日本の本より
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(明治時代:1)


目 次

01 本間四郎三郎
江戸時代の豪商、豪農で、大地主(1732〜1801)
02片山蟠桃
『夢ノ代(しろ)』 (1748〜1821)
03鈴木牧之
『北越雪譜』(1770〜1842)
04横井小楠
「横井小楠と西郷南洲」(1809〜1869)
05大久保利通
明治維新の推進者の一人(1830〜1878)
06金原明善
実業家(1832〜19236)
07本庄正則
伊藤園創業者(1834〜1989)
08坂本龍馬
明治維新の準備者(1835〜1867)
09福沢諭吉
『学問のすゝめ』(1835〜1901)
10前島 密
郵便制度の創始者(1835〜1919)
11大橋佐平
「博文館」創始者(1836〜1901)
12田中正造
足尾鉱毒と田中正造(1841〜1913)
13渋沢栄一
東の渋沢栄一、西の大原孫三郎(1841〜1931)
14新島襄
同志社創立者(1843〜1890)
15新島八重
同志社創立者の新島襄の妻(1845〜1932)
16石川理之助
秋田県の農村指導者(1845〜1932)
17北里柴三郎
医学の育成者(1853〜1931)
18犬養毅
五・一五事件で凶弾に倒れた(1859〜1954)
19尾崎行雄
普選運動・護憲運動の立役者(1859〜1954)
20三宅雪嶺
明治時代-昭和時代の評論家;哲学者(1860〜1954)
21内村鑑三
キリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。(1861〜1930)
22岡倉天心
明治美術の父(1862〜1913)
23岡田啓介
軍人・政治家(総理大臣)(1862〜1933)
24新渡戸稲造
農業経済学者,教育者(1862〜1952)
25清沢満之
真宗大谷派の僧侶、哲学者・宗教家(1863〜1903)
26津田梅子
現在の津田塾大学を創立者(1864〜1929)
27 内藤湖南
東洋史家(1866〜1934)
28上田 敏
文学者、翻訳家(1874〜1916)


公益のために財を吝む勿れ 十成を忌む

01 本間四郎三郎(1732〜1801)


   江戸時代の豪商、豪農で、かって日本一の大地主と称(い)われた羽後酒田(山県県酒田市)の本間家は、

   本間さまには およびびもないが

   せめてなりたや 殿様に

 と、その巨富をもつて世に知られた存在であった。

▼《金銀財宝は積んで山の如く、伊呂波(いろは)四十八蔵の倉庫には、累々たる米俵、金銀、銅貨、紙幣、古銭等々の数算する(かずさん)する能(あた)わず》

 と、巨大な経済力で山県地方に君臨していた。その本間家が筆頭株主の商事会社、本間物産が倒産したと新聞で報じられたのは一九九〇年十月で、まだ記憶に新しい。

 本間家は代々、その家憲とするところの、

十成(じゅじょう)を忌(い)む》

 を守り、財を成しながら利益の大半を地域の人びとのために還元してきた。

 日本海を吹き荒れる強風は、酒田の町に一冬に一メートルもの砂を積もらせる。その砂嵐(すなあらし)を防ぐため、三百三十年前、本間家三代目、四郎三郎が苦難の末に延々三十キロに及ぶ植林をなしとげ、人びとの生活(くらし)を守ったのもその一つである。

 時の流れといってしまえばそれまでだが、本間家のこの表舞台からの退場は惜しまれてならない。

 本間四郎三郎。

 本間家中興の祖といわれる四郎三郎は、はじめ久四郎、名を光丘。天下第一の豪農として庄内藩十四石の領内において、藩主をはるかにしのぐ二十四万石の大地主である。 

《一、額に汗して得たるもいのに非(あら)ざれば真の財産ならず、須らく投機事業を排斥せよ》

 こうした本間家家訓の中で、特異なのは、

 「収入の分配法」

を記した項であろう。

《一、上(かみ)の保護なくんば家栄ゆる事なし、財産の四分の一を献納の資となすべし。

  二、神仏の加護、祖先の偉効に依りて家隆(さか)んなり、財産の四分の一を寄附及び祭祀(さいし)の料とすべし。

  三、各戸あって地主賑(にぎ)わい、各戸豊かにして自他安寧なり、財産の四分の一をその救助に充(あ)つべし。

  四、残余の四分の一を以って其家計に充て、勤倹自ら奉じ、勤めて剰余を生ぜしめ、之を蓄積すべし。》

 つまりこれは、本間家の当主たちが代々守りつづけてきた《十成を忌む》冨の充溢(じゅういつ)、充満を避けるための訓(おしえ)なのであろう。

引用:神坂次郎『男このことば』P.266〜272より抜き書き。  

参考1:日本一の地主・酒田本間家

参考2:社是・家訓


 幕末最強「庄内藩」無敗伝説を知っていますか 薩長も恐れた東北の「領民パワー」

 東洋経済オンライン

 庄内藩の最強伝説を支えた酒田の豪商、本間家の門構え

 戊辰戦争といえば、薩摩・長州(薩長)など「官軍」の一方的な勝利というイメージを持たれる方が多いことだろう。会津藩(福島県)以外の奥羽越列藩同盟軍は大した抵抗を見せることなく降伏した……と。

 だが実際は、同盟軍は一方的に負けていたわけではない。前回(反薩長の英雄「河井継之助」を知っていますか)紹介した長岡藩(新潟県)のほかにも、庄内藩(山形県)は「官軍」を寄せつけず、薩摩兵と互角に戦って勇猛さを見せた。にもかかわらず、「薩長史観」(なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか)では、故意に無視されてきたと歴史家の武田鏡村氏は語る。

 『薩長史観の正体』を上梓した武田氏に、知られざる「庄内藩」の強さについて解説していただいた。

 惨憺(さんたん)たる会津戦争の実態は多くの史書に残されているが、「薩長史観」では語られることが少なかった庄内藩の奮戦をご紹介したい。

 酒井忠篤(ただすみ)を藩主に仰ぐ庄内藩(鶴岡藩ともいう)は14万石(戊辰戦争時は17万石)の譜代大名で、外様大名が多い奥羽地方にあって会津藩とともに徳川家に忠誠を尽くす藩とされていた。

 庄内藩は、江戸市中取締役となったときから、薩摩と反目する関係にあった。

 薩摩は西郷隆盛の指令で江戸市中を騒擾(そうじょう)化して「薩摩御用盗(ごようとう)」といわれる略奪と放火を繰り返した。それを取り締まり、薩摩藩邸を焼き討ちにしたのが庄内藩である。

 薩摩は庄内藩を逆恨みして、奥羽鎮撫軍(新政府軍)を差し向けた。薩摩藩士の下参謀大山格之助が副総督の沢為量(ためかず)を伴って、いち早く新庄に進んだのは庄内を討伐するためであった。

 奥羽(東北)の戊辰戦争で初めて戦火が交わされたのが、庄内兵と薩摩兵・新庄兵が対戦した清川の戦いである。初めは薩摩兵が優勢であったが、支藩の松山藩や鶴岡城から出兵して来た援軍で薩摩兵を撃退した。

 庄内兵は天童を襲って新政府軍を追い払い、副総督の沢為量は新庄を脱出して秋田に向かった。さらに庄内兵は、新庄、本荘、亀田を攻めて無敵を誇った。

 庄内兵の奮戦を支えたのが、酒田の豪商本間家である。本間家は北前船(きたまえぶね)を使った廻船で莫大な富を築き、酒田周辺の大地主になっていた。開戦当時の6代光美(こうび)は、庄内藩に5万両の武器弾薬を提供している。一説では総額十数万両を藩に献納したという。

 庄内兵は、7連発のスペンサー銃などの最新式の銃砲や大量の弾薬を手にした。近代兵備を装備し訓練された強力な軍隊だったのだ。

 また、新政府軍との戦いで庄内藩は最終的に4500人の兵を動員しているが、そのうち2200人が、領内の農民や町民によって組織された民兵だったという。このような高い比率は他藩では見られないもので、領民と藩との結び付きが強かったことがうかがわれる。 国際法を知らなかった新政府軍

 新庄藩を攻め落とした庄内兵は、やはり新政府軍に与(くみ)した秋田藩にまで攻め込んでい る。

 内陸と沿岸の両方面から秋田に攻め入り、「鬼玄蕃」と恐れられた中老酒井玄蕃が率いる二番隊を中心に連戦連勝で、新政府軍を圧倒した。

 秋田藩は古風な出陣ぶりで、従者に槍(やり)や寝具などを持参させていた。このため新政府軍の総督府から、無益の従卒を召し連れて出軍して機動力を欠いていると叱責されている。

 また、秋田藩はアメリカ軍船を購入したが、これにロシア国旗を掲げて庄内の鼠ヶ関(ねずがせき)に接近して砲撃を加えた。庄内藩が直ちに箱館(函館)にいるロシア領事に抗議するという事態になった。秋田藩の国旗偽装は国辱的な行為で、これを見逃していた新政府軍の国際感覚が疑われても仕方のないものである。

 新政府軍は外国軍に協力こそ求めなかったが、坂本龍馬が熟読し、幕府の海軍が遵守した国際法「万国公法」に通じていなかったのである。 会津藩降伏の4日後に降伏

 庄内藩は、しだいに同盟諸藩が新政府軍に恭順・降伏していくと、孤立を恐れて秋田戦線から退却する。庄内藩が降伏したのは会津降伏の4日後、明治元(1868)年9月26日のことで、奥羽では最後に新政府軍に屈している。勝ち戦続きで、領内への侵攻を許さなかった末の恭順である。

 庄内藩は果敢に新政府軍に挑み続け、ついには降伏したわけだが、新政府軍の報復に慄(おのの)いた。ところが、思いがけず西郷隆盛(南洲)の寛大な処置を受ける。これに感謝して、後に庄内に南洲神社まで造られている。

 だが西郷は、東北方面の戊辰戦争ではほとんど出番がなく、ようやく庄内に着いたときには戦いが終わっていたというのが実情であった。しかも多額の戦後賠償金をせしめることができたのであるから、寛大に振る舞ったのではないだろうか。

 なお、この戦後賠償金は、本間家を中心に藩上士、商人、地主などが明治新政府に30万両を献金したものである。

 ちなみに、会津藩は23万石から3万石と大幅に減封された。そして、不毛の地・斗南(となみ)に追いやられ、藩士やその家族は地を這う生活を強いられた。実質的に会津藩は解体されたといってもいいだろう。

 だが、庄内藩は17万石から12万石に減じられただけであった。一時は会津、平と転封を繰り返したが、先述の戦後賠償金や領民の嘆願により明治3年(1870年)に酒井氏は庄内に復帰した。

 ここでも庄内藩は、領民たちの尽力により救われたわけである。ちなみに天保11年(1840年)にも、幕府による領地替えの計画が持ち上がったが、領民の嘆願により取りやめになった経緯がある。

 こうした領民との結び付きといったソフトパワーの面からも、庄内藩は「最強」だったといえるのではないだろうか。

平成29年10月28日。


02 片山蟠桃(ばんとう) (1748〜1821)


▼『夢ノ代(しろ)』

 経済ハ民ヲシテ信ゼシムルニアリ。民信ゼズシテ何ヲカナサン。民ヲ信ゼシムルコトハ唯(ただ)ソノ身ノ行イニアルノミ。(中略)文王(ぶんのう)民ヲ見ルコト傷(いた)ムガゴトシ。コノ心ヲ以テ民ニ臨ム、アニ服セザルヲ得ンヤ。其上ノ機ニノゾミ変ニ応ズルノ権智(けんち)(臨機応変の知恵ー有坂隆道注)ハ、ミナコノ仁心ヨリ湧(わ)キ出ルコトニシテ、ソレヲ以テ行ウコトナリ

 『論語』第三十八章、「子曰く、人間がもし信用をなくせば、どこにも使いみちがなくなる。馬車に轅(ながえ)がなく、大八車に梶棒(かじぼう)がないようなものでひっぱって行きようがない」(宮崎市定訳文)。個人と個人との関係という次元においてさえ然り、況(いわん)や為政者と民との隔てある相互に、信用の絆(きずな)がなくして経済行為は成り立たぬ。

参考1:谷沢永一著 『百言百話』(中央新書)P.168 

参考2:庶民にも儒学は広まった。石田梅岩は儒教を基本としながらも、神道や仏教も重んじる「石門心学」を唱え、商人の倫理を説いた。大阪商人が生み出した学問所である「懐徳堂」の中井竹山、中井履軒も活躍した。

 その二人に儒学を学んだ山片蟠桃(やまがたばんとう)は、主著『夢ノ代(しろ)』を二〇年かけて書き上げた。そこには、地動説や、神代史や霊魂の存在の否定など、きわめて合理主義的な思考が見られる。

2010.01.30


03 鈴木牧之(ぼくし)(1770〜1842)


 「戸障子閉メルニ一寸残シ草履木履ヲ踏ミ散ラシテ脱ギ置ク人、皆敗家ノ人ナリ」

 塩沢の商家に生まれ、勤勉に家業を励む商売人でした。父親の影響で、俳諧、書画、文筆も行い、世に出る名著『北越雪譜』をのこしました。 『北越雪譜』は、40年という歳月をかけ雪国の暮らしを伝えるために、越後の雪や風俗を ...


04 横井小楠(よこいしょうなん) (1809〜1869)


  學問を致すに、知ると合点との異なる処(ところ)、ござ候

 幕末維新期の熊本藩士。坂本龍馬は偉くみえるが、その思想はこの横井小楠と勝海舟の受け売り。当時、横井ほどの見識はいなかった。幕府の臣であった勝海舟は<おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ>といい<横井の思想を西郷の手で行われたたら、もはやそれまで>幕府は滅亡と見ていたが、果たしてその通りになった(『氷川清話』)。明治維新は坂本龍馬の考えを西郷が実行したのではない。むしろ水戸藩士の藤田東湖とこの横井の思想が基本にある。それほど横井の見識はすごい。

 なぜ彼はこのような見識に到達できたのか。もちろん情報収集が第一だが、読書法に特徴があった。横井はただ知るのと合点するのとは違うという。本は字引にすぎない。読後にその知識を一度なげうち<専(もっぱら)己に思ふべく候>といった。知識獲得でなく、自分が思考する入り口になるように読書をせよ、と説いている。(後略)

参考1:磯田道史のこの人、その言葉 朝日新聞:2010.03.13の記事より。

参考2:『氷川清話』(角川文庫)「古今の人物について」の章の「横井小楠と西郷南洲」P.50〜51

参考3: ■横井小楠(熊本歴史・人物)  熊本国府高等学校による。

2010.03.15


05 大久保利通 (1830〜1878)


 我が国、欧米各国とすでに結びたる条約は、もとより平均を得ざる者にして、その条中はほとんど独立国の体裁を失する者少なからず。」…英仏のごときに至っては我が国内政いまだと斉整を得ずして、彼が従民を保護するに足らざるをもって口実となし、現に陸上に兵営を構え、兵卒を屯(とん)し、ほとんど我が国を見ることおのが属地のごとし。ああこれ外は外国に対し、内は邦家に対し恥ずべきの甚しきにあらずや。かつ、それ条約改定の期すでに近きにあり。在朝の大臣よろしく焦思熟慮し、その束縛を解き独立国の体裁を全うするの方略を立てざるべけんや。
(征韓論反対の意見書)

この日(11月15日)鹿児島藩士に生まれる。明治維新の推進者の一人。新政府の中心となり、新国家の基礎をきづいたが暗殺された。

*桑原武夫編『一日一語』(岩波新書)より

2010.08.10


06 金原明善(きんばらめいぜん) (1830〜1878)


 一 古書を古読すべからず

 一 妄書を妄読すべかたず

 一 雑書を雑読すべからず

追加:彼の読書法とは、「このときはこうすればよかったものを、何故ああしたか? おれならばこうすると、古人を相手に相撲をとる」というものであった。つまり「本を読む」ということは、ものごとを知り、おぼえるということを超えて、つねに自己実践の糧とすることであった。そういう読書体験の中から、

 「古書を古読せず、雑書を雑読せず」という味のあることばもうまれている。

 『あばれ天竜を恵みの流れに』に記述されている。

参考:金原 明善は、明治時代の実業家。遠江国長上郡安間村出身。浜名郡和田村村長。天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した。現在の浜松市の出身

2008.3.14


07 本庄正則(1834〜1989)


 人間は弱いものです。悪い情報を聞けば面白くないし、難しい判断は先延ばしにしたい。しかし、経営者が蛮勇を振って自らの弱さと戦わなければ、会社にことなかれ主義が蔓延するばかりです。

 お茶・清涼飲料水メーカー大手の伊藤園創業者。早稲田大学を卒業後、伊藤園を創業。日本初の缶入りウーロン茶、缶入り緑茶を発売。これが大ヒットとなり伊藤園を日本を代表する清涼飲料水メーカーへと飛躍させた経営者】


08 坂本龍馬 (1835〜1867)


 世に活物(いきもの)たるもの皆衆生(しゅじょう)なれば、いずれを上下とも定めがたし。いま世の活物にては、ただ我をもって最上とすべし。されば天皇を志すべし。

 予が身寿命(じゅみょう)を天地とともにし、歓楽をきわめ、人の死生をほしいままにし、世を自由自在に扱うこそ、うまれ甲斐はありけれ。何ぞ人の下座におられんや。

 恥ということを内捨てて世の事は成るべし。使い所によっては却って善となる。

 この日(11月15日)土佐の郷士に生まれた。明治維新の準備者。海援隊の組織、大政奉還の画策者として最も幕府憎まれ、この日暗殺された。

*桑原武夫編『一日一語』(岩波新書)より

2010.11.15


09 福沢諭吉(1835〜1901)


▼『学問のすゝめ』(岩波文庫)

 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり。」有名な語句から始まる

 学問をするには分限を知る事肝要なり。人の天然産まれ附は、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なるもの者なれども、唯自由自在とのみ唱へて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。即ち其分限とは、天の道理に基き人の情に従ひ、他人の妨げを為すと為さずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘との界は、他人の妨げを為すと為さゞるとの間にあり。譬へば自分の金銀を費して為すことなれば、仮令ひ酒色に耽り放蕩を尽くすも自由自在なるべきに似たれども、決して然らず、一人の放蕩は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教に妨を為すがゆえに、其費す所の金銀は其人のものたりとも其罪許すべからず。(P.13〜14)


▼『福翁自伝』(岩波文庫)P.189

 学者を誉めるなら豆腐屋も誉めろ

 政府から君が国家に盡した功労を誉めるようにしなけばならぬと云うから、、私は自分の説を主張して、「誉めるの誉められぬと全體ソリヤ何の事だ、人間が人間当然の仕事をして居るに何も不思議はない。車屋は車を挽き豆腐屋は豆腐を拵へて書生は書を読むと云ふのは人間当然の仕事をしているのだ、其仕事をして居るのを政府が誉めると云ふなら、先ず隣の豆腐屋から誉めて貰はなければならぬ、ソンナ事は一切止しなさい」と云て断つたことがある。是れも随分暴論である。

参考:桑原武夫編『一日一語』(岩波新書)の2月3日にとりあげられいたので、原文をしらべた。

2010.02.02


10 前島 密(ひそか)(1835〜1910)


 国家の大本は国民の教育にして、その教育は士・民を論ぜず、国民あまねからしめ、これをあまねからしめには、なるべく簡易なる文字、文章を用いざるべからず。その深邃(しんすい)高尚なる百科の学におけるも、文字を知りえて後にその事を知るごとき艱渋迂遠(かんじゅううえん)なる教授法を取らず、よって学とはその事理を解知するとせざるべからずと存じ奉り候。しからば御国においても、西洋諸国のごとく音符字(カナ字)を用いて教育をしかれ、漢字はは用いられず、ついには日常公私の文字〔より〕漢字の御廃止相なり候ようにと存じ奉り候。
(国字国文改良建議書)

一九四六のこの日(11月25日)当用漢字と現代かなづかいの制定。国語改革は明治以前から追求された民族の大問題で前島密はその先駆者。彼は郵便制度の創始者。

*桑原武夫編『一日一語』(岩波新書)より

2010.11.25


11 大橋佐平(1836〜1901)


 植木を移すに必ず時あり。時を失すればその木枯るることあり。これ労して益なし。

▼事業の秘訣

一 <事を起こすに順序あり。物を扱うに機会あり>

二 <もし機会を失すれば如何いかに骨折りするも無駄骨に過ぎず、世に処するもの大いにこころせよ>

三 <機会は自ら作るべし、時の来るを待つというは迂遠(うえん)なり。自ら思い立つ時が即ち機なり>

*(坪谷善四郎『大橋佐平翁伝』)

 大橋佐平は越後長岡の出身。材木商の子で酒屋。河合継之助と同時代のひと。河合のはじめる戦争中止に奔走。しかし失敗。町は丸焼けになり、大橋は裏切り者とされ一時は命まで狙われた。

   出版社「博文館」をはじめて大成功。

*以上の記事は、朝日新聞2010年4月3日:磯田道史の この人、その言葉 から抜粋引用。

2010.04.04


12 『田中正造』 (1841〜1913)


「正造は今よりのちはこの世にあるわけの人にあらず。去る十日に死すべき筈のものに候。今日命あるは間違いに候。

   直訴のあと、正造は妻カツにこう書いた。


 足尾鉱毒問題は、日本の資本主義化、近代化がもたらしたものであり、それは近代文明のネガの部分を構成しているのである。

 この問題を半生涯かけて追求したのが田中正造であった。正造の名は十数年まえとは比較にならぬほど国民のなかに知られるようになった。中学・高校の社会科、日本史の教科書のほとんどが、足尾鉱毒と田中正造をとりあげている。(岩波新書 『田中正造』1984年発行より)

▼田中正造と足尾鉱毒事件 

 田中正造は栃木県の豪農出身で県会議員をつとめ、1880年前後は国会開設運動に加わり、1890年年の第一回総選挙で衆議院員に当選し、立憲改進党に属した。同年の渡良瀬川の洪水で足尾銅山の鉱毒問題が表面化すると、翌年の議会で田中は政府にその対策をせまり、また地元農民らが農務商務大臣あてに鉱毒除去と銅山の操業停止などを求める請願書を提出した。その後、内村鑑三・木村尚江・島田三郎ら、知識人・言論人のあいだにも被害民を支持して鉱毒問題の解決をもとめる声がたかまり、新聞も大々的にこれをとりあげるようになった。政府もようやく鉱毒調査委員会の調査により、銅山に鉱毒排除を命令したが効果はあがらず、1900年には陳情には陳情のために上京しようとした被害民と警官隊が衝突して多数の検挙者をを出した(川俣事件)。議会での請願や質問に効果がないのをみた田中は、翌年議員を辞職し、明治天皇に直訴をくわだてたが成功しなかった。その後政府は渡良瀬川の洪水調節のため、流域の谷中村に遊水地の建設を計画し、住民をたちのかせようとしたので、田中は谷中村村民とともに反対運動をすすめた。しかし、結局、谷中村は廃村となり、遊水地がつくられた。足尾銅山が全面的に閉山したのは、1973年、田中正造の死後60年のことであった。(高校の日本歴史の本から)


