の成仏を願って行乞の旅を続けたのである。してみると、山頭火の旅は一面では母恋いの旅であったとも思えるのだが、終焉の場所となった松山の一草庵でも、昭和十五年三月六日の日記にこう書いてある。 「けさもずゐぶん早かった。早すぎた。何もかもかたづいてもまだ夜が明けなかった。亡母第四十九回忌(略)。一洶さん立ち寄る。母へお経を読んでくれる。ありがとう。(略)道後で一浴、爪をきり顔を剃る、さっぱりした。仏前にかしこまって、焼香諷(ママ)経、母よ、不幸者を赦して下さい。(略)のんびりと寝た、仏前からおさがりをいたヾいて」 とても母の五十回忌までは生きられまいと、山頭火は自分の命を測っている。山頭火は母の成仏を願い、母の位牌を懐に歩きつづけたのである。 「若うして死をいそぎたまへる 母上の霊前に本書を 霊前に供えへまつる 山頭火」 一代句集『一草塔』の扉に、こう書いてある。山頭火の句の底にはいつも"母恋い"の思いが流れている。
山頭火の生涯
[明治十五年〜三十九年]
母の自殺からはじまる境涯
種田家は海を渡って約二百七十年前に土佐から周防(すおう)に移り住んだ元郷士(ごうし)。山頭火はは「大種田」とよばれた種田家の七代目で、それにふさわしい育ち方もしたようだ。十歳のとき母が自殺、後年には自分が自叙伝を書くならば━━私一家の不幸は母の自殺から━━と書かねばならぬと記している。
[明治四十年〜大正五年]
大道(だいどう)で種田酒造場を経営 大種田の家産かたむき、再起を期して隣村大道の酒造場を買い受けて酒造りをはじめる。山頭火も結婚し家業に専念した一時期はあるが、文芸方面に熱中し無軌道に酒を飲む。山頭火のペンネームで翻訳を発表したり、自由律俳句をつくりはじめた。
[大正五年〜大正十二年]
破産出郷・熊本と東京 種田家は破産して一家離散、山頭火は妻子を連れて熊本市に赴き、古書店(のちに額縁店)を開く。文学立身があきらめきれず単身上京、やがて離婚におよぶ。一時は一ツ橋図書館などに勤めるが、神経衰弱が再発して無職浪々のうちに関東大震災が起こり罹災。社会主義者と誤解されて巣鴨刑務所に留置された。
[大正十二年〜大正十五年]
出家得度して観音堂守に 帰着した熊本での生活は不本意なもので、あるとき泥酔して走行中の市内電車の前に立ちはだかった。そんな捨て鉢の山頭火を禅寺に連れていく人があって、これを機縁に禅門に入り出家得度(四十三歳)。まもなく山林独住の観音堂守となるが、一年余りでそこを去り一所不住の旅に出た(四十四歳)。
[大正十五年〜昭和四年]
山陽・山陰・四国地方行乞 旅の一つの目的は小豆島に放哉を訪ねて会うことだったが、その死を知って予定を変更した。信頼する俳人として九州では木村緑平、山口には久保白船がおり、母の菩提を弔うため四国霊場八十八か所の巡拝をなし、小豆島に渡って放哉の墓に参った。
[昭和四年〜昭和六年]
九州三十三所観音巡礼 熊本に落ち着くかにみえたが、「やっぱり時代錯誤的生活しか出来ない」とみずからすすんで旅に出た。九州における三十三所観音巡礼を思いたち、昭和四年は一番から十三番まで、翌年は七か寺巡拝して中断。熊本市内に間借りして個人雑誌「三八九(さんぱく)」を発行し自活しようとする。
[昭和六年〜昭和九年]
其中庵(ご ちゅう あん)を営む 暮れも押し迫って一鉢一笠、いわゆる自嘲の旅に出た。約五か月で九州観音巡礼の打ち残しの札所を巡拝。山口県の川棚温泉に足を留め、ここに庵を結ぶことを望む。けれども実現せず、やがて小郡の山麓に其中庵を営む。井泉水をはじめ層雲(そううん)派俳人の来遊しきり。
[昭和九年〜昭和十一年]
逆コースの「奥の細道」 信州伊那に俳人井上井月(せいげつ)の足跡を訪ねようとするが、峠の深雪に行きなずんで飯田で病む。帰庵してからも不調の日々が続き、一度は自殺未遂。いよいよ旅で死ぬことを考え、ふたたび東上の旅に立ち、東京からは芭蕉の『奥の細道』を意識しながら、逆コースで平泉まで至り、帰路は福井の永平寺に参籠(さんろう)。
[昭和十二年〜昭和十四年]
転一歩して市井へ 急転直下で下関の材木商店に就職して失敗。けれど庵住にも倦(う)んで湯田温泉の歓楽街の片隅に移り住む。周囲に文学青年たちが集まってきて安逸な日々を送る。気がかりだった俳人井月の墓参のためふたたび伊那に赴き、ついに念願を果たして帰る。
[昭和十四年〜昭和十五年]
