日本の本より
(明治時代:1)
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(大正時代)
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(昭和時代)
諸外国の本より

諸外国の本より

目 次


01ヒポクラテス
(B.C.5世紀)
02プラトン
(B.C.427~B.C.347)
03キケロ
(B.C.106~B.C.43)
04セネカ
( B.C.55頃~A.C.40頃)
05オウィディウス
(B.C.43~A.C.17)
06ディオゲネス
(B.C.3頃)
07アウグスチヌス
(354~430)
08聖フランシスコ
(1182~1226)
09ダンテ
(1265~1321)
10エル・グレコ
(1514~1614)
11モンテーニュ
(1533~1592)
12シェクスピア
(1564~1616)
13ガリレオ・ガリレイ
(1564~1642)
14ラ・ロシュフコー
(1613~1680)
15パスカル
(1623~1662)
16ヴォルテール
(1694~1778)
17フランクリン
(1706~1790)
18ワシントン
(1732~1799)
19ゲーテ
(1749~1832)
20 ショーペンハウアー
(1788~1860)
21バイロン
(1788~1824)
22トマス・カーライル
(1795~1881
23ハイネ
(1797~1856)
24シューベルト
(1797~1828)
25リンカン
(1809~1865)
26ダーウィン
(1809~1882)
27ミレー
(1809~1865)
28ツルゲーネフ
(1818~1865)
29ボードレール
(1821~1867)
30アミエル
(1821~1881)
31シュリーマン
(1822~1890)
32パストゥール
(1822~1895)
33トルストイ
(1828~1910)
34ドストエフスキー
(1821~1881)
35ヒルティ
(1833~1905)
36カーネーギー
(1835~1919)
37サミュエル・ウルマン
(1840~1924)
38O・W・ホームズ
(1841~1935)
39ウイリアムズ・ジェムズ
(1842~1910)
40ヘンリー・ヴァン・ダイク
(1852~1933)
41ゴッホ
(1853~1890)
42ウッドロー・ウイルソン
(1856~1924)
43レオン・フレデリク
(1856ー1940年)
44C.H.ブルックス.E.クーエ
(1857~1926)
45ピエール・ジャネ
(1859~1947)
46ラビンドラナート・タゴール
(1861~1941)
47O・ヘンリー
(1862~1910)
48クーベルタン
(1863~1937)
49アレクス・カレル
(1873~1944)
50マックス・ウェバー
(1864~1920)
51キュリー
(1867~1934)
52ロバート・ファルコン・スコット
(1868~1912年)
53アラン
(1868~1951)
54ガンジー
(1868~1948)
55アンドレ・ジード
(1869~1951)
56カール・ブッセ
(1872~1918)
57ロアール・アムンセン
(1872~1928)
58チャ-チル
(1874~1965)
59ユング
(1875~1961)
60アルベルト・シュバイツァー
(1875~1965)
61アインシュタイン
(1879~1955)
62モーリアック
(1885~1970)
63ロマン・ローラン
(1886~1944)
64マックス・ピカート
(1888~1965)
65アンリ・ド・モンテルラン
(1896~1972)
66ジョセフ・マーフィー
(1898~1981)
67アーネスト・へミングウェイ
(1899~961)
68カール・ロジャース
(1902~1987)
69ジョージマロリー
(1902~1924)
70モーティマー・アドラー
(1902~2001)
71ビクトル・フランクル
(1905~1997)
72T・ジョージ・ケナン
(1905~1997)
73シモーヌ・ヴェイユ
(1909~1943)
74マザー・テレサ
(1910~1997)
75ニールス・イェルネ
(1911~ 1994)
76フランソワ・ミッテラン
(1916~1996)
77ジョン・F・ケネディ
(1917~1963)
78アレックス・ヘイリー
(1921~1992)
79ドナルド・キーン
(1922~)
80アイアコカ
(1924~)
81キューブラー・ロス
(1926~2004)
82マーティン・ルーサー・キング
(1928~1968)
83アントニー・デ・メロ
(1931~1987)
84マーヴィン・トケイヤー
(1931~)
85ジェーン・グドール
(1934~)
86H.S.クシュナー
(1935~)
87バーナード・グラスマン
(1939~)
88ハル・アーバン
(1940~)
89ダニエル・ゴールマン
(1946~)
90ヒラリー・クリントン
(1947~)
91マーク・ピータセン 92The Elementary of Style 93聖書(イザヤ書 四五・七) 94米国の研究者 95No coment 96シドニィ・シェルダン
97『Spoken American English Advanced Course』 98NHI入院規則 99English Proverbs 100前向き人間に共通する強力な12の原則 101ある校長の思い出


ヒポクラテス(紀元前5世紀)

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 ヒポクラテスは紀元前5世紀にエーゲ海のコス島に生まれたギリシャの医師で、それまでの呪術的医療と異なり、健康・病気を自然の現象と考え、科学に基づく医学の基礎を作ったことで「医学の祖」と称されている。彼の弟子たちによって編纂された「ヒポクラテス全集」には当時の最高峰であるギリシャ医学の姿が書き残されている。その中で、医師の職業倫理について書かれた宣誓文が「ヒポクラテスの誓い」であり、世界中の西洋医学教育において現代に至るまで語り継がれている。

 ヒポクラテスの誓い(訳:小川鼎三)

 医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に誓う。私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。

1.この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。

2.その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。

3.私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。

4.頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない。同様に婦人を流産に導く道具を与えない。

5.純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う。

6.結石を切りだすことは神かけてしない。それを業とするものに委せる。

7.いかなる患家を訪れる時もそれはただ病者を益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける。女と男、自由人と奴隷の違いを考慮しない。

8.医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。

9.この誓いを守りつづける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしこの誓いを破るならばその反対の運命をたまわりたい。

 この「誓い」は、二千年以上前の医療状況下で書かれたものであるので、一部の内容は現代に適さないものもあるが、多くは現在でも医療倫理の根幹を成している。患者の生命と健康保持のための医療を要とし、患者のプライバシー保護、医学教育における徒弟制度の重要性、専門職としての医師の尊厳など多岐にわたっている。「誓い」は弟子たちによって確実に継承され、日本でも江戸時代の蘭方医によって伝えられている。また医の倫理については緒方洪庵の「扶氏醫戒之略」、貝原益軒の「醫箴」や杉田玄白の「形影夜話」などには現代でも十分に通用する重みのある言葉で、医師としてのあるべき姿が明確に述べられている。

 ヒポクラテスの誓いを現代的な言葉で表したのがWMA(世界医師会)のジュネーブ宣言(1948年)である。

 ジュネーブ宣言

 医師として、生涯かけて、人類への奉仕の為にささげる、師に対して尊敬と感謝の気持ちを持ち続ける、良心と尊厳をもって医療に従事する、患者の健康を最優先のこととする、患者の秘密を厳守する、同僚の医師を兄弟とみなす、そして力の及ぶ限り、医師という職業の名誉と高潔な伝統を守り続けることを誓う

 近年、医学の発展とともに医療は高度に専門化、複雑化され、同時に患者主体の医療が提唱されるようになり、患者は自分の診断・治療・予後について完全で新しい情報を得る権利が生じた。患者側にも医療を受けるリスクが求められるが、医療側は患者に納得してもらうためには十分な情報提供が必要である。即ち、患者の人権、自己決定権の尊重、インフォームド・コンセントであり、時代の変遷とともに新しい倫理も生まれてきた。ヒトを対象にした医学研究の倫理的原則を示したヘルシンキ宣言(1964年)や、患者の権利に関するリスボン宣言(1981年)などである。

関連:ヒポクラテス

2016.03.16


プラトン(B.C.427~B.C.347)

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 「彼は何も知らないのに何かを知っていると信じており、これに反して、私は何も知りはしないが、知っているとも思っていない」:『ソクラテスの弁明』プラトン訳(岩波文庫)P.21

▼ソクラテスは或るとき、ひとりの政治家と会談したが、その政治家はいかにも賢人らしくみえ、自分でもそう思い込んでいるが、実際は決してそうでないということがソクラテスにわかった。つづいて以上の言葉が出てきて、それからソクラテス自身は、「少なくとも自ら知らぬことを知っていると思ったいない限りにおいて、あの男よりも知恵の上では少しばかりまさっているらしく思われる」と語っている。

参考1:プラトンはソクラテスの弟子でアリストテレスの師である。

参考2:『論語 為政第二』:子曰く、由やなんじに之を知るをおしええんか。之を知るをば之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。これ知れるなり。
 宮崎市定氏『論語の研究』によれば「知っていることと、知らないこととの限界をはっきり知ることが、凡てを知ったことにになる。これも千古不変の真理である。あらゆる学問の分野で、どこまで分かっているかが分かっている人であったらなら、その人が第一人者なのだ。 


「第七書簡」(長坂光一訳):藤田正勝『西田幾太郎――いきることと哲学』P.185より孫引き

 「それは、ほかの學問のようには、言葉で語りえないものであって、むしろ、〔教える者と学ぶ者とが〕生活を共にしながら、その問題の事柄を直接に取り上げて、数多く話し合いを重ねてゆくうちに、そこから、突如として、いわば飛び火によって点ぜられた燈火のように、〔学ぶ者の〕魂のうちに生じ、以後は、生じたそれ自身がそれ自体を養い育ててゆくという、そういう性質のものなのです」。2011.06.19写す。

2010.01.16


キケロ八木誠一・八木綾子訳(B.C.106~B.C.43)


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『老年の豊かさについて』 kikero.rounenn.jpg

 はしがき

 気がついたら老境に入っていた。気の早い友人はぼつぼつ旅立ちはじめ、からだの故障にいたつては、無いという人のほうが珍しい。かくいう私ども夫婦も、共に癌の経験者、いつまで二本足で歩いていられるか定かでない。よつて人並みに働けるうちに、なにか老境にふさわしい仕事をしてみようかと思い立ったのが、キケロ『老年論』の翻訳である。わが国はやがて世界有数の老人国になることだし、老年もさまざまに論じられていんる状況だから、この分野での古典の訳も、本邦初訳というわけではないけれど、まんざら無駄ではあるまいと考えたわけで、幸い法蔵館が出版を引き受けてくれた。

 キケロの『老年論』は、冒頭部分は別として、大変読みやすい著作だが、とにかく古典だから、現代への橋渡しが必要だし、編集部も、ほんとうに老年もなかなか捨てたものでないと思うなら、自分の老年論を書いてみろというから、それならばと乗ったのが「私の老年論」である。こんにちキケロを読む上で、なにかの参考になろうか。

 訳は、原意を損なわない範囲で、読みやすさ第一を心がけたが、説明もあった方がよかろうと、解説を巻頭に、簡単な注を章ごとに、人名・地名解説その他をまとめて巻末に、つけておいた。これらはいちいち参照しなくても十分通読可能だが、特に興味のある方はそのつど見ていただきたい。

 老年のたのしみなどとっくに知っているとおっしゃる方も多かろうが、暇な午後などの一時を、この訳で娯しんでいただけたら望外の幸せだし、またこの本は、若者によき老年を迎える準備をはやばやと説く面もあるので、奇特な若い人のためになればと願う次第である。

八木誠一(1932年生まれ)   綾子(1930年生まれ)


 老人はすることがないという通念に反論する

 老人には体力がないという通念に反論する

 老人には何の楽しみもないという通念に反論する

 老人には死が近いということについて

 キケロについて

 私の老年論


 あとがき 

 ラテン文学は、ギリシャ文学とは違い、あまり青年向きでないように思われる。情熱と冒険というよりは、経験と常識の産物で、華麗ではないが滋味があり、年配の人の静かな共感を呼ぶのである。本書もそういう意味で現代に語りかけ、読者を人生についての省察に誘うだろう。本書の出版については法蔵館社長の西村七兵衛氏、編集部の中嶋廣氏に大変お世話になり、感謝である。


 パウロはいう・コリント 4.16 「外なる人は朽ちてゆくが、内なる人は日々に新しい。」道元はこれを「ほとけのいのち」といった。『正法眼蔵』生死の巻。
*辻光文様の『いのちのかけら――生きているだけではいけませんか――』を読んで


 古代共和制ローマの政治家で雄弁家のキケロは、近代の啓蒙(けいもう)思想家に民主主義を象徴する人物のようにあがめられた。ただしこの古代の共和制は、票や役職が半ば公然と売買される金権政治であった

▲イタリアのジャーナリスト、モンタネッリの「ローマの歴史」によると、かのキケロも属州の役人になって今の6000万円に相当する私財を増やしている。だが当時の人々はその蓄財額が少ないとして彼を「清廉(せいれん)の士」と呼び、当人もそれを吹(ふい)聴(ちょう)して歩いたという

▲キケロの執政官選挙では参謀の弟から「あらゆるつながりを動員せよ」と指南された。支持者には当選したら必ず報いると訴え、恩恵を与えた人には貸しを返せと迫る。貴族には大衆迎合を否定し、大衆には愛想よく振る舞った。なりふり構わぬ売り込みで当選した

▲こんな故事を引いたのも、先日の甘利(あまり)明(あきら)氏の閣僚辞任記者会見で「いい人とだけつきあってては選挙に落ちる。来るものは拒まずじゃないと当選しない」との発言を聞いたからだ。自らが怪しげな金を受け取っておき、相手と選挙が悪いような物言いはいただけない

▲小紙の世論調査で甘利氏の金銭問題について「説明は不十分」という人が6割を超えたのは当然だろう。だが首相の任命責任は「重くない」が「重い」を上回り、内閣支持率はむしろ上昇した。くり返される政治とカネによる閣僚辞任にはもう慣れっこということか

▲共和制末期のローマの「清廉」を持ち出さずとも、「政治家なんてどだいそんなものだ」と見くびられては先行きが危うい。国民の政治不信も底が抜ける時があるのを政治家は心底恐れてほしい。

引用:余録 毎日新聞2016年2月2日 東京朝刊


セネカLucius Annaeus Seneca, ( B.C.55頃~A.C.40頃)


▼『人生の短さについて』(岩波文庫) seneka10.jpg

 一 われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。P.10

 二 「私は五十歳から暇な生活に退こう。六十歳になれば公務から解放されるだろう。」では、おたずねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか。君の計画どおり事が運ぶのを一体誰が許してくれるのか。P.15

 三 生きることは生涯をかけて学ぶべきことである。そして、おそらくそれ以上に不思議に思われるのであろうが、生涯をかけて学ぶべきは死ぬことである。P.22

 四 毎日毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。P.24

 五 髪が白いとか皺が寄っているといっても、その人が長く生きたと考える理由にはならない。長く生きたのではながく、長く有ったに過ぎない。P.25

 六 万人のうちで、英知に専念する者のみが暇のある人であり、このような者のみが生きていると言うべきである。P.42

 七 偶然に生じたものはすべて安定を欠き、また高く上ったものほど落ち易いからである。P.49

セネカ『わが死生観』

参考:この本は『人生の短さについて』(岩波文庫)と別の本である。

 「老人の中には、自分の年齢以外には長生きをしたことを証明できる証拠を何ひとつ持っていない者をしばしば見かける。」

 「Often a man who is very old in years has no evidence to prove that he has lived a long time more than his age.」

 「読書の楽しみのひとつは、感動した言葉や気に入った詩歌を『抜き書き』して、知的宝石箱を作ることにある。」

 「あなたのことを知りつくしていてもそのことを恐れる必要のない人。こんな人になりたい。」

 「自分は自分一人の占有物でないことを知っている者の目には、自分が貴重なものとして映るから、自分に課せられたすべての義務を誠実慎重に履行する。」

 「たいていの峰は遠くから見れば、とうてい登ることも越えることもできないほど険しく困難な道の果てにあるように思われる。ところがその同じ峰に少しずつ近づいていくと、次第に目が慣れ、いくつもの峰々が次第にひとつに見えてきて、遠目には絶壁と見えた峰がなだらかな斜面に思えてくるものだ。」

 「最初に踏ん張っておけば、あとは余勢で進んでいく。」

 「本当に無敵なものは、攻撃されないということではなくて、攻撃されても傷つかないということだ。」


セネカの言葉

 「出来るなら君は君のその職務からただちに引退したまえ。出来るなら、強引に身を引きはがせ! すでに十分以上の時を我々は浪費してきた。老年を迎えた今こそ、いつでも旅立てる用意を始めようではないか」

*平成15年10月16日(木)の朝日新聞の〈天声人語〉の一部より。


オウィディウス(B.C.43~A.C.17)


 (Publius Ovidius Naso, は古代ローマ、いわゆる「アウグストゥスの世紀」に生きた詩人。オヴィディウス、オーヴィッドとも呼ばれる。

 一 もし一年を通して太陽の日と雲の日とを数えてみれば、晴れた日の方が多かったということが分かるだろう。




ディオゲネス・ラエルティオス(B.C.3頃)(ギリシア哲学者列伝)


 一 結婚したほうがよいでしょうか、それとも、しないほうがよいでしょうかと訊ねられたとき、 「どちらにしても、君は後悔するだろう」と彼は答えた。


アウグスチヌス(354~430)


 悪人は皆、悪人であるかぎり憎まれ、人間であるかぎり愛されるべきである。私たちが悪人において正当に愛するも、すなわち人間の本性そのものを、罪悪からきよめ、解放するために、私たちが彼において正当に憎むもの、すなわち罪悪を、責めなければならない。それゆえ、敵を、彼における悪しきもの、すなわち不義のために憎み、彼における善なるもの、すなわち社会的、理性的存在者としての彼の本性のために愛することこそ、私たちが支持する主義なのである。

(マニ教徒ファウストゥスにたいする駁論)

この日(11月13日)北アフリカに生まれたキリスト教会最大の教父。彼の完成した正統的信仰は、中世哲学に決定的な影響を与えた。

*桑原武夫『一日一語』(岩波新書)より
2010.11.13:写之


聖フランシス(1182~1226)


 わが姉妹、鳥たちよ、神は汝らよ、神は汝らに好むがままにあらゆるところへ飛びゆく自由をあたえたまい…汝らは播かずまた刈らざれども、神は汝らに食をを与え、泉と流れに汝らの飲みものとしてあたえたまう。彼は汝らに山と谷をかくれ家としてあたえたまい、汝らと汝らの幼きものたちに衣をきせたまう。それ故に、わが姉妹よ、心して忘恩の罪を犯さず、つねに神をたたえまつれ。

(小さき花―小鳥への説教)

この日(1226年10月3日)死んだ中世イタリア修道僧。若いころ放蕩したが、宗教的回心をへて、愛と清貧を旨とする托鉢僧団を創始した。

*桑原武夫『一日一語』(岩波新書)より
2010.11.04:写之


ダンテ(1265~1321)

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▼『神曲』

 まわれ、山腹の高さ、私の目路(めじ)をはるかに越えておりまする。」

答えて、師、私に。「この山は、裾の登りはじめこそ難儀なれど、登るにつれて、苦労が減るようになっている。

 されば、身も心もうらうらと楽しく、登るのが、船で流れを下るほど気楽に思われてくる時が、すなわちこの難路の終わりぞ、そこへ着けば、君の疲れも存分に癒されよう。これ以上、私は答えぬ。このこと、偽りでない。」

*「集英社」出版:寿岳文章訳「煉獄篇、第四歌」P.203より


エル・グレコ(1514~1614)ギリシャの出身


 大原美術館所蔵:エル・グレコ「受胎告知」が見られます。

 Googleから「エル・グレコ」を検索。その項目の画像を見ると、エル・グレコの多くの作品並びに大原美術館を見ることができます。

▼珠玉の名品一挙公開 特別展「大原BEST」開幕 倉敷
倉敷市中央、大原美術館の創立80周年を記念した特別展「大原BEST」(同美術館主催、山陽新聞社共催)が14日、同美術館で開幕した。12月5日まで。

平成二十二年十月二十六日


モンテーニュ(1533~1592)フランスの思想家


 一 各人はその考え次第で幸福にもなり、不幸にもなる。他人が見てそう思う人ではなく、自分がそう思う人が満足なのである。

 二 自説に固執し、夢中になることは、愚鈍さの最も確かな証拠である。


シェクスピア(1564~1616)


▼『お気に召すまま』

 一 君、時というものは、それぞれの人間によって、それぞれの速さで走るものなのだよ。

 過ぎてかえらぬ不幸をくやむのは、更に不幸を招く近道である。(出典不明)2011/02/15


ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)


 一 それでも地球は動いている。


ラ・ロシュフーコー(1613~1680) フランスの貴族、モラリストの文学者

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▼『ラ・ロシュフコー箴言集』 (岩波文庫)1998.06.02購入

 われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない

 1  われわれが美徳と思いこんでいるものは、往々にして、さまざまな行為とさまざまな欲の寄せ集めに過ぎない。それを運命とか人間の才覚とかがうまく按配してみせるのである。だから男が豪胆であったり、女が貞淑であったりするのは、かならずしも豪胆や貞淑のせいではないのでしょう。

 2  自己愛こそはあらゆる阿諛追従の徒の中の最たるものである。

 4  自己愛は天下一の遣り手をも凌ぐ遣り手である。

 19 われわれは皆、他人の不幸には充分耐えられるだけの強さを持っている。

 22 哲学は過去の不幸と未来の不幸をたやすく克服する。しかし現在の不幸は哲学を克服する。
*現在の所謂評論家を哲学に入れ替えて考えると。

 26 太陽も死もじっと見詰めることは出来ない。

 44 精神の強さとか弱さとかいうのは当を得ない言い方だ。それが実は肉体の諸器官の状態の良し悪しに過ぎないからである。

 48 みちたりた仕合わせは好みの中に存在するので、事物の中にあるのではない。だから人は自分の好きなものを得ることによって幸福になるので、他人が好ましく思うものを得るからではないのだ。

 49 人は決して自分が思うほど幸福でも不幸でもない。

*他人も自分が思うほど幸福でない。柳田邦夫氏の子供も自殺を企てている。そのとき奥さんには知らせないで病院に連れていっている。大江健三郎氏もご子息は知的障害者と聞いているが、音楽の才能は与えられているといわれている。

 53 自然がいかに傑出した天分を与えるにしても、英雄を作るのは自然だけではなく、運命が自然と協力して作るのである。

*運命が作った英雄を何人か知っている。戦時中の将軍など。

 61 人間の幸不幸は、運命に左右されると共に、それに劣らず気質に左右される。

 89 誰も彼もが自分の記憶力を慨嘆し、誰一人として自分の判断力を慨嘆しない。

 93 年寄りは、悪い手本をしめすことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。

 109 若者は血気に逸って好みを変え、老人は惰性で好みを墨守する。

 137 虚栄心が喋らせない時人は寡黙になる。

 139 会話をかわしてみて思慮深くて感じがよいと思われる人が、これほど寥々たる有様になっているのは、ひとつには、言われたことにきちんと返事することより自分の言いたいことばかりを考える人でない人が、ほとんどいないためである。最も頭がよく、最も愛想のよい連中でも、熱心に聞いている顔をして見せるだけで事足れりとするのだが、その時彼らの目つきや頭の中にある、こちらの言うことに対する上の空の気持ちと、自分の言いたいことに話を戻したがっている焦燥が、ありあり見てとれるのである。そんなふうに自分を喜ばせることばかり求めるのは、他人を喜ばせ、もしくは説得するためには拙策であり、よく聞きよく答えることこそ人が会話の中に見出し得る最大の妙味の一つであることを、彼らは考えようとしないのである。

*私にもあてはまる。注意しなければ。

 193 体の病気と同じように心の病気にもぶりかえしがある。われわれが全快だと思いこむのは、たいてい、ひとしきり落ちついた状態か、または病状の変化に過ぎない。

 197 その人の悪行をこの目で見ないうちは悪いことをするとは信じられない人はいる。しかし、悪行を見てこの人がこんなことをと驚かずにいられないような人は一人もいない。
参考:近所の人の犯罪を知った人があの人が「まさか?」と言う。

 201 誰の助けも借りずに一人でやっていく力が自分にはある、と信じる人は、ひどい思い違いをしている。しかし、自分なしには世の中はやっていけない、と信じる人は、なおさらひどい思い違いをしている。

 211 ひとしきりしか歌われないはやり唄にそっくりの輩がいる。

 212 大部分の人は羽振りや地位によってしか人間を判断しない。

 226 あまりにも急いで恩返しをしたがるのは、一種の恩知らずである。

 249 声の調子や目や表情には、言葉の選び方に劣らぬ雄弁がある。
参考:諺に「目は心の窓」がある。

 251 短所でひき立つ人もいれば、長所で見劣りのする人もいる。

 273 社交界ではもてはやされているが、およそ取り柄としては世渡りに役立つ悪徳しか持ち合わせない輩がいる。

 283 他人のよい忠告を身のこやしにするのは、時として正しく自戒するのにも劣らぬ怜悧さがあってこそできることである。

 285 大度(マニヤニミテ)とは、読んで字のごとく、それだけで充分な定義になっている。だが、こんなふうに言うこともできるのではないか、大度とは自負心の良識であり、人びとの賞賛を受けるための最も高貴な道である、と。