参考:▼森 信三 先生『一日一語』九月四日

 今日は義人田中正造翁が、同士庭田清四郎の家で最後の呼吸を引き取った日。
 枕頭に残された遺品としては、頭陀袋一つ。中にあったのは聖書と日記帳、及びチリ紙と小石数個のみだったと。
 戦前正造に関しては五巻の「義人全集」があるのみだったので、
 翁の遺弟の黒沢西蔵氏や雨宮義人氏等と語らい「全集」刊行の議を起して発足したが、途中岩波書店に引き継がれ、
 (その間多少遺憾な経緯はあったが)今や完璧な「全集」の刊行されつゝあることは、事に関わった私にとっては望外の欣びです。
追加1:2009.10.16


  今日の病気の数々

一、文章が悪いと見ない。

一、貧乏人の願出は見ない。

一、無勢力の意見はきかぬ。

一、正直な忠告は耳にせぬ。

一、主義より出る目的は嫌う。

一、国家も社会も目になくなる。

一、都合と私利と虚栄の脳充血。

一、下より申出る諂諛侫言は、欺かれながらも面白く、もっとも千万に聞こえる。

 其他、病者百出は今日政治上の病気なり。薬では駄目。法律では駄目。ただ一つ精神療法あるのみ。  (日記)

参考:桑原武夫編『一日一語』(岩波新書)より

追加:2009.10.18


追加2;NHKのドラマ「足尾から来た女」(前篇)が2014.01.18に放映されていた。当時の社会的風潮が織り込まれていて歴史の勉強になった。


13 『渋沢栄一』 (1841〜1931) 渋沢の口癖は事業は人なり


  生まれた時期が幕末の天保年間、在所が関東平野の中央に位置する武州、血洗島村(ちあらいむら)(埼玉県大里郡八基村)と聞くだけで、波乱に満ちた人生がよそうされそうな渋沢栄一の誕生である。

 家は代々富農で、農耕や養蚕、藍作りのほか、藍玉(藍の葉を醗酵させて固めた染料)の製造販売や金融業も営んでいた。幼少から家業を手伝った渋沢は、十四歳のころ藍玉の販売、藍葉の大量買占めをひとりでたってのけるるという商才をみせているが、その若き日の藍への思いは、後年彼が雅号を"青淵"といったことをみてもわかる。青淵とは藍玉のなかの最高級品の呼称である。

 家業に奔走すると同時に学問への情熱を燃やした渋沢は父から漢学を、隣りの手許むら(てもとむら)の尾高淳忠について儒学を、渋沢新三郎に神道無念流の剣をまなんでいた。当時血洗島村の領主は安倍摂津守で、その代官所は一里ほど先の岡部にあった。十七歳のとき、父の名代で代官所に赴いた渋沢は、代官から御用金として五百両納めよと申しつけられた。帰って父に相談いたしますと渋沢が応えると、代官はいかにも莫迦にしたように冷笑をうかべ、《貴様はつまらぬ男だ。いまこの場で直に承知したと挨拶しろ>>

 といった。

 この日の屈辱が、封建制度に対する不満と反抗となって、やがて渋沢は尊王攘夷の道を突っ走ることになる。

《(代官は)当然の(ように)年貢をい取りながら返済もせぬ金員を、用金とか何とか名を付けて取り立てて、その上、人を軽蔑嘲弄して、(まるで)貸したものでも取返すように、命示するという道理は、そもそもどこから生じたものであろうか、察するに彼の代官は、言語といい動作といい、決して知識のある人とは思われぬ、かような人物が人を軽蔑するというのは(官職を世襲するという)徳川政治から左様になったので、」もはや(幕府は)弊政の極度に陥ったものである(略)。自分もこのような百姓をして居ると、彼らのような、いわばまず虫けら同様の、知恵分別もない者に軽蔑せらねばならぬ、さてさて残念千万なことである。これでは何でも百姓を罷免めたい、余りといえば馬鹿馬鹿しい話だ。ということが心に浮かんだのは、すなわちこの代官所から帰りがけに、自問自答した話で、今でも能く覚えて居ります》(『雨夜譚』渋沢栄一述、長幸男校註)

 いらい渋沢は《慷慨憂世》の思いを抱いて、尊王攘夷派の尾高淳」忠、渋沢喜作と共に六十九人の同志を集めて武装蜂起して「高崎城乗取り、横浜焼打ち」の一大攘夷計画をくわだてる。幕吏の知るところとなり、計画は頓挫。渋沢は血洗島村を出奔、江戸にむかう。二十四歳の時である。

 こののち渋沢は、人生の大転換をむかえる。一橋家の用人、平岡四朗のすすめで攘夷論を捨てた渋沢は、一橋慶喜の御用談下役として出仕するが算勘の才を認められ一橋家の財務を預る御勘定組頭となる。

 人生の運というのは、こうしたものであろう。二年後の慶應二年(一八六六)一橋慶喜は徳川家を嗣ぎ、十五代将軍に、家臣である渋沢もまた幕臣となる。翌年、慶喜の命をうけた渋沢は、パリ万国博にむかう慶喜の弟、徳川昭武に随行してヨーロッパ各国を巡歴することになった。この西欧視察のの旅で渋沢は、攘夷思想の無意味さと、ヨーロッパの工業や経済制度の重要さを、いやというほど思い知らされた。これからの日本は、

「一に経済、二にも経済」

 だと、経済の仕組みや、金融制度、株式制度の知識の吸収に渋沢は夜も昼もなく没頭する。

 こうして、明治元年(一八八八)十一月、徳川昭武一行は帰国。が、この間、日本は大きく変わっている。徳川幕府はすでに瓦解し、将軍慶喜は静岡の地で謹慎の身であった。その静岡藩の勘定組頭として出仕した渋沢は、わが国最初の「共力合本法(きょうりょくがつぽんほう)(株式会社制度 )組織の商事会社、商法会所(取引所)を設立した。この成功がやがて明治新政府知るところとなり、大蔵省にまねかれた渋沢は、租税正(局長クラス)として大蔵省の実力者、井上馨(かおる)の右腕となって活躍する。が、政府内部の各省と意見が合わず、井上と共に辞職し、野にくだった。

 以来、六十年、合本主義の旗手として実業界に乗り出し「経営の指導者」「会社づくりの名人」として渋沢がはたした役割は大きい。第一国立銀行を設立し頭取となり、つづいて国立銀行条例の改正、銀行集会所の設立、日本銀行の設立……王子製紙会社、日本郵船、大阪紡績、加えてわが国最初の私鉄、日本鉄道から鉄道国立化にいたるまで、彼が手掛けた鉄道は日本全国にひろがり、おびただしい数になった。この他にも「およそ彼が着手した事業で成功しなかったものはない」といわれたくらい、経営の世界における彼の洞察力と指導力は卓絶していた。渋沢がかかわった業種は、以上のほかに、

 保険、鉱山、製鋼、陶器、造船、印刷、精油、築港、開墾、機械、教育、セメント、ビール醸造、煉瓦製造、水産、製糖、人造肥料、硝子製造、ホテル経営、輸出入業、倉庫……

 など五百余、日本の産業すべてが網羅されているといっても言いすぎでではない。

「実業家というのは(わが頭脳と腕で)金を儲けることによって国に尽くしているのだ」

 と強い信念ももつ渋沢は、政府の要人に癒着し、その特権によって暴利をむさぼっている政商たちの醜状に、日頃から苦々しいものを感じている。

 その渋沢栄一が生涯の信条とした家憲三則がある。第一則 処世接物の綱領。第二則 修身斉家(しゅうしんせいか)の要旨。第三則子弟教育の方法。 これらの中から味わいぶかい《処世接物の綱領》の条(くだり)を抜きだしてみよう。

《一 言、忠信を主とし、行、徳(篤)敬を重んじ、ことに処し人に接するには必ずその意を誠にすべし。

 一 益友を近け、損友を遠ざけ、苟(いやしく)もおのれに諂(へつら)う者を友とすべからず。

一 人に接するには必ず敬意を主とすべし。享楽遊興の時と雖も、敬礼を失うことあるべからず。

一 凡(およ)そ一事を為し、一物に接するには満身の精神を以てすべし。瑣事(さじ)たりとても之をゆるがせ(おろそか)に付すべからず。

一 富貴に驕(おご)るべからず、貧賤を患うべからず。唯知識を磨き徳行を修めて、真誠の幸福を期すべし。

一 口舌は禍福の因(よ)つて生ずる処の門なり、故に片語隻語(せきご)と雖も、必ずこれをみだりにすべからず。》

▼渋沢の口癖は

「事業は人なり」

ということであったが、晩年その『青渕百話』のなかで、

  「事業家として最も警戒せねばならぬことは、協力者の不道徳、不信用だ。これほどおそるべきものはない」

 と語っている。

▼財界の雄、渋沢財閥の大御所として活躍するかたわら彼は、後進の育成のために東京商法講習所(のち東京商科大学・現在の一橋大学)をはじめ多 くの実業学校を創設し、援助をした。理化学研究所の創設者。

 昭和六年、子爵、渋沢栄一は九十二歳の波瀾多い人生の幕をとじた。

*神坂次郎『男 この言葉』(新潮文庫)P.148より


参考:『論語 巻第八 季氏第十六』

四 孔子の曰く、益者(えきしゃ)三友、損者三友、直きを友とし、諒(まこと)を友とし、多聞を友とするは、益なり。便辟(べんぺき)を友とし、善柔を友とし便佞(べんねい)を友とするは損なり。

2008.10.15


 「東の渋沢栄一、西の大原孫三郎

 公共性を重視して活動した企業家としては、様々な名前が挙げられるだろう。しかし、経済活動と社会公益活動の両分野で大きな働きをした人物として、渋沢栄一を欠かすことはできない。

 「東の渋沢栄一、西の五代友厚(ごだいともあつ)」という表現がある。これは、関東地域では渋沢が、関西地区では五代(一八三五−八十五)が、日本の資本主義、経済界の発展の礎をつくったという意味であるが、事業活動だけでなく、公益性や社会文化貢献事業にも尽力したという側面を考慮した場合、五代ではなく、「東の渋沢栄一、西の大原孫三郎」という表現も可能ではないか。それほど、渋沢と孫三郎の活動には類似点が見受けられる。実際、小学校の社会科の教科書のなかには、「近代化につくした人々」として渋沢と孫三郎に写真を並列して掲載し、両者を社会貢献を含む近代化に尽力した人物ととらえられているものもある。(『新しい社会 六 上』東京書籍、一一五頁)。

 欧州見聞とカルチャーショック

「日本資本主義の父」、「近代化の父」と呼ばれた渋沢栄一は、江戸末期の一八四〇年(天保十一年)に現在の埼玉県深谷(ふかや)市に誕生し、攘夷の志士から転じて、一橋家に仕えることになった。そして、一八六七年(慶應三年)、徳川慶喜(よしのぶ)(一八五三−一九一〇)に随行して、パリでの万国博覧会、そして欧州社会を見聞する機会を得たのであった。

 この欧州滞在時に渋沢は、武士が支配する日本社会との違いに気づいた。欧州では、商人地位の高さが国富につながっていること、また、役人が自国のものを売りこむことは決して恥ではないことを知り、日本の経済や産業の近代化のためには、人々の意識を大きく変えなければならないことを痛感した。

 そして、渋沢は、江戸時代の朱子学に起因した、「商人は左の物を右へ取り渡すだけのゆがんだ利益を取る」、「義を重視する武士と異なり、商人は利益を貪る」という賤商観(せんしょうかん)を払拭し、政界、官界だけではなく、実業界にも優秀な人材が集まるようにしなくてはならないと考えた。そこで、渋沢は、自分が考えるさいや行動するさいの拠り所としていた『論語』を基に、「論語と算盤」という表現で道徳経済合一説を唱えた。渋沢は、仁義王道と貨殖富貴が両立されないなどという文言は『論語』のどこにもないことを主張して、貨殖が義にそむかないことを力説したのであった。

 五百の経済事業、六百の社会公益事業に関与

 儒教的人道主義者で、国のために尽力するとう意識が強かった渋沢は、求められたさいには厭わず、様々な事業活動に尽力した。「財界の大物」といわれた渋沢が関わった経済事業の数は約五百、社会公益事業の数は約六百といわれている。事業数でいえば、社会福祉、保健・医療、労使協調、国際親善および世界平和促進、教育、災害運動などの社会・公共事業のほうが経済的な事業よりも多いのである。

 渋沢も孫三郎同様、金銭を儲けることだけに専心した企業人ではなかった。経済活動と社会公益活動の両方に積極的に関わり、経済と倫理の調和を追及した企業家の先駆者であった。(以下略)

※兼田麗子著『大原孫三郎━━善意と戦略の経営者』(中公新書)P.193〜196より

参考:大原孫三郎

2015.12.24


14 新島襄(1843〜1890年)


 新島襄は、キリスト教に改宗した、最初の近代日本人の一人であった。

 友人がキリスト教の宣教師が中国語で出版した、西洋の地理や歴史に関する、いろいろな書物を貸してくれる。彼がとくに深い興味を感じたのは、上海と香港で出版されたキリスト教についての、何冊かの本であった。初め彼は本の内容にいくらか懐疑的だったが、神のことを、「天なる父」と言っているところで、深い感動を受ける。彼は「私の若き日々」:の中で、つぎのように記録している。

 「神は私の天の父と認めてからは、私は、もはや両親に離れ難く結び付られているとは感じなくなった。私は初めて、親子の関係に関する孔子の教えは狭すぎ、またまちがっていると気づいた。私はいった。『私はもはや私の両親のものではなく、私は神のものだ』と。その瞬間、私を父の家に強くつなぎとめていた強じんなきずなは、ずたずたに断ち切られた。そのとき、私は私自身の道をすすまねばならない、地上の両親にたいするよりも、より以上に、天の父にたいしてつかえねばならないと感じた。この新しい考えが、私を勇気づけて、藩主を捨て、故国を一時離れる決心をさせてくれたのである」(児玉訳)

 次にとる処置は、はっきりしていた。外国へ出かけて行って、福音を説くだれか外国人の宣教師について、勉強することであった。当時、公的な使節団員でないかぎり、日本人が外国へ行くことは、かたく禁じられていた。

 新島襄の『函館紀行』は一八六四年三月、アメリカで建造された帆船、快風丸で、江戸から函館まで帆走した時の体験を記録している。 ところが一八六四年六月十四に日付のあと、突然衝撃的な記述が目に飛び込んで来る。すなわち、「富士屋宇之吉の周旋に依而、此夜九時過密(ひそかに)に宇之吉と共に小舟の乗し、米利堅メリケン商船に乗得たり」。すなわち新島は、日本国民の外国渡航禁止令に背いて、こっそり外国船に乗り込んだのである。

 彼は帰国後、同志社大学の前身となる同志社英学校(現在:同支社大学)の創始者となる。

*ドナルド・キーン『続 百代の過客』より

2008.11.14


★新島襄 将来の日本 三版序

 余が友|徳富猪一郎《とくとみいいちろう》君さきに『将来の日本』と称する一冊子を編著し、これを余に贈り、あわせて余の一言を求めらる。余不文といえども君と旧交のあるあり。あにあえて君の好意を空しゅうすべけんや。余これを読み、その第一回より第十六回に至る、毎回あたかも新佳境に入るの感なきあたわず。けだしその論や卓々、その文や磊々《らいらい》、余をしてしばしば巻をおおい覚えず快哉《かいさい》と呼ばしめたりき。それ君の著書たる、広く宇内《うだい》の大勢を察し、つまびらかに古今の沿革に徴し、いやしくも天意の存するところ、万生の望むところ、早晩平民主義をもって世界を一統すべくこれに抗するものは亡び、これにしたがうものは存し、一国民一個人のよくその勢いに激し、その力に敵すべからざるを説き、これを過去現今の日本に論及し、ついに将来の日本を図画し、その取らざるべからざる方針を示すに至り筆をとどむ。

 これを要するに、君の図画するところは他なし。すなわち公道正義をもって邦家の大本となし、武備の機関を一転して生産の機関となし、圧抑の境遇を一変して自治の境遇となし、貴族的社会を一掃して平民的社会となすにあり。しかして君の論旨中含蓄するところの愛国の意は全国を愛するにあり。全国を愛するは全国民をしておのおのその生を楽しみそのよろしきを得せしむるにあり。これ実に君の活眼大いにここに見るところあり。満腔《まんこう》の慷慨《こうがい》黙々に付するに忍びず、ただちにその血性を攄《の》べ発して一篇の著書とはなりしなり。しかしてこの書初めて世に公布する客年十一月にあり。いまだ四ヵ月を経ざるにすでに再版に付し、またこれを三版に付せんとす。なんぞそれ世人購求の神速にして夥多《かた》なるや。けだし君が論鋒《ろんぽう》の卓々なるによるか、はたその文章の磊々なるによるか。しかりしこうして余は断じていわん。君がこの論を吐く徒論にあらず。君がこの文を作る徒文にあらず。天下の志士汲々これを読む徒読にあらず。これ天下大勢のしからしむるゆえんなり。ああこれ天下の大勢今すでにここに至れるなり。

  明治二十年二月

西京  新島襄

底本:「日本の名著 40」中央公論社 1971(昭和46)年8月10日初版発行 1982(昭和57)年2月25日3版発行

青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


15 新島八重(1845〜1932年)


 新島 八重(にいじま やえ〈やゑ〉)、弘化2年11月3日(1845年12月1日) - 昭和7年(1932年)6月14日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和初期の日本女性。

 同志社創立者の新島襄の妻として知られる。旧姓は山本。一部の手紙などでは「八重子」と署名してあることから、史料によっては新島八重子と書かれる場合もある。勲等は勲六等宝冠章。

 皇族以外の女性としてはじめて政府より受勲した人物。Wikipediaによる。

 NHKののドラマ番組「八重の桜」として放映。2013年。

2013.11.02


16 石川理紀之助(1845〜1915)


 「寝ていて人を起こすな」

 「俺は農民だ。農民が農民を助けないで誰が助けると言うのだ」

 明治時代の秋田県の農村指導者。


17 北里柴三郎(1853〜1931年)


 ときに或は学術上において先生と意見の衝突をきたしたこともありまして、先生の尊厳をおかし奉ったこともございますが、これは学術上のことで、正々堂々いわゆる君子の争いであります。……かくのごときは学門に忠実なる真正の研究者として、はじめてこれをあえてなしうるものであります。かの学術研究の何物たるかを解せず、したがって意見なく、いたずらに他人の説に雷同附和する軽躁浮薄の輩、もしくは表面は服従をよそおいて裏面にてその事業を悪口するがごとき者、そうじて曲学阿世の徒は、決してかくのごとき趣味をうかがい知るものではございません。 
(緒方正規教授の東大在職二十五年祝賀会における門弟総代としての祝辞)

 日本医学の育成者。熊本県人。コッホに学び、破傷風菌の純培養と血清療法に成功、治療医学に革命をもたらした

*桑原武夫編『一日一語』(岩波新書)より


18 犬養毅(いぬかいつよし)(1855〜1932年)


 号を木堂(ぼくどう)と称し明治から昭和にかけて、政党政治の確立などで活躍した岡山県出身の政治家。昭和6年に76歳で第29代内閣総理大臣となり、翌年昭和7年5月15日、首相官邸において海軍将校らの凶弾に倒れました。

▼また彼は、書にもすぐれ、中国の政治家などアジアの人々とも親交があり、条に厚い政治家としてもしられています。

 「話せばわかる」の彼の言葉は名言である。

 犬養道子さんは、木堂の孫になります。国際連合難民高等弁務官として活躍された緒方貞子さんは木堂の曾孫になります。

参考:犬養木堂記念館ホームページ

逸話:元総理大臣が、選挙があって地方へ遊説に行く。岩手県に行く。盛岡の駅に降り立つ。大勢の人が、出迎えにきている。ひと通りのあいさつが済んだあと、老首相は、その中の若い一人の政党支部の役員のところへ、歩みよる。

 「やあやあ、しばらく、エーと、君の名前は何といったっけな」

 「ハイ、私は田中でありますが」

 と答えたとする。すると首相は

 「ああ、田中は知っとる。田中は知っとる。その下の君の名前だよ」(笑)

 「ハイ、彦次郎であります」

 「ああ、そうそう、彦次郎君だったな。お母さんは元気かい」(笑)

 と聞く。今度は山口県へ行く。やはり同じようないきさつのあと、支部の若い党員のところへ歩みよる。

 「やあ、やあ、やあ、しばらく。え、え、と、君の名前は」

 「ハイ、三郎でありますが」

 「ウン、三郎は知ってる。三郎知ってる。ワシの聞きたいのは、その上の方のミョウジだよ」(笑)

 「ハイ、山田でありますが」

 「ああ、山田君だったな。お母さんは」(笑)

 そこで、声をかけられた若い党員は、みな、首相は、自分の名前の上半分か、下半分を覚えてくれていた、というので、大いにハリ切った、というのであります(笑)。

扇谷正造『桃太郎の教訓』(PHP)P.71「人の名前はドビンの取っ手である」より

扇谷正造『吉川英治氏におそわったこと』(六興出版)P.183

2012.01.04


19 尾崎行雄(1859〜1954年)


 元来議会なるものは、言論を戦わし、事実と道理の有無を対照し、正邪曲直の区別を明らかにし、もって国家民衆の福利を計るがために開くのである。しかして投票の結果が、いかに多数でも、邪を転じて直なす事はできない。故に事実と道理の前には、いかなる多数党といえども屈従せざるを得ないのが、議会本来の面目であって、議院政治が国家人民の利福を増進する大根本は、実にこの一事にあるのだ。しかるに……表決において多数さえ得れば、それで満足する傾きがある。すなわち議事堂は名ばかりで実は表決堂である。

(憲政の危機) 

11月20日埼玉県に生まれる。新聞記者をへて、第一議会より終生衆議院の議席にあり、つねに軍閥、官僚政治を攻撃し、普選運動・護憲運動の立役者であった。

*桑原武夫編『一日一語』(岩波新書)より


20 三宅雪嶺(1860〜1945年) 哲学者・評論家


 兵は拙速を尚ぶと云うが、兵のみではない。多くの事は拙速を貴んで居る。巧みでも遅くては必要がなくなって仕舞う。熟考の上でとか、篤と考えてとか云う事はせぬ方に慣れを作るが宜い

*谷沢永一著 『百言百話』(中央新書)
参考:「三宅雪嶺記念資料館」のホームページがあります。

2010.03.02


21 内村鑑三(1861〜1930年)


▼後世への最大遺物 ▼デンマルク国の話(以上は岩波文庫一冊にまとめられています。

後世への最大遺物 内村鑑三

     はしがき

 この小冊子は、明治二十七年七月相州箱根駅において開設せられしキリスト教徒第六夏期学校において述べし余《よ》の講話を、同校委員諸子の承諾を得てここに印刷に附せしものなり。