永遠なる旅人 死ぬのは近代俳句のメッカ松山だと決めて四国に渡る。ふたたび四国遍路に旅立って、途上、小豆島では放哉墓参。松山に至って、終焉となる庵を定めて一草庵(いつそうあん)と名づけた。遍路の循環道であるそのほとりに死ぬことを決め、一代句集『草木塔』を出版、母の霊前に供えた。句会が開かれている庵の片隅でコロリ往生。 ※早坂 暁『山頭火』(日本放送 出版協会)より抜粋。 一 ひとりで蚊にくはれてゐる 二 蚊帳の中まで夕焼けの一人寝てゐる 三 張りかへた障子のなかの一人 四 いつ死ぬる 木の実は播いておく 五 山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 六 春夏秋冬 七 あしたもよろし ゆふべもよろし 2015.12.03
<まっすぐな道でさびしい> 放浪遍歴の詩人種田山頭火の句である。 <この道や行く人もなしに秋の暮れ> 芭蕉の事実上の辞世の句とも見られている。山頭火の句と心の底では共通するものを感じるのは私ばかりではないでしょう。 私の好きなひとであり、『定本 山頭火全集』全七巻が本棚の隅に眠っている。 山頭火についてまとめて記録しておこう。紀野一義『禅―現代に生きるもの』(NHKブックス)より ▼明治十五年に山口県の防府で生まれた人で、種田家といえばその地方きっての名家であったという。ところが、父親の竹次郎の女道楽から、母はかれが十一歳の年に屋敷内の井戸に投身自殺して果て、父子ではじめた酒造業も、父の女道楽とかれの飲酒癖のためについに潰れ、かれは妻子とともに熊本に逃げ、やがて妻子と離別して、生涯放浪遍歴の旅をつづけることになるのであるが、この山頭火が出家したいきさつが感銘深いのである。 ▼大正十三のある日、泥酔した山頭火が熊本公会堂の前で、走って来る電車の前に仁王立ちに立ちはだかるという事件を起こした。電車は急停車して事なき得たが、乗客は将棋倒しとなり、憤った乗客と野次馬二、三百人に囲まれて山頭火は罵声を浴びた。巡査も来た。そのとき、木庭という新聞記者が巡査に交渉してかれを貰い受け、曹洞宗の禅寺報恩寺に連れて行ったのである。 ▼望月義庵師は、泥酔している山頭火を叱るでもなく、名をきくでもなく、ニコニコして三度の食事を給し、『無門関』一冊をかれに与えた。 これが山頭火にはこたえた。この報恩寺にはたしかに、入る者を拒む門はなかった。そこでは泥酔した性格破綻者さえも微笑で迎えられた。それはたしかに「無門」であった。しかし、そこには「無門」という門がちゃんとあった。その門こそ、自分がくぐらねばならぬ門であると、酔いからさめた山頭火は考えたのに相違ない。 ▼熊本には、当時、破竹の勢いで曹洞の禅風を鼓吹していられた沢木興道師がおられた。山頭火はその席に連ったこともある。しかし興道師の峻烈な禅風には悦服しなかった山頭火が、義庵師の底抜けに温和な禅風には一ぺんに参ったのである。そこが面白い。山頭火は人が変わったようになった。早朝に起き、拭き掃除にいそしみ、坐禅もした。翌大正十四年の三月には、もう四十四歳になっていた山頭火が義庵師を師として出家得度するに至るのである。 ▼四十四歳にもなって、一所不住の雲水の身となるということはよくよくのことである。それをさせたのは一介の野の禅僧望月義庵師の、寛容な、静かな、大らかな人柄である。他人に対する信と愛を底抜けにやり通していた師の大らか人柄がそうさせたのである。禅僧にはそういう大らかな底抜けなところがあるのがほんとうではなかろうか。こんな世知辛い世の中である。せめて禅のお坊さんくらいは、大らかに抜けてほしい。それも、他人に対する信と愛において大らかに底抜けであってほしいのである。 ▼わたしどもも、義庵師のような気持ちをもって生きたいものである。 平成二十五年一月九日 |
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一 ひとり来て蠶のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり 二 つつましく一人居れば狂信のあかき煉瓦に雨のふる見ゆ 三 はるばる山峡(やまかい)に来て白樺に触りて居たり独りなりけれ 四 夕凝(ゆうこ)りし露霜ふみて火を恋ひむ一人のゆゑにこころ安けし 五 くらがりの中におちいる罪ふかき世紀にゐたる吾もひとりぞ *山折哲雄『悪と往生』平成十五年十二月三一日
