★習えば遠し 第1章 生活の中で学ぶ 第2章 生きる 第3章 養生ー心身 第4章 読 書 第5章 書 物
第6章 ことば 言葉 その意味は 第7章 家族・親のこころ 第8章 IT技術 第9章 第2次世界戦争 第10章 もろもろ

第10章

目 次

01芙蓉の人〜富士山頂の妻 02私のルーツ
ー母方ー
03労研饅頭" と "ろうまん"
━━社史周辺━━
04日露首脳会談と柔道 05自主性を育む開成式教育
06少年を理科好きなにするには 07What'a new! JEFFREY.V.RAVETCH 教授 08伊藤文大さんと私 09 こころの里━小規模多機能型居宅介護━ 10大学入試受験の不安
11奥村長生君と私 12「二、三のマーク」
━倉敷紡績・クラレ社標ー
13四国の名山石槌山登山:その後の話 14アメリカ映画幌馬車を観る 15ベラ・チャスラフスカさん
16水泳の思い出
―小・中学生のころ―
17杉原千畝と6000人の命のピザ 18命の大切さ語り継ぐ日航機墜落2017年
御巣鷹の麓 鎮魂の灯篭流し
19池永和男さんと私



芙蓉の人〜富士山頂の妻


 新田次郎さんの著作は、私の本棚に『八甲田山死の彷徨』『チンネの裁き・消えたシュープル』『アラスカ物語』『協力伝・孤島』『小説に書けなかった自伝』(すべて新潮社刊)が並んでいる。

▼ほとんど、その内容は忘れていますが、『八甲田山死の彷徨』は、青森の歩兵第五連隊と、弘前の歩兵第三十一連隊の厳寒の訓練である。その指導者の判断がいかに大事であるか、その結果は隊員を死に追いやるまでにいたること肝に銘ずる物語であることを読み取ることが出来ます。

 NHKテレビドラマで2回目、3回目の放映をみました。今後の展開を楽しみにしています。

 インタネットによれば、下記の記述があり、また、また、これまでテレビでも何度も放映されていたことを知った。

 明治28年、富士山頂観測所建設の礎となった、野中夫妻による富土山頂での冬期気象観測の死闘を描いたものである。書名は、壮絶をきわめた富士山頂での観測生活を綴った千代子夫人の芙蓉日記からとったものである。芙蓉とは、富士山が「芙蓉の高嶺」或いは「芙蓉峯」とも呼ばれていたからであろう。著者は「日本で最も高く評価されるべき女性野中千代子を書いた」と言い切っているように、周囲の反対を押し切って己の信念を貫いた明治の女性を描いたものである。

▼世界でも類のない冬季高層気象観測を行うため野中到は、未だ厳冬季に頂上に立った人はいないという富士山頂での気象観測を行うという壮大な夢を抱く。千代子夫人は、夫の夢の実現がひとりでは無理なことを直感的に悟り、ひそかに夫を支える決意をする。男尊女卑の風潮が強く、理不尽な男女差別が続いていた明治時代、女性はおろか男でも山に登る人はまれ、世間の目はもちろん、夫や姑、中央気象台などの批判や反対を押し切って富士山頂に向かう。

▼富士山観測所に勤務し、通算400日以上富士山頂に滞在した著者によって、過酷を極める観測生活が臨場感たっぷりに描かれる。案の定、夫が設計した観測所や観測計画には、無理があった。食事、栄養、睡眠時間、暖房、トイレ等々、観測する「人間」を守る配慮が乏しかったのである。千代子夫人は語っている。「夫は科学的にすべてを取り運んでいるつもりでいて、自分の身体に対しては、もっとも非科学的な考え方をしているのです。そして、その自分の身体が、今度の場合、一番大事なものであるということを忘れているのです」と。

▼千代子の笑いがなくなった。それまで千代子は一日に何度か声を上げて笑った。その笑い声を聞いているだけで到は、富土山頂にひとりでいるのではないという気持に……、その笑いがぷっつり切れてしまうと、心の中のストーブの火が消されたようにもの淋しく感じるのであった。

  ▼女性の笑顔、生き生きとした声の響きは男の活力源、いかなる逆境も乗り切ろうとの意欲を掻き立ててくれる。千代子夫人なくして観測を続けることは不可能だったのである。


▼『芙蓉の人〜富士山頂の妻』(ふようのひと・ふじさんちょうのつま)は、新田次郎の小説、並びにそれを原作としたテレビドラマの作品である。

▼明治25年(1892年)、日本の気象予報を正確に把握するために、富士山の山頂に観測所を設置しようと、野中到は厳しい冬も耐えながら富士山の登頂を試み、そしてそこで冬の気象観測に尽力を尽くした。この物語は到と、それを献身的に支え、行動を共にした夫人・千代子との夫婦愛と、気象観測に情熱を傾ける人生を描いたノンフィクションである。

1、1973年1月24日、同年1月31日にNHK総合テレビジョンで放送。全2回。
2、1977年12月5日から1978年1月30日までに東京12ch(現・テレビ東京)で放送。全9回。
3、1982年にNHK総合テレビジョン「少年ドラマシリーズ」として放送。
4、2014年7月26日から毎週土曜21:00 - 22:00、全6回「土曜ドラマ」にて放送中。

参考

1、新田次郎
2、藤原正彦(1943~)
3、文藝春秋:2014年8月号:藤原雅彦/松下奈緒「芙蓉の人」富士山より大きな夫婦愛

平成二十六年八月十八日

 



私のルーツ━母方━


 平成27年8月19日、母の関係の「いとこ会」が岡山県で行われるので参加しないかと知らされた。

 参加することにした。

 準備として伯父:前田達治が遺していた「生きるー前田達治自伝ー」を再読した。

▲ふと、私のルーツをこの自伝から読み取ろうとした。

 アレックス・ヘイリー著【ルーツ㊤㊦】(社会思想社)を見ると、5代までたどっていた。

 伯父の本から、母(梅野)→祖母(千代)→祖父母(氏名は書かれていなかった)までの3代までたどりついた。

 その家系図を大体書いて、いとこの一人に私ども世代の氏名を追加作成して、持参した。

 おじ、おばさんたちがが生存中「いとこ会」が2回行われて、写真が残っているが、なぜか私の母は参加していない。

▲生前には興味がなかったが、この年配になると関心が起こり、生前にできる限り聞いておけばよかったと残念である。

 今回は3回目であったが、私の兄が最長老であり、その次が私になっていた。完全に世代交代したことになる。

▲今回作成したものを使って、それぞれ「いとこ」の子供・孫たちの氏名を書き込み家系図を作ると4代・5代となる。

 私はそれを望んでいる。

平成二十七年八月二十五日



"労研饅頭" と "ろうまん"━━社史周辺━━


 「いまどき、なんと古風なまんとうが!」一九八五年六月の朝、クラレ西条工場(四国)の寮で、南海放送「せんせいの人間歳時記━夜学校の思い出」を見ていた。関岡武太郎先生の松山夜学校(現松山城南高等学校)時代の思い出から始まり、その教育理念、そして教育者、校長としての幾歳月にわたるご活動についてのものであった。

 このお話の中で、労研饅頭が松山市で売られていることを聞いておどろいた。昭和六年十月、先生が夜学校を卒業して、母校の書記になられたとき、学校の村瀬宝一さんが労研(当時の倉敷労働科学研究所参考1━大原孫三郎氏創設、現在、財団法人労働科学研究所)で饅頭の作り方を習得して、製造販売をはじめたとのことである。

▼昭和六年といえば、クラレ創立五年目の草創期である。昭和八年新居浜工場で、昭和十一年には西条工場で、それぞれレーヨン糸の操業を始めている。レーヨン糸が四国の地で生産される二年前、労研所長の作った饅頭が松山市で製造、売られていたのである。

 労研饅頭について江口 保さんにはなしたところ、多分、同じものと思うが、「ろうまん」という名前の饅頭が岡山市でも売られているとのことであった。早速、お店に案内していただき試食した。年配の方は、食量不足のころ、おいしくたべたものだと懐かしく味まで思い出されることでしょう。

▼表題との出会いをもう少し深めたくて調べることにした。

 「ろうまん」は岡山市の三笠屋で製造販売されている。

 昭和二十六年ごろ、三笠屋の親戚が饅頭製造用「菌」を松山から分けてもらい作りはじめ、現在に至っている。食品添加物を入れていないので、自然な食品として喜ばれているとのことでである。

 労研饅頭については、一九八五年十一月、関岡先生にうかがう機会に恵まれた。

 先生によると、向学心に燃える夜学性に学資を与えるための事業を考えていたとき、たまたま伝道のために松山にきた倉敷教会参考2(現在、日本キリスト教団倉敷教会)田崎健作牧師から示唆を受け、これをとりいれることにしたとのことである。

 当時の倉敷労働科学研究所所長暉峻義等(てるおか・ぎとう)は、「労研饅頭参考3」と名づけて、すでに京阪神で売り出していた。奨学会では、数学教師竹内成一(のちの六時屋タルト参考5社長)を倉敷に派遣して製法を学ばせ、その酵母菌を譲りうけて持ちかえり、さらに中国人の林樹宝を招いて製造技術を学んだ。「労研饅頭」は、安価で栄養価が高く好評を博し、松山市内諸中学校の売店、歩兵第二十二連隊の酒保にも販路が開かれるようになった。のち、この事業は竹内の個人経営に移るが、今も素朴な伝統の味を二代目竹内眞氏が松山市勝山のお店で伝えている。

 関岡先生の人間歳時記がクラレの歴史の周辺に私を運んでくれた。

▼知らない人と話していて、共通の友人がいることを知っておどろかされたり、よくよく調べると、縁もゆかりもないと思っていた人が遠いつながりがあったりするものである。

▼以上の記事は、クラレタイムス一九八七年二月号に掲載されたもので、私がまとめたものです。当時は下記の参考のような事項を調べる方法があったのかも知らない私でした。

 二〇一六年にこの記事を記録するにあたり、PCで多くの参考記事をみることができたのは、望外の幸いでした。

参考1:大原記念労働科学研究所
参考2:日本基督教団 倉敷教会ー倉敷の街に建つ教会
参考3:労研饅頭
参考4:蒸しまんじゅう「ろうまん」など❘夢日記
参考5:六時屋タルト

参考5を開いて、「こだわり」の項目を開くと、『時計で六時は長針と短針がまっすぐになることから、「まっすぐ正直な心で商売をしよう」と命名されました。 この考え方は、創業以来、受け継がれています。』とあります。是非お読みください。

二〇一六年(平成二十八年)八月三十日



日露首脳会談と柔道


 2016年12月15日~16日に山口県長門市~東京首相官邸で行われた。

 外務省

 15日、プチン大統領をのせた飛行機が宇部空港に到着する実況放映がNHKにより行われた。そして16日東京での会談。

 共同記者会見 経済団体の会合、講道館 全日本柔道連盟の山下泰裕副会長との懇談

 安倍首相とプーチン大統領 柔道演武を見学 平成28年12月16日 18時26分

 安倍総理大臣とロシアのプーチン大統領は、16日夕方、東京の講道館を訪れ、柔道の演武を見学しました。

 安倍総理大臣とプーチン大統領は16日夕方、東京・文京区の講道館を訪れ、出迎えた森元総理大臣や全日本柔道連盟の山下泰裕副会長、柔道の男子日本代表の井上康生監督らとにこやかに言葉を交わしました。

 講道館で、安倍総理大臣は、道場のうえで飛び跳ねて感触を確かめたほか、プーチン大統領は、森元総理大臣から、黒帯をつけた柔道家の人形をプレゼントされていました。

 このあと、両首脳は、柔道の演武を見学し、プーチン大統領は、時折山下氏らと言葉を交わしながら、2人の柔道家が披露する技をじっくりと見ていました。

 山下氏「いいイメージで帰ってもらえたら」

 講道館でロシアのプーチン大統領を迎えた全日本柔道連盟の山下泰裕副会長は、「ロシア側から、『難しい話のあと、大好きな柔道に触れ、山下と会ってリラックスして帰りたい』と打診があり、訪問が実現した。大統領に少しでもくつろいでいただいて、笑顔でいいイメージで帰ってもらえたのならうれしい」と話しました。

 そのうえで、「1917年にウラジオストクで柔道の国際大会が開かれてから来年で100年になることを記念した大会を開く計画を伝えた。プーチン大統領も、『文化・スポーツでの交流で相互理解を深めることが大事』と話していたので、大統領にも安倍総理にも『時間があればぜひお越しください、一緒に100周年を祝いましょう』と伝えました」と懇談内容の一部を明かし、今後も柔道を通じた交流を進めていきたい考えを示しました。

 以上の記事から、私は広瀬武雄のロシアにおける柔道について思い出した。それは、以下の記述をよんでいたからである。

 ロシヤにおける広瀬武雄 島田謹二 朝日新聞社 (1970年4月30日)

 コヴァレフスキーがはじめ広瀬を列席の人々に紹介する時、このヒロセ君という海軍将校は武道にかけては達人です。何一つできぬことはありません、と賞めておいたものだから、食後、別室でくつろいだ時、一人のロシア将官が、日本には柔術というものがあって、日本人なら誰でもやれるということですが、あなたも、もちろん御存じでしょう、と話しかけた。主人がそれをひきとって、できるとも、できるとも、この方は柔術のベテランだよ。一つここでやっていただいてはどうだろうと、まわりをみわりわたしながら一同にはかった。たちまちさんせいの拍手が起こった。一人の大男の少将が突然、右手をさし出して、さあやってごらんなさいといいながら、と立ち上がってかまえていた。広瀬は微笑して、

━━日本の柔術というものは、そんなものではありません。

  私がこれから柔術の説明をいたしますから、まずその椅子におかけ下さい。

 と指示した。背は高いし、大男だし、身体中に力を入れて立っているから、そのままの姿勢では、思う存分投げつけられなかったからである。広瀬の説明をきいて、なるほどと合点した将官はそばにあった椅子をひきよせて、それに腰をおろそうとした。気合が少し抜けてゆるんだ気配をみてとると、広瀬はすかさず、

━━こんな風にやるのです!