 事、キリスト教と学生とにかんすること多し、しかれどもまた多少一般の人生問題を論究せざるにあらず、これけだし余の親友京都便利堂主人がしいてこれを発刊せしゆえなるべし、読者の寛容を待つ。

  明治三十年六月二十日

         東京青山において

            内村鑑三

     再版に附する序言

 一篇のキリスト教的演説、別にこれを一書となすの必要なしと思いしも、前発行者の勧告により、印刷に附して世に公《おおやけ》にせしに、すでに数千部を出《いだ》すにいたれり、ここにおいて余はその多少世道人心を裨益《ひえき》することもあるを信じ、今また多くの訂正を加えて、再版に附することとはなしぬ、もしこの小冊子にしてなお新福音を宣伝するの機械となるを得ば余《よ》の幸福何ぞこれに如《し》かん。

  明治三十二年十月三十日

         東京角筈村において

            内村鑑三    

 この講演は明治二十七年、すなわち日清戦争のあった年、すなわち今より三十一年前、私がまだ三十三歳の壮年であったときに、海老名《えびな》弾正《だんじょう》君司会のもとに、箱根山上、蘆の湖の畔《ほとり》においてなしたものであります。その年に私の娘のルツ子が生まれ、私は彼女を彼女の母とともに京都の寓居に残して箱根へ来て講演したのであります。その娘はすでに世を去り、またこの講演を一書となして初めて世に出した私の親友京都便利堂主人中村弥左衛門君もツイこのごろ世を去りました。その他この書成って以来の世の変化は非常であります。多くの人がこの書を読んで志を立てて成功したと聞きます。その内に私と同じようにキリスト信者になった者もすくなくないとのことであります。そして彼らの内にある者は早くすでに立派にキリスト教を「卒業」して今は背教者をもって自から任ずる者もあります。またはこの書によって信者になりて、キリスト教的文士となりて、その攻撃の鉾《ほこ》を著者なる私に向ける人もあります。実に世はさまざまであります。そして私は幸いにして今日まで生存《いきなが》らえて、この書に書いてあることに多く違《たが》わずして私の生涯を送ってきたことを神に感謝します。この小著そのものが私の「後世への最大遺物」の一つとなったことを感謝します。「天地無始終《てんちしじゅうなく》、人生有生死《じんせいせいしあり》」であります。しかし生死ある人生に無死の生命を得るの途が供えてあります。天地は失《う》せても失せざるものがあります。そのものをいくぶんなりと握るを得て生涯は真の成功であり、また大なる満足であります。私は今よりさらに三十年生きようとは思いません。しかし過去三十年間生き残ったこの書は今よりなお三十年あるいはそれ以上に生き残るであろうとみてもよろしかろうと思います。終りに臨《のぞ》んで私はこの小著述をその最初の出版者たる故中村弥左衛門君に献じます。君の霊の天にありて安からんことを祈ります。

  大正十四年(一九二五年)二月二十四日

         東京市外柏木において

            内村鑑三

 夏期演説 後世への最大遺物

      第一回

 時は夏でございますし、処《ところ》は山の絶頂でございます。それでここで私が手を振り足を飛ばしまして私の血に熱度を加えて、諸君の熱血をここに注ぎ出すことはあるいは私にできないことではないかも知れません、しかしこれは私の好まぬところ、また諸君もあまり要求しないところだろうと私は考えます。それでキリスト教の演説会で演説者が腰を掛けて話をするのはたぶんこの講師が嚆矢《こうし》であるかも知れない(満場大笑)、しかしながらもしこうすることが私の目的に適《かな》うことでございますれば、私は先例を破ってここであなたがたとゆっくり腰を掛けてお話をしてもかまわないと思います。これもまた破壊党の所業だと思《おぼ》し召されてもよろしゅうございます(拍手喝采)。

 そこで私は「後世への最大遺物」という題を掲げておきました。もしこのことについて私の今まで考えましたことと今感じますることとをみな述べ まするならば、いつもの一時間より長くなるかも知れませぬ。もし長くなってつまらなくなったなら勝手にお帰りなすってください、私もまたくたびれましたならばあるいは途中で休みを願うかも知れませぬ。もしあまり長くなりましたならば、明朝の一時間も私の戴いた時間でございますからそのときに述べるかも知れませぬ。ドウゾこういう清い静かなところにありまするときには、東京やまたはその他の騒がしいところでみな気の立っているところでするような騒がしい演説を私はしたくないです。私はここで諸君と膝を打ち合せて私の所感そのままを演説し、また諸君の質問にも応じたいと思います。

 この夏期学校に来ますついでに私は東京に立ち寄り、そのとき私の親爺《おやじ》と詩の話をいたしました。親爺が山陽《さんよう》の古い詩を出してくれました。私が初めて山陽の詩を読みましたのは、親爺からもらったこの本でした(本を手に持って)。でこの夏期学校にくるついでに、その山陽の本を再《ふたた》び持ってきました。そのなかに私の幼《ちい》さいときに私の心を励ました詩がございます。その詩は諸君もご承知のとおり山陽の詩の一番初めに載《の》っている詩でございます、「十有三春秋《じゅうゆうさんしゅんじゅう》、逝者已如水《ゆくものはすでにみずのごとし》、天地無始終《てんちしじゅうなく》、人生有生死《じんせいせいしあり》、安得類古人《いずくんぞこじんにるいして》、千載列青史《せんざいせいしにれっするをえん》」。有名の詩でございます、山陽が十三のときに作った詩でございます。それで自分の生涯を顧みてみますれば、まだ外国語学校に通学しておりまする時分《じぶん》にこの詩を読みまして、私も自《おのず》から同感に堪《た》えなかった。私のようにこんなに弱いも ので子供のときから身体《からだ》が弱《よお》うございましたが、こういうような弱い身体であって別に社会に立つ位置もなし、また私を社会に引ッ張ってくれる電信線もございませぬけれども、ドウゾ私も一人の歴史的の人間になって、そうして千載青史に列するを得《う》るくらいの人間になりたいという心がやはり私にも起ったのでございます。その欲望はけっして悪い欲望とは思っていませぬ。私がそのことを父に話し友達に話したときに彼らはたいへん喜んだ。「汝にそれほどの希望があったならば汝の生涯はまことに頼もしい」といって喜んでくれました。ところが不意にキリスト教に接し、通常この国において説かれましたキリスト教の教えを受けたときには、青年のときに持ったところの千載青史に列するを得んというこの欲望が大分なくなってきました。それで何となく厭世的《えんせいてき》の考えが起ってきた。すなわち人間が千載青史に列するを得んというのは、まことにこれは肉欲的、不信者的、heathen《ヒーゼン》 的の考えである、クリスチャンなどは功名を欲することはなすべからざることである、われわれは後世に名を伝えるとかいうことは、根コソギ取ってしまわなければならぬ、というような考えが出てきました。それゆえに私の生涯は実に前の生涯より清い生涯になったかも知れませぬ。けれども前のよりはつまらない生涯になった。マーどうかなるだけ罪を犯さないように、なるだけ神に逆らって汚《けが》らわしいことをしないように、ただただ立派にこの生涯を終ってキリストによって天国に救われて、未来永遠の喜びを得んと欲する考えが起ってきました。

 そこでそのときの心持ちはなるほどそのなかに一種の喜びがなかったではございませぬけれども、以前の心持ちとは正反対の心持ちでありました。そうしてこの世の中に事業をしよう、この世の中に一つ旗を挙げよう、この世の中に立って男らしい生涯を送ろう、という念がなくなってしまいました。ほとんどなくなってしまいましたから、私はいわゆる坊主臭い因循的《いんじゅんてき》の考えになってきました。それでまた私ばかりでなく私を教えてくれる人がソウでありました。たびたび……ここには宣教師はおりませぬから少しは宣教師の悪口をいっても許してくださるかと思いまするが……宣教師のところに往《い》って私の希望を話しますると、「あなたはそんな希望を持ってはいけませぬ、そのようなことはそれは欲心でございます、それはあなたのまだキリスト教に感化されないところの心から起ってくるのです」というようなことを聞かされないではなかった。私は諸君たちもソウいうような考えにどこかで出会ったことはないことはないだろうと思います。なるほど千載青史に列するを得んということは、考えのいたしようによってはまことに下等なる考えであるかも知れませぬ。われわれが名をこの世の中に遺《のこ》したいというのでございます。この一代のわずかの生涯を終ってそのあとは後世の人にわれわれの名を褒め立ってもらいたいという考え、それはなるほどある意味からいいますると私どもにとっては持ってはならない考えであると思います。ちょうどエジプトの昔の王様が己《おの》れの名が万世に伝わるようにと思うてピラミッドを作った、すなわち世の中の人に彼は国の王であったということを知らしむるために万民の労力を使役して大きなピラミッドを作ったというようなことは、実にキリスト信者としては持つべからざる考えだと思われます。有名な天下の糸平が死ぬときの遺言《ゆいごん》は「己れのために絶大の墓を立てろ」ということであったそうだ。そうしてその墓には天下の糸平と誰か日本の有名なる人に書いてもらえと遺言した。それで諸君が東京の牛《うし》の御前《ごぜ》に往《い》ってごらんなさると立派な花崗石《かこうせき》で伊藤博文さんが書いた「天下之糸平」という碑が建っております。それは、その千載にまで天下の糸平をこの世の中に伝えよというた糸平の考えは、私はクリスチャン的の考えではなかろうと思います。またそういう例がほかにもたくさんある。このあいだアメリカのある新聞で見ましたに、ある貴婦人で大金持の寡婦《やもめ》が、「私はドウゾ死んだ後に私の名を国人に覚えてもらいたい、しかし自分の持っている金を学校に寄附するとかあるいは病院に寄附するとかいうことは普通の人のなすところなれば、私は世界中にないところの大なる墓を作ってみたい、そうして千載に記憶されたい」という希望を起した。先日その墓が成ったそうでございます。ドンナに立派な墓であるかは知りませぬけれども、その計算に驚いた、二百万ドルかかったというのでございます。二百万ドルの金をかけて自分の墓を建ったのは確かにキリスト教的の考えではございません。

 しかしながらある意味からいいますれば、千載青史に列するを得んという考えは、私はそんなに悪い考えではない、ないばかりでなくそれは本当の意味にとってみまするならば、キリスト教信者が持ってもよい考えでございまして、それはキリスト信者が持つべき考えではないかと思います、なお、われわれの生涯の解釈から申しますると、この生涯はわれわれが未来に往く階段である。ちょうど大学校にはいる前の予備校である。もしわれわれの生涯がわずかこの五十年で消えてしまうものならば実につまらぬものである。私は未来永遠に私を準備するためにこの世の中に来て、私の流すところの涙も、私の心を喜ばしむるところの喜びも、喜怒哀楽《きどあいらく》のこの変化というものは、私の霊魂をだんだんと作り上げて、ついに私は死なない人間となってこの世を去ってから、もっと清い生涯をいつまでも送らんとするは、私の持っている確信でございます。しかしながらそのことは純粋なる宗教問題でございまして、それは私の今晩あなたがたにお話をいたしたいことではございません。

 しかしながら私にここに一つの希望がある。この世の中をズット通り過ぎて安らかに天国に往き、私の予備学校を卒業して天国なる大学校にはいってしまったならば、それでたくさんかと己れの心に問うてみると、そのときに私の心に清い欲が一つ起ってくる。すなわち私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起ってくる。ドウゾ私は死んでからただに天国に往くばかりでなく、私はここに一つの何かを遺して往きたい。それで何もかならずしも後世の人が私を褒めたってくれいというのではない、私の名誉を遺したいというのではない、ただ私がドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである、すなわち英語でいう Memento《メメント》 を残したいのである。こういう考えは美しい考えであります。私がアメリカにおりましたときにも、その考えがたびたび私の心に起りました。私は私の卒業した米国の大学校を去るときに、同志とともに卒業式の当日に愛樹を一本校内に植えてきた。これは私が四年も育てられた私の学校に私の愛情を遺しておきたいためであった。なかには私の同級生で、金のあった人はそればかりでは満足しないで、あるいは学校に音楽堂を寄附するもあり、あるいは書籍館を寄附するもあり、あるいは運動場を寄附するもありました。

 しかるに今われわれは世界というこの学校を去りまするときに、われわれは何もここに遺さずに往くのでございますか。その点からいうとやはり私には千載青史に列するを得んという望みが残っている。私は何かこの地球に Memento を置いて逝《ゆ》きたい、私がこの地球を愛した証拠を置いて逝きたい、私が同胞を愛した記念碑を置いて逝きたい。それゆえにお互いにここに生まれてきた以上は、われわれが喜ばしい国に往くかも知れませぬけれども、しかしわれわれがこの世の中にあるあいだは、少しなりともこの世の中を善くして往きたいです。この世の中にわれわれの Memento を遺して逝きたいです。有名なる天文学者のハーシェルが二十歳ばかりのときに彼の友人に語って「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより、世の中を少しなりともよくして往こうではないか」というた。実に美しい青年の希望ではありませんか。「この世の中を、私が死ぬときは、私の生まれたときよりは少しなりともよくして逝こうじゃないか」と。ハーシェルの伝記を読んでごらんなさい。彼はこの世の中を非常によくして逝った人であります。今まで知られない天体を全《まった》く描いて逝った人であります。南半球の星を、何年間かアフリカの希望峰植民地に行きまして、スッカリ図に載せましたゆえに、今日の天文学者の知識はハーシェルによってドレだけ利益を得たか知れない。それがために航海が開け、商業が開け、人類が進歩し、ついには宣教師を外国にやることが出き、キリスト教伝播の直接間接の助けにどれだけなったか知れませぬ。われわれもハーシェルと同じに互いにみな希望 Ambition《アムビション》 を遂《と》げとうはございませぬか。われわれが死ぬまでにはこの世の中を少しなりとも善くして死にたいではありませんか。何か一つ事業を成し遂げて、できるならばわれわれの生まれたときよりもこの日本を少しなりともよくして逝きたいではありませんか。この点についてはわれわれ皆々同意であろうと思います。

 それでこの次は遺物のことです。何を置いて逝こう、という問題です。何を置いてわれわれがこの愛する地球を去ろうかというのです。そのことについて私も考えた、考えたばかりでなくたびたびやってみた。何か遺したい希望があってこれを遺そうと思いました。それで後世への遺物もたくさんあるだろうと思います。それを一々お話しすることはできないことでございます。けれども、このなかに第一番にわれわれの思考に浮ぶものからお話しをいたしたいと思います。

 後世へわれわれの遺すもののなかにまず第一番に大切のものがある。何であるかというと金です。われわれが死ぬときに遺産金を社会に遺して逝く、己の子供に遺して逝くばかりでなく、社会に遺して逝くということです、それは多くの人の考えにあるところではないかと思います。それでソウいうことをキリスト信者の前にいいますると、金《かね》を遺すなどということは実につまらないことではないかという反対がジキに出るだろうと思います。私は覚えております。明治十六年に初めて札幌から山男になって東京に出てきました。その時分に東京には奇体《きたい》な現象があって、それを名づけてリバイバルというたのです。その時分私は後世に何を遺さんかと思っておりしかというに、私は実業教育を受けたものであったから、もちろん金を遺したかった、億万の富を日本に遺して、日本を救ってやりたいという考えをもっておりました。自分には明治二十七年になったら、夏期学校の講師に選ばれるという考えは、その時分にはチットもなかったのです(満場大笑)。金を遺したい、金満家になりたい、という希望を持っておったのです。ところがこのことをあるリバイバルに非常に熱心の牧師先生に話したところが、その牧師さんに私は非常に叱られました。「金を遺したい、というイクジのない、そんなものはドウにもなるから、君は福音のために働きたまえ」というて戒《いまし》められた。しかし私はその決心を変更しなかった。今でも変更しない。金を遺すものを賤《いや》しめるような人はやはり金のことに賤しい人であります、吝嗇《けち》な人であります。金というものは、ここで金の価値について長い講釈をするには及びませぬけれども、しかしながら金というものの必要は、あなたがた十分に認めておいでなさるだろうと思います。金は宇宙のものであるから、金というものはいつでもできるものだという人に向って、フランクリンは答えて「そんなら今|拵《こしら》えてみたまえ」と申しました。それで私に金などは要《い》らないというた牧師先生はドウいう人であったかというに、後で聞いてみると、やはりずいぶん金を欲しがっている人だそうです。それで金というものは、いつでも得られるものであるということは、われわれが始終持っている考えでございますけれども、実際金の要《い》るときになってから金というものは得るに非常にむずかしいものです。そうしてあるときは富というものは、どこでも得られるように、空中にでも懸っているもののように思いますけれども、その富を一つに集めることのできるものは、これは非常に神の助けを受くる人でなければできないことであります。ちょうど秋になって雁《かり》は天を飛んでいる。それは誰が捕《と》ってもよい。しかしその雁を捕ることはむずかしいことであります。人間の手に雁が十羽なり二十羽なり集まってあるならば、それに価値があります。すなわち、手の内の一羽の雀は木の上におるところの二羽の雀より貴い、というのはこのことであります。そこで金というものは宇宙に浮いているようなものでございますけれども、しかしながらそれを一つにまとめて、そうして後世の人がこれを用いることができるように溜《た》めて往かんとする欲望が諸君のうちにあるならば、私は私の満腔《まんこう》の同情をもって、イエス・キリストの御名《みな》によって、父なる神の御名によって、聖霊の御名によって、教会のために、国のために、世界のために、「君よ、金を溜めたまえ」というて、このことをその人に勧めるものです。富というものを一つにまとめるということは一大事業です。それでわれわれの今日の実際問題は社会問題であろうと、教会問題であろうと、青年問題であろうと、教育問題であろうとも、それを煎《せん》じつめてみれば、やはり金銭問題です。ここにいたって誰が金が不要だなぞというものがありますか。ドウゾ、キリスト信者のなかに金持が起ってもらいたいです、実業家が起ってもらいたいです。われわれの働くときに、われわれの後楯《うしろだて》に なりまして、われわれの心を十分にわかった人がわれわれを見継《みつ》いでくれるということは、われわれの目下の必要でございます。それで金を後世に遺そうという欲望を持っているところの青年諸君が、その方に向って、神の与えたる方法によって、われわれの子孫にたくさん金を遺してくださらんことを、私は実に祈ります。アメリカの有名なるフィラデルフィアのジラードというフランスの商人が、アメリカに移住しまして、建てた孤児院を、私は見ました。これは世界第一番の孤児院です。およそ小学生徒くらいのものが七百人ばかりおります。中学、大学くらいまでの孤児をズッとならべますならば、たぶん千人以上のように覚えました。その孤児院の組織を見まするに、われわれの今日《こんにち》日本にあるところの孤児院のように、寄附金の足らないために事業がさしつかえるような孤児院ではなくして、ジラードが生涯かかって溜めた金をことごとく投じて建てたものです。ジラードの生涯を書いたものを読んでみますると、なんでもない、ただその一つの目的をもって金を溜めたのです。彼に子供はなかった、妻君も早く死んでしまった。「妻はなし、子供はなし、私には何にも目的はない。けれども、どうか世界第一の孤児院を建ってやりたい」というて、一生懸命に働いて拵《こしら》えた金で建てた孤児院でございます。その時分はアメリカ開国の早いころでありましたから、金の溜め方が今のように早くゆかなかった。しかし一生涯かかって溜めたところのものは、おおよそ二百万ドルばかりでありました。それをもってペンシルバニア州に人の気のつかぬ地面をたくさん買った。それで死ぬときに、「この金をもって二つの孤児院を建てろ、一つはおれを育ててくれたところのニューオルリーンズに建て、一つはおれの住んだところのフィラデルフィアに建てろ」と申しました。それで妙な癖があった人とみえまして、教会というものをたいそう嫌ったのです。それで「おれは別にこの金を使うことについて条件はつけないけれども、おれの建ったところの孤児院のなかに、デノミネーションすなわち宗派の教師は誰でも入れてはならぬ」という稀代《きたい》な条件をつけて死んでしまった。それゆえに、今でもメソジストの教師でも、監督教会の教師でも、組合教会の教師でも、この孤児院にははいることはお気の毒でございますけれどもできませぬ(大笑)。そのほかは誰でもそこにはいることができる。それでこの孤児院の組織のことは長いことでございますから、今ここにお話し申しませぬけれども、前に述べた二百万ドルをもって買い集めましたところの山です。それが今日のペンシルバニア州における石炭と鉄とを出す山でございます。実に今日の富はほとんど何千万ドルであるかわからない。今はどれだけ事業を拡張してもよい、ただただ拡張する人がいないだけです。それでもし諸君のうち、フィラデルフィアに往く方があれば、一番にまずこの孤児院を往って見ることをお勧め申します。

 また有名なる慈善家ピーボディーはいかにして彼の大業を成したかと申しまするに、彼が初めてベルモントの山から出るときには、ボストンに出て大金持ちになろうという希望を持っておったのでございます。彼は一文なしで故郷を出てきました。それでボストンまではその時分はもちろん汽車はありませんし、また馬車があっても無銭《ただ》では乗れませぬから、ある旅籠屋《はたごや》の亭主に向い、「私はボストンまで往かなければならぬ、しかしながら日が暮れて困るから今夜泊めてくれぬか」というたら、旅籠屋の亭主が、可愛想だから泊めてやろう、というて喜んで引き受けた。けれどもそのときにピーボディーは旅籠屋の亭主に向って「無銭《ただ》で泊まることは嫌《いや》だ、何かさしてくれるならば泊まりたい」というた。ところが旅籠屋の亭主は「泊まるならば自由に泊まれ」というた。しかしピーボディーは、「それではすまぬ」というた。そうして家を見渡したところが、裏に薪がたくさん積んであった。それから「御厄介になる代りに、裏の薪を割らしてください」というて旅籠屋の亭主の承諾を得て、昼過ぎかかって夜まで薪を挽《ひ》き、これを割り、たいていこのくらいで旅籠賃に足ると思うくらいまで働きまして、そうして後に泊まったということであります。そのピーボディーは彼の一生涯を何に費《ついや》したかというと、何百万ドルという高は知っておりませぬけれども、金を溜めて、ことに黒人の教育のために使った。今日アメリカにおります黒人がたぶん日本人と同じくらいの社交的程度に達しておりますのは何であるかというに、それはピーボディーのごとき慈善家の金の結果であるといわなければなりません。私は金のためにはアメリカ人はたいへん弱い、アメリカ人は金のためにはだいぶ侵害されたる民《たみ》であるということも知っております、けれどもアメリカ人のなかに金持ちがありまして、彼らが清き目的をもっを溜めそれを清きことのために用うるということは、アメリカの今日の盛大をいたした大原因であるということだけは私もわかって帰ってきました。それでもしわれわれのなかにも、実業に従事するときにこういう目的をもって金を溜める人が出てきませぬときには、本当の実業家はわれわれのなかに起りませぬ。そういう目的をもって実業家が起りませぬならば、彼らはいくら起っても国の益になりませぬ。ただただわずかに憲法発布式のときに貧乏人に一万円……一人に五十銭か六十銭くらいの頭割をなしたというような、ソンナ慈善はしない方がかえってよいです。三菱のような何千万 円というように金を溜めまして、今日まで……これから三菱は善い事業をするかと信じておりますけれども……今日まで何をしたか。彼自身が大いに勢力を得、立派な家を建て立派な別荘を建てましたけれども、日本の社会はそれによって何を利益したかというと、何一つとして見るべきものはないです。それでキリスト教信者が立ちまして、キリスト信徒の実業家が起りまして、金を儲《もう》けることは己れのために儲けるのではない、神の正しい道によって、天地宇宙の正当なる法則にしたがって、富を国家のために使うのであるという実業の精神がわれわれのなかに起らんことを私は願う。そういう実業家が今日わが国に起らんことは、神学生徒の起らんことよりも私の望むところでございます。今日は神学生徒がキリスト信者のなかに十人あるかと思うと、実業家は一人もないです。百人あるかと思うと実業家は一人もない。あるいは千人あるかと思うと、一人おるかおらぬかというくらいであります。金をもって神と国とに事《つか》えようという清き考えを持つ青年がない。よく話に聴きまするかの紀ノ国屋文左衛門が百万両溜めて百万両使ってみようなどという賤しい考えを持たないで、百万両溜めて百万両神のために使って見ようというような実業家になりたい。そういう実業家が欲しい。その百万両を国のために、社会のために遺して逝こうという希望は実に清い希望だと思います。今日私が自身に持ちたい望みです。もし自身にできるならばしたいことですが、ふしあわせにその方の伎倆は私にはありませぬから、もし諸君のなかにその希望がありますならば、ドウゾ今の教育事業とかに従事する人たちは、「汝の事業は下等の事業なり」などというて、その人を失望させぬように注意してもらいたい。またそういう希望を持った人は、神がその人に命じたところの考えであると思うて十分にそのことを自から奨励されんことを望む。あるアメリカの金持ちが「私は汝にこの金を譲り渡すが、このなかに穢《きた》ない銭《ぜに》は一文もない」というて子供に遺産を渡したそうですが、私どもはそういう金が欲しいのです。

