森 信三 先生 (1896~1992年)

5月

☆森 信三『一日一語』


これからだ

みどりの風よ

これからだ

さえずる鳥よ

これからだ

みちくる風よ

これからだ

もえでる葦よ

これからだ

わたしの生よ

これからだ         真 民



 五月一日

 われわれ人間は「生」をこの世にうけた以上、それぞれに応じて、一つの「心願」を抱き、最後のひと呼吸いきまでそれを貫きたいものです、

2012.05.01

 五月二日

 多少能力は劣っていても、真剣な人間の方が最後の勝利者となるようです。

2012.05.01

 五月三日

 毀誉ほうへんをヽヽヽヽ越えなければ、一すじの道は貫けない。 

2012.05.01

 五月四日

    三ツのことば

 「人を先にして己を後にせよ」

 「敵に勝たんと欲するものはまず己に克て」

 「義務を先にして娯楽を後にせよ」 

2012.05.01

 五月五日

一、一度思い立ったら石にしがみついてもやりとげよう人はすべからく、終生の師ヽヽヽヽをもつべし。

二、ホンのわずかな事でもよいから、とにかく他人のためにつくす人間になろう。 

2012.05.01

 五月六日

 高すぎない目標をきめて必ず丶丶実行する。ここに「必ず」とは、唯の一度も例外を作らぬ―という心構えをいうのである。

2012.05.01

 五月七日

 百円の切符が九十八円で買えないのことは、五円で買えないのと同じである。

2012.05.01

 五月八日

 「義務を先にして、娯楽を後にする」―たったこの一事だけでも真に守り通せたら、一かどヽヽヽの人物になれよう。

2012.05.01

 五月九日

 睡眠は必要に応じて伸縮自在たるべし。  「何時間寝なければならぬ」というような固定観念をすて、必要に応じて五時間・三時間はもとより、時には徹夜も辞せぬというほどの覚悟が必要。

2012.05.01

 五月十日

 目覚むれば力身内みうちに湧きいづるこの不思議さよ何といふべき  せめてわが命果てなむきわだにもこれの不思議をかしこみてあらん

2012.05.01

 五月十一日

 食事をするごとに心中ふかく謝念を抱くは、真人の一特徴というべし。それだけに、かかる人は意外に少ないようである。 

2012.05.01

 五月十二日

 朝起きてから夜寝るまで、自分の仕事と人々への奉仕が無上のたのしみで、それ以外別に娯楽の必要を感じない―というのが、われわれ日本のまともヽヽヽな庶民の生き方ではあるまいか。とほり知る人すくな

2012.05.01

 五月十三日

 「下学して上達す」―下学ヽヽとは日常の雑事を尽くすの意。それゆえ日常の雑事雑用を軽んじては、真の哲学や宗教の世界に入りえないというほどの意味。

2012.05.01

 五月十四日

 「五十にして天命を知る」というのが、という限り、まだ観念的なものが残っている。それ故「六十にして耳従う」の境に到って、はじめて真理の肉体化がはじまるともいえよう。

2012.05.01

 五月十五日

 真人と真人とがむすばねばならぬ。現在わたしが最も努力しているのは、縁のある真人同士を結ぶことです。

2012.05.01

 五月十六日

 世間的に広くは知られていないけれど、すぐれた人の書をひろく世に広める―世にこれにまさる貢献なけむ。

2012.05.01

 五月十七日

 心に見えないから、まず見えるからだの方から押さえてかからねばならぬ。それ故心を正そうとしたら、まず躰を正し物を整えることから始めねばならぬ。クツをそろえること一つが、いかに重大な意味をもつか分からぬような人間は、論ずるに足りない。

2012.05.01

 五月十八日

 挙手は、行動的な「しつけ」の第一であって、断乎たる決意の表明ともなる。挙手についてはまず①五本の指をそろえ、②ついで垂直に上げること③そして最後に俊敏に!!―という三つが大事。

2012.05.01

 五月十九日

 「腰骨を立てる」ことは、エネルギーの不尽の源泉を貯えることである。この一事をわが子にしつけヽヽヽ得たら、親としてわが子への最大の贈り物といってよい。

2012.05.01

 五月二十日

 息子を一生に三度は叱るか、それとも一生に一度も叱らぬか、父親にはこのような深い心の構えがなくてはなるまい。

2012.05.01

 五月二十一日

 山深く来しとあらねどこの寺に山鶯の声聞きにけり

 はつはつに楓の若葉萌え出ててこれのみ寺の明るかりけり

2012.05.01

 五月二十二日

 現世的に恵まれると、美も宗教もわからぬ人間とる。何となれば、共に世に薄倖な人びとに与えたまう天の恩恵だからである。

2012.05.01

 五月二十三日

 真の鑑識眼は、最初のうちは、最上のもの一つに徹することによって得られる。いたずらに比較考量している限り、ついに物事の真に徹するの期なけむ。

2012.05.01

 五月二十四日

 美的な創造感覚と、蓄財利殖の能力とは両極的なものです。天二物を与えず―ですネ。

2012.05.01

 五月二十五日

 芸術品の場合、倦きがこないということが良否の基準となる。つまり倦きがこないとは、作品の人為の計らいがないせいで、それだけ天に通じる趣があるといえよう。同時にこれは、ひとり芸術品だけでなく、人間一般にも通じることでしょう。

2012.05.01

 五月二十六日

 感覚を新鮮にするには、つねに異質的なものを媒介として自己を磨く必要がある。でないと感覚はいつしか鈍磨して、マンネリ化する恐れがある。

2012.05.01

 五月二十七日

 石が分かるということは、物がわかり出した一徴表といってもよい。というのは、相対界を離れた証拠といえるからである。

2012.05.01

 五月二十八日

 わたしには何も出来ませんが、ただ人さまの偉さと及び難さを感じる点では、あえて人後におちないつもりです。

2012.05.01

 五月二十九日

 すべて物事は、その事の真髄への認識と洞察が根本で、真に認識に徹したら、動き出さずにはいられぬはず。ところが認識への手引きはヤハリ生きた書物でしょうね。

2012.05.01

 五月三十日

 一、腰骨をたて

 二、アゴを引き

 三、つねに下腹の力を抜かぬこと

 同時にこの第三が守れたら、ある意味では達人の境といえよう。

2012.05.01

   

五月三十一日

 真理」の化身とやいはめ幻の時に顕ちきてわれを導く

 一人の隠者の心幽けくも追ひ求めてぞひと世過ぎしか

  2012.05.01


    二 宮 尊 徳 翁

 声もなく香もなく常に天地は書かざる経をくりかへしつゝ

 蒔けば生え植れば育つ天地のあはれ恵みのかぎりなき世ぞ

 ちゅうちゅうと歎き苦しむ声きけば鼠の地獄猫の極楽

 無きといえば無きとや人の思ふらんと呼べばこたふる山彦の声

 餌を運ぶ親の情の羽音には目を明かぬ子も口をあくなり

 めしと汁木綿着物は身を助くその余は我を責むるのみなり

 我というその大元を尋ぬれば喰ふと着るとの二つなりけり

 山寺の鐘つく僧は見えねども四方の里人時を知りなむ

2012.05.01

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