 と叫びながらその将官の右手をとって、ドシンと地響もろとも部屋の真中に投げだした。その形がすこぶる見事であった。大男の将官はおどろいて、腰をさすりながら、

━━日本の柔術はコワイコワイ!

 と叫んだ。その愛嬌のある言葉が満座の空気をやわらげて、広瀬の武芸に対する感嘆の声は部屋中に湧いた。広瀬は一メートル七五もあるから、日本人としては大男のほうである。決してたちうちできぬほどの小男と思われてはいなかったが、相手の虚をつくその機転、大の男を手玉にとって投げつけるその武勇が、一座の人々におどろくべき日本人という印象を深くきざみつけた。広瀬びいきのコヴァレフスキー少将夫人などは、大喜びで、いつまでも手を叩いている。

━━ヒロセ君に乾杯!!

 という声がどこからかきこえて、一同の盃に酒はまたなみなみとそそがれた。片隅に立ってじっと見ていたアリアズナ・ウラジーミロヴナの目は輝いた。頬は上気して、耳まで赤くそまった。彼女は物も言わなくなった。いつまでも広瀬の顔にみとれていた。

参考1:広瀬武雄

 広瀬武雄は30歳の1897年(明治30年)8月1日にロシア留学のため東京を出発した。ロシアには海路でトルコ、パリを経由して8月26日に到着した。この日からロシアにおける広瀬武雄の生活が始まった。ロシア到着の1897年(明治30年)8月から翌1898年(明治31年)にかけての約1年4カ月は、ロシアの生活に慣れることとロシア語の習得に費やされた。

 1899年(明治32年)には黒海の巡視旅行を行っている。そしてこの年に恋人となるアリアズナと運命の出合いをする。広瀬武雄32歳のときである。1900年には英仏独視察旅行とバルト海沿岸視察旅行を行っている。またこの年、社交界で柔道を披露している。広瀬武雄は33歳で少佐に昇進する。1901年(明治34年)に広瀬武雄に帰朝命令が出される。広瀬武雄の思いより半年くらい早い帰朝命令であった。この年父・重武が亡くなる。重武66歳であった。

 またこの年ドイツに留学していた滝廉太郎から荒城の月の楽譜を送られ、ロシアのサロンで披露したと伝えられている。滝廉太郎が広瀬武雄に送ったと言われる「荒城の月」の楽譜を見てみたいものである。

 上述の「荒城の月」を作曲した滝廉太朗は広瀬武雄の故郷である竹田市で少年時代を過ごした。1900年に発表された「荒城の月」(作曲:滝廉太郎、作詞:土井晩翠)は竹田市の岡城を題材にしている。滝廉太郎はドイツに1901年に留学するが、病気になり、翌年に無念の思いを胸に帰国することになる。滝廉太郎は1903年(明治36年)に「憾み(うらみ)」を残して24歳で亡くなる。滝廉太郎の銅像が竹田市の岡城址にあるが交響曲の想を練っているように見える。

参考2:人生は冥土までの暇潰し プーチンと柔道

参考3:らいらい軒


 明治37年2月8日、日本海軍は旅順港外のロシア艦隊を夜襲をかけ、日露戦争の火蓋は切って落とされました。

 この旅順港攻撃によってロシア艦隊は機雷を施設して旅順港に篭ってしまいました。そこで、日本海軍は旅順港を閉塞する作戦に出て、ロシア艦隊が旅順港に籠もるなら、狭い水路に船を沈めてロシア艦隊を湾内に押し込めてしまおうとしました。しかし、警戒厳重な旅順の要塞砲の目を掠めて、船を沈めボートで脱出するのは至難の業です。それでもこの決死行に2000名が志願しました。

 第一回目の閉塞作戦はロシア軍の砲撃にさらされ閉塞戦が目標に到達できずに失敗。第二回も名将マカロフがロシア太平洋艦隊司令官に着任し、士気あがるロシア軍の前に再び失敗に終わりました。

 この第二回の閉塞作戦では広瀬武夫少佐が率いる福井丸が旅順口に到達しましたが、魚雷攻撃を受け、自沈に至りました。乗組員は脱出しようとしましたが、広瀬少佐は部下の杉野一等兵曹がいないことに気づきます。広瀬少佐は沈み行く「福井丸」に戻って杉野を探し回りました。ここのところは文部省唱歌となった「広瀬中佐」の歌詞、「轟く砲声(つつおと)、飛び来る弾・・・杉野は何処、杉野は居ずや」が有名でしょう。結局杉野を発見できず、断腸の思いで脱出用のボートに戻ったところへロシア軍の砲弾が飛来。広瀬少佐は肉片を残して海に消えるという壮絶な最期を遂げました。

 広瀬少佐と同じボートに乗っていた兵曹の回想

 「ああ、広瀬少佐が戦死されたとき、私はボートの一番をこいでいました。すぐ目の前ですよ。少佐は元気で(みんなオレの顔見てこげ・・・)といって、沖へ沖へと舵をとっていましたが、瞬間(ウーン)という声だか音だか分かりませんが、私が顔をあげると、少佐の首が見えず、真っ赤な血が首元から吹き出ると、胴体がコロリと海の中へ落ち込んだのを見てしまったのです。ハッと思って、オールをつかむと同時に私は胸の辺りになまぐさいものを浴びせかけられました。これが広瀬少佐の血だったのです」

 司馬遼太郎著「坂の上の雲」の描写

 「探照燈が、このボートをとらえつづけていた。砲弾から小銃弾までがまわりに落下し、海は煮えるようであった。

 そのとき、広瀬が消えた。巨砲の砲弾が飛びぬけたとき、広瀬ごともって行ってしまったらしい。そのとなりにすわって舵をとっていた飯牟礼ですら気づかなかったほどであった」

 広瀬少佐のこの行動は広く宣伝され、軍神第一号として祀られています。

 広瀬少佐はロシア駐在時代にアリアズナ・ウラジーミロヴナ・コヴァレフスカヤと知り合い交友があったといわれており、広瀬家ではアリアズナが大分の広瀬の実家を訪問したことが伝えられています。

 杉野兵曹長の息子、孫ともども海軍兵学校、戦後は防衛大学に入学し、海軍士官の家系となりました。ひ孫にあたる杉野正隆氏はオペラ歌手になり、「広瀬中佐」を熱唱されたといいます。

※ 2010.12.28訂正。杉野孫七の階級については戦死後は「海軍兵曹長」。旅順閉塞戦のときの階級については「一等兵」「上等兵」と当初書いていたのは誤りで「一等兵曹」「上等兵曹」のどちらかだが、文献によって異なるので、今のところ確認できておりません。すみません。

2016.12.26 89歳



自主性を育む開成式教育


 今年で33年連続で東大合格者1位の開成中学・高等学校。とかく合格実績に注目が集まりがちだが、私学ならではの質の高い教育、および指導内容への評価も高い。同校のOBでもある柳沢幸雄校長に、「開成の素顔」のついて語っていただく。

1クラス55人…厳し過ぎず、緩め過ぎず

 灘の和田校長との共著「『開成×灘式』思春期男子を伸ばすコツ」を上梓されました。東西の私学の雄である両校の共通点、異なる点とは?

「開成の先生方は皆さん運転士型です」と柳沢校長

 「教育で重要なことは、生徒の自主性を育てることで、そのために必要なことは生徒を信頼することです。生徒が何かにチャレンジしようとするときに、私たち教員は見守りはしますが、基本的に生徒にすべてをゆだねます。そこで困難な状況になり、生徒が求めてくれば、いろいろとアドバイスをする。そういう姿勢は、非常に似ていると思います。

 私は、開成の中学生によくこう言います。「10年後、君たちには先生はいないのだよ」と。大学を卒業すると、常日頃、生き方を指導してくれる、学校の先生のような存在はいないわけですよ。教育の時期が終われば、もう自分でなんでも判断して行動しなければならない。そのための練習の時期が、中学高校時代なのです。そういうことを強く意識した教育を行っているのが開成であり、灘だと思うのです。

 1クラスの生徒数が多いのも共通していますね。高校だと、灘は55名で、開成は50名。他の学校の方が聞くと、ぎょっとするような多さでしょう。

 目に見えて違う点はありませんが、強いて言うならば出口の部分での生徒の選択の違いでしょうか。灘の場合は、医学部進学志向が強いと聞きますが、開成の場合は灘ほど強くはありません」

灘の教育システムで参考になった点は?

 「灘といえば、責任担任制ですよね。中学は1学年に4クラスあり、各教科の先生が中学1年生から高校3年生まで、そのまま上に持ち上がる制度です。学校の中に6つの独立国があるような雰囲気があり、教員の育成にも非常に寄与していると思います。灘が先鞭をつけたシステムです。

 開成の場合も、ほぼこれと同じようなシステムがあるのですが、クラス担任の負担の大きさや役割分担の平準化などを考慮して、灘ほどは徹底させていません。ただ、英語や数学、国語といった積み重ねの教科では、その学年にどういう教科指導を行ったのか把握しておく必要がありますので、だれか一人は持ち上がるようにしています。

 灘もそうでしょうが、開成でも各学年によって雰囲気がそれぞれ違います。担任教員としては、その学年のモラルのレベルをどのように維持していくかに腐心します。あまり厳しくし過ぎると自主性が育ちません。逆にたがを緩めすぎてもいけません。そこのバランスのとり方が、腕の見せどころでもあります」

柳沢校長は開成のOBでもあります。

在校時代に授業を受けた先生が、校長として赴任したときに、まだ在籍していたというエピソードには驚かされました。

 「そこが私立校のよいところの一つです。その方は地学の先生で、私が高3のときに開成に着任され、初めて担当したのが私たちでした。そして先生の最後の1年間、私は校長として同じ学校に戻ってきました。こういうことは公立校ではないでしょうね。

 このように自分たちが教わった教員が長く学校にいるので、卒業したあとも、よくOBが母校を訪ねてきますね。教員室に行くと必ず知った顔がいるので、訪ねやすいのでしょう。このようにOBが訪ねてくれることで、よい循環も生まれています。OBの動向がよくわかるので、彼らに頼んで『ようこそ先輩』という、OBの講演会を開催しています。OBのいまの仕事の話や、開成の在校当時の話などをしてもらい、生徒のキャリア形成に活かしています。生徒の関心も高く、今月の会では日曜日の開催にも関わらず約400人の生徒が参加し、話に聞き入っていました」

よい先生の条件とは?