歌人・斎藤茂吉は感情の人である。気分の波が大きい。並外れて、せっかちだった。すぐに癇癪(かんしゃく)をおこし、激怒した。人一倍、好奇心も強かった。戦前、精神科医として欧州に留学。ドナウ川の源流を探すなど広く大陸を旅して、現地で情感あふれる歌を数多く作った。 ▼「をりをりに群衆のこゑか遠ひびき戒厳令の街はくらしも」。ミュンヘンではヒトラーのクーデター未遂事件に遭った。雪の街路で、行進曲を聞いた翌朝、機関銃をすえた鎮圧部隊を目にした。一揆に共感したのか。背景に興味を持ち、マルクス主義や国家社会主義の本を読む。大戦 中には、戦争協力の歌を熱心に詠んだ。 ▼茂吉が学んだオーストリアで、あやうく戦後初の極右の大統領が誕生するところだった。移民の制限をめぐって国論が二分。「ナチス!」などの罵声が飛び交い、「あまりに感情的で最低の選挙」といわれた。米大統領選の中傷合戦とよく似ていた。極右候補は敗れたが、5割に近い支持があり、排外主義の火がくすぶる。 ▼感情は危なっかしい。激しい好き嫌いが分別をなくし、道を誤らせる。再起を図ったヒトラーはそこにつけ込んだ。不安をあおる。外に敵を作り、まんまと国民を虜(とりこ)にする。圧倒的な支持を得て、独裁者となった。昔のひとは気がつくと、「排外行進曲」に歩調を合わせていた。見くびっていると、いまの世界も轍(てつ)をふむ。
春秋 2016/12/6付
平成ニ十八年十二月六日
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「道程」以後
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歌集:『一握りの砂』 東海の小島の磯の砂浜にわれ泣きぬれて 蟹とたはむる ふるさとの山に向かひて 言うことなし ふるさとの山はありがたし 頬につたふ なみだのごはず 握の砂を示しし人を忘れず たはむれに母を背負ひて そのあまりに軽さに泣きて 三歩あゆまず 新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど 人がみな 同じ方角に向いて行く それを横より見てゐる心 歌集:『悲しき玩具』 働けど働けど わが暮らし楽にならざり じっと手を見る こころよき疲れなるかな 息もつかず 仕事をしたる後のこの疲れ 新しい明日の来るを信ずといふ 自分のことばに 嘘はなけれど―― 百姓の多くは酒をやめしといふ もっと困らば 何をやめらむ 2008.11.25、2010.01.15 すこし改めた。 |
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一 せきをしてもひとり 二 こんなよい月を一人で見て寝る 三 たった一人になりきって夕空 四 淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る 五 臍に湯をかけて一人夜中の温泉である 六 月夜風ある一人咳して *山折哲雄『悪と往生』P.138 |
幾山河 P.195〜197 幾山河(いくやまかわ)越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく この、若山牧水の歌に、心をしびれさなかった昔の女子学生がいんたでしょうか。この歌は、秋の匂いわさながらもたらすような歌でした。少女の私には、秋は、この歌と共に訪れました。 若者の心に、ぽとりとしずくをおとして、その水滴がやわらかい紙ににじむように、心をぬらしてゆく歌でした。 牧水は、昭和三年に亡くなった歌人ですが、もう古典の中に入れてもよいように思われます。そのしらべの美しさ、純粋さ、そのくせ、しんに強い線が男っぽく通っていて、いかにもゆったりと、おおらかな味わいのする歌です。 今よんでみても、その新鮮さはちっとも失せていません。そして、牧水の歌を一つまた一つと夢中でおぼえていたころの思い出も、もろとっもに、レモンのよう匂に立ちます。 いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや 少女の私には、ほんとの人生のさびしさはわかりませんでした。戦争中の日本には「旅ゆく」という、おもらかな情感は想像もできませんでした。