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新田次郎さんの著作は、私の本棚に『八甲田山死の彷徨』『チンネの裁き・消えたシュープル』『アラスカ物語』『協力伝・孤島』『小説に書けなかった自伝』(すべて新潮社刊)が並んでいる。 ▼ほとんど、その内容は忘れていますが、『八甲田山死の彷徨』は、青森の歩兵第五連隊と、弘前の歩兵第三十一連隊の厳寒の訓練である。その指導者の判断がいかに大事であるか、その結果は隊員を死に追いやるまでにいたること肝に銘ずる物語であることを読み取ることが出来ます。 NHKテレビドラマで2回目、3回目の放映をみました。今後の展開を楽しみにしています。 インタネットによれば、下記の記述があり、また、また、これまでテレビでも何度も放映されていたことを知った。
▼世界でも類のない冬季高層気象観測を行うため野中到は、未だ厳冬季に頂上に立った人はいないという富士山頂での気象観測を行うという壮大な夢を抱く。千代子夫人は、夫の夢の実現がひとりでは無理なことを直感的に悟り、ひそかに夫を支える決意をする。男尊女卑の風潮が強く、理不尽な男女差別が続いていた明治時代、女性はおろか男でも山に登る人はまれ、世間の目はもちろん、夫や姑、中央気象台などの批判や反対を押し切って富士山頂に向かう。 ▼富士山観測所に勤務し、通算400日以上富士山頂に滞在した著者によって、過酷を極める観測生活が臨場感たっぷりに描かれる。案の定、夫が設計した観測所や観測計画には、無理があった。食事、栄養、睡眠時間、暖房、トイレ等々、観測する「人間」を守る配慮が乏しかったのである。千代子夫人は語っている。「夫は科学的にすべてを取り運んでいるつもりでいて、自分の身体に対しては、もっとも非科学的な考え方をしているのです。そして、その自分の身体が、今度の場合、一番大事なものであるということを忘れているのです」と。 ▼千代子の笑いがなくなった。それまで千代子は一日に何度か声を上げて笑った。その笑い声を聞いているだけで到は、富土山頂にひとりでいるのではないという気持に……、その笑いがぷっつり切れてしまうと、心の中のストーブの火が消されたようにもの淋しく感じるのであった。 ▼女性の笑顔、生き生きとした声の響きは男の活力源、いかなる逆境も乗り切ろうとの意欲を掻き立ててくれる。千代子夫人なくして観測を続けることは不可能だったのである。
▼『芙蓉の人〜富士山頂の妻』(ふようのひと・ふじさんちょうのつま)は、新田次郎の小説、並びにそれを原作としたテレビドラマの作品である。 ▼明治25年(1892年)、日本の気象予報を正確に把握するために、富士山の山頂に観測所を設置しようと、野中到は厳しい冬も耐えながら富士山の登頂を試み、そしてそこで冬の気象観測に尽力を尽くした。この物語は到と、それを献身的に支え、行動を共にした夫人・千代子との夫婦愛と、気象観測に情熱を傾ける人生を描いたノンフィクションである。
1、1973年1月24日、同年1月31日にNHK総合テレビジョンで放送。全2回。
参考
1、新田次郎
平成二十六年八月十八日 |
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平成27年8月19日、母の関係の「いとこ会」が岡山県で行われるので参加しないかと知らされた。 参加することにした。 準備として伯父:前田達治が遺していた「生きるー前田達治自伝ー」を再読した。 ▲ふと、私のルーツをこの自伝から読み取ろうとした。 アレックス・ヘイリー著【ルーツ㊤㊦】(社会思想社)を見ると、5代までたどっていた。 伯父の本から、母(梅野)→祖母(千代)→祖父母(氏名は書かれていなかった)までの3代までたどりついた。 その家系図を大体書いて、いとこの一人に私ども世代の氏名を追加作成して、持参した。 おじ、おばさんたちがが生存中「いとこ会」が2回行われて、写真が残っているが、なぜか私の母は参加していない。 ▲生前には興味がなかったが、この年配になると関心が起こり、生前にできる限り聞いておけばよかったと残念である。 今回は3回目であったが、私の兄が最長老であり、その次が私になっていた。完全に世代交代したことになる。 ▲今回作成したものを使って、それぞれ「いとこ」の子供・孫たちの氏名を書き込み家系図を作ると4代・5代となる。 私はそれを望んでいる。 平成二十七年八月二十五日 |