 「基本的には二つの条件が必要だと思います。内容は担当教科によって、それぞれ違うわけですが、教科についての深い学問的な知識です。すべての教科に共通して大切な伝達力が二つ目です。自分が考えていることを、どうやって生徒の頭の中に伝えこむか。言葉であったり、ゼスチャーであったり、板書やスライド、プリントなど、いろいろな手段を使って、うまく生徒に伝えなくてはなりません。

 さらに授業をマンネリ化させないことです。私は、先生というのは駅長型と運転士型の二つのタイプがあると思っています。たとえば、数学の先生が因数分解を教える場合、ベテランの先生だと、何回も何回も教えているわけです。

駅長型の先生の場合は駅に立ち、担当学年の列車が駅ホームに入ってきて、止まっている間だけ教えて、次の学年になり自分の目の前を通り過ぎて、ホームから出ていくのを見送るのが駅長型の先生です。

 一方、運転士型の先生は、生徒と一緒に電車に乗って、教科を教えます。先生にとっては毎年同じことをしているだけかもしれませんが、生徒にとっては新しい体験なわけです。ですから、同じ電車に乗って生徒をよく見ることが肝要です。そうした生徒のために授業をマンネリ化させないことが大事だと思います。教えることは一緒でも、生徒は毎年違いますから」

 生徒にとっては運転士型の先生が新鮮ですよね。開成の先生方は皆さん運転士型です。

「開成×灘式」思春期男子を伸ばすコツ

 「いまの時代こそ男子校が求められている」と語る柳沢校長 「それを言葉通りに受け止められると誤解の元になります。生徒の先回りをして、手取り足取り教えませんよ、という意味です。なぜなら10年後、大学を卒業すると生徒には先生がいないわけです。自分で判断しなければいけない社会人になる。ですから、中高時代に自主性を育てて大人になるための準備をする必要があります。生徒の自主性を育てるためには、まず生徒に自分で考えさせ、行動してもらいます。そして生徒が壁に突き当たり、どうすればよいかアドバイスを求めてくれば、手助けをします。自分からアドバイスを求めるということは、自主性の発露ですか」

 「いまの中学、高校生が育っている環境をみますと、家庭の中では母親が関わる部分が非常に大きいように感じます。そうなると男の子の場合は、異性である母親がその教育を担うことになります。そうした中で私は、同性の子どもと異性の子どもとでは、親の対処の仕方が違うように強く感じています。親は無意識かもしれませんが、おそらく本能的に違うのです。同性の子どもに対しては、親は自分も同じ成長過程を経験をしているので、共感できる部分があり、それゆえに厳しく接しがちです。それに対して、異性の子どもに対しては、わからないことだらけで、その分、どうしてもかわいく思う気持ちが先に立ってしまう。主たる教育の担い手が母親だと、どうしても男の子に対して甘くなってしまいます。

 さらに、中学・高校の時期では、男子と女子とを比べると、女子の方の発達が早い。男の子が共学に通った場合、家庭では母親に甘い扱いを受け、学校では女子生徒のリーダーシップのもとで、補佐役をつとめるということになります。そうすると本来そうしたリーダーシップをとる潜在能力を持った男の子が、経験する場がないためそれを十分発揮できなくなってしまうかもしれません。もちろん全員がリーダーシップを発揮する必要はないのですが、男子校の場合はそうした潜在能力を持った男の子が実力を発揮することができる。いまの時代こそ男子校が求められていると思っています」

クラスごとで引き継ぐ運動会の戦術

 とかく東大合格実績のような勉強面での実績に注目が集まりがちですが、決して勉強一本やりの学校ではないと聞きます。

 「部活や委員会活動といった課外活動は、大部分が高3になると終わりますが、中1から高2まで約1700人の生徒が、なんらかの形で、課外活動に参加しています。

 つい最近、中学1年生の2学期に調査したところ、その学年の生徒300人が、のべで約600人、課外活動に参加していました。つまり、生徒1人がだいたい二つの課外活動を掛け持ちしているということです。

 高校3年生の課外活動は5月の運動会で終わりとなり、そのあとは一気に勉強モードに入ります。下級生にとって先輩の面々は、よきお手本であり、自らの将来の道しるべ的な存在でもあります。先輩たちは高3の運動会まで課外活動をめいっぱいやるわけですよ。とことん打ち込むので、最後は燃焼し尽くし、達成感を得て課外活動を終える。そこから受験に向けて猛勉強し、志望の大学に合格する姿を下級生たちが見て、自分たちも高3の運動会まで課外活動に打ち込むことができると安心するわけです。そうでないと不安になるでしょうね。

 ちなみに開成では、中1から毎年クラス替えが行われますが、それは高2までで、高校2年と3年は同じ顔ぶれで2年間過ごすことになります。それはなぜかと言いますと、運動会のノウハウを次の世代に引き継ぐためです。クラスごとに伝統的な戦法があって 、最近はビデオで分析するなど、さらに緻密なものになっています。その戦術を引き継ぐために、クラス替えをしないのです。クラスごとに8色に色分けされ、OBはそれぞれその色に誇りを持っています」

私学を始め、中等教育の段階での国際化対応については、どのように見ていらっしゃいますか?

 「生徒以上に、その保護者がそれをより強く意識しているように感じます。いまの中学、高校生の保護者は、だいたい40代から50代と、いままさに日本の社会の中の中核として、企業活動などの分野で世界を相手に仕事をしている世代です。そうした中、過去に自分が受けてきた教育を振り返り、そして自分の息子が同じような教育を受けたと考えたときに、いま自分たちが得ているような満足感、豊かさにまで彼らは達することができるのだろうかと、漠然たる不安を感じているように思います。

 とくに日本人の表現力の弱さに危惧を抱かざるをえない。日本は、『沈黙は金なり』の国であり、あからさまに話すことはしない。暗黙の了解の文化は、日本人にとってはとても居心地の良いものです。ただ、文化的・歴史的背景が異なる外国人とビジネスの交渉をするときに、暗黙の了解は通じないわけです。やはり自分の考えていることを、相手にうまく伝えないといけない。そういった背景の異なる外国人と合意を形成できるようになるには、海外経験が必要と考える保護者が増えているようです。

 海外の大学で学びたいという希望を強く表明する生徒も継続的に出てきました。そのような生徒の希望に応えるのが開成の伝統ですから、学校側としていろいろな受け皿づくりを進めています。海外大学のアドミッション・オフィス(AO)の担当者との会合を持つツアーに英語科の教員を派遣したり、在校生と保護者を対象にした海外受験フェアを催すなどして、海外大学進学志望者のサポートを行っています」 一人立ちのスキルが身に付く教育を…

平成二十六年八月二十一日



少年を理科好きなにするには


 ことし平成27年4月に全国の小学6年生と中学3年生、およそ213万人が受けた「全国学力テスト」の結果が公表されました。今回は、国語と算数・数学に加えて、初めて「理科」のテストが全員対象になりました。実験結果を分析して説明する力などに課題が見られたほか、中学生になると「理科の勉強が好き」という生徒が減っていることがわかり、文部科学省は「理科離れが起きているとみられる」と指摘しています。

 中学のある先生は「中学に入ると受験指導が増えてしまいがちですが、黒板での授業だけでなく野外観察や実験をできるだけ増やしていくのが理科離れを防ぐ近道だと思います」と話していました。

▼ある家庭の少年の話です。

 小学4年生のとき、学校で、種が育ち花が咲き、また実になることを教わりました。

 この少年は生まれてから両親が住んでいたアパートで育てられていたから、見ることもなかったのか「どうしてだろうか」と思ったらしい。

 それを知ったお母さんは庭付きのの社宅に移り住むようになつたたとき、庭の隅に二人で種を植え、芽生え、双葉から大きくなるのを見続けていました。種から実を結ぶの見て納得したようである。

小学校・中学校の過程を終わり、高校に進学すると理系を選び、さらに大学でも科学系の学生になり、卒業しては研究者になったそうです。

 お母さんが少年に理科好きになる種蒔きをしたといえるのではないでしょうか。

 子供がが両親に「どうして!!」「どうして!!」ときく者がいます。それに耳をかして、話しかけることがその子供の将来の成長に大きな見えない力となることでしょう。

▼日本は資源が少ない国であることはご承知の通りです。科学技術はグロバルに進歩発展しています。そのために生き残るには科学立国であり、たえざる努力をしなければならないと思うものの一人です。「理科離れが起きているとみられる」と言ってはおれません。

▼対策はどうでしょうか。いろいろ工夫されていることでしょう。私見では

1、理科好きな先生が生徒を教える。教える先生の熱意は子供に伝わる。子供は敏感である。

2、先生が理科に精通していて、子供にわかりやすくおしえることができる。

3、子供にもわかりやすい実験を多くして、「なぜだろうか?」と考えさせる指導すること。

平成二十七年九月一日



What'a new! JEFFREY V. RAVETCH 教授


 1988年,長男がアメリカに留学しました。ニューヨーク市内にある研究所でした。

 夫婦でアメリカ旅行をよみなおしおてみる。

 1989年、家内は初めての海外旅行であった。長男がアメリカに渡って1年目であった。

 「研究室では、ボスは、はじめ何も言わずに観察している。データが出ると猛烈に contact してくる。できる人とはお互いに contact が intimate になる。データの出ない人は仕事がなくなり辞めて行くようになる。
 猛烈に頑張る研究者、人口が多い、体力がある。この点には日本の研究者は注意しておく必要がある。
 すべておおまかな仕事ぶり。自分の事さえしていれば日本の全員参加活動は実施困難。」と記録している。

 研究室のボスが contact するときに使われた言葉が表題の「What'a new!」である。「研究実験で何か新しことでも見つけたか?」とでも言うのでしょうか。

▼この研究室を訪問した時のことを思い出しながら記録すると、

 研究所では、玄関にガードマンがいて、私が入ろうとすると[Can I help you.]と声をかけられる。長男の姓名を告げると許可された。

   アメリカ人が大部分で、スイス・ギリシャ等からの人もいた。そのほかにも研究補助者もいた。

 アメリカは仕事の分担がキッチリと決まっていて、研究者は研究者であり、研究補助者はあくまで補助者である。

 例えば、補助者が研究に貢献しても論文には姓名はきさいされない。

 ともかく、留学当初は日本人は長男ただ一人であったが、後ほど岡山から一人留学してきた。

▼余談だが、留学して1年経過したときに、私ども夫婦がアメリカにいったことになります。研究室のメンバーのパーティに招かれて、ギリシャからの人とはなしをしていると、長男の英語もだいぶ上手になったと言われていました。しかし長男は2年ほどは電話を取るのが嫌だったという。ニューヨークに行った方はご承知でしょうが、アメリカの中でも速い会話をするから日本人には聞き取れないのではないかと思う。

 この研究室で4年過ごし、研究仲間の女性(ニューヨーク大学に転出された)の御主人の紹介でアメリカの会社の研究所に転出した。そこでは、独立した研究者になりました。毎週月曜日に前週の研究の報告しなければならないのでかなり研究能力がきたえられたようです。3年勤めて日本の大学に勤めるため帰国した。現在も、研究所、大学と職場は変わっていますが、同じ研究を続けています。

 アメリカでは3年間くらいで転出しないと評価されない雰囲気であった。

 長男は「ボスからは発想の重要性・ユーモア・情熱を教えてもらったような気がします。自由な発想の基に緻密な実験・理論構築を行うのがモットーだと思っております。」と記録している。

 今でも当時のボスは研究をされていて、交流を続けているとのことです。

参考1:
THE ROCKFFELOR UNIVERCIT

 長男のアメリカ留学時代の恩師のA SPECIAL SYMPOSIUM TO HONOR JEFFREY V. RAVETCH ON HIS 65TH BIRTHDAY に参加。高井 俊行も参加されている。

参考2:東北大学生命機能科学専攻 : (協力教員)遺伝子導入 分野 高井 俊行 専攻分野 免疫学

ホームページ

 薬学と免疫学のバックグラウンドを生かし,星陵キャンパスの医学系の研究者と共同しながら,免疫系細胞に発現する制御性受容体の解析を通して,自己と非自己の識別機構の解明,免疫記憶の分子制御,感染症・アレルギー・自己免疫疾患の制御を目指しています。

経歴

 昭和55年岡山大学薬学部卒,昭和61年京都大学大学院医学研究科修了(医博),国立循環器病センター研究員,岡山大学工学部助手,講師,助教授,米国スローン・ケタリング研究所訪問研究員,平成9年より現職。

 JEFFREY V. RAVETCHは多くの研究者を育てられているのを伺わせられた。

平成二十八年三月五日



伊藤文大さんと私


2017.04月4日(火):KURARAY TIMES 3・4 Mar Spr.2017により、下記の記事が知らされた。

 故伊藤文大・クラレ会長のお別れの会 

 故伊藤文大氏(クラレ会長、病気のため、平成29年3月1日死去)のお別れの会 20日午前11時30分から東京都港区芝公園3の3の1の東京プリンスホテル「鳳凰の間」で。主催は伊藤正明クラレ社長。