それだけになお私は、見知らぬ国への旅、さびしさの果ての幾山河をあごがれたのです。 吾木香(われかう)すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらん 参考:吾木香すすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ 『別離』(明治43年刊) きわめて個人的な出来事である恋愛の歌が普遍性をもつときの妙味というものを、牧水の歌はいつもよくおしえてくれる。 彼の場合、個人のかなしみやよろこびに普遍性を与えようと意図して歌っていたというより、彼の思いそのものが、つねに普遍的なかたちでこの世界のありようと分かち難く存在していたのだと感じられる。 ほそほそとした秋くさのあわいの空気とともに、牧水のさびしさの震える感触があって、その分かち難さの表現が、自然と抽象度を帯びた相聞歌となって流れ出ている様を、しみじみ味わってみたい。 この歌をおぼえたのは林芙美子さんの小説だった思います。軍隊へ入った夫から、女主人公の妻へあてた手紙に、この歌が書きつけてあったのです。私は、われもこうという草をみたいと思って、熱心に調べたことをおぼえています。 海の聲 白鳥はかなしからずや空の青海のあおにも染まずただよふ けふもまたこころの鉦(かね)をうち鳴らしうち鳴らしつつあくがれて行く 多摩川の砂にたんぽぽ咲くころはわれにもおもふひとのあれかし こういう歌を少女時代によむと、一つの歌だけで、一時間も、ぼんやり、いろみんろ考えごとができるのでした。「白鳥は‥‥‥」の歌など、すぐれたふかい交響楽を聞いたあとのヴょうに、いつまでも余韻がのこって、体のうちの小さな鐘は ひびき交わし、鳴りどよもし、やわらかな心の中に消えることなく、この歌が彫りつけられてゆくのでした。 牧水の恋歌には、抽象された格調高さがあります。あたらしい古典美、というような。 山を見よ山に日は照る海を見よ海に 日は照るいざ唇(くち)を君 ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ 君かりにかのわだつみに思はれて言ひよらればいかにしたまふ これらの恋歌は、どれだけたくさんの若者の、日記や恋文の端にかきつけられてきたことでしょう。 牧水の歌は、そこに特徴がありました。若者たちは、牧水の歌を、自分の歌のように思いなして使うのでした。どんな若者の、どんな恋にも、牧水の歌はぴったり、はまってくれました。引用する、というものでなく、若者たちが自分で作るべかりし歌、そのものが、牧水の歌でした。 かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな 古い村、古いまちを通るとき、また、人生の中歳に達した人が来し方をふとふりかえりみるとき、私たちは自分の作りたかった歌を、牧水の歌の中からみだします。もう牧水が歌ってくれた以上、私たちはそれを口ずさむだけでよいのです。私が彼の歌を古典という所以です。牧水は、酒を愛した人でしたから、ちゃんと、こういう歌も、作ってくれました。 路上 われ歌をうたひくらして死にゆかむ死にゆかむとぞ涙を流す 終りたる旅を見かへるさびしさにさそさわれてまた旅をしぞおもふ(岩波文庫P.44:家内とアメリカから帰った時の新聞に書かれていた) くろ土 わがこころ澄みゆく時に詠む歌か詠みゆくほどに澄める心か 2008.11.23 |
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「未 見 の 我」 「未見への出発」より抜粋 一 人間飢饉
春が還り
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二 未見の我
昼なほ暗き大森林
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三 神秘の扉
筏を繰りながら
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四 全A 全B
私は生物学と心理学を無視しない
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五 可能性を惜しむ
世界中の若々しい「未見の我」よ