 それで後世への最大遺物のなかで、まず第一に大切のものは何であるかというに、私は金だというて、その金の必要を述べた。しかしながら何人も金を溜める力を持っておらない。私はこれはやはり一つの Genius《ジーニアス》(天才)ではないかと思います。私は残念ながらこの天才を持っておらぬ。ある人が申しまするに金を溜める天才を持っている人の耳はたいそう膨《ふく》れて下の方に垂れているそうですが、私は鏡に向って見ましたが、私の耳はたいそう縮んでおりますから、その天才は私にはないとみえます(大笑)。私の今まで教えました生徒のなかに、非常にこの天才を持っているものがある。ある奴《やつ》は北海道に一文無しで追い払われたところが、今は私に十倍もする富を持っている。「今におれが貧乏になったら、君はおれを助けろ」というておきました。実に金儲けは、やはりほかの職業と同じように、ある人たちの天職である。誰にも金を儲けることができるかということについては、私は疑います。それで金儲けのことについては少しも考えを与えてはならぬところの人が金を儲けようといたしますると、その人は非常に穢《きた》なく見えます。そればかりではない、金は後世への最大遺物の一つでございますけれども、遺しようが悪いとずいぶん害をなす。それゆえに金を溜める力を持った人ばかりでなく、金を使う力を持った人が出てこなければならない。かの有名なるグールドのように彼は生きているあいだに二千万ドル溜めた。そのために彼の親友四人までを自殺せしめ、アチラの会社を引き倒し、コチラの会社を引き倒して二千万ドル溜めた。ある人の言に「グールドが一千ドルとまとまった金を慈善のために出したことはない」と申しました。彼は死ぬときにその金をどうしたかというと、ただ自分の子供にそれを分け与えて死んだだけであります。すなわちグールドは金を溜めることを知って、金を使うことを知らぬ人であった。それゆえに金を遺物としようと思う人には、金を溜める力とまたその金を使う力とがなくてはならぬ。この二つの考えのない人、この二つの考えについて十分に決心しない人が、金を溜めるということは、はなはだ危険のことだと思います。

 さて、私のように金を溜めることの下手なもの、あるいは溜めてもそれが使えない人は、後世の遺物に何を遺そうか。私はとうてい金持ちになる望みはない、ゆえにほとんど十年前にその考えをば捨ててしまった。それでもし金を遺すことができませぬならば、何を遺そうかという実際問題が出てきます。それで私が金よりもよい遺物は何であるかと考えて見ますと、事業です。事業とは、すなわち金を使うことです。金は労力を代表するものでありますから、労力を使ってこれを事業に変じ、事業を遺して逝くことができる。金を得る力のない人で事業家はたくさんあります。金持ちと事業家は二つ別物のように見える。商売する人と金を溜める人とは人物が違うように見えます。大阪にいる人はたいそう金を使うことが上手であるが、京都にいる人は金を溜めることが上手である。東京の商人に聞いてみると、金を持っている人には商売はできない、金のないものが人の金を使《つこ》うて事業をするのであると申します。純粋の事業家の成功を考えてみまするに、けっして金ではない。グールドはけっして事業家ではない。バンダービルトはけっして事業家ではない。バンダービルトは非常に金を作ることが上手でございました。そして彼は他の人の事業を助けただけであります。有名のカルフォルニアのスタンフォードは、たいへん金を儲けることが上手であった。しかしながらそのスタンフォードに三人の友人がありました。その友人のことは面白い話でございますが、時がないからお話をしませぬけれども、金を儲けた人と、金を使う人と、数々あります。それですから金を溜めて金を遺すことができないならば、あるいは神が私に事業をなす天才を与えてくださったかも知れませぬ。もしそうならば私は金を遺すことができませぬとも、事業を遺せば充分満足します。それで事業をなすということは、美しいことであるはもちろんです。ドウいう事業が一番誰にもわかるかというと土木的の事業です。私は土木学者ではありませぬけれども、土木事業を見ることが非常に好きでございます。一つの土木事業を遺すことは、実にわれわれにとっても快楽であるし、また永遠の喜びと富とを後世に遺すことではないかと思います。今日も船に乗って、湖水の向こうまで往きました。その南の方に当って水門がある。その水門というは、山の裾をくぐっている一つの隧道《ずいどう》であります。その隧道を通って、この湖水の水が沼津の方に落ちまして、二千石|乃至《ないし》三千石の田地を灌漑しているということを聞きました。昨日ある友人に会うて、あの穴を掘った話を聞きました。その話を聞いたときに私は実に嬉しかった。あの穴を掘った人は今からちょうど六百年も前の人であったろうということでございますが、誰が掘ったかわからない。ただこれだけの伝説が遺っているのでございます。すなわち箱根のある近所に百姓の兄弟があって、まことに沈着であって、その兄弟が互いに相語っていうに、「われわれはこの有難き国に生まれてきて、何か後世に遺して逝かなければならぬ、それゆえに何かわれわれにできることをやろうではないか」と。しかし兄なる者はいうた。「われわれのような貧乏人で、貧乏人には何も大事業を遺して逝くことはできない」というと、弟が兄に向っていうには、「この山をくり抜いて湖水の水をとり、水田を興してやったならば、それが後世への大なる遺物ではないか」というた。兄は「それは非常に面白いことだ、それではお前は上の方から掘れ、おれは下の方から掘ろう。一生涯かかってもこの穴を掘ろうじゃないか」といって掘り始めた。それでドウいうふうにしてやりましたかというと、そのころは測量器械もないから、山の上に標《しるし》を立って、両方から掘っていったとみえる。それから兄弟が生涯かかって何もせずに……たぶん自分の職業になるだけの仕事はしたでございましょう……兄弟して両方からして、毎年毎年掘っていった。何十年でございますか、その年は忘れましたけれども、下の方から掘ってきたものは、湖水の方から掘っていった者の四尺上に往ったそうでございます。四尺上に往きましたけれども御承知の通り、水は高うございますから、やはり竜吐水《りゅうどすい》のように向こうの方によく落ちるのです。生涯かかって人が見ておらないときに、後世に事業を遺そうというところの奇特《きとく》の心より、二人の兄弟はこの大事業をなしました。人が見てもくれない、褒めてもくれないのに、生涯を費してこの穴を掘ったのは、それは今日にいたってもわれわれを励ます所業ではありませぬか。それから今の五ヵ村が何千石だかどれだけ人口があるか忘れましたが、五ヵ村が頼朝《よりとも》時代から今日にいたるまで年々米を取ってきました。ことに湖水の流れるところでありますから、旱魃《かんばつ》ということを感じたことはございません。実にその兄弟はしあわせの人間であったと思います。もし私が何にもできないならば、私はその兄弟に真似たいと思います。これは非常な遺物です。たぶん今往ってみましたならば、その穴は長さたぶん十町かそこらの穴でありましょうが、そのころは煙硝《えんしょう》もない、ダイナマイトもないときでございましたから、アノ穴を掘ることは実に非常なことでございましたろう。

 大阪の天保山を切ったのも近ごろのことでございます。かの安治川《あじがわ》を切った人は実に日本にとって非常な功績をなした人であると思います。安治川があるために大阪の木津川の流れを北の方に取りまして、水を速くして、それがために水害の患《うれい》を取り除いてしまったばかりでなく、深い港を拵《こしら》えて九州、四国から来る船をことごとくアソコに繋《つな》ぐようになったのでございます。また秀吉の時代に切った吉野川は昔は大阪の裏を流れておって人民を艱《なや》ましたのを、堺と住吉の間に開鑿《かいさく》しまして、それがために大和川の水害というものがなくなって、何十ヵ村という村が大阪の城の後ろにできました。これまた非常な事業です。それから有名の越後の阿賀川《あがのがわ》を切ったことでございます。実にエライ事業でございます。有名の新発田《しばた》の十万石、今は日本においてたぶん富の中心点であるだろうという所でございます。これらの大事業を考えてみるときに私の心のなかに起るところの考えは、もし金を後世に遺すことができぬならば、私は事業を遺したいとの考えです。また土木事業ばかりでなく、その他の事業でももしわれわれが精神を籠《こ》めてするときは、われわれの事業は、ちょうど金に利息がつき、利息に利息が加わってきて、だんだん多くなってくるように、一つの事業がだんだん大きくなって、終りには非常なる事業となります。

 事業のことを考えますときに、私はいつでも有名のデビッド・リビングストンのことを思い出さないことはない。それで諸君のうち英語のできるお方に私はスコットランドの教授ブレーキの書いた“Life《ライフ》 and《アンド》 Letters《レターズ》 of《オブ》 David《デビッド》 Livingstone《リビングストン》”という本を読んでごらんなさることを勧めます。私一個人にとっては聖書のほかに、私の生涯に大刺激を与えた本は二つあります。一つはカーライルの『クロムウェル伝』であります。そのことについては私は後にお話をいたします。それからその次にこのブレーキ氏の書いた『デビッド・リビングストン』という本です。それでデビッド・リビングストンの一生涯はどういうものであったかというと、私は彼を宗教家あるいは宣教師と見るよりは、むしろ大事業家として尊敬せざるをえません。もし私は金を溜めることができなかったならば、あるいはまた土木事業を起すことができぬならば、私はデビッド・リビングストンのような事業をしたいと思います。この人はスコットランドのグラスゴーの機屋《はたや》の子でありまして、若いときからして公共事業に非常に注意しました。「どこかに私は」……デビッド・リビングストンの考えまするに……「どこかに私は一事業を起してみたい」という考えで、始めは支那《しな》に往きたいという考えでありまして、その望みをもって英国の伝道会社に訴えてみたところが、支那に遣《や》る必要がないといって許されなかった。ついにアフリカにはいって、三十七年間己れの生命をアフリカのために差し出し、始めのうちはおもに伝道をしておりました。けれども彼は考えました、アフリカを永遠に救うには今日は伝道ではいけない。すなわちアフリカの内地を探検して、その地理を明かにしこれに貿易を開いて勢力を与えねばいけぬ、ソウすれば伝道は商売の結果としてかならず来るに相違ない。そこで彼は伝道を止めまして探検家になったのでございます。彼はアフリカを三度縦横に横ぎり、わからなかった湖水もわかり、今までわからなかった河の方向も定められ、それがために種々の大事業も起ってきた。しかしながらリビングストンの事業はそれで終らない、スタンレーの探検となり、ペーテルスの探検となり、チャンバーレンの探検となり、今日のいわゆるアフリカ問題にして一つとしてリビングストンの事業に原因せぬものはないのでございます。コンゴ自由国、すなわち欧米九ヵ国が同盟しまして、プロテスタント主義の自由国をアフリカの中心に立つるにいたったのも、やはりリビングストンの手によったものといわなければなりませぬ。

 今日の英国はエライ国である、今日のアメリカの共和国はエライ国であると申しますが、それは何から始まったかとたびたび考えてみる。それで私は尊敬する人について少しく偏するかも知れませぬが、もし偏しておったならばそのようにご裁判を願います、けれども私の考えまするには、今日のイギリスの大なるわけは、イギリスにピューリタンという党派が起ったからであると思います。アメリカに今日のような共和国の起ったわけは何であるか、イギリスにピューリタンという党派が起ったゆえである。しかしながらこの世にピューリタンが大事業を遺したといい、遺しつつあるというは何のわけであるかというと、何でもない、このなかにピューリタンの大将がいたからである。そのオリバー・クロムウェルという人の事業は、彼が政権を握ったのはわずか五年でありましたけれども、彼の事業は彼の死とともにまったく終ってしまったように見えますけれども、ソウではない。クロムウェルの事業は今日のイギリスを作りつつあるのです。しかのみならず英国がクロムウェルの理想に達するにはまだズッと未来にあることだろうと思います。彼は後世に英国というものを遺した。合衆国というものを遺した。アングロサクソン民族がオーストラリアを従え、南アメリカに権力を得て、南北アメリカを支配するようになったのも彼の遺蹟といわなければなりませぬ。

      第二回

 昨晩は後世へわれわれが遺して逝くべきものについて、まず第一に金のことの話をいたし、その次に事業のお話をいたしました。ところで金を溜める天才もなし、またそれを使う天才もなし、かつまた事業の天才もなし、また事業をなすための社会の位地もないときには、われわれがこの世において何をいたしたらよろしかろうか。事業をなすにはわれわれに神から受けた特別の天才が要《い》るばかりでなく、また社会上の位地が要る。われわれはあるときはかの人は天才があるのに何故なんにもしないでいるかといって人を責めますけれども、それはたびたび起る酷《こく》な責め方だと思います。人は位地を得ますとずいぶんつまらない者でも大事業をいたすものであります。位地がありませぬとエライ人でも志を抱《いだ》いて空《むな》しく山間に終ってしまった者もたくさんあります。それゆえに事業をもって人を評することはできないことは明かなることだろうと思います。それゆえに私に事業の天才もなし、またこれをなすの位地もなし、友達もなし、社会の賛成もなかったならば、私は身を滅ぼして死んでしまい、世の中に何も遺すことはできないかという問題が起ってくる。それでもし私に金を溜めることができず、また社会は私の事業をすることを許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持っています。何であるかというと、私の思想です。もしこの世の中において私が私の考えを実行することができなければ、私はこれを実行する精神を筆と墨とをもって紙の上に遺すことができる。あるいはそうでなくとも、それに似たような事業がございます。すなわち私がこの世の中に生きているあいだに、事業をなすことができなければ、私は青年を薫陶《くんとう》して私の思想を若い人に注いで、そうしてその人をして私の事業をなさしめることができる。すなわちこれを短くいいますれば、著述をするということと学生を教えるということであります。著述をすることと教育のことと二つをここで論じたい。しかしだいぶ時がかかりますからただその第一すなわち思想を遺すということについて私の文学的観察をお話ししたいと思います。すなわちわれわれの思想を遺すには今の青年にわれわれの志を注いでゆくも一つの方法でございますけれども、しかしながら思想そのものだけを遺してゆくには文学によるほかない。それで文学というものの要はまったくそこにあると思います。文学というものはわれわれの心に常に抱いているところの思想を後世に伝える道具に相違ない。それが文学の実用だと思います。それで思想の遺物というものの大なることはわれわれは誰もよく知っていることであります。思想のこの世の中に実行されたものが事業です。われわれがこの世の中で実行することができないからして、種子《たね》だけを播《ま》いて逝こう、「われは恨みを抱いて、慷慨《こうがい》を抱いて地下に下らんとすれども、汝らわれの後に来る人々よ、折あらばわが思想を実行せよ」と後世へ言い遺すのである。それでその遺物の大《おお》いなることは実に著しいものであります

 われわれのよく知っているとおり、二千年ほど前にユダヤのごくつまらない漁夫や、あるいはまことに世の中に知られない人々が、『新約聖書』という僅かな書物を書いた。そうしてその小さい本がついに全世界を改めたということは、ここにいる人にはお話しするほどのことはない、みなご存じであります。また山陽という人は勤王論を作った人であります。先生はドウしても日本を復活するには日本をして一団体にしなければならぬ。一団体にするには日本の皇室を尊んでそれで徳川の封建政治をやめてしまって、それで今日いうところの王朝の時代にしなければならぬという大思想を持っておった。しかしながら山陽はそれを実行しようかと思ったけれども、実行することができなかった。山陽ほどの先見のない人はそれを実行しようとして戦場の露と消えてしまったに相違ない。しかし山陽はソンナ馬鹿ではなかった。彼は彼の在世中とてもこのことのできないことを知っていたから、自身の志を『日本外史』に述べた。そこで日本の歴史を述ぶるに当っても特別に王室を保護するようには書かなかった。外家《がいか》の歴史を書いてその中にはっきりといわずとも、ただ勤王家の精神をもって源平以来の外家の歴史を書いてわれわれに遺してくれた。今日の王政復古を持ち来《きた》した原動力は何であったかといえば、多くの歴史家がいうとおり山陽の『日本外史』がその一つでありしことはよくわかっている。山陽はその思想を遺して日本を復活させた。今日の王政復古前後の歴史をことごとく調べてみると山陽の功の非常に多いことがわかる。私は山陽のほかのことは知りませぬ。かの人の私行については二つ三つ不同意なところがあります。彼の国体論や兵制論については不同意であります。しかしながら彼山陽の一つの Ambition《アムビション》 すなわち「われは今世に望むところはないけれども来世の人に大いに望むところがある」といった彼の欲望は私が実に彼を尊敬してやまざるところであります。すなわち山陽は『日本外史』を遺物として死んでしまって、骨は洛陽|東山《ひがしやま》に葬ってありますけれども、『日本外史』から新日本国は生まれてきました。

 イギリスに今からして二百年前に痩ッこけて丈《せい》の低いしじゅう病身な一人の学者がおった。それでこの人は世の中の人に知られないで、何も用のない者と思われて、しじゅう貧乏して裏店《うらだな》のようなところに住まって、かの人は何をするかと人にいわれるくらい世の中に知れな い人で、何もできないような人であったが、しかし彼は一つの大思想を持っていた人でありました。その思想というは人間というものは非常な価値の あるものである、また一個人というものは国家よりも大切なものである、という大思想を持っていた人であります。それで十七世紀の中ごろにおいて はその説は社会にまったく容《い》れられなかった。その時分にはヨーロッパでは主義は国家主義と定《き》まっておった。イタリアなり、イギリス なり、フランスなり、ドイツなり、みな国家的精神を養わなければならぬとて、社会はあげて国家という団体に思想を傾けておった時でございました 。その時に当ってどのような権力のある人であろうとも、彼の信ずるところの、個人は国家より大切であるという考えを世の中にいくら発表しても、 実行のできないことはわかりきっておった。そこでこの学者は私《ひそ》かに裏店に引っ込んで本を書いた。この人は、ご存じでありましょう、ジョ ン・ロックであります。その本は、“Human《ヒューマン》 Understanding《アンダスタンディング》”であります。しかるにこの本がフランスに往 きまして、ルソーが読んだ、モンテスキューが読んだ、ミラボーが読んだ、そうしてその思想がフランス全国に行きわたって、ついに一七九〇年フラ ンスの大革命が起ってきまして、フランスの二千八百万の国民を動かした。それがためにヨーロッパ中が動きだして、この十九世紀の始めにおいても ジョン・ロックの著書でヨーロッパが動いた。それから合衆国が生まれた。それからフランスの共和国が生まれてきた。それからハンガリアの改革が あった。それからイタリアの独立があった。実にジョン・ロックがヨーロッパの改革に及ぼした影響は非常であります。その結果を日本でお互いが感 じている。われわれの願いは何であるか、個人の権力を増そうというのではないか。われわれはこのことをどこまで実行することができるか、それは まだ問題でございますけれども、何しろこれがわれわれの願いであります。もちろんジョン・ロック以前にもそういう思想を持った人はあった。しか しながらジョン・ロックはその思想を形に顕《あら》わして“Human Understanding”という本を書いて死んでしまった。しかし彼の思想は今日われ われのなかに働いている。ジョン・ロックは身体も弱いし、社会の位地もごく低くあったけれども、彼は実に今日のヨーロッパを支配する人となった と思います。

 それゆえに思想を遺すということは大事業であります。もしわれわれが事業を遺すことができぬならば、思想を遺してそうして将来にいたってわれ われの事業をなすことができると思う。そこで私はここでご注意を申しておかねばならぬことがある。われわれのなかに文学者という奴がある。誰で も筆を把《と》ってそうして雑誌か何かに批評でも載《の》すれば、それが文学者だと思う人がある。それで文学というものは惰《なま》け書生の一 つの玩具《おもちゃ》になっている。誰でも文学はできる。それで日本人の考えに文学というものはまことに気楽なもののように思われている。山に 引っ込んで文筆に従事するなどは実に羨《うらやま》しいことのように考えられている。福地源一郎君が不忍《しのばず》の池のほとりに別荘を建て て日蓮上人の脚本を書いている。それを他から見るとたいそう風流に見える。また日本人が文学者という者の生涯はどういう生涯であるだろうと思う ているかというに、それは絵艸紙《えぞうし》屋へ行ってみるとわかる。どういう絵があるかというと、赤く塗ってある御堂のなかに美しい女が机の 前に坐っておって、向こうから月の上ってくるのを筆を翳《かざ》して眺めている。これは何であるかというと紫式部の源氏の間である。これが日本 流の文学者である。しかし文学というものはコンナものであるならば、文学は後世への遺物でなくしてかえって後世への害物である。なるほど『源氏 物語』という本は美しい言葉を日本に伝えたものであるかも知れませぬ。しかし『源氏物語』が日本の士気を鼓舞することのために何をしたか。何も しないばかりでなくわれわれを女らしき意気地なしになした。あのような文学はわれわれのなかから根コソギに絶やしたい(拍手)。あのようなもの が文学ならば、実にわれわれはカーライルとともに、文学というものには一度も手をつけたことがないということを世界に向って誇りたい。文学はソ ンナものではない。文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具である。今日戦争することはできないから未来において戦争しようというのが文 学であります。それゆえに文学者が机の前に立ちますときにはすなわちルーテルがウォルムスの会議に立ったとき、パウロがアグリッパ王の前に立っ たとき、クロムウェルが剣を抜いてダンバーの戦場に臨《のぞ》んだときと同じことであります。この社会、この国を改良しよう、この世界の敵なる 悪魔を平《たい》らげようとの目的をもって戦争をするのであります。ルーテルが室《へや》のなかに入って何か書いておったときに、悪魔が出てき たゆえに、ルーテルはインクスタンドを取ってそれにぶッつけたという話がある。歴史家に聞くとこれは本当の話ではないといいます。しかしながら これが文学です。われわれはほかのことで事業をすることができないから、インクスタンドを取って悪魔にぶッつけてやるのである。事業を今日なさ んとするのではない。将来未来までにわれわれの戦争を続ける考えから事業を筆と紙とにのこして、そうしてこの世を終ろうというのが文学者の持っ ている Ambition《アムビション》 であります。それでその贈物《おくりもの》、われわれがわれわれの思想を筆と紙とに遺してこれを将来に贈るこ とが実に文学者の事業でありまして、もし神がわれわれにこのことを許しますならば、われわれは感謝してその贈物を遺したいと思う。有名なるウォ ルフ将軍がケベックの市《まち》を取るときにグレイの Elegy《エレジイ》 を歌いながらいった言葉があります、すなわち「このケベックを取るよ りもわれはむしろこの Elegy を書かん」と。もちろん Elegy は過激なるいわゆるルーテル的の文章ではない。しかしながらこれがイギリス人の心、 ウォルフ将軍のような心をどれだけ慰めたか、実に今日までのイギリス人の勇気をどれだけ励ましたか知れない。