 読んだとき、ああ彼も雲の上に去られた。

 ともかく、彼との思い出を記録する。

 私が研修所長(クラレ倉敷工場にあったが、総務労働本部に所属)だったとき、彼は大阪本社で総務・労働本部か人事本部にいた。

 業務の打ち合わせでたびたび本社に出向いていた。あるとき、仕事がおわり梅田の地下街で懇親会を楽しんでいた。

 そのとき、「黒崎さん、社長と会って話して下さい」と言われた。その内容は社員の教育についての進言であった。

 私は、社長は雲の上の存在であったので、実行することはできなかった。

 教育について日頃から考えていたことを述べて進言すればよかったのではないかと、伊藤さんの訃報で彼の話しかけてくれたのを実行しなかったのが悔やまれた。

 伊藤さんは、会津若松の出身で東大卒であった。朴訥な人柄で、しかも多くの社員と親しく接していた。そして親しみを感じさせる人柄であった。上司・後輩との付き合いも立派であった。こうした人だから、後に社長になり会長にまで登りつめた。度々話し合った社員の中で、たただ一人社長になられた。生前ずつと、社内報(クラレタイムス)で活躍ぶりを拝見して、心から喜んでいた私だった。

 頑健であったが激務がお体を侵したのであろう。六十九歳でのご逝去。あまりにも若くして、この世を去られた。ゆっくりと、故郷の民謡を聴きながらおやすみください。

参考:福島県出身。1971年6月東京大学経済学部卒(東大ラグビー部OB)、同4月クラレ入社。94年6月人事室労務部長、02年7月理事、03年6月執行役員、04年6月上席執行役員、06年6月常務、07年4月経営統括本部長、海外事業統括室担当、総務・人事本部担当。08年4月より社長就任

平成29(2017)年4月10日


 伊藤文大会長を悼む

 去る3月1日、伊藤文大がご病気のため、69歳で逝去されました。ご生前のご功績を偲び、こころからお祈り申し上げます。

伊藤会長を追悼するため、4月20日(木)に都内の東京プリンスホテル鳳凰の間において「お別れの会」がしめやかに執り行われました。会場には取引先や関係先など社内外を含めて約900名の方々が参列され、供花に包まれた遺影に最後のお別れを告げました。

お別れの辞

 社長 伊藤 正明

 本年3月1日会長 故 伊藤文大さんがご逝去された。 思えば2014年の春に病気がわかってから、随分苦しく辛い時もあったと思いますが、そういう言葉を口にすることなく本当に頑張ってこられました。ただ、今年に入ってから腰が痛いとかシンドイという言葉を口にされることがあり、秘かに随分と心配をしていました。2月8日の取締役で決算案が承認されると、「アア良かった、ホッとした。これで責任は果たせた」と言われその日は帰宅、10日に1客の対応だけに出勤、14日に入院されました。

 奥様から、担当の医師が「今回は帰宅するのが難しいかもしれない」などを話されたというご連絡を頂戴し、残された時間は月単位かと覚悟していたのですが、3月1日の夜にご逝去の連絡を受けて、落胆愛惜この上なく、誠に残念でなりません。

 伊藤さんと初めてお会いしたのは、私が昭和55年にクラレに入社した際に集合教育のアドバイザーをされたときでした。社会人1年生にいろいろと心配りの利いたご指導・アドバイスをいただき、チョットと怖そうなところもあるけれど、優しい兄貴みたいな方だなという印象を持ったことを覚えています。その後は人事の担当者、課長あるいは部長として、私の会社生活のいろいろな節目で大変お世話になり、2014年秋には後継社長として推薦をいただきました。

伊藤さんは社長就任直後、平成20年秋にリーマンショックに見舞われ、未曽有の困難に直面しましたが、迅速で大胆な舵取りにより、短期間で業績を回復させました。

 また、インド、ブラジル、タイなど新興国での現地法人設立により、グローバル体制の強化に手腕を振るわれたほか、コア事業ではデュポン社にビニルアセテート関連事業や、水溶性ポバールフイルムのモノソル社の買収を成功裏に進めるなど、ビニルアセテート事業でグローバルNo.1メーカーとしての地位を確固たるものとして、「世界に存在感を示す高収益スペシャリティ化学企業」の実現の道筋をつけられました。 仕事では非常に厳しい方でしたが、社員一人一人を思いやる人情味に満ち溢れた方でありました。家族を愛し、故郷を愛し、また、お酒を愛する人でもありました。笑うと優しいお顔と、会津訛りが残る朴訥でゆっくりとした語り口を思い浮かべると、改めて有難い先輩を亡くしたと、誠に残念でなりません。

 伊藤さんがその座右の銘の通り「愚直」に進めて来られた経営理念を引き継ぎ、世のため人のため、誠心誠意、まい進し続けることが残されたわれわれに課された使命であると思います。社員を代表し、ご霊前に改めてお誓い申し上げます。

 ご冥福をお祈りします。           合掌

思い出のパネル展:「お別れの会」会場で、思い出のパネル展での一部。

1967年春・東京大学入学 お母親と   大学時代・好きなお酒に興じて   2009年地球環境大賞「文部科学大臣賞」を受賞・秋篠宮ご夫妻と

(KURARAY TIMES 5・6 May Jun.2017)による。

平成29(2017)年6月3日



こころの里のみなさま! お元気で!!

こころの里━小規模多機能型居宅介護━


 私がいつも買い物をしているスパーマケットに近いところに、参考1に見られる写真(リホーム後)のようなお宅があった。

 2~3月前、改造工事が始まっていた。何か家庭の事情でもあるのだろうかと、思っていた。

 工事が終わって、ある日、お宅の前で年配の女性が男性の散髪をされていました。そちらをチラッと見ますと女性の方が微笑されて頭をさげられました。ほほえましい様子で老後を温和に過ごされれいらっしゃるなあと、以前の私たち夫婦が我が家のサンルームで話しながハサミでチョキチョキと切り取っていたのを思い出しました。

 11月に入り、通りがかると「こころの里━小規模多機能型居宅介護━」の小さな看板が張り付けられていました。

 なるほど、この為に改造されていたのだと納得できました。

 透明な窓を通して、そうですね7~8名の方が前掛けをきて、キッチンと大きな食卓のある広間で楽しそうに料理をされていました。自動車が玄関前に数台ありました。

 ご年配の方々が集まって食事をしたり、話し合っているのだと思いました。また大きな部屋の隣に小さな部屋があり、やわらかい椅子が数脚ありました。たぶんお互いが静かにお話しされるためのものだろうと。

 だが、「小規模多機能型居宅介護」とは? 知りませんでした。さっそくP.C.で調べると参考2の記事がありましたので記載しておきました。

 また、私のホームページ「私の生活圏は狭い だが広い」(参考1)に、この家を追加しましたのでご覧ください。

 高齢化がますます進み、対処するためのいろいろな政策が打たれています。また、地域の人々もさまざまな方法で立ち上がっています。それに対応する「少子化」も問題になり、人々の意識は急速に変化しています。家族体制も変化しています。

 日本人は変化に強い国民性があるものと信じています。きっとこんな情況にも柔軟に受け止め進歩してゆくだろう……。

 社会の変化のほんの一例をかいまみせていただきました。

参考1:私の生活圏は狭い だが広い
参考2:小規模多機能型居宅介護

平成二十七年十一月十五日



10
大学入試受験の不安


 長男は高校2年1学期末まではボート部でキャプテンであった。高校3年生の夏休みころから大学入試受験のために猛烈に勉強を始めた。

 夕食時には二階の自分の部屋から降りてくる時刻は大体決めていたようだ。家内はそれに合わせて準備していた。これも大変であっただろう。

 食べ終わるとすぐに自室に閉じこもり、夜中まで勉強していた。

 翌年(昭和49年)、新年となったある日、私に「○○大学を受験させてくれませんか?」と話しかけてきた。

 地元の大学受験で、もしも不合格になったらと不安になったのかも知れない。

 私は地元の大学を出ていれば友人とか大学とのネットが作れるから、卒業しても都合がよいだろうと思っていた。同時に私は「ここで気合をかけて不安を除いてやらねば」と思った。

 「今年は地元の大学だけにしろ、もし失敗したらならば、浪人して、日本のどこでもよいから自分の好きな大学へ行けばよい」とはっきりと言った。

 私の考えが分かったのか、それからは一言も言わず、腹を決めて勉強したのがよかったのか、幸いにも現役で合格できた。その高校からは、現役と浪人が五分五分で合格していた。

 平素は私には何も言わなかったが、自分の進路の節目、節目には相談する長男だった。

 大学入学式には私たち夫婦は参加しなかった。下記に示すような風潮はなかった。

 今や歳を拾っているが研究者として一人前になり、ある大学・研究所・大学と移り、同じテーマの研究を続け、後進の指導に当たっている。

 長男がアメリカへ留学中、私たち夫婦を呼んでくれて(約25年昔)、ニューヨーク市に出かけた。

 その時、アメリカの一人の若い人(大学卒:アルバイトしながら高校の先生への希望)から聞いた話を紹介します。

① アメリカは歴史が浅い。ヨーロッパ―、アフリカ、アジアの諸国か ら多くの人が来ている。
② 我々の父の時代はアメリカをつくるのに一生懸命で、よく仕事をし た。
③ 若い我々世代は金をもうけるのに苦労している。
  17歳までは親がめんどうを見てくれるが、それ以後は自分で独立しなければならない
  Pull yourself up by your boot straps.
④ 自分はgood education を受けたが、そうでない者は drug に走っていて残念である。
⑤ みんな個人的で助け合うことはない。

私見:独立心、個人主義の両面を見なければならない。

 日本の現在の大学生は親がかりである。ただ、アルバイト・家庭教師をして親の負担を少なくしているものもいる。


余談:学生8千人に出席1万人 入学式の対応手厚く(朝日新聞の記事より)

 2016年4月7日に日本 武道館であった明治大の入学式。入学生8千人に対して、保護者は1万人以上が出席した。1~3階の家族席はほとんど埋め尽くされた。

 長男が政治経済学部に入学した東京都の公務員男性(53)は妻と出席。「子どもの入学式は知り合いもみんな行く。今の時代は子どもの成長を見届けたい気持ちが強いのかも」。理工学部に入学した男性(19)の両親も会場に。「入学式や卒業式に両親がずっと来ており、当たり前のこと」

 明治大の広報は「少子化の影響か、子どもへの関心が年々高まっている印象。学生もそれを嫌がらない」と話す。保護者が入りきらず、2008年から、入学式を午前と午後の2回実施。10年からは学生1人につき保護者2人までに入場を制限した。

 武蔵野美術大(東京都小平市)も、4日の入学式で会場に保護者用の500席を設けたが足りず、別会場を用意して中継した。4年前から対応している。

平成二十八年四月十四日



11
奥 村 長 生 君 と 私


 彼と私の出会いは昭和19年10月、海軍兵学校76期生として入校し、翌年4月に分隊の編成替えで江田島の101分隊の2号生になった時、同じ分隊に配属されたのであった。

 終戦の8月までの4ヵ月、勉学・訓練・寝食をともにした同期は参考1にみられる13名であった。

 この中で、奥村君とは食堂での席が隣であったので、いろいろと話し合ったものである。冷静で温厚な人柄であった。お寺の生まれであることもしった。

 戦後、彼は名古屋の第八高等学校(旧制)から東京帝国大学法学部を卒業して、裁判官の道に進み、最高裁調査官などを歴任されて、東京高裁部総括判事まで勤められた。

 岡山では岡山海兵76期会が作られていて「わが師わが友」という会報を作っていた。その製作は波多野二三彦君(検事から弁護士として岡山市で活躍していた)であった。同じ司法関係にあったからであろう、No.14(昭和57年11月20日発行)に奥村君が寄稿している。以下に記載する。

  深い感銘

      東京・七六期
      東京地裁家裁八王子支部長
        奥 村 長 生

 先日は「わが師わが友」一三号を御恵送下され、本当にありがとうございました。各地各分野の皆様から寄せられた、心温まる評論随筆、記事、お便り等、繰り返し拝読し、深い感銘を受けました。

 「わが師わが友」のこのような充実、これひとえに、岡山の期友の皆様の御努力の賜物と、心から敬意を表する次第であります。

 岡山地裁の前所長の鬼塚賢太郎さん、現所長の広木重喜参考2さん、お二人とも古から親しくして頂き、御指導を受けております。岡山では、代々立派な所長を迎えられ、ご同慶にたえません。