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六 戦 闘
私の中にいやな奴が沢山いる
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七 境遇を活かす
俺はほやほやの人間だ
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八 仕事を楽しむ
内に秘む貴さが
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九 一人一特色
「未見の我」の可能性は
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十 未見巡礼
一切相関の人の世に
― 昭和八年春― 平成十九年九月九日〜十日、写す。
詩集「一人のために」(善本社) 『明日』 はきだめに えんどう豆咲き 泥沼から 蓮の花が育つ 人皆に 美しき種子あり 明日 何が咲くか 『花園』平成12年10月号より |
雪がふる 雪がふる
雪がふる
煩悩無尽(むじん)と 雪がふる 雪がふる 雪がふるふる 大悲無倦(むけん)と 雪がふる ありがたき “生は偶然 死は必然” ホンによいこと ききました 偶然の生 ありがたき 必然の死 ありがたき 生死を容れて ナムアミダブツ ナムアミダブツ ありがたき―― 生 みんな 死ぬから よいのでしょう 諸行無常と いうことは わたしに 生の尊さを しみじみしらして くれるのです 死の上の生 ああ 今―― ▼木村無想『歎異抄を味わう』(光雲社)より:木村無想氏についてプロバイダーから検索してください。 平成二十一年八月二十三日 |
昨日はどこにもありません 昨日はどこにもありません あちらの箪笥の抽出しにも こちらの机の抽出しにも 昨日はどこにもありません それは昨日の写真でせうか そこにあなたの立ってゐる そこにあなたの笑つている それは昨日の写真でせうか いいえ昨日はありません 今日を打つのは今日の時計 昨日の時計はありません 今日の打つ時計は今日の時計 昨日はどこにもありません 昨日の部屋はありません それは今日の窓掛けです それは今日のスリッパです 今日悲しいのは今日のこと 昨日のことではありません 昨日はどこにもありません 今日悲しいのは今日のこと いいえ悲しくありません 何で悲しいものでせう 昨日はどこにもありません 何が悲しいものですか 昨日はどこにもありません そこにあなたの立つてゐた そこにあなたの笑ってゐた 昨日はどこにもありません 2008.3.3 節句の日
雪
次郎をを眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ 説明:この歌は、山本憲吉によれば、蕪村晩年の水墨画、「夜色楼台、雪下家ニフル」から想いつかれて、換骨奪胎、このような詩が生まれたということだ。(「読書のすすめ 第3集」岩波書店)より。 2009.10.25
故郷 蝶のやうな私の故郷!……。蝶はくつか籬(まがき)を越え、午後の街角(まちかど)に海を見る……。私は壁に海を聴く……。私は本を閉ぢる。私は壁に凭(もた)れる。隣りの部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ仏蘭西人(フランス)の言葉では、あなたの中に海がある。 私見:私の母の名は梅野。梅の中に母がいる。 2010.9.5 |
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1、七字のうた
よわねを はくな
2、かなしみは
かなしみは
3、ひとりひそかに
深海の真珠のように
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38 柴田トヨ(1911〜2013)
平成25年9月14日、自分のホームページを読み返していました。柴田トヨさんについて2010.08.17に転写記事に再会しました。あらためて、高齢者の生き方として、感性豊かな人だと感動いたしました。転写前後は看病に追われ、今日にいたっていた。
さっそく、Googleで調べると、多くの記事が掲載されており参考:1を追加しました。