 トーマス・グレイという人は有名な学者で、彼の時代の人で彼くらいすべての学問に達していた人はほとんどなかったそうであります。イギリスの 文学者中で博学、多才といったならばたぶんトーマス・グレイであったろうという批評であります。しかしながらトーマス・グレイは何を遺したか。 彼の書いた本は一つに集めたらば、たぶんこんなくらい(手真似にて)の本でほとんど二百ページか、三百ページもありましょう。しかしそのうちこ れぞというて大作はありませぬ。トーマス・グレイの後世への遺物は何にもない、ただ Elegy という三百行ばかりの詩でありました。グレイの四十 八年の生涯というものは Elegy を書いて終ってしまったのです。しかしながらたぶんイギリスの国民の続くあいだは、イギリスの国語が話されてい るあいだは Elegy は消えないでしょう。この詩ほど多くの人を慰め、ことに多くの貧乏人を慰め、世の中にまったく容れられない人を慰め、多くの 志を抱いてそれを世の中に発表することのできない者を慰めたものはない。この詩によってグレイは万世を慰めつつある。われわれは実にグレイの運 命を羨むのであります。すべての学問を四十八年間も積んだ人がただ三百行くらいの詩を遺して死んだというては小さいようでございますが、実にグ レイは大事業をなした人であると思います。有名なるヘンリー・ビーチャーがいった言葉に……私はこれはけっしてビーチャーが小さいことを針小棒 大にしていうた言葉ではないと思います……「私は六十年か七十年の生涯を私のように送りしよりも、むしろチャールス・ウェスレーの書い た“Jesus《ジーザス》, Lover《ラヴァー》 of《オブ》 my《マイ》 soul《ソール》”の讃美歌一篇を作った方がよい」と申しました。チョット考 えてみるとこれはただチャールス・ウェスレーを尊敬するあまりに発した言葉であって、けっしてビーチャーの心のなかから出た言葉ではないように 思われますけれども、しかしながらウェスレーのこの歌をいく度か繰り返して歌ってみまして、どれだけの心情、どれだけの趣味、どれだけの希望が そのうちにあるかを見るときには、あるいはビーチャーのいったことが本当であるかも知れないと思います。ビーチャーの大事業もけっしてこの一つ の讃美歌ほどの事業をなしていないかも知れませぬ。それゆえにもしわれわれに思想がありまするならば、もしわれわれがそれを直接に実行すること ができないならば、それを紙に写しましてこれを後世に遺しますことは大事業ではないかと思います。文学者の事業というものはそれゆえに羨むべき 事業である。

 こういう事業ならばあるいはわれわれも行ってみたいと思う。こう申しますると、諸君のなかにまたこういう人があります。「ドウモしかしながら 文学などは私らにはとてもできない、ドウモ私は今まで筆を執ったことがない。また私は学問が少い、とても私は文学者になることはできない」。そ れで『源氏物語』を見てとてもこういう流暢《りゅうちょう》なる文は書けないと思い、マコーレーの文を見てとてもこれを学ぶことはできぬと考え 、山陽の文を見てとてもこういうものは書けないと思い、ドウしても私は文学者になることはできないといって失望する人がある。文学者は特別の天 職を持った人であって文学はとてもわれわれ平凡の人間にできることではないと思う人があります。その失望はどこから起ったかというと、前にお話 しした柔弱なる考えから起ったのでございます。すなわち『源氏物語』的の文学思想から起った考えであります。文学というものはソンナものではな い。文学というものはわれわれの心のありのままをいうものです。ジョン・バンヤンという人はチットモ学問のない人でありました。もしあの人が読 んだ本があるならば、タッタ二つでありました、すなわち『バイブル』とフォックスの書いた『ブック・オブ・マータース』(“Book of Martyrs” )というこの二つでした。今ならばこのような本を読む忍耐力のある人はない。私は札幌にてそれを読んだことがある。十ページくらい読むと後は読 む勇気がなくなる本である。ことにクエーカーの書いた本でありますから文法上の誤謬《ごびゅう》がたくさんある。しかるにバンヤンは始めから終 りまでこの本を読んだ。彼は申しました。「私はプラトンの本もまたアリストテレスの本も読んだことはない、ただイエス・キリストの恩恵《めぐみ 》にあずかった憐れなる罪人であるから、ただわが思うそのままを書くのである」といって、“Pilgrim's《ピルグリムス》 Progress《プログレス》 ”(『天路歴程』)という有名なる本を書いた。それでたぶんイギリス文学の批評家中で第一番という人……このあいだ死んだフランス人、テーヌと いう人であります……その人がバンヤンのこの著を評して何といったかというと「たぶん純粋という点から英語を論じたときにはジョン・バンヤンの “Pilgrim's Progress”に及ぶ文章はあるまい。これはまったく外からの雑《まじ》りのない、もっとも純粋なる英語であるだろう」と申しました。 そうしてかくも有名なる本は何であるかというと無学者の書いた本であります。それでもしわれわれにジョン・バンヤンの精神がありますならば、す なわちわれわれが他人から聞いたつまらない説を伝えるのでなく、自分の拵《こしら》った神学説を伝えるでなくして、私はこう感じた、私はこう苦 しんだ、私はこう喜んだ、ということを書くならば、世間の人はドレだけ喜んでこれを読むか知れませぬ。今の人が読むのみならず後世の人も実に喜 んで読みます。バンヤンは実に「真面目なる宗教家」であります。心の実験を真面目に表わしたものが英国第一等の文学であります。それだによって われわれのなかに文学者になりたいと思う観念を持つ人がありまするならば、バンヤンのような心を持たなくてはなりません。彼のような心を持った ならば実に文学者になれぬ人はないと思います。

 今ここに丹羽さんがいませぬから少し丹羽さんの悪口をいいましょう(笑声起る)……後でいいつけてはイケマセンよ(大笑)。丹羽さんが青年会 において『基督《キリスト》教青年』という雑誌を出した。それで私のところへもだいぶ送ってきた。そこで私が先日東京へ出ましたときに、先生が 「ドウです内村君、あなたは『基督教青年』をドウお考えなさいますか」と問われたから、私は真面目にまた明白に答えた。「失礼ながら『基督教青 年』は私のところへきますと私はすぐそれを厠《かわや》へ持っていって置いてきます。」ところが先生たいへん怒った。それから私はそのわけをい いました。アノ『基督教青年』を私が汚穢《きたな》い用に用いるのは何であるかというに、実につまらぬ雑誌であるからです。なにゆえにつまらな いかというに、アノ雑誌のなかに名論卓説がないからつまらないというのではありません。アノ雑誌のつまらないわけは、青年が青年らしくないこと を書くからです。青年が学者の真似をして、つまらない議論をアッチからも引き抜き、コッチからも引き抜いて、それを鋏刀《はさみ》と糊とでくッ つけたような論文を出すから読まないのです。もし青年が青年の心のままを書いてくれたならば、私はこれを大切にして年の終りになったら立派に表 装して、私の Library《ライブラリイ》(書函)のなかのもっとも価値あるものとして遺しておきましょうと申しました。それからその雑誌はだいぶ 改良されたようであります。それです、私は名論卓説を聴きたいのではない。私の欲するところと社会の欲するところは、女よりは女のいうようなこ とを聴きたい、男よりは男のいうようなことを聴きたい、青年よりは青年の思っているとおりのことを聴きたい、老人よりは老人の思っているとおり のことを聴きたい。それが文学です。それゆえにただわれわれの心のままを表白してごらんなさい。ソウしてゆけばいくら文法は間違っておっても、 世の中の人が読んでくれる。それがわれわれの遺物です。もし何もすることができなければ、われわれの思うままを書けばよろしいのです。私は高知 から来た一人の下女を持っています。非常に面白い下女で、私のところに参りましてから、いろいろの世話をいたします。ある時はほとんど私の母の ように私の世話をしてくれます。その女が手紙を書くのを側《そば》で見ていますと、非常な手紙です。筆を横に取って、仮名で、土佐言葉で書く。 今あとで坂本さんが出て土佐言葉の標本を諸君に示すかも知れませぬ(大笑拍手)。ずいぶん面白い言葉であります。仮名で書くのですから、土佐言 葉がソックリそのままで出てくる。それで彼女は長い手紙を書きます。実に読むのに骨が折れる。しかしながら私はいつでもそれを見て喜びます。そ の女は信者でも何でもない。毎月|三日月様《みかづきさま》になりますと私のところへ参って「ドウゾ旦那さまお銭《あし》を六厘」という。「何 に使うか」というと、黙っている。「何でもよいから」という。やると豆腐を買ってきまして、三日月様に豆腐を供《そな》える。後で聞いてみると 「旦那さまのために三日月様に祈っておかぬと運が悪い」と申します。私は感謝していつでも六厘差し出します(大笑)。それから七夕様《たなばた さま》がきますといつでも私のために七夕様に団子だの梨だの柿などを供えます。私はいつもそれを喜んで供えさせます。その女が書いてくれる手紙 を私は実に多くの立派な学者先生の文学を『六合雑誌』などに拝見するよりも喜んで見まする。それが本当の文学で、それが私の心情に訴える文学。 ……文学とは何でもない、われわれの心情に訴えるものであります。文学というものはソウいうものであるならば……ソウいうものでなくてはならぬ ……それならばわれわれはなろうと思えば文学者になることができます。われわれの文学者になれないのは筆が執《と》れないからなれないのではな い、われわれに漢文が書けないから文学者になれないのでもない。われわれの心に鬱勃《うつぼつ》たる思想が籠《こ》もっておって、われわれが心 のままをジョン・バンヤンがやったように綴ることができるならば、それが第一等の立派な文学であります。カーライルのいったとおり「何でもよい から深いところへ入れ、深いところにはことごとく音楽がある」。実にあなたがたの心情をありのままに書いてごらんなさい、それが流暢なる立派な 文学であります。私自身の経験によっても私は文天祥《ぶんてんしょう》がドウ書いたか、白楽天がドウ書いたかと思っていろいろ調べてしかる後に 書いた文よりも、自分が心のありのままに、仮名《かな》の間違いがあろうが、文法に合うまいが、かまわないで書いた文の方が私が見ても一番良い 文章であって、外の人が評してもまた一番良い文章であるといいます。文学者の秘訣《ひけつ》はそこにあります。こういう文学ならばわれわれ誰で も遺すことができる。それゆえに有難いことでございます。もしわれわれが事業を遺すことができなければ、われわれに神様が言葉というものを下さ いましたからして、われわれ人間に文学というものを下さいましたから、われわれは文学をもってわれわれの考えを後世に遺して逝くことができます 。

 ソウ申しますとまたこういう問題が出てきます。われわれは金を溜めることができず、また事業をなすことができない。それからまたそれならばと いって、あなたがたがみな文学者になったらば、たぶん活版屋では喜ぶかもしれませぬけれども、社会では喜ばない。文学者の世の中にふえるという ことは、ただ活版屋と紙製造所を喜ばすだけで、あまり社会に益をなさないかも知れない。ゆえにもしわれわれが文学者となることができず、またな る考えもなし、バンヤンのような思想を持っておっても、バンヤンのように綴ることができないときには、別に後世への遺物はないかという問題が起 る。それは私にもたびたび起った問題であります。なるほど文学者になることは私が前に述べましたとおりヤサシイこととは思いますけれども、しか し誰でも文学者になるということは実は望むべからざることであります。たとえば、学校の先生……ある人がいうように何でも大学に入って学士の称 号を取り、あるいはその上にアメリカへでも往って学校を卒業さえしてくれば、それで先生になれると思うのと同じことであります。私はたびたび聞 いて感じまして、今でも心に留《と》めておりますが、私がたいへん世話になりましたアーマスト大学の教頭シーリー先生がいった言葉に「この学校 で払うだけの給金を払えば学者を得ることはいくらでも得られる。地質学を研究する人、動物学を研究する人はいくらもある。地質学者、動物学者は たくさんいる。しかしながら地質学、動物学を教えることのできる人は実に少い。文学者はたくさんいる、文学を教えることのできる人は少い。それ ゆえにこの学校に三、四十人の教授がいるけれども、その三、四十人の教師は非常に貴《とうと》い、なぜなればこれらの人は学問を自分で知ってい るばかりでなく、それを教えることのできる人であります」と。これはわれわれが深く考うべきことで、われわれが学校さえ卒業すればかならず先生 になれるという考えを持ってはならぬ。学校の先生になるということは一種特別の天職だと私は思っております。よい先生というものはかならずしも 大学者ではない。大島君もご承知でございますが、私どもが札幌におりましたときに、クラーク先生という人が教師であって、植物学を受け持ってお りました。その時分にはほかに植物学者がおりませぬから、クラーク先生を第一等の植物学者だと思っておりました。この先生のいったことは植物学 上誤りのないことだと思っておりました。しかしながら彼の本国に行って聞いたら、先生だいぶ化《ばけ》の皮が現われた。かの国のある学者が、ク ラークが植物学について口を利《き》くなどとは不思議だ、といって笑っておりました。しかしながら、とにかく先生は非常な力を持っておった人で した。どういう力であったかというに、すなわち植物学を青年の頭のなかへ注ぎ込んで、植物学という学問の Interest《インタレスト》 を起す力を 持った人でありました。それゆえに植物学の先生としては非常に価値のあった人でありました。ゆえに学問さえすれば、われわれが先生になれるとい う考えをわれわれは持つべきでない。われわれに思想さえあれば、われわれがことごとく先生になれるという考えを抛却《ほうきゃく》してしまわね ばならぬ。先生になる人は学問ができるよりも――学問もなくてはなりませぬけれども――学問ができるよりも学問を青年に伝えることのできる人で なければならない。これを伝えることは一つの技術であります。短い言葉でありますけれども、このなかに非常の意味が含まっております。たといわ れわれが文学者になりたい、学校の先生になりたいという望みがあっても、これかならずしも誰にもできるものではないと思います。

 それで金も遺すことができず、事業も遺すことができない人は、かならずや文学者または学校の先生となって思想を遺して逝くことができるかとい うに、それはそうはいかぬ。しかしながら文学と教育とは、工業をなすということ、金を溜めるということよりも、よほどやさしいことだと思います 。なぜなれば独立でできることであるからです。ことに文学は独立的の事業である。今日のような学校にてはどこの学校にても、Mission《ミッショ ン》 School《スクール》 を始めとしてどこの官立学校にても、われわれの思想を伝えるといっても実際伝えることはできない。それゆえ学校事業は 独立事業としてはずいぶん難い事業であります。しかしながら文学事業にいたっては社会はほとんどわれわれの自由に任《まか》せる。それゆえに多 くの独立を望む人が政治界を去って宗教界に入り、宗教界を去って教育界に入り、また教育界を去ってついに文学界に入ったことは明かな事実であり ます。多くのエライ人は文学に逃げ込みました。文学は独立の思想を維持する人のために、もっとも便益なる隠れ場所であろうと思います。しかしな がらただ今も申し上げましたとおり、かならずしも誰にでも入ることのできる道ではない。

 ここにいたってこういう問題が出てくる。文学者にもなれず学校の先生にもなれなかったならば、それならば私は後世に何をも遺すことはできない かという問題が出てくる。何かほかに事業はないか、私もたびたびそれがために失望に陥ることがある。しからば私には何も遺すものはない。事業家 にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、ものを教えることもできない。ソウすれば私は無用の人間として、平凡の人間として 消えてしまわなければならぬか。陸放翁《りくほうおう》のいったごとく「我死骨即朽《わがしこつすなわちくつるも》、青史亦無名《せいしにまた ななし》」と嘆じ、この悲嘆の声を発してわれわれが生涯を終るのではないかと思うて失望の極に陥ることがある。しかれども私はそれよりモット大 きい、今度は前の三つと違いまして誰にも遺すことのできる最大遺物があると思う。それは実に最大遺物であります。金も実に一つの遺物であります けれども、私はこれを最大遺物と名づけることはできない。事業も実に大遺物たるには相違ない、ほとんど最大遺物というてもようございますけれど も、いまだこれを本当の最大遺物ということはできない。文学も先刻お話ししたとおり実に貴いものであって、わが思想を書いたものは実に後世への 価値ある遺物と思いますけれども、私がこれをもって最大遺物ということはできない。最大遺物ということのできないわけは、一つは誰にも遺すこと のできる遺物でないから最大遺物ということはできないのではないかと思う。そればかりでなくその結果はかならずしも害のないものではない。昨日 もお話ししたとおり金は用い方によってたいへん利益がありますけれども、用い方が悪いとまたたいへん害を来《きた》すものである。事業における も同じことであります。クロムウェルの事業とか、リビングストンの事業はたいへん利益がありますかわりに、またこれには害が一緒に伴《ともの》 うております。また本を書くことも同じようにそのなかに善いこともありまた悪いこともたくさんあります。われわれはそれを完全なる遺物または最 大遺物と名づけることはできないと思います。

 それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物 で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯に白丸傍点]であると思います。これが本当の遺物ではな いかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申す までもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が 支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆 の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであり ます。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。もし今までのエライ人の事業をわれわれが考えてみますときに、あるいはエライ文 学者の事業を考えてみますときに、その人の書いた本、その人の遺した事業はエライものでございますが、しかしその人の生涯に較《くら》べたとき には実に小さい遺物だろうと思います。パウロの書翰《しょかん》は実に有益な書翰でありますけれども、しかしこれをパウロの生涯に較べたときに は価値のはなはだ少いものではないかと思う。パウロ彼自身はこのパウロの書いたロマ書や、ガラテヤ人に贈った書翰よりもエライ者であると思いま す。クロムウェルがアングロサクソン民族の王国を造ったことは大事業でありますけれども、クロムウェルがあの時代に立って自分の独立思想を実行 し、神によってあの勇壮なる生涯を送ったという、あのクロムウェル彼自身の生涯というものは、これはクロムウェルの事業に十倍も百倍もする社会 にとっての遺物ではないかと考えます。私は元来トーマス・カーライルの本を非常に敬読する者であります。それである人にはそれがために嫌われま すけれども、私はカーライルという人については全体非常に尊敬を表しております。たびたびあの人の本を読んで利益を得、またそれによって刺激を も受けたことでございます。けれども、私はトーマス・カーライルの書いた四十冊ばかりの本をみな寄せてみてカーライル彼自身の生涯に較べたとき には、カーライルの書いたものは実に価値の少いものであると思います。先日カーライルの伝を読んで感じました。ご承知の通りカーライルが書いた もののなかで一番有名なものはフランス革命の歴史でございます。それである歴史家がいうたに「イギリス人の書いたもので歴史的の叙事、ものを説 き明した文体からいえば、カーライルの『フランス革命史』がたぶん一番といってもよいであろう、もし一番でなければ一番のなかに入るべきもので ある」ということであります。それでこの本を読む人はことごとく同じ感覚を持つだろうと思います。実に今より百年ばかり前のことをわれわれの目 の前に活きている画のように、ソウして立派な画人《えかき》が書いてもアノようには書けぬというように、フランス革命のパノラマ(活画)を示し てくれたものはこの本であります。それでわれわれはその本に非常の価値を置きます。カーライルがわれわれに遺してくれたこの本は実にわれわれの 貴ぶところでございます。しかしながらフランスの革命を書いたカーライルの生涯の実験を見ますと、この本よりかまだ立派なものがあります。その 話は長いけれどもここにあなたがたに話すことを許していただきたい。カーライルがこの書を著《あら》わすのは彼にとってはほとんど一生涯の仕事 であった。チョット『革命史』を見まするならば、このくらいの本は誰にでも書けるだろうと思うほどの本であります。けれども歴史的の研究を凝《 こ》らし、広く材料を集めて成った本でありまして、実にカーライルが生涯の血を絞って書いた本であります。それで何十年ですか忘れましたが、何 十年かかかってようやく自分の望みのとおりの本が書けた。それからしてその本が原稿になってこれを罫紙《けいし》に書いてしまった。それからし てこれはモウじきに出版するときがくるだろうと思って待っておった。そのときに友人が来ましてカーライルに遇《あ》ったところが、カーライルが その話をしたら「実に結構な書物だ、今晩一読を許してもらいたい」といった。そのときにカーライルは自分の書いたものはつまらないものだと思っ て人の批評を仰ぎたいと思ったから、貸してやった。貸してやるとその友人はこれを家へ持っていった。そうすると友人の友人がやってきて、これを 手に取って読んでみて、「これは面白い本だ、一つドウゾ今晩私に読ましてくれ」といった。ソコで友人がいうには「明日の朝早く持ってこい、そう すれば貸してやる」といって貸してやったら、その人はまたこれをその家へ持っていって一所懸命に読んで、暁方《あけがた》まで読んだところが、 あしたの事業に妨《さまた》げがあるというので、その本をば机の上に抛《ほう》り放《はな》しにして床《とこ》について自分は寝入ってしまった 。そうすると翌朝彼の起きない前に下女がやってきて、家の主人が起きる前にストーブに火をたきつけようと思って、ご承知のとおり西洋では紙をコ ッパの代りに用いてクベますから、何か好い反古《ほご》はないかと思って調べたところが机の前に書いたものがだいぶひろがっていたから、これは 好いものと思って、それをみな丸めてストーブのなかへ入れて火をつけて焼いてしまった。カーライルの何十年ほどかかった『革命史』を焼いてしま った。時計の三分か四分の間に煙となってしまった。それで友人がこのことを聞いて非常に驚いた。何ともいうことができない。ほかのものであるな らば、紙幣《さつ》を焼いたならば紙幣を償《つぐな》うことができる、家を焼いたならば家を建ててやることもできる、しかしながら思想の凝《こ 》って成ったもの、熱血を注いで何十年かかって書いたものを焼いてしまったのは償いようがない。死んだものはモウ活《い》き帰らない。それがた めに腹を切ったところが、それまでであります。それで友人に話したところが、友人も実にドウすることもできないで一週間|黙《だま》っておった 。何といってよいかわからぬ。ドウモ仕方がないから、そのことをカーライルにいった。そのときにカーライルは十日ばかりぼんやりとして何もしな かったということであります。さすがのカーライルもそうであったろうと思います。それで腹が立った。ずいぶん短気の人でありましたから、非常に 腹を立てた。彼はそのときは歴史などは抛りぽかして何にもならないつまらない小説を読んだそうです。しかしながらその間に己《おのれ》で己《お のれ》に帰っていうに「トーマス・カーライルよ、汝は愚人である、汝の書いた『革命史』はソンナに貴いものではない、第一に貴いのは汝がこの艱 難《かんなん》に忍んでそうしてふたたび筆を執《と》ってそれを書き直すことである、それが汝の本当にエライところである、実にそのことについ て失望するような人間が書いた『革命史』を社会に出しても役に立たぬ、それゆえにモウ一度書き直せ」といって自分で自分を鼓舞して、ふたたび筆 を執って書いた。その話はそれだけの話です。しかしわれわれはそのときのカーライルの心中にはいったときには実に推察の情|溢《あふ》るるばか りであります。カーライルのエライことは『革命史』という本のためにではなくして、火にて焼かれたものをふたたび書き直したということである。 もしあるいはその本が遺っておらずとも、彼は実に後世への非常の遺物を遺したのであります。たといわれわれがイクラやりそこなってもイクラ不運 にあっても、そのときに力を回復して、われわれの事業を捨ててはならぬ、勇気を起してふたたびそれに取りかからなければならぬ、という心を起し てくれたことについて、カーライルは非常な遺物を遺してくれた人ではないか。

