☆森 信三『一日一語』

森 信三 先生 (1896~1992年)

10月


ありがたさ

夜が明けるということは

なんとありがたいことだろう

光りが射してくるということは

なんてうれしいことだろう  

        真 民



 十月一日

 因果というものは厳然たる真理です。それゆ如何にしてかかる因果の繋縛を超えるか。

 結局はその理を体認透察することであるが、現実には後手に廻らぬこと。つまり常に先手、先手と打ってゆくことである。

2011.10.

 十月二日

 一体どうしたら思索と行動のバランスがとれるか。

第一に、物事をするのをおっくうがらなぬこと。

第二に、つねに物事の全体を見渡す智慧をー

第三に物事の本質的順序を誤らぬこと。

そしてこれらの凡てを総括して行動的叡智という。

2011.10.

 十月三日

 この世の事はすべて借金の返済であって、つまり処天のバランスです。

 すべてが「宇宙の大法」の現れだということが解ったら、一切の悩みは消えるはずです。

2011.10.

 十月四日

 真の形而上学は、古来孤独寂寥に生きた魂の表題以外のなにものでもない。    ー一例 スピノザー

2011.10.

 十月五日

 天下同悲の人をおもう。

 石 不 言  花 不 語

2011.10.

 十月六日

 卓すぐれたる才さえもたせけるこの友の盲めしひし運命さだめ何とかもいはむ

 庭樹々に来啼く小鳥のもろ声ををしずかにし聴く友の姿や

2011.10.

 十月七日

 読書は単に知的な楽しみだけであってはならぬ。直接間接に、わが生き方のプラスになるものを選びたい。

 それには単に才能だけで生きた人より、自殺寸前というよう様なギリギリの逆境を突破して、見事に生き抜いた人のものの力が、はるかに深く心を打つ。

2011.10.

 十月八日

 「笑顔は天の花」

 笑顔によって、相手の心の扉が開けたらー。

2011.10.

 十月九日

 母親は単に家族の一員でなくて、まさに家族の太陽である。

 十月十日

  親として大事なこと二つ

(一)親自身、自分の為すべき勤めと真剣に取り組むこと。

(二)つねにわが子の気持ちの察しのつく親になること。

勿論後者のほうが何層倍とむつかしい。

2011.10.

 十月十一日

 これだけの俸給を得るために、主人がどれほど下げたくない頭を下げ、言いたくないお世辞を言っているか一ということの分かる奥さんにして、初めて真に聡明な母親となるわけです。

2011.10.

 十月十二日

 夫婦のうち人間としてエライほうが、相手をコトバによって直そうとしないで、相手の不完全さを其のまま黙って背負ってゆく。

 夫婦関係というものは、結局どちらかが、こうした心の態度を確立すと外ないようですね。

2011.10.

 十月十三日

 裏切られた恨みは、これを他人に語るな。その悔しを噛みしめてゆく処から、はじめて人生の智慧は生まれる。

2011.10.

 十月十四日

 男として大事なことは、見通しがよく利いて、しかも肚がすわっているということー

 この両者はもちろん関係は深いが、しかし常に一致するとは限らない。

2011.10.

 十月十五日

 地上における人間の生活は、時あっては血飛沫を浴びつつぜんしんしなければならぬ場合もある。

 随って砂塵や烈風を恐れるものには、真の前進はあり得ない。

2011.10.

 十月十六日

 善人意識にせよ、潔白さ意識にせよ、もしそれを気取ったら、ただにイヤ味という程度を越えて、必ずや深刻な報復を免まぬかれぬであろう。

2011.10.

 十月十七日

 仏・魔の間、真にこれ紙一重のみ。

2011.10.

 十月十八日

 人間のシマリは、「性」に対するシマリをもって最深とする。

 しかも異性に対する用心は、何といっても接近しないことである。

 如何なる人でも近づけば過ちなきを保し難いのが、「性」というものの深さであり、その恐ろしさである。

2011.10.

 十月十九日

 私はおコワならおコワ一式、ソーメンならソーメン一式、ソーメンを頂いてからご飯も頂くことはしません。

2011.10.

 十月二十日

 この地上では、何らかの意味で、犠牲を払わねば、真に価値あるものは得られぬとは、永遠の真理である。だからもしこの世において犠牲の必要なしという人があったとしたら、それは浅薄な考えという他ない。

 だが犠牲は他に強要すべきものでは断じてない。かくして犠牲において、大事な点は、自ら犠牲の重荷を負う本人自身には何ら犠牲の意識がないどころか、そこには深い喜びと感謝の念の伴うのが常である。

2011.10.

 十月二十一日

2011.10.

 十月二十二日

 「世の中はなるようにしかならぬ、だが必ず何とかはなるー」

 もしこの「何とか」というコトバの中に、「死」というコトバも入れるとしたら、これほど確かな真理はないであろう。

2011.10.

 十月二十三日

 もし私があの世へ、唯一冊の本を持って行くとしたら、恐らくは「契縁録」をえらぶでしょう。 

 何となれば、それは二度とないこの世において、私という一個の魂が、縁あって巡り合い知り合った人々の自伝の最小のミニ版だからです。

2009.10.

 十月二十四日

 中にゐて中と思はぬ霞かな

 娑婆即寂光浄土

2011.10.

 十月二十五日

 愛する前に理解がなければならぬ。同時に愛しなければ真の理解は得難い。

 それ故かかる処にも、生きた真理は、すべていのち丶丶丶の円環を描いてみることが分明である。 

2011.10.

 十月二十六日

 人間を知ることは現実を知ることのツボである。

 わたくしが人間に対して限りなき関心をもつのは、生きた人間こそ無量な「真理のたば」だからである。

2011.10.

   

十月二十七日

 「性」への深い洞察なくては、学問もなければ思想もない。いわんや聖人聖者においておやである。

 なんとなれば、聖者聖人とは、人間性の洞察に達した人生の大達人ともいうべき人々だからである。

2011.10

 

 十月二十八日

 人間の一世ひとよ思へばおのがじし負ひ来し「業」を果さむとする

 これの世にいのちれにしくすしさよおのもおのもが業果しする

2011.07.01

 

 十月二十九日

 祖先の「血」は即今この吾において生きつつある。

 ――この理が真に解った時、人は初めて人生の意義もわかりかけ、同時にその時天地の実相の一端にも触れむ。

2011.10.

 

 十月三十日

 親への孝養とは、単に自分を生んでくれた一人の親を大事にするだけでなく、親への奉仕を通して、実は宇宙の根本生命に帰一することに外ならない一一

 これ藤樹先生のいわゆる「大孝」の説であり、これを今日の言葉でいえば、まさに「孝の形而上学」というべきであろう。

2011.10.

 

 十月三十一日

 たらちねの親のみいのちヽヽヽヽわが内に生きますと思ふかしこきろかも   

2011.10.


 万有に遍在する真理の霊をはっきり見るには、この世のいかなる物をも愛することができなければならぬ。またそれを熱望する人は、生活のいかなる場をも回避することはできない。

 だから私は真理への献身のあまりに、政治の場に引き入れられたのだ。私は謙虚にではあるが、いささかのためらいもなく、「宗教は政治とまったく無関係である」という人は、宗教の何たるかを知らない人だといい得る。

(ガンヂ一)
  

2011.10.

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