 広木さん、難波雍君、黒崎君はじめ、貴地の期友諸兄によろしく。(8.29)

※難波君は奥村君と津中学の同級生。岡山朝日高校の社会科の教諭であった。 

▼戦後一度岡山であって、旧懐を温めた。それ以後は年賀の挨拶を交わし続けていた。

 退官後は、横浜市にある、私立大学の法学部の教授を勤めていた。しかし、告別式が行われ、少しおちつかれてから奥様よりご逝去の通知があった。

 奥村 長生氏(おくむら・ながお=元東京高裁部総括判事)2012年4月2日、老衰のため死去、84歳。告別式は近親者のみで行った。喪主は妻、悌子さん。

▼最近、インタネットで「奥村長生」を検索すると多くの記事が掲載されていた。わずかな期間ではあつたが、本音(ほんね)の交流から推察しまして、彼らしい裁判官としての仕事ぶりは立派であつたことは間違いないものであったと確信しています。

 紙上で奥村君のご逝去に追悼の誠をささげます。

参考1:海軍兵学校出身者

参考2:広木 重喜氏(ひろき・しげき=元大阪高裁部総括判事:海兵75期・三養基中)2011年11月15日、膵臓がんのため死去、85歳。告別式は22日午前11時から東京都杉並区梅里1の2の27の堀ノ内斎場。喪主は妻、郁子さん。

平成二十八年七月十四日


★奥村君(1928~2012):昭和3年生まれ、1944(昭和19年)三重県津中学校4修で海軍兵学校76期生。1945.4エ101分隊。そのとき、私も同じ分隊に配属された。

★戦後、第八高等学校→東大法学部。卒業後、裁判官。1987年4月、岐阜地方・家庭裁判所所長から東京高騰裁判所勤務に転職の挨拶状受信。

★2004年7月10日(土)夜、奥村君から電話:「7月10日、朝10時、江上精亮君がご逝去された。7月12日葬式を行う。喪主は江上博之様」と。彼が肺ガンだと知らされたのは、約1年7月前である。夜、就寝前に「般若心経」を唱えご冥福を祈る。

★記録していた日記ににょる。海軍兵学校での同期・同分隊の仲間は、54年(約半世紀)も結ばれていた。 



12

「二、三のマーク」━倉敷紡績・クラレ社標


 扇谷 正造著『現代ビジネス金言集』をめくっていると、「川筋はウナギによって興りウナギによって亡ぶ? ━━大井川流域の俚諺」 という項目がP.54~P.57 に記載されていた。その中に表題の言葉が載っていた。私も勤めていた会社も記述されているので、以下に書き留めた。

 静岡県は、日本で最も富裕な県だといわれている。気候温暖、地味は豊かで、しかも東京ー大阪を結ぶメガロポリスの中心部に位置し、重・軽工業の工場がズラリ並んでいる。物産も茶、みかん、魚、ウナギと豊富である。

 かれこれ、もう十年も前になろうか。慶應義塾大学が創立百年祭を祝ったことがある。理事会で各県の三田会に寄付金をわりあてた。すると、静岡県の三田会から抗議がきた。割りあて額がすくないというのである。理事会では、さっそく増額修正したが 「しかし、寄付の割りあてが少ないという抗議は、前代未聞ですね」

 と、池田弥三郎教授が語っていた。そういえば、専売公社が新煙草の売り出しを行う時は、東では静岡県、西では広島県でまずためしてみる。その結果をみて生産量の腰ダメをするといわれているが、煙草の嗜好も、この両県ではバラエティーに富んでいる。それでモデル地区に選ばれているわけなのだが、これとて金がなければ出来ることではない。

 その静岡県の大井川地方に、すこし前から『川筋はウナギによって興り、ウナギによって亡ぶ?』ということばが行われているという。このことばは、都民銀行の故工藤昭四郎氏とお会いした時、お聞きしたものである。

 静岡は駿府城の所在地として知られているように、かって徳川家康の本拠地であった。江戸幕府はここから発している。徳川三百年の幕府が倒れた。幕臣はチリヂリになった。勝海舟のように、いち早く新政府に仕え転身したものもあるにはあったが、大半は零落した。お膝元の静岡もご多分に洩れず、藩士たちはずいぶん窮乏したらしい。おまけに江戸から縁をたよって駿府へやってくるものもある。

 このままではいけないと、大がかりな殖産事業をはじめる。茶やみかんの栽培、清水次郎長をキャップにする富士山麓の開拓などが試みられたのもそのころだが、その一つに浜松を中心とする大井川川筋の養殖があった。

 これが結果として成功した。川筋は富み栄えた。そのため、若い人たちの間に、どうやら、このごろは進取の気象が失われ、とかく怠慢の気さえ生まれはじめている。古老がこれを憂えていいはじめたのが、「川筋はウナギによって興り、ウナギによって亡ぶ?」だというのである。いわば、警告のことばであろう。

 それにつけて思い出されるのは、倉敷紡績の「二、三のマーク」ということばである。倉敷紡績のマークは写真左の図のように、横に二本棒を置いて、その下に黒丸をを三つおく。紡績から分かれた倉敷レイヨン(クラレ)は、これを図案化し、黒点三つを二つの円でかこんでいるが、いずれも、あらわしているのは二と三であり、それは二位三位をいつも確保せよという意味である。この社標は意味深い。

 このマークは初代大原幸四郎氏が、幕末の儒者で勤皇家の森田節斎の言を採用して作ったといわれている。節斎に『謙受説』というのがある。

『書経』に『満は損を招き、謙は益を受く』ということばがあるが、節斎は、これに現実的な注をつけて『謙は益を受く。即ち富む。富めば即ち驕る。驕らば即ち衰う。満は損を招き、即ち窮すれば即ち慎む。慎めば即ち盛る。盛衰、無窮に相尋ぬ』とした。一文の意味はこうである。

 「へりくだり、身をつつしんでいると、利益を得て富んでくる。富むと人はおごって来る。驕ると衰える。満ち足りていると損をして行きづまる。行きづまると身を慎む。身を慎むと盛んになって行く。盛んになれば衰え、衰えれば盛んになってくる━━ということを、人間はいつまでもくりかえすものである」

 という意味である。どこか老荘の哲学に似た味わいがあるが、人間の一生にしても、また企業の盛衰にしても、人生の真実はその辺のところかも知れない。大原家では、節斎のこの謙受説に積極的な意味づけをした。それが二、三のマークである。

 望ましいのは一位だが、すると気がゆるむ。それよりは、いつも二位または三位を保つことである。つねに一位を保つということはつらいことである。追い抜くものは自分だけだからである。二位にいると、とにかく一位についていればよい。そこに余裕がでてくる。しかも、四位五位にならぬよう万遍なく気をくばらねばならぬが、一位でないから慢心はうまれない。

 競輪の選手のトップは "追い抜け"といって、とても辛いものだという。向かい風をまともにうけるから、二位、三位は、その分だけ楽でもあれば、余裕もある。そして、ラストではトップを追い抜く力を蓄えておくことができる……。たとえば、そういうことにも通ずるかも知れぬ。

「川筋は…」と「二、三のマークは、その意味では人生の真実の"歩どまり"ということをいってるのかも知れない。


 初代大原幸四郎氏が、幕末の儒者で勤皇家の森田節斎の言を採用して作ったといわれている。節斎に『謙受説』というのがある。との記述から 

『大原孫三郎伝』(非売品)でしらべると以下の記述がある。

 謙受説━満は損を招き、謙は益を受く━

 儒者森田節斎は庄屋広江屋文平(三宅氏)の招きに応じて倉敷に来往し、東町の玉泉寺に簡塾を開いたのは安政三年(一八五六年)のことであった。節斎は大和五条の人で勤皇の碩学をもって鳴ったが、以後数カ年の間、倉敷の子弟に儒学を講じ、勤皇の精神を鼓吹した。

 大原与平は当時五十歳を過ぎた壮年であったが、林孚一らとともに節斎に師事し、交遊に密なるものがあった。与平が節斎から受けた最も大きな収穫は「謙受説」という商人のための座右の金言を得たことであった。それは「満は損を招き、謙は益を受く」という思想で、常にへり下った気持で、より高いものを求めて努力せよ、という内容であった。与平はその住居を「謙受堂」と名付け、節斎は自ら筆をとって「謙受堂記」を与えた。与平はこの精神をもってますます家業に励んだので、家運はいよいよ隆盛に赴いた。

 与平には一女久野があったが、分家吉井屋に嗣子がなかったので、久野に分家を相続せしめ、その長女、吉を入れて名を恵以と改めて嗣となし、安政五年(一八五八年)岡山丸亀町藤田伝吉の三男幸三郎(二十四歳)を婿養子とした。この幸三郎が後に大原幸四郎を名乗った人であり、大原孫三郎の父である。時に祖父与平は五十五歳であった。(中略)

※大原孫三郎氏→大原總一郎氏→大原謙一郎氏と引き継がれる。

参考1:兼田麗子著『大原孫三郎ー善意と戦略の経営者』(中公新書)2012年12月20日発行

参考2:扇谷 正造(おうぎや しょうぞう、1913年3月28日 - 1992年4月10日)は日本の評論家、編集者、ジャーナリスト。"週刊誌の鬼"の綽名で知られた。

平成二十七年十一月二十日



13
四国の名山石槌山登山:その後の話


昭和61年6月28日(土)3:44起床

1、6:00 TV予報 曇りのち雨、70~80%。26日、27日は雨が降らなかったのに。
  6:10 雨が降りはじめる。雨モヨシ 晴レルモ マタヨシを思い、雨の登山で行けるところまで行けばよい。藤井君、伊藤一雄君に気の毒。

2、8:30 伊藤一雄君の運転で藤井君と二人で渓石に迎えにきてくれる。

  9:00 小松駅にI君の友人レイヨンの女性をピックアップ。

3、9:50 ロープウェイ前下谷駅に着く

  10:00 出発  10:07 成就駅(標高:455m)に着く、ロープウェイに乗る。リフト終点(標高:1,440m)まで一気に上る。雨雲にさえぎられ駅が見えなくなる。緑は雨でみがきがかけら れる。7月1日の山開き準備のために白装束の人10人ぐらい乗っている。

4、成就社に参る。展望台から歩いて傘をさし黙々と、道ばたの木に植物の名札がかけられている。運動靴のなかまで濡れる。

  成就社に礼拝。おみくじ(50円)。

  周囲を散策 ブナの木をはじめて見た。

5、食事 ししなべ 伊藤君の携帯燃料で沸騰していただく 長崎の本物のカスティラもいただく 外の天候は急変している

 F君(大学時代:登山部で活動)、I君の登山についての経験談は楽しい。

 F君の幅広い登山歴、I君の地に迷って木に登っての地形の判断と準備の良さに感心。

 残念なのは、当日は雨のため山頂に登れなかった。

※伊藤君の案内で初めて名山の途中まで登った貴重な体験となる。山登りの愛好家が集まって楽しんでいた。

※参考:石槌登山ロープウェイ株式会社

※私は学生時代はもとより、社会人になっても、山に登ったことは殆どなかった。
 昭和25年クラレ入社して、二~三年後のある年の夏、上司と池永和男さんと3人が一泊二日で広島県庄原市西城町道 後山に出かけた。

 その他には、島根県大山のスキー場 昭和二十九年山陰地方の旅)に行ったことがある。

▼古い日記を読み返していると、以上のような記事を記録していた。茫洋とした三十年であるが、当時の様子を思い出している……。藤井君、伊藤君 有難う!!

平成二十八年八月二十七日


 平成十四年賀状に「私の愛する東赤石山(1700m)です。案内したいと思います」と、写真の下に書かれていました。当時、案内して頂いていたら良かったのにとおもうが、後悔は先に立たず 残念だ。

平成二十九年一月三十日。


 2017年02月10日

 私が数日前、伊藤一雄君に手紙をおくった返信受信。

 (前略)私の百名山「東赤石山1706m」の山小屋を経営している恩師実森が今年7月に山小屋経営30周年のイベントを計画しています。その一端を私も助太刀の予定です。詳細はこれからですから、決定次第連絡します。その時、黒崎さんを赤石に案内出来れば幸いだと思います。

 ちなみに、赤石のアプローチですが、一般登山者で約3時間必要です。私の場合、病後なので倍の6時間が必要です。と2017.02.10 受信。その後、私の体調が登山できないと伝えて、この計画には参加できなかった。


 2017年10月07日

 郵便局レターパックが送られてきた。7月末に、赤石にあがってきましたので、記念品や写真、新聞記事、赤石山荘の主人が発刊した「四国赤石山系物語」を送付します。また、銅板(しおり)は一枚づつの手作りです。絵葉書はかつて赤石に上がって写真を撮っていたものから選択したものです。

 秋の夜長をこの本をお楽しみください。と。早速、お礼の電話をして、本をめくると、伊藤君の尊父も山登りをされていて、伊藤君は、その血を受け継いでいるとことが分かった。また実森さんは、伊藤君の恩師であることも。そして、この本に「発刊を祝って」の記事を書いている。

参考までに、インターネットで、書名で検索しますと、多くの記事を見ることができた。

平成二十九年十月六日
写真をクリックしますと少し大きい画面になります。Please click on each photo, so you can look at a little wider photo.