 今時《こんじ》の弊害は何であるかといいますれば、なるほど金がない、われわれの国に事業が少い、良い本がない、それは確かです。しかしなが ら日本人お互いに今要するものは何であるか。本が足りないのでしょうか、金がないのでしょうか、あるいは事業が不足なのでありましょうか。それ らのことの不足はもとよりないことはない。けれども、私が考えてみると、今日第一の欠乏は Life《ライフ》 生命の欠乏であります。それで近ごろ はしきりに学問ということ、教育ということ、すなわち Culture《カルチュア》(修養)ということが大へんにわれわれを動かします。われわれはド ウしても学問をしなければならぬ、ドウしてもわれわれは青年に学問をつぎ込まねばならぬ、教育をのこして後世の人を誡《いま》しめ、後世の人を 教えねばならぬというてわれわれは心配いたします。もちろんこのことはたいへんよいことであります。それでもしわれわれが今より百年後にこの世 に生まれてきたと仮定して、明治二十七年の人の歴史を読むとすれば、ドウでしょう、これを読んできてわれわれにどういう感じが起りましょうか。 なるほどここにも学校が建った、ここにも教会が建った、ここにも青年会館が建った、ドウして建ったろうといってだんだん読んでみますと、この人 はアメリカへ行って金をもらってきて建てた、あるいはこの人はこういう運動をして建てたということがある。そこでわれわれがこれを読みますとき に「アア、とても私にはそんなことはできない、今ではアメリカへ行っても金はもらえまい、また私にはそのように人と共同する力はない。私にはそ ういう真似《まね》はできない、私はとてもそういう事業はできない」というて失望しましょう。すなわち私が今から五十年も百年も後の人間であっ たならば、今日の時代から学校を受け継いだかも知れない。教会を受け継いだかも知れませぬ。けれども私自身を働かせる原動力をばもらわない。大 切なるものをばもらわないに相違ない。しかしもしここにつまらない教会が一つあるとすれば、そのつまらない教会の建物を売ってみたところがほと んどわずかの金の価値しかないかも知れませぬ。しかしながらその教会の建った歴史を聞いたときに、その歴史がこういう歴史であったと仮《かり》 定《さだ》めてごらんなさい……この教会を建てた人はまことに貧乏人であった、この教会を建てた人は学問も別にない人であった、それだけれども この人は己のすべての浪費を節して、すべての欲情を去って、まるで己の力だけにたよって、この教会を造ったものである。……こういう歴史を読む と私にも勇気が起ってくる。かの人にできたならば己にもできないことはない、われも一つやってみようというようになる。

 私は近世の日本の英傑、あるいは世界の英傑といってもよろしい人のお話をいたしましょう。この世界の英傑のなかに、ちょうどわれわれの留《と 》まっているこの箱根山の近所に生まれた人で二宮金次郎という人がありました。この人の伝を読みましたときに私は非常な感覚をもらった。それで ドウも二宮金次郎先生には私は現に負《お》うところが実に多い。二宮金次郎氏の事業はあまり日本にひろまってはおらぬ。それで彼のなした事業は ことごとくこれを纏《まと》めてみましたならば、二十ヵ村か三十ヵ村の人民を救っただけに止《とど》まっていると考えます。しかしながらこの人 の生涯が私を益し、それから今日日本の多くの人を益するわけは何であるかというと、何でもない、この人は事業の贈物にあらずして生涯の贈物を遺 した。この人の生涯はすでにご承知の方もありましょうが、チョット申してみましょう。二宮金次郎氏は十四のときに父を失い、十六のときに母を失 い、家が貧乏にして何物もなく、ためにごく残酷な伯父に預けられた人であります。それで一文の銭もなし家産はことごとく傾き、弟一人、妹一人持 っていた。身に一文もなくして孤児です。その人がドウして生涯を立てたか。伯父さんの家にあってその手伝いをしている間に本が読みたくなった。 そうしたときに本を読んでおったら、伯父さんに叱られた。この高い油を使って本を読むなどということはまことに馬鹿馬鹿しいことだといって読ま せぬ。そうすると、黙っていて伯父さんの油を使っては悪いということを聞きましたから、「それでは私は私の油のできるまでは本を読まぬ」という 決心をした。それでどうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、菜種《なたね》を蒔《ま》いた。一ヵ年かかって菜種を五、六升 も取った。それからその菜種を持っていって、油屋へ行って油と取換えてきまして、それからその油で本を見た。そうしたところがまた叱られた。「 油ばかりお前のものであれば本を読んでもよいと思っては違う、お前の時間も私のものだ。本を読むなどという馬鹿なことをするならよいからその時 間に縄を綯《よ》れ」といわれた。それからまた仕方がない、伯父さんのいうことであるから終日働いてあとで本を読んだ、……そういう苦学をした 人であります。どうして自分の生涯を立てたかというに、村の人の遊ぶとき、ことにお祭り日などには、近所の畑のなかに洪水で沼になったところが あった、その沼地を伯父さんの時間でない、自分の時間に、その沼地よりことごとく水を引いてそこでもって小さい鍬《くわ》で田地を拵《こしら》 えて、そこへ持っていって稲を植えた。こうして初めて一俵の米を取った。その人の自伝によりますれば、「米を一俵取ったときの私の喜びは何とも いえなかった。これ天が初めて私に直接に授けたものにしてその一俵は私にとっては百万の価値があった」というてある。それからその方法をだんだ ん続けまして二十歳のときに伯父さんの家を辞した。そのときには三、四俵の米を持っておった。それから仕上げた人であります。それでこの人の生 涯を初めから終りまで見ますと、「この宇宙というものは実に神様……神様とはいいませぬ……天の造ってくださったもので、天というものは実に恩 恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに委《ゆだ》ねて天の法則に従っていっ たならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる」というこういう考えであります。その考えを持ったばかりでなく、その考えを 実行した。その話は長うございますけれども、ついには何万石という村々を改良して自分の身をことごとく人のために使った。旧幕の末路にあたって 経済上、農業改良上について非常の功労のあった人であります。それでわれわれもそういう人の生涯、二宮金次郎先生のような人の生涯を見ますとき に、「もしあの人にもアアいうことができたならば私にもできないことはない」という考えを起します。普通の考えではありますけれども非常に価値 のある考えであります。それで人に頼らずともわれわれが神にたより己にたよって宇宙の法則に従えば、この世界はわれわれの望むとおりになり、こ の世界にわが考えを行うことができるという感覚が起ってくる。二宮金次郎先生の事業は大きくなかったけれども、彼の生涯はドレほどの生涯であっ たか知れませぬ。私ばかりでなく日本中幾万の人はこの人から「インスピレーション」を得たでありましょうと思います。あなたがたもこの人の伝を 読んでごらんなさい。『少年文学』の中に『二宮尊徳翁』というのが出ておりますが、アレはつまらない本です。私のよく読みましたのは、農商務省 で出版になりました、五百ページばかりの『報徳記』という本です。この本を諸君が読まれんことを切に希望します。この本はわれわれに新理想を与 え、新希望を与えてくれる本であります。実にキリスト教の『バイブル』を読むような考えがいたします。ゆえにわれわれがもし事業を遺すことがで きずとも、二宮金次郎的の、すなわち独立生涯を躬行《きゅうこう》していったならば、われわれは実に大事業を遺す人ではないかと思います。

 私は時が長くなりましたからもうしまいにいたしますが、常に私の生涯に深い感覚を与える一つの言葉を皆様の前に繰り返したい。ことにわれわれ のなかに一人アメリカのマサチューセッツ州マウント・ホリヨーク・セミナリーという学校へ行って卒業してきた方がおりますが、この女学校は古い 女学校であります。たいへんよい女学校であります。しかしながらもし私をしてその女学校を評せしむれば、今の教育上ことに知育上においては私は けっしてアメリカ第一等の女学校とは思わない。米国にはたくさんよい女学校がございます。スミス女学校というような大きな学校もあります。また ボストンのウェレスレー学校、フィラデルフィアのブリンモアー学校というようなものがございます。けれどもマウント・ホリヨーク・セミナリーと いう女学校は非常な勢力をもって非常な事業を世界になした女学校であります。何故《なぜ》だといいますと(その女学校はこの節はだいぶよく揃っ たそうでありますが、このあいだまでは不整頓の女学校でありました)、それが世界を感化するの勢力を持つにいたった原因は、その学校にはエライ 非常な女がおった。その人は立派な物理学の機械に優《まさ》って、立派な天文台に優って、あるいは立派な学者に優って、価値《ねうち》のある魂 《たましい》を持っておったメリー・ライオンという女でありました。その生涯をことごとく述べることは今ここではできませぬが、この女史が自分 の女生徒に遺言した言葉はわれわれのなかの婦女を励まさねばならぬ、また男子をも励まさねばならぬものである。すなわち私はその女の生涯をたび たび考えてみますに、実に日本の武士のような生涯であります。彼女は実に義侠心に充《み》ち満《み》ちておった女であります。彼女は何というた かというに、彼女の女生徒にこういうた。

   他の人の行くことを嫌うところへ行け。

   他の人の嫌がることをなせ

 これがマウント・ホリヨーク・セミナリーの立った土台石であります。これが世界を感化した力ではないかと思います。他の人の嫌がることをなし 、他の人の嫌がるところへ行くという精神であります。それでわれわれの生涯はその方に向って行きつつあるか。われわれの多くはそうでなくして、 他の人もなすから己もなそうというのではないか。他の人もアアいうことをするから私もソウしようというふうではないか。ほかの人もアメリカへ金 もらいに行くから私も行こう、他の人も壮士になるから私も壮士になろう、はなはだしきはだいぶこのごろは耶蘇《ヤソ》教が世間の評判がよくなっ たから私も耶蘇教になろう、というようなものがございます。関東に往きますと関西にあまり多くないものがある。関東には良いものがだいぶたくさ んあります。関西よりも良いものがあると思います。関東人は意地《いじ》ということをしきりに申します。意地の悪い奴はつむじが曲っていると申 しますが毬栗頭《いがぐりあたま》にてはすぐわかる。頭のつむじがここらに(手真似にて)こう曲がっている奴はかならず意地が悪い。人が右へ行 こうというと左といい、アアしようといえばコウしようというようなふうで、ことに上州人にそれが多いといいます(私は上州の人間ではありませぬ けれども)。それでかならずしもこれは誉《ほ》むべき精神ではないと思うが、しかしながら武士の意地というものです。その意地をわれわれから取 り除《の》けてしまったならば、われわれは腰抜け武士になってしまう。徳川家康のエライところはたくさんありますけれども、諸君のご承知のとお り彼が子供のときに川原《かわら》へ行ってみたところが、子供の二群が戦《いくさ》をしておった、石撃《いしぶち》をしておった。家康はこれを 見て彼の家来に命じて人数の少い方を手伝ってやれといった。多い方はよろしいから少い方へ行って助けてやれといった。これが徳川家康のエライと ころであります。それでいつでも正義のために立つ者は少数である。それでわれわれのなすべきことはいつでも少数の正義の方に立って、そうしてそ の正義のために多勢の不義の徒に向って石撃をやらなければなりません。もちろんかならずしも負ける方を助けるというのではない。私の望むのは少 数とともに戦うの意地です。その精神です。それはわれわれのなかにみな欲《ほ》しい。今日われわれが正義の味方に立つときに、われわれ少数の人 が正義のために立つときに、少くともこの夏期学校に来ている者くらいはともにその方に起《た》ってもらいたい。それでドウゾ後世の人がわれわれ についてこの人らは力もなかった、富もなかった、学問もなかった人であったけれども、己の一生涯をめいめい持っておった主義のために送ってくれ たといわれたいではありませんか。これは誰にも遺すことのできる生涯ではないかと思います。それでその遺物を遺すことができたと思うと実にわれ われは嬉しい、たといわれわれの生涯はドンナ生涯であっても。

 たびたびこういうような考えは起りませぬか。もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって 大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こう いう考えは人々に実際起る考えであります。しかれども種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります。そ れゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業が できる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。とにかく反対があればあるほど面白い。われわれに友達がない、われわれに金がない、われ われに学問がないというのが面白い。われわれが神の恩恵を享《う》け、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれ は非常な事業を遺すものである。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる。もし私に金がたくさんあって、地位が あって、責任が少くして、それで大事業ができたところが何でもない。たとい事業は小さくても、これらのすべての反対に打ち勝つことによって、そ れで後世の人が私によって大いに利益を得るにいたるのである。種々の不都合《ふつごう》、種々の反対に打ち勝つことが、われわれの大事業ではな いかと思う。それゆえにヤコブのように、われわれの出遭《であ》う艱難《かんなん》についてわれわれは感謝すべきではないかと思います。

 まことに私の言葉が錯雑しておって、かつ時間も少くございますから、私の考えをことごとく述べることはできない。しかしながら私は今日これで 御免《ごめん》をこうむって山を降《くだ》ろうと思います。それで来年またふたたびどこかでお目にかかるときまでには少くとも幾何《いくばく》 の遺物を貯えておきたい。この一年の後にわれわれがふたたび会しますときには、われわれが何か遺しておって、今年は後世のためにこれだけの金を 溜めたというのも結構、今年は後世のためにこれだけの事業をなしたというのも結構、また私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結構、 しかしそれよりもいっそう良いのは後世のために私は弱いものを助けてやった、後世のために私はこれだけの艱難に打ち勝ってみた、後世のために私 はこれだけの品性を修練してみた、後世のために私はこれだけの義侠心を実行してみた、後世のために私はこれだけの情実に勝ってみた、という話を 持ってふたたびここに集まりたいと考えます。この心掛けをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、われわれの生涯は決して五十年や六十年の 生涯にはあらずして、実に水の辺《ほと》りに植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌《ふ》き枝を生じてゆくものであると思います。けっし て竹に木を接《つ》ぎ、木に竹を接ぐような少しも成長しない価値のない生涯ではないと思います。こういう生涯を送らんことは実に私の最大希望で ございまして、私の心を毎日慰め、かついろいろのことをなすに当って私を励ますことであります。それで私のなお一つの題の「真面目ならざる宗教 家」というのは時間がありませぬからここに述べませぬ。述べませぬけれども、しかしながら私の精神のあるところは皆様に十分お話しいたしたと思 います。己の信ずることを実行するものが真面目なる信者です。ただただ壮言大語することは誰にもできます。いくら神学を研究しても、いくら哲学 書を読みても、われわれの信じた主義を真面目に実行するところの精神がありませぬあいだは、神はわれわれにとって異邦人であります。それゆえに われわれは神がわれわれに知らしたことをそのまま実行いたさなければなりません。こういたさねばならぬと思うたことはわれわれはことごとく実行しなければならない。もしわれわれが正義はついに勝つものにして不義はついに負けるものであるということを世間に発表するものであるならば、そのとおりにわれわれは実行しなければならない。これを称して真面目なる信徒と申すのです。われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。(拍手喝采)

底本:「後世への最大遺物 デンマルク国の話」岩波文庫、岩波書店 1946(昭和21)年10月10日第1刷発行 1976(昭和51)年3月16日第30刷改版発行 1994(平成6)年8月6日第64刷発行

青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ▼後世への最大遺物の最後に述べられている言葉です。

2008.4.30


▼デンマルク国の話

      信仰と樹木とをもって国を救いし話

   曠野《あれの》と湿潤《うるおい》なき地とは楽しみ、

   沙漠《さばく》は歓《よろこ》びて番紅《さふらん》のごとくに咲《はなさ》かん、

   盛《さかん》に咲《はなさ》きて歓ばん、

   喜びかつ歌わん、

   レバノンの栄《さか》えはこれに与えられん、

   カルメルとシャロンの美《うるわ》しきとはこれに授けられん、

   彼らはエホバの栄《さかえ》を見ん、

   我らの神の美《うる》わしきを視《み》ん。

       (イザヤ書三五章一―二節)

 今日は少しこの世のことについてお話しいたそうと欲《おも》います。  デンマークは欧州北部の一小邦であります。その面積は朝鮮と台湾とを除いた日本帝国の十分の一でありまして、わが北海道の半分に当り、九州の一島に当らない国であります。その人口は二百五十万でありまして、日本の二十分の一であります。実に取るに足りないような小国でありますが、しかしこの国について多くの面白い話があります。

 今、単に経済上より観察を下しまして、この小国のけっして侮《あなど》るべからざる国であることがわかります。この国の面積と人口とはとてもわが日本国に及びませんが、しかし富の程度にいたりましてははるかに日本以上であります。その一例を挙《あ》げますれば日本国の二十分の一の人口を有するデンマーク国は日本の二分の一の外国貿易をもつのであります。すなわちデンマーク人一人の外国貿易の高は日本人一人の十倍に当るのであります。もってその富の程度がわかります。ある人のいいまするに、デンマーク人はたぶん世界のなかでもっとも富んだる民であるだろうとのことであります。すなわちデンマーク人一人の有する富はドイツ人または英国人または米国人一人の有する富よりも多いのであります。実に驚くべきことではありませんか。

 しからばデンマーク人はどうしてこの富を得たかと問いまするに、それは彼らが国外に多くの領地をもっているからではありません、彼らはもちろん広きグリーンランドをもちます。しかし北氷洋の氷のなかにあるこの領土の経済上ほとんど何の価値もないことは何人《なんびと》も知っております。彼らはまたその面積においてはデンマーク本土に二倍するアイスランドをもちます。しかしその名を聞いてその国の富饒《ふにょう》の土地でないことはすぐにわかります。ほかにわずかに鳥毛《とりのけ》を産するファロー島があります。またやや富饒なる西インド中のサンクロア、サントーマス、サンユーアンの三島があります。これ確かに富の源《みなもと》でありますが、しかし経済上収支相償うこと尠《すくな》きがゆえに、かつてはこれを米国に売却せんとの計画もあったくらいであります。ゆえにデンマークの富源といいまして、別に本国以外にあるのでありません。人口一人に対し世界第一の富を彼らに供せしその富源はわが九州大のデンマーク本国においてあるのであります。

 しかるにこのデンマーク本国がけっして富饒の地と称すべきではないのであります。国に一鉱山あるでなく、大港湾の万国の船舶を惹《ひ》くものがあるのではありません。デンマークの富は主としてその土地にあるのであります、その牧場とその家畜と、その樅《もみ》と白樺《しらかば》との森林と、その沿海の漁業とにおいてあるのであります。ことにその誇りとするところはその乳産であります、そのバターとチーズとであります。デンマークは実に牛乳をもって立つ国であるということができます。トーヴァルセンを出して世界の彫刻術に一新紀元を劃《かく》し、アンデルセンを出して近世お伽話《とぎばなし》の元祖たらしめ、キェルケゴールを出して無教会主義のキリスト教を世界に唱《とな》えしめしデンマークは、実に柔和なる牝牛《めうし》の産をもって立つ小にして静かなる国であります。

 しかるに今を去る四十年前のデンマークはもっとも憐れなる国でありました。一八六四年にドイツ、オーストリアの二強国の圧迫するところとなり、その要求を拒《こば》みし結果、ついに開戦の不幸を見、デンマーク人は善く戦いましたが、しかし弱はもって強に勝つ能《あた》はず「能《あた》はず」はママ]、デッペルの一戦に北軍敗れてふたたび起《た》つ能わざるにいたりました。デンマークは和を乞いました、しかして敗北の賠償《ばいしょう》としてドイツ、オーストリアの二国に南部最良の二州シュレスウィヒとホルスタインを割譲しました。戦争はここに終りを告げました。しかしデンマークはこれがために窮困の極に達しました。もとより多くもない領土、しかもその最良の部分を持ち去られたのであります。いかにして国運を恢復《かいふく》せんか、いかにして敗戦の大損害を償《つぐな》わんか、これこの時にあたりデンマークの愛国者がその脳漿《のうしょう》を絞《しぼ》って考えし問題でありました。国は小さく、民は尠《すくな》く、しかして残りし土地に荒漠多しという状態《ありさま》でありました。国民の精力はかかるときに試《た》めさるるのであります。戦いは敗れ、国は削《けず》られ、国民の意気鎖沈しなにごとにも手のつかざるときに、かかるときに国民の真の価値《ねうち》は判明するのであります。戦勝国の戦後の経営はどんなつまらない政治家にもできます、国威宣揚にともなう事業の発展はどんなつまらない実業家にもできます、難いのは戦敗国の戦後の経営であります、国運衰退のときにおける事業の発展であります。戦いに敗れて精神に敗れない民が真に偉大なる民であります[#「戦いに敗れて精神に敗れない民が真に偉大なる民であります」に白丸傍点]、宗教といい信仰といい、国運隆盛のときにはなんの必要もないものであります。しかしながら国に幽暗《くらき》の臨《のぞ》みしときに精神の光が必要になるのであります。国の興《おこ》ると亡《ほろ》ぶるとはこのときに定まるのであります。どんな国にもときには暗黒が臨みます。そのとき、これに打ち勝つことのできる民が、その民が永久に栄ゆるのであります。あたかも疾病《やまい》の襲うところとなりて人の健康がわかると同然であります。平常《ふだん》のときには弱い人も強い人と違いません。疾病《やまい》に罹《かか》って弱い人は斃《たお》れて強い人は存《のこ》るのであります。そのごとく真に強い国は国難に遭遇して亡びないのであります。その兵は敗れ、その財は尽《つ》きてそのときなお起るの精力を蓄うるものであります。これはまことに国民の試練の時であります。このときに亡びないで、彼らは運命のいかんにかかわらず、永久に亡びないのであります。