「いまどき、なんと古風なまんとうが!」一九八五年六月の朝、クラレ西条工場(四国)の寮で、南海放送「せんせいの人間歳時記━夜学校の思い出」を見ていた。関岡武太郎先生の松山夜学校(現松山城南高等学校)時代の思い出から始まり、その教育理念、そして教育者、校長としての幾歳月にわたるご活動についてのものであった。 このお話の中で、労研饅頭が松山市で売られていることを聞いておどろいた。昭和六年十月、先生が夜学校を卒業して、母校の書記になられたとき、学校の村瀬宝一さんが労研(当時の倉敷労働科学研究所参考1━大原孫三郎氏創設、現在、財団法人労働科学研究所)で饅頭の作り方を習得して、製造販売をはじめたとのことである。 ▼昭和六年といえば、クラレ創立五年目の草創期である。昭和八年新居浜工場で、昭和十一年には西条工場で、それぞれレーヨン糸の操業を始めている。レーヨン糸が四国の地で生産される二年前、労研所長の作った饅頭が松山市で製造、売られていたのである。 労研饅頭について江口 保さんにはなしたところ、多分、同じものと思うが、「ろうまん」という名前の饅頭が岡山市でも売られているとのことであった。早速、お店に案内していただき試食した。年配の方は、食量不足のころ、おいしくたべたものだと懐かしく味まで思い出されることでしょう。 ▼表題との出会いをもう少し深めたくて調べることにした。 「ろうまん」は岡山市の三笠屋で製造販売されている。 昭和二十六年ごろ、三笠屋の親戚が饅頭製造用「菌」を松山から分けてもらい作りはじめ、現在に至っている。食品添加物を入れていないので、自然な食品として喜ばれているとのことでである。 労研饅頭については、一九八五年十一月、関岡先生にうかがう機会に恵まれた。 先生によると、向学心に燃える夜学性に学資を与えるための事業を考えていたとき、たまたま伝道のために松山にきた倉敷教会参考2(現在、日本キリスト教団倉敷教会)田崎健作牧師から示唆を受け、これをとりいれることにしたとのことである。 当時の倉敷労働科学研究所所長暉峻義等(てるおか・ぎとう)は、「労研饅頭参考3」と名づけて、すでに京阪神で売り出していた。奨学会では、数学教師竹内成一(のちの六時屋タルト参考5社長)を倉敷に派遣して製法を学ばせ、その酵母菌を譲りうけて持ちかえり、さらに中国人の林樹宝を招いて製造技術を学んだ。「労研饅頭」は、安価で栄養価が高く好評を博し、松山市内諸中学校の売店、歩兵第二十二連隊の酒保にも販路が開かれるようになった。のち、この事業は竹内の個人経営に移るが、今も素朴な伝統の味を二代目竹内眞氏が松山市勝山のお店で伝えている。 関岡先生の人間歳時記がクラレの歴史の周辺に私を運んでくれた。 ▼知らない人と話していて、共通の友人がいることを知っておどろかされたり、よくよく調べると、縁もゆかりもないと思っていた人が遠いつながりがあったりするものである。 ▼以上の記事は、クラレタイムス一九八七年二月号に掲載されたもので、私がまとめたものです。当時は下記の参考のような事項を調べる方法があったのかも知らない私でした。 二〇一六年にこの記事を記録するにあたり、PCで多くの参考記事をみることができたのは、望外の幸いでした。
参考1:大原記念労働科学研究所
参考5を開いて、「こだわり」の項目を開くと、『時計で六時は長針と短針がまっすぐになることから、「まっすぐ正直な心で商売をしよう」と命名されました。 この考え方は、創業以来、受け継がれています。』とあります。是非お読みください。 二〇一六年(平成二十八年)八月三十日 |