 288 ある時期に薬を用いるとかえって悪くなる事態や病気がある。だから大知たいちは、いつ薬を使うと危険なのかを心得るところにある。

 ・たいど【大度】度量の大きいこと。心の広いこと。大度量。大量。

 ・たいち【大知・大智】大きな智恵。ひどくすぐれた智恵。ごく賢いこと。

 以上、『広辞苑』に出ていた。

 361 嫉妬はつねに愛と共に生まれるが、必ずしも愛とともに死なない。

 405 われわれは生涯のさまざまな年齢にまったくの新参者としてたどり着く。だから、多くの場合、いくら年をとっていても、その年齢においては経験不足なのである。

感想:最近、いつも、知人にこの言葉に似た言葉を使っています。体調の変化、読書などでも分からないことが多くあります。更に、交友関係についても経験不足な場面に遭遇します。

 真の苦労は人目につかないものである。目に見える苦労は虚栄心をもっていれば簡単にできる。(或るメールから)

2008.7.24


パスカル(1623~1662)


 一 知るべきことが大海ほどあるのならば、全人類の知識はその一滴かも如(し)かない。


ヴォルテール(1694~1778)

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 この非道なくわだて〔戦争〕における奇妙な点は、人殺しの首領が、それぞれ隣国を皆殺しに出かける前に自分の軍隊を祝福し、おごそかに神に祈るのである。もし首領が二、三千の人間を殺させるという幸運しかつかめなければ、彼は紙に感謝しない。だが、約一万の人間が鉄火によって皆殺しされ、さらに恵まれて、ある都市が完全に破壊されたときは、かなり長い歌が、四方八方で歌われる。……それと同じ歌が、殺人のためと同様に、結婚や誕生のために役立つのである。これこそ許しがたいことである。

11月21日パリに生まれた。フランスの啓蒙主義の代表的な哲学者、文学者。ヒューマニズムの立場から、するどい皮肉で、社会の悪と戦った。『カンディド

(『哲学辞典』の項目「戦争」)

桑原武夫編『一 日 一 語』(岩波新書)による。

2010.11.21


フランクリン(1706~1790)


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 ボストンの蝋燭屋に生まれたフランクリンは、小学校を出ただけで一二のときには兄の印刷屋へ丁稚働きに出た。しかし意見が合わぬため彼はフィラデルフィアで自ら印刷屋を開き新聞を発行して大活躍する。彼は多くの書物を読み、常識を武器に、何ごとにも成功して輝かしい名を残したが、その生涯を自分の子供にあてて書こうとしたものが『フランクリン自伝』である。彼の生活信条、すなわち彼の宗教というものは十三徳を実行することであり、それを実践すれば幸福な生活が送れるという現実的なものであった。

 「時は金なり」といったのも彼であり、タコを揚げて雷が電気であることを証明したのも彼だった。一八世紀アメリカを代表する人物であるのみならず、その後のアメリカの思想の行きかたを示した点で重要人物である。

 『フランクリン自伝』( 岩波文庫)にかれが徳を樹立するためにまたその戒律・方法についてP.114~P.149 に述べられている。紹介いたします。

 その徳の名称および戒律は十三徳樹立で下記の通りである。

 第 一 節制 飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。

 第 二 沈黙 自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。

 第 三 規律 物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。

 第 四 決断 なすべきことをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。

 第 五 節約 自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。

 第 六 勤勉 時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。

 第 七 誠実 詐(いつわ)りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公平に保つべし。口に出だすこともまた然るべし。

 第 八 正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずして損害を及ぼすべからず。

 第 九 中庸 極端を避くばし。たとえ不法を受け、憤りに値すると思うとも、激怒を慎しむべし。

 第 十 清潔 身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。

 第十一 平静 小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。

 第十二 純潔 性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これに耽りて頭脳を鈍(にぶ)らせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときあるべからず。

 第十三 謙譲、イエスおよびソクラテスに見習うべし。  

 私はこれらの徳がみな習慣ヽヽになるようにしたいと思ったので、同時に全部を散漫にさせるようなことはしないで、一定の期間どれか一つに注意を集中させ、その徳が習得できたら、その時初めて他の徳に移り、こうして十三の徳をを次々に身につけるようにして行ったほうがよいと考えた。またある一つの徳をさきに修得しておけば、他のいずれかの徳を修得するのが容易になろうとおもったので、私は上に挙げたような順序に徳を並べたのである。(以下省略)

*彼は小さな手帳を作り、それぞれの徳目に一ページずつ割り当てた。それに実行の状態をかきこむことをしている。

2008.03.08 初めて書く。2012.04.20 追加補正。


ワシントン(1732~1799)


 アメリカ人民が自由人となるか、それとも奴隷となるかを、そしてアメリカ人民が、自分自身のもの呼びうる財産をもちうるかを、おそらく決定すべき時がいま目前にせまっている。……これから生まれてくる幾百万の人びとの運命が、神の加護のもと、いまこの一軍の勇気と行動とにかかっている。残酷かつ無慈悲な敵軍に直面して、われわれの選ぶべき道は、勇敢な抵抗のみであり、しからずんばもっとも卑しい屈従しかない。ゆえにわれわれは、勝利かそれとも死か、と決意せねばならない。(独立宣言直後ロング・アイランドの戦闘を前にしての軍への布告

2月22日アメリカのヴァージニアに生まれる。軍総司令官として独立戦争を指導して勝利を得、のち合衆国成立にあたり初代大統領となった。孤立外交を強調した。

桑原武夫編『一 日 一 語』(岩波新書)による。

20.02.22


ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)(1749~1832)

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▼ゲーテ格言集(高橋健二 編訳)(新潮文庫)

   人間と人間性についてP.20

 一 人間は、なんと知ることの早く、おこなうことの遅い生き物だろう!(「イタリア紀行」ナポリ、一七八七三月一七日、から)P.20

2008.6.12

   行動についてP.79

 一 自由に呼吸するというだけでは生きているとは言えません。
…………………………………
役に立たない生活は早い死です。(「イフィゲー」第一幕第二場から)P.79

2008.6.13

 二 気分がどうのこうのと言って、なんになりますか。

 三 ぐずぐずしている人間に気分なんかわきゃしません。

…………………………………

 四 きょうできないようなら、あすもだめです。

 五 一日だって、むだにすごしてはいけません。(「ファスト」劇場の前戯、二一八-二二六行)P.81

   自我と自由と節度についてP.122   

 年をとればとるほど、人は活動しようと思うなら、一層自分を制限しなければなりません。気をつけないと、色々の縁のうすいことに気をとられて、ただ興味や批評を事として、精神と肉体の力を空しく雲散霧消させてしまいます。(ツェルターへ、一八一五年)P.127

 人は少ししか知らぬ場合にのみ、知っているなどと言えるのです。多く知るにつれ、次第に疑いが生じて来るのです。(ツェルターへ、一八二八年)P.130

 すべての人間が、自由を得るや、その欠点を発揮する。強い者は度を超え、弱い者は怠ける。(「格言と反省」から)P.133

   経験の教えP.163

 虹だって十五分も続いたら、人はもう見むかない。(「格言と反省」から)P.163   

 目標に近づくほど、困難は増大する。(「親和力」第二部第五章から)P.164
*研究している者から、直接に教えられた。

   生活の知恵P.185

 半時間ぐらいでは何もできないと考えているより、、世の中の一番つまらぬことでもする方がまさっている。(「格言と反省」から)P.188

 気持ちよい生活を作ろうとおもったら、済んだことをくよくよせぬこと、 滅多なことに腹を立てぬこと、いつも現在を楽しむこと、 とりわけ、人を憎まぬこと、 未来を神にまかせること。(「警句的」から)P.192 

2008.5.27

 三 すべての人間が、自由を得るや、その欠点を発揮する。強い者は度を超え、弱い者は怠ける。(「格言と反省から)

2008.11.13

   身 辺 雑 感P.176

    人はみな、わかることだけ聞いている。(「格言と反省」から)P.176

2008.05.27


『亀井勝一郎人生論集』より

 「人間は努力しているあいだは、迷うにきまったものだ」

 「努めてやまないものは救われる」

ゲーテ「ファウスト」

 世の中には、あいまいなもの、いいかげんなことが実におおい。自分たちをふりかえってみてもそうだ。何かをごまかして生きている場合が多い。それを厳しく見つめてみることだ。茫然とするほど困ることが多いにちがいない。しかしそれが人間の成長している証拠だ。成長が止まったら、疑うことも、迷いも、苦しみもなくなるだろう。そうなったら、若くても老人と同じではなかろうか。精神的老衰をおそれなければならない。真の長命とは、未解決の問題を背負って生きぬいていくことである。自己満足は精神の最大の敵である。 

2010.01.17 

 


アルトゥール ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer )(1788~1860)ドイツの哲学者


 ドイツの哲学者。真の実在は盲目的な生存意志であるとし、個々の人間の中に意志として現れ、盲目的意志の衝突が相継ぐ結果、苦痛に満ちた人生を送らざるを得ないという厭世哲学を主張。この苦痛から解脱する道は、芸術活動に専心して個体の意志を克服するか、個体はすべて同一の形而上学的本質をもつ意志であると自覚し、他人の苦痛への同情を根拠として倫理的に解脱するか、のどちらかであるとした。主著「意志と表象としての世界」。


一 読書している時は、われわれの脳はすでに自分の活動場所ではない。それは他人の思想の戦場である

二 読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるに過ぎない。

三 知は力なり……とんでもない!きわめて多くの知識を身につけていても、少しも力を持っていない人もあるし、逆になけなしの知識しかなくても最高の威力を振るう人もある。

四 知識欲は、普遍的なものへ向かうときには学究心と呼ばれ、個別的なものへ向かうときは好奇心と呼ばれる。

五 孤独は、すぐれた精神の持ち主の運命である。

六 我々の肉体が衣服に包まれているように、われわれの精神は虚偽に包まれている。

七 われわれの人生の場景は粗いモザイクの絵に似ている。この絵を美しいと見るためには、それから遠く離れている必要がある。 間近にいてはそれは何の印象も与えない。

八 人は通常、金を貸すことを断ることによって友を失わず、金を貸すことによってたやすく友を失う。

九 全ての享楽と、全ての幸福とは消極的なものだが、苦労は積極的なものだ。

十 人間の幸福の敵は、苦痛と退屈である。

十一 推理する能力を持っている人はたくさんいるが、判断する能力を持っている人は少ししかいない。

十二 紙上に書かれた思想は、砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。

十三 人の社交本能も、その根本は何も直接的な本能ではない。つまり社交を愛するからでなく、孤独が恐ろしいからである。

十四 富は海水に似ている。飲めば飲むほど喉が渇く。名声についても同じことが当てはまる

十五 老年の歳月における人生は、悲劇の第五幕に似ている。人間は悲劇的な最後が近いことは知っているが、それがいかなるものであるかは知らない。

十六 人生というものは通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ちの連続にほかならない。

2010.01.03、2011/03/01、2011/04/22追加

 


バイロン(George Gordon Byron)(1788~1824)


 一 人に施したる利益を記憶するなかれ、人より受けたる恩恵は忘るるなかれ。


ハイネ(1797~1856)


 私は進歩を信ずる。人類が完全な幸福にいたるべき運命をもっていることを信ずる、それゆえ、神が人間をただ苦しめるために創り出したと妄想している信心家たちより、自分は、はるかに神について大きな考えをもっている。最後の審判の日になってはじめて天井にあらわれる、と信心家どものいうあの極楽の状態を、自由な政治と産業の設備のめぐみによって、この地上に打ちたてたいと思うのである。

12月13日ドイツのデュセルドルフに生まれた。甘美な恋愛詩にすぐれると同時に、また人類の進歩と祖国愛にもえる革命的詩人だった

桑原武夫編『一 日 一 語』(岩波新書)による。

22.12.13




トーマス・カーライルのエピソード

トーマス・カーライル(1795~1881)(英:歴史家.思想家):「衣装哲学」などあり。


 トーマス・カーライルのエピソード
『後生への最大遺物』内村鑑三著 岩波文庫 p56 より

 カーライルがこの書を著わすのは彼にとっては、ほとんど一生涯の仕事であった。チヨット『革命史』を見まするならば、このくらいの本は誰にでも書けるだろうと思うほどの本であります。けれども歴史的の研究を凝らし、広く材料を集めて成った本でありまして、実にカーライルが生涯の血を絞って書いた本であります。

それで何十年ですか忘れましたが、何十年かかかってようやく自分の望みのとおりの本が書けた。それからしてその本が原稿になってこれを罫紙に書いてしまった。それからしてこれはモウじきに出版するときがくるだろうと思って待っておった。

▼そのときに友人が来ましてカーライルに遇ったところが、カーライルがその話をしたら「実に結構な書物だ、今晩一読を許してもらいたい」といった。そのときにカーライルは自分の書いたものはつまらないものだと思って人の批評を仰ぎたいと思ったから、貸してやった。貸してやるとその友人はこれを家へ持っていった。そうすると友人の友人がやってきて、これを手に取って読んでみて、「これは面白い本だ、一つドゥゾ今晩私に読ましてくれ」といった。ソコで友人がいうには「明日の朝早く持ってこい、そうすれば貸してやる」といって貸してやったら、その人はまたこれをその家へ持っていって一所懸命に読んで、暁方まで読んだところが、あしたの事業に妨げがあるというので、その本をば机の上に抛り放して床について自分は寝入ってしまった。

▼そうすると翌朝彼の起きない前に下女がやってきて、家の主人が起きる前にストーブに火をたきつけようと思って、ご承知のとおり西洋では紙をコッバの代りに用いてクべますから、何か好い反古はないかと思って調べたところが机の前に書いたものがだいぶひろがっていたから、これは好いものと思って、それをみな丸めてストーブのなかへ入れて火をつけて焼いてしまった。カーライルの何十年ほどかかった『革命史』を焼いてしまった。時計の三分か四分の間に煙となってしまった。それで友人がこのことを聞いて非常に驚いた。

▼何ともいうことができない。ほかのものであるならば、紙幣を焼いたならば紙幣を償うことができる、家を焼いたならば家を建ててやることもできる、しかしながら思想の凝って成ったもの、熱血を注いで何十年かかって書いたものを焼いてしまったのは償いようがない。死んだものはモウ活き帰らない。それがために腹を切ったところが、それまでであります。それで友人に話したところが、友人も実にドウすることもできないで一週間黙っておった。何といってよいかわからぬ。ドウモ仕方がないから、そのことをカーライルにいった。

▼そのときにカ-ライルは十日ばかりぼんやりとして何もしなかったということであります。さすがのカーライルもそうであったろうと思います。それで腹が立った。ずいぶん短気の人でありましたから、非常に腹を立てた。彼はそのときは歴史などは抛りぽかして何にもならないつまらない小説を読んだそうです。しかしながらその間に己で己に帰っていうに「トーマス・カーライルよ、汝は愚人である、汝の書いた『革命史』はソンナに貴いものではない、第一に貴いのは汝がこの艱難に忍んでそうしてふたたび筆を執ってそれを書き直すことである、それが汝の本当にエライところである、実にそのことについて失望するような人間が書いた『革命史』を社会に出しても役に立たぬ、それゆえにモウ一度書き直せ」といって自分で自分を鼓舞して、ふたたび筆を執って書いた。

その話はそれだけの話です。しかしわれわれはそのときのカーライルの心中にはいったときには実に推察の情溢るるばかりであります。カーライルのエライことは『革命史』という本のためにではなくして、火にて焼かれたものをふたたび書き直したということである。もしあるいはその本が遺っておらずとも、彼は実に後世への非常の遺物を遺したのであります。たといわれわれがイクラやりそこなってもイクラ不運にあっても、そのときに力を回復して、われわれの事業を捨ててはならぬ、勇気を起してふたたびそれに取りかからなければならぬ、という心を起してくれたことについて、カーライルは非常な遺物を遺してくれた人ではないか。

参考:トーマス・カーライルの言葉

 「一度でも心から、全身全霊をもって笑ったことのある人間は、救いがたいほどの悪者にはなりえない」 

 「雄弁は銀、沈黙は金」

 「健康な人は自分の健康に気がつかない。病人だけが健康を知っている」

2012.10.16


フランツ・ピーター・シューベルト(Franz Peter Shubert)(1797~1828)

▼菩提樹

菩提樹


 「泉にそいて茂る菩提樹

 慕い行きては、うまし夢見つ

 幹にはえりぬ、ゆかしことば

 うれし悲しに、といしその影」

近藤朔風の歌詞である。

 ドイツ語の歌詞は下記のようになっている。

 Am Brunnen vor dem Tore,
 da steht ein Lindenbaum,
 ich träumt' in seinem Schatten
 so manchen süßen Traum.
 Ich schnitt' in seine Rinde  so manches liebe Wort;
 es zog in Freud' und Leide
 zu ihm mich immer fort,
 zu ihm mich immer fort.
 シューベルトの作曲した有名なドイツの歌に「菩提樹」がある。

 学生のころ友人と肩を組み、ドイツ語を学ぶ嬉しさと青春を謳歌したのが昨日のようです。

2008.4.19

※2015.06.04:菩提樹 の音声を追加しました。歌ってお楽しみください。

 




ダーウィン(1809~1882)


 これほど多くの証拠があっては、人類と他の動物とが共通のものから進化したものであることを、どうしても認めざるをえない。この断定に異義をとなえるものは、もっぱら私たちの生来の偏見と、また私たちの先祖が神に近いものから出たととなえた慢心のためである。けれども、人類と他の哺乳類との体制や発育を熟知する博物学者でありながら、なお、それらがおのおの別々に創造されたと信じたのは、実にふしぎなことだ、と考えられる時代が来るのも遠くはなかろう。(人類の由来

4月19日死んだイギリスの博物学者。実証的に進化論を唱え、宗教家の反対にもかかわらず、以後の思想界に決邸的影響を与えた。

 桑原武夫編『一日一語』―人類の知恵―(岩波文庫)


 一、最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である。




アブラハム・リンカン(1809~1865)


 ...government of the people, by the people, and for the people shall not perish from the earth.

 この文はリンカーンの、ゲティスバーグ演説(The Gettysburg Address)からの引用で、民主主義の本質を簡潔に述べた有名な言葉。1863年11月19日、アメリカ南北線の終わりに近く、北軍の勝利を明白にしたゲティスバーグ会戦のあとにおこなわれた戦死者を葬る国立墓地の開所式でリンカンが行った短い演説、わずか二分間でこの言葉と共に終わった。government に of と by と for を続けた構文が非常に有名だが、これはリンカンの独創ではなく、以前にも数名の政治家によって使われいる。

 リンカンの人間の自由についての名言をもう一つ紹介しておく。

 As I would not be a slave, so I would not be a master. This expresses my idea of democracy.
(私は奴隷になりたくない。だから奴隷を使う身にもなりたくない。これが私の民主主義観を表明するものだ)

参考:アメリカ合衆国の第16代大統領。

 「英語で読む 英知とユーモア」(丸善ライブラリー)P.103

2008.07.05


 大統領になれた陰には、彼の顔と夫人が、大きく影響している。まず、顔であるが、頬髯を生やした顔は、ワシントンからブッシュにいたるアメリカの四十一人の大統領のなかで、最も「いい顔」ではなかろうか。

 彼は、磁石のように人を惹きつける顔の持ち主であったようである。そして、「四十歳を過ぎたら、人間は自分の顔に責任を持たねばならぬ」、ともいっています。

 リーダーシップという点について言えば、おそらくリンカーンはもっともこれに欠けていた大統領だと言っていい。ある人は「リンカーンは小心翼々、優柔不断、頭脳なき大統領だ」と言い、閣僚たちはほとんど全員、リンカーンよりも自分たちのほうがすぐれていると思っていたようだ。共和党の大統領候補の本命と目されながら、土壇場でリンカーンに逆転され、国務長官として入閣したスワードなどは、リンカーンを自分のロボットと見なしていたほどである。こういう閣僚にかこまれていては、リーダーシップを発揮できるわけがない。また、南北戦争では、北軍が圧倒的な戦力を持ちながら、なかなか戦局を好転できずに長期戦に突入したのは、ひとえに、大統領が思いどおりに将校たちを動かすことができなかったからだった。北軍の総司令官は三年間に五人も交代されたが、最初の司令官などは、大統領からたびかさなる進撃の指令を受けながら、これを無視し続けたほどだった。

 リーダーシップを発揮できなかったのは、確固たる方針や政策がなかったからである。大統領就任直後、リンカーンが秘書にさりげなく発した「わしの政策は政策のないことだ」という言葉が伝えられている。これはたまたま大統領の口からこぼれ落ちた失言といったものではなく、実は、真意の表明にほかならないことは、何人もの人が同じようなことを耳にしていることからもわかる。

 奴隷制度そのものについての考え方も、一般に考えられているほど確固たるものではなかった。「私は奴隷になりたくないと同様に、主人にもなりたくない。これが私の民主主義だ」というリンカーンのよく知られた言葉から、彼を奴隷制度廃止論者だったと考えるのは、早合点の誤解である。彼は奴隷制度は害悪だと考え、奴隷制度を公認していた南部諸州の外への拡大に反対していたにすぎないのである。奴隷制度をめぐる当時の論争の焦点は、その廃止ではなく、その拡大を阻止するかどうかというところにあった。最初の大統領就任演説で、リンカーンは、南部で行われている奴隷制度に干渉する意図がないことを明言しているのである。奴隷制度廃止論者から見れば新しい大統領は「日和見主義者」であり、奴隷制度を支持する民主党員にとっては油断のできない相手だと思われていたというのが実際のところなのである。

 こう見てくると、リンカーンはアメリカを動かしたのではなく、アメリカがリンカーンを動かしたのだということがわかってくる。あの顔写真にうかがえる、何か毅然たる雰囲気とは裏腹に、彼は意志と目的に欠けた政治家であって、そうであればこそ、世論の動向にあわせて舵取りせざるをえなかったのである。「人民の、人民による、人民のための政治」という有名な言葉も、実は、何か高遠な政治哲学から出たものではなく、彼のこうしたパーソナリティから生れた実感だったのではないかと思われるのである。

 デモクラシーとは、民衆(デモス)が支配する政治ということであるが、別の言い方をすれば支配者が民衆によって動かされるということでもある。そういう意味では、自分の政策を持たないリンカーンは、典型的なデモクラシーの政治家だと言っていいが、ここで曲者は、「民衆」とか「人民」あるいは「国民」といったものの正体である。現代の日本では、政治家が「民意」に従ってこれこれのことをした、と言っても、それをすなおに信じる人はほとんどいないだろう。

 しかし、この点では、リンカーンには疑念をさしはさむ余地はほとんどない。同時代のある人は、リンカーンについて「救いがたき正直者」と言っているが、これはおそらく、悪い誘惑に乗ろうとしない大統領の潔癖さを嘆いたものにちがいない。そのために彼は敵をつくりもしたであろうが、彼を動かした原動力たる「人民」のあいだには味方を持つことになったはずである。彼には、貴重な「常識」と「正気」があった。

 彼は先例を破って。ホワイトハウスの門戸を開き、誰彼の差別なく人びとに会い、直接その訴えを聞くようにしたが、こんなことはもはや現代の大統領や総理大臣にはとうてい考えられないことである。そんなことができたのは、当時のアメリカという国が「小さな国家」だったからだという見方もあるが(人口は、約三千万人だった)、支配者と「人民」との距離は国の大小にはそれほど関係がない。どんな小国や小組織にも「人民の声」に耳を傾けようとしない難聴の専制君主がいるものである。

 ここで、妻メアリー夫人のことにふれておこう。夫人は、悪妻の典型であったと言われている。例えば、彼女の絶え間ない怒鳴り声が遠くからも聞こえ、ほうきの柄で夫を追いかけているところを多くの人が目撃しており、ときにリンカーは、事務所に遅くまで残ったり、友人の家に泊まったりしたという。のちに、大統領夫人としてホワイトハウスに乗り込んでからも、妻の横暴は続き、リンカーンはひたすらこれを「キリストのように」耐えた。ある人は、リンカーンの最大の悲劇は、暗殺ではなく結婚だった、とまで言うほどだ。

 しかし、同時に、リンカーンはこの悪妻と結婚しなかったら、大統領にはなれなかっただろうと主張する人もいる。メアリー夫人は、かねてから、アメリカ大統領になる男と結婚するという夢を抱いて、それを公言してはばからない野心的な女性だったのである。当時、大統領の最有力候補と目されていたある議員と結婚することを彼女はたくらんでいたのであるが、その野望を断たれたために、腹いせにその議員のライバルであるリンカーンとの結婚を選んだというのが真相である。しかし、彼女は一縷の望みも捨てることなく、夫を大統領にするために叱咤激励、鼓舞奮励したのであろう。ソクラテスは、悪妻を持てば君は哲学者になれるといった意味のことを言っているが、リンカーンにとって、ホワイトハウスへ至るにはどうしても悪妻という道を避けるわけにはいかなかったのである。そういう意味では、世に言うところの悪妻もそれほど悪いものではないことがわかる。