 越王|勾践《こうせん》呉を破りて帰るではありません、デンマーク人は戦いに敗れて家に還ってきました。還りきたれば国は荒れ、財は尽き、見るものとして悲憤失望の種ならざるはなしでありました。「今やデンマークにとり悪しき日なり」と彼らは相互に対していいました。この挨拶《あいさつ》に対して「否《いな》」と答えうる者は彼らのなかに一人もありませんでした。しかるにここに彼らのなかに一人の工兵士官がありました。彼の名をダルガス(Enrico Mylius Dalgas)といいまして、フランス種のデンマーク人でありました。彼の祖先は有名なるユグノー党の一人でありまして、彼らは一六八五年信仰自由のゆえをもって故国フランスを逐《お》われ、あるいは英国に、あるいはオランダに、あるいはプロイセンに、またあるいはデンマークに逃れ来《きた》りし者でありました。ユグノー党の人はいたるところに自由と熱信と勤勉とを運びました。英国においてはエリザベス女王のもとにその今や世界に冠たる製造業を起しました。その他、オランダにおいて、ドイツにおいて、多くの有利的事業は彼らによって起されました。旧《ふる》き宗教を維持せんとするの結果、フランス国が失いし多くのもののなかに、かの国にとり最大の損失と称すべきものはユグノー党の外国脱出でありました。しかして十九世紀の末に当って彼らはいまだなおその祖先の精神を失わなかったのであります。ダルガス、齢《とし》は今三十六歳、工兵士官として戦争に臨み、橋を架し、道路を築き、溝《みぞ》を掘るの際、彼は細《こま》かに彼の故国の地質を研究しました。しかして戦争いまだ終らざるに彼はすでに彼の胸中に故国|恢復《かいふく》の策を蓄えました。すなわちデンマーク国の欧州大陸に連《つら》なる部分にして、その領土の大部分を占むるユトランド(Jutland)の荒漠を化してこれを沃饒《よくにょう》の地となさんとの大計画を、彼はすでに彼の胸中に蓄えました。ゆえに戦い敗れて彼の同僚が絶望に圧せられてその故国に帰り来《きた》りしときに、ダルガス一人はその面《おも》に微笑《えみ》を湛《たた》えその首《こうべ》に希望の春を戴《いただ》きました。「今やデンマークにとり悪しき日なり」と彼の同僚はいいました。「まことにしかり」とダルガスは答えました。「しかしながらわれらは外に失いしところのものを内において取り返すを得《う》べし、君らと余との生存中にわれらはユトランドの曠野を化して薔薇《バラ》の花咲くところとなすを得べし」と彼は続いて答えました。この工兵士官に預言者イザヤの精神がありました。彼の血管に流るるユグノー党の血はこの時にあたって彼をして平和の天使たらしめました。他人の失望するときに彼は失望しませんでした。彼は彼の国人が剣をもって失ったものを鋤《すき》をもって取り返さんとしました。今や敵国に対して復讐戦《ふくしゅうせん》を計画するにあらず、鋤《すき》と鍬《くわ》とをもって残る領土の曠漠と闘い、これを田園と化して敵に奪われしものを補わんとしました。まことにクリスチャンらしき計画ではありませんか。真正の平和主義者はかかる計画に出でなければなりません。

 しかしダルガスはただに預言者ではありませんでした。彼は単に夢想家《ゆめみるもの》ではありませんでした。工兵士官なる彼は、土木学者でありしと同時に、また地質学者であり植物学者でありました。彼はかのごとくにして詩人でありしと同時にまた実際家でありました。彼は理想を実現するの術《すべ》を知っておりました。かかる軍人をわれわれはときどき欧米の軍人のなかに見るのであります。軍人といえば人を殺すの術にのみ長じている者であるとの思想は外国においては一般に行われておらないのであります。

 ユトランドはデンマークの半分以上であります。しかしてその三分の一以上が不毛の地であったのであります。面積一万五千平方マイルのデンマークにとりましては三千平方マイルの曠野は過大の廃物であります。これを化して良田沃野となして、外に失いしところのものを内にありて償《つぐな》わんとするのがそれがダルガスの夢であったのであります。しかしてこの夢を実現するにあたってダルガスの執《と》るべき武器はただ二つでありました。その第一は水でありました。その第二は樹《き》でありました。荒地に水を漑《そそ》ぐを得、これに樹を植えて植林の実を挙ぐるを得ば、それで事《こと》は成るのであります。事《こと》はいたって簡単でありました。しかし簡単ではあるが容易ではありませんでした。世に御《ぎょ》し難いものとて人間の作った沙漠のごときはありません。もしユトランドの荒地がサハラの沙漠のごときものでありましたならば問題ははるかに容易であったのであります。天然の沙漠は水をさえこれに灑《そそ》ぐを得ばそれでじきに沃土《よきつち》となるのであります。しかし人間の無謀と怠慢とになりし沙漠はこれを恢復するにもっとも難いものであります。しかしてユトランドの荒地はこの種の荒地であったのであります。今より八百年前の昔にはそこに繁茂せる良き林がありました。しかして降《くだ》って今より二百年前まではところどころに樫の林を見ることができました。しかるに文明の進むと同時に人の欲心はますます増進し、彼らは土地より取るに急《きゅう》にしてこれに酬《むく》ゆるに緩《かん》でありましたゆえに、地は時を追うてますます瘠せ衰え、ついに四十年前の憐むべき状態《ありさま》に立ちいたったのであります。しかし人間の強欲をもってするも地は永久に殺すことのできるものではありません。神と天然とが示すある適当の方法をもってしますれば、この最悪の状態においてある土地をも元始《はじめ》の沃饒に返すことができます。まことに詩人シラーのいいしがごとく、天然には永久の希望あり、壊敗はこれをただ人のあいだにおいてのみ見るのであります。

 まず溝を穿《うが》ちて水を注ぎ、ヒースと称する荒野の植物を駆逐し、これに代うるに馬鈴薯《じゃがたらいも》ならびに牧草《ぼくそう》をもってするのであります。このことはさほどの困難ではありませんでした。しかし難中の難事は荒地に樹を植ゆることでありました、このことについてダルガスは非常の苦心をもって研究しました。植物界広しといえどもユトランドの荒地に適しそこに成育してレバノンの栄えを呈《あら》わす樹はあるやなしやと彼は研究に研究を重ねました。しかして彼の心に思い当りましたのはノルウェー産の樅《もみ》でありました、これはユトランドの荒地に成育すべき樹であることはわかりました。しかしながら実際これを試験《ため》してみますると、思うとおりには行きません。樅は生《は》えは生《は》えまするが数年ならずして枯れてしまいます。ユトランドの荒地は今やこの強梗《きょうこう》なる樹木をさえ養うに足るの養分を存《のこ》しませんでした。

 しかしダルガスの熱心はこれがために挫《くじ》けませんでした。彼は天然はまた彼にこの難問題をも解決してくれることと確信しました。ゆえに彼はさらに研究を続けました。しかして彼の頭脳《あたま》にフト浮び出ましたことはアルプス産の小樅《こもみ》でありました。もしこれを移植したらばいかんと彼は思いました。しかしてこれを取り来《きた》りてノルウェー産の樅のあいだに植えましたときに、奇なるかな、両種の樅は相いならんで生長し、年を経るも枯れなかったのであります。ここにおいて大問題は釈《と》けました。ユトランドの荒野に始めて緑の野を見ることができました。緑は希望の色であります。ダルガスの希望、デンマークの希望、その民二百五十万の希望は実際に現われました。

 しかし問題はいまだ全《まった》く釈けませんでした。緑の野[#「野」に白丸傍点]はできましたが、緑の林はできませんでした。ユトランドの荒地より建築用の木材をも伐り得んとのダルガスの野心的欲望は事実となりて現われませんでした。樅《もみ》はある程度まで成長して、それで成長を止めました、その枯死《かれること》はアルプス産の小樅《こもみ》の併植《へいしょく》をもって防《ふせ》ぎ得ましたけれども、その永久の成長はこれによって成就《とげ》られませんでした。「ダルガスよ、汝の預言せし材木を与えよ」といいてデンマークの農夫らは彼に迫りました。あたかもエジプトより遁《のが》れ出でしイスラエルの民が一部の失敗のゆえをもってモーセを責めたと同然でありました。しかし神はモーセの祈願《ねがい》を聴きたまいしがごとくにダルガスの心の叫びをも聴きたまいました。黙示は今度は彼に臨《のぞ》まずして彼の子に臨みました、彼の長男をフレデリック・ダルガスといいました。彼は父の質《たち》を受けて善き植物学者でありました。彼は樅《もみ》の成長について大なる発見をなしました。

 若きダルガスはいいました、大樅がある程度以上に成長しないのは小樅をいつまでも大樅のそばに生《はや》しておくからである。もしある時期に達して小樅を斫《き》り払ってしまうならば大樅は独《ひと》り土地を占領してその成長を続けるであろうと。しかして若きダルガスのこの言を実際に試《ため》してみましたところが実にそのとおりでありました。小樅はある程度まで大樅の成長を促《うなが》すの能力《ちから》を持っております。しかしその程度に達すればかえってこれを妨ぐるものである、との奇態《きたい》なる植物学上の事実が、ダルガス父子によって発見せられたのであります。しかもこの発見はデンマーク国の開発にとりては実に絶大なる発見でありました、これによってユトランドの荒地|挽回《ばんかい》の難問題は解釈されたのであります。これよりして各地に鬱蒼《うっそう》たる樅の林を見るにいたりました。一八六〇年においてはユトランドの山林はわずかに十五万七千エーカーに過ぎませんでしたが、四十七年後の一九〇七年にいたりましては四十七万六千エーカーの多きに達しました。しかしこれなお全州面積の七分二厘に過ぎません。さらにダルガスの方法に循《したが》い植林を継続いたしますならば数十年の後にはかの地に数百万エーカーの緑林を見るにいたるのでありましょう。実に多望と謂《いい》つべしであります。

 しかし植林の効果は単に木材の収穫に止《とど》まりません。第一にその善き感化を蒙《こうむ》りたるものはユトランドの気候でありました。樹 木のなき土地は熱しやすくして冷《さ》めやすくあります。ゆえにダルガスの植林以前においてはユトランドの夏は昼は非常に暑くして、夜はときに霜を見ました。四六時中に熱帯の暑気と初冬の霜を見ることでありますれば、植生は堪《たま》ったものでありません。その時にあたってユトランドの農夫が収穫成功の希望をもって種《う》ゆるを得し植物は馬鈴薯、黒麦、その他少数のものに過ぎませんでした。しかし植林成功後のかの地の農業は一変しました。夏期の降霜はまったく止《や》みました。今や小麦なり、砂糖大根なり、北欧産の穀類または野菜にして、成熟せざるものなきにいたりました。ユトランドは大樅《おおもみ》の林の繁茂のゆえをもって良き田園と化しました。木材を与えられし上に善き気候を与えられました、植ゆべきはまことに樹であります。

 しかし植林の善き感化はこれに止《とど》まりませんでした。樹木の繁茂は海岸より吹き送らるる砂塵《すなほこり》の荒廃を止《と》めました。北海沿岸特有の砂丘《すなやま》は海岸近くに喰い止められました、樅《もみ》は根を地に張りて襲いくる砂塵《すなほこり》に対していいました、

ここまでは来《きた》るを得《う》べし

しかしここを越ゆべからず

と(ヨブ記三八章一一節)。北海に浜《ひん》する国にとりては敵国の艦隊よりも恐るべき砂丘《すなやま》は、戦闘艦ならずして緑の樅の林をもって、ここにみごとに撃退されたのであります。

 霜は消え砂は去り、その上に第三に洪水の害は除かれたのであります。これいずこの国においても植林の結果としてじきに現わるるものであります。もちろん海抜六百尺をもって最高点となすユトランドにおいてはわが邦《くに》のごとき山国《やまぐに》におけるごとく洪水の害を見ることはありません。しかしその比較的に少きこの害すらダルガスの事業によって除かれたのであります。

 かくのごとくにしてユトランドの全州は一変しました。廃《すた》りし市邑《しゆう》はふたたび起りました。新たに町村は設けられました。地価は非常に騰貴《とうき》しました、あるところにおいては四十年前の百五十倍に達しました。道路と鉄道とは縦横《たてよこ》に築かれました。わが四国全島にさらに一千方マイルを加えたるユトランドは復活しました、戦争によって失いしシュレスウィヒとホルスタインとは今日すでに償《つぐな》われてなお余りあるとのことであります。

 しかし木材よりも、野菜よりも、穀類よりも、畜類よりも、さらに貴きものは国民の精神であります。デンマーク人の精神はダルガス植林成功の結果としてここに一変したのであります。失望せる彼らはここに希望を恢復しました、彼らは国を削《けず》られてさらに新たに良き国を得たのであります。しかも他人の国を奪ったのではありません。己れの国を改造したのであります。自由宗教より来る熱誠と忍耐と、これに加うるに大樅《おおもみ》、小樅《こもみ》の不思議なる能力《ちから》とによりて、彼らの荒れたる国を挽回《ばんかい》したのであります。

 ダルガスの他の事業について私は今ここに語るの時をもちません。彼はいかにして砂地《すなじ》を田園に化せしか、いかにして沼地の水を排《はら》いしか、いかにして磽地《いしじ》を拓《ひら》いて果園を作りしか、これ植林に劣らぬ面白き物語《ものがたり》であります。これらの問題に興味を有せらるる諸君はじかに私についてお尋ねを願います。

      *      *      *      *

 今、ここにお話しいたしましたデンマークの話は、私どもに何を教えますか。

 第一に戦敗かならずしも不幸にあらざることを教えます。国は戦争に負けても亡びません。実に戦争に勝って亡びた国は歴史上けっして尠《すくな》くないのであります。国の興亡は戦争の勝敗によりません、その民の平素の修養によります。善き宗教、善き道徳、善き精神ありて国は戦争に負けても衰えません。否《いな》、その正反対が事実であります。牢固《ろうこ》たる精神ありて戦敗はかえって善き刺激となりて不幸の民を興します。デンマークは実にその善き実例であります。

 第二は天然の無限的生産力を示します。富は大陸にもあります、島嶼《とうしょ》にもあります。沃野にもあります、沙漠にもあります。大陸の主《ぬし》かならずしも富者ではありません。小島の所有者かならずしも貧者ではありません。善くこれを開発すれば小島も能く大陸に勝《ま》さるの産を産するのであります。ゆえに国の小なるはけっして歎《なげ》くに足りません。これに対して国の大なるはけっして誇るに足りません。富は有利化されたるエネルギー(力)であります。しかしてエネルギーは太陽の光線にもあります。海の波濤《なみ》にもあります。吹く風にもあります。噴火する火山にもあります。もしこれを利用するを得ますればこれらはみなことごとく富源であります。かならずしも英国のごとく世界の陸面六分の一の持ち主となるの必要はありません。デンマークで足ります。然《しか》り、それよりも小なる国で足ります。外《そと》に拡《ひろ》がらんとするよりは内《うち》を開発すべきであります。

 第三に信仰の実力を示します。国の実力は軍隊ではありません、軍艦ではありません。はたまた金ではありません、銀ではありません、信仰であります。このことにかんしましてはマハン大佐もいまだ真理を語りません、アダム・スミス、J・S・ミルもいまだ真理を語りません。このことにかんして真理を語ったものはやはり旧《ふる》い『聖書』であります。

   もし芥種《からしだね》のごとき信仰あらば、この山に移りてここよりかしこに移れと命《い》うとも、かならず移らん、また汝らに能《あた》わざることなかるべし

とイエスはいいたまいました(マタイ伝一七章二〇節)。また

  おおよそ神によりて生まるる者は世に勝つ、われらをして世に勝たしむるものはわれらの信なり

と聖ヨハネはいいました(ヨハネ第一書五章四節)。世に勝つの力、地を征服する力はやはり信仰であります。ユグノー党の信仰はその一人をもって鋤《すき》と樅樹《もみのき》とをもってデンマーク国を救いました。よしまたダルガス一人に信仰がありましてもデンマーク人全体に信仰がありませんでしたならば、彼の事業も無効に終ったのであります。この人あり、この民あり、フランスより輸入されたる自由信仰あり、デンマーク自生の自由信仰ありて、この偉業が成ったのであります。宗教、信仰、経済に関係なしと唱《とな》うる者は誰でありますか。宗教は詩人と愚人とに佳《よ》くして実際家と智者に要なしなどと唱うる人は、歴史も哲学も経済も何にも知らない人であります。国にもしかかる「愚かなる智者」のみありて、ダルガスのごとき「智《さと》き愚人」がおりませんならば、不幸一歩を誤りて戦敗の非運に遭いまするならば、その国はそのときたちまちにして亡びてしまうのであります。国家の大危険にして信仰を嘲り「国家の大危険にして信仰を嘲り」、これを無用視するがごときことはありませんこれを無用視するがごときことはありません」に白丸傍点]。私が今日ここにお話しいたしましたデンマークとダルガスとにかんする事柄は大いに軽佻浮薄《けいちょうふはく》の経世家を警《いまし》むべきであります。

底本:「後世への最大遺物 デンマルク国の話」岩波文庫、岩波書店 1946(昭和21)年10月10日第1刷発行 1976(昭和51)年3月16日第30刷改版発行 1994(平成6)年8月6日 第64刷発行

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 今、ここにお話しいたしましたデンマークの話は、私どもに何をおしえましすか。

▼第一に戦敗かならずしも不幸にあらざることを教えます。国は戦争に負けても亡びません。実に戦争に勝って亡びた国は歴史上けっして尠(すくな)くないのであります。国の興亡は戦争の勝敗によりません、その民の平素の修養によります。善き宗教、善き道徳、善き精神ありて国は戦争に負けても衰えません。否(いな)、その正反対が事実であります。牢固たる精神ありて戦敗はかえって善き刺激となりて不幸の民を興します。デンマークは実にその善き実例であります。

▼第二は天然の無限的生産を示します。実は大陸にもあります、島嶼(とうしょ)にもあります。沃野にもあります。砂漠にもあります。大陸の主(ぬし)かならずしも富者ではありません」。小島の所有者かならずしも貧者ではありません。善くこれを開発すれば小島も能く大陸に勝さるの産を産するのであります。ゆえに国の小なるはけっして歎くに足りません。・・・。

▼第三に信仰の実力を示します。国の実力は軍隊ではありません、軍艦ではありません。はたまた金でがありません、銀ではありません、信仰であります。・・・。よしまたダルガス一人に信仰がありましてもデンマーク人全体にに信仰がありませんでしたならば、彼の事業は無効に終わったのであります。このひとあり、この民あり、フランスより輸入されたる自由信仰ありて、この偉業が成ったのであります。宗教、信仰、経済に関係なしと唱うる者は誰でありますか。宗教は詩人と愚人とに佳くして実際かと智者に要なしなど唱うる人は、歴史も哲学も経済も何にも知らないひとであります。國にももしかかる「愚かなる智者」のみありて、ダルガスのごとき「智(さと)き愚人」がおりませんならば、不幸一歩を誤りて戦敗の悲運に遭いますならば、その国はそのときたちまちにして亡びてしまうのであります。国家の大危険にして信仰を嘲り、これを無用視するがごときことはありません。私が今日ここにお話しいたしましたデンマークとダルガスに関する事柄は大いに軽佻浮薄(けいちょうふはく)の経世家のを警(いまし)むべきであります。

2011.04.18

参考:内村鑑三が夜這いをしたという話


22 岡倉天心 (1862〜1913年)


 アジアは一つだ。ヒマラヤ山脈は、二つの強力な文明――孔子の共同主義のシナ文明と、ヴェーダの個人主義のインド文明とを、ただこれを強調せんがために分つ。しかしながら、この雪の障壁をもってしても、あの窮極と普遍とに対する広い愛の拡がりを、ただの一時もさえぎることはできないのだ。この愛こそは、全アジア民族共通の相続財産ともいうべき思想なのだ。この愛こそは、彼らに、世界のすべての大宗教を生み出すことを得させたものなのだ。

 美術評論家。東京美術学校長をつとめ、日本美術院を設立するなど、明治美術の父と称せられる。主著『日本の目覚め』『茶の本』

*桑原武夫編『一日一語』(岩波新書)より

2010.06.08


23 岡田啓介(1862〜1952年)


「(岡田は)総理大臣になると、三つのものがみえなくなるといった。三つのものとは、第一に金。いつも公金を思うように動かし、自分で金を使うことがないからその価値がわからなくなる。第二は人だ。周囲の取巻きに囲まれて、甘言やら追従をきくことが多いために、誰が本当の人物か、誰が奸人かねい人か、その区別がつかなくなる。第三は、国民の顔がどちらをい向いているか分からなくなる。この三つが見えなくなった時は、総理大臣はのたれ死する、と彼は言い切っている」

参考:軍人・政治家(総理大臣)

*小島直記『逆境を愛する男たち』(新潮社)P.158 「第二十四話 権力者の不明」より。

2010.12.19


24 新渡戸稲造(1862〜1933年)


 「尊卑貴賤は仕事をする者の心に属することで、正しく清い心を持ち、心に欲を持たず、虚心に世を渡れば、必ず同じ志の人が現れ、あるいは隠れたままで我々を援助してくれる。しいて同じ志の者を求めなくとも、おのずから友ができて、世渡りの道を全うするものである。(徳は孤ならず、必ず隣あり)」と、述べられています。

*『自分をもっと深く掘れ!』新渡戸稲造著 竹内均解説 三笠書房p19 より

 農業経済学者,教育者。南部藩士の子として盛岡に生まれる。札幌農学校に入り,W.S.クラークに導かれてキリスト教に入信。欧米に留学して農業経営学を修め,帰国後,1906年一高校長,その後東大教授,東京女子大学長等をつとめて学生に大きな影響を与えた。

2010.05.23


25 清沢満之(1863〜1903年)


 「天命に安んじ 人事を尽くす」

参考:明治時代の真宗大谷派の僧侶、哲学者・宗教家。


26 津田梅子(1864〜1929)


 何かを始めることは優しいが、それを継続することは難しい、成功させることはなお難しい。

 教育者。佐倉藩士の子として江戸に生まれた。8歳のとき、日本最初の女子海外留学生として米国にまなび、帰国(1882)後、華族女学校、女子高等師範学校教授を歴任したが、1900年、英語によって女子の国際的知見を広め、また中等諸学校の英語教員の養成を目的とした女子英学塾(現在の津田塾大学)を創立、塾長となった。塾は、中流以上の子女に英語および近代的教養を与える学校として発展した。

*『国民百科辞典』による。

2009.10.14


27
内藤湖南
内藤湖南風貌・黄丕烈:藏書家の話

内藤湖南(1866〜1934)

日本文化史研究:東洋史家、内藤湖南(1866〜1934)著

―内藤湖南によって論じられた日本文化論の名著―日本文化史研究

大正13年(1924)初版が出され、昭和5年(1930)増補版が出された。

現代日本を知るには、応仁の乱以後を知れば十分だと喝破する「応仁の乱について」などがとくに有名である。

そのほか、「日本文化とは何ぞや」「日本文化の独立」「維新史の資料について」など秀逸な論文を収める。

本書は日本文化論の名著であるばかりではなく、「歴史とは何か」「日本とは何か」という点まで追求した名著であると言える。

以下は『日本文化史研究(下)』(講談社学術文庫)

 私は応仁の乱(1467〜1477年)について申し上げることになっておりますが、私がこんな事をお話するのは一体他流試合と申すもので、ちょっとも私の専門に関係ないものであります、が大分若いときに本をなんということなしにむやみに読んだ時分に、いろいろこの時代のものを読んだことがありますので、それを思い出して少しばかり申し上げることにいたしました。それももう少し調べてお話するといいのですが、ちょっとも調べる時間がないので、頼りない記憶で申し上げるんですから、間違いがあるかも知れませぬが、それは他流試合だけにご勘弁を願います。

 とにかく応仁の乱というものは、日本の歴史にtこつてはよほど大切な時代であるということだけは間違いのないことであります。しかもそれは単に京都におる人がもっとも関係があるというだけでなく、すなわち京都の町を焼かれ、寺々神社を焼かれたというばかりではありませぬ。それらはむしろ応仁の乱の関係としてはきわめて小さな事であります、応仁の乱の日本の歴史にもっとも大きな関係のあることはもっとほかにあるのであります。

 大体歴史というものは、ある一面から申しますると、いつでも下級人民がだんだん向上発展して行く記録であるといっていいのでありまして、日本の歴史も大部分この下級人民がだんだん向上発展して行った記録であります。この中で応仁の乱というものは、今もうしました意味においてももっとも大きな記録であるといってよかろうと思います。一言にして蔽えば、応仁の乱というものの日本歴史におけるもっとも大事な関係というものはそこにあるのであります。(P.61〜62)

 そういふ風でとにかくこれは非常に大事な時代であります。大体今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前の事は外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後はわれわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これをほんとうに知っておれば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります、そういう大きな時代でありますので、それについて私の感じたいろいろな事をいってみたいと思います。がしかし私はたくさんの本を読んだというわけでありませぬから、わずかな材料でお話するのです、その材料も専門の側からみるとまたうさんくさい材料があるかも知れませぬが、しかしそれも構わぬと思います。事実が確かであってもなくても大体その時代においてそういう風な考え、そういう風な気分があったという事が判ればたくさんでありますから、しいて事実を穿鑿する必要もありませぬ、ただその時分の気分の判る材料でお話してみようと思います。しかし私の材料というのは要するにこれだけ(本を指示して)ですから、これを見てもいかに材料が貧弱であり、きわめて平凡なものであるかという事が分ります。P.64

 かくのごとく応仁の乱の前後は、単に足軽が跋扈ばっこして暴力を揮うというばかりでなく、思想の上においても、その他すべての智識、趣味において、一般にいままで貴族階級の占有であったものが、一般に民衆に拡がるという傾きを持って来たのであります。これが日本歴史の変り目であります。仏教の信仰においてもこの変化が著しく現われて来ました。仏教の中で、その当時においても急に発達したのが門徒宗であります。

門徒宗は当時においては実に立派な危険思想であります(笑声起る)。一条禅閤兼良などもその点は認めているようでありまして「仏法を尊ぶべき事」と書いてある箇条の中に、「さて出家のともがらも、わが宝を広めんと思う心ざしは有べけれど、無智愚痴(ぐち)の男女をすゝめ入て、はてはては徒党をむすび邪法を行ひ、民業を妨げ濫妨(らんぼう)をいたす事は仏法の悪魔、王法の怨敵(おんてき)也、」と書いてある。一条禅閤兼良は門徒宗のようなむやみに愚民の信仰を得てそれを拡めることに反対の意見をもっておりますが、其当時においてすでにそういう現象があったということが分ります。それは兼良が直接そういう状態を見ておりましたところからそう感じたのだと思いますが、引きつづき戦国時代において門徒の一揆によってしばしば騒動が起り、加賀の富樫などこれがため亡んでしまい、家康公なども危く一向門徒の一揆に亡ぼされるところでありました。単に百姓の集まりが信仰によって熱烈に動いた結果、立派な大名をも亡ぼすようになりました。非常に危険なものであって、門徒宗が実に当時の危険思想の伝播に効力があったといっていいのであります。ただし世の中が治まると、危険思想の中にもちゃんと秩序が立って納まり返るもので、今の真宗では危険思想などといふ者がどこにあったかというような顔をしていますが(笑声起る)なかなかそんなわけのものではなく、少し薬が利き過ぎると、どこまで行くか分らぬほどの状態でありました。かくのごとく応仁の乱というものはずいぶん古来の制度習慣を維持しようとしております側――一条禅閤兼良などのような側から見ると、堪えられないほど危険な時代であったに違いありませぬ。

 それが百年にして元亀げんき天正になって、世の中が統一され整理されるというと、その間に養われたところのいろいろの思想が後来の日本統一に非常に役に立つ思想になりまして、今日のごとくもっとも統一の観念の強い国民を形造って来ているのであります。しかしこの後も騒ぎがあるたびに必ず統一思想が起るかというとそれはお受け合いができませぬ。今日の日本の労働争議についても保証しろといわれてもそれは保証しませぬ。ただ前にはそういうことがあったというだけであります。何か騒動があればそのたびごとにその結果としてなにか特別なことができるということは確かであります、ただどういうことができるかということは分らない。一条禅閤のごときも当時の乱世の後に結構な時代が来るとは予想しなかったのであります。歴史家が過去のことによりて将来の事を判断するということはよほど慎重に考えないと危険なことであります。

 とにかく応仁時代というものは、今日過ぎ去ったあとから見ると、そういう風ないろいろの重大な関係を日本全体の上に及ぼし、ことに平民実力の興起においてもっとも肝腎な時代で、平民のほうからはもっとも謳歌おうかすべき時代であるといっていいのであります。

 それと同時に日本の帝室というような日本を統一すべき原動力からいっても、たいへん価値のある時代であったということはこれを明言して妨げなかろうと思います、まあ他流試合でありますからこれくらいのところでご免を蒙っておきます。(大正十年八月史学地理学局同攻会講演)P.84〜87


内藤湖南先生風貌


 私の本棚は一階の部屋の中央にパソコンを置いた部屋の中央に机があり、その東側には6段、西側には7段、二階には二つの書棚がありまりす。そしてそれぞれの段には大きな本は後部に文庫本など小さいものは前に置くといった様子で収まっている。

 こんな配置であるから、自分が読みたいときに探し出すのに時間がかかる。そうこうするうちに面倒くさくなり探すのをやめる、その結果、読書はしなくなる。

   前置きはこのくらいにして、小島直記『伝記にみる 風貌姿勢』「竜の星座」(竹井出版)(著者から頂いた:表紙を開くと、児島直紀と直筆でペン書きされている。)を読んでいるとき次の文章に出会った。

▼内藤湖南といえば、わが國のシナ学の創始者であること、そして何よりもその蔵書のことが念頭にうかぶ。その数五万部、しかも書庫において「暗がりでも目的の書物が探りだせる」(森鹿三『内藤湖南』第九巻付録月報)というのであるからまったく頭が下がる。

 昭和四十一年にその伝記が出た。著者は青江舜二郎、タイトルは『竜の星座』。この名著によりながら、とくに蔵書五万部の由来をさぐってみたい。

 本名虎次郎。慶応二年七月(1866年)秋田県鹿野郡毛馬内(かづの けまない)に生まれる。昭和九年(1934年)京都府相楽郡瓶原村(そうらく にかのはら:現在加茂町)で永眠した。六十九におよぶ生涯で、本との関係は三歳に始まる。

 十三歳上の兄が、炉ばたでおもしろ半分に漢詩を教えると、すぐおぼえて、もっともっととせがむ。本箱から本をもちだして、「読んで、読んで」という。『二十四孝』を読んでやると間もなく暗記した。友だちとかくれん坊をしても、大声で『唐詩選』の暗誦をしていたからすぐ見つかった。おそるべき神童ぶりである。

 小学生時代、自分のもっている本を全部ふろしきにつつんで、背おって出かける。じつは継母に原因があった。生母は四歳のとき死別し、つぎつぎと継母がきては去り、小学生のときは四番目の継母であつたが、虎次郎はこの酒飲みの女をきらった。授業がおわり、家にもどっくて顔を合わせるのが苦痛なので、放課後ひとり教室にのこって読むために、すべての本を持参したのだ。すでに幼少身でおぼえた”悲しき逃避”である。

 十七歳、県立師範学校中等科師範科に九十五点、首席で入学。そして、普通なら七年かかるところを三年半で卒業、小学校の首席訓導になる。月給十円、下宿代三円、実家送金四円のこり三円で本を買いはじめた。蔵書五万部の出發点はこのあたりらしい。

 翌年(二十一歳)無断上京、『明教新誌』の編集者に採用された。月給八円で生活はくるしく、いろいろな懸賞に応募した。このころは炳卿というペンネーム。このほか、不擬不慧主人、冷眼子、落人後子炳卿、潜夫、黒頭尊者などを用い、二十五年(二十六歳)はじめて湖南鴎侶というのが活字になった。

 郷里の十和田湖にちなむものであろうが、青江舜二郎は、父の号が「十湾」であり、その親近感から「十湾」と同義の「湖南」を号にしたのではないか、という。

 大同新報をへて三河新聞にはいった。最大の魅力は月給三十円で、すでにこのころ「いい本を手に入れるということはほとんどマニアに近く、しかも一方、親身になって他人のめんどうを見ることもやめない」。三河新聞は三月でやめ、三宅雪嶺主宰の『日本人』に入り高橋健三に認められてその秘書となった。高橋は官報局長をやめて大阪にうつり、大阪朝日新聞の客員となった。湖南も同行して大阪朝日記者となり、翌年高橋が松隈内閣の書記官長に就任したので朝日をやめて上京、この引きあげのとき、すでに蔵書は一千部に達していた。このあと、台湾日報主事、万朝報論説記者となる。ひるごろ人力車で出社し、二時間ばかりで帰宅すると、二階にこもる。夕食に下りてきてもほとんどモノをいわず、すむとすぐ二階にもどって夜明けまで読書。起きるのは十時ごろ、という生活で、蔵書は三千部に達していた。

 三十四歳のとき万朝報をやめ、大阪朝日新聞社に再入社。四十歳までつとめ、翌年京都帝国大学文学部講師、「東洋史講座」を担当、四十一歳、京都帝国大学文学部講師、〈東洋史講座〉を担当、四十三歳で教授。この京都時代に蔵書は五万部にふくれた。家中いたるところに本、本。庭に大きな穴がいくつも掘られが、これは火事のとき本を助けるためである。渉猟範囲もひろく、木村泰治は犬に関するあらゆるシナの文献を読み「犬の文献では朝野群戴にまさるものはないと思います。この本は上野図書館にありません」といったところ「いやもっといいのがある。それは『国語(書名)だ』と即座にいわれて、とてもかなわないとおもった。あれだけの蔵書をはたしてみんな読んだろうかと多くの人が疑問にした。あるひとにたづねられた湖南氏は〈序結はていねい、目次はななめ、本文指でなでるだけ〉と、笑いながらドドイツ調で答えた。

 徳富蘇峰が訪ねてくるというので、なるべく彼がよろこびそうな本を一室にあつめておいた。ところが、さすがに蘇峰はシナの典籍にくわしく、宋版『史記』十四冊、『宋本毛詩正義』十七冊、唐の写本『説文』一巻」の三つを見ただけで大満悦、他の本は見ないで帰った。

 湖南は三十歳のとき、十七歳の田口郁子と結婚した。小柄で、色白で、まる顔の肉感的な美人で、初対面で参ったらしい。郁子を女手ひとつで育てた女丈夫の未亡人は、湖南の家によく泊まりに来たが、彼はこの義母もニガ手であった。ムッツリとして終日書斎にこもっていたのは、小学生時代と同様、”悲しき逃避”の一面もあったのである。

 大正十五年、定年で京都大学をやめ、翌年瓶原村の恭仁(くに)山荘にうつる。このころは学者としてよりも、蔵書家、書家、書画鑑定家として有名で、加茂駅の三人の人力車夫は、湖南まいりの客のおかげで生活できた。

 ところえ、ここで師事した門弟たちは、一つの珍風景を目撃している。

 彼はいつも夫人といっしょに風呂に入った。それほど熱くない湯で、出たりはいったり、ちゃぶちゃぶの音の合間には笑い声を立てたりして、二時間ぐらいかかる。入浴の途中、何かで夫人が出てきて書斎を横切ったりするようなときでも、腰をかがめたり、タオルでかくしたりせず、まことに無邪気なありのままの姿。白くふっくりとつややかで、五十の女性とはおもわれない。そこであわてて目を伏せる弟子たちの、よこしまな心がしきり恥じられるような天真爛漫さであった。「湖南は恐らく、解放された青春を、そしてセックスのうつくしさを、瓶原ではじめて体験したのではなかったか」。(青江、前掲書)「本ばかり読んでて、いつこどもをつくるのだろう?」とカゲ口をたたかれている。

 ところがどうして、長男乾吉、次男耕次郎、長女百合子、次女ヒナ子、三男戊申、四男茂彦、五男夏五、三女早苗(早世)四女祥子と、常人以上の子宝にめぐまれていたのであるから、まことにおめでたい。P.56〜60

▼よく万巻の書を読むなどというが、そんなことが人間にできるはずははない。人は一年に一万ページの本を読めば、それでひとかどの人物になれるはずだ。一万ページと言えばびっくりするかもしれないが、一日わずか二十八ページずつ読んでいけばいいのだ。と、草柳大蔵氏は書いている。

 毎日読むには相当の覚悟しなければならない。

 森 信三先生は〈一日読まざれば一日くらわず〉と書かれている。

平成二十年四月一日

追加:貝原益軒『養生訓』(岩波文庫)をよまくてはならいくなり、その本を探すこと2日。2日目にフト2階の本棚にあるのではと思い、そこに見つけることが出来た。

 その時、思い出したのが、先生の蔵書のことが念頭にうかぶ。その数五万部、しかも書庫において〈暗がりでも目的の書物が探りだせる〉というのであるからまったく頭が下がる、であった。

 そこでわずかな私の持つている本の整理を始めた。乱雑に配列されているのには吾ながら驚き、自分なりの基準で整理を始めている。

 完了すれば、先生のようにいかなくても、現状よりは、速く読みたい本を探し出せるのを期待している。

平成二十一年十月二十一日


黄丕烈【こうひれつ】(1763〜1825)

「黄丕烈」について調べると、
「藏書家の話」 内藤湖南 が書いている

 清朝はその初頃から有名な藏書家が多く、錢謙益及その族孫錢曾、又は季振宜などは、順治より康煕の初年に有名であるが、併し藏書家の最盛期は乾隆の中頃以後にあるので、乾隆の末から嘉慶を經て、道光の初頃まで居つた蘇州の黄丕烈は最も有名で、殆ど清朝を通じて第一の藏書家と言つてよいのである。 ▼黄丕烈は宋版の本百餘種を得て、百宋一廛と號した。この頃の藏書家は、單に收藏の多きに誇るのみでなく、又多く古版の本を得ることを努めて、而もその上に古版を以て通行の本を校勘することを努めた。この黄丕烈は、その點に於ても最も名高い人であるが、この人の刻した士禮居叢書は、多くは宋版その他古版の本を飜刻して、精巧を極めたので、清朝に出版された叢書の中でも最も善い本と言はれ、今日に於てはその値の高きことも、殆ど古版の本に匹敵するほどで、我國に傳來したものは恐らく二部位に過ぎない。
▼この人達は又藏書の事に就て色々の趣味あることを企て、百宋一廛については、當時古書の校勘に於て第一人者と稱せられた顧廣圻は、百宋一廛賦といふものを作つてその藏書の富んでゐることを褒め立てなどしたので、當時の藏書家の間にもてはやされた事であるが、黄丕烈は又嘉慶年間に、十年ほど引續いて祭書といふことを始めた。即ち黄氏には讀未見書齋といふ書齋があつたが、其處で祭書をやつた。その後になつて、士禮居で祭書をしたこともある。その祭をする毎に必ず圖を作り、その友人なる學者達に、圖説を作らせたのであるが、前に言つた顧廣圻も、士禮居祭書の詩といふものがあつて、今に傳つてゐる。昔唐の賈島は、年の終に、一年間作つた詩を自ら祭つたといふ事が傳へられて、一つの文壇の佳話となつてゐるが、祭書といふことを始めたのは黄丕烈からで、これも文壇の佳話に相違ない。この人の藏書は、その後展轉して今日支那・日本に於ける藏書家の中にも傳はつてゐるものがあるが、これはその人が死んだ後に散亂したのは勿論なるも、死んだ後ばかりでなく、其人の生存中に既に人手に渡つたものもあるのである。支那人の藏書などを好む人は、多くは黄丕烈の如く讀書家で、又校勘の好きな人であつて、日本などの如く、金があつて、讀めない本を澤山蒐めるのとは違つてゐるので、多少財産のある人でも、全力を擧げて書籍を蒐める結果、晩年には多く貧乏になつて、自然に書籍を賣らねばならなくなる。黄丕烈なども、五十歳以後は大分金に窮したらしく、當時(嘉慶の末頃に)新に起つて來た藏書家、汪士鐘に色々な珍本を賣つたことがその年譜に見えてゐ、後に自分が賣つた本を、汪士鐘から借りて校勘したりなどしてゐる。勿論然うかといつて、古書を蒐めることを絶對に止めてゐるのではないが、一方賣りながら、一方買ひ集めてゐるのである。ごく晩年(道光五年)その六十三歳の時には、自分で本屋を開店してゐるが、到頭この年に亡くなつた。
▼前に言つた汪士鐘は、黄丕烈に引續いて有名な藏書家であるが、これも儀禮單疏を刻して世に弘めたので、今日でも吾々は、それがために非常な便宜を得てゐる。此人は元來は呉服屋であつて非常な金持であつたが、此人の藏書も間もなく散じた。この人の藏書の處は、藝芸書舍というたが、その散じた本は、常熟の瞿氏と、聊城の楊氏とに入つたので、此二家は今日支那に現存してゐる二大藏書家といはれてゐる。
▼藏書家の中で最も悲慘な運命に出遇つたのは、張金吾といふ人である。此人も乾隆の末年に生れ、道光八年に僅か四十二歳で亡くなつた人であるが、この張氏はその親族に藏書家多く、金吾の從父張海鵬はことに多くの書籍を刻せるを以て有名で、學津討原・墨海金壺、又は借月山房彙鈔などの大部の書籍を出版した人であるが、張金吾はこの一族として、若い時から既にその先代からの藏書に加ふるに、自己の蒐集したものを以てして、八萬餘卷を藏してゐたと言はれ、此人はその夫人も亦學問のある人で、夫婦ともに書を愛し、學問に力め、隨分著述も多いが、悉くは出版されてをらぬ。此人は三十三歳の年に、活字を十萬餘り買入れて、それを以て大部の書籍を出版した。その一つは續資治通鑑長編であつて、これは二年に亙つて五百二十卷の本を二百部印刷したので、今日もその本は歴史家に非常に珍重されてゐる。此人の藏書の處は、愛日精廬と稱し、最初その藏書志を四卷作つたが、後になつてだん/\増補して、愛日精廬藏書志四十卷を作つて、自分の家に藏してゐる書籍の最もよいものを解題したので、これは矢張活字で印刷した。其本が今日に至るまで藏書家に非常に珍重されてゐる。ところが此人にとりて最も不運な事は、その藏書志が出來上つたのは四十一の年であるが、其前年に悉く其藏書を失ふことになつたことである。それは從子の張渙といふ者が張金吾に貸した金があるといふので、其の藏書十萬四千卷を盡く取上げてしまつたことである。張金吾はこの事を非常に悲しんで、「二十年間蒐めるに骨を折つて、散ずる時は全く一日一夜で失くしてしまつた、雲煙過眼遂にかくの如く速かなり」と言つた。そして「從來藏書家で水火の難に遇つた者もあり、兵亂に失つた者もあり、子孫が守ることが出來ずに、鼠穴蠹腹に失つた者もある。併し泥棒に強奪され、しかもそれが自分の親類から斯くの如き不心得の者の出たといふ事は、古來嘗て聞かぬことである。併しこの書籍の集散は常であつて、達觀者は必ずしも斯ういふ事を心にかけない。況や書目を作つて後世に傳へてをれば、その散じた書も矢張自分の書と同じ事だ。自分の目前にあつて、人の手にあるも自分の手にあるも、そんな事はかまはない。唯自分の從子の張渙は、本も讀み、詩文も作り、自分の土地でも自分の家は讀書家といはれ、從子も其中で眞面目な者といはれてゐたのに、どうしてこんな驚くべき無法の事をしたのか、それとも前から自分の本に思をかけてゐて、自分の本を奪ふつもりであつたのか、但し本が失くなつても藏書志が出來たら幸である」と書いてゐる。張金吾は不幸にも其翌年最愛の妻を失つた。張金吾は元來相當の財産を持つてゐたが、これらの事ですつかり貧乏になり、妻を失つた翌々年自分も到頭夭死をしたが、妻を失つた後は手づから金剛經を寫して、半年以上も日々それを讀誦してゐたが、間もなく自分も沒したのである。
▼藏書家の中で張金吾は最も晩年不幸になつた一人であるが、大體藏書家といふ者は、自ら好んで讀み、且蒐める人に限りて、支那でも數代相續した人の殆どないといふ事、それから又讀みもしない藏書家は、却て數代相續してゐるといふ事は、一種の非常なる皮肉なことである。併し前にも言つた如く、支那人は自分の好むところを滿足しさへすれば、そのために財産を失はうが、晩年藏書が散亂しようが、そんなことを豫め考へずに、全力をつくして集め、藏書志を作り、或は又善本を飜刻し、藏書の效力を後世に貽すといふ事は、むしろ藏書家としての本望に叶つた事かも知れぬ。かういふ不思議の趣味は、近代の支那に於て發達したところであるが、日本に於ける藏書の趣味も、斯ういふ風に發達することを希望して善いか惡いかは別問題として、吾々が目前見るところでも、最近藏書の集散が激しくなるところから考へると、矢張支那の近代の跡を追ふものと考へられない事もない。(談話筆記)「青空文庫」による。

20122.12.07


28 上田 敏(びん)(1874〜1916)


 文学者、評論家、啓蒙家、翻訳家。多くの外国語に通じて名訳を残した。号で、「上田柳村」とも呼ばれる。「山のあなたの空遠く 『幸』(さひはひ)住むと人の言ふ」(カール・ブッセの「山のあなた」)や、「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」(ポール・ヴェルレーヌの「落葉」、一般には「秋の歌」)などの訳詞は、今なお、広く知られている。

2013.04.09