森 信三 先生 (1896~1992年)

8月

☆森 信三『一日一語』


七字のうた

よわねを はくな

くよくよ するな

なきごと いうな

うしろを むくな  

        真 民



 八月一日

一、礼を正し

二、場を浄め

三、時を守る

 これ現実界における再建の三大原理にして、いかなる時・処にも当てはまるべし。

2011.08.

 八月二日

 われわれ、人間はそれぞれ自分の宗教的人生観―真の人生観―をもつべきである。そしてそれは極微的には、それぞれその趣を異にし、最終的には、一人一宗教ともいえよう。

2011.08.

 八月三日

 人間の智慧とは、

 (一)先の見通しがどれほど利くか

 (二)又どれほど他人の気持の察しがつくか

 (三)その上何事についても、どれほどバランスを心得ているか という事でしょう。

2011.08.

 八月四日

 英知とは、その人の全知識、全体験が発火して、一瞬ひらめく不可視の閃光ヽヽといってよい。

2011.08.

 八月五日

 一眼はつねに、個としての自己の将来の展望をを怠らぬと同時に、他の一眼は刻々に変化してゆく世界史の動向を見失わぬことでです。

 こうした異質的両極を、つねにわが身上に切り結ばせつつ、日々を生き抜くことが大切でしょう。

2011.08.

 八月六日

 形ある石ひとつ分からぬやうな人間に、どうしても色も形もなく、そのうえ転変常なき人心の察しなど出来るはずがない。

 いわんや子らの心を育てみちびく教育の如きにおいておや。

2011.08.

 八月七日

 秋になって実のなるような果樹で限界が見えないとは、端的には、自己の死後が見えぬということ春、美しい花の咲く樹はない。 

2011.08.07

 八月八日

 すべて物事には基礎蓄積が大切である。そしてそれはひとり金銭上の事柄のみでなく、信用に関しても同じことが言えます。

 否、この方がはるかに重大です。

2011.08.

 八月九日

 才無きを憂えず才の恐ろしさを知れ

2011.08.

 八月十日

 「すべて最上なるものは、一歩を誤ると中間には留まり得ないで最下に転落する―」とは、げに至深の真理というべし。

2011.08.

 八月十一日

 夫婦の仲というものは、良きにつけ悪しきにつけ、お互いに「業」を果たすために結ばれたといえよう。

 そしてこの点に心の腰がすわるまでは、夫婦間の動揺は止まらぬと見てよい。

2011.08.

 八月十二日

 女が身につけるべき四つの大事なこと

 (一)子供のしつけヽヽヽ (二)家計のしまり。 (三)料理。そして (四)最後が清掃と整頓

2011.08.

 八月十三日

 性に関しては、たとえ人から尋ねられても答える義務はない。

 何となれば、聞く方が非礼であるのみならず、「性」に対する冒瀆だからである。

2011.08.

 八月十四日

 男の子は素質的には母親似が多く、娘は父親似が多い。そして後天的には、息子は父親に、そして娘は母親に学ぶ。

 ここに生命における「性」の相互交錯と交互浸透、ならびに先天と後天の絶妙なる天理が伺える。

2011.08.

 八月十五日

 一粒のけしヽヽ粒だにもこもちらへる命たふと思ふこのごろ

2011.08.

 八月十六日

 人間の生命が、たがいに相呼応し共感し得るということは、何たろ至幸というべきであろうか。

 世にこれに勝るいかなる物があるであろうか。

2011.08.

 八月十七日

 人間はいくつになっても、の誘惑が恐ろしい。

 有名になったり、お金が出来ると、よほどの人でも、ともすれば心にゆるみヽヽヽが生じる。

2011.08.

 八月十八日

 その人が何を言っているかより、何をているかが問題。

 そして両者の差がヒドければヒドイほど、その人は問題の人といってよかろう。

 もしその上に有名だったら、一種の悪党性がつけ加わるとさえ言えよう。

2011.08.

 八月十九日

 人間は才知がすすむほど、善・悪への可能性が多くなる。故に才あるものは才を殺して、他に転ずる努力が大切である。

2011.08.

 八月二十日

 水鳥の朽木くちきに浮かぶ真白さを清しとぞ見つ

 朝のすがあめつちの明けゆく光ほのぼのと朝の河面かわもにわが見つるかも 

2011.08.

 八月二十一日

 他人の学説の模写的紹介をしたり、あるいは部分的批評をする事をもって、哲学であるかに考えている人が少なくないが、

 真の哲学とは、この現実の天地人生をつらぬく不可視の理法を徹見して、

 それを一つの体系ヽヽとして表現する努力といってよい。 

2011.08.

 八月二十二日

 世の中には、いかに多くのすぐれた人がいることか一一それが分かりかけて、その人の学問もようやく現実に根ざし初めたと云えよう。 

2011.08.

 八月二十三日

 われわれ人間は、ただ一人の例外もなく、すべて自分の意志ないし力によって、この地上にうまれてきたのではない。 

 そしてこの点に対する認識こそ、おそらくは最高最深の叡智といってよい。

 されば我われ人間は、それぐ自分がこの世に派遣せられた使命を突き止めねばなるまい。

2011.08.

 八月二十四日

 一切万有は神の大愛の顕現であり、その無量種の段階における発現というべきである。

2011.08.

 八月二十五日

 真実というものは、一点に焦点をしぼつてピッチを上げなければ、発火しにくいものである。

2011.08.

 八月二十六日

 人間関係ー与えられた人と人との縁ーをよく噛みしめたら、必ずそこには謝念がわいてくる。

 これこの世を幸せに生きる最大の秘訣といってよかろう。

2011.08.

   

八月二十七日

 宗教は人間が立派に生きるためのもの。随って人間は神には仕えるべきであるが、宗教には仕えるべきではあるまい。

 ひとつの宗教にゴリゴリになるより、人間としてまっとう丶丶丶丶に生きる事の方が、はるかに貴いことを知らねばなるまい。

2011.08.

 

 八月二十八日

 真の宗教が教団の中に無いのは、真の哲学が大学に無いのと同様である。

 これ人間は組織化せられて集団になると、これを維持せんがために、真の精神は遠いのくが故である。

2011.08.

 

 八月二十九日

 親鸞は「歎異抄」の冒頭において、「弥陀の誓願不思議に助けられれまゐらせて」という。

 その不思議さを、親鸞と共に驚きうる人が、今日果たして如何ほどあるといえるだろうか。

2011.08.

 

 八月三十日

 人間はこの肉体をもっている限り、煩悩の根切りは不可能である。

 そしてこの一事が身根に徹して分かることこそ、真の救いヽヽといってよかろう。

2011.08.

 

 八月三十一日

 看護みとりしつつ独り坐すれば人間のひと世の 運命さだめしじに思ほゆ

 これの世の「業」を果たして逝きにける人のいのちの今やすがしも 

2011.08.


    親鸞「歎異抄」第一条

 弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて、往生を遂ぐるなりと信じて、念仏を申さんと思ひ立つ心の起こる時、即ち摂取不捨せつふしゃの利益に預けしめ給ふなり。

 弥陀の本願には、老少、善悪の人を択ばれず。たゞ信心を要とすると知るべし。その故は、罪悪深重じんじゅう、煩悩熾盛しじょうの衆生を助けんがための願いにてまします。  

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