 リンカーンを「不滅の人」あるいは「偉人」と呼ぶことができるとしたら、それはいったいどんな点からだろうか。リンカーンは「デモクラシーの体現者」だと前にも述べたが、人々の声の代弁者という、政治家としてしごく当然なことにやはり彼の偉大さがあったと思われる。私欲と権利とを代弁することしか知らない政治家や偽善のかぎりを尽くしている昨今の政治シーンからながめるとき、リンカーンはいかにも正直者で、無邪気な政治家に見えるかも知れない。しかし、私にはあのリンカーンの顔は、現代の腐敗堕落した政治家を顔に見えてしかたがないのである。

*[ゲティスバーグ演説 (1863年) 在日米国大使館]

 87年前、われわれの父祖たちは、自由の精神にはぐくまれ、人はみな平等に創られているという信条にささげられた新しい国家を、この大陸に誕生させた。

 今われわれは、一大内戦のさなかにあり、戦うことにより、自由の精神をはぐくみ、自由の心情にささげられたこの国家が、或いは、このようなあらゆる国家が、長く存続することは可能なのかどうかを試しているわけである。われわれはそのような戦争に一大激戦の地で、相会している。われわれはこの国家が生き永らえるようにと、ここで生命を捧げた人々の最後の安息の場所として、この戦場の一部をささげるためにやって来た。われわれがそうすることは、まことに適切であり好ましいことである。

 しかし、さらに大きな意味で、われわれは、この土地をささげることはできない。清めささげることもできない。聖別することもできない。足すことも引くこともできない、われわれの貧弱な力をはるかに超越し、生き残った者、戦死した者とを問わず、ここで闘った勇敢な人々がすでに、この土地を清めささげているからである。世界は、われわれがここで述べることに、さして注意を払わず、長く記憶にとどめることもないだろう。しかし、彼らがここで成した事を決して忘れ去ることはできない。ここで戦った人々が気高くもここまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここでささげるべきは、むしろ生きているわれわれなのである。われわれの目の前に残された偉大な事業にここで身をささげるべきは、むしろわれわれ自身なのである。―それは、名誉ある戦死者たちが、最後の全力を尽くして身命をささげた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで、われわれが一層の献身を決意することであり、これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することである。

2015.10.12




ミレー:Jean-François Millet(1809~1865)

 他人を感動させようとするなら、まず自分が感動せねばならない。そうでなければ、いかに巧みな作品でも、決して生命はない。

 芸術はなぐさみのあそびではない。それは戦いであり、ものをかみつぶす歯車の機械である。

 美は表現だ。もし自分が母というものを描く場合なら、母が子供をじっと見ているところをとらえて、どうかして美しく、単純に描こうとするだろう。 (カートライト著『ミレー芸術史』)

 バルビン派と呼ばれる自然主義画家。みずから農業に従事しながら、農民生活や農民を描いた。『晩鐘』『落穂拾い』など。

*桑原武夫編『一日一語』より。

2010.06.18




ツルゲーネフ(1818~1865)ロシアの小説家


 幸せでありたいというのか。まず苦悩することを覚えよ。

*多くの名言があります。また『猟人日記』などの小説あり。

2011.01.27

              




ボードレール(1821~1867)


 詩の天職こそ偉大である!
 陽気なものにせよ、悲しげなものにせよ、つねに詩は自らのうちに、理想を追う神のごとき性格をもっている。詩は事実に異をたてることを止めない。さもなくば亡びるの他はないのだ。牢獄で、詩は暴動となる。病院の窓辺で、詩は平癒の燃ゆる希望だ。いたんだ不潔な屋根裏の部屋で、詩は仙女のように、豪奢に優雅に身をかざる。詩はたんに確認するだけではない、たてなおすのだ。どこでも詩は不正の否定となる。 (『ビェ-ル・デニポン詩歌集』への序)

 この日死んだフランスの詩人。『悪の花』一巻によって近代詩の開祖となった。象徴主義の先駆者。評論にも独特のするどさを示した。

*桑原武夫編『一日一語』より。

2010.08.31


アミエル(1821~1881)


 習 慣          

 生きてゆくためには、習慣は格言以上の働きをするものである。習慣は本能となり肉となって生きた格言であるからだ。自分の格言を改めるだけでは何にもならない。それは本の表題を変えるようなものだ。新しい習慣をつけるとういうことがすべてである。なぜならばそれではじめてほんとうの生活へと到達することになるからだ。人生は習慣の織物にほかならない

原本:アミエル「人生について」――日記抄―― 土井寛之 訳(白水社)P.61

参考1:安岡正篤さんは次のように説明されている。伊藤 肇『帝王学ノート』(PHP文庫)P.211
 心が変われば、態度が変わる
 態度が変われば、習慣が変わる。
 人格が変われば、人生が変わる。

参考:<インタネット>アンリ・F・アミエル原著、土井寛之訳 白水社(1997年)新装復刊したもので、もとは1964年に出版されている。

 この本の名前は伊藤肇の本で知ったが、もとは安岡正篤がその著書<百朝集>などで紹介してからだ。アミエルは1880年代後半スイス大学の哲学の教授をつとめた。死後フランスの批評家エドモン・シェレル の序を付した日記抄が出版されて一躍その名は有名になった。トルストイはロシア語訳の本の序文で彼を賞賛した。

 アミエルは内省的な人でこの日記を貫くものは人生の苦悩や反省失望などで埋められている。正直読んでいて疲れる。文学者や哲学者はこの日記に記された彼の思索の深さに感銘を覚えるかもしれないが、私のようなふつうの人間には重い。ギッシングの「ヘンリー・ライクロフトの私記」よりも重い。そういう意味で、この本が一般的にポピュラーになるかというとかなり疑問である。しかし次のフレーズ一つで彼の名前は後世に残るであろう。

 ”人生は習慣の織物にほかならない”

 この一節の訳は、訳者土井のものより、安岡正篤の訳(意訳)の方が正しく真意を伝えるように思われる。

 ”人生の行為において習慣は主義以上の価値を持っている。

 なんとなれば習慣は生きた主義であり、肉体となり本能となった 主義だから。誰のでも主義を改造するのは何でもないことである。

 それは書名を変えるほどの事にすぎぬ。新しい習慣を学ぶことが万事である。それは生活の核心に到達するゆえんである。

 人生とは習慣の織物にほかならない”

 ”運命とは性格なり。性格とは心理なり”とは、芥川龍之介のことばだがこの他にもアメリカの心理学者マズローの言に”人間の哲学が変わるとき、あらゆるものが変わる”というのがある。これらをうまく綜合して安岡は云う。

 「心が変われば態度が変わる 態度が変われば習慣がが変わる

 習慣が変われば人格が変わる 人格が変われば人生が変わる」

 忘れることのできない一文である。

 余談であるが、この「日記抄」の後半に、「幸福について」という一節がある。ここのエッセイを読むと、悲観的・内省的な話を読んだあとで、ほっとするのである。

 ”快い、涼しい、澄んだ天気。朝のうちの長い散歩。さんざしと野ばらに花がついているのを見つけた。野原の、ばくぜんとした健康な香気。まぶしいような靄の線によって縁取られているヴォワロンの山々、ビロードのような美しいい色調のサレーヴ山。野良で人々が働いている。二匹の可愛いろば。その一匹は、ひろはへびのぼらずの生垣をがつがつと食べていた。三人の小さな子どもたち。子どもたちに接吻してやりたくてたまらなかった。のどかな時間、野原ののどけさ、晴れた天気、気楽な気持ちを味わう。ふたりの妹も一緒にやってくる。香りの良い牧場と花の咲いている果樹園に目をやすめるる。草木の上に生命の歌が聞こえる。こんなにも穏やかな幸福の中にいるのは、幸福すぎることではないのか?それだけの値打ちが自分にあるのだろうか? いや、天の好意をとがめずに、この幸福を楽しもう。感謝の心を持って、それを楽しもう。不幸な日々はすぐにやって来るし、しかもその数は多いのだ。私には幸福の予感はない。だからいっそう現在を役にたてよう。愛する自然よ、やって来い。ほほえんでくれ。そして私の心をうっとりさせてくれ。しばらくの間でも私の悲しみとほ かの人の悲しみを包み隠してくれ、おまえの着ている女王のマントのひだだけが見えるようにしてくれ。そしてさまざな華麗なものの下にみじめなものを隠してくれ。” (「自然の中の幸福感」より)


「習慣は第二の天性」

 19世紀スイスの哲学者アンリ・フレデリク・アシエルの箴言に、次のようなものがあります。                                     

 心が変われば態度が変わる

 態度が変われば行動が変わる

 行動が変われば習慣が変わる

 習慣が変われば人格が変わる

 人格が変われば運命が変わる

 運命が変われば人生が変わる

 これの前後を逆にして言うならば、「人生(運命)を変えたければ、人格を変えなさい。人格を変えたければ習慣を変えなさい。習慣を変えたければ、態度を変えなさい。態度を変えたければ心(思い)を変えなさい!」となります。

 ところで、親の子に対する贈り物の中で、最良最大のものは一体何でしょうか?

  財産でしょうか? 学歴でしょうか? 地位や名誉でしょうか?

 私は、子供に「良き習慣を身に付けさせること」ではないかと思います。

 「習慣は第二の天性」と云われておりますが、良き人生は良き習慣に宿り、 悪しき人生は悪しき習慣に宿っているようです。習慣には、行為の習慣や言葉の習慣だけではなく、思いの習慣(ものごとの捉え方や考え方の習慣)もありますから、大変です。

 子供の幸せを願わぬ親など一人もいないと思いますが、通常は親の方が子供よりも先に亡くなりますから、子供の一生の面倒を親が、見ると言う訳には参りません。子供は子供自らの力で、良き人生を切り拓いて行ってもらう他はありません。良き人生も悪しき人生も、総ては習慣の善し悪しで決まると思います。

 心も頭も体も柔らかい小学生のうちから、良き習慣を身に付けさせたいものですね。大人になってから直すのは、大変に骨が折れます。良き習慣を身に付けさせる「躾」を、きちんと躾ることが、親の子に対する一大使命だと思います。

 小学生のうちにきちんと躾ておくべきものとしては、

 一、時間を守る習慣を身に付けさせる。

 二、整理整頓の習慣を身に付けさせる。

  三、ちゃんと挨拶できる習慣を身に付けさせる。  

の三つでしょう。

 1.朝起きたら家族全員で「オハヨー!」の挨拶。

 2.決められた時間の5分前にスタンバイ完了。

 3.履物を脱いだらきちんと揃える。

 4.呼ばれたら「ハイ!」と素直な返事。

 5.好意に対して「ありがとう!」の感謝の言葉。

 まず親からの実践が、臨まれます。子は親の後ろ姿を見て育ちます。

2017.09.17追加

参考2:アミエル

2012.1.22


 哲学とは何か?
                一八七二年八月三十日(五十一歳)

 哲学とは、精神の完全な自由である。したがって、宗教的、政治的ないしは社会的なあらゆる偏見から独立することである。哲学はその出発点においては、キリスト教でも異教的でもなく、君主的でも民主的でもなく、社会主義的でも個人主義的でもない。哲学は批判的であり公平である。哲学は一つのことしか愛しない。それは真理である。それが教会や、国家や、その哲学者が生まれた歴史的環境についての既成の見解を乱すとしてもしかたのないことだ。《ものごとはあるがままにある。さもなければない》のだ。

 哲学は、まず第一に疑いである。次に、知識を得ようとする意識であり、不確実と無知の意識であり、限界、ニュアンス、程度、可能性の意識である。――俗人は何ごとも疑わないし、何ごとも感づかない。哲学者は俗人よりも慎重である。いや、彼は行動には適していないとさえ言える。なぜならば、目的を見定める点では他の者にひけをとらないが、自分の無力なことをあまりによく測りすぎて、自分の幸運な機会をねらって心を迷わすようなことがないからである。

 哲学者は、世界中が酔っている中で、ひとりだけさめた人である。彼は、人間たちがひとりよがりでおもちゃにしている迷いの気持ちに気がついている。自分自身の本性について、他の者ほどだまされることはない。彼は事物の本質を他の者よりも健全に判断する。ここに哲学者の自由があるのだ。すなわち明瞭に見ること、酔いからさめていること、自分を知っていることがそれである。哲学は批判的な明晰をその基礎としている。その頂点は、普遍的法則第一原理と宇宙の終極的目的との直観であると思う。迷わないということが、その第一の欲求であり、理解するということは第二である。誤謬からの解放は、現実を認識する条件である。哲学者は、自分の経験の総体を理解するために、妥当であるような仮設を求める懐疑家である。その鍵を見いだしたものとして彼hあそれを他に人びとに提供しはするが、強制はしない。P.140~141

2017.09.02


パストゥール(Louis Pasyeur (1822~1895)フランスの科学者


 今日、相反する二つの法則が争っているように思われる。第一は、毎日あらそいのための新しい手段を考えながら、人民にたえず戦場に出る覚悟を抱かしめるところの血と死との法則であり、第二は、襲いかかる災禍から人類を救うことのみを考えるところの、平和・労働・救いの法則である。……後者は、人生をしてあらゆる勝利よりも高からしめ、前者は、一人の人間のいやしい望みによって何万という人間の命をいけにえにする。……この二つの法則のどちらかが勝つだろうか。フランス科学は、人間の命が危くなった時、これを救うために努力するであろう。 (演説集)

 フランスの科学者。狂犬病ワクチンの発見、製造によって、免疫学の先駆者となった。自然発生説を実験的に打破した。

*桑原武夫編:『一日一語』(岩波新書)による。

2010.06.01


ハインリッヒ・シュリーマン(1822~1890)ドイツの考古学者、実業家。


参考:『古代への情熱』




トルストイ(1828~1910)


 私が「何をなすべきか」という問題にたいして、自分自身のために発見した答えは、こうである。
 第一、自分自身に対してウソをつかぬこと、たとえ私のいまの生活の道が、理性の啓示する真の道から、いかほど遠くかけはなれていようとも、真理をおそれないこと。
 第二、他人にたいする自己の正義・優越・特権を拒否し、自分を有罪と認めること。
 第三、自己の全存在を働かすことによって、うたがう余地なき永遠不滅の人間のおきてを実行すること。いかなる労堂をも恥じないで、自己ならびに他人の生命を維持するために、自然界と戦うこと。

(われら何をなすべきか)

 家出して、この日倒れたロシア最大の文学者。独創的な思想家。帝政ロシアの社会を鏡のように反映したレアリスト。『戦争と平和』など。

*桑原武夫編『一日一語』11月07より(岩波新書)

2010.11.07


ドストーエフスキー(1821~1881)(露:小説家)


 一 多くの不幸は、自分を実際よりも高く買いかぶるところから生じる

 二 人は苦しみを数えあげることを好み、喜びは数えようとしない。

 三 人は自分が幸福であることを知らないから不幸なのである。

(地下室の手記)より


 何よりもまず自分をおどかすようなことをしてはいけない。つまり「たった一人じゃ戦争はできぬ」などといわないことである。心底から真理を獲得しようと思い立ったものは、誰でも、すでに非常に強力なものとなったのである。……幻滅の泣き言などは愚の骨頂である。しだいに高くそびえてゆく建物を見る喜びは、たとえ今までのところその建物にわずか一粒の砂を運んだにすぎない人でも、必ずや心の渇きをいやしてくれるはずである。


スイスの哲学者ヒルティの著書より

ヒルティ(1833~1905)(スイス哲学者)


▼『幸福論第一部』(岩波文庫)

 習慣的な勤勉を身につけるのを容易にするちょっとしたこつがある。P.24
 まず何よりも肝心なのは、思い切ってやり始めることである。仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、結局一番むずかしいことなのだ。一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは鍬を握って一打するかすれば、それでもう事柄をずっと容易になっているのである。ところが、ある人たちは、始めるのにいつも何かが足りなくて、ただ準備ばかりして(そのうしろには彼等の怠惰が隠れているのだが)、なかなか仕事にかからない。そしていよいよ必要に迫られると、今度は時間の不足から焦燥感のおちいり、精神的だけでなく、ときには肉体的にさえ発熱して、それがまた仕事の妨げになるのである。

 また他の人たちは、特別な感興のわくのをまつが、しかし感興は、仕事に伴って、またその最中に、最もわきやすいものだ。仕事は、それをやっているうちに、まえもって考えたのとは違ったものになってくるのが普通であり、また休息している時には、働いている最中のように充実した、ときにはまったく種類の違った着想を得るということはない。これは(少なくとも著者にとっては)一つの経験的事実である。だから、大切なのは、事をのばせないこと、また、からだの調子や、気の向かないことなどをすぐに口実にしたりせず、毎日一定の適当な時間を仕事にささげることである

『幸福論 第一部』P81.

 (一) きみは模範とするに足る人物を心にえがいて、私的生活においても、これに倣って生活するように心掛けよ。

 (二) 多くの場合は沈黙をまもれ。あるいはただ必要なことのみを話せ、それもなるべく言葉すくなにせよ。

*良寛の戒語にも在るのでは。……I didn’t say a single word all the way back home.

 詩人の佐藤春夫氏が文化勲章をもらった時、「きょうのこの受賞のモトは二つある。一つは私の身体に流れている血だ。佐藤家は、藩医の家柄で、祖父以来、代々、書物に親しんできた。その血が私の中に流れていて、それがあらわれた。もう一つは生田長江先生の教えの賜物である。先生はいっも私にこういわれた。
 お前は怠け者だから、ボンヤリ暮らしたら何のなすことなく一生を終わるだろう。それではいけない。一日二時間は机に向かえ゛
 自分はその教えを守り、今日、この栄誉を得ることができた」

*参考資料:『現代ビジネス金言集』扇谷正造(PHP研究所)P.191~193

※2010.08.17:再読・2013.01.27




▼『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫)

 健康法のうち最もよい、最も簡単なものは、神の命令に従って生活することである。P.18

一月十日

 「沈黙で失敗する者はない。」このいささか風変わりな言葉は、さまざまな社会的地位にあって、成功を収め人に抜きんでた私の親友の一人が、いつも口にしていた文句である……。

二月十二日

 この世で最もあわれなのは、老年になって、その半ばもしくは全部がいたずらに過ごされてしまった己の過去をふり返って、それをもっと立派に送ることができたのに、と思う時である……。

三月四日

 われわれは完全に健康でなければ、立派な仕事は出来ない。だからなによりもまず、健康でなければならぬ、という見解を信じ込んではいかない。これは今日、多くの良い人びとの迷信となっている。ひと昔前には、ある種の病弱を天才のしるしと見なし、頑丈な健康をかえって「凡庸」のせいだと考えたが、現代では、逆に肉体のことをあまりにも気にしすぎる……。

六月十九日

 人間の共同生活を非常に楽にする気持ちのよい性質は、できるかぎり他人の願いによろこんですぐ応じるような、ある種の親切な好意と気軽さである。

七月十六日

 他の人が欲するままに任せておいてよいことが、世には限りなく多い。結局、それはどうでもよいことだからだ。そうすれば自他ともに生活が非常に楽になる。

八月十九日

 「大きすぎる靴をはくな〉というのは、私の思いちがいでなければ、アラビアの諺である。これは、高い地位にあっても人生が失敗に帰することがよくあるということを説明するものだ。なぜなら、靴が大きすぎるとその人の足もとが不安定になり、それに気づいた人びとから信頼をしだいに失うからである。」
 しかし、それと同様に、靴が小さすぎると足が窮屈で、絶えず痛みを感じさせるものもある。だからこれは取り替える必要がある。具合がよいのは、その人の地位がその成長と力量とにぴったり合っている時である。それは人間的な賢さによって達せられるものではなく、ただ神の導きについての固い信念によるものである。

十月二十九日

 普通、われわれが自分を知っている以上に、人びとはわれわれをよくしっているものである。一般的にいえば、利益の打算に目がくらんでいなければ、すべての人はこの点で、普通に考えられているよりもはるかに明敏に、正しく判断することができる。彼らはいつも言葉にしてほめはするが、非難を口に出すとは限らない。

十二月一日

 老年期の始まるころのある日、一度過去に決まりをつけなければならない。

十二月二十日

 今日誤った道を歩いている人々の、少なくともかなりの部分は、決してその生来の傾向からその道にふみ入ったのではない。それ以外の道では今の世の中はとても渡れないという世間一般の考えにしたがっているに過ぎない。

私見:非常に僅かしか取り上げていません。今後、適宜、追加したいと考えています。

2008.04.08


▼『眠られぬ夜のために 第二部』(岩波文庫本)

一月一日

 一度にあまりたくさん読みすぎないように。とくにこの本では、それはよくない。この本はすこしもそいうつもりで編まれていないのだから。毎日がそれぞれ別になっているので、それを読んだ日の晩に――もしあなたがこの本を朝か前の夜に開けてみたなら――あなたはその日の思想に賛成するか、それとも後日に取っておこうとするか、自分でそれがはっきり分かるにちがいない。だが、その思想をしりぞけてしまうことはめったにできないだろう、ただ偶然にあなたの手に入ったこの本を、すっかり閉じてしまおうと思わないかぎり。

2008.4.10

カール・ヒルティ

※2014.9.27


アンドリュー・カーネーギー(1835~1919)


 アンドリュー・カーネーギーが活躍したした時代は、十九世紀末から二十世紀の初めにかけてである。

カーネーギーは、自伝で自らの貧しい生い立ちを詳細に語っています。

カーネギーは貧しいゆえに、子供がおのずから身につけざるをえない勤勉さや忍耐力などの徳目のことを「尊い宝」と言っていますが、「尊い宝」はそればかりではなかったようです。「家では毎週土曜日、一家の収入を集計し、その使いみちをきめた。かせいだ一ドルは一家の血であり肉であった」というカーネギーの言葉からは、子供ながらに金銭というものの重みを切実に感じながら育ったことが推察できます。

 一家が生れ故郷のスコットランドのダンファームリンという小さな町をあとにして、アメリカのピツバーグの近くに移住したのは、カーネギーが十三歳のときのことです。機織り職人をしていた父親は、当時の産業革命にともなう機械化によって仕事を失い、母親が靴縫いの内職をして家計をやりくりするという状況のなかで十三歳の少年も働きに出て、一家の重要な収入源とならざるをえなかった。文字通り、一ドルが血であり肉であることを少年のカーネギーははやくも実感していたのです。その切実な思いは、大富豪になってからもけっして消えなかったことは、少年時代から青年時代にかけての時代を回想するにあたって、その時どきの収入額を忘れずに記していることからもうかがえます。紡績工場での糸巻きの仕事から彼のキャリアはスタートしたが、そのときの週給一ドルニ十セント、同じ工場で釜たきとして週ニドル、十五歳のとき、電報配達夫として週ニドル五十セント十七歳で電信技手補として月二十五ドル、十八歳で鉄道会社に勤めて月三十五ドル……というように、正確に数字をあげる。サラリーマンのばあい、はじめて手にした月給の額だけはいつまでもおぼえているものであるが、カーネギーにとって、これらのささやかな数字がよほど忘れがたかったのでしょう。

 カーネギーのばあいをながめると、金持ちほどけちんぼうであるという巷間の説も納得できそうです。 大金持ちというのは、大金を手にする才覚とともに、微小な金銭にたいしても人一倍に鋭敏な感覚を持っている人間にちがいない。塵も積もれば山になるという教訓をいちばん肝に銘じているのは、貧しき一般の人びとよりも、むしろ金持ちのほうである。カーネギーはそういう金銭感覚を少年時代に骨身にしみて体得したのでしょう。

 このような金銭感覚と疲れを知らない金銭への執着心こそ、のちの大富豪をつくりあげる素地になっていたわけであるが、しかし、二、三ドル単位で週給が増えるのを地道に待っているだけでは、大富豪になることはできない。カーネギーは三億五千万ドルを慈善事業に投じたが、ふつうの人間がおそらく千年間はたらいても手にできないような巨額の富を生むのは、一種の魔法のほかにはない。その魔法とは、投資である。

 カーネギーは二十一歳のとき、最初の投資を行っている。五百ドルを知人や親戚から借り集め、ある運送会社に投資して最初の配当十ドルを手にしたとき、彼は、「金の卵を生むアヒルを私は捕えたのであった」と言っています。彼のその後の人生は、このアヒルに金の卵を生ませ続ける人生でもあった。彼は好機を目ざとく見つけては、投資を行い、それまで数ドルないし数十ドルの単位で増えていた年収は飛躍的に伸び、二十四歳で鉄道会社の管区長に昇格した際の年収千五百ドルは四年後には、なんと四万七千ドルにもはねあかっている。もちろん給料が一挙に増えたわけではありません。鉄道会社の社員としての収入は二千四百ドルであって、その他はすべて投資から得たものだった。若くしてすでに投資家としてすぐれた能力の持主であったことがよくわかる。しかし、投資と言っても、カーネギーは株の売買でもうけたわけではありません。