「みずみずしい肌」は文字通り水分量が多いらしい。弾力が失(う)せるのは水分が減るからという。専門家によれば赤ちゃんの皮膚の細胞は8割が水だが、高齢の女性だと5割ほどになるのだという。 ▼齢(よわい)を重ねれば、外見の老化は仕方あるまい。しかし精神の方はどうだろう。評判になっている99歳、宇都宮市に住む柴田トヨさんの初詩集『くじけないで』(飛鳥新社)を読んでみた。柔らかい言葉から滴(したた)るみずみずしさに、心が軽くなる。 ▼〈私ね 人から/やさしさを貰(もら)ったら/心に貯金をしておくの/さびしくなった時は/それを引き出して/元気になる/あなたも 今から/積んでおきなさい/年金より/いいわよ〉。「貯金」という詩の全文である。 ▼90歳を過ぎて詩を作り出し、産経新聞などに投稿してきた。詩はおおらかでユーモアがあり泣かせもする。聞けばお独り住まいという。週末に息子さんが訪ねてくる。訪問医やヘルパーさんにも支えられて、詩心をふくらませる日々だそうだ。 ▼白寿の詩人を敬いつつ、世間を見やれば、お年寄りの孤立が進む。今年の高齢社会白書によれば、独り暮らしの3割以上は会話がないのが日常的になっているという。孤独にさいなまれれば心は乾き、ひび割れてしまう。 ▼〈私ね 死にたいって/思ったことが/何度もあったの/でも 詩を作り始めて/多くの人に励まされ/今はもう/泣きごとは言わない〉。柴田さんのみずみずしさの秘密は、たぶん「多くの人に励まされ」にある。絆(きずな)や支え合いの大切さを、それは教えてくれている。 2010年7月16日(金)付の朝日新聞:天声人語より。 柴田トヨさんの初詩集『くじけないで』(99歳)
毎日新聞 2010年7月30日 ▼柴田さんは宇都宮市在住で、18年前に夫に先立たれた。近くに住む息子夫婦やヘルパーの手を借り、独り暮らしをしている。読書、映画鑑賞、日本舞踊と多彩な趣味があり、息子のすすめで90歳を過ぎてから詩作をはじめ、新聞投稿をするようになった。昨年10月に初詩集「くじけないで」を自費出版し、今年3月に再出版。「詩集は3000部売れれば上出来」といわれるなか、43万部発行のベストセラーになった。 ▼「私をおばあちゃんと呼ばないで」「九十八歳でも恋はするのよ 夢だってみるの」「九十七の今も おつくりをしている 誰かにほめられたくて」。紡ぎ出す詩は、みずみずしさや若々しさに満ちあふれている。出版社には高齢の女性から「独居でも心豊かな生き方に勇気づけられた」などの感想が寄せられているという。いまも月に1、2作を新聞投稿し、100歳になる来年に向けて次作の出版を目指しているという。「くじけないで」は韓国での出版も検討され、99歳の詩人は世界に羽ばたこうとしている。
産経新聞 2010.3.28 「くじけないで」 眼をさました詩の天使 すばらしい詩集です。今まで詩に興味のなかったひともこの柴田トヨさんの「くじけないで」はぜひ読んでみてください。人生いつだってこれから、何をはじめるにもおそ過ぎるということはないと元気がでてきます。 ▼92歳から詩を書きはじめて、100歳近くなった現在までの詩を読んでいくと、詩の質が進歩していることにも感動します。 生きてるということは本当にすばらしいとうれしくなる。 ▼「私が詩を書くきっかけは倅のすすめでした。腰を痛めて趣味の日本舞踊が踊れなくなり、気落ちしていた私をなぐさめるためでした」 と、あとがきにありますが、それが天の声で、トヨさんの心の中でねむっていた詩の天使が眼をさまして、人生の晩年に歌いだしたのだと思います。少しも枯れていない少女のような愛らしい声で。 ▼詩はおもいついた時にノートに鉛筆で書き朗読しながら何度も書きなおして完成するので、1作品に1週間以上の時間がかかるそうですが、これは正しい詩のつくりかただと思います。 全部の詩がなめらかで読みやすい。耳にやさしくひびきます。 読んでいてひとりでにメロディが生まれて思わず歌ってしまった詩もありました。 ぼくは詩の楽しさはこういうところにもあると思っています。 ▼読んでもなんのことやらよく解らず、相当な知識がないと理解できない難解な詩も、それはそれでそんな詩を愛するひとたちにはいいのだと理解していますが、誰でもがわかる詩で、イージーリスニングであるほうが、むしろぼくは好きです。 私見:「詩」には、「論理」を超えたものがありますね。大自然の摂理が花開く時なのかも知れませんね。 