平成二十七年十月六日



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アメリカ映画「幌馬車」を観る


 いつの頃からか映画を観ることは殆どなくなっていた。若い頃は友人たちとまた一人で映画をみたものである。

 平成28年、私たちの公民館便りで、下記の案内があった。

 その案内では定員50名、それに達すれば打ち切りだと書かれていた。私は、是非見たいものだと、公民館にゆき、定員になっても立ち見は出来ないのかと聞くと、それはないですと。9時30分には公民館を開きますと、言われた。

 そこで、当日の9時15分ころ公民館へ向かった。しかし集まったのは20名であった。

 私は約1時間半の上映を楽しむことができた。終わって近くのらーめんの店で昼食。楽しいごぜんでした。

感想:アメリカ映画は沢山みていた。今回の映画鑑賞で、特に感じたことは、参考:「ユタ州とモルモン教について」の中に記載されていた、Go West ということばである。この言葉には、Gold Rush であり、今回のようにモルモン教における布教の新天地を開拓する意味に使われていることを教わったのは収穫であった。

平成28年度 富山公民館主催講座 冨山映画会 毎月上映

12月22日(木)10時~12時
「幌馬車」1950年 アメリカ 85分 白黒字幕スーパー

監督;ジョン・フォード

主演;ベン。ジョンソン、ハリー。ケリー・ジュニア、ジョアン・ドールほか

 モルモン教徒の開拓者隊が、ユタとアリゾナの境、サン・フワンに新しい土地を求めて出発した。トレヴィスとサンディの護衛で、一隊は自然の障害そものともせず進んだ。途中一行は飢えた見世物師の一団を拾い上げた。一団中の踊り子デンヴァアはトレヴィスにほのかな好意を寄せた…。

参考:幌馬車(1950)アメリカこんな日は映画を観よう/ウェブリブブログ

参考:ユタ州とモルモン教について

アメリカの国立公園を多く保有する州のひとつであるユタ州は、合衆国内でも少々変わった州であり、ただ単に国立公園を観光するだけでない一風変わった見方をすることができる。 ユタ州は人口223万人のうち約70%がモルモン教徒である。2000年の国勢調査では、ユタ州人口の68%がモルモン教徒であると答えていた(現在ニューヨークから西海岸にかけて全米約800の宗教がある)。モルモンの正式名は"CHURCH OF JESUS CHRIST LATERDAYS SAINT(末日聖徒キリスト教会)"で、モルモンはニックネーム。 キリスト教会でありながら変わっていると言われる所以は、最近まで一夫多妻制を奨励していた事、お茶、コーヒーなどの刺激物は一切摂取しない、起きている間は原則的に働き、収入の十分の一を教会に納める…などの厳しい教えからきている。 日本でも世界でも実にいろいろな形の宗教が今日存在しているが、モルモンは、1830年アメリカ合衆国にてジョセフ・スミス・ジュニアによって創始されたキリスト教である。日本における信者は約12万人。バーモント州出身のジョーゼフ・スミスが ニューヨークにいた頃、モローニの天使が金の板に教条を書いて彼に手渡ししてきたのが始まり。

1820年代はGREAT AWAKENING(グレート・アウエークニング)時代と呼ばれた宗教ブームであり、どんな宗教でも多くの信者を寄せ付け、新大陸では各種のキリスト教宗派が対立抗争を繰り広げていた。 「赤毛のアン」シリーズを読んだ人なら、「長老派教会」「メソジスト派」という言葉が何度も出てきたのを覚えているかもしれない。赤毛のアンとその周辺人物たちはみんな長老派で、露骨にメソジストをバカにした発言を繰り返し、当時の人々は本当に正しい教えはどれなのだろうと疑問を抱き出していた。 信仰厚きジョセフ・スミスは、どの宗派が正しいのだろう、と悩んで、結局どれにも属さずにひたすら祈りを行っていた。そこへ神さまの啓示が下り始める。 あるとき神様は、モルモン経のありかをジョゼフ・スミスに告げる。モルモン経の神様は少々変わっており、何度もしつこく三回繰り返すという癖があり、今でもモルモンの人には何回か言葉を繰り返す人が多いそうだ。啓示を受けたジョーゼフが山の中に行き、モルモン経のヘブライ語版を書いた金版を掘り出して、さらに一緒に埋めてあった翻訳胸当て(ウリムとトリム)をつけると、ヘブライ語なんて見た事もない彼でもすらすら読める事ができたと言う。残念ながらこの金版も翻訳機も神様に返却されてしまった。 モルモンの「起きている間は働き続ける」という教えはジョーセフ・スミスが説いたが、そうして働き続けるうちにモルモン教徒は富んでくる。富んでくると周りからやっかみが起き、迫害が始り、東海岸にいられなくなり、イリノイ州へと移って行く。当時信者4万人。ちなみに当時の州の平均人口は6万人というから巨大な集団であった。スミスは大勢の信者に支えられ、1844年の大統領選に立候補するが、選挙運動中暴徒に教われ死亡。これを期に教団は、ブリガム・ヤング指揮のもとにユタ州(当時は州ではない)へ向かう。ヤングはスミスと異なり、宗教的な人間というよりも教団の代表としてモルモンの普及活動を積極的に行った。ヤングがいなければ今のモルモン教団はありえないとも言われている。

アメリカの州について 1789年に西部開拓法にて定められた区画整理法で6マイル四方ごとに区画整理をして行き、1マイル四方(640エーカー)を$640で払い下げるという大雑把なもので、人口密度は大体平均で1マイル四方に3~4人。この料金は後100年間据え置き。一定の区画内に6千人集まったら準州、6万人集まったら州として認められた。そもそもフロンティア精神、西へ行く(Go West)という言葉はアメリカでは単に西に向かうだけはなく、夢や希望を持つ事を意味する。今に残るモルモン・トレイルを、迫害されながらも希望を新天地につなぎ、教団は西へむかった。 ロッキー山脈越えは厳しく、ジョーゼフ・スミス亡き後、途中で大半が挫折、離団したが、1847年に数百名のモルモン教徒が現在のユタ州、ソルトレークシティに到着する。 当時の教祖ブリガム・ヤングが小高い丘の上からソルトレークシティのあたりの台地を指差し"ここは我々の地である"と宣言し、定着をはじめる。なにもないユタで数百人の小集団が生き延びるのはとてもきつかった。 折りしも西部開拓時代。モルモン教団の中にはダニテ団という過激的な集団が結成したり、教徒を増やすためにかなり残虐な行為を行った事もあるという。 そして、子孫を増やすためにブリガム・ヤングが行った政策は一夫多妻制の導入。 ブリガム・ヤングは前からジョセフ・スミスに「一夫多妻制」を提案していたのだが、スミスはそれを受け入れなかった。ところがスミスが死んで、教団がユタに入ってしばらくすると、ブリガム・ヤングはジョセフ・スミスから受けた啓示ということで一夫多妻制を開始させた。 (追記:ただし、一部の資料では、そうではないという話もある。ジョセフ・スミスも一夫多妻を希望しており、あるとき神様からそういうお告げを受けて妻に相談したところ、妻はスミスの目の前で黙って結婚誓約書なるものを破り捨てたという。) 長い間、ユタ自治区はアメリカから半ば独立した存在になっており、税金を収めず、それを治めさせようとアメリカ政府が裁判官等を送り込むと殺戮を繰り返し、アメリカで州と認められたのはかなり長期に軍事的な対立をしてから。騎兵隊つきで裁判官派遣、さらに一夫多妻の廃止という条件付きで、ついに1896年米国内で45番目の州となった。

2016.12.23 89歳



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ベラ・チャスラフスカさん


 2016年、リオデジャネイロオリンピックが開催された。次は2020年、東京で第二回目が行われる。東京オリンピック(第一回目)では新幹線も開通した。昨日のように思われる。

 私は会社勤めをしていた。岡山からの東京への出張も日帰りで出来るようになった。

 世界各国からアスリートたちが集まり、素晴らしい成果をあげられた。その中の一人にベラ・チャスラフスカさんもいた。

 彼女は、金メダル7個という輝かしい業績を上げました。しかも、祖国の真の英雄であり、日本では「東京の恋人」と呼ばれています。

 「プラハの春」で「二千語宣言」に署名し、祖国の自由・平和・民主主義を貫きました。

 栄光とどん底(身分を隠し掃除婦としての生活)、人々の賞賛と裏切りに翻弄されながらも、また家庭的にも筆舌に尽くしがたい事に耐え、自分の信じる道を曲げず、歩み続けました。ごく最近、NHKBS1で放映されました。 

 ベラ・チャスラフスカさん元体操選手[チェコ]

 2016年8月30日死去膵臓がん享年75歳

  ベラ・チャスラフスカ(1942年5月3日 - 2016年8月30日)はチェコスロバキア、プラハ出身の体操選手。

 1964年の東京オリンピックで、ベラは人気選手となる。

 東京大会(1964)で、女子体操個人総合、平均台、跳馬で金メダルに輝いたベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア・現チェコ)は、その端正な美貌と優雅でダイナミックな演技で日本中を魅了し、「東京の恋人」と呼ばれました。次のメキシコシティー大会(1968)でもその美しさは健在で、個人総合連覇を達成し、床、段違い平行棒、跳馬でも優勝を果たしました。 彼女の運命はしかし、その後大きく変化します。平均台、跳馬と個人総合の金メダルに加え、団体でも銀メダルを手にした。

 優美な演技は日本において「オリンピックの名花」「体操の名花」と讃えられた。

 しかし、彼女のメキシコオリンピック参加は、政治的事情のため非常に危ぶまれていた。

 彼女は1968年のチェコスロバキアの民主化運動(「プラハの春」)の支持を表明して「二千語宣言」に署名しており、同年8月のワルシャワ条約機構による軍事介入プラハ侵攻によって身を隠さざるを得なかったのである。

 冷戦期の1955年、ワルシャワ条約に基づきソビエト社会主義共和国連邦を盟主とした東ヨーロッパ諸国が結成した軍事同盟

 1968年のメキシコ五輪はプラハ侵攻の直後であり、彼女はオリンピック直前にようやく出国を許可された。

 彼女はこのとき、祖国の屈辱をはね返すために、最高の演技を誓い競技に臨んだと後に語っている。

 五輪本番は、抗議の意を示すため濃紺のレオタードで競技を行った。

 不十分な準備の中、圧倒的な強さを見せるが、ゆか競技の判定において、この政治的事情の影響か、金メダルは微妙な判定によってソビエトの選手とダブル受賞となった。

   国際政治に翻弄された 「東京の恋人」

 当局に連行されて訊問を受けることもしばしばで、所属していた体操クラブからも追われてしまいます。しかし、署名の撤回を求められても、彼女は頑として拒否し続けました。本来は政治的主張の強い人ではなかったといいますが、自らの信念に正直であり、苦境にあってもその姿勢を貫き通したのです。

 1989年、東欧に民主化の波が押し寄せると、無血革命として知られる「ビロード革命」により、チェコは共産党の一党独裁統治を覆して真の民主化を達成します。彼女と同様に迫害を受け続けた、劇作家でありビロード革命の中心人物であったハヴェルが大統領に選ばれると、彼に請われてチャスラフスカは大統領顧問に就任。92年にはチェコ・オリンピック委員会の会長も務めました。ようやく彼女の復権が認められたのです。

二〇一六年(平成二十八年)十月十七日



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水泳の思い出―小学生・中学生のころ―


 瀬戸内海が入り江になっていた故郷の町で育った私。

 小学生低学年のころ、天神さんのお宮が入江のふちにあった。わたしたち子供は、ここから海に飛び込んで泳いでいた。時には、天神さんの境内の 松に登って飛び込んでいた。ここは水泳ばかりではなくて、はぜやめばるなどの釣りを楽しんでいた。