「ながい目で見るとき、的確な判断にまさるものはない。株式市場の目まぐるしさにまどわされている人は、健全な判断力を失い、酒に酔ったのと同じ状態になるので、ありもしないことを信じこみ、あると思ったものも見えなくなる。モグラ塚が山に見え、山がモグラ塚に見える。相場に気を奪われているので、冷静に考えることができないのである。投機というのは寄生虫で、それじたい何の価値もないものなのである。」

 株式相場の数字に一喜一憂する人びとにぜひ読んできかせたいような一節であるが、カーネギーにとって投資とは、新しい会社の共同出資者になることを意味していました。彼が共同出資者となった会社としては、レール製造会社、機関車製造会社、鉄橋製造会社、石油会社、そして鉄鋼会社などかあり、いずれも成功し、巨万の富をもたらしました。一八六六年、三十一歳のときに、ピツバーグに建てた機関車製造会社の株が三十年後には三十倍の値がついたことに触れて、カーネギーは、まるでおとぎ話のようだ、と言っています。また、四万ドルで買い取った油田が最初の年に百万ドルの純益をあげ、その後、五百万ドルにも評価されたことを同じく自伝で語っています。

 こうして投資によって着々と蓄財を続けてきたカーネギーは、鉄道会社をやめ、三十三歳のとき、ニューヨークに出て、アンドリュー・カーネギー投資会社を設立し、その後は、会社経営を製鋼会社のみに集中、そのカーネギー製鋼所は全米の鉄鋼生産高の五〇パーセント以上を占めるにいたり、カーネギーは鉄鋼王の名で呼ばれることとなる。彼はカーネギー製鋼所の社長でも会長でもなかったが、会社の五十八パーセントの株を保有し、すべての人事権を握っていた。ほとんど会社には顔を出さず、重役会にも出席しなかったが、重役会の議事録にはいつもかならず目を通し、それぞれの重役の発言にきびしいコメントをつけ、こまかい指示をニューヨークから、そしてしばしば滞在中の外国から送りつけています。

 かくて、五十三歳の時点でのカーネギーの年収は百八十万ドルを数えるに至る。この額が今日の金額に換算してどれほどになるのか見当がつかないが、なにしろ途方もない数字であることは間違いないだろう、カーネギーにかぎらず、同時代のアメリカの大富豪がこのような法外な富を手にすることができた背景としてまずあげられるのは、当時、巨大企業が自由に市場を独占し、独占価格で製品を売りつけることが許されていたことである(反トラスト法が制定されたのは一九一四年のことである)。カーネギーの会社のばあい、政府に売った軍艦用の装甲板の価格をめぐって議会で問題になったことなどもあったが、そんなことは当時の巨大企業にはほとんど何のさまたげにもならなかったようである。また、当時は所得税というものがなかったことも、大富豪を生む一因となっていた。すでにイギリスでは一八四〇年代に所得税が定着していたが、アメリカでは所得税の導入が検討されるたびに猛反対にあい(もちろん、カーネギーも反対した)、所得税の賦課が合衆国憲法に明記されるようになったのは一九一三年のことである。数十年はやく所得にたいする累進課税が行われていたら、カーネギーをはじめとして、当時の大富豪は生れなかったかもしれません。

 巨万の富を築いた彼は、後半の人生をその富を社会奉仕慈善事業に費やしました。
彼の凄さは、富を得る過程にあることも然る事ながら、その巨額な三億五千万ドルを慈善事業に投じたことである。
「金を稼ぐことに比べたら、金を使うことはその十倍も難しい」と、言っています。
私たちの多くは、お金を貯めることに一生を費やしているように思われます。お金が貯まってから、社会に奉仕しようと思っても、それは絵に描いた餅になるように思います。

『大人のための偉人伝』 木原武一著 新潮撰書カーネギー (富を生かす方法)p170

※2015.10.16


サミュエル・ウルマン(1840~1924)(アメリカの実業家)


▼青春の詩      

 青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。

 優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、

 安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。

 年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。

 歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。

 苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年

 月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

 年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。

 曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる

 事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く

 求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

 人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。

 人は自信と共に若く 失望と共に老ゆる。

 希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。

 大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして

 偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。

 これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、

 皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ

 人は全くに老いて神の憐れみを乞うる他はなくなる。

2008.6.11


O・W・ホームズ(1841~1935)(アメリカ作家)


 この世で一番大切な事は、自分が「どこ」にいるかという事ではなく、「どの方向」に向かっているか、ということである。

 「自分の居場所」という言葉を聞きます。

 これは、自分がどこにいるべきなのか?
 ということに重点を置いているからこその言葉です。
 しかし、時間は止まることなく、進んでいきます。
 時間が止まらない以上、「自分の居場所」にい続けることなど不可能なのです。
 自分が立ち止まっているつもりでも、地球は周っています。
 私たちがどこかに進み続けざるを得ない。
 これが、人間の宿命です。

 その宿命を受け入れることができるなら、この世で一番大切なことは、自分が「どこ」にいるかという事よりも、「どの方向」に向かっているかということになるのは自明です。

2008.06.11、2011.10.21追加


ウィリアム・ジェームズ(1842~1910)(アメリカの思想家)


 ウィリアム・ジェームズ(William James/1842年1月11日-1910年8月26日)は、アメリカを代表する哲学者・心理学者の一人。チャールズ・サンダース・パースやジョン・デューイと並び、「プラグマティスト(物事の真理は実際の経験の結果により判断するという思想)」の第一人者としても著名。 弟は小説家「ヘンリー・ジェームズ」。(参考文献:ウィキペディア+Amazon.co.jp)

 主な著書(邦訳書)に「プラグマティズム」「心理学(上下)」「宗教的経験の諸相(上下)」「ウィリアム・ジェイムズ入門 賢く生きる哲学」「純粋経験の哲学」などがある。

 ウィリアム・ジェームズの名言集

 人生をもっとも偉大に使う使い方というのは、人生が終わってもまだ続くような何ものかのために、人生を使うことである。

 人間は幸せだから歌うのではない。歌うから幸せになるのだ。

 できるかどうか分からないような試みを、成功させるただひとつのものは、まずそれができると信じることである。

 人生は価値あるものだと信じなさい。そうすればあなたのその信念が、人生は価値あるものだとい事実を生み出すでしょう。

 心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。

 習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。

 われわれの持つ可能性に比べると、現実のわれわれは、まだその半分の完成度にも達していない。

 われわれは、肉体的・精神的資質の、ごく一部分しか活用していないのだ。

 概して言えば、人間は、自分の限界よりも、ずっと狭い範囲内で生きているにすぎず、いろいろな能力を使いこなせないままに、放置しているのである。

 物事をあるがままの姿で受け入れよ。起こったことを受け入れることが、不幸な結果を克服する第一歩である。

 ひとたび決断を下し、あとは実行あるのみとなったら、その結果に対する責任や心配を完全に捨て去ろう。

 私の世代の最大の発見は、人間は心の持ち方を変えることによって、人生をも変える事が出来るということだ。

 どんな計画であれ、重要な要因は、あなたの信念です。

 信念なくしては、立派な結果が出ることはありません。

2013.03.23


ヘンリー・ヴァン・ダイク(1852~1933) (アメリカ牧師)


 幸福は内面的なもの。どんなものを持っているかではなく、私達がどんな人間であるかにかかわっている。

2008.3.12


フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)


7月29日 この日自ら拳銃で頭を撃って死んだオランダ生まれの画家。28歳から絵をかきはじめ、フランスに行き、激しい個我によって独異の境地を開いた。

*桑原武夫編『一日一語』より

2010.07.29


ロアール・アムンセン(1872~1928)


 このわれわれの住む世界において、未知として残されたところのものは、すべて人々にとっての重荷である。それは人がいまだ征服しつくさざることを示すものとして、また人類の弱点を証拠立てるものとして、また自然を知りつくす上においての、いまだ果されざる決闘状として残るのである。一切の秘せられたるものをときあかし、すべての未知の区域を探検すること、それは全人類の精神を高揚せしめ、勇健の気を強めるものである。文明を促進し保持する強固なる精神力の結合こそ、この道をひらくものでなければならぬ。

 一九一一の十二月十四日はじめて南極点に到達した、ノルウェイの大探検家。一九二六には航空舟による北極探検に成功した。

 桑原武夫編「一日一言」(岩波新書)より

参考1:「スコット」を見てください
参考2:昭和43(1968)年12月日本南極越冬隊が世界で8番目の南極にたつ。

2010.04.15


ウッドロー・ウイルソン(1856~1924)第28代アメリカ合衆国大統領


 「二時間の講演ならば、すぐにでもできる。一時間の講演ならば、二時間、準備のための時間が欲しい、十五分のスピーチならば、半日ほしい」


『自己暗示』
C.H.ブルックス.E.クーエ(1857~1926)

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▼『自己暗示』

 一  Day by day, in every way, I am getting better and better.
 「日々に、あらゆる面で、私はますますよくなってゆく」

 二 ある考えが精神を独占してしまった場合、その考えは実際に、肉体的もしくは精神的状態となってあらわれる。

 三 ある考えを意志の力でおさえようと努力すれば、その考えをますます強めてしまうだけである。


 こころ   遠藤 周作

 痛みは消え去る。痛みは消え去る

 フランスのナンシーという地にエミ―ル・クーエという医者がいた。毎日彼のところにさまざまな痛みを伴った患者たちが押しかけた。

 とうのはこのクーエ先生は彼独特の方法でこれら痛みに悩む病人たちを癒(いや)したからである。

 彼の独特の方法とは自己暗示療法ともいうべきもので、患者の心を「この痛みは消え去る」という考えに仕向けるだけのことだった。つまり患者が今、感じている痛みはすぐ消えると本心で思うと、その痛みはなくなるのだとというのが彼の理論であり、治療法だった。そのために彼は色々な自己暗示の方法を教えたが、それは一言でいうと自分に暗示をかけようと努力することを避け、おのずと、そういう気持ちなるように心を仕向けることなのだ。

▼彼の理論や方法を書いた本は幸い法政大学出版局から「自己暗示」という題で出版されているから興味ある方は御一読されたい。

 しかしこういう本を読んでも自己暗示だけで痛みが消え去るものかと馬鹿にされる読者もおおいだろう。

 だが十人のうち十人がみなこの方法で痛みを除去できなかったとしても、医師クーエの診察室に行く患者のなかには本当に治癒した者があまたいたのである。

 それはやはり肉体と心が別々のものでないことをはっきり示している。

 我々は長い間、肉体と心とは別々のもののように考えこまされてきた。たしかに一面ではそれは言えるだろう。しかしもう一面では心と切り離せぬものであることは今の医学のなかでも心療科を中心とした医師の主張するところである。心の状態がまるで物の影のように体にあらわれ、それが色々な痛みや疾患となってあらわれるからだ。

▼最近、私はある内科医と対談をした。その内科医は長年、彼の患者のなかで検査では何も異常はないのに各種の痛み、不眠、下痢、息切れなどの症状を訴える人がかなりいるのをフシギに思い、これはひょっとして肉体のうつ病ではないかとかんがえたのである。肉体のうつ病とは心のうつ病ほど深刻ではないから暗い顔をしていないかわりに、痛みや下痢という体の症状になってあらわれる。

 そこでこの内科医は試みにこうした患者にあるうつ病の薬を与えてみた。するとふしぎに上に書いたような不定愁訴は消えたとうのだ。ある意味でこれはクーエ医師と同じ療法なのだ。私は非常な興味をもってこの内科医の話を聞いたのである。

※私は体調不良の時折、「Day by day, in every way, I am getting better and better.」声を出して唱えている。

病気に気が向いているのを方向転換できるのではかと。少なくとも唱えているときは病気からこころが離れているのは間違いない。これを繰り返していれば、忘れるちからが援助してくれるのではと。

2011.10.28、2013.07.06、2015.03.20。補足。


ピエール・ジャネ(Pierre Janet)(1859~1947)(フランスの心理学者・精神医学者)


▼「ピエール・ジャネの法則」

 人間が感ずる年月の長さは年齢の逆数に比例する。

 60代の人にとっては1/60であるが、20代では1/20である。したがって60代の人では20代の3分の1である。言い換えれば3倍の速さで去っていく。

*村山正則先生からのお便りで、この法則を知る。

2009.12.05


ラビンドラナート・タゴール (1861~1941)

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ラビンドラナート・タゴール

 詩聖の残した「百年の言葉」

   アジア初のノーベル文学賞を受けたインドの詩聖タゴール(1861~1941)が、大歓迎のなかに初来日して今年で100年になる。3ヵ月にわたって滞在し、行く先々で即興の短詩や警句をたくさん残した。

 それらを集めた「迷える小鳥」 (藤原定訳)は、珠玉の言葉がひしめく宝石箱だ。たとえば、<ハンマーの打撃ではなく、水の踊りが歌いながら小石を完美にしてゆく>。清流にまろやかに磨かれる石を想像させる詩句からは、打つ、叩く、という「力」ではなく、愛への信頼と賛美が透くようににじむ。

 〈足蹴は埃を立てるだけで、大地から何ものも収穫しない〉も奥深い。怒りにまかせて地面を蹴っでも大地は何も応えてくれない。短慮と暴力を戒める。

 さらに心をゆさぶられるのは、〈人間の歴史は、侮辱された人間が勝利する日を、辛抱づよく待っている〉。

 侮辱された人間とは、虐げられた人々であろう。黒人奴隷や先住民族といった様々なマイノリティーにもたらされるべき勝利とは、ゆるがぬ自由と平等の獲得をおいて無い。人間の歴史への深い部分での詩人の信頼に、胸が熱くなる。

 今年4月、一人の黒人女性の名が世界に報じられた。存命の人ではない。南北戦争前の米国で、南部の奴隷を北部の州へ逃がす命がけの地下活動で大勢の黒人を救ったハリェットータブマン。米財務省が20ドル紙幣の新たな肖像にすると発表した。黒人女性が肖像になるのは初めてのことという。

日本ではあまり知られないが、米国では敬意をもって語られる勇気の大だ。幼かっだころ、2人の姉が鎖につながれて奴隷の仲買業者に買われていった姿が生涯の心の痛みになったという。

 自分が北部へ逃れてからも何度も南部に戻り、地下組織のもっとも危険な手引き役となって、州境を越えて何百人とい黒人を自由の身に導いたとされる。奴隷を所有する白人からは憎悪され、身柄には高額の懸賞金がかけられた。

 19世紀の「お尋ね肴」が21世紀に「正義の人」として紙幣を飾る。タゴールのピューマニズムと重なって美しい。その一方で米国の現実を眺めれば、人種間の平等の天秤はなおおかしいままだ。

 この夏、黒人が警察に射殺される事件が相次いで、抗議のデモが全米に広かったのは記憶に新しい。さらに暴言王と称される候補が話題をさらう大統領選と相まって、多様性の尊重を「きれいごと」と腐(くさ)すポピュリスムの空気が、ここにきて隠れもなく頭をもたげつつある。

 裏を返すなら、黒人女性の紙幣への初登用は、平等という理想に向けて米国が苦闘を続けている表れともいえる。人種問題という「最も深い断層」(オバマ大統領)を埋める象徴としての役割を、米政府は、素朴な顔立ちの一女性に託したのではないかと想像してみる。

 6月、差別と闘い続けたボクシングのモハメドーアリ氏が世を去った。五輪で金メダルに輝いて帰郷したが、レストランで「黒人はお断りだ」と拒まれ、怒りからメダルを川に投げ捨てた。よく知られた「伝説」の真偽はともかく、彼の故郷を流れるそのオハイオ川は、タブマンの時代に逃亡奴隷が自由を得るために越す最後の関門のひとつだった。

 当時の名高い小説「アンクルトムの小屋」でも、奴隷の母親が坊やを抱いて荒れるオハイオ川を必死に対岸へたどり着くくだりは忘れがたい。これには実在のモデルがあったと言われている。

 アリ氏の「伝説」からもう一つ思い出すのは、退任も間近になったオバマ大統領の就任演説の一節だ。「つい60年ほど前はレストランで食事もさせてもらえなかったかもしれぬ父を持つ男がいま、あなた方の前に立っている」。これを聞いたときも、黒人初の米大統領の言葉に夕ゴールの詩句が重なったものだ。

 --いつの歴史をみても、正しさはマイノリティー(少数者)の勇気あるチャレンジから始まっている。その事実にもっと謙虚で、敏感でありなさいーー。人種問題だけではない。詩聖は100年の歳月をこえて、そう語りかけてくる。

日曜日に思う 編集委員 福島 申二 朝日新聞 2016.9.5付け

参考1:ラビンドラナート・タゴールは、インドの詩人 、思想家である。詩聖として非常な尊敬を集めている。1913年には『ギーターンジャリ』によってノーベル文学賞を受賞する。これはアジア人に与えられた初のノーベル賞であった。 インド国歌及びバングラデシュ国歌の作詞・作曲者で、タゴール国際大学の設立者でもある。

参考2:タゴール国際大学(シャントニケトン)1998年1月撮影

2016.09.08


O・ヘンリー(1862~1910)(アメリカ作家)


 私は正直者ですと自分でいう者は、決して正直者ではない。

 私は何も知りませんという者は良く知っているし、私は何でも知っているという者はほら吹きである。

 何も言わない人間は賢明な人か、利己主義かのどちらかである。

参考:私は著者の短編小説が好きである。特に下記の短編は何度読んでも飽きない。著者の温かい視線を感ずる。

賢者の贈りもの(第一回)
賢者の贈りもの(第二回)
最後の一葉
最後の一葉(2)
二十年後

2016.09.09追加。


クーベルタン伯爵(1863~1937)

 
 The most important thing in the Olympic games is not to win but to take part just as the most important thing in life is not the triumph but the struggle.---Pierre de Coubertin---                                 

*宮本 進先生より教えられた言葉。


マックス・ウェバー(1864~1920)


▼『職業としての政治』(岩波文庫)

 一 「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわじわと穴を貫いていく作業である。」


マリー・キュリー(Madame Curie)(1867~1934)


 放射性元素ラジウムの発見で有名。

 キュリー夫人はポーランドのワルシャワで、数学と物理の教師である父と女学校の校長だった母の間に生まれた。両親とも教育に熱心でありまた優れた教え手でもあったために、マリーの家ではものを学ぶことが生きることとほとんど道義であるかのように浸透していたという。マリーの少女時代の生活は科学者」として理想的な環境で育ったといえる。娘エーブ(『キュリー夫人伝』の著者)が言うように、マリーは、

 「この宇宙というものを、先生と生徒だけしかいない、ただ学という唯一の思想に支配された大きな学校にように考えていたにちがいない」
   つまり真理の追究はマリーにとって、ごく自然な所作だったのだろう。

 そんな彼女は二八歳の時(一八九五年)、同じように教育的な家庭に育ち学門に没頭していたピエール・キュリーと結婚する。マリーは卓越した実験手腕を持つ実験のプロであり、独創的で理論研究を得意としたピエールにとっても理想の伴侶であった。

 一九〇三年、キュリー夫妻は放射線を発見したアンリ・ベクレル(フランスの物理学者)とともに、ラジウム放射線の研究によってノーベル物理学賞を受賞する。さらにピエールが急死した(一九〇六年)後の一九一一年、マリーはふたつめのノーベル賞(化学賞)を、二種の新元素発見と純粋ラジウムの単離によって受賞した。

 「人生の最大の報酬は知的活動によって得られる」
 ……とは、後にマリーが述懐した彼女の信条である。

 一九三四年に放射線障害とされる病(白血病)でこの世を去るまで、ひとときも学ことをやめなかった。

参考:『歴史街道』1997年7月号による。 

2010.01.07


スコット(Robert Falcon Scott)(1868~1912年)


 余はこの旅行にいささかもくゆるところなし。われらはイギリス人が困難を克服し、相協力して、いまだかつてなき不抜の精神をもちて死に臨みたることを実証したるなり。われらは危険を敢えてせり。われらはその危険なることを承知しいたり。ただ事情がわれらに組せざりしなり。さればわれらは何ら不満の意を表すべきいわれなし。ただ神の御心に頭を垂るるのみ。しかしなお最後まで最善をつくさんと決意しおれり。われらは進んで探検のことに命をささぐるものなりとはいえ、そはわれらの祖国の名誉のためにして、余は祖国の人々に、われらに頼りいたる家族の身の上を援護したわんことを懇請す。(最後の日記より)

 この人南極大陸の氷原上で死んだ。イギリス探検隊をひきいて南極点に到達したが、アムンゼンにおくれ、帰路荒天に合い遭難した。

 桑原武夫編「一日一言」(岩波新書)より

2010.03.30


アラン(1868~1951)

▼『幸福論』

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 一 幸福だから笑ふわけではない。むしろ笑ふから幸福なのだと言いたい。

 二 決心する前に、完全に見通しをつけようとする者は、決心することが出来ない。

 三 小雨が降っているとする。あなたは表に出たら、傘をひろげる。それだけでじゅうぶんだ。
 「またいやな雨だ!」などと言ったところで、なんの役に立とう。雨のしずくも、雲も、風も、どうなるわけでもない。
 「ああ、結構なおしめりだ」と、なぜ言わないのか。もちろん、こうあなたが言うのをわたしが聞いたからといって、雨のしずくがどうなるわけでもない。それは事実だ。しかし、そのほうがあなたにとってよいことだろう。


 笑う健康法

                  『幸福論』(アラン)より、

 もしある専制君主がぼくを投獄して権力を尊重させようとしたならば、ぼくは毎日ひとりで笑うことを健康法とするであろう。足を強化するためトレーニングをするのと同じように、ぼくは自分のよろこびを強化するためトレーニングをするであろう。

 しあわせだから笑っているのではない。むしろぼくは、笑うからしあわせなのだ、と言いたい。

 笑うことで免疫力や自然治癒力が高まるそうです。また、笑うことはストレス解消にもつながります。笑いは心身の健康にいいのです。

 他にも笑いの効用はいろいろあるようです。

 笑うことは、いろんな時に、いろんな場所で、簡単にできる、有効な健康法と言えるでしょう。

 笑うことで、よろこぶ能力(幸福を感じる能力の一部)を活性化できるのでしょう。

 たいていの能力は、使えば維持でき、使わなければ衰えます。そして、工夫して使えば向上させることができると思います。

 笑うことを日課のトレーニングとして、よろこぶ能力を強化できるといいのでしょう。

 幸福を感じることも練習(たとえば、ハッピー・ウォーキング)から始めてみるといいでしょう。幸福を感じる能力が高まれば、それだけ幸福に暮らせるようになれるでしょう。

 心から笑えている時には幸福な気もちになれます(笑う形だけでも少しは明るく元気になれるでしょう)。

 また、自分が笑っているとまわりの人にも伝わります。それが少しは自分に返ってきて、また自分も少し幸福な気もちになれます(幸福は伝染・反射する)。

 笑うことは、上機嫌の実践方法であり、幸福になる方法でもあると思います。

エミール=オーギュスト・シャルティエ:ペンネーム アラン(Alain)

誕生:1868年3月3日 フランスの旗 フランス帝国ノルマンディー・モルターニュ=オー=ペルシュ

死没:1951年6月2日(満83歳没) フランスの旗 フランスル・ヴェジネ

職業:教師、哲学者、評論家、モラリスト

代表作: 『幸福論 (アラン)(フランス語版)』(1925年)

アランの影響を受けたアンドレ・モーロワ

2017.08.23 追加。


ガンジー(1868~1948)

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 「わたしは、一人の人に可能なことは万人に可能である、とつねに信じている。」       

 「完全を望んで、無限の努力をすることは、人間の権利である。」

*『ガンジー自伝』より。


 英国領インド帝国(現在のグジャラート州ポールバンダル)に生まれる。父は、当時のポールバンダル藩王国の宰相。

 小学校時代は、成績や素行も悪く、ヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返したり、タバコ代欲しさに召し使いの金を盗んだこともあった。13歳のときに、インド幼児婚の慣習により結婚。

 18歳で弁護士になるためにロンドンに留学。卒業後に南アフリカで弁護士として開業するも白人優位の人種差別政策下で強烈な人種差別を体験。その後、インド系移民の法的権利を擁護する活動に従事するようになる。

 インド帰国後は「非暴力、不服従」運動によってイギリスからの独立運動を指揮。1947年、ついにインドを独立させ、イギリス帝国をイギリス連邦へと転換させることになる。

 1947年8月、パキスタンがインドから分離独立。ガンジーは、ヒンドゥー原理主義者からムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視される。1948年1月、ガンディーは狂信的なヒンドゥー原理主義集団民族義勇団によって襲撃される。ピストルで撃たれたとき、ガンジーは自らの額に手を当ててこの世を去った。それはイスラム教で「あなたを許す」という意味の動作。78歳の生涯であった。

 ガンジーの平和主義的手法は、キング牧師など、人権運動や植民地解放運動において世界中に大きな影響を与えた。

 ガンジーは、「この世界にこれだけ多くの人間が今も生きているという事実こそ、世界が武力にでなく、真理すなわち愛の力にもとづいていることを示すものです。ですから、この力の勝利の最大にして、もっとも申し分のない証拠は、世界に戦争が繰り返されたにもかかわらず、世界がいまなお存続しているという事実のうちに見出されます。」と述べています。