参考:1911年(明治44年)栃木県栃木市生まれ。一人息子の勧めで書きためた詩を2009年(平成21年)10月に自費出版した。その後飛鳥新社が魅力を感じ、内容を追加、装丁を変更し再出版。4万部を記録する。詩作は90歳代になってから始めた。 産経新聞の投稿欄「朝の詩」の常連で、新川和江に高く評価される。シャンソン歌手の久保東亜子が詩に曲を付けたことがきっかけでNHKラジオ第1放送「ラジオ深夜便」に出演。「多くの人たちの愛情に支えられて今の自分がある」と述べている。希望を失っていた柴田が今では読者に希望を与えている。自身の作品を世界の人々にも読んでほしいとのこと。 『別れの一本杉』で知られる船村徹(作曲家)と高野公男(作詞家)の作品に感銘を受けた。歌人の植村恒子と交流がある。栃木市の幸来橋は思い出の場所だという。
2010年(平成22年)12月31日(午前8:30〜9:15)、ヒューマンドキュメンタリー「 2011年(平成23年)9月、満100歳を迎えたことを記念して、第2詩集『百歳』が出版された。同年10月10日(午後6:10〜45)、NHK総合で「“不幸の津波に負けないで”〜100歳の詩人 柴田トヨ〜」(ナレーション:若尾文子)が放映。著者の綴った詩を心の支えに、東日本大震災を乗り越え強く生きようとしている被災者たちの姿を中心に描いた。 2012年(平成24年)8月の時点で、詩集『くじけないで』が160万部を記録。 2013年(平成25年)1月20日午前0時50分、老衰により宇都宮市内で死去。101歳没。 |
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父と母で二人 父と母の両親で四人 そのまた両親で八人 こうしてかぞえてゆくと 十代前で千二十四人 二十代前ではなんと百万人を越すんです 過去無量のいのちのバトンを受けついで いまここに自分の番を生きている それがあなたのいのちです それがわたしのいのちです 2011.02.04 |
経典の正しい読み方を、その心を学ぶ場合に、はからずもそれを適格に表現していると思われる児童文学作家長崎源之助さんの名文がありますので、簡単に紹介しておきます。 これ ぼくのかいた絵だよ お母さんの顔だよ ずいぶん目が大きいなあって うん、この目でいつも ぼくのすること じっと見ていてくれるんだ 耳も大きすぎるって そうかな この耳、ぼくのいうこと なんでも聞いてくれるんだよ この鼻、ぼくににてるだろう それから口も ぼく、よく人にいわれるんだよ あなたは、おかあさんそっくりねって ぼく、心もにるといいんだがなあって いつも思ってるだ ぼくは、おかあさんがいちばんすきだ この絵、いっしょうけんめいにかいたんだよ (長崎源之助『おかあさんの顔』偕成者社刊) この長崎源之助さんの作品は、はじの雑誌『銀河』(昭和二十二)に発表、小学校の教科書にもなりました。 『父母恩重経』を学ぶに当り、まず、皆様と共に、この詩を読んでみましょう。「ずいぶん目が大きいなあ」と、だれかが批評したのだろう。それに答えるように「ぼくのすること じっと見ていてくれるんだ 」お母さんありがとうと、感謝のこころを表すには、「大きな目」を描くしかないのです。 親鸞聖人は「すべてを照覧したまう ほとけのおん眼(まなこ)」と言われます。お仏像のおん眼は半眼に在(ま)します。半眼とは、半ばは自分の外を見、半ばは自分の内を観、自分のすべてを凝視する”大いなるほとけのおん眼”です。 坐禅の場合、自分の視線を前方約一メートルの地点に落とします。するとしぜんに半眼になり、自分で自分をよく見つめられるようになります。 また「耳も大きすぎるって 」との声に、「この耳、ぼくのいうこと、なんでも聞いてくれるんだよ」お母さんありがとうと、うれしさいっぱいで描いたから、ふつり合いな大きな耳になったのです。仏像や仏画に見られるほとけさまの耳も大きいではありませんか。人びとの悩みの声を残さず聞こうとの、お慈悲の願いが大きな耳に表象されているのです。 中国の昔の高僧はお仏像を拝んで”ほとけの足はわが足に似たり、ほとけの手もわが手に似たり”と感嘆し、「願わくは、わが心もまた、 ほとけに近づかんことを!」と、さらに礼拝をつづけたと言います。この詩でも、 あなたはお母さんそっくりねって ぼく、心もにるといいんだがなあって いつも思ってるだ と語っています。すると”お母さんの顔”から、ただちに”ほとけのこころ”が読みとれましょう。私が『父母恩重経』の本分に入る前に、この詩を読む理由がここにあります。 *松原泰道『父母恩重経を読む』(佼成出版社)P.28〜31より。 2008.06.01 |