 また、小学校の校庭からの海で水泳。隣の村(大乗で親戚の旅館が海水浴場に店を出していた)へ度々行き、水泳。そしてかき氷・水泳中に海水に ひたしてやわらくなったソラマメなどを食べていた。

 中学に進んだ。学校は瀬戸内海の海辺にあった。校庭の南には、防潮堤の上に松並木があり浜は白砂の風情であった。沖には大久野島があり、大阪 商船などが航行していた。

 入学して五月の半ばともなれば、晴天の日は、体操の授業は水泳であった。

 水泳は小学校低学年から一通りマスターしていたから中学校での水泳は苦にはならなかった。夏休み前の仕上げが遠泳であった。

 中学校の海辺から隣の部落・長浜までの往復四キロの遠泳である。一年生全員参加。六尺褌をしめて白の水泳帽子。二列縦隊で適当間隔を置き隊伍を組んで泳ぐ。沖にはスナメリ鯨が游泳していた。救助用の伝馬船二~三隻に先生が乗って監視。瀬戸内の潮の流れはかなり速い。干満の差が大きいことからも分かる。海辺から五十メートル沖合を泳いでいて流れに乗ればすいすいと進むが、逆らうことになれば一メートル進むにも容易なことではない。場所によっては流れが変わっている。進んでいるかどうかは陸地の位置の変化から判断していた。

 海水につかっているのだから暑いとは思えないが、これがとんでもないことである。水に入っている部分は冷えているが頭は太陽に照らされていて暑くて仕方ないのである。絶えず水に濡らさなければならない。

 体力が尽きて伝馬船に引き上げられる者が出てくる。それも四~五人である。船に乗りたいが、上がれば恥ずかしいと思っていた。

 往復を完泳して学校の海辺の底に足がついたときはホットとした。海水を掻き分けて砂浜に辿り着く。立つことができないでフラフラと倒れる。あちらでもこちらでも。なぜだろうか?

 お粥が配給された。唇まで色が変わるほど冷え切っているときの温いお粥はたまらなく美味しかった。

 遠泳も終わり、夏休み。広島高等師範学校の学生さんに正式泳法「高師流」を教わった。

 三年生になったころ、同級生はヤス(魚突き)で魚をとったりしていた。また岩牡蠣をこじあけて、実を取出して、塩水であらってそのまま食べたりしていた。美味であった。

 中学から海軍に入った。海軍の学校だから新入生徒は、みなさん泳げると思えたが、そうではなかった。所謂、錨組のものがいた。

参考: 海軍兵学校入校



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杉原千畝と6000人の命のピザ


略歴

1900年1月1日 岐阜県加茂郡八百津町に父好水、母やつの次男として生まれる。

1919年  早稲田大学高等師範部英語科中退、外務省留学生としてハルピンでロシア語を学ぶ。

1924年 外務省に奉職。満州、フィンランド、リトアニア、ドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニアの日本領事館に勤務。

1940年夏、リトアニア共和国首都カウナスの日本領事館領事代理時代に、ナチスドイツの迫害をのがれようとするユダヤ人にビザを発給し、約6000人の尊い人命を救う。

1947年 帰国。外務省を退職。東京PX、米国APONJE商会、ニコライ学院教授、NHK国際局、国際交易(株)等に勤務。1985年1月イスラエル政府より「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を受賞

1986年7月31日 逝去(86歳)

幼年期~旧制中学校

千畝は1900年1月1日、父好水、母やつの次男として岐阜県加茂郡八百津町に生まれた。

父は税務署勤務で転勤が多く、千畝は小学校を三重県、岐阜県、愛知県と転校しているが成績はよく、「全甲」の通知表も残されている。千畝が小学校を卒業する前に、父は単身で朝鮮総督府財務部に赴任していった。その後、父は朝鮮の京城(現ソウル)で旅館業をはじめかなりの盛況だったようだ。1916年に家族は、朝鮮に引っ越したが、愛知県立第五中学校(現愛知県立瑞陵高校)へ進学していた千畝はひとり日本に残り、1917年に中学を卒業してから家族の住む京城に行った。成績の良い千畝が医者になることを期待していた父は、京城医学専門学校の受験手続きをして待っていた。だが、千畝には医者になる気は全くなく、入学試験の当日、母が作ってくれた特別の弁当を食べただけで、受験はせず帰宅してしまった。

「母やつが当日のために、わざわざ特別の弁当まで作って、家から送り出してくれた。ところが、医者になることは私はイヤで、結局この入学試験は受験しないで、弁当だけ食べて帰宅した訳でしたが、父はそのことを大変に怒り、それならば家を出て働けと言いました」(千畝の手記より)

他に流されない、千畝の意志の確かさが伺えるエピソードといえるだろう。

大学を中退し外交官へ

ハルピン時代 ロシアの専門家として頭角を現す

一年の浪人生活の後、1918年早稲田大学高等師範部英語科予科に入学した。語学の得意な千畝は英語の教師になることを夢見ていたが、父の意志に反しての入学だったため、学費・生活費の一切をアルバイトで賄わなければならず、苦しい生活を送っていた。大学2年生の時、偶然、大学図書館で外務省の官費留学生の募集広告をみたことが、人生の転機となる。官費で3年間留学して語学を身につけ、のちに外交官に採用されるというものであった。「アルバイトをしなくても勉強ができる!」 願ってもないチャンスだが、受験までの期間はわずか一か月。必死の勉強が身を結び、みごと合格した。

1919年10月、外務省のロシア語留学生としてハルビンに渡った千畝は、生来の語学の才能で4か月後には日常会話に困らない程に上達したという。

1924年に外務省書記生に採用され、ハルビンの日本領事館ロシア係に就任する。1932年には満州国の建国が宣言され、満州外交部に派遣された。千畝は外交部時代に北満鉄道譲渡交渉に関わり歴史に残る成果を上げたが、1935年あっさりと満州外交部を退任し外務省に復帰する。この時のことを手記に「若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになったので、本家の外務省へのカムバックを希望して東京に戻りました」と記している。

ヨーロッパへ赴任

各国外交官を招いて華やかなパーティー

1936年、モスクワ大使館への赴任の辞令があったが、ソ連は千畝のビザの発行を拒否。外交官の入国ビザが拒否されるということは、異例のことであり、北満鉄道譲渡交渉で見せた千畝の手腕をソ連側が警戒したためとも推察されている。ソ連への赴任が不可能となったため、翌年、フィンランドのヘルシンキの日本大使館への赴任が発令された。杉原一家の10年にもわたる海外勤務の始まりだった。2年後の1939年、リトアニアの首都カウナスの日本領事館領事代理に任命された。もともとカウナスには1人の日本人もおらず、本来の領事館としてではなく、国際情報収集として領事館が開設されたようである。カウナス赴任にあたっては、危険がともなうとして氏名を変えていくように示唆されたが、千畝はこれを拒んだという。

6000人の命のビザ

領事館前でビザ発給を訴えるユダヤ人たち 1940年

1940年7月、ナチスドイツに迫害されていたユダヤ人たちは、日本通過ビザを求めカウナスの日本領事館に押し寄せた。オランダやフランスもナチスに占領され、ソ連から日本を通って他の国に逃げる他、もはや助かる道がなくなっていたためだ。千畝は5人のユダヤ人代表を選び話を聞いた。数人のビザなら領事の権限で発行できるが、数千人のビザとなると本国の許可がいる。電報を打って問い合わせたが、日本政府は再々にわたり「ユダヤ人難民にはビザを発行しないよう」回訓を与えてきた。

 一晩中考えぬいた末、千畝は外務省の意向に背き自らの判断でビザを発行することを決断した。それからおよそ1か月の間、千畝はビザを書き続け、これにより6000人とも8000人ともいわれるユダヤ人の命が救われた。

 リトアニアがソ連に併合された後、千畝はドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニア領事館に赴任。第二次大戦が終結し収容所生活を送った後、1947年4月やっとの思いで杉原一家は日本に戻った。

 帰国後2か月が経った6月、外務省から突然依願免官を求められた。外務省きってのロシア通といわれた千畝、47歳にして外務省を去ることとなった。

 後半生

 外務省を辞めたのち勤務した東京PXの新年会 1951年

 退官後は生活のために職を転々としたが、語学力を活かし東京PXの日本総支配人や貿易商社、ニコライ学院教授、NHK国際局などに勤務した。

 1960年からは川上貿易(株)モスクワ事務所長として再び海外での生活を送ることになり、国際交易(株)モスクワ支店代表を最後に退職し日本に帰国したのは、75歳の時であった。

 1985年イスラエル政府よりユダヤ人の命を救出した功績で、「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を受賞。

 翌年7月31日、静かにその激動の人生の幕を下ろした。享年86歳。

『決断・命のビザ』より 渡辺勝正編著・大正出版刊より


 平成30年1月13日(現地時間)、安倍総理(1954年9月21日:年齢 63歳)は、ラトビア共和国のリガを訪問しました。

 総理は、マーリス・クチンスキス首相と会談を行った後、共同記者発表を行いました。

 続いて、自由の記念碑を訪れ、献花を行った後、クチンスキス首相主催昼食会に出席しました。



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命の大切さ語り継ぐ日航機墜落32年(2017年)
御巣鷹の麓 鎮魂の灯篭流し


 1985年(昭和60年)8月12日、ボーイング747SR-100型機のJA8119号機は、日航の定期便として羽田~千歳503便、504便、羽田~福岡363便を経て、366便として福岡から17時12分に東京・羽田空港に到着している。18番スポットでその後の123便として大阪への飛行準備をしていた。

 乗客は夏休みを利用した家族連れやビジネスマンが目立ち、509人が搭乗していた。この中には元マネージャーの選挙応援で大阪に向かう歌手の坂本九さんや、21年ぶりのリーグ優勝を目前に控えた阪神タイガース球団社長・中埜肇さん、ハウス食品社長・浦上郁夫さん、元宝塚歌劇団の娘役で女優の北原遥子さんなどの著名人も乗り合わせていた。

 操縦席では左側の機長席には機長になるために訓練中の佐々木祐副操縦士が座り、教官の高濱雅己機長が右席に着いた。福田博航空機関士は、副操縦士席後方の定位置に着席していた。客室では12人の客室乗務員が職務についていた。

 日航123便は18時4分にスポット18から移動を開始し、滑走路15に入った。

   524人の乗客・乗員を乗せた123便は、燃料3時間15分ぶんを搭載して18時12分に羽田空港を離陸した。123便は離陸後、機首を180度(真南)に向け、1万3000フィート(3960m)まで上昇をが許可された。このあと、2万4000フィート(7315m)への上昇が承認された。管制は羽田空港進入管制部から所沢にある東京航空交通管制部に移管され、大島の北を伊豆半島の下田市方面をめざして上昇していった。

 18時24分35秒。123便は伊豆稲取港の東約4Km沖の上空にあった。事故調は「ドーンというような音」としているが、ボイスレコーダーを聞いてみると「ドドーンドンドン」と聞こえる。近くにいた生存者(落合由美さん)は「パーン」という乾いた高めの音だったと証言している。破壊音はジャンボ機の60mの胴体内を伝わっていく過程で、高音が減衰し、エコーも混じってコックピットのボイスレコーダー用のマイクに収録されていた。衝撃音に続いて「ビー、ビー、ビー」と3回ブザーが1秒間鳴っている。この警報音は客室内の気圧が1万フィート(3000m)の高さの気圧以下になったか、離陸警報が作動したかのいずれかだと考えられている。

 操縦室では機長が「ギアみてギア」といい、続いて「スコーク77(セブンセブン)」と緊急事態を意味する信号の発信を指示している。通常の訓練なら異常事態を把握して、そのときの状況で必要なら「スコーク77」を発信することになっている。それがいきなり「スコーク77」の発信指示したことは、よほど危険を感じるような振動であった可能性が高い。

 123便は相模湾上空で垂直尾翼の大半を失い、同時に油圧4系統全ても切断されて徐々に操縦ができなくなっていった。もちろん、乗員は原因について知るよしもない。焼津市上空を通過したあたりから次第にダッチロール(機首の横揺れと左右の傾き)が激しくなり、右に60度、ついで左に50度も傾いた機長は「バンクそんなにとるな」と注意するが、このときはすでにパイロットの思い通りの操縦ができなかったと推察される。