 実際、「インド独立の父」ガンジーほど、多くの人びとから共感と支持を得た人間もめずらしい。一九四八年一月、独立したばかりのインドでくりひろげられていたヒンドゥー教徒とイスラム教徒との対立抗争に心を痛めたガンジーは、七十九歳という高齢にもかかわらず、死を覚悟の断食を行った。断食をはじめて六日目、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒をはじめ、あらゆる派の人びとがガンジーの前にひれ伏して和解を誓い合い、断食の中止を要請した。カースト制度によって細分化され(バラモン、クシャトリアなどのカーストはさらに約二千ものサブカーストに分かれている)、そのうえ公用語が十五もあるというインドの複雑な社会を考えると、一人の人間がインド全体から支持を受けるというのは、奇跡にも等しいことである。また、ガンジーの思想と行動は欧米のみならず日本でも多くの人びとの共感を呼んでいるが、こういったことこそ、彼の言う「真理すなわち愛の力」がけっして絵空事ではないことを示す申し分のない証拠にちがいない。ガンジーについて考えることは、入間の心にひそむ悪しき傾きを自覚し、「真理すなわち愛の力」に思いをはせることにほかならない。

 ガンジーはいかにしてマハトマ(偉大なる魂)となることができたのか。

 人間に生れつきの固有な特性がそなわっているのは事実だとしても、人びとをそれぞれ独特な人間に仕立てあげるのは、日々の具体的な経験、それも、予期せぬ出来事との遭遇である。人を混乱と狼狽に追い込むような経験の中にあってこそ、人間の固有の特性があらわれ、また、新しい力や感覚がつけ加わってくるものである。人間はだれしも経験主義者であって、ガンジーのばあいにはとくにそう言える。

 はじめて南アフリカに渡ったとき、ガンジーはこんな経験をする。プレトリアまで行くために一等車に乘つたところ、途中のマリッツバーグという駅で、駅員から貨物車のほうに移るように言われた。白人の客の一人が、「有色」人種といっしょにいることを嫌って、駅員を呼んできたのである。ガンジーは、一等車の切符を持っており、自分にはこの客車で旅行することが許されていると抗議したが、やがて巡査がやってきて、彼は荷物といっしょに放り出されてしまう。そして、貨物車に移るのを断ったガンジーは、その駅で一晩をすごすことになった。季節は冬で、身にしみるような寒さにふるえながらガンジーは考えた-―「私は権利のために闘うべきか。それともインドに帰るべきか。それとも侮辱を気にしないで、このままプレトリアに赴き、そして仕事が済みしだい、インドに帰るべきか。」

 つぎの朝、ガンジーは、鉄道会社の総支配人にあてて長文の電報を打ち、そして、旅行を続けたが、そこにもまた同じような屈辱的経験が待ちうけていた。駅馬車に乗ったところ、ガンジーは、車内ではなく御者台の横に座らされることになったのであった。これに抗議すると、白人の車掌は彼に平手打ちをくらわせ、馬車から引きずりおろそうとした。

 そこでガンジーはどうしたか。駅馬車会社の支配人に、その出来事をありのままに書いた手紙を出したのである。

 こうしてガンジーは、いまなお南アフリカで行われている人種差別の実態を経験することになったわけであるが、ここで興味深いのは、のちにガンジーが、このマリッツバーグ駅での出来事について「生涯におけるもっとも創造的な経験」と言っていることである。

 「もっとも創造的な経験」とはどういうことなのか。単に南アフリカにおける人種差別の実際を身をもって知ったということだけではなかろう。人間の心に新しい未知のはたらきを喚起してこそ、経験は「創造的」となる。そのときのガンジーの心理状態を思いうかべてみれば、どのような新しい心のはたらきが発現していたかは容易に想像がつく。要するに、怒り心頭に発していたはずである。それが人間として当然の反応というものである。しかし、その怒りにどう対処するかは人さまざまであり、その人がいかなる人間であるかがあらわれるのは、まさにこの点である。

 それ以前にもガンジーは怒り心頭に発するような経験を何度もしていたにちがいない。しかも、この南アフリカでの経験を「生涯でもっとも創造的」と呼んだのは、怒りをどのようにコントロールするかということに思いがけない大きな意味を発見したからにちがいない。

 怒りのコントロールと言っても、怒りを鎮めることではない。それは、怒りをどのように効果的に表明するかということにほかならない。鉄道会社の総支配人あてに電報を打ったのも、そのひとつの方法である。ガンジーが愛読していた『バガヴァッドーギーター』には、「怒りから迷妄が生れ、迷妄から判断力の混乱がおこる。判断力の混乱によって理性の喪失があり、理性の喪失によって人は滅びる」と記されている。怒りを効果的に表明する方法を心得ていさえすれば、怒りから迷妄が生れることは防ぐことができるはずである。

 ガンジーの生涯はたびかさなる差別や虐待、圧政にいろどられているが、彼が一貫して考え、そして行動してきたことの根本にあったものは、怒りのコントロールということにほかならない。

 ガンジーは、人一倍強い内省心の持ち主であった。「人は自分自身の誤りは凸レンズをつけて見、そして、他人のそれには凹レンズをつけて見よ」と言っている。

 彼の主張は、時代錯誤にして人間錯誤だといってもいいのかもしれない。しかし、現代において、この時代錯誤や人間錯誤を通してしか、世界の平和や心の平和は得られないのではなかろうか。

2015.10.12


 思い死なず 孫「弱者抑圧の今こそ学んで」毎日新聞2018年1月28日

 非暴力・不服従運動を主導したインド独立の父、マハトマ・ガンジー(1869~1948年)暗殺から30日で70年となるのを前に、ガンジーの孫ラージモーハン・ガンジー元上院議員(82)がインド西部ムンバイで毎日新聞のインタビューに応じた。ヘイトスピーチが世界を覆う現状に触れ「ガンジーは弱者の抑圧は恥ずべきことだと言っていた。もし生きていれば、今の世界を変えようとしただろう」と語り、現代こそガンジーの思想に学ぶべきだと訴えた。 ganzinomago.jpg • <インタビュー要旨>「弱者に対する抑圧は世界的潮流になってしまった」 • <インド、根強い差別 暗殺者「復権」広がる> • <“米右派サイト広告”を激減させたネット運動> • <世界中を覆う「タブー破りと本音主義」のザラザラ感>

 ラージモーハン氏は、ガンジーの四男デーブダース氏の長男。10~12歳のころ、ニューデリーに滞在する晩年のガンジーと交流を持ち、2006年には伝記も出版した。「共に過ごす時間は短かったが、愛情深い祖父だった」と振り返る。

 ガンジーは、孫にも冗談交じりに哲学を語った。ラージモーハン氏がメガネを新調したときのことだ。質素な生活を尊ぶガンジーは「鼻の上に何か新しいものがあるね」とからかった。「目が悪いんです」と反論すると、「レンズは必要だが、新しいフレームは要らないね」と語ったという。

 暗殺の日も覚えている。父の秘書から「撃たれた」と知らされ、急いで現場に向かうと、ヒンズー教の宗教歌を口ずさむ人だかりの中、遺体が白い布に寝かされていた。「ショックだったが、驚きはなかった。祖父に対し怒っている人がいると知っていたから」

 ガンジーはヒンズー教徒とイスラム教徒の融和や、カースト制の最底辺に位置する「不可触民」への差別の撤廃を訴えた。だが、インドでは今も宗教暴動やカースト差別が続く。ラージモーハン氏は「多数派の一部が少数派を抑圧する権利があると思い込み、政府はそれに対して何もしない。平等なインド社会を目指したガンジーの思想に反する」と批判。米トランプ政権による移民規制などにも触れ、「弱者への抑圧は世界的な潮流となり、不名誉ではなくなってしまった。弱者は権利のために闘うべきだ」と指摘した。また「暴力は結果を生み出さない。非暴力闘争で世界に訴えるべきだ」と強調した。

 ラージモーハン氏はガンジー同様、人権活動家として長年、平等や宗教融和などを目指す運動に参加した。「正しい道を進もうとしたら、ガンジーと同じ道を歩んでいた」と語る。ニューデリーの貧しい小屋でガンジーと再会する夢を繰り返し見た時期があった。「インドがまたガンジーを必要としていると感じた。彼の思想は死ぬことはない」【ムンバイ(インド西部)で金子淳】

 【ことば】マハトマ・ガンジー

 本名モーハンダース・カラムチャンド・ガンジー。マハトマは「偉大なる魂」との意味の尊称。英国留学後に弁護士になり、南アフリカでインド系住民の人権活動に従事。帰国後にインド独立運動を率いた。宗教融和を重んじ、インドとパキスタンの分離独立にも反対した。インド伝統の身分制度カースト制はヒンズー教の慣習だとして容認していたが、不可触民(ダリト)への差別やカースト間の優劣を否定し、平等を説いた。48年1月30日、ニューデリーでヒンズー至上主義者に銃撃され78歳で死亡。

2018.02.04


アンドレ・ジード(1869~1951)


 フランスの小説家。ノーベル文学賞受賞者

▼フランスのアンドレ・ジッドによる小説で『狭き門』が有名である。

 『新約聖書のマタイ福音書第7章第13節』にあらわれる、「狭い門より入りなさい、滅(ほろ)び通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」による題名。

▼彼の言葉

一 心というものは、使わずにおくとひからびるものである、全体がよくなれば、またはよくなるために、部分が貧しくなるものもある。

二 人間がもうすこし利口であったならば、戦争から生まれる悲劇を免れたはずである。

2010.01.14


カール・ブッセ(1872~1918) (ドイツの詩人・作家)

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 山のあなたの空遠く

 「幸」住むと人のいふ。

 噫、われひとゝ尋めゆきて

 涙さしぐみ、かへりきぬ。

 山のあなたになほ遠く

 「幸」住むと人のいふ。

 「山のあなた」

   カール・ブッセ
  上田敏訳 『海潮音』より

 Über den Bergen
                         Karl Busse

 Über den Bergen weit zu wandern      

 Sagen die Leute, wohnt das Glück.      

 Ach, und ich ging im Schwarme der andern, 

 kam mit verweinten Augen zurück.

 Über den Bergen weti weti drüben,

 Sagen die Leute, wohnt das Glück.

2008.4.18


アレキシス・カレルノーベル生理学・医学賞受賞者(1873~1944)


  ▼『MAN,THE UNKNOWN』

 一 Senescence seems to be delayed when body and mind are kept working. In middle and old age, man needs a stricter discipline than in children.


サー・ウインストン・チャーチル(1874~1965)


 楽天家は、困難の中にチャンスを見い出す。

 悲観論者は、チャンスの中に困難を見る。

 「チャーチル」の名言がGoogleでたくさんよむことができます。 

チャーチルクリックしてください。第二次世界大戦終戦間近に行われた「ポッダム会議」についての記録です。

2009.11.11


カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)(1875~1961)


 ある人に合う靴も、別の人には窮屈である。
 あらゆるケースに適用する人生の秘訣などない。

参考:スイスの精神科医・心理学者。深層心理について研究し、分析心理学の理論を創始した。

2008.4.4


アルベルト・シュバイツァー (1875~1965)

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一 わたしが原始林の中の医師となるにいたったわけ

  オゴーウェ河流域の土地と住民

 事業の基礎

 わたしは医師として赤道アフリカへ行くために、シュトラースブルク大学の教職と、オールガンと文筆を捨てた。どうしてそんなことをしたか?

 わたしは原始林の主人の肉体的窮状について読んでもいたし、宣教師たちからも聞いてもいた。そのことを考えれば考えるほど、われわれヨーロッパ人が遠方でわれわれに提出されている人道上の大問題に無関心でいるのを、ますます怪しむようになった。金持ちの男と貧しいラザロの比喩〔ルカ伝十六、一九-三一。〕はわれわれのために語られたもののように見えた。われわれは医学の進歩のおかげで病気と苦痛を癒すたくさんの知識と手段を所有しているのだから、あの金持ちのおとこである。この富のはかりがたい利益ををわれわれは自明のこととして受けている。しかし向うの植民地には貧しいラザロが、有色人種がいる。彼らはわれわれと同様に、いな、もっとひどく病気と苦痛に捕らえられながら、それと戦う手段を少しも所有していないのである。あの金持ちの男は玄関の前の貧乏人の身になってみることをせず、心の耳をかたむけなかったがために、無思慮から貧乏人に対して罪を犯したのだが、われわれも同じことをしているのだ。

 わたしは思ったヨーロッパの諸国がが植民地に医務官として置いている数百人の医師は、あの大問題のほんの一部分しか手をつけることができない。この医師の大多数は白人移民と軍隊のための診療を第一の目的としているからである。われわれの社会そのものがあの人道上の問題を自分の問題とみとめなくてはいけない。多数の医師の志願者が社会によって派遣され支援されて植民地に渡り、土人のあいだで善事を行うようなときが来なくてはいかない。そのときにはじめてわれわれは、文明人としてのわれわれが有色人種に対して負う責任を認識し、かつ果たしはじめたことになるのである。

 こいう考えに動かされて、わたしは三十歳にもなって医学を学び、植民地で理念を現実のなかでたしかめてみようと決心したのである。一九一三年のはじめに医学の学位を取った。同年の春に、すでに看護学を修めていた妻を伴って、赤道アフリカのオゴーウェ河流域地方に向って出発した。そこで活動をはじめようとしたのである。

参考:『シュヴァツァー著作集 第一巻』(白水社)による。
参考:一九五二年にノーベル平和賞を受けている。 

2010.01.05


シュバイツァー博士は“密林の聖者”ではなかった

この事実を多くの人々はまったく知らない。赤道アフリカの、旧フランス領コンゴの首都プラザビルから、480キロメートルも奥地に入ったランバレーネという小集落(現在はガボン共和国の一部)から、オゴエ川を船で40から50分さかのぼった密林の中に、シュバイツァー博士は病院を建てて、現地人の医療と伝道を始めた。1913年のことである。その後40年にわたっての努力に対して、1952年度のノーベル平和賞が与えられた。

 博士の名声と、献身的な努力は世界中に知れわたり、世界中から訪れる学徒も多く、ボランティア志望者も跡を絶たなかった。 桜沢如一夫妻が、シュバイツァーの招きに応じて、ランバレーネを訪れたのは1955年の10月であった。

 まず驚いたのは、迎えにきた船の現地人をはじめ、手足を切断されている人々が多いことであった。間もなくわかったことは、これらの現地人はハンセン病にかかり、シュバイツァー病院で切断手術を受けたということである。

 そのハンセン病は、シュバイツァーが持ち込んだ砂糖、ミルク、コーヒーなどを、現地人にとらせたために急速に広がったということを桜沢は知ったのである。ハンセン病王国の誕生である。博士の病院は入院患者で満員であった。夜になると、ぜんそく患者のせきの大合唱だった。かつては、この地方にぜんそくなどなかったのである。博士の食事指導がその原因だった。

 その他、白内障、結核、リューマチ、心臓病、腎臓病、尿道炎をはじめ、多くの病人がいた。桜沢は、これらの病人を食事だけで、極めて短時間に片っ端から治していった。

 博士が病人を製造し、桜沢がこれを治していったのである。この事実を見せられた現地人は博士を恨むようになった。

 博士が晩年に厳しい批判を浴びるようなったのはこのためである。“密林の聖者”ではなく、“密林の悪魔”だったのである。このような事態を引き起こしたのは、博士が“身土不二”の原理を知らなかったためである。

 現地人のみならず、博士のアシスタントの医師や看護婦もほとんど健康を害し、落後する者も多かった。

 現地人の病気は、異国の食物をとったためであり、医師や看護婦は、異国で遠いヨーロッパの肉食を主とした食事をとっていたためである。いずれも“身土不二の原理”に従わなかったためである。というよりは、知らなかったからである。

 桜沢は、ここで図らずも博士と対立する事態が起こった。桜沢夫妻が、不治といわれる風土病である“熱帯性かいよう”にかかったからである。

 原因は、ランバレーネ到着以来2ヶ月間、40人の白人と同じ食事をとったからである。

 その食事の材料は、95パーセントが動物性食品やバター、チーズの乳製品、砂糖で、すべてヨーロッパから取り寄せたものであった。「その土地の産物を食べる」という、身土不二の原則に違反するものだったからである。

 桜沢を見舞った博士は「切断しなければ死んでしまう」と、西洋医学式治療を勧めたが、正食の教科書には“手術”はない。桜沢は自分で治すといって手術を断った。食事だけで治す自信があったからだ。これは西洋医学への宣戦布告だった。

 そして、特別に取り寄せた玄米によって、たった8日間でこれを治してしまった。正食の勝利であった。博士はこれを知って不思議に思い、かいようの治った跡を黙って眺めるだけだった。「どのようにして治したか」を聞こうとはしなかった。

 この事実を見せつけられても、なお“正食理論”を拒否している博士に、桜沢は見込みなしと判断し、もうランバレーネに用なしとして去るより外なかったのである。

 しかし、桜沢は博士の献身的な行動は高く評価していた。病院も患者の家族も一切無料、すべて博士独りで負担していたからである。

上記の事例からは、

・西洋医学は絶対ではない
・医療分野以外の社会や環境、人体に関する総合的な見識を持つ必要がある
・事実を受け入れる(理論を現実に当てはめようとしない)

ということが重要だといえます。

 シュバイツァー博士のケースでは、本人はおそらく何の悪意も無く、善意で行った医療行為なのだと思われます。しかし、人体や病気に対する正しい認識を欠いていたために、そして、事実を見せつけられてもそれを受け入れない(専門家故の)頑迷さゆえに、目的とは正反対にむしろ病気を拡大してしまった。

 もちろん、桜沢氏のマクロビオティックも唯一絶対ではないといえます。ただ、少なくとも、「身土不二」という原理原則を知っていた分、自然の摂理に近いといえます。

 人間というのは、想像以上に環境(風土、食物、菌類他)に依存・適応している。その環境条件を考慮せずに、同じ方法論を無理矢理あてはめよう とすることはきわめて問題が大きいのだと思われます。

2016.01.23:追加


ヘルマン・ヘッセ(1877~1962年)


 一 我々がある人間を憎む場合、我々は彼の姿を借りて我々の内部にある何者かを憎んでいるのである。

 二 鳥は卵からむりやり出ようとする。卵は世界である。生まれ出ようとする者は一つの世界を破壊しなければならない。

 三 あやまちも失敗も多かった。だが後悔する余地はない。

参考:ドイツの作家

2010.01.04


アインシュタイン(1879~1955)


 一 常識とは18才までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。

 二 私たちの生き方には二通りしかない。奇跡など全く起こらないかのように生きるか、すべてが奇跡であるかのように生きるかである。

 三 聖なる好奇心をもちたまえ。人生を生きる価値のあるものにするために。

▼『アインシュタインは語る』(大月書店)

 私たちを、高尚な考えと高貴な行いに、導くことができるものは、ただひとつ、偉大で純粋な人物が示す模範である。

2008.5.26

▼『アインシュタイン選集3』「私の世界観」

   人間の真の価値

 人間の真の価値は、まず第一に彼がいかなる程度に、いかなる意味において、「私」(Ich)からの解放を果たしているかによって決定される。人間の価値の源泉は何かといえば,それは,主として思いやりであるといえよう。
 我々隣人たちに対する思いやり、即ち不幸や悲惨な状態に対する共感,これが人間的な価値の源泉であり、この源泉が思いやりという形をとって具体的に現れてくるので ある。 しかし、人間の価値には、もう一つの全く別の源がある。それは、即ち孤独な曇りの無い思惟からでてきた義務観念である。曇り無い思惟は人間を善に,そして 不屈にする。なぜなら,義務観念と曇り無き思惟とによって,その人間の人生は、よ り簡素に、より充実したものに、より豊かなものになるからである。人生がそのようになるとき,我々を取り巻く世界の不幸は少なくなり、我々と環境との間の摩擦は緩和され,人間の幸福は増大し,従って我々の心の平和が強化される。

   その他

 一 我々は、我々の隣人たちの心を変えるのに、機械的な方法によることは止めよう、そして、我々自身の心を変えて、話し合う勇気を持つようにしょう。

 二 教育の目的は、今日行われているように力と成功とを美化するのではなくて、性来の才能を伸ばすと同時に同胞に対する個々人の責任感を育てることにあると思う。

 三 神はサイコロ遊びをしない。神様は狡猾だが、しかし悪意はもっていない。
*アインシュタインの神は、もろもろの自然法則の内的な関連と論理的な統一である宇宙的自然を意味しています。

▼アインシュタインの「自画像」『晩年に思う 我が信条』(講談社文庫)

   自画像(1936)

 人々は、自らのあり方の意義深いものについては、ほとんど意識することがありま せん。そして確かにそれは、他の人々にとって迷惑なことでもないのです。一生涯、水の中で泳ぎまわっている魚は、水について何を知っているのでしょうか?
 苦きもの、そして甘きもの、それは外部よりやってきます。苦しみは、心の中か ら、自分自身の努力から生まれるのです。たいていの場合、私は自身の性質からしたくてたまらなくなることをしています。それだけのことですのに、多大の尊敬や愛情を身に受けるのは、困ったことだと思います。憎悪の矢が、私に向かって放たれたこともありました。しかしその矢が、私に刺さったことは一度もありません。というのは、そのような矢は、何か別の世界に属していて、私はそのような世界とは、なんらの関係ももたないからなのです。そのような孤独の中に、私は住まっています。その孤独は、青年時代には苦痛でもありましょうが、ひとかどの年をとってしまうと、甘美なものでもあるのです。

▼『アインシュタインの世界』インフェルト著(講談社)

 アインシュタインは、教育の目的の中で,「今日行われているように力と成功とを美化するのではなくて,本来の才能を伸ばすと同時に同胞に対する個々人の責任感を育てることに焦点が当てられるべきである。」と、p.231

 宮本 進先生からおしえていただきました。

2008.05.31 ~2010.08.31 ~2010.12.11


ヘレン・ケラー(1880~1968) (アメリカ社会福祉事業家)


 幸福の扉の一つが閉じる時は、別の一つが開きます。けれど私たちは閉じたほうばかりながめていて、こちらに向かって開かれているもう一つの方に気付かないことが多いのです。

 ヘレンケラー物語とGoogleで検索ください。


フランソワ・モーリアック(モーリヤック)(1885~1970)


 一 「わたしはよく読者からこんな質問を受ける。あなたはあなたの小説のなかで扱われている醜悪なものをどこから探し出してくるのですか?と。するとわたしは目を伏せて答えざるをえない。奥様、それはわたし自身のなかからです。」「人の心が苦しめばそこにキリストが住まわれる」

 二 君が幸福である限り、君は多くの友達を数えることができよう。だが、形勢が悪化した時には、君は独りぼっちになるだろう


ロマン・ローラン(1886~1944年)フランス人 


▼「世の中に、ただ一つの勇気がある。それは人生をあるがままに見て、これを愛することである。」

           『運命を愛し運命を生かす』P.48 (金光教徒社)
  

▼「誠実な誤りは、虚偽ではなく、それは真実へ向かう道程だ。虚偽とは誤りを恐れ、誤りをもみ消したいと思うことだ。」

 

『ロマン・ローランの言葉』P.57 (弥生書房)

▼誰でも幸福について語るが、それを知っているものは少ない。

説明:『ジャン・クリストフ』によってノーベル賞を受けた。この小説の主人公は作者が熱愛した孤独と不運の楽聖ベートーヴンをモデルにしたと言われる。

2211.01.24


マックス・ピカート(1888~1965)(ドイツ生まれ、医師)

▼『沈黙の世界』


 「何ものといえども、沈黙の喪失ほど人間の本質を変えたものはなかった」

 沈黙は決して消極的なものではない。沈黙は単に『語らざること』ではない。沈黙は一つの積極的なもの、一つの充実した世界として独 立自存しているものなのである。―P.9

 沈黙は発展するものこともなければ、時間のなかで成長することもない。しかし、時間は沈黙のなかで成長する。たとえて言えば、時間 という種子が沈黙のなかへ播(ま)かれるかのようであり、時間が沈黙のなかで萌え出るようである。沈黙は、いわば、時間がそこにおい て成熟し充(み)つるところの土壌なのだ。―P.10

参考:紀野一義『禅ー現代に生きるもの』(NHK ブックス)に、

 「沈黙の世界

 禅は沈黙の世界である

 たしかに禅は沈黙を重んずる。浴室・僧堂・西浄(さいじょう:厠)の三つの場所は昔から、三黙堂といって、語笑することを許さなかった。食堂(じきどう)の作法も沈黙のうちに行われる。しかし、沈黙というものはそういうことを言うのであるか。ものを言わないという沈黙ではなく、もっと違った意味の沈黙があるはずではないか。
 わたしははそういう沈黙こそ、禅の沈黙ではないかと思い、かなり以前からそのことについて考えて来た。

 それがあるとき、マックス・ピカートの書いた『沈黙の世界』という本を読んでいたら、この哲学者の考えている沈黙とわたしの考えていた禅の沈黙、東洋の沈黙とが全く同じであることに気がついた。これは大変面白い発見であった。ピカートのこの著書は京都大学教養部助教授が平易な日本語に訳されているので(みすず書房)、誰でも容易に読むことができる。

2008.4.23~24


アンリ・ド・モンテルラン(Henry de Montherlant)(1896~1972)フランス


 一 「その生涯において、何度も読み返し得る一冊の本を持つ人は幸せな人である。さらに数冊持ち得る人は至福のひとである。」


All Things return to Death, but God's Love create Again.」

レオン・フレデリクの絵(1856ー1940年)(銘板の言葉大原美術館)


 「All Things return to Death, but God's Love create Again.」

 「万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして再び蘇えらしめん」
※参考:OHARA MUSEUM OF ART

平成二十七年十一月二十四日


ジョセフ・マーフィー(1898~1981)英国出身の宗教者・著述家


 一 あなたの世界では、あなたがただ一人の考える人であり、他人はあなたがどのように考えようとは責任はないのです、あなただけに責任があるのです。
 (ジョセフ・マーフィー・ワンランクアップ研究会)


アーネスト・へミングウェイ(ERNEST HEMINGWAY(1899ー1961)


 釣れないときは、魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい。

私見:彼の著書に「老人と海」があります。この本をよむと、上の言葉がぴったりであると私は感じます。

参考:Born in Oak Prk, Illinois, in 1899, Ernest Hemingway was educated there in the public schools. He became a reporter on the Kansas City Star and in the World War Ⅰ served as an ambulance driver and infantryman with the Itarian army. After the war he settled in Paris as a corespondent for the Toronto Star and it was there he began his serious writing career. He served as a war corespondent during the Spanish Civil War and World War Ⅱ. In 1954 he was awarded the Novel Prize for Literature. He died in Idaho in 1961.

2008.12.3

                


カール・ロジャース(Carl Ransom Rogers)(1902~1987)心理学者


 「人間一人ひとりの中には成熟に向かって前進する力と傾向性は必ずある。」


British climber George Leigh Mallory(1902~1924)


 It was Mallory who defined the challenge of Everest in an aphorism that has became a cliché. When asked why he wanted to climb the mountain, he replied, “Because it´s “there.”

*2004.3.6〈朝日新聞〉Leigh Malloryが紹介されていた。


テモーティマー・J・アドラー(1902~)

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 テモーティマー・J・アドラーMortimer J.Adler教授に、How to Read a Book(本の読み方)というベストセラーがある。

▼アドラー教授本の読み方というのは一口でいうと、その本の伝えようとしているメッセージを直接的に表現した文字を、その本の頁の中から探し出すということである。 

出典:「図書」編集部編 『私の読書』(岩波新書)P.15 鵜養信成氏が紹介されていた。

2011.01.12


ジョージ・ケナン(1904~2005)

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▼『二十世紀を生きて』

 「子どもはブラウン管の前にじっと何もせずに坐っている。代わりにいろいろなことができるのを犠牲にしてしまうものだ。子どもが雨の日に独り部屋に残されて、そこには本が詰まった書棚と窓をしたたる雨しか面白そうなものはなく、テレビもなく、本を取り出して読むより他にすることがなかった、という経験をしたことがなければ、その子どもはまさに欠陥者なのだ。」

★ジョージ・フロスト・ケナン(英: George Frost Kennan、1904年2月16日 - 2005年3月17日)は、アメリカ合衆国の外交官、政治学者、歴史家。1940年代から1950年代末にかけての外交政策立案者で、ソ連の封じ込めを柱とするアメリカの冷戦政策を計画したことで知られる。プリンストン高等研究所名誉教授を務めた。ピューリツァー賞を受賞した

 ジョージ・ケナン 『二十世紀を生きて』

 1944年からモスクワの米大使館の代理大使を務めていたジョージ・ケナンは1946年本国に長文の電報を打電した。後にその内容は「フォーリン・アフェアー」誌に匿名X名義で「ソ連の行動の源泉」と題して発表され、この論文は冷戦下アメリカの対ソ封じ込め政策の基本路線を決定する。これにより42歳の外交官ケナンは「封じ込め政策の父」として不動の名声を確立する。この1946年はニクソンが下院議員に共和党から初当選した年であり、以後ニクソンは「反共の闘士」として売り出し出世の階段を駆け上ってゆく。一方の「封じ込め政策の父」は、しかし、そのような強面の反共主義者というのとは違ったようだ。

 突飛な連想のようだが、このケナンの著書を読みながらカズオ・イシグロの『日の名残り』を思い出した。あの小説ではヨーロッパ的なものがアメリカ的なものに位置を譲る様が描かれていた。19世紀的ヨーロッパでは政治や外交は社会的エリート(それは知的エリートと重なり、その存在は長い伝統を背景としている)の高貴な責務であり、政治はまだ一種のアートであった。(もちろんそれはユーロセントリズムであって、19世紀から20世紀前半は帝国主義の時代であった。)しかし、20世紀、政治や外交は海千山千のプロのとなったのだ。

 この分類から言えば、ケナンは19世紀的人間だったように感じられる。そもそもその伝記を書こうと資料を集めるほどチェーホフ(他の作家ならともかく、チェーホフである)を愛し、人生で最後の書のタイトル(原題 Around the Cragged Hill)をジョン・ダンの一節から取るような人物は、「非米活動委員会」で国民の反共ムードを煽り、大統領となるや中国と和解し、民主党ビルにスパイを侵入させるなどということはできないのだ。実際、ケナンがアメリカの外交の中心にいたのは僅か2年ほどで、以後は傍流へと追いやられ、彼の具申した意見が取り上げられることはなく、外交官としてもさしたる業績をあげることなく、49歳で官界を引退し学究の生活に入る。

 確かにケナンは共産主義を好まないが、それはイデオロギー的な反感というよりも、彼がその政治思想の基盤としている人間観とはあわないことからきているように思われる。それはこんな感じだ。「人間は、自分の行動を文明の必要に合わせて形成しようと試みる限りでは、ひび割れた器だ。」あるいは、「他人に対する優越、権威、権力と、そこから派生する大げさな敬意への欲求にこそ、人間の自己尊重の弱点―個人がその妥当な限度をわきまえることができないという、その非自律的な性質と、増長の傾向―が最も有害な表れ方をする。」この個人が、そして国家が己の分をわきまえ行動することがケナンにとって政治の原則である。

 例えば、ケナンは言う。「アメリカが世界で救世主的役割を果たすことには、私は全面的に、断固反対だ。つまり我々が自分を人類の教師と救済者に擬することに反対、自分が特異の、他より優れた美徳があるとする幻想に反対、マニフェスト・ディスティニーとか『アメリカの世紀』などと口走って、建国以来、いやそれ以前から、すべての世代のアメリカ人を引き付けてきたビジョンに反対だ。」また、アメリカが誇る強大な軍事力については「だが...個人、集団を問わず、何らかの罪をともなわない力はない」と語る。もちろん、軍事力そのものを否定するわけではないが。

 総じて、ケナンの外交、内政に関する見解を見ていると、まるでストア派の哲学者が政治を語っているようだ。もしかしたら、彼は外交官時代、毎朝ベッドの中でマルクス・アウレリウスのようにこう独りごちしていたかもしれない。「うるさがたや、恩知らずや、横柄な奴や、裏切者や、やきもち屋や、人づきの悪いものに私は出くわすだろう。この連中にこういう欠点があるのは、すべて彼らが善とはなんであり、悪とはなんであるかを知らないところから来るのだ。」彼が官僚としてさしたる業績もあげられなかった理由のひとつは彼が「根回し」を嫌ったことにもあるらしい。

 このような人物として彼は保守的である。民主主義は擁護するだろうが、民主主義や自由平等の原則が行過ぎると政治は衆愚化し、ポピュリズムに奔る政治家と巨大で非効率的で極めて短期的で狭い視野しかもたない官僚組織を生むもので、実際にアメリカはそこに陥っていると考えているようだ。そして、アメリカが道を誤らないように、徳と教養を兼ね備えた尊敬すべき人物からなる元老院のような諮問機関の設置を提案しているが、これも受け入れられることはないだろう。

 どうも、やはりケナンはあの『日の名残り』の貴族の館での集いが似合う人物のような気がする。ただ、そのような人物は嫌いではない。<インターネットによる>


ビクトル・フランクル(1905~1997)


▼『夜と霧』 ドイツ強制収用所の体験記録――◆――霜山徳爾訳(みすず書房)

 強制収用所(*:アウシュヴィッツ)における人間を内的に緊張せしめようとするには、先ず本来のある目的に向かって緊張せしめることを前提とするのである。囚人に対するあらゆる心理治療的あるいは精神衛生的努力が従うべき標語としては、おそらくニーチェ(*:フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ:1844年10月15日~1900年8月25日)は、ドイツの哲学者・古典文献学者)の<何故生きるかを知っている者は、殆どあらゆる如何に生きるか、に耐えるのだ。>という言葉が最も適切であろう。すなわち囚人が現在の生活の恐ろしい「如何に」(状態)に、つまり収容所生活のすさまじさに、内的に抵抗に身を維持するためには何らかの機会がある限り囚人にその生きるための「何故」をすなわち生活目的を意識せしめねばならないのである。P.182

 反対に何の生活目標をももはや眼前に見ず、何の生活内容ももたず、その生活において何の目的も認めない人は哀れである。彼の存在の意義もなくなってしまうのである。このようにして全く拠り所を失った人々はやがて仆れて行くのである。あらゆる励ましの言葉に反対し、あらゆる慰めを拒絶する彼等の典型的な口のきき方は、普通次のようであった。「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」これにたいして人は如何に答えるべきであろうか。

 ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題ではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題である。そのことをわれわれ学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。P.182

P.182~183:*は私が加えたもの。

2008.5.3 〈憲法の日〉


▼参考1:五木寛之『大河の一滴』(冬幻舎文庫)に次のような記述があります ituki.taiganoituteki.jpg

 『夜と霧』について、ほとんどの人が死んでいくなかでフランクルがどのようにその極限状態を生き抜いて奇蹟の生還を遂げたか、ということが、ぼくにとって興味の的だった。いろんなことがあります。でも、そのなかに、ひとつだけ印象的なエピソードがあるのです。

 精神科医だったフランクルは、人間がこの極限状態のなかを耐えて最後まで生き抜いていくには感動することが大事、喜怒哀楽の人間的な感情が大切だ、と考えるのです。無感動のあとにくるのは死のみである。そして自分の親しい友達と相談し、なにか毎日ひとつずつおもしろい話、ユーモラスな話をつくりあげ、お互いにそれを披露しあって笑おうじゃないか、と決めるのです。

 あすをも知れない極限状態のなかで笑い話をつくって、お互いに笑いあうなんていうことにはなんの意味があるのか、と思われそうですけども、そうではないのです。あすの命さえも知れないような強制収容所の生活のなかでユーモアのあるジョークを一生懸命にに考え、お互いに披露しあって、栄養失調の体で、うふ、ふ、ふ、と、力なく笑う。

 こういうことをノルマのように決めて毎日実行したというのですが、むしろそういうことも、ひょつしたらフランクルが奇蹟の生還をはたしたのでないか、と思います。P.170~171

2008.5.28


abemituko.jpg ▼参考2:阿部光子『日々の読書ー聖書とともに』(彌生書房)に次のような記述があります

 フランクル『夜と霧』ーー人間不信に陥ったとき P.55

 さまざまのことで、人間不信に陥ったとき、『夜と霧』を読み返して元気づけられるのだと、遠藤周作がいっていたことがある。『夜と霧』は原題『強制収容所における一心理学者の体験』を訳したものだが、発行以来二十年近い間、出版社みすず書房のベストセラーとなった。すでに古典としての位置を確保しているものである。

2010.07.01


▼参考3:訳者霜山徳爾(1919~2009)について

朝日新聞2011.04.20付「人・脈・記」の記事から

 霜山徳爾、90歳。戦後、上智大学で教えた。ビクトル・フランクルの『夜と霧』を訳した人だ。

 霜山は、大正8(1919)年の生まれ。戦争で東京帝国大学を繰り上げ卒業。海軍の実験心理研究部にいた。出張した鹿児島・鹿屋で特攻隊の出撃を見送った。

 「霜山先生は、帰りも『さよなら』と言わずに『ごきげんよう』とおっしゃった。特攻隊員がそうあいさつして飛び立っていったって」

 70年代に、夜間の上智社会福祉専門学校で霜山に教わった坂上和子(56)は、ふり返る。

 「おんぼろなかばんから、きちんと準備した教材を取り出して、先生はたくさんの大学で教えていたけれど、『苦学しているあなた方に会いたかった』って、私たちは笑って、泣いて、聞きほれて」

 坂上は、母親が自殺して父親が蒸発し、修道院の児童養護施設で育った。自殺したら地獄にいく、と教えられた。ところで霜山は「人間は、宗教で自殺を禁じなければならないほど死に魅せられる、弱い存在である」と言った。

 「しみ入るような言葉を先生はたくさん持っていた」

 『夜と霧』の原著は『一心理学者の強制収容所体験』という題の、薄い本だ。

 フランクルはウィーン生まれのユダヤ人医師。オーストリアがドイツに併合され、42年にテレージエンシュタット収容所に送られた。アウシュビッツで妻と別れ、フランクル自身は45年4月27日にドイツで解放される。しかし母はアウシュビッツのガス室で、妻は、アンネ・フランクのいたベルゲンベルゼン収容所で解放後に死亡していた。

 自由と失望のなか、フランクルは『夜と霧』 を9日間口述筆記」させたという。46年にウィーンの出版社が3千部を出し、2刷も出したが、売れずに絶版にした。

 それを、53年から西ドイツに留学した霜山が偶然、本屋で見つけたのだ。

 霜山は感銘を受け、ウィーンにフランクを訪ねた。飲んで語りあったときののことを訳者のあとがきに書いている。

 <私を感動させたのはアウシュビッツの事実の話ではなくて……それは別なルポルタージュで私はよく知っていた……彼がこの地上の地獄ですら失わなかった良心であった>

2011.04.22


シモーヌ・ヴェイユ (1909~1943)


 与えるというのではないが、人に是非渡しておかねばならぬ大切な預りものが、自分の内にある。

参考:フランスの女性哲学者。田里亦無『道元禅入門』に引用されていた。

2012.12.31


マザー・テレサ (1910~1997)

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 マザー・テレサ(Mother Teresa、本名はアルーマニア語でアグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ (Agnesa/Antigona Gongea Boiagi)、アルバニア語でアグネス・ゴンジャ・ボヤジュ (Agnese Gonxhe Bojaxhiu)、1910年8月26日 -1997年9月5日)はカトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者である。

「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は修道名である。カトリック教会の福者。コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。

生前からその活動は高く評価され、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラト・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ名誉市民に選ばれている(アメリカ名誉市民はわずか7人しかいない)。2003年10月19日、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。


Mother Teresa' Words

 01 May be just your smile.

 02 May be just write a letter for them.

 03 I ask you, share the joy of loving.

 04 The less we have, the more we can give.

 05 A clean heart can see God.

 06 Where is God? God is right there.

 07 We are God's own children.

 08 Love, as I have loved you.

 09 The fruit of prayer is knowledge.

 10 The fruit of knowledge is love.: knowledgeとwisdomの違いは?

 11 The fruit of love is service.

 12 Prayer will be our strength.

 13 And in the silence of the heart God speaks.

 14 Love is action.

 15 Even the poorest of the poor can act to share.

 16 Yesterday is gone, tomorrow has not yet come.:不将不逆

 17 We have only today to be busy, to take care, to love and to be loved.

 18 Let us not spend time in worrying about tomorrow but let us love God.:明日は明日の風が吹く。

 19 Love one another and respect and every possible life today.

 20 Love until it hearts.

 21 We should give not only from our surplus but also from giving up something.

 22 What we do seems no more than a drop in the ocean.

 23 The ocean is made of drops. If that drop were not in the ocean, I think the ocean would be less because of the missing drop.:大河の一滴

 24 Love begins at home.

 25 To love is really difficult, to love in the family most difficult sometimes. So let us learn to love at home.

 26 Do small things with a great heart.

 27 What I do, you cannot do. What you do, I cannot do. But together we can do something beautiful for God.

 28 There are many poor people in this beautiful country. They are not hungry for food but for love.

 29 Those who feel unwanted, unloved and uncared for are also very poor.

 28 There are many poor people in this beautiful country. They are not hungry for food but for love.

 30 Mother Teresa often said was a carrier of love. She always tried to carry God's love to everyone. She kept giving food to those who were starving for food, shelter to those and did not have houses, and clothing to those who were naked. And she gave love to people who felt abandoned, unnecessary, unwanted.

略歴:
1910.8.27 マケドニア共和国に生まれた。
1979年、ノーベル平和賞受賞。 
1952年、〈死を待つ人の家〉を開設。
199?年、インドのカルカッタで死亡。
寺田一清様〈マザーテサのことば〉より。


「マザーテレサの言葉」の追加

 人生とは生きることです。戦いぬいてください。

 Life is an opportunity, benefit from it.
 人生とは機会です。そこから恩恵を受けてください。

 Life is beauty, admire it.
 人生は美しい。それを尊んでください。

 Life is a dream, realize it.
 人生とは夢です。それを実現してください。

 Life is a challenge, meet it.
人生とは挑戦です。それをかなえてください。

 Life is a duty, complete it.
 人生とは義務です。それを完成しとげください。

 Life is a game, play it.
 人生とはゲームです。それを楽しんでください。

 Life is a promise, fulfill it.
 人生とは約束です。それを果たしてください。

 Life is sorrow, overcome it.
 人生とは悲しみです。それを乗り越えてください。

 Life is a song, sing it.
 人生とは歌です。それを歌ってください。

 Life is a struggle, accept it.
 人生とは苦労です。それを受け入れてください。

 Life is a tragedy, confront it.
 人生とは悲劇です。それを慰めてください。

 Life is an adventure, dare it.
 人生とは冒険です。それを思い切ってやってください。

 Life is luck, make it.
 人生とは運です。それを作っていってください。

 Life is too precious, do not destroy it.
 人生とはあまりにも貴重なものです。それを壊さないでください。

 Life is life, fight for it.
 人生とは生きることです。戦いぬいてください。

 Be faithful in small things because it is in them that your strength lies.
 小さな事に忠実でありなさい。小さな事の中にあなたの強さが宿るのですから。

  Little things are indeed little, but to be faithful in little things is a great thing.
 小さなことは本当に小さい。でも、小さなことに信念を持つのは偉大なことです。

 We cannot do great things. But we can do small things with great love.
 私たちに偉大なことはできません。偉大な愛で小さなことをするだけです。

 People are often unreasonable and self-centered. Forgive them anyway.
 人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。

 If you are kind, people may accuse you of ulterior motives. Be kind anyway.
 あなたが親切であれば、人々はよからぬ思いを秘めてあなたを非難するかもしれません。 気にすることなく、親切であり続けなさい。

 If you are honest, people may cheat you. Be honest anyway.
 あなたが正直で誠実であれば、あなたを騙そうとする人が現れるでしょう。気にすることなく正直で誠実であり続けなさい。

 If you find happiness, people may be jealous. Be happy anyway.
 あなたが幸せを見つけたら、人々が嫉妬するかもしれません。気にすることなく、幸せでいなさい。

 The good you do today may be forgotten tomorrow. Do good anyway.
 あなたが善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、善を行い続けなさい。

 Give the world the best you have and it may never be enough. Give your best anyway.
 あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。全く足りないかもしれません。気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。

 For you see, in the end, it is between you and God. It was never between you and them anyway.
 なぜなら、結局のところそれはあなたと神様の間だけのことなんです。気にすることなく、あなたと周りの人の間とは全く無関係なのです。
 大切なことは、たくさんのことをし遂げることでも、何もかもすることでもありません。
 大切なことは、いつでも何に対しても喜んでする気持ちがあるかどうかなのです。
 倒れるまで一生懸命働くことも、力以上に働くことも、してできないことはありません。
 でも、そんなに働いても、それが愛に基づいてなされていないなら、神の目には無益なことでしかないのです。
 主よ、あなたの平和を人々にもたらす道具として私をお使いください。
 憎しみのあるところには愛を。不当な扱いのあるところには許しを。
 分裂のあるところには一致を。疑惑のあるところには信仰を。
 疑っているところには真理を。絶望のあるところには希望を。暗闇には光を。
 悲しみのあるところには喜びをもっていくことができますように。
 慰められることを求めるよりは慰めることを。
 理解されるよりは理解することを。
 愛されることよりは愛することを求める心をお与えください。
 わたしたちは自分を忘れ去ることによって自分を見出し、許すことによって許され、死 ぬことによって永遠の命をいただくのですから。

参考:「愛をこめて 生きる」

平成二十七年十一月二十四日、M先生より。


マザー・テレサ「聖人」に バチカンで式典 2016/9/4 18:49

 【ローマ=共同】ローマ法王フランシスコは9月4日、バチカンのサンピエトロ広場で、インドのスラム街を拠点に貧困救済に生涯をささげ、1979年にノーベル平和賞を受賞した故マザー・テレサ(1910年~97年)をカトリック教会で最高の崇敬対象「聖人」とする列聖式を執り行った。

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4日、バチカンのサンピエトロ広場でマザー・テレサの列聖式に参加する人々=AP

 列聖式にはカトリック教徒のほか、ヒンズー教徒なども含め、宗教の壁を越えて世界中から多数の人々が参加。治安当局は厳重警備で臨んだ。

 マザー・テレサは現在のマケドニアの首都スコピエ生まれ。インドで貧しい人々のために献身し、「コルカタ(カルカッタ)の聖女」としてヒンズー教徒やイスラム教徒からも尊敬された。ノーベル平和賞受賞後、97年にインドで死去した。

 聖人となるには、「奇跡」を起こしたとの認定が必要。バチカンによると、2008年に脳感染症で助かる見込みがないとされたブラジル人男性の家族がマザー・テレサに祈ったところ、男性が回復したことが奇跡と認められた。列聖式にはこのブラジル人男性と妻も参加する予定。

 マザー・テレサは03年、没後わずか6年という異例の早さで聖人の前段階の「福者」に列せられ、バチカンでの列福式には約20万人が集まった。

平成二十八年九月五日


Francois Mitterrand(1916~1996)


 フランスの政治家。社会党所属(第一書記)。第21代フランス大統領(フランス第五共和政)を2期14年にわたって務め、1993年からはアンドラ公国の共同元首にも就任した。

 一 One should be careful to talk only about things that one knows well.


John F. Kennedy(1917~1963)

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 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(英語: John Fitzgerald Kennedy、1917年5月29日 - 1963年11月22日)は、アメリカ合衆国の政治家。第35代アメリカ合衆国大統領。在任中の1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された(ケネディ大統領暗殺事件)。

 大統領就任演説の言葉(Inaugural Address)

   And so, my fellow Americans: Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.
 My fellow citizens of the world : Ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.


アレックス・ヘイリー(1921~1992)


▼『ルーツ』(社会思想社) donarudo.jpg

 安岡章太郎・松田鈇 共訳

 オバマ(第44代米合衆国大統領)が誕生する。47歳の初の黒人(ケニア出身)。

 2009年1月11日 NHKのTV放送「海外ネット 変わる米国人」の番組を視聴していますと

 米国に住むアフリカ人は先祖についてしらないので、自分のルーツを調べる人が出て来ている。さらにルーツを調べる会社まで立ちあがっている。DNAの鑑定法を使用してアフリカのどこの国の出身を知る人が増えていると報道されていた。

 オバマ大統領誕生の影響であることはあきらかである。


 この報道で思出だしたのは、1977年9月15日 (社会思想社)初版第一刷発行された『ルーツ』ROOTS ALEXHAILEY アレックス・ヘイリー著である。

 アレックス・ヘイリー:一九二一年八月十一日、ニューヨーク州イサカに生まれる。一七歳の時、カレッジを中退、以後二十年間沿岸警備隊に勤務。退任後、フリーランサーとして数々の雑誌に寄稿、一九六五年には『マルカムX自伝』を出版。
 みずからの先祖をさがしあてた本書『ルーツ』は世界的なベストセラーとなり、一躍世界の寵児となる。カバーの文書より。

 この本の帯紙に書き込まれているものを引用する

●プューリッツア特別賞*全米優良図書賞 人間の自由と尊厳を訴え感動を誘ふ一大叙事詩

野間 宏氏推薦

 じつに面白い小説である。皮膚の色による冷酷な差別、鞭の下の奴隷は、いかにしてつくり出されたか。それを父、母、祖父、祖母、さらに遠くへとさかのぼり、自身のうちにやどる黒人の強烈なすぐれた精神の出所をさぐりあてていくこの作品によって、アメリカがてらし出されるのである。作品はすさまじい智慧をもって、鞭を折り、新しい大衆小説の道をひらいたといえる。

 私は、上下二巻のこの本を一九七七年九月三日(約三十二年前)に購入して、内容に取り込まれて一気に読んだ感動が残っている。

2009.1.12


ドナルド・キーン(1922~)

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▼『百代の過客 上・下』 日記にみる日本人(朝日選書)
 金関寿夫訳

 目次

 序 日本人の日記

 Ⅰ 平安時代

 『入唐求法巡礼記』…作者:僧円仁。八三八年~八四七 漢文で書いた日記の中で、最も詳細なもの。

*以前、私は読みかけたことがある。

 『土佐日記』…作者:紀貫之。文学的風趣を具えた日本人の日記としての『土佐日記』は、次の有名な言葉で始まっている。 

*私の手元に文庫本がある。

 男もすなる日記といふものを女もしてみむととてするなり。

 『蜻蛉日記(かげろうにっき)』…作者:藤原道綱の母。『土佐日記』を書いたのは、女性のふりをした男だったが、『蜻蛉日記』の作者は、正真正銘の女であった。

   『御堂関白記』…作者:藤原道長。この日記の用語は、漢文のように見えて、漢文ではない。速記で書いた日本語という方があたっている。 

 『和泉式部日記』…作者:和泉式部。『和泉式部日記』について常に最初に問われるのは、果たしてこの書物を「日記」と読んでよいか、どうかである。 

 『紫式部日記』…作者:紫式部(源氏物語の女流文学者)。 

 『更科日記(さらしなにっき)』…作者:菅原孝標(たかすえ)の女の日記。 

 『多武峰少将物語(とうの みねしょうしょうものがたり)』…作者未詳。 

 『成尋阿闍梨母集』…作者:成尋阿闍梨(じようじんあじゃり)の母。当時おそらく八十四歳であった一老女が、日記を書き始める。日記の中心的主題は、わが息子を慕う母のこころである。 

 『讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)』…作者:藤原長子。六年間仕えた堀河天皇崩御の直後にかいたものでである。天皇の回想を、もっぱら記述したものである。 

 『中右記(ちゅうき)』…作者:藤原宗忠。堀河、鳥羽、崇徳三天皇の治世を扱っており、「平安末期、院政時代の政治、人情、風俗などの最も重要な資料」といわれている。 

 家集と歌物語…平安時代の終末期になると、とくに源平の乱のような戦乱が勃発し、ために日記には、新しい劇的な要素が持ち込まれることになった。

 Ⅱ 鎌倉時代

 『建礼門院右京大夫集…作者:建礼門院右京大夫(けんれいもんうきょうだいぶ)。平安末期の女流歌人。 

 『たまきはる』…作者:健御前。建礼門院右京大夫が彼女の回想録を書いていたとほぼ同じ時期に、やはり一一五七年生まれのもう一人の宮廷女性が、平行するように日記をかいている。この日記は、作者のの名を取って時に『健御前日記(こんごぜんにっき)』と呼ばれることもあるが、もっと普通には『たまきはる』と呼ばれている。巻頭に出てくる和歌からとったものである。

 『明月記』…作者:藤原定家。藤原定家の『明月記』が、日本人が書いた日本人が書いた日記の中で、最も重要なものの一つであることは疑いをいれない。『明月記』は、漢文で書かれているために、まだ日本語に翻訳されたことがない。国史学者が、この書物の内容に精通していることはいうまでもない。…今川文雄氏による読み下し本――昭和五十二~三年に全六巻で出版されたもの――には、高橋貞一博士の序があり、その中に次のような文章がある。「公卿の日記や記録で、今日までに訓読せられたものは皆無である。唯東鑑(あづまかがみ)のみが江戸初期にに訓読せられているに過ぎない。訓読は簡単なように見えて至難の事業である。社会全般の事が解せられ始めて成就するものである」

 『源家長日記』…いわば文学的珍品である。漢文ではなく、大和言葉でで書かれている。男の作者が女のふりをしてかいたあの『土佐日記』のことを思い出していた。『源家長日記』は、それとは逆の効果をつくり出している。ここでは、まるで女が男に化けて書いたように見せかけているのである。 

 『いほぬし』…作者:増基。増基(ぞうき)の旅日記は、明らかに十世紀の終わり頃に書かれたらしく、鎌倉時代紀行文に一番近い祖型をなすのでものある。ただし作者は、自分を表すのに「庵主(いぬほし)という三人称を用い、彼が語っている二つの旅の時期については、口を濁してて言っていない。 

 『高倉院厳島御幸記』…作者:源通親(みちちか)。歌のほうでは藤原定家のライバル、後に後鳥羽上皇和歌所寄人(よりうど)の一人として、常にあまりぱっとしない助言ばかりしていた人物である。この作品は、鎌倉および室町時代に、数多く行われた旅日記の嚆矢とされている。 

 『高倉院昇霞記(たかくらいんしょうかき)』…作者:源通親。治承五年(一一八一)ある春の日の早朝、前年の厳島行幸のあと不思議な病気に取りつかれた高倉院は、今や明らかに全復の望みを失い、「枕を北にし、魂の御在所も西方に移して」近まる臨終を覚悟したと、源通親は『高倉院霞記』にかいている。…日記の形式で書かれた挽歌といえる。題にある「昇霞」という言葉は、高倉院の遺体を荼毘(だび)に付することを言ったのである。 

 『海道記(かいどうき)』…貞応二年京都から東海道を経て鎌倉に至って帰洛した間の紀行。筆致暢達詩藻優麗な駢儷体(べんれいたい)的な文で、当時の散文の新様式を示し、また仏教思想横溢。源光行の著というが不明。(広辞苑に記述) 

 『信生法師日記』…作者:信生(しんじょう)法師。単なる「芳縁」によって鎌倉への旅をした『海道記』の作者とは異なり、信生の旅は仏道修行がその目的であった。従って道中のすべての体験が、彼にとってはなんらかの道徳的教訓となったのである。 

 『東関紀行(とうかんきこう)』…作者未詳。しばしば『海道記』と対にして論じられる。…この作品が、以後何世紀にもわたって熱心に読まれ、また後生の紀行文作者、とくに芭蕉に、大きな影響を与えたのはうなずける。 

 『うたたね』…作者阿仏。十七か十八の時に書いたといういう日記『うたたね』を最近読んで、息子の権利のために闘うには獰猛をきわめ、歌についての見解では他に譲るところのなかったこの女性の少女時代を、私は初めて知ることができた。『うたたね』は感動的な日記であり、日記文学のうち、最もすぐれた作品の一つである。これよりさらに有名な『十六夜日記』と比べても、すべての点で、この方が勝っている。 

 『十六夜日記』…作者:阿仏。…『十六夜日記』の文学的価値は、それに収められた短歌八十八首と、長歌一篇とを、どれほど高く評価するかにかかっている。
*中学の教科書でこの日記の一部が説明されていたような記憶が? 

 『飛鳥井雅有日記』…作者:飛鳥井雅有(あすかいまさあり)。雅有の現存する日記は、すべて仮名書き(和文)である。だが当時の貴人の例にもれず、漢文でも日記を書いていたに違いない。 

 『弁内侍日記(べんのないしにっき)』…作者:弁内侍の作か。 

 『中務内侍日記(なかつかさのないしにっき)』…作者:中務内侍。宮廷に起こったさまざまな楽しい出来事をたっぷり描いている。

 『とはずがたり』…作者:久我雅忠の娘二条。京都の宮廷の生活を描いた日記。 

 『竹むきが記』…作者:日野名子。

 以上が上巻の目次で作者と内容のなかの記述の一部分をの抜書きしました。以下は下巻のものである。

 Ⅲ 室町時代

 大神宮参詣記 都のつと 小島の口すさみ 住吉詣 鹿苑院殿厳島詣記 なぐさめ草 富士紀行 善光寺紀行 藤河の記 廻国雑記 白河紀行 筑紫道記 宗祇終馬記 宇津山記 宗長手記 東国紀行 吉野詣記 富士見道記 玄与日記 幽斎旅日記 九州の道の記 高麗日記

 Ⅳ 徳川時代

 戴恩記 丙辰紀行 近世初期宮廷人の日記 遠江守正一紀行 東めぐり 丁未旅行記 野ざらし紀行 鹿島詣 笈の小文 更科紀行 奥の細道 嵯峨日記 西北紀行 東海紀行 帰家日記 庚子道の記 伊香保の道行きぶり 風流使者記 蝶之遊 長崎行役日記 江漢西遊日記 改元紀行 馬琴日記 長崎日記 下田日記 終わり  参考書目録 あとがき 索引

 以上の目次である。 

*ドナルド・キーン(Donald Keene) ニューヨーク生まれ。日本文学を多数海外に紹介。文化勲章受賞。

 上巻については朝日新聞に同名で連載。上巻には一九八三年七月十四日から十一月十五日までの掲載文を収録した。と書かれている。


 最近、書物などを整理していると、『続百代の過客』 日記にみる日本人 の朝日新聞の切り抜きがあった。一九八六年十月十三日から一九八七年三月二七日までのものが保管されていた。

 目次は以下のとおり

 序章 航海日記 奉使米利堅紀行 西航記 尾蠅欧行漫録 欧行日記 仏英行 航西日記 米欧回覧実記 航西日記 桟雲峡雨日記 松浦武四郎北方日誌 南島探検 航西日記 独逸日記 夏目漱石日記 新島襄日記など。

   *二十年十一月十八日:『続百代の過客 上・下』 日記にみる日本人 はすでに発行されていることを知りました。

総括感想:

 私はこの本をめくるだけで、ドナルド・キーン氏の研究の成果には驚かされる。

 一 書名すら正しく読めないものがある。従って作者は知らないので辞書などで確認する。

 二 この本で取り上げられているものの中で読んだ本はがわずかである。

 三 文学関係者、歴史家(作家)以外のひとでは読まれて人は少ないのではなかろうか?

 四 これから関心をもった少しずつでもよんでみたい。歴史の勉強にやくだつ。大学入試で手一杯でである声が聞こえてきますが、高校の国語の時間にもう少しおしえてはと感じた。国語の先生も漢文で書かれたもの以外の古文で取り上げられているものをくみ上げられてはと思ったりする。

 五 『続百代の過客 上・下』は『百代の過客 上・下』に比べて私どもにははるかに身近で読みやすいようです。

2008.11.18


追加:(2012年3月8日22時59分 読売新聞)による。

 日本国籍の取得が認められた日本文化研究者のドナルド・キーンさん(89)が8日、居住先の東京都北区の区役所を訪問し、記者会見を行った。

 キーンさんは「日本人として犯罪を起こさないことを誓います」と会見でユーモアを交えて心境を述べた。震災後の日本の現状については、「東京は(電気が)明るく、必要のない看板もたくさんある。やるべきことがたくさんあると思う」と、真剣な表情で語った。

 さらに、日本人名の「キーン ドナルド」と同時に、雅号として「鬼怒(キーン・ド)鳴門(ナルド)」を使うことを表明。鬼怒川の鬼怒と四国の鳴門から漢字をあてたと由来を説明し、会見終了後、報道陣にさっそく名刺を配った。


アイアコカ(IACOCCA)(1924~)

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アイアコカ自伝(IACOCCA)

 PROLOGUE

 Your's about to read the story of a man who's had more than his share of successes. But along the way, there were some pretty bad times, too. In industry, the day I remember most vividriy had nothing at all tod with new cars and promotions and profits.

 I began my life as the son of immigarants, and I worked my way up to the presidency of the Ford Mortor Company. When I finally got there, I was on the top the world. But then fate, said to me: "Wait. We're not finished with you. Now you're going to find out what it feels like get kicked off Mt. Everest!”
 On July 13, 1978, I was fired. I had benn president of Ford for eight years and a Ford employee for thirty-two. I had never worked anywhere else. And now, suddenly, I was out of a job. It was gut-wrenching.
 Offically, my term of emplyment was to end in three months. But under the terms of my “resignation,”at the end of that period Iwas to given the use of an office until I found a new job.

 On October 15, my final day at the office, and just incidentally my fifty-fourth birthday, my driver drove me to World Headquarters in Dearborn for the last time. Before I left the house, I kissed my wife, Mary, and my two daughters, Kathi and Lia. My hamily had suffered tremendously during my final, turburent months at Ford, and that filled me with rage. Perhaps I was responsible for my own fate. But what about Mary and the girls? Why did they have to go through this? They were the innocent victims of the despot whose name was on the building.
 Even today, their pain is waht stays with me. It's like the lioness and her cubs. If the hunnter knows what's good for him, he'll leave the little ones alone. Henry Ford made my kids suffer, and for that I'll never forgive him.
 The very next day I got into my car and headed out to my new office. It was in an obsucure warehouse on Telegraph Road, only a few miles from Ford's World Headquarters. But for me, it was like visiting another planet.
 I wasn't exactly sure where the office was, and it took me a few minitues to find the right building. When I finally got there, I did't even know where to park.
 As it turned out, there were plenty of people around to show me,. Someone had alerted the media that the newly deposed presiden of Ford would be coming to work here this morning, and a small crowd had gathered to meet me. A TV reporter shoved a microphone in my face and asked:“How do you feel, coming to this warehouse after eight years at the top?”
 I couldn't bring myself to answer him. What could I say? When I was safely out of camera range, I muttered the truth. “I feel like shit.”I said.
 My new office was little more than a cubicle with a small desk and a telephone. My secretary, Dorothy Carr, was already there, with tears in her eyes. Without saying a word, she pointed to the cracked linoleum floor and the two plastic coffee cups on the desk.

 Only yesterday, she and I had been working in the lap of luxury. The office of the president was the size of a grand hotel suite. I had my own bathroom. I even had my own living quarters. As a senior Ford executive, I was served by white-coated waiters who were on call all day. I once brought some relatives from Italy to see where I worked, and they thought they had died and gone to heaven.
 Today, however, I could have been a million miles away. A few minutes after I arrived, the depot manager stopped by pay a courtecy call. He offered to get me a cup of coffee from the machine in the hall. It was a kind gesture, but the incongruity of my being there made us both feel awkward.
 For me, this was Siberia. It was excile to the farthest corner of the kingdom. I was so stunned that it took me a few minutes before I realized I had no reason to stay. I had a telephone at home, and somebody could bring me the mail. I left that place before ten o'clock and neve went back.

 This final humiliation was much worse than being fired. It was enoug to make me want kill―I wasn't quite sure who, Henry Ford or myself. Murder or suicide were never real posibilities, but I did atart to drink a little more―and shake a lot more. I really felt I was coming apart at the seams.
 As you go through life, there are thousands of little forks in the road, and there are a few really big forks―those moments of reckoning, moments of truth. This was mine as I wondered what to do. Shuold I pack it all in and retire? I was fifty-four years old. I had already acommplished a great deal. I was financially secure. I could afford to play golf for the rest of my life.
 But that just didn't feel right. I knew I had to pick up the pieces and carry on.

 There are times in everyone's life when something constructive is born out of adversity. There are times when things seem so bad that you've got to grab your fate by the shoulders and shake it. I'm convinced it was that morning at the warehouse that pushed me to take on the presidency of Crysler only a couple of weeks later.
 The private pain I could have endured. But the deliberate public humilitation was too much for me. I was full of anger, and I had a simple choice; I could turn that anger against myself, with disastrous results. Or I could take some of that energy and try to do some productive.
“Don't get mad,”Mary reminded me. “Get even.” In times of great stress and adversity, it's always best to keep busy, to plow your anger and your energy into something positive.
 As it turned out, I went from the frying pan into the fire. A year after I signed up, Crysler came within a whisker of bankruptey. There were many days at Crysler when I wonderes how I had got myself into this mess. Being fired at Ford was bad enough. But going down with the ship at Crysler was more than I deserved.
 Fortunately, Crysler recovered from its brush with death. Today I'm a hero. But strangely enough, it's all because of that moment of truth at the warehouse. With determination, with luck, and with help from lots of good people, I was able to rise up from the ashes.
       Now let me tell you my story.

 My opinion:I bought this paperbook in 1995. Today:2008, I am surprized at the speed of the technology, for exsamle IT, Motor car and so on.

2008.6.14   


 一 If you ask me the name of my professor in college or graduated school, I’d have trouble coming up with more tan three or four. But I still remember the teachers who molded me in elementary and high school.

 二 I felt like a rug merchant who needed to raise some cash in a hurry. And my spirits were low because wherever I turned, there was nobody saying, “ Give it a go, you can make it.”

 三 At the same time, he hated to see any of us unhappy and would always try to cheer us up. Whenever I was worried about anything, he’d say: “Tell me, Lido, what were you so upset about last month? Or last year? See-you don’t even remember! So maybe what you’re so worried about today isn’t really all that bad . Forget it, and more on to tomorrow.”

 1、One exercise I remember was that we had to talk off the cuff or two minutes about something we know nothing about --such as Zen Buddhism,for example.

 2、I only wish I could find an institute that teaches people how to listen. After all, a good manager needs to listen at least as much as he needs to talk. Too many people fail to realize that real communication goes in both directions.

 3、If you want to give him a man credit, put it in writing. If you want to give him hell ,do it on the phone.


キューブラー・ロス

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著書「死ぬ瞬間」の誕生」
 キューブラー・ロス(Dr. Elisabeth Kübler-Ross)

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 生誕:1926年7月8日~スイスチューリッヒ、死没:2004年8月24日(78歳没)

 米国アリゾナ州スコッツデール研究分野 精神医学研究機関 シカゴ大学

 主な受賞歴 アメリカ国家女性殿堂(National Women's Hall of Fame)

プロジェクト:人物伝エリザベス・キューブラー=ロス(独:Elisabeth Kübler-Ross、1926年7月8日 - 2004年8月24日)は、死と死ぬことについての画期的な本(『死ぬ瞬間』,1969年)の著者として知られる精神科医。

 著書において、彼女は初めて今日では「死の受容のプロセス」と呼ばれている「キューブラー=ロスモデル」を提唱している。まさに死の間際にある患者とのかかわりや悲哀(Grief)の考察や悲哀の仕事(Grief work)についての先駆的な業績で知られる。

 キューブラー=ロスは、スイスのチューリッヒに、三つ子姉妹の長女として生まれる。父親が医学部進学に反対で、自ら学費を捻出するため、当初は専門学校を経て、検査技師をしていた。その後、1957年、31歳の時にチューリッヒ大学医学部を卒業している。彼女は医学部での学生時代に知り合ったアメリカ人留学生マニー・ロスと共に1958年学業をさらに続け、また働き口を探すべくアメリカにわたった。

 彼女が自身の医療活動を始めようとした時、病院が死に掛けている患者を扱う態度に、愕然とさせられる。そこで、病気の患者をどう扱うべきなのかという一連の講義を始めた。これが、1961年の死と死ぬことについての講義につながっていく。1963年には、コロラド大学で精神科医の単位を取得している。1965年からシカゴ大学医学部に移り、臨床的な研究を発展させた。彼女は、死をテーマにして20冊もの本を書き、世界各地で数多くの講演などを行った。1974年から1996年の間にそれらの業績に対して、複数の大学、単科大学から20の名誉博士号を授与されている。

 私財を投じて死に向う患者のための施設(センター Center)を開設し精力的に活動を行なった。現在、この活動はホスピス運動の嚆矢のひとつと考えられている。彼女が、ホスピス運動を創始したわけではないが、それを推進した人々は、まさに彼女によってこの運動がいのちを与えられたのだと異口同音に語っている。

 晩年にはエイズ患者へのかかわりを深め、エイズ患者のための新たなセンターの開設を計画したが、そのために近隣住民との深刻な軋轢を生み、最終的に拠点センターの閉鎖、移転を余儀なくされた。拠点センターは原因不明の火事により全焼したが、彼女はこの 事件を対立する住民による放火であると認識していた。

 1995年に脳梗塞に見舞われ左半身麻痺になった。その苦悩を2002年、アリゾナ・リパブリック紙のインタビューで語っている。2004年にアリゾナ州のスコットデールの自宅で亡くなった。

 死後の世界の存在について

彼女は死への過程のみならず、死後の世界に関心を向けるようになった。幽体離脱を体験し、霊的存在との交流したことなどを著書や講演で語った。

 一連の事柄に、関心を持つきっかけとなったのは、自分の担当していた患者が死に直面する時に、幽体離脱を経験しており、離脱中の描写があまりに正確だったことから、魂の存在を認めるに至ったという。

 死の受容のプロセス

 エリザベス・キューブラー=ロスが『死ぬ瞬間』の中で発表したもの。以下のように纏められている。すべての患者がこのような経過をたどるわけではないとも書いている。

否認・隔離
自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階である。

怒 り
なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。

取 引
なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階である。何かにすがろうという心理状態である。

抑 うつ
なにもできなくなる段階である。

受 容
最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である。

2017.10.17


マーティン・ルーサー・キング(1928~1968)(アメリカ牧師)


 一 本当の人間の価値は、すべてがうまくいって満足しているときではなく、試練に立ち向かい、困難と闘っているときにわかる。

 二 科学の力が精神の力を凌駕してしまった。 ミサイルは正しく誘導され、人々は誤った方向に誘導されている。

2008.3.1


アントニー・デ・メロ(1931~)インド人 神父


   今この瞬間にあなたが無常の喜びを感じていないとしたら、

 理由は一つしかない。

 自分が持っていないもののことを考えているからだ。

 喜びを感じられるものは、全てあなたの手の中にあるというのに。

2011.1.18


マーヴィン・トケイヤー(1931~)アメリカのラビ、教育者


『ユダヤ商法』マーヴィン・トケイヤー著 加瀬英明訳(日本経営者協会出版局)

まえがき

 今日ユダヤ人は、全世界を見渡しても、わずかに1480万人、全世界の人口60億人のわずか0.25%しかいない。それにもかかわらず、商売の世界をはじめとして、抜きんでた人材を満点天に輝く綺羅星のごとく送りだしている。
 世界に名を残すユダヤ商人をあげれば、世界最大の金融財閥ロスチャイルド家、南アフリカのダイヤモンド王でありデ・ピアス社創始者のアーネスト・オッペンハイマー、シェル石油創業者マーカス・サムュエル、アメリカのデパート王であるシュトラス家、イギリスのロイター通信創始者ロイター、アメリカのホテル王アウター一族、新聞王ジョセフ・ピューリッツァー、フランスの自動車王アンドレ・シトロエン、イタリアのオリベッティ社を創業したカミオ・オリベッティ、イギリスのアジア貿易を牛耳ったサッスーン一族など、名前をあげればきりがない。
 現在、アメリカで活躍するユダヤ人をみても、マイケル・アイズナー(ディズニー会長)、マイケル・デル(デルコンプューター創業家)、ジョージ・ソロス(投資家)、グリーンスパン(米連邦準備理事会議長)、ピーター・ドラッカー(経営学者)、アンディ・グローブ(インテル創業者)、スティブ・スビルバーグ(アカデミー賞受賞映画監督)、ロナルドとレオナード・ローダー兄弟(化粧品エスティロー> ダー)など、全米でで3%にすぎないユダヤ人が各界の第一線にいる。

 さらに、ノーベル賞を例にとると、20世紀が始まった1901年から1994年、までの間に、636人にノーベル賞がさずけられたているが、このうちで140人がユダヤ人である。つまりノーベル受賞者の21.1%がユダヤ人であった。人口比からいえばノーベル賞を一つも取らなくてもおかしくないはずである。

 また、アメリカの経済雑誌『フォーブス』の「世界でトップの400人の億万長者」1999年のリストでは、34才のマイケル・デル(デルコンプューター創業者)を筆頭にして、60人のユダヤ人が並んで、全体の15%も占めている。

 なぜユダヤ人だけが抜きんでるのか、これまで世界の多くの人々が、ユダヤ人の考え方研究し、またユダヤの戒律やユダヤ商法に関して、数え切れないほどの書籍が、世界の各地で出版されてきた。しかし私たちユダヤ人から見れば、それらの殆どが本質とはかけ離れた、上っ面「ユダヤ人論」であり、興味本位」の「ユダヤ商法」に過ぎない。

 われわれユダヤ人は、遠く紀元前3000年ものむかしから、独立民族として存在していたにもかかわらず、紀元70年に最後のユダヤ王国をローマ軍によって滅ぼされてから、1948年のイスラエル建国までの1878年もの間、国を失い、流浪の民として世界に四散し、安住の地をえることができなかった。
 そして、その土地その土地において、古くは奴隷や賎民として生きることを強いられ、中世にいたっても、いつも不当な蔑視と差別の中で、ユダヤ民族であるがゆえに、ようやく身につけた財産一切を剥奪され、永く住み着いた土地を追われる迫害を受け続けた。いうなれば、ユダヤ民族そのものが、いつ何時地球上から消滅してもおかしくなかったのである。
 それにもかかわらず、われわれは、迫害を受け追放される度に、新たな見知らぬ土地で、自分の力だけを頼りに業を起こし、」したたかに民族として生き残ってきた。
 いわば、「ユダヤ商法」の本質とは、ユダヤ人がもっていいる、恐るべき逆境の中から業を起こすという根源的な力のことをいうのである。その力とは何なのかその謎を解きあかすのが、本書のもくてきである。

教育の「五つの秘訣」について述べられている。(以下略)インターネットでお調べ下さい。

マーヴィン・トケイヤー

参考:日本人ノーベル受賞者

22.08.25 写之:参考は22.11.09追加。


ジェーン・グドール (1934~)イギリスの動物行動学者、霊長類学者、人類学者、国連平和大使。


チンパンジーの知性に驚く時代は終わった 朝日新聞2010.9.14 科学欄 による

 タンザニアで野生チンパンジー研究を50年間続けてきた英国出身のジェーン・グドールさん(76)が13日、京都大学で会見し、環境教育の重要性を訴えた。同大学で開かれる国際霊長類学会に参加するために来日した。

 グドールさんは、世界で初めて野生チンパンジーの長期研究観察を始めた霊長類学者。野生チンパンジーが肉食をする、道具を使うなどの画期的な発見を次々と発表した。現在は若い世代の環境教育活動に力を入れ、世界中を飛び回り、年に約300日講演している。

 グドールさんは会見で、50年の野生チンパンジーでわかったこととして「人類も自然の一部であり、特別な存在ではない」と強調。「道具使用など『こんなことができるのか』とチンパンジーの知性に驚く時代は終わった。ヒトとチンパンジーはゲノムも1.2%しか違いはなく、とても近い存在。知性があっても当たり前と受け止めてほしい」

 あえてヒトとチンパンジーの違いを考えるとすれば、「ヒトは遠い将来を考え、はるか昔のことを記憶できること」と指摘。「チンパンジーには、『今』と『ここ』しかない。それを、ヒトの洗練された知性の証拠と考えるなら、ヒトが環境を破壊している現実を理解し、将来の地球のためにできることを考えてほしい」と呼びかけた。


★『カンジ 言葉を持った天才ザル

 アメリカのアトランタに、ジョージア州立大学言語研究センターという、チンパンジーの学習能力を、言語に障害がある子供たちの治療に役立てようとしている、世界でも数少ない研究機関があり、ここのスー・サベジーランボー博士がサルの言語能力の実験を続けている。「サルはヒトの言葉を理解できない」これが世界の科学者たちの見解でした。ところが英文法を理解し、ヒトと対話するサルが出現したのです。彼はボノボ(ピグミチンパンジー)のカンジ(愛称)。覚えた英単語は約千語。日常生活はほとんど不自由しません。ボノボは私たちが動物園で見かけるふつうのチンパンジーとは違い、アフリカのごくかぎられた密林で生きつづけ、数十年前に発見されて「最後の類人猿と称されました。生後六カ月の彼と博士との出会いから現在までの四五〇〇日を綴った手記です。(NHK出版)

▼「カンジと付き合っていると、彼が人なのかサルなのか、わからなくなってしまうときがある」「ごく早い時期に言葉にさらされると、人間以外でも言葉を習得できるということをカンジは私たちに教えてくれた」などと、博士はいう。人間について考えさせられるものがある。

▼私の「習えば遠し」の平成五年七月十五日 九八号のホームページより転載。

22.09.18 写之

 


ダニエル・ゴールマン(1946~)


▼『EQこころの知能指数』

 「感じることに言葉を与えることができたらその感情は自分のものだ。」


ヒラリー・クリントン(1947~)


 「生まれて初めて、勤勉と決意をもってしても克服できない障害があるとわかった」(自伝『リビング・ヒストリー』)

 〈宇宙飛行士の訓練に応募したい〉。そんな手紙を米航空宇宙局(NASA)に出したのは14歳の時だ。「女はだめ」という返信を、ヒラリー・クリントン氏(60)はこう振り返る。

*2007.6.5「天声人語」より

2008.6.7


バーナード・グラスマン&リック・フィールズ


 泥水の中から咲く蓮の花は、希望の象徴です。

 蓮はあらゆる障害を乗り越えて花を咲かせます

 そもそも、蓮にとって濁った泥水は養分をとるために必要なものなのです。

 人間も同じですね。

 自分にとって都合のいいことばかりに囲まれていては成長は望めません。

 濁った水も必要なのです

 


H.S.クシュナー


 『なぜ私だけが苦しむのか』 斉藤武訳 岩波現代文庫の解説文

 私は、アメリカのエモリー大学神学部での学びを終え、病院でカウンセリングにかかわる牧師(チャプレン)として、さまざまな人間の苦しみや悲しみ、喜びや安らぎに接してきました。「なぜ、私だけが!」という患者さんの心からの叫びに、自分の心も壊れてしまいそうな日々の連続でした。そして、今、つくづくと感じることは、洋の東西、信仰の有無にかかわらず、人は自分の「存在の根拠」を確信できないと生きていくのが苦しいということです。小児病棟でも、精神科病棟でも、ガン病棟でも、糖尿病患者などを抱える内科病棟でも、患者さんやその家族の人たちの問いは、つまるところそれぞれに「存在の根拠」を求める苦悩に他なりません。
 四十歳になったばかりの女性で、ご主人と二人の息子を残して亡くなっていった人がいました。彼女は死の数週間前に医師に対して、「先生はやさしくて良い先生だけれど、先生のしていることは痛みを取るだけの小手先のことでしょう。私の病気はガンの末期で治らないのです」と言葉をぶつけ、また心理カウンセラーに対しても「心や心理なんて朝・昼・晩と変わるのです。そんなすぐに移ろいゆくものをあれこれと分析しても、私にはなんの助けにもならないのです。そんなものではなく、私が苦しんでいるのは、なぜ、この子たちを残して死んでいかねばならないのかということなのです」と、心理学では到達できない、苦しい胸の内を訴えていました。

 また、ある男性は「身体が死ぬのは怖くない。それより実際のところ、私の身体はもう死んでいるのですよ。だって私の肝臓はもう機能していないでしょ。その死んでいる身体に医師やナースはあれこれとやっているのですが、生きているのは私の精神なのですよ。 この機能しない死んだ身体をどうしてよいかわからず、それが怖いし、苦しいのです」と話していました。

 あるいは、身体的な痛みがひどくて、ベッドから出ることのできなかった患者さんが、車イスで動けるようになって、「今の方がつらい。自分で動けるようになったし、多少食べられるようになったけれども、どうせあと一週間か二週間、長くても一か月もしたら死んでしまうでしょう。死ぬのを待っている日々に何の意味があるのかと思うと、ただただ 空しい」と切々と語っていました。  末期の患者ばかりではありません。糖尿病や他の慢性疾患を抱えて生きている患者さんたちも、「何のために血糖のコントロールをしなければならないのか。生きていでも何もいいことがないのに」とか、合併症で足を切断された患者さんや失明してしまった患者さんにも「生きていても何もできないし意味がない。早く死にたい」と泣きながら暮らす人がいました。

 これらの言葉はみな、それぞれの直面する情況のただなかで、自分の「存在の根拠」を求めてもがき苦しんでいるゆえではないでしょうか。人が一人でこの問いを問うときほど、孤独で淋しいことはないと思います。   病いを抱える人や思いもよらない不幸にみまわれ苦しんでいる人だけでなく、自分もまた弱く無力で孤独な人間の一人であることを受け入れ、正直に内面の道(spiritual journey)を歩み続けることができれば、クシュナーが示唆するように、苦しみの中でも一人ぼちではないという喜びや生きる勇気を獲得することができるのだと信じます。

 この本を読んで、それぞれの方が「存在の根拠」を確信し、勇気をもって生きていける機会になればこの上ない倖せです。

22.10.24


ハル・アーバン


『一日ひとつ、小さな選択で人生を変える』ハル・アーバン著 弓場隆訳p146

1 賢者は生涯にわたって学びつづける
  賢者は常に何かを学ぶ心の準備をしている。

ジョージ・サンタヤナ(スペイン生まれのアメリカの哲学者)

2 賢者は他の人に教える
  賢者との短い会話は、十年の勉学にまさる。

(中国のことわざ)

3 賢者はバランスを維持する
  バランスのとれた人生を送ろう。よく働き、よく遊び、よく学び、よく考え、よく絵を描き、よく歌い、よく踊ろう。

ロバート・フルガム(アメリカの作家)

4 賢者は正直である
  賢者は知恵の基本である。 

トーマス・ジェファソン(アメリカ第三代大統領)

5 賢者は生命に畏敬の念を抱く。
  賢者の念は、知恵の始まりであり要諦である。

(旧約聖書詩編三の十)

6 賢者はよい心の持ち方を選ぶ
  近代における最大の発見は、人間が心の持ち方を変えることによって、人生を変えることができるということだ。
  「人間から他のすべてのことを奪い去っても、心の持ち方だけは自分のものだ」賢者は、それを理解しているから、不公平や不条理を嘆かない。賢者は、いかなる状況下でも人生を肯定し、最高の生き方を模索する。

ウイリアム・ジエームズ(アメリカの哲学者・心理学者)

7 賢者は目的を見つける
  偉人は目的を持ち、小人は願望を持つ。

ロバート・バーン(アメリカのチェス選手)

8 賢者は一生懸命に働く
  人生が差し出す最高の褒美は、する価値のある仕事に一生懸命取り組む機会である。

セオドア・ルーズベルト(アメリカ第二十六代大統領、ノーベル平和賞受賞)

9 賢者はよい人間関係を築く
  人生でどれほど成功するかは、若者に優しく、高齢者に思いやりを持ち、苦闘している人を支援し、弱者に寛容であるかどうかにかかっている。なぜなら、あなたもいつかはそれらすべての状態を経験することになるからだ。 

ジョージ・ワシントン・カーバー(アメリカの植物学者)

10 賢者はよく考える
  知恵とは、全体像描いて考えることである。

ウイル・デユラント(アメリカの歴史家)
 と、ありました。

22.11.06


免疫学の巨人イェルネ
著者:トーマス・セデルキスト(2008.2発行)
宮坂正之監修、長野敬・太田英彦訳/Thomas Soderquivst、医学書院

評・渡部 政孝(サイエンスライター)の評から

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 ■尋常でない科学者の妖しい生き方

 これほど不思議な科学者の伝記を読んだのは初めてだ。主役であるニールス・イェルネという人物が尋常じゃない。おまけにこれは「実存的伝記」だなんて。

 ノーベル賞学者である免疫学の泰斗イェルネは、伝説的な人物としてつとに名高い。「ニールス・イェルネの聖性と俗性」と題した序文を寄せている同じ免疫学者、多田富雄氏の「近代免疫学の最後の傑出した理論家、預言者、伝道者」との形容が、そのことを雄弁に語っている。

 免疫学者イェルネの最大の業績は免疫系のネットワーク理論の提唱とされる。しかし、免疫学の理論は医学・生物学でも極めて難解な領域であり、理解することは最初から放棄するのが無難だ。それでも本書が魅惑的なのは、実験的確証もなしに網の目のような理論を創案したイェルネという人物の妖(あや)しい生き方にある。

 日本びいきの視点から言えば、イェルネの最大の功績は、創設に関与し初代所長を務めたバーゼル免疫学研究所で、まったく無名だった利根川進博士に自由に研究をさせ、ノーベル賞に輝いた研究を開花させたことだろう。

 ロンドンで生を受けオランダで育ったデンマーク人イェルネは、同郷人である実存哲学者キェルケゴールに心酔し、女性とワインに耽溺(たんでき)し、プルーストを読みふけって時間の迷宮をさ迷う人生を送った。科学者としての本格デビューは40歳を過ぎてから。行く先々で熱狂的な心酔者を得る一方で、家族への義務はほとんど果たさない。

 自分にまつわる思春期以後のほとんどすべての資料を保存し、検閲的な介入もしないイェルネは、伝記作家にとっては夢のような存在だった。しかし、イェルネへのインタビューを重ね、膨大な文書庫で格闘するうちに、伝記作家は精神のバランスを崩しかけたという。巨人の実存を描き出すことはかくも難しい。

 かつて科学は科学者の生き様を映し出す営為だった。十字架の前で物思う遺影をあしらった秀逸な表紙が、そんな最後のペルソナの光と陰を象徴している。

*ノーベル医学・生理学賞受賞者である免疫学者ニールス・イェルネの波乱に富んだ一生を描く。イェルネは、ノーディンとともに溶血プラーク反応による抗体産生細胞の測定法を開発。1969年、バーゼル免疫学研究所長となり、1979年には有名な「免疫ネットワーク説」を発表した。この説はその後、多田富雄氏を含む、多くの免疫学者に非常に大きな影響を与えた

私見: 私はこの研究所の利根川進博士が研究していた部屋を見せていただいたことがあり、この評論が目に止まり、記録をさせていただきました。
*朝日新聞:平成二十年三月二十日 評・渡辺 政孝(サイエンスライター)による。


マーク・ピータセン

 
▼『続 日本人の英語』

 一 Ilsa: Hello, Sam.

 Sam :Hello, Miss Ilsa. I never expected to see you again.
 Sam : Yes, na’am, a lot of water under the bridge.
*P.一二

 二 ビスケットを紅茶の中に突っ込むと、どんなに堅くてもかならず紅茶を吸収する。人間と言葉も同じ関係ではないだろうか。


The Element of Style

 
 “Buy it, enjoy it. It's as timeless as a book can be in our age of volubility.”―The New York Times.


聖書(イザヤ書 四五・七)


 「決心をするということは測り知れない安堵を意味します。決心には目標があります。」

 「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である。すべてこれらの事をなす者である。」


米国の研究者


 米国の研究者の社会には〈パブリッシュ.オア.ペリッシュ〉という言葉がある。きちんと仕事をして評価されるか、さもなくば消え去るか--のどちらかという意味である。実績もあがれば処遇も上がる。Publish or perish! 

*perish

 If people or animals perish, they die as a result of harsh conditions or as the result of an accident; used in written English.  By COLLINSNO COMENT


No coment


 People say 'no comment' as a way of refusing to answer a question, usually when it is asked by journalists.No comment. I don't know anything. By COLLINS 


SIDNEY SHELDON

▼RAGE OF ANGELS


 She was alone. In the end, everyone was alone. Each person had to die his own death. It would be easy to die now.
 A feeling of blessed peace begun to steal over her. Soon there was no more pain.
 63章


『Spoken American English Advanced Course』


   一 Repetition plays an important role in language study. 


NHI 入院規則

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NHI(アメリカの国立衛生研究所)入院規則

 (一)積極的な治療を行うこと――患者が最後の息をひきとるかぎりの瞬間まで。

 (二)患者には真実を包み隠さず知らせること。

 スチュアート・オルソップ(Stewart Alsop)『最後のコラム』の翻訳本のなかの記述であった。
 1976年9月25日 第一刷の本である。

   著者はアメリカ東部でのコラムニスト。1971年夏に発病、医師も途方にくれる謎めいた白血病で闘病生活3年10か月の後に世を去った。
 約33年前にこの本で読んで、何か日本と異質な病院治療方針ついて感じたのを思いました。日本では〈ガンの告知〉の問題は論議されていたとしても大変な問題であると、当時の私は感じていたので、ここで取り上げました。

 2013年2月、私は短期間であったが、大学病院に入院しました。その時の調査票に「がんであった場合知らせて欲しいか、そうでないか」の主旨の項目がありました。33年前と同じものを感じました。しかし、これは大学の問題ではなくて私ども日本人の「がん」に対しての考え方にあるものだろうとおもいました。

2013.05.16:追加。


English Proverbs


 一  One is never too old to learn.

 二  However much you know, there is always more to learn, and whatever your age, you can still increase your knowledge. Cicero refers to “a zeal of learning, which, in the case of wise and well trained men, advances in every pace with age.” The favourite saying of Michelangelo, the great Italian sculptor and painter, was :”I am leaning.”


前向き人間に共通する強力な12の原則

『今できることから始めよ!』


今できることから始めよ!』アラン・L・マクギニス著 稲森和夫監訳 三笠書房

 どうすれば、簡単にくじけたり失望したりせずにいられるのだろうか。また、どうすれば、自分の夢をあきらめずに、成功をこの手に勝ち得ることが、できるのだろうか。
 そこで、私は前向きな姿勢を身につけ、しかも、それを保ち続けるための方法を見つけたいと、あらゆる心理学の本に目を通した。しかし、私にわかったのは、机上の分析からは何ら具体的な実行法を得ることが、できないということであった。そこで今度は、成功を遂げた人物の人生を分析してみることにした。
▼こうした研究を続けた結果、私は前向き人生を送る人に共通する「非常に強力な原則」を発見した。

 それが次に挙げる12の特徴である。  

前向き人間に共通する強力な12の原則」(p24)

1  どんなトラブルや逆境に出会っても決して動揺しない
2  難題には粘り強く対処し、その部分的解決から始める
3  自分の将来を決めるのは自分自身だ
4  常に心身ともに自分をリフレッシュさせている
5  悲観的で否定的な思考の悪循環をきっぱりと断ち切る
6  どんな小さな事柄にも大きな喜びを見出す
7  頭の中で強く成功のイメージをし、それを現実化させていく
8  明らかに不幸と思われるときでさえ、生き生きと活力に満ち溢れている
9  自分は無限の可能性を発揮できる。という強い信念を持っている
10 自分の周囲を多くの愛で満たす
11 会話において明るい話題の選択を好む
12 どうしても変革不可能なことは無理せずそれを受け入れる

▼こんな素晴らしい資質を備えた彼らは、特別な人間なのであろうか。否、これら前向き人間たちは生まれつき陽気な性格というわけではないし、ずっと順風満帆な人生を過ごしてきたわけでもない。むしろその正反対と言っていいだろう。大抵は大変悲惨な環境の中で成長し、一度や二度は、立ち上がれないほどの敗北を味わっている。しかしそうした人生を歩みながらも彼らは挫折感に打ち勝ち、活力あふれる毎日を送っているのである。人によっては、こうした積極的で前向きな生き方こそ大変自然なことで、特別な努力は必要ないという場合もある。だが多くは考え抜いたあげくに立てた計画に沿って、悲観的人間から前向き人間へと見事に変身を遂げていくのである。

▼アラン・L・マクギニス
 アメリカを代表する精神科医 人生論のベストセラー作家として著名。 
 行動の仕方にプラス思考を加えることで、人生の可能性がどのようにもふえ広がることを説き続けている。
著書に『自信こそは』『ベストを引き出す』『フレンドシップ』(以上は日本実業出版社)など多数。

感想1:以上の記事は尊敬する方から、メールで教えたいただいたものです。日本の精神科の先生を多くは知りません。『漱石文学における「甘え」の研究』と土井 健さん、『「生きがい」とはなにか』そのた著作されている小林 司さんなど、非常にたくさんの本を読み、人物の研究をされているのは、精神科医師の研究手法のように思います。「文は人なり」といわれています。著作を読めば、その人の人物像が読み取れるからでしょうか。アラン・L・マクギニスさんもその手法で研究されて以上の成果をえられたものではないかと。

▼彼は精神科の医師であるから、当然のこと憂鬱症の治療にもあたっている。

 例えば、「憂鬱症の治療に一つの効果的な方法がある。それは毎日20分から30分間定期的に患者を観察し、通常の精神セラピーでなく患者の気分のよし悪しに関心を示し、思いやりのある好奇心で対応し、十分気をつけながら様子を見るのである。明らかに、失意の人々に対しては、一貫した関心と思いやりを見せることほど大切な方法はないのだ。」

「治すことはできなくとも助けることや慰めることは出来るという幅のある生き方が必要である。」
「活発に身体を動かすこと、行動は感情に従っているように見えるが。が、本当のところ行動と感情は同時に進行しているのである。」
「人生に「絶望的情況」は絶対にあり得ない。情況に絶望する人間が存在するだけだ。」
「人をあるがままに受け入れることの出来る者の処には、愛が訪れる。」 など。

 具体的な一例として、

 「目標に向かって情熱を燃やしている人の齢は不問だ!」
 人間の心と体の成長能力についてのこうしたデータは、年配の人々の憂うつ症の治療に大いに関連してくる。老人の十五パーセントは憂うつ症にかかっているといわれるが、これは全人口の疾患率の二倍にのぼる。(現在の日本では、はるかにこの数値より大きい。)
 われわれは年をとるにつれ、もう自分には何もできないのではないかという恐れをもつようになりやすい。それを考えれば、この結果は驚くにあたらない。実際、誰でも年をとれば力の衰えはでてくる。たとえば敏捷性一つとっても、若いころよりは失われてくるものだ。
 しかしこうした蓑えを嘆くのであれば、もっと前から嘆かなければならないのだ。目は十歳で機能の成長が止まる。耳は二十歳前後である。三十歳までに筋力、反射神経、細胞の再生力など、すべてピークをすぎてしまう。
 しかし、その一方でわれわれの脳は五十代になってもまだ若いのである。そして八十を迎えるころには経験という財産を積んだ分だけ、三十代よりも生産的な精神力をもつている。 ・・・・・・
 八十八歳になるハリー・リプシング弁護士は、六十年近くかかって築き上げた名声を捨て、新しい事務所をオープンした。家族やまわりの者は、こぞって反対した。その時の話である。「ウオールストリート・ジャーナル」誌による。
 原告の女性は、警官が飲酒運転の未にパトロールカーで七十歳の夫をひき殺した罪でニューヨーク市を訴えていた。
彼女の主張は、市が夫の将来にわたる所得の可能性を奪いとっというものである。市側は七十歳という年齢からして収入を獲得できた可能性はほとんどなかったという主張を展開した。
 ところで、この原告にとって精力的な八十八歳の弁護士が法廷に姿を現わしたことほど強力な証拠は望めなかったのではあるまいか。結局市側はこの事件で、一二五万ドル支払ったのである。とありました。

感想2:私は身近な憂鬱症にかかられた方を知っています。非常に周りの方々も暗い雰囲気になつていました。今は回復されています。そのかたに「回復されたのは何ですか?」とお聞きいますと、「仕事に打ち込まざるをえなくなった環境に忙しく立ち回り自分の気分に向き合うことがほとんどできなくなったからだ」とこたえられました。じっとしていることは、 ある意味では、私たちの行く手(未来の希望)を遮っているのは、私たちの想像力(想念)ではないでしょうか。いかに「現実」を受け入れ、自分に生かしていくかが、「憂鬱症」対処への手がかりにもなるようにも思われます・・・・。

2011.07.13


一日ひとつ、小さな選択で、人生を変える

ある校長の思い出

 ある校長の思い出

 『一日ひとつ、小さな選択で、人生を変える』ハル・アーバン著 弓場隆訳

 私は三十五年間にわたって公立高校の教壇に立ち、九人の校長と知り合った。その中で最も興味深い人物のエピソードを紹介しよう。

 彼は理想に燃えた教育者であり、性格は大らかで、すぐれたユーモアの持ち主だった。それだけに当初は教員たちのあいだで評判がよかったのだが、まもなく重大な問題が発生した。彼は人の話を聞こうとしない人間だったのだ。

 一学期が終わった時点で、彼は全教員にアンケート用紙を配り、自分の校長としての評価を書くよう依頼し、二学期の最初の職員会議でそれを公表すると約束した。いよいよ新学期になつてその時期が来たとき、彼はこう言ったのだ。

 「どうやら、私の仕事ぶりを評価していただけたようですね。ただ、多くの先生方が、私に話を聞いてもらえずに不満を感じておられるようです。でもまあ、そんなにたいした問題ではありません。なにしろ、妻は三十年も同じことを言いつづけていますが、それでも私たちはなんとかやっているのですから」

 残念なことに、この校長は人の話を聞くことの大切さを理解していなかった。そしてそのために、やがて職務に支障をきたすことになる。
 教員は不満をつのらせ、聞くことの大切さに関する資料を校長のメールボックスに何度も入れたが、校長はそれをジョークだと思って相手にしなかったのだ。

 校長は「はいはい、わかりました」と言った。しかし、校長は何もわかっていなかった。どの教員も、校長が資料に目を通していないことに気づいていた。

 結局、その校長の職務は長つづきしなかった。全教貝が不満を爆発させて教育委員会に猛抗議したからだ。

 私が大学の社会人講座でこの話をすると、ほとんどの人が笑って「自分の職場も似たようなものです」と言う。どうやら、誰もが同様の経験をしているようだ。その中の一人がこんなことを言った。

 「ほとんどの上司は、自分の仕事は聞くことではなく話すことだと思っています。しかし、人の上に立つ人は、聞くことの大切さをしっかり理解すべきです。そうすれば、もっと効率的に職務を遂行できると思います」

参考:ハル·アーバンは、長年にわたり高校教師であり、また、サンフランシスコの大学で教鞭を執る。 彼は人格教育の動きではよく知られたリーダーであり、全国的な会議や学校や地域のイベントに講演者として一定の需要がある。 彼はシングルファーザーとして三人の子を上げ、今では彼の妻、キャシーと、カリフォルニア州レッドウッド·シティに住んでいます。

2012.09.29