わたしを束ねないで あらせいとうの花のように 白い葱(ねぎ)のように 束ねないでください わたしは稲穂 秋 大地が胸を焦がす 見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂 わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
止めないでください わたしは羽撃(はばた)き こやみなく空のひろさをかいさぐっている 目には見えないつばさの音 わたしを注(つ)がないで 日常性に薄められた牛乳のように ぬるい酒のように 注がないでください わたしは海 夜 とほうもなく満ちてくる 苦い潮(うしお) ふちのない水 わたしを名付けないで 娘という名 妻という名 重々しい母という名でしつらえた座に 座りきりにさせないでください わたしは風 りんごの木と 泉のありかを知っている風 わたしを区切らないで ,(コンマ)や.(ピリオド)いくつかの段落 そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章 川と同じに はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩 新川和江略年譜を見てみると、この詩は、1966年、昭和41年の新川さんが37歳の時に、24歳から参画していた同人誌「地球」42号で発表されたようだ。 発表から51年。いまなお、この詩は色あせることはない。 私がこの詩を知ったのは、折々のことば:751 鷲田清一2017年5月12日の記事であった。 平成29(2017)年5月12日 |
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生きているということ
いま生きているということ
生きているということ
いま生きているということ
生きているということ
いま生きているということ
生きているということ
いま生きているということ
生きているということ
いま生きてるということ
ジュニアポエム双書14「地球へのピクニック」より、企画・編集 銀の鈴社 発行 教育出版センター
平成二十五年十一月十六日。
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東井義雄著『拝まれない者もおがまれている』を読まれてから、この詩を静かにお読みください。
兵庫県西脇市生まれ
病院の外に健康な日を三日ください
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一日目 わたしはとんで故郷に帰りましょう。
そして、
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二日目 わたしはとんであなたのところへいきたい
いっしょに遊びたいなんていいません
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三日目 わたしは
ひとりぼっちで思い出と遊びましょう。
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むらがって咲いていると たのしそうで ひとつひとつの花は 淋しい顔をしている おまえも 人間に似てるな *中学校体育教師 頚髄損傷 |
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一 春は名のみ風の寒さや。 谷の鶯 歌は思えど 時にあたずと 声も立てず。 時にあらずと 声も立てず。 二 氷解(と)け去り葦は角(つの)ぐむ。 さては時ぞと 思うあやにく 今日もきのうも 雪の空。 今日もきのうも 雪の空。 三 春と聞かねば知らでありしを。 聞けば急(せ)かるる 胸の思を いかにせよとの この頃(ごろ)か。 いかにせよとの この頃か ――『新作唱歌(三)』大2.2 『日本唱歌集』(岩波文庫)より 2010.02.04 |