 ダッチロールによる機体の揺れで、風切り音が笛の音のように不気味に聞こえてくる。フゴイド運動(機首の上下運動)も加わり、15度から20度も機首が上向き、今度は10度から15度も機首下げの状態を繰り返した。運行乗務員の思うように上昇、降下、旋回もできず、当初、東京航空交通管制部に要求した大島経由で羽田空港に引き返すこともできない状態になっていた。123便は右に大きく旋回し、北の富士山の方向へと飛行を続けていく。

 客室では18時30分に乗客で大阪・箕面市の谷口正勝さんが「まち子 子供よろしく」と機内に備えてある紙袋に遺書を書いている。その他にも横浜市の吉村一男さん、神奈川県・藤沢市の河口博次さんも遺書を書いている。123便はこのころダッチロールと激しいフゴイド運動を繰り返している。

 操縦室では機体の操縦に次第に慣れ、左右のエンジンの操作がスムースになり、機体も安定し始めていく。このころ、乗員同士の会話では酸素マスクをつけるかどうかのやりとりがあるが、酸素マスクをつけないまま最後まで操縦を行う。乗員が酸素マスクをつけていなかったと考えられる理由は、酸素マスクをつければくぐもった声になるが、そうなっていないからである。航空機関士と客室乗務員のやりとりでは、壊れた場所の確認と酸素マスクの話に移っていく。航空機関士は日航との会社無線(カンパニー)で「アールファイブ(R5=右側5番目)のドア、ブロークン」と報告している。これが当初、事故原因だとして発表された。

 機体の調整は左右のエンジンを噴かしたり、絞ったりしながら失速しないように飛行を続けるが、機体のダッチロール、フゴイド運動に対しては、車輪を下ろすことで安定させようと試みている。一度、車輪を下ろせば油圧がないため、二度と上げることはできない。車輪が下ろされると空気抵抗が強くなり、速度が下がり、失速につながる可能性がある。それでも機体を安定させることが大事であったのだろう。失速を防ぐためにはエンジンの推力を増加させる必要がある。大きな推力を出すと、左右のエンジンのバランスが難しくなり、山梨・大月市付近では大きな旋回をすることになる。

 7000フィート(2100m)あたりまで降下すると、今度は周辺の山に気をつけねばならない。周辺には雲取山(2017m)、甲武信ヶ岳(2475m)、八ヶ岳(2899m)がそびえている。゜山にぶつかるぞ」「ライトターン」と指示を出し、「マックスパワー」と最大限に推力を上げて危機を乗り越えていく。

 操縦室からは東京航空交通管制部に何度も「操縦不能」を伝えている。羽田空港の管制も加わって123便に周波数の変更を指示するが、123便は操縦操作に追われて自分自身の位置が分らなくなっていた。羽田管制は「熊谷(埼玉県)の西、25マイルだ」と伝える。秩父山系の埼玉県大滝村あたりを飛行していた。

 123便には最期が刻一刻と近づいていた。長野県の川上村、南相木村に少し入ったところで右に旋回し、御座山をかすめて御巣鷹山方面へと向かっていく。川上村の梓山地区では農作業中の人たちが、頭上をゆっくり旋回していく123便を目撃していた。目撃者は「何か変な感じだった」と123便の飛行状況について証言している。ただ、垂直尾翼を半分以上失い、車輪を出して飛んでいるところまでは、目撃者の多くは確認していない。

 機体は速度が変動し、エンジン推力も大きく変動している。もはや、乗員による操縦操作は不可能となっていた。墜落時には速度265ノット(時速490km)で、後に「U字溝」と名付けられた尾根の木々に翼端やエンジンが接触し、水平尾翼は脱落した。この時点でボイスレコーダーの録音は終わっている。時間は「18時56分28秒」であった。

 残された機体は、北西に570m離れた谷向こうの蟻ヶ峰(神立山)の北北東にあたる無名の尾根に裏返しの状態で激突する。胴体後部が折れ、スゲノ沢に滑り落ちて行く。4人の生存者(落合由美さん、川上慶子さん、吉崎博子さん、吉崎美紀子さん母娘)はこの胴体後部の座席だった。事故調の認定した墜落時間は「18時56分ごろ」としている。位置は北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒で、群馬県多野郡上野村大字楢原字本谷3577番地国有林76林班内であった。

 墜落現場は黒沢丈夫上野村村長によって「御巣鷹の尾根」と命名される。御巣鷹山の南東2Kmの地点に当たる。

*黒澤 丈夫(くろさわ たけお、1913年(大正2年)12月23日 - 2011年(平成23年)12月22日)は、日本海軍士官(海兵63期)・操縦士。政治家。戦後群馬県多野郡上野村村長を10期連続で務めた。日本航空123便墜落事故の際に事故処理に尽力したことで知られる。称号は上野村名誉村民。

 墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、520人の犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた上に、猛暑という季節的な悪条件も加わって腐敗の進行も早いので、身元の特定は困難の連続だった。また、この当時はDNA鑑定技術もまだ十分には確立されていなく、地元・群馬県の医師のほか、法医学者や法歯学者などが全国から駆けつけ、冷房施設のない体育館での猛暑と腐敗臭や遺体保存用のホルマリン臭など、劣悪な環境の中、多数の人々が協力しあって人海戦術で判別作業を進めた。最終的な身元確認作業の終了にはおよそ4ヶ月間という時間と、膨大な人手を必要とした。しかし2名の乗客(うち1人はアメリカ人)の身元は遂に判明しなかった。

 事故調は、2年後の6月19日、事故報告書を当時の橋本運輸大臣に提出。事故原因について、1978年(昭和53年)6月、伊丹空港での「しりもち事故」で損傷した後部圧力隔壁のボーイング社修理チームによる修理がずさんだったため、圧力隔壁が金属疲労を起こして破壊され、急激な減圧とその時発生した衝撃波が垂直尾翼に流れ込み、JA8119号機は垂直尾翼の2/3とテールコーン(補助動力装置などが入っている)を失ってしまったとしている。

 しかし、この「圧力隔壁破壊説」には多くの矛盾が指摘され、事故から20年経っても本が出版され、航空機専門家、パイロットなど乗務員関係者、マスコミ関係者、そして遺族の方々らが真の事故原因解明を求めている。

 以上、本文は主に米田憲司著「御巣鷹の謎を追う」(宝島社刊)から引用。

★2017年08月12日 御巣鷹の麓 鎮魂の灯籠流し 日航ジャンボ機墜落 追悼慰霊式 上毛新聞

 犠牲者の冥福と空の安全を祈り灯籠を流す人たち=上野村

 520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故から12日で32年を迎えるのを前に、墜落現場「御巣鷹の尾根」の麓を流れる群馬県上野村の神流川で11日夕、遺族らが慰霊の灯籠流しを行った。雨の降る中、「空の安全を祈ります」「安らかに」などとそれぞれの思いを書き込んだ大小300個の灯籠を流し、犠牲者の冥福を祈った。

 全員で黙とうした後、村長として初めて参加した黒沢八郎村長があいさつし、「あの悲しい事故から32年。あの日の記憶が薄まることはない。慰霊の園の理事長という重責を果たしていきたい」と述べた。

 来賓のあいさつで、慰霊登山を続ける作家の柳田邦男さん(81)=東京都杉並区=は遺族らを前に「事故で奪われた多くの命は消滅したわけではない。支え合い、助け合って明日も生きていこうと語りかけてくれている」と話した。

 遺族らでつくる「8・12連絡会」や県内のボランティア団体でつくる実行委員会が主催。JR福知山線脱線事故や東日本大震災、御嶽山噴火など大きな事故や災害の犠牲者遺族も参加し、悲しみを分かち合った。高崎アコーディオンサークルとアマービレ・オカリナ会が慰霊の音色を奏でた。



19
池永和男さんと私


倉敷レイヨン入社

 昭和二十五年四月 倉敷工場藍風寮に入寮。玄関から直ぐの階段を上ったところの部屋に入る。

 そこで迎えてくれたのが池永和男(75期 伊都中)さんであった。また久保田一丸(75期 浦和中)さんであった。二人は海兵75期であった。それまで見知らなかった人達でありながら、海兵にいたというだけで親切にして下さったのは、海軍の結びつきの強さを感じさせられた。池永さんとは倉敷工場での実習、岡山工場への赴任、事後終生の友達であった。同期入社濱田美治氏とも岡山工場、倉敷研究所で親しい関係であった。

 八月赴任 岡山工場(岡山市海岸通)製造課に配属された。

 ビニロン・ステープル日産五トン設備の建設中であった。新規事業であったので、仕事への取組に先輩も後輩も手探りの開発的態度が必要であった。新入社員の私は非常に好都合な部署に配属された。しかも設備の据え付けから配管掃除、試運転から始める段階に赴任したことはその後の仕事に非常に役立った。芒硝の蒸発缶でのウオーターハンマーに驚かされた。また、紡糸の試運転ではギヤーポンプが回転しないので、重しをつけて無理やり回転させた。

   赴任以来、連日遅くまで設備担当者と製造課の連中が一緒になって汗や油に汚れて仕事をした。その傍ら、まったくの新入社員の私が、試運転に備えて、製造課仕上に配属された従業員教育を担当したり、作業標準書や安全守則を作成したりした。配属された従業員の大部分が他の部署からの配置転換者、新規採用者であったからである。彼等とはその後の会社生活のなかで親しく付き合うことになった。

 十一月十一日ビニロン設備日産五トン完成、操業開始。

 当時の製造部の職制は部長・野村重基(京大)、課長・前田勝信(明治専門)、主任・小川義雄(米沢高工)、前部原液ー浜田(津山中学)、池永(金沢工専)、植田(京都蚕糸専門)、後部紡糸ー田中鋼二(早大)、後部仕上ー黒崎(広島工専)。

 寮生活 倉敷の藍風寮から岡山市福島の職員寮・操風寮に移った。木造二階建、六畳の部屋が十五~六室あったか。一室に二人の相部屋であった。

 当時としては珍しいと思うのだが玉突き場が食堂の横に備えられていて娯楽になっていた。寮の住人は学卒(大学専門学校卒業者)と単身赴任の職員であった。菱田さんとの出会いは忘れられない。

 昭和二十七年(三年目)

 会社にも慣れてきた。

 当時の写真などでふりり返ると。一月  岡山市で従姉妹会、七月 岡山市京橋花火大会見物、九月 広島県道後山登山。小川義雄氏、池永和男氏と。カメラ撮影が楽しいころ。十月 製造課部署旅行湯原温泉・神庭滝見物。

 昭和二十九年(五年目)

 初スキー 二月二十日~二十一日 大山に池永和男氏と。大山寺宿坊善明院に宿泊。家族的なお世話していただいた。今ほどスキーはレジャーの対象になっていなかった。初めての経験である。

 倉敷中央病院で胃潰瘍、十二指腸潰瘍と診断、内科治療始める。

 ミノルタフレックス(四万三千五百円)購入。三原の後藤カメラ店(中学校同級生)で。

 大山登山 八月末 池永氏と登山のために大山寺に泊まる。天候が悪くて諦めて下山、皆生温泉に立ち寄り夜見ケ浜散策、松江市見物して玉造温泉長楽園に宿泊。

★思い出:山陰への旅

 青函連絡船海難事故が号外。

 結 婚 十月十一日 翌日から、山陰地方に新婚旅行。玉造温泉・長楽園と東郷温泉・養生館に宿泊。玉造では八月に宿泊した同じ部屋であった。十一日間休暇。

 住宅は会社の近くの新築の三階建(十八室)のアパートであった。学卒者だけの新婚者が住んでいた。池永さんも入居していた。

*池永さんとは入社以来終生のつきあいであった。

 岡山工場時代は、江田島への旅行・大山・玉造などの山陰旅行・道後山・製造部の旅行など親しくさせていただいた。

 昭和五十七年(三十三年目) 

 ビニロン部での仕事:池永さんが大阪本社へ転出し後、十月から岡山工場ビニロン部長として、全体の様子を観察してきたので改革に手を付け始めた。部内の安全組織が三つに分かれていたことにに象徴される部としての統一性が欠けていた。田中剛氏、小林成一氏、池永和男氏が部長職を引き継ぎ、ビニロン以外に経験しない人たちが管理してきていた。マンネリ化して、人事も偏っていた。部外経験者の小生が研究所から帰り、担当することになった。人事異動実行。

 池永さんは、宝塚市におすまいでした。定年退職後、熊野古道、しまなみ海道などへの旅を楽しまれて、その都度、様子を知らせてくださっていた。然し若くして